どんなに好きな仕事でも、だいたいにおいてその仕事だけをすればいいのではなく、経理とか広告とかあまりしたくないこともやらなくてはいけませんよね。
なので、好きな仕事って本当はなくって、目の前に偶然生まれた仕事を好きになるしかないのかな、って思ったりしています。
とはいえブラック企業だとか、理不尽な仕事だとか、色々面倒なこともあると思うので、そういう仕事についたらのらりくらりとかわしつつ、新たな挑戦を模索しつつ生きていけばいいのかな、って思ってたりもします。
子どもがゲームにあけくれ家で何もしない、、
なので、好きな仕事って本当はなくって、目の前に偶然生まれた仕事を好きになるしかないのかな、って思ったりしています。
とはいえブラック企業だとか、理不尽な仕事だとか、色々面倒なこともあると思うので、そういう仕事についたらのらりくらりとかわしつつ、新たな挑戦を模索しつつ生きていけばいいのかな、って思ってたりもします。
子どもがゲームにあけくれ家で何もしない、、
何をしても、何をしなくても、、
しなくても良い世界に住んでいれば、しなくなるのが当然です。
しなくても良い世界に住んでいれば、しなくなるのが当然です。
まぁ、生きていてさえいてくれたら、でいいのではないかと思うのです。
うちの子ども達、食べることや住むことに困ることはないので、結構適当にやっている感じです。
でも、困ればやるしかないので、そうなったら本気になるんじゃないかと。
うちの子ども達、食べることや住むことに困ることはないので、結構適当にやっている感じです。
でも、困ればやるしかないので、そうなったら本気になるんじゃないかと。
やるしかない!
そういう時は必ずやってくるので、それまではゆっくり過ごさせたらいいのではないかと思うのです。
最大の恐怖である自分が確実に死ぬことを知ってる人間。
そういう時は必ずやってくるので、それまではゆっくり過ごさせたらいいのではないかと思うのです。
最大の恐怖である自分が確実に死ぬことを知ってる人間。
人はそれだけですでに苦行の中にいると思うのです。
何をしようが何をしまいが、、
生き続けることこそ苦行そのもの。
〜〜生死の苦海ほとりなし〜〜〜
ほとりなし、とは果てしないとの意味。
浄土真宗のご和讃に「この世界で生きることの苦しみは果てしない」というこの一行から始まるものがあります。
何をしようが何をしまいが、、
生き続けることこそ苦行そのもの。
〜〜生死の苦海ほとりなし〜〜〜
ほとりなし、とは果てしないとの意味。
浄土真宗のご和讃に「この世界で生きることの苦しみは果てしない」というこの一行から始まるものがあります。
ずっと楽しく幸せに生きることができる人はいないです。
だって必ず死ぬんですから。
でも、だからこそどう生きるか。
正岡子規が病牀六尺で
「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」
あの脊椎カリエスで毎日もんどりうって生きていた正岡子規が、平気で生き続ける!と決心したというこの一文。
だって必ず死ぬんですから。
でも、だからこそどう生きるか。
正岡子規が病牀六尺で
「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」
あの脊椎カリエスで毎日もんどりうって生きていた正岡子規が、平気で生き続ける!と決心したというこの一文。
人生の最後まで生き切る!
これを読んで、ああそうなんだ!って感じたのを思いだしました。
どう生きても見捨てないよ!
でも自分のことは自分でね!
私も自分の幸せや楽しみを探してくから!
みたいなのだけでいいのではないかと、、
どう生きても見捨てないよ!
でも自分のことは自分でね!
私も自分の幸せや楽しみを探してくから!
みたいなのだけでいいのではないかと、、
自分自身が「苦海」の中どれだけ喜びをみつけられるか、ということに今まで以上にチャレンジしていく、といのでいいのでないかと、、
私は、子ども達に「関心は持つけど自分の責任で生きてね!」というスタンスなので、何をしようが何をしまいが、焦ることはなくなりました。
無為な時間を過ごしていると傍から見て思ったとしても、、
もったいないということはないかもです( ´∀`)
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