気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

聖護院4 聖護院門跡の長屋門

2024年12月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院の宸殿と書院の見学を終えて式台より外に出ました。出て、右手にある本坊の門を見ましたが、見た途端に足が止まりました。横の嫁さんも同じように立ち止まって「?」の表情を向けてきました。

 

 上図の、寺では寺務所として使用している建物でした。二層式の長屋門の形をしていましたが、その外観に奇妙な違和感と既視感とを同時に覚えたのでした。
 それで、ちょっといいかな、と嫁さんに断って、そちらへ近寄りました。

 

 正面観だけでは物足りないので、側面の妻部が見える位置まで歩いて確かめました。上図の通り、上層にのみ窓があり、そのすぐ下から風雨除けの羽目板が張られていました。

 羽目板は、正面では下層の窓の下だけに張られていて、そちらは横に張って桟で留める一般的な造りでしたが、妻部のそれは縦張りで二段になっていました。羽目板の張られた時期が異なるのではないか、と思いました。

 

 改めて正面観の全体を見ました。寺院内部の本坊への通用門にしては不釣り合いなほどに、立派過ぎる構えです。しかも寺院の門建築のそれではなくて、城郭の門の造りと雰囲気に通じる要素が濃厚でした。これは・・・、と思っていると、嫁さんが言いました。

「なんか、お城の門みたいな感じですねえ」
「あ、君もそう思うか」
「ええ・・・、やっぱり、あれの関係なのかなあ」
「え・・?やっばりって?あれの関係って・・・?」
「大学時代に、ここでゼミ課題のレポート書くために色々調べていた時に、お寺の御厚意でここの茶室と一夜造御学問所を見せていただいたんですけど・・・」
「茶室?一夜造御学問所?」
「ええ、書院の奥にあるんです、きょうは非公開でしたけど、そこは天明の大火で御所が焼けた時に光格天皇がここを仮皇居としてお住まいになったときに、紀伊守の信道という大名家が・・・」
「ちょっと待って、紀伊守て言うたか、それ、もしかして形原松平家かね?丹波亀山藩主の・・・」
「ああ、そうですそうです、丹波亀山藩主でしたね。その紀伊守信道が禁裏の警護にあたりまして、聖護院に仮住まいの光格天皇に茶室と一夜造御学問所を献上しまして、その建物を丹波亀山城から持ってきたというんです」
「なるほど、そういうことか」
「そうなんです。その時に、宸殿に繋がる建物、庫裏とかも整備したらしいんですけど、幾つかの建物を丹波亀山藩が献上したって聞きました」

 

 その「幾つかの建物」のなかにこの長屋門が含まれていた可能性はあるかもしれない、と思いました。正面観はどう見ても城郭の櫓門に近い形式で、上図の中央の通路の奥に扉がつく形式も、防御に有利な構えとしてのそれと思われます。

 

 そして通路の天井を御覧のように梁と貫がむき出しのままの質素かつ武骨な状態にしているのも、寺院の門にはあまり見られませんが、武家の門ならば、似たような事例は全国各地に見られます。

 こういう武家風の門建築は、門跡寺院の格式からいうと建物としては「格下」になります。聖護院がわざわざ好んで「格下」の門を本坊の出入口に建てるとも思えませんので、丹波亀山藩主松平紀伊守信道が光格天皇の警護にあたった際に仮皇居の聖護院に献上した諸建物のうちに含まれていた、とするほうが自然です。

 この場合、「献上」という言葉をどう解釈するかが問題となります。建物の献上には二通りがあって、ひとつは現地での新築、もうひとつは他所からの移築、となります。
 個人的には前者かな、と思いましたが、嫁さんは後者だと考えたようで、「この門、丹波亀山城から持ってきたものだとしたらですね、一回バラして、ここでまた組み立てたって事になりますよね、そういうの、形跡ていうか痕跡とか、残るものなんですか?」と訊いてきました。

「移築であれば、何らかの痕跡は残るね。解体修理をやればすぐに分かるだろうね」
「いまのこの状態では、外から見て、痕跡とかは分からないんですか?」
「分からないというより、移築した形跡が感じられないんやな・・・。ここで新築したんやないか、と思う」
「ああ、ここで新たに建てたわけですか・・・、皇室への献上ですから中古品は失礼ですよね、やっぱり新品の建物が相応しいですよね」
「そういうことやな」
「つまりは、紀伊守信道が献上して新たに造らせた建物である可能性がある、ってことですね。だからお城の武家ふうの門なわけですねー」

