アルカイダがフランスのマリへの軍事介入を取りやめるよう求めて、
日本人や欧米人多数を含む人質事件を、アルジェリアで起こした。
アルジェリアにある天然ガスプラントに立てこもって、従業員全員を人質にしたのである。
アルジェリア政府は人質犯との交渉を殆どせず、いきなり爆撃する事で人質事件を解決しようとした。
人質のどれ程の人が亡くなったか、助かったか詳細は未だ不明らしいが、
人質の命をなおざりにしたと、欧米はアルジェリアの解決策に不満のようである。
欧米人をアフリカ人並みに扱うとは「けしからん」という事なのだろうか?
これからの日本どうなるのか心配。
でも、此れも天の配剤なのだろうから、
未来が良くなる為の布石だと信じたい。
11月16日に解散し12月16日の投票日という事になった。
民主党内にリベラル志向の動きが出て、野田総理がはずされそうな動きが出ていたので、先制攻撃で自分の首が切られる前に、党員の首を切ったと言う感じの、民主党員に対する裏切り解散だった様である。
この総選挙で脱原発・反TPP・反消費税増税・反オスプレイ導入・反辺野古埋め立てを推進する議員が過半数を占めることが願われる。
自公は年内に解散総選挙をしたいと思っているらしいけれど、民主党は任期一杯まで務めて、参議院との同日選挙にもって行きたいと願っているらしい。
野田総理、今度はどうやって自民党総裁を煙に巻くのかな?
私の人生観宗教観に書いたのだけれど、
人間がこの世に生まれてきたのは、あらかじめ自分で想定した人物として、人生ドラマを演じるのが目的だったのではないかと思うようになったのは、
私の淡い初恋の相手、彼とのかかわり方に元を発している。
二人共老齢に達し、若い方々の参考の為ここにそのあらましを書いても良い時期に来ているのかもしれないと思い、恥さらしだけど書かせてもらうことにした。
私が初めて彼の名前を知ったのは、私が2年生で転入学した福岡の高校で、
新しい高校にやっと慣れかけてきた5月のことであった。
この高校の毎年春に行われる文化祭で、クラスメートに勧められて文芸部の文集を買った。
その文芸部発行の文集に彼の創作「遺言」という短編小説が載せられていた。
創作「遺言」を読んだ後、何故か私の目には、
作者の名前に後光がさしているように見え始めた。
後光というと神がかりのようであるが、
名前の周りに燐光のようなものが、見えるようになったのだった。
2年生の3学期、初めて彼と出会う頃まで、
その燐光の様なものはずっと感じられていたのだった。
友人にページを開いて、名前の部分が光って見えないか尋ねたら、
その友人に「変な事を言う」というような目で見られたものだったが・・・・・
「遺言」の舞台は戦国時代の宗像大宮司家。
かの有名な下克上の人陶氏におびやかされる戦国大名の家の物語。
主君を殺害した陶氏の血を引く亡君の落とし胤に後を継がせて、
主家の存続を図ることにした家老の悲劇の物語。
小説の主人公で宗像家家老の久秀は主君を陶氏に暗殺され、跡目を誰にすべきか迷いに迷っていた。
今は亡き主君の未亡人菊姫に婿をとるべきだと言う意見が大勢を占めていたからだった。
それでは主家は陶氏に滅ぼされてしまうだろうと思うと久秀は其れにも賛成できないが、
菊姫の父は久秀にとって恩人であった。
迷いに迷った挙句に久秀は主家存続の為遂に決心して、恩人の娘・まだうら若く美しい女性菊姫を、自分の手にかけたのだった。
菊姫が生きている限りお家騒動が続くと見たからだった。
久秀はその後すぐ、主君の未亡人を殺した責任を取って切腹する。
死を前に久秀は自分の息子に遺言を残した。
その遺言には「武士をやめて僧侶となって静かに暮らせ」とあったという。
作者の名前に燐光を見ることとなったのは、その戦国の世の悲劇が私をうっとりとさせたからなのだろうか?
秋の文集にも彼の創作作品が載っていた。
宇治拾遺物語から題材をとった、のどかな話が数編描かれていた。
その時私は、どういう意味かはわからないが、「この中にあの人は居ない」という気がしたものだった。
そして秋の文集に載った彼の名前も、私の目には春の文集の時と同じように、燐光に包まれているように見えたのだった。
私は彼に会えるかもしれないという希望もあって、誘われるままに文芸部に入部していた。
2年生の3学期、大学の入試が済んだ頃始めて彼は私の前(文芸部の部室)に現れた。
彼が部室に入ってきたのは、
私が部室の入り口近くで、後輩の男子とはさみ将棋をしていた時だった。
「ここを行ったら良い」と笑いながら、彼は私の相方(後輩の男子)の駒を進めていた。
それが私にとって彼との始めての出会いであった。
その時私は思わず立ち上がっていた。
その時彼を前にして、私は幻影を見ていた。
最初は静かだったのが、だんだんと人が増えていく感じがした。
そして遂に大勢の人々の気配が感じられるようになってきた。
大勢の人々が、彼の事を讃えている様だった。
そのざわめきの中で私は、
「とうとうあの人は私の手の届かない所に行ってしまわれた」と寂しく感じていたのだった。
その幻影は、私にはずいぶん長い物語のような気がしていたけれど、
それは、もしかしたら、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。
はさみ将棋の相方の後輩の男子が、
「早く行って」とせかす声で、われに返ったとき、
将棋の駒を進めながら笑っていた彼の笑い声が、まだ続いていたような気がする。
後輩の男子との挟み将棋を、早々に終わらせたとき、
彼は部室を出て行くところであった。
彼が部室を出て行った後、興奮した私は文芸部員のだれかれかまわずに
「あの人が○○さん?」と聞いていたのだった。
