洪水により浸水した下町 船上には鈴なりの人【東京府(現東京都)本所押上 |
家屋の屋上に迫る勢いの浸水【東京府(現東京都)本所押上】 |
屋根付近まで水が被った家屋【東京府(現東京都)亀戸】 |
江戸川の氾濫により避難する人びと【東京府(現東京都)江戸川石切橋 |
増水する千住大橋【東京府(現東京都)千住】 |
大洪水の被害【東京府(現東京都)千住町永川神社前】 |
江戸川の氾濫により避難する人びと【東京府(現東京都)江戸川大曲 |
洪水の浸水で倒壊する城南小学校【岩手県盛岡市】 |
被災前の城南小学校【岩手県盛岡市】 |
明治43年(1910年)8月5日ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、関東地方における被害は、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に及んだ。最も被害の大きかった群馬県の死者は283人、行方不明27人、家屋全壊流出1,249戸に上り、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年}の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要中条堤が決壊したため氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになった。東京でも下町一帯がしばらくの間冠水し、浅草寺に救護所(現、浅草寺病院)が造られた記録が残っている
この大洪水で東京でも被災者150万人の大きな被害が発生し、それまで利根川の治水費の負担をしていなかった東京府も、他の流域の県と同様に治水費の地方負担を受け持つようになった。荒川については大規模な改修計画が策定され、翌年より岩淵から中川河口まで、幅500メートル、全長22キロメートルにもおよぶ放水路を開削する荒川放水路事業が着手されることとなった。事業は途中、第一次世界大戦に伴う不況や関東大震災などで困難を極めたが、蒸気掘削機や浚渫船を活用しながら延べ310万人の人員が動員され昭和5年(1930年)に完成
降雨は166日間にもおよびついには志木市本町1丁目(市場坂下:標高約10m)より浦和市(現さいたま市)別所方面まで一面湖水と化し、宗岡全土が水没し、その水位は天井まで達しました。
水塚など、明治43年当時の建物が今でも残されており、それらの壁などに当時の水の痕跡が残されています。『水害と志木』では、それらを詳細に調べて当時の洪水の水位を割り出しています。
それによると、水の痕跡が残されていたのは4軒で、その洪水位の標高は、川や堤防からの距離により一定でなく、7.995mから9.185mとなっていますが、最終的には民家の障子に残されていた水の痕跡をもとに、当時の最高水位を8.195mであったとしています。
この記録は、現在宗岡小学校に隣接する志木市郷土資料館の敷地にモニュメントとして表示してあります(写真)。
宗岡の水田の平均標高は4mから5m。宅地はそれより約1m高く、水塚はさらに約1.5m土盛りされています。つまり、水塚の土盛りの頂までの標高は6.5mから7.5mで、それより高い洪水が押し寄せたことになります。また、当時の荒川・新河岸川の堤防は、田面より2m位の高さといわれていますので、洪水は堤防の上を1mから2m以上越していたことになります
荒川下流部では、岩淵水門から下流に、隅田川(当時の荒川)と分派する約21kmの放水路が開削されました。上流部の洪水流の勢いを和らげるための「横堤」や広大な河川敷は、この時の改修工事によって生まれたものです
明治43年8月1日以来晴雨定まらず、連日降雨で8日に至り漸次烈しくなり、10日には暴風雨となり、荒川筋は未曾有の大洪水となり…」と残されています。
山間部では山崩れを発生させ、家屋や田畑、橋や道路などの埋没・流失を招き、そして川へ大量に流れ込んだ土砂や流木は、濁流とともに堤防を決壊させました。
明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。
記録に残る埼玉県内の被害は、破堤945箇所、死者・行方不明者347人、住宅の全半壊・破損・流失18,147戸、床上浸水59,306棟、床下浸水25,232棟にものぼりました。
埼玉県内では、県西部や北部に人的被害が多く、床上浸水被害が県南や東部低地に多かったのが特徴です。交通や通信網も遮断され、鉄道は7~10日間不通。東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎える頃だったそうです
荒川は、国が直轄事業として改修すべき河川に採択され、「荒川改修計画」が立てられました。荒川下流部では、岩淵水門から下流に、隅田川(当時の荒川)と分派する約21kmの放水路を新たに開削することが決定し、大正2年から昭和5年まで17年の歳月をかけて工事が行われました。
荒川上流部の改修工事は、大正9年に工事を開始し、37年の歳月をかけて昭和29年に完工を迎えました。荒川上流部の治水を考える際のポイントとなる、横堤や広大な河川敷は、この時の改修工事によって生まれたものです
無人航空機「ガーディアン」
(米ジェネラル・アトミクス・エアロノーティカル・システムズ社提供)
明治43年の東日本大雨冠水被害が忘れ去られている
荒川岩淵水門~東京湾 大規模浚渫工事で川幅が大きく拡げられて現在の姿に
岩淵水門北側は高さ8.6m冠水 3市の規模に
平成28年実績
被保護総数 3万4392世帯 4万7009人 818億7781万4千円
238万円/世帯
外国人 2388世帯 3389人 58億9520万円
247万円/世帯
東京都新宿区 220億9329万9542円 医療費等含む合計
医療費 96億716万8205円