聖護院の宸殿と書院の見学を終えて式台より外に出ました。出て、右手にある本坊の門を見ましたが、見た途端に足が止まりました。横の嫁さんも同じように立ち止まって「?」の表情を向けてきました。
上図の、寺では寺務所として使用している建物でした。二層式の長屋門の形をしていましたが、その外観に奇妙な違和感と既視感とを同時に覚えたのでした。
それで、ちょっといいかな、と嫁さんに断って、そちらへ近寄りました。
正面観だけでは物足りないので、側面の妻部が見える位置まで歩いて確かめました。上図の通り、上層にのみ窓があり、そのすぐ下から風雨除けの羽目板が張られていました。
羽目板は、正面では下層の窓の下だけに張られていて、そちらは横に張って桟で留める一般的な造りでしたが、妻部のそれは縦張りで二段になっていました。羽目板の張られた時期が異なるのではないか、と思いました。
改めて正面観の全体を見ました。寺院内部の本坊への通用門にしては不釣り合いなほどに、立派過ぎる構えです。しかも寺院の門建築のそれではなくて、城郭の門の造りと雰囲気に通じる要素が濃厚でした。これは・・・、と思っていると、嫁さんが言いました。
「なんか、お城の門みたいな感じですねえ」
「あ、君もそう思うか」
「ええ・・・、やっぱり、あれの関係なのかなあ」
「え・・?やっばりって?あれの関係って・・・?」
「大学時代に、ここでゼミ課題のレポート書くために色々調べていた時に、お寺の御厚意でここの茶室と一夜造御学問所を見せていただいたんですけど・・・」
「茶室?一夜造御学問所?」
「ええ、書院の奥にあるんです、きょうは非公開でしたけど、そこは天明の大火で御所が焼けた時に光格天皇がここを仮皇居としてお住まいになったときに、紀伊守の信道という大名家が・・・」
「ちょっと待って、紀伊守て言うたか、それ、もしかして形原松平家かね?丹波亀山藩主の・・・」
「ああ、そうですそうです、丹波亀山藩主でしたね。その紀伊守信道が禁裏の警護にあたりまして、聖護院に仮住まいの光格天皇に茶室と一夜造御学問所を献上しまして、その建物を丹波亀山城から持ってきたというんです」
「なるほど、そういうことか」
「そうなんです。その時に、宸殿に繋がる建物、庫裏とかも整備したらしいんですけど、幾つかの建物を丹波亀山藩が献上したって聞きました」
その「幾つかの建物」のなかにこの長屋門が含まれていた可能性はあるかもしれない、と思いました。正面観はどう見ても城郭の櫓門に近い形式で、上図の中央の通路の奥に扉がつく形式も、防御に有利な構えとしてのそれと思われます。
そして通路の天井を御覧のように梁と貫がむき出しのままの質素かつ武骨な状態にしているのも、寺院の門にはあまり見られませんが、武家の門ならば、似たような事例は全国各地に見られます。
こういう武家風の門建築は、門跡寺院の格式からいうと建物としては「格下」になります。聖護院がわざわざ好んで「格下」の門を本坊の出入口に建てるとも思えませんので、丹波亀山藩主松平紀伊守信道が光格天皇の警護にあたった際に仮皇居の聖護院に献上した諸建物のうちに含まれていた、とするほうが自然です。
この場合、「献上」という言葉をどう解釈するかが問題となります。建物の献上には二通りがあって、ひとつは現地での新築、もうひとつは他所からの移築、となります。
個人的には前者かな、と思いましたが、嫁さんは後者だと考えたようで、「この門、丹波亀山城から持ってきたものだとしたらですね、一回バラして、ここでまた組み立てたって事になりますよね、そういうの、形跡ていうか痕跡とか、残るものなんですか?」と訊いてきました。
「移築であれば、何らかの痕跡は残るね。解体修理をやればすぐに分かるだろうね」
「いまのこの状態では、外から見て、痕跡とかは分からないんですか?」
「分からないというより、移築した形跡が感じられないんやな・・・。ここで新築したんやないか、と思う」