その後大学が始まるまで、彼はしばしば文芸部の部室を訪れるようになっていた。
文芸部では「随筆日誌」というノートがあって、部員の誰でもそのノートに書きたい事を書き込めるようになっていた。
彼との出合いの後、私の書いた文に対して彼は感想とか返事とかと思えることを、いつも書いて下さるようになっていた。
高校を卒業して大学生になっても、彼は時々文芸部を訪れてくれていた。
しかし、二人の関係は文芸部員と、先輩の文芸部員の域を出ることはなかった。
その頃の私にとって彼は、自分と同等に考えることなどできない、雲の上の人のように崇拝する憧れの先輩だったのだから・・・・・
ある日学校から帰ろうとしている私を、彼が追いかけてきてくれて、校門の近くで一緒になったことがあった。
高校の前の大通りを始めて並んで歩いた時、
これから彼とこの大通りを何時までも歩いていけるのかと思うと、
その大通りが光輝いて見え、私の心は希望に満ちる思いであった。
それなのにいつもの曲がり角に来た時私は、
「私はこちらですから」と言って、彼に別れを告げていた。
私は彼に引き止められるのを期待していたのに,引き止めて貰えなかった事にがっかりしていたのだが・・・・・
その曲がり角を行ったすぐの所にあった、おうどん屋さんの屋号がそのときの私の胸には堪えた。
いつもは気にしたことのなかったその屋号
黒田節の歌詞から取った、その屋号は「想夫恋」であった。
その小路を過ぎると、国鉄の線路沿いの道に出る。
線路を右に見ると道の左手には、高く長い塀が続いていて中ほどに通用口があった。
そこに小さく社名が書いてあったが、その会社名は「大日本窒素」、今思うと此れも私の運命を暗示していたものだったのだろう。
何となく暗い雰囲気の塀であったが・・・・・
翌年私は高校を卒業して信託銀行に就職していた。
仕事にも幾らか慣れてきたある夏の夕方、仕事帰りの私は市電を降りて家への道、大日本窒素と鉄道にはさまれた高校時の通学路と交差している道を通って、踏み切りを渡ろうとしている時、
反対方向からやはり踏み切りを渡ろうとしていた彼と偶然出会った事がある。
二人は只会釈するのみで、お互いに踏み切りを反対方向に進み、言葉を交わす事もなかったのだった。
それから間もなくの10月、私の家は大阪に転居した。
幸いにして信託銀行が大阪支店への転勤をさせてくれたので、私は引き続き銀行勤務を続ける事が出来た。
その年の暮れ、住まいが遠くなったという気楽さもあって、私は思い切って彼に手紙を出したのだった。
すぐに返事が来て、二人の間に文通が始まった。
しかし話題が政治の話になると、二人の意見はどうしても真反対のものになってしまい、
私は短気にも、彼に絶交を申し入れてしまったのだった。
その後何年かして彼は、弁護士として今水俣病訴訟に取り組んでいる
「勝訴の日まで頑張るつもりです」と、
私に葉書を寄越してくださった。
「私も水俣に行ってお手伝いしたい」と書きたかったのだけれど、
私にはどうしても決心がつかなかった。
水俣病にかかった人が訴訟などしたら,
闘争的な精神から心が更に乱れて、
病状は更に悪化するのではないかという、
精神絶対主義的な思想に当時の私は、かなり偏っていたからだった。
今の私は、肉体は精神の影響を多分に受けるけれど、
肉体の材料が物質である以上、自然の状態と著しく違う環境におかれたら、
精神だけでは補いきれない場合もあるという考え方になっているのだが・・・・・
水俣病訴訟の裁判が、枚方地方裁判所で出張裁判をした事があった。
当時大阪府下に住んでいたので、何年か前からその日を楽しみに待っていたので、私はその裁判を傍聴に出かけた。
裁判所の小部屋で、私は彼と何年ぶりかで再会したのだった。
言葉は余り交わす事は出来なかったのだけれど、
又しても夢か現か分からない様な、不思議な気分になる出会いであった。
午後からの裁判に備えて、昼食を外で取って裁判所に向かっている時、
「怨」という字を書いた幟旗を掲げた一団が、私を追い越して裁判所の方に向かっていた。
私はその「怨」の字を見たとき、心が暗くなっていた。
その私を偶々道の向こうから見ておられた彼の目と、私の翳った目が会った。
彼は何も言わずに裁判所の方に行ってしまわれた。
心なしか、彼の目も暗く沈んでいるように思われた。
法廷は地方裁判所で小さな部屋なのに、
傍聴人が大勢でとても傍聴は出来ないかとガッカリしていたら、
奇跡的なと言いたいような事が起きた。
裁判所の職員が大勢の傍聴希望者に向かって、
「後2人・・・・」と言って、ある女性と私を指名してくれたのだった。
後で知ったのだけれど、その女性は水俣病を追いかけている有名な写真家であった。
その写真家を傍聴させてあげるために、
偶々傍にいた私はカムフラージュとして利用されたのではないかと思う。
そういう事情で、私は最後の2人の中のもう一人に選んでもらって、
物凄い競争率を突破して裁判の傍聴を許されたのだった。
法廷の中はほぼ満員で、皆が私達を振り返っていた。
最後の一人として私が法廷に入った時、心配そうに振り返っていたる彼と目が合って、私もほっとして笑みが出て、図らずも二人は微笑み交わしているという構図が出来ていた。
その時法廷内にざわめきの様なものが起きたような気がした。
裁判長もほんの一瞬、目をぱちくりさせられたのが印象に残っている。
流石にほんの一瞬であったが・・・・・
枚方の出張裁判は2日掛りで、翌日は朝からの法廷であった。
朝から行くには自分の家(豊中)からはちょっと遠いので、
私は高槻にある兄の家に一泊させてもらった。
その時兄嫁に「お隣の奥さんのお兄さんが、今隣に来ておられるのだけれど、会って見ない?」と、