 

 ですが、武家ふうの門といっても、この門のような二層の細長い門の建物は、あまり見た事がないように思いました。石垣にはさまれた櫓門に細長い多聞櫓がくっついているような姿です。

 試みに、下層部分を石垣に置き換えてイメージしてみますと、上層部分はまさに城郭の多聞櫓の姿になります。窓の形も櫓のそれですし、梁の先端を軒下に突き出している点も櫓の建物には普通に見られる要素です。これらのことを、嫁さんに訊かれるままに、説明しました。

 

「じゃあ、この門は完全な武家の門なんですね。やっぱり、これも丹波亀山藩からの献上になるんですかね?」
「それについて、寺ではどのように説明していたの?」
「ええと、確か伝承だとか言ってましたね。確実なのは茶室だけで、これは献上のときの目録が残ってるらしいんです。一夜造御学問所のほうも伝承で、紀伊守信道が一夜で造って献上したとか何とか・・・。光格天皇が御学問所として使われたのでそういう名前があるんですけど。あと伝承では、仮皇居となった時期に丹波亀山藩が警護役を勤めてましたから、それの番所もあるとか、そんな風に言ってましたけど・・・」
「番所・・・」

 

 その番所というのは、山門の西隣にある上図の建物じゃないのか、と建物に近寄って嫁さんに訊きました。「さあ、建物を直に紹介してもらって説明受けたわけじゃないので・・・」と首を傾げる嫁さんでしたが、私自身は、上図の建物が丹波亀山藩の警護兵が詰めていた番所であった可能性は否定出来ないかもしれない、と感じました。

 

 何故ならば、その門内側、境内側の外観がまさに番所の監視小屋とそれに続く長屋ふうの詰所になっているからです。近年まで寺の拝観受付として使用されていたそうですが、受付用の大きな窓を追加して改造している他は、もとの状態をととめているようでした。詰所部分は築地塀に隠れて外からは見えませんが、かなり長い建物で、相当の人数を収容出来たものと思われます。

 天台宗の三門跡のひとつ聖護院の山門の横に、こんな武家風の番所と詰所が建っている事自体に違和感があります。仮皇居の警護所であったのならば、むしろ当然の構えですが、この武家風の番所を聖護院が自前で造るわけがありませんから、造ったのは警護役を勤めた丹波亀山藩であろう、という推論に自然に落ち着きます。

 ただ、推測ですので、史料なり文献記録なりの確実な証拠があればな、と思います。とりあえずは、可能性の問題にしかすぎませんが、ロマンがあって楽しいものでもあります。

 

 するとこの山門も・・・?と思いつつ、くぐって退出しました。実に楽しい時間が過ごせました。

 

 帰りに、嫁さんの希望で近くの上図の西尾八ツ橋別邸の「西尾八ツ橋の里」に立ち寄り、一休みして栗きんとんとお抹茶のセットをいただきました。

 

 その向かいの上図のお店が西尾八ッ橋本店だと思っていたのですが、「これは違います。聖護院八ツ橋総本店です」と言われました。よく見れば、暖簾に聖護院八ツ橋とありました。

 八ツ橋は京都を代表する和菓子の一種ですが、私自身は全然詳しくなく、食べたことも無いので、嫁さんに教えられるまで、八ツ橋のお店にも元祖、本家、分家等の関係があることを知りませんでした。

 

 西尾八ツ橋本店はこちらでした。「西尾八ツ橋の里」の西側に位置していました。嫁さんはこちらへも寄って、モケジョ仲間へのお土産を色々購入していました。

 かくして大徳寺真珠庵、聖護院を巡りを終え、その日の夕食後に出されたおやつの八ツ橋を、生まれて初めて食べたのでありました。  (了)

 

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聖護院3 聖護院門跡の書院

2024年12月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院の国重要文化財の書院に入りました。玄関口からの通廊に面した南側の縁側を見ました。上図のように奥に仕切り板戸があり、その手前で縁側が直角に曲がっています。軒が深いので縁側も余裕で張り出せる筈ですが、嫁さんによれば、女性用の書院建築の縁側はこの程度の幅が多いそうです。

 縁側は、本来はお付きの女官もしくは従者の控える場ですが、通常は内側の畳敷きの通廊に控える場合が多いそうなので、あまり使われない縁側に関しては必要最低限の規模で済ませている、ということだそうです。

 嫁さんの話では、こういった建物内部の空間の配置の意味を知っていると、源氏物語などの古典宮廷文学における登場人物たちの動きや立ち位置などが建物の内部でもより具体的に理解出来て楽しい、とのことでした。

