今日はふれあいの丘の地区センターで、戦争体験談を
お話させていただくことができてありがたいことだと
思いながら帰ってきました。
夕方、NHK テレビで、水族館のペンギンやくらげなど、
いろいろな可愛い赤ちゃんたちが取り上げられて、ずっと
吸い込まれるように見入ってしまっいましたが、飼育員さん
達の赤ちゃんに対する優しさと、食事の与え方にいろいろ
工夫されていたのを拝見して、どうしても書いておかないと
と思って、PC に、向っているところなのです。
いままで、学徒動員についてお話させていただく時には、
2度目の学徒動員で、海軍航空技術省支廠の釜利谷の寮生活
での食事についてお話させていただいたことも何度かあった
のですが、そういうときにはどうしても時間の制限があるので、
ひどい食事であったと言う事実しかお伝えしていなかったのですが、
私達の食事を作ってくださった方ゞにもいろいろご苦労があ
っただろうと言うことを、どうしても書いておかないといけ
ないと思ったのです。私達の釜利谷での生活が始まったのが
もう敗戦直前とも言える、6月23日だったので、今から考えれば、
仕方のないことだったと思えるのですが・・・・・、
最初の晩はさっぱの煮付けと、お米が何処に入っているかと思う
くらいの雑穀ばかりが目に付くご飯でした。
大豆から油を絞った後のものを乾燥させた豆かすと呼ばれていた
ものとか、大麦の押し麦、とうもろこしの砕いて乾燥させたもの、
高粱などの混じったお雑炊でしたが、灯火管制下の薄暗い電灯の
ともる中の始めての寮のまずい食事が、これからの寮生活への不
安を募らせるに十分なものでした。
隣の棟には山形県から私達より2,3歳上の女学生達が大勢おられ
ましたが、山形は米どころ、時折お米が届くのを、私達はただ、横目
で見ていたのです。
3週間後、初めて帰宅を許されて、寮からお弁当を持たされましたが、
相変わらずの雑穀ご飯が少しばかりに、たくあん半分に切ったものが
たった4切れ、しかも家に帰った頃にはアルミの弁当箱の片側半分に
寄ってしまっていました。それを母が見て、
"こんな小さい子達を働かせて、お国はこんなものしか食べさせて
くれないのかと泣きました。
初めての晩に出たお魚の名前を母に聞きましたら、ああ、多分、
それ”さっぱ”と言うのよ。お百姓さんが肥料に使うものだわ”
と、言われたので、それがおかずだったとは言えませんでした。
その後ある日突然にお刺身が3,4切れでしたが、夕食のお膳に
上りました。みんなで、大喜びでいただいたのはいいのですが、
みんなそろって下痢をして、工場を休みお小言を食いました。
後で、其のお刺身は寮の賄いのおじさんの最後の日で、出征
される前にせめて少しでも子供達を喜ばせようとされて、奔走
された挙句のご馳走だったそうでした。おじさんにお会いした
ことはありませんでしたけれど、お気持ちには感謝しなければ
と思っております。
お話させていただくことができてありがたいことだと
思いながら帰ってきました。
夕方、NHK テレビで、水族館のペンギンやくらげなど、
いろいろな可愛い赤ちゃんたちが取り上げられて、ずっと
吸い込まれるように見入ってしまっいましたが、飼育員さん
達の赤ちゃんに対する優しさと、食事の与え方にいろいろ
工夫されていたのを拝見して、どうしても書いておかないと
と思って、PC に、向っているところなのです。
いままで、学徒動員についてお話させていただく時には、
2度目の学徒動員で、海軍航空技術省支廠の釜利谷の寮生活
での食事についてお話させていただいたことも何度かあった
のですが、そういうときにはどうしても時間の制限があるので、
ひどい食事であったと言う事実しかお伝えしていなかったのですが、
私達の食事を作ってくださった方ゞにもいろいろご苦労があ
っただろうと言うことを、どうしても書いておかないといけ
ないと思ったのです。私達の釜利谷での生活が始まったのが
もう敗戦直前とも言える、6月23日だったので、今から考えれば、
仕方のないことだったと思えるのですが・・・・・、
最初の晩はさっぱの煮付けと、お米が何処に入っているかと思う
くらいの雑穀ばかりが目に付くご飯でした。
大豆から油を絞った後のものを乾燥させた豆かすと呼ばれていた
ものとか、大麦の押し麦、とうもろこしの砕いて乾燥させたもの、
高粱などの混じったお雑炊でしたが、灯火管制下の薄暗い電灯の
ともる中の始めての寮のまずい食事が、これからの寮生活への不
安を募らせるに十分なものでした。
隣の棟には山形県から私達より2,3歳上の女学生達が大勢おられ
ましたが、山形は米どころ、時折お米が届くのを、私達はただ、横目
で見ていたのです。
3週間後、初めて帰宅を許されて、寮からお弁当を持たされましたが、
相変わらずの雑穀ご飯が少しばかりに、たくあん半分に切ったものが
たった4切れ、しかも家に帰った頃にはアルミの弁当箱の片側半分に
寄ってしまっていました。それを母が見て、
"こんな小さい子達を働かせて、お国はこんなものしか食べさせて
くれないのかと泣きました。
初めての晩に出たお魚の名前を母に聞きましたら、ああ、多分、
それ”さっぱ”と言うのよ。お百姓さんが肥料に使うものだわ”
と、言われたので、それがおかずだったとは言えませんでした。
その後ある日突然にお刺身が3,4切れでしたが、夕食のお膳に
上りました。みんなで、大喜びでいただいたのはいいのですが、
みんなそろって下痢をして、工場を休みお小言を食いました。
後で、其のお刺身は寮の賄いのおじさんの最後の日で、出征
される前にせめて少しでも子供達を喜ばせようとされて、奔走
された挙句のご馳走だったそうでした。おじさんにお会いした
ことはありませんでしたけれど、お気持ちには感謝しなければ
と思っております。