私はお見合いを勧められた。
私はそれ処ではない気持ちだったので、
あっさりと断ってしまったが、
後で聞くとそのお隣の奥さんのお兄さんも、同じように断られたという話であった。
翌日出張裁判が終わってから、弁護団の人たちが帰えられるとき、
傍聴者達も一緒に、長い行列を作って帰途に着いていた。
暫く一緒に進んでいたら、踏み切りに差し掛かった。
私の帰り道はその踏切を渡らずに、横に行かねばならなかったので、
そこで彼とは碌に別れの言葉も交わせないまま、私は一行と別れた。
又踏み切りで分かれる事になったな~と、私は不思議な感じがしたのだったが・・・・・
それから数年後、急に思い立って水俣の事務所を尋ねたとき、
彼はちょうど熊本に行くところだった言われて、
熊本まで車で送ってあげようと申し出て下さった。
彼の車で私は最初で最後のデイトをした事になる。
熊本に行く途中立ち寄った海岸で車を降りて海を見せてもらった。
水俣病の事を色々と教えてもらった。
彼は海の向こうに見える島をさして、「恋路島」と島の名も教えてくれた。
「難波より はるばる来ぬる恋路島 水俣の海は厳しかりけり」
熊本までのドライブは楽しかったけれど、
山肌を切り開いた崖の道を走っている時
「ここでハンドルを切ったら崖から、落ちて一緒に死ねるかもしれない」と心に悪魔が囁いていたのを覚えている。
私は悪魔の言う事を無視する事が出来て、無事熊本についた。
レストランで夕食をご馳走になったり、夜の熊本城に案内してもらっているうちに夜はふけて、
熊本駅に着いたときにはもう10時近くになっていた。
切符売り場の窓口で彼が尋ねてくれたとき売り子さんが、
大阪行きの切符は最後の一枚になっていると言われた。
「このまま帰りますか?」との彼の問いに、
帰るのが当然のことと思っていた私は、
ちょっといぶかりながら、大阪行きの切符を買ったのだった。
一旦は大阪の家に帰ってきたのだけれど、
「このまま帰りますか?」と彼に聞かれた事が気にかかり、
私は家に帰り着いたその日、再び水俣を指して汽車に乗ってしまっていたのだった。
水俣の彼の事務所には、灯りがともっていなかったので、留守である事はすぐ分かった。
その上私にはそこがもう、もぬけの殻になっているような気がした。
それでも私はそのまま、そこを立ち去りがたく、
事務所の前にある公園のベンチで一人夜を明かす事にした。
3月の末だったと思うが、その夜はちっとも寒くはなかった。
満開の桜が美しく咲き乱れており、空には朧月がかかる美しい夜であった。
太田垣蓮月尼の「宿貸さぬ 人の辛さを情けにて 朧月夜の 花の下臥し」そのままの夜であった。
翌朝駅のそばを通った時、水俣病訴訟勝訴記念式典がその日熊本の会館であるというポスターに始めて気がついた。
彼が「このまま帰りますか?」と聞かれたのは、私がこの式典に出るために、遠路はるばる熊本県までやって来たと思っておられたからなのだという事が、やっと分かった。
私は熊本の会場に行って、途中からではあったが式典に参加する事ができた。
式典が終わって彼に近づく機会があった時、そっと彼の背広の裾に触れた私の手を、
彼は反射的に振り払っていた。
がっかりしなかったわけではないけれど、来るべきものが来たという気もしていた。
その時私は久秀に殺された菊姫になって、”「遺言」の巻き”が成就したような気がしていた。
でも表の心はつれれない彼のしぐさに、打ちひしがれていたのだったが・・・・・
その3年後の8月、偶々読んだ芥川龍之介の短編集の、「芋粥」と「六の宮の姫君」に、
私は人生を感じた様である。
「芋粥」からは、長年私が憧れていたものは、
芋粥の中の主人公にとっての、芋粥と同じようなものなのかも知れないという思いであった。
「六の宮の姫君」では、「こんな事をしていたら私もこの六の宮の姫君のようになってしまう」という思いであった。
その年の9月になって私は、出雲大社にお参りに行きたくなった。
両親には「出雲大社に行きたい」というのが気恥ずかしくて、
秋吉台に行きたいと言って旅行に出た。
往路瀬戸内海の島に住む伯母の家に一泊させてもらった。
伯母の家の二階6畳の部屋には、
従兄の奥さんがやっているブランド店で売るために買い集めたものだったのだが、
ウエディングドレスが部屋一杯にハンガーにかけてあった。
山口県では東萩駅前で宿をとる事にした。
東萩駅前で「駅に近い民宿に泊まりたい」と言う私の希望を受けて、
案内所の人が「どうせ駄目だと思うけれど・・・・」と言いながら、
その民宿に電話をしてくれた時、
「え!あるんですか?」と、吃驚したように、その案内係の人が言っておられた事が印象に残っている。
台風7号襲来予報がなかったら、とても予約なしで泊まれる宿ではなかったらしい人気の民宿「雀のお宿」に、
幸運にも私は泊まる事が出来たのだった。
私の泊めて貰った部屋は増築したばかりの部屋で、電灯も私が部屋に入ってから取り付けに来られた位で、
新築ほやほやの部屋であった。
この旅行で秋吉台や秋芳洞、萩の松下村塾後、高杉晋作の実家後等を見て、
私は予定通り出雲大社にお参りした。
出雲大社で拝殿に立ち参拝しようと手を合わせたとき、
宮の奥から突然太鼓の音が響いてきたのには、ちょっと驚いた。
そして、驚くと共にこれは何かの啓示なのかも知れないという期待感を持たせられたのだった。
予定ではその日のうちに帰り着くはずであったが、
台風7号の為に電車は徐行運転になり、岡山駅に着いたときには終電もなくなる時間になっていたらしく、
私達乗客は臨時の新幹線で大阪まで運んでもらった。
大阪駅から阪急電車の梅田駅に着いたとき、
最終電車を告げる「蛍の光」の曲が流れていた。
私が家に帰りついたときには、もう日付が変わっていた。
