仏教は反カーストから、キリスト教はユダヤ教の選民主義の否定からといった、今ある宗教は現行の宗教への反発から爆発的に成長したという。
ユダヤ人は虐げられてきた民というイメージがあったが、もともと自分達を「選ばれし民」として優位性を保とうとしていたらしい。それに反発して誕生したのがキリスト教。宗教の歴史は差別の歴史、なんと皮肉な事だろう。
差別する側とされる側がころころ変わる、人間の悲しき運命に憤りを感じざるを得ない。
そんな差別に逆差別の話を聞きながら、京都での学生生活を思い出した。当時住んでいた出町柳駅近くは古くから貧困層が住む所謂そういった場所で、安価な住宅と100円で入浴できる公共の風呂屋があった。学生にはとても魅力的で有りがたかった100円銭湯だが、この場所、いつの間にか差別される側の発言力が強くなり、行政を動かして安価な住宅に優先的に入ることが可能になったと覚えている。人の歴史が嫉妬や僻みを原動力としてきたのは、今も昔も変わらない。
これまでの歴史を紐解く事でもよくわかる。宗教を持ってしても、差別は無くならない事を。
ところでヒトラーも、ドイツを一つにまとめるべくユダヤ人をターゲットにしてそれに成功したと記憶している。ヒムラーにゲッペルズ等、ヒトラーに喜んでもらうがための暴走といった側面があったと思う。
教祖が存在すると、それに取り入るために過激な行動に出る輩が必ず出てくる。人民寺院による900人の集団自決も、教祖ではなくその右腕だった人達の首謀のもと、引き返すことができなくなったのではないだろうか。だからカルトは過激な行動に出るのだと思うと、いまやマイルドになった感の強い創価学会が、30年前の、教祖の存在が大きかったあのカルトに走りまくっていた時期の事が、容易に理解できるような気がする。
私が忖度と聞いて真っ先に思い浮かぶのがカルトや迫害だ。だって組織が大きくなるとボスにやたらと取り入ろうとする輩が出てくるわけだから。
何もエホバの証人だけでは無い。浄土真宗が行った第二次世界大戦への若者の斡旋、オウム真理教のサリン事件に、統一教会による政界への浸透工作。そういえば30年前の創価学会もすごかった。信者増やすためなら暴力団顔負けの、行け行けだったあの頃のことを思い出した。
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