朝5時半の太陽の位置です。
太陽が昇るのがとっても早くなりましたね!!
ジャンム駅から列車に乗ってガンジス川を南下しカルカッタに行く事にしたのでシュリーナガルのバス停でバスを待っていると、日本語ができるインド人青年が声をかけてきた。なんでもレー・ラダックからの帰りだとのこと。
インド人とどうやってだか待ち合わせる
そういえば、シュリーナガルで出会ったインド人青年の住んでいる所に尋ねて行ったのを思いだした(インド旅行の思い出(3))。この青年は、といっても私よりは年長だが、日本語が堪能で、無知な私にインドの事を、それも日本語で教えてくれた恩人だ。今もいくつかの言語で表示されているのだろうか、インドの紙幣は十数もの言語で書かれており、その中の1つを除いて全て分かると言っていた。流暢に喋る日本語は日本山妙法寺のお坊さんに教えてもらったとの事、英語にフランス語、スペイン語も独習し、こんな人がいるのだと感心したのを思い出した。
その後その青年とどこだかの駅で落ち合ったのを覚えている。住所を教えてもらっていたのか、それとも何月何日の何時に行くと最初から約束していたのか思い出せない。携帯電話の無い時代にどうやって連絡を取り合い落ち合うことができたのか謎すぎる。そんなこんなで駅に降り立ちその青年と再会。その青年は友達2名を連れて来ており、美味しいレストランがあると、会ってそうそう2台のバイクに分乗し、二人乗りしてそこに向かった。
当時付き合っていた子の写真を持っていたので、その話で盛り上がった。どの国も男子の興味はそういう所だ。そこから好きだけでは付き合う事すら許されないカーストの話になり、その差別的な言葉の数々がなかなかに強烈だったのを覚えている。
そういえば、ある小さなお店での話、店主は踏ん反り帰り、客はなんだか買わせてもらっているというあの感じ。その不思議な光景に、後にインド旅行の書き物を読んで納得した。あれは店主がバラモンだったのだと。確かにインド旅行ではカーストを感じることが多々あった。カルカッタでは手足がない物乞いの子をちょくちょく見かけたが、あれはお金を恵んでもらいやすくするために、あえて手足を切り落とす、といった話は強烈だった。
ところで彼は盛んに日本に来たがっていたし、日本に来たら日本山妙法寺の知り合いのところに行けることになっているとも言っていた。私も京都の下宿先の住所は渡したが、帰って早々修学院から田中に引っ越し、その後も色々な所を転々とした。だから音信不通になるのも無理はない。でもこれを書きながら、この曖昧な記憶をなんとかたどってみたいといった気持ちが湧き上がっている。もしかしたら実家に当時のノートが残っているかもしれない。今度帰ったら探してみようと思っている。
※ 話の流れから、あの車止めを器用に回避しつつ走ったバイクの事や、なぜだかインド人と食べたのがチャイニーズだった事とか。本当のプロットはこっちだと、書いた後に気が付く始末(^◇^;)。
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— 西村まさゆき (@tokyo26) March 25, 2021
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