GHQ“素人”が米合衆国憲法を「コピペ」で原案 押し付け憲法なのに一度も改正せずもう70年 日本国憲法は終戦翌年の昭和21年11月3日、連合国軍総司令部(GHQ)による占領下で公布された。その成り立ちを振り返れば、「押しつけ憲法」というしかないが、日本国民の手で一度も改正することなく70年が過ぎ去った。
この問題をめぐっては、安倍晋三首相は「占領軍の影響下で原案が作成された」と指摘し、「私たち自身の手で憲法をつくる精神こそが新しい時代を切り開く」と訴えてきた。これに対し、民進党は前代表の岡田克也氏が「70年間国民が育んできた事実の方が重要だ」と繰り返すように、認識に相当な乖離(かいり)がある。
連合国軍最高司令官のマッカーサーは21年2月3日にホイットニー民政局長に憲法草案の作成を命じ、(1)天皇は国家元首の地位(2)自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄(3)日本の封建制度は廃止-の3原則を示した。後に「マッカーサー・ノート」と呼ばれる指示で、日本の防衛法制を過度に縛る9条は、日本の無力化を狙った(2)に由来する。
民政局は翌4日からマッカーサーの指示に沿って、ケーディス大佐ら二十数人の“素人集団”が原案作成の作業を一気に進め、9日後の13日、日本政府に提示する。その原案は米合衆国憲法などを切り張りした「コピペ」(コピー・アンド・ペーストの略)と呼ぶしかない代物だった。
憲法前文には本来、国の歴史や伝統、文化など国柄が記されるものだが、GHQによる「盗作憲法」をいまだに日本国民は背負わされている。西修・駒沢大名誉教授(比較憲法学)がかつて、憲法原案を作った民政局員8人に話を聴いた際には、みな異口同音に「自分たちの案は暫定的な性格のものであり、早晩、日本国民の手で恒久憲法が作成されるだろうと思っていた」と語っていたという。
地元ではレイディ・ワシントン号のモニュメントを作り、史実のPRに努めている
(和歌山県串本町)
ペリーの浦賀来航(1853年)より62年も早く日本に来た米国商船がある。1791年に和歌山県串本町に寄港した「レイディ・ワシントン号」、地元以外では、ほぼ知られていないこの史実をPRしようと、町は11月1日、寄港から225周年を祝う記念式典を開く。史料の発掘に力を注ぎ、日米両国の交流が活性化した成果だ、 ジョン・ケンドリック船長が率いたレイディ・ワシントン号は1791年4月、僚船を伴って同町の紀伊大島に寄港し、10日間停泊、町ではこの出来事を「米国人が最初に日本に来た事例」として記念館を建てて啓発し、外務省もホームページで紹介している
だが、多くの日本人にとっては「ペリー来航」の印象が強く、この史実はほとんど知られていない。そこで町は今年度、225周年を記念する式典の開催を決め、史料発掘に着手。4月、船長の故郷・米マサチューセッツ州で、僚船の乗組員が記した当時の航海日誌を発見した。