「ああ、ここで新たに建てたわけですか・・・、皇室への献上ですから中古品は失礼ですよね、やっぱり新品の建物が相応しいですよね」
「そういうことやな」
「つまりは、紀伊守信道が献上して新たに造らせた建物である可能性がある、ってことですね。だからお城の武家ふうの門なわけですねー」
ですが、武家ふうの門といっても、この門のような二層の細長い門の建物は、あまり見た事がないように思いました。石垣にはさまれた櫓門に細長い多聞櫓がくっついているような姿です。
試みに、下層部分を石垣に置き換えてイメージしてみますと、上層部分はまさに城郭の多聞櫓の姿になります。窓の形も櫓のそれですし、梁の先端を軒下に突き出している点も櫓の建物には普通に見られる要素です。これらのことを、嫁さんに訊かれるままに、説明しました。
「じゃあ、この門は完全な武家の門なんですね。やっぱり、これも丹波亀山藩からの献上になるんですかね?」
「それについて、寺ではどのように説明していたの?」
「ええと、確か伝承だとか言ってましたね。確実なのは茶室だけで、これは献上のときの目録が残ってるらしいんです。一夜造御学問所のほうも伝承で、紀伊守信道が一夜で造って献上したとか何とか・・・。光格天皇が御学問所として使われたのでそういう名前があるんですけど。あと伝承では、仮皇居となった時期に丹波亀山藩が警護役を勤めてましたから、それの番所もあるとか、そんな風に言ってましたけど・・・」
「番所・・・」
その番所というのは、山門の西隣にある上図の建物じゃないのか、と建物に近寄って嫁さんに訊きました。「さあ、建物を直に紹介してもらって説明受けたわけじゃないので・・・」と首を傾げる嫁さんでしたが、私自身は、上図の建物が丹波亀山藩の警護兵が詰めていた番所であった可能性は否定出来ないかもしれない、と感じました。
何故ならば、その門内側、境内側の外観がまさに番所の監視小屋とそれに続く長屋ふうの詰所になっているからです。近年まで寺の拝観受付として使用されていたそうですが、受付用の大きな窓を追加して改造している他は、もとの状態をととめているようでした。詰所部分は築地塀に隠れて外からは見えませんが、かなり長い建物で、相当の人数を収容出来たものと思われます。
天台宗の三門跡のひとつ聖護院の山門の横に、こんな武家風の番所と詰所が建っている事自体に違和感があります。仮皇居の警護所であったのならば、むしろ当然の構えですが、この武家風の番所を聖護院が自前で造るわけがありませんから、造ったのは警護役を勤めた丹波亀山藩であろう、という推論に自然に落ち着きます。
ただ、推測ですので、史料なり文献記録なりの確実な証拠があればな、と思います。とりあえずは、可能性の問題にしかすぎませんが、ロマンがあって楽しいものでもあります。
するとこの山門も・・・?と思いつつ、くぐって退出しました。実に楽しい時間が過ごせました。
帰りに、嫁さんの希望で近くの上図の西尾八ツ橋別邸の「西尾八ツ橋の里」に立ち寄り、一休みして栗きんとんとお抹茶のセットをいただきました。
その向かいの上図のお店が西尾八ッ橋本店だと思っていたのですが、「これは違います。聖護院八ツ橋総本店です」と言われました。よく見れば、暖簾に聖護院八ツ橋とありました。
八ツ橋は京都を代表する和菓子の一種ですが、私自身は全然詳しくなく、食べたことも無いので、嫁さんに教えられるまで、八ツ橋のお店にも元祖、本家、分家等の関係があることを知りませんでした。
西尾八ツ橋本店はこちらでした。「西尾八ツ橋の里」の西側に位置していました。嫁さんはこちらへも寄って、モケジョ仲間へのお土産を色々購入していました。
かくして大徳寺真珠庵、聖護院を巡りを終え、その日の夕食後に出されたおやつの八ツ橋を、生まれて初めて食べたのでありました。 (了)