翌朝と言っても日付としたら、私が出雲大社から帰りついたその日に、
高槻市に住む兄の所からお見合いを勧める電話が掛かって来た。
何から何まで私の縁談を寿いでいるような事続きの後、
私は9月半ば過ぎに現在の夫と見合いをしたのだった。
それは枚方の水俣病訴訟出張裁判の時に、
兄嫁から会って見ないかと言われていた、
お隣の奥さんのお兄さんである。
今度は何故か二人共、素直に見合いに応じて、高槻の駅前で見合いをした。
見合いをして2ヵ月半後には、二人は結婚式を挙げていた。
枚方の出張裁判の時に、二人が共に見合いを断っていなかったら、
この縁は成立しなかっただろうと思うと、不思議な気がする。
結婚後最初の住まいは滋賀県甲賀郡水口町(現在の甲賀市)であった。
水俣に嫁けなかったから、水口の住人となら結婚しようと思って、結婚を承知したというわけではなかった。
見合いのときには滋賀県の人とは聞いていても、詳しい住所を知ったのは婚約が成立してからであった。
結婚して間もない頃の話に、夫がまだ二十代の頃、何かの占いをしたら「40過ぎるまで結婚できないだろう」という卦た事が出た事があったのだそうである。
嫌な卦だと思ったが、結局40を過ぎるまで結婚出来ないで来たという。
その話を聞いたとき、私たち夫婦は初めから結婚する運命にあったのかもしれないと思った。
夫は私の人生ドラマに付き合った分けではなかろうが、
丁度私のドラマが完結するのと期を一にして、
夫のドラマも次のステージにシフトしていたのだろう。
だから二人揃って最初の見合いを断っていたのだろう。
件の高校の先輩の彼と結婚する予定は、私の人生ドラマの中には全然なかったから、
二人の仲が近づきそうになると、
私は自分から変な事をして、
彼から離れて行ってしまっていたのだろうと思われる。
今思うと、彼にとって私は理解に苦しむ様な事をしばしばやらかしている、
変な女だった事だろう。
色々と分けの分からない思いで、彼の心を悩ませたりしたのかもしれない。
彼を苦しめる意図など全然無かったとは言え、申し訳ないことであった。
私たち夫婦は三十代半近くと四十代半近くになって結婚したのだけれど、
何とか子供にも恵まれ、遅ればせながら、私も世間並みの幸せな人生を送る事ができてきた。
そして夫の定年を期に、私達は大津市内に転居することになった。
この家に移ってきて後、私は図らずも自分が宇治周囲物語の世界に入っている事を知った。
今の私の家のあるところは大津市とは言っても、京都府との県境に位置する辺鄙極まりない土地である。
しかし私はここが宇治市と接する土地であるという事は、移り住んでしばらくするまで、全然気がつかないでいたのだった。
私達がここに新しい住まいを決めたのは偶々であって、
宇治の周囲に位置するところを選んで移り住んだわけではなかった。
今の家に移り住んで数年後、水俣病訴訟が勝訴20年を迎えたというマスコミの報道があった。
昔、文通をしていた頃、彼の手紙に或俳句が書いてあった。
大学の俳句部で選ばれたのだそうであった。
その時私は名前だけで住所は書かないまま、
彼にその俳句を主題にした葉書を書いた。
何故住所を伏せたのか?
やっぱり夫に対して疚しい思いがあったからかもしれないが・・・・・
その葉書は私にしては全然滞りなくすらすらと書けた。
文字数や文字の大きさも過不足なく、文面がぴったりと葉書に嵌った。
まるで前世からこの文面を書くことが決まっていたかのように・・・・・
その葉書の文面は今でも諳んずる事が出来る。
夏草の波やわらかに碑文字読む(貴句拝借)
新聞で水俣病訴訟が勝訴から20年になると知りました。
長い間ご苦労様でございました。
私は今宇治周囲物語の世界にいます。
文字が違いますって?
私は今滋賀県で、山ひとつ向こうは宇治というところに、
定年後の夫とまだ中学生の娘と三人 長閑に暮らしています。
あの二つの作品は私にとって青春の記念碑となっています。
此の葉書を書く事を私(私の魂)はドラマの完結と、当初から計画していたのではないかという気がしている。
これで私の人生ドラマの前半は終わったが、
宇治周囲物語の中で幸せに暮らす私のドラマの、残りの部分は現在進行中である。
この幸せな現在を作ってくださった夫に、私は深く感謝している。
そして、私の人生ドラマのもう一方の役を担ってくださった彼にも、
とても感謝している。
これらは総て、私の人生ドラマであって、
夫にも彼にも、それぞれの人生ドラマがあったことだろう。
それらの中では私も、その素材の一部であっただけであったことだろうが・・・・・
私の人生ドラマは、多分生まれ出る時の私が
”恋の至極は忍ぶ恋に御座候”という葉隠れの恋物語をやってみたかったからのものではないかと思う。
その相手役にと心積もりしていた彼であったから、
彼の名前を知った時、私の目に彼の名前が輝いて見えていたのではないかと思われる。
それにしても、私はなんと見映えのする相手役を、得ることが出来たことだろう!
彼の人生は「遺言」の久秀のように、悲惨な人生ではなかったけれど、
弱い者の味方として彼は一生初志を貫徹しておられる。
あらゆる意味で彼には只感謝あるのみである。
人生は行き詰ったからと言って、捨てては勿体ないというのが、私がこの記事を書いた理由であり、言いたかった事である。。
行き詰った時、次のステップは始まりかけているのかもしれないではないか。
総ての人が所謂「幸せな人生」になるとは限らないと思う。
人生の目的は人それぞれだから、その人なりの目的を遂げたとき、最悪の場合例え苦しみながら死ぬ事になったとしても、その人は生き抜いたという達成感に満たされるのではないだろうか?
