小田原駅の観光案内所で地図をもらいました。
A 小峯御鐘の台大堀切東堀を目指しました。
タクシーに行き先「小峯御鐘の台大堀切」を告げると、「知らない」とのこと。
早速、この地図を見せると、動き出しました。
タクシーの運転手さんが
現地の城を知らないことは
城廻ではよく体験することです。
こんな時に役立つのが地元の観光案内所の地図です。
少し、不安を感じましたが、無事付近に到着することができました。
惣構(総構)とは何か、
この地図の初めに
小田原城の総構(そうがまえ)は、
小田原北条氏が豊臣秀吉との合戦に備え
天正18年(1950)までに、
小田原城とその城下を囲って築いた
総距離9kmにも及ぶ大規模な堀と土塁による
要塞の跡です。とあります。
*要塞 外敵等から戦略上重要な地点を守るために築かれた構築物。
この掲示板にはこのように書かれています。
小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。
北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲」約9km
の堀や土塁を構築し、その中へ城のみならず城下町まで取り組んだ戦国期最大の城郭を築き
ました。
この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の
尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。総構とともに小田原城の
西側を守る最も重要な場所であったと考えられます。
東堀は、幅が約25m~30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)まで約12~15mあり、堀の法面は
50から60度という急勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。
発掘調査によると、堀には障子堀や土橋状の掘り残し部分ほか、横矢折れと呼ばれるクランク部分
などが設けられていることが確認されました。
こうした堀の構造は北条氏が積極的に用いたもので、戦国時代の小田原城の特色をよく表しています。
堀の幅は感じられませんが、深さと法面の角度は感じられます。
クラン部分です。
次はB 三の丸外郭 新堀土塁です。
大堀切東堀を通って広い道路を渡ったところに三の丸外郭新堀土塁があります。
幅の広い土塁です。
土塁の上から早川漁港と石垣山(右側の山)が見えます。
右側の山が総構、その中に天守があります。
今まで何気なく厚木小田原道から見えていた緑の山が総構の縁だったことがわかりました。
小田原城天守です。
我が家から最も近い天守のあるお城らしいお城が小田原城です。
まず、近くのお城を見たいと言われたら小田原城に案内します。
今回のように総構を見てから天守をみると小田原城の奥深さが
感じられると思います。
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