夕方ようやく外出です
外苑前界隈、なかなかの雰囲気でした
森友学園問題で一躍有名になった「忖度」という言葉、辞書によると「他人の心情を推し量ること」とあるが、私が忖度と聞いて真っ先に思い浮かぶのがカルトや迫害だ。だって組織が大きくなるとボスにやたらと取り入ろうとする輩が出てくるわけだから。そういえばヒトラーもドイツを一つにまとめるべく、迫害され続けいたユダヤ人をターゲットにして成功したと記憶している。ヒムラーにゲッペルズもヒトラーに喜んでもらうがための忖度といった側面があったかもしない。だいたいにおいて教祖の登場により、それに取り入るために過激な行動を起こす輩が必ず出てくる。ジョーンズタウンでの900人の集団自決も教祖ではなくその右腕だった人達の首謀のもと、引き返すことができなくなったのではないかと推測する。
忖度で思い出した。最近の愛育病院はわからないが、有栖川公園の横にあるクリニックと田町の愛育病院とでは逆子体操に対する考えが全く違っていた。クリニックでの健診で逆子体操を教えている先生が、田町では教えない。これも忖度と言っていいのだろうか。逆子に関していえば、スタンダードとなる対応は全く無い。病院内でも先生に委ねられており、先生が健診の度に変わる場合は前の先生を踏襲する。体操を教えているとカルテに記載があればそれに従い、教えていなければ言及しない。
鍼灸院もそこのやり方がある。治さなくても患者を悪くしないのが大切。失敗して学ぶ事は許されない。もちろん治療に失敗は許されないが、学ぶとはそういう事だ。ここに鍼を打ちたいと思っても、人の下にいるかぎり、そんな事はさせてもらえない。そして人に使われるという事は、嫌がられるより好かれた方が仕事もスムーズに進むので、過剰に院長や先輩の意向に沿おうとしてしまう。これも忖度と言っていいのか。
何も上下関係のある場所だけの話では無い。人がいれば、必ず忖度は生まれる。そうなのだ、世の中は誰もが人の目を伺いつつ生きていかなければいけないのだ。全てのストレスは人間関係から生まれると言ったのはアドラーだが、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と人の世の窮屈さを夏目漱石も書いている。どこまで行っても人の目を伺いつつ生きていかなければいけないこの世の中で、会社に地域にコミュニティに家族の中で、その場に合わせた顔を作れてこそ、生きる事が楽になる。
どこにいても自分は自分。それは他者がいて初めて成り立つ。誰に対しても同じ態度を取る事が果たして良いのか悪いのか。私は、どこでも自らを貫こうとする姿勢は正直容認できない。なぜならそこに他者が存在していない事が多々あるわけだから。人は単独で存在し得ない生き物だから、その場その場で自分を演じるのも悪くはない。
写真は246の青小前横断歩道からです
今日も長い1日でした!
そんな他人の、八百万の目に監視される日本で、普通を当たり前にできないと途端に息苦しくなる。個性云々大切にしろ、というのも大切かもしれないが、それが過ぎれば生きにくくなるのが日本だ。
前頭前野による「不倫しない自制心」「不倫しても見つからない用意周到さ」について、この相反する二つの反応は人間関係を保つために大切なものだと思う。人はコミュニケーションの動物、アドラー心理学が「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と語るように、コミュニティー内での人間関係を円滑にすることこそ、最も求められていること。特に性衝動が引き起こす人間関係の崩壊はとても強力なものなので、それをこの前頭前野も担っていると考えるとなかなか興味深い。
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