死ぬべきときが来たら必ず死はやってくる。
慌てて自分から死を選ばないほうがよい。
苦しいからと言ってこの世から逃げ出したりしたら、もう少しで達成できたかもしれない人生の目的を果たせない事になってしまうかもしれない。
失恋した寂しさから自殺などしていたら、迷いは晴れないままで、心の平安を得る事はできなかったと思う。
自殺したら輪廻転生を繰り返す事になると教えられているが、
それは途中止めになったドラマのやり直しを、自分自身がもう一度次の世で遣りたくなるからではないだろうか?
それぞれの好みによって、人生ドラマに悲劇を選んだり喜劇を選んだりと色々だろう。
そのドラマは現在の自分の想像を超えた展開になっているはずである。
そして、その展開をこなす能力は自分に備わっているはずである。
自信喪失になったり絶望しそうになる事もあるかもしれないが、
過ぎてみたら、それらはそのドラマに彩を添えるものとなるだろう。
神仏の分身同士である兄弟姉妹(人類)への愛を忘れず、誠実に生きてさえいたら、
人生ドラマはきっと最良の展開をしてくれるだろうと、私は信じている。
神仏を信じる事と自分を信じることは同じ事である。
それが私の信仰であると言えるのかもしれない。
[2012/05/11 15:00]
政府は一日も早く脱原発に取り組んでほしいものです。
そのためには脱原発基本法の制定が急がれます。
このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、出す事が出来なくなっています。
この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、
春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしたいと思っています。
次からは、一旦やめたブログですが、dendrodiumを再開させていただこうかと思っていますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。(3月21日)



前の記事「原発について日米が共同声明」の最後に書いていたのですが、
見えにくいかと思いまして、独立した記事にさせていただきました。
どうか、今後とも宜しくお願い申し上げます。
日米原子力運営委:民生利用、日米が連携強化 共同声明採択 【ワシントン大治朋子】日米両政府は19日、原子力分野での協力を目指す日米原子力運営委員会をワシントンで開催した。昨年11月の日米首脳会談で合意した「『核兵器のない世界』に向けた日米共同ステートメント」に基づき、発展途上国における平和利用の支援など、両国が民生分野でさらに連携強化に取り組むことなどを盛り込んだ共同声明を採択した。
両国はベトナムやアラブ首長国連邦(UAE)など、新たに原子力の平和利用を進める途上国との連携を強化し、安全対策や人材育成面での協力を図る作業部会を新設。原子力発電所の高経年化対策や設備利用率の向上に取り組む作業部会も新たに設置した。
毎日新聞 2010年3月20日 東京夕刊
もうガッカリです。
此れで対米従属をやめて、日本の主体性を取り戻す政権と言えるのでしょうか?
(お知らせ)
このブログの表題に入れた短歌の、春夏秋冬の中の冬の字が、誰かによって削られて、修正不能になって久しいのですが、昨日から編集画面までが、誰かにいじられたようで、
出す事が出来なくなっています。
この記事作成画面も、何時使用不能になるかもしれない状況にありますので、
春夏秋冬はこの記事をもって、しばらく休ませていただく事にしたいと思っています。
次に書くときは、一旦やめたブログですが、dendrodiumを再開させていただこうかと思っていますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
機密文書の入手方法が違法であったと言うことで逮捕され、人生を狂わされてしまわれた。
それなのに、法律違反の密約をした者達は、それからも天下の大道を大手を広げて渡り続けていたのだった。
今回は政権交代で、この事情が暴かれたけれど、自民党政権が続いていたら永遠に分からなかったかもしれない。
国際間の問題で、すぐには公表できない事もあるかもしれないけれど、
これからは日本もアメリカと同じように、
一定年数後には公表すると言う制度を作っておくべきなのではないだろうか?
政治家や官僚が自分達の勢力安定の為に、国民の利益を踏みにじるような事を行ったら、
何十年後かであっても、必ず同胞の知るところとなると言うことになれば、
その時の担当者も、後で自分自身だけでなく子孫も、
恥ずかしくて道も歩けなくなるような事を決めるのをは、ばかるのではないだろうか?
例え完全に止める事は出来ないとしても、ある程度の歯止めにはなるのではないかと思える。
以下に、衆院外務委員会での元毎日新聞政治部記者の西山太吉さん(78)が参考人の一人として意見を述べたことに関するニュースを引用させていただく。
(引用始め)
日米密約:西山さん「裁かれてしかるべき者裁かれず…」
沖縄返還(72年5月)の際に、日本側が米軍用地の原状回復補償費を肩代わりした密約問題が取り上げられた19日午前の衆院外務委員会。いち早く疑惑を報じた元毎日新聞政治部記者の西山太吉さん(78)は参考人の一人として意見を述べ、一貫して密約を否定してきた政府について「本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まで来ている」と語気を強めて批判した。【合田月美、篠原成行】
西山さんは、密約問題を巡り外務省の事務官を通じ機密電文を入手したとして国家公務員法違反の疑いで72年に逮捕された。服部良一委員(社民)から「ある意味人生をむちゃくちゃにされた。国や外務省に言いたいことはないか」と問われた西山さんは「公平なる裁き、法の下の平等、その原則が完全に破られてしまった。本来、裁かれてしかるべき者が全く裁かれずに今まできている」と心情を吐露した。西山さんは「政府の密約は今まで全く追及されてこなかったが、ようやく三十数年たって検証された。日本の構造や日本全体を覆っているグレードの低さが問題。司法も政府権力もマスコミも。そして主権者の政治意識も全部その中に入ってくる」と訴えた。
西山さんは自ら報じた密約疑惑について「氷山の一角」と指摘し、その後の「思いやり予算」(在日米軍駐留経費負担)につながる日本側の財政負担を決めた「密約」について「最も国民が知らなければならないものだ」と力説した。外務省内で密約関連文書が廃棄された疑いにも言及し、「官僚ベースでは明らかにされない。国会が国政調査権を発揮してほしい」と指摘した。
西山さんは委員会終了後、「何十年ぶりの国会で戸惑いと緊張で上がってしまった。こういう場で発言させてもらう日が来るとは想像だにできなかった。隔世の感がある」と感想を述べた。
◇38年前、政府は一貫否定
沖縄返還が翌月に迫った72年4月の国会でも、密約問題は取り上げられていた。旧社会党の横路孝弘議員(現衆院議長)らは、西山太吉さんから入手した外務省の機密電文を手に追及したが、政府側は一貫して密約を否定し続けた。
電文には、米軍用地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりして対米支払いを3億2000万ドルに積み増す経緯や、肩代わりを了解する秘密書簡の作成を米側から求められていたことなどが示唆されていた。
これに対し、福田赳夫外相(当時)は「400万ドルを上乗せして3億2000万ドルとなったことはいかなる過程においてもない」「良心においてお答え申し上げる。虚偽の答弁は一切しておりません」と真っ向から否定。吉野文六・外務省アメリカ局長(同)も「我々は(米の要求に)絶対に応じなかった。メモ(秘密書簡)はない」と述べていたしかし、今月9日に公表された外務省調査チームの報告書は肩代わりの事実を認め、政府側答弁が虚偽だったことを裏付けた。
西山さんは、機密電文を入手したことで罪に問われて78年に有罪が確定したが、最高裁決定は「早晩国会における政府の政治責任として討議批判されるべきであったもの」と国会での真相解明を注文していた。【臺宏士】
◇ことば 沖縄返還協定を巡る密約
72年5月に発効した沖縄返還協定の交渉過程で、米側が負担するはずだった土地原状回復費用などを日本が肩代わりすることにした日米間の密約。密約を報じた西山太吉毎日新聞記者(当時)らが72年、国家公務員法違反の疑いで逮捕された。00年、米国の情報公開で密約を裏付ける公文書が判明。西山氏は、関係文書の情報公開などを求める裁判を起こし、06年には元外務省アメリカ局長の吉野文六氏が密約の存在を証言した。外務省の有識者委員会は9日、「広義の密約」があったと認定する報告書を公表した。
暖かい日が多かったにしては、私が鶯の声を今年初めて聞いたのは3月8日の事で、余り早くはなかった。
そして今年二回目に、私が鶯の声を聞いたのは、今朝の事であった。
今年は小鳥の活躍が遅いのか、数が減っているのか、
玄関先のアオキについた赤い実が、今年は真っ赤になっても、小鳥に獲られない。
例年だったら、アオキの実が赤くなったと気がついたら、日をおかない位に忽ち、赤い実は消えてしまっていたものだったが・・・・・
訪問者リストを見て初めて覗いたブログで、下記の詩を紹介しておられた。
そのブログは紹介者なので、この詩を書かれた本家本元のブログが何処なのかは不明だけれど、よく出来ているので紹介させていただく事にした。


日本には謎の鳥がいる。
正体はよく分からない。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。
「カッコウ」だけは一人前に付けようとするが
お「フクロウ」さんに、「タカ」っているらしい
それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え
身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒、
疑惑には口を「ツグミ 」、
釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
頭の中身は「シジュウカラ」、
実際は単なる鵜飼いの「ウ」。
「キジ」にもなる「トキ」の人だが
私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。
日本人が癌になってしまわないように、
鳩山総理は真剣に原発の現実を調べて、対応して欲しいものである。
【特集】アフガンの人々が求める支援とは…挑戦を続ける日本人医師
アフガニスタンで、20年以上前から医療活動を続けているNGO「ペシャワール会」の中村哲医師。医療活動とは全く関係ない、干ばつ対策の用水路の建設を手掛けた。中村医師は、用水路建設と並行して“モスク”と“マドラサ”と呼ばれる学校も建設。去年9月、生徒数280人で開校したマドラサは、現在約600人もの生徒が通うようになっている。中村医師は、戦闘が激しさを増す地域の子供や戦争などで親を失った孤児たちのためにも学びの場を与えようと、新しい寄宿舎の建設にも着手した。そんな中村医師の最終目標は、用水路の到達地点である広大な砂漠に、新たな村を作ることだという。アフガニスタンの人々のために、日々挑戦を続ける中村医師を追った。
報道ステイションの報道の中で、アフガニスタンでの現在の過激さをましているアメリカ軍の攻撃を映した後で、
中村医師の、戦争によっては何も解決できないだろう、という言葉を報道していた。
朝日放送はかなり変ったような気がする。
昨年前半までは、ペシャワール会のことを放送する局は朝日放送に限らす、ほとんど無かった。
アフガニスタンの農業用用水路が8月に完成した時も、マスコミは取り上げなかったのではないだろうか?(もしかしたら私が見逃したのかもしれないけれど、少なくとも大きく取り上げたところは無かった。)
私は9月に入って、京都新聞で用水路が完成した事を知ったのであった。
昨年9月に入った頃から小さな扱いではあったが、
ペシャワール会のことをテレビでも、少しは報道するようになってきたのだった。
しかし昨日の、報道ステーションでの扱いはかなり大きく、
しかも、現在のアメリカ批判とも取れるような表現も放送していた。
昨日読んだ「日本を守るのに右も左もない」でロックフェラー家の世代交代のことを扱っておられた。
これまでのロックフェラー家の総帥だったデビット・ロックフェラーが、95歳と超高齢になられ、その跡継ぎと目されていた人が、最近殺害されると言う事件も有り、デビット・ロックフェラーの時代は終わり、現在74歳のジェイ・ロックフェラーに権力が移ろうとしているのだそうである。
デビットさんの方は軍産複合体(戦争屋勢力)と密接な関係であったが、ジェイさんのほうは、戦争屋勢力の力を削ぐ動きをしているのだそうである。
朝日新聞はジェイ・ロックフェラーと密接な関係にあったから、
最近これ迄の中曽根の悪事を暴く動きをするなど、報道に変化がでてきているという。
昨夜の報道ステーションを見て、「日本を守るのに右も左もない」のこの記事は、あながち間違いではないのかもしれないと言う気がしたのだった。
新権力が戦争屋勢力と一線を画したものとなることは喜ばしい事であるが、
鳩山政権が原発を拒否できないのには、
このジェイさんとの繋がりも関係しているのかな?と、
原発の事では、絶望的な気分にもなったのだが・・・・・
鳩山政権半年 原点に立ち返るとき 3月16日(火)
鳩山由紀夫政権の発足から、きょう16日で半年になる。国民の期待を背に出発しながら、政治手法や首相の指導力に疑念が広がる半年間だった。
共同通信による直近の世論調査では、内閣支持率は36・3%。発足した直後に比べ約半分の水準に落ち込んでいる。
昨年夏の総選挙で、有権者は民主党のどんな主張、呼び掛けに共鳴して一票を投じたのか。その原点に立ち返ることが、政権立て直しの出発点だ。
昨年9月国民の圧倒的な期待を受けて発足した鳩山政権は、
発足半年にして、支持率を36.3%と、約半分に落としてしまった。
新聞などでは、鳩山総理と小沢幹事長の、政治資金規正法違反問題が,支持率低下の原因であるような事を書いていたけれど、本当にそうだろうか?
私の場合は、鳩山政権の原発行政が、一番ガッカリしたところであった。
それも環境の為に原発に力を入れようというのだから、本末転倒もいい所であると思う。
原発から出る放射能が環境を破壊するのと、CO2が温暖化に与える悪影響は、
比較にならない程に、原発の放射能のほうが、人間に与える影響は甚大である。
原発は地震や事故が起きなかったと想定してさえも、
常に流れ出す微量の放射能でも、長年にわたって放出され続ける事によって、
海の魚を汚染し魚を介して、人間の体に影響する事は避けられないだろう。
そんな原子力発電所を、内海(うちうみ)である瀬戸内海に作る計画が有ると言うのに、
「原発は温暖化対策に有効であると思う」等と言う声明を、鳩山総理自らが出されたと聞いたら、
大抵の鳩山政権支持者も、鳩山総理に失望を禁じえないだろう。
鳩山総理はコンクリートから人へとか、
友愛とかの言葉はどういう意味で使っておられたのだろう?
原発の近くに住む者は、放射能汚染の為に、
発ガン率が上がったり、
生まれてくる子供に異常が出る危険性を抱えさせられるのである。
又、他に仕事が無いままに、原発に仕事を求めてしまった人々は、
常に放射能という最悪の猛毒に命の危険をさらして、働かなければならなくなってしまうのである。
友愛の政権が創出する雇用なら、
せめて健康被害を伴わない種類のものを、作り出して欲しいものである。
又、税制改正は国民目線で行ってもらえるものと期待していた者にとっては、
「法人税率は日本は高すぎるから、下げなければならない。
消費税率は見直し(上方に)せざるを得ないだろうという。」という総理のコメントを聞かされたら、ガッカリしない者は無いだろう。
その上普天間基地の移転先でも、色々な意見が入り乱れ、混乱の極みを来たしている。
此れではさすがの民主党ファンと言えども、100年の恋も冷めてしまうというものだろう。
新聞各社の解説では、国民は鳩山総理と小沢幹事長の「政治と金」の問題で、
支持率を落としたと言っている。
マスコミ各社は「政治と金問題」で支持率が下がったと言うことにならないと、
これ迄の世論誘導の努力を、スポンサーに評価してもらえないから、
無理やり「政治と金問題」の所為にしているように、私には感じられる。
尚、法人税率の問題については、自公政権の国民裏切り行為により、
国内メーカーのかなりの部分が、外国資本に握られてしまっていて、
法人税率を上げたら、国外に移籍する等と脅されたら、どうにもならない部分も有るかも知れないと、同情を禁じえない部分も有るが・・・・・
敦賀原発:1号機、国内初40年 未知の領域へ 原電社長「安全最優先で」 /福井
3月15日11時1分配信 毎日新聞
日本原子力発電敦賀原発1号機(敦賀市、沸騰水型、35・7万キロワット)が14日、全国の原発で初めて運転開始から40年を迎えた。1号機は、後継の3号機(準備工事中、改良加圧水型、153・8万キロワット)が稼働する16年までの6年間、40年超運転という「未知の領域」に入る。
この日、敦賀原発近くの原電のPR施設「敦賀原子力館」で記念式典があり、原電の幹部社員や協力会社13社の社員計約40人が出席した。原電の森本浩志社長は「トップランナーとしての責任の重さに身が引き締まる思いだ。国内初の40年超えとなる第一歩がスタートし、多くの社会の期待に応えるよう、日々安全を最優先に取り組みたい」と述べた。
この後「安全」の花言葉を持つナナカマドの木を森本社長ら5人が植樹し、安全・安定運転を誓った。長期運転に対する地元不安については、森本社長は「双方向のコミュニケーションで、地元の信頼感を構築し、安心につなげていきたい」と話した。今後40年を迎える他の原発の運転延長について「そういうこと(延長)にするのが、我々パイロットの役目と思っている」と、同様に延長するのが望ましいとの考えを示した。【酒造唯】
昨夜のNHKニュースでは、40年運転してきた原発を閉じないで、更に使い続けると言うニュースの後に、
小沢環境相が視察に行った話をしていた。
行き先は敦賀原発ではなく、先日テンと思われる生物に襲われ、飼育中の7羽の朱鷺が殺された新潟県の佐渡トキ保護センターであった。
小沢大臣には、40年も経った原発が、安全に運転できるかどうかよりも、
日本の朱鷺、ニッポニア・ニッポンは絶滅している現在、
代わりに中国の朱鷺を飼育しているに過ぎないのに、
朱鷺の保護の仕方が悪くて、かみ殺された事件の方が、
運転を始めて40年を経過した原発を、尚運転を続けるという初めての試みが、
本当に安全であるかどうかと言う事よりも、
ずっと重要な事案であると認識しておられるもののようである。
昨年、小沢鋭仁氏が環境大臣に就任されて間もない頃に、
鹿児島県で原発を造る取り組みで、鹿児島に出かけられたときも
原発建設が、ウミガメの成育を邪魔しないかと、気を使っておられる環境大臣を報道していた。
小沢環境大臣は、朱鷺や海亀の事には気を配るけれど、
周辺の国民が放射能汚染で健康被害を起す心配については、
全然考慮する積りは無いようである。
環境省は国民の健康被害を起こす恐れの有る企業を、見張る為に作られたのではなかったか?
原発が計画された当初には、原発は30年で運転をやめると聞いていた。
それがいつの間にか40年に延ばされ、
その40年を過ぎても、まだ運転を続けると言う。
破裂しない限り、まだ大丈夫まだ大丈夫と、何時まででも使い続ける積りなのだろうか?
国民の健康や生命に対して、ここまで鈍感な人が、
殊更らしく、ウミガメやトキのことを心配してみせる・・・・・
優しさを装っておられる分だけ、余計に胡散臭さがつのって見えてしまう。
私達の待ち望んでいた政権交代は、行われなかったのだろうか?
くしくも今日水俣病訴訟の和解案が提示されたそうである。
米国牛肉の輸入制限撤廃を 上院有力議員が対日決議案
米上院農林委員会のリンカーン委員長(民主党)とジョハンズ委員(共和党)は 12日までに、米国産牛肉の輸入制限撤廃を日本に求める決議案を提出した。 委員長の声明によると、超党派の上院議員17人が共同提案者に名を連ねている。
米議会は大規模リコール(無料の回収・修理)問題をめぐり、トヨタ自動車を厳しく 批判したが、4月に予定されるビルサック米農務長官の訪日を前に牛肉問題で 対日圧力を強める可能性もある。
日本は米国で牛海綿脳症(BSE)感染牛が見つかった2003年末に輸入を停止。
現在は生後20カ月以下の牛に限り輸入している。決議案は日本に対し、直ちに 市場参入機会を拡大するよう要求。輸入制限緩和を日本に働き掛けるようオバマ 政権に求めた。
リンカーン委員長は声明で、日本の輸入制限などにより「米国の牛肉生産業者は 03年以降、年間平均14億ドル(約1270億円)の損失を被った」としている。
2003年にアメリカでも狂牛病(牛海面状脳症)が見つかったから、日本はアメリカの牛肉の輸入を取りやめたのであった。
生後20ヶ月の牛に限ってなら輸入すると決めたのも、アメリカの絶っての要請で、
日本側が譲歩して、生後20ヶ月以下のものならばという事になったのであった。
それをリンカーン委員長は、
日本の輸入制限などにより「米国の牛肉生産業者は
03年以降、年間平均14億ドル(約1270億円)の損失を被った」としているのだそうである。
狂牛病という世界的に恐れられている病気を持った牛が混じっているのが分かったから、
狂牛病かどうか検査した上でだったら、輸入しても良いと言うのを、
牛の数が余りに多数であるから、検査する事はできないという売り手側の都合から、
生後20ヶ月未満の牛ならば、条件付でか買うことにしただけであって、
何も無いところに、日本が身勝手な条件を突き付けた訳ではなかった。
そういう事情が分かっていながら、まるで日本が我侭を言うせいで、
アメリカの畜産農家が、損害を蒙ったと言うような主張を、
アメリカ人は恥ずかしげもなく国会で演説するし、
日本に条件撤廃を強制せよと、決議案を提出して大統領に迫っているのである。
トヨタ自動車の不具合の所為で、人身事故が起きたと言って、
アメリカは国会で被害者に訴えさせ、
被害者の涙に、議員達は人の命の掛け替えの無さを、確認したばかりであったはずなのに、
狂牛病にかかることを恐れて、アメリカ牛を食べない自由を、日本人には許すなと、大統領に迫るというのだろうか?

原告は泥棒をするために忍び込もうと被告の家の屋根に上ったところ、
屋根が腐っていた為に、足をとられて屋根から落ちてしまった。
被告人の屋根の管理の悪さが原因で、原告は大怪我をしてしまった。
だから、原告は被告人に治療費を払え、という訴えをしたのだそうである。
他人の家の屋根に、泥棒目的で上って、足を滑らして怪我をした時、
それを屋根の根太を腐らせたままにしていた、家主の所為で怪我をしたと、
訴えれる者や、その訴訟を引き受ける弁護士にも呆れたけれど、
それ以上に呆れたのは、この訴訟の判決である。
泥棒目的で屋根に上って怪我をした原告に、
泥棒に狙われただけの被告人は、治療費をはらわねばならないと、
裁判官は判決を下したのだそうである。
狂牛病の恐れの或る牛肉を買わなかったら、
「お前が買わないから、牛肉生産者は毎年14億ドル損をしている。」という主張をする人々と、
この屋根落下事件の原告側の人々との間には、
一脈通じる気風が有るような気がしてしまう。
トヨタ自動車が、数年後に、
アメリカがトヨタのが自動車を買わないから、トヨタ自動車は年間XX億ドルの損害を蒙ったと、
日本の国会でアメリカを非難したとしたら、アメリカ人はどう思うだろうか?