 

 同じ位置から宸殿を見ました。同じ縁側でもあちらは幅が広くて柵や欄干も付けられます。日常的に通路空間および遊興に使われる空間であり、庭に降りる階段も付けられています。書院の最低限の縁側との対比が興味深いです。

 

 嫁さんが「ね、これ見て下さい、造りが凝ってますでしょ」と上図の戸板を指しました。

「これ、舞良戸(まいらど)だよな?」
「はい、舞良戸ですけど、武家や一般のとは違いますでしょ」
「うん、桟・・・舞良子(まいらこ)て言うんやったか、横じゃなくて縦になってるな」
「ええ、ええ、そうなんです。縦舞良戸(たてまいらこ)っていいます。舞良子も等間隔じゃなくって、端から3、1、4、1、3本を並べてありますでしょ、お洒落ですよね」
「この並べ方、なんか意味があるのかね?」
「並べ方は分かりませんけど、舞良子が横なのは男性、縦なのはだいたいは女性を表すんですよ。とくに平安時代は建物を外から見て、舞良戸を見るだけで誰の住居かが分かるようになっていたんです」
「なるほど・・・、この書院の場合は、妻の櫛笥隆子の住居であることが分かるように、後水尾天皇が造らせたってわけか」
「はい」

 

 続いて嫁さんが通廊の柱の上図の金具を指差して「これ、見て下さいよ」と言いました。

「釘隠し、だよね」
「ええ、そうですけど、何の意匠か分かります?」
「えっ・・・この形は初めてみたな・・・、家紋なの?」
「家紋じゃないんです。紙を畳んで二つ折にした形で「折れ文」ていうんです。公家がやり取りした恋文を意味します」
「恋文・・・、てことは、後水尾天皇から櫛笥隆子への恋文ってこと?」
「そうです。妻への愛情を建物の金具に表しているんですよ。素敵だと思いません?」
「後水尾天皇って、后妃が沢山いて奔放なイメージあるけど、さっきの縦舞良戸といい、この「折れ文」といい、女性への細やかな心配りとか結構やってるね」
「だから、もてたんですよ。もてたから奧さん何人も出来たんですよ。もてる男って、いつの時代も変わりませんよね」

 

 この通廊も畳敷き、両側の襖は白のみで清新、清潔の雰囲気にまとめてあって素敵、などと楽しそうに話す嫁さんでした。いずれ広い家を見つけて引っ越したら、襖は全部白にしましょう、と言いましたが、私としては家の事は全部嫁さんに任せていますので、頷き返しておきました。

 

 通廊の先には二つの部屋があり、手前が控えの間、奥が主室にあたりますが、その控えの間の柱の上図の釘隠しを嫁さんが指差して「これ、見て下さい、分かります?」と言いました。

「笹竜胆(ささりんどう)かね?」
「ええ、そうです、そうです。後水尾天皇が好まれたデザインだそうです」
「家紋じゃないんやな」
「天皇家は菊ですからね・・・。でもここは櫛笥隆子の住居なんで・・・」
「櫛笥藤原氏の家紋でもないんやな」
「公家の書院では基本的に家紋は付けなかったらしいですよ。五摂家でもあんまり付けなかったと聞きますし、だいいち公家の殆どはみんな藤原氏なんで、家紋もほぼ一緒なわけで、区別する必要もないし、武家みたいに家紋を誇示してテリトリーを明確にするっていう必要がありませんでしたし」
「なるほど」

 

 手前が控えの間、奥が主室にあたります。主室は主の櫛笥隆子の御座所にあたり、背後に違い棚と床の間を設けて格式を表しています。ですが、身分差を表す床の段が無く、控えの間と主室の床が同じ高さになっています。

 

 しかも控えの間にも西側に床の間と違い棚が設けられており、格式のうえでは主室とあまり変わらない造りになっています。こちらも上座として使用できる空間になっているようで、「梅之間」と名付けられています。

 この二つの部屋を繋ぐと上座が二つ存在することになりますが、そうすることで意図的に立場や身分の上下を曖昧にして、主従がお互いに気を遣わなくてもよいような、打ち解けた寛ぎの空間を演出しているのです、と嫁さんが説明してくれました。
 なるほど、と感心しました。天皇の側室の住居であれば、お付きの女官も相当の高位の人しか居ませんから、主と同じ典侍クラスになるわけです。身分差も官位の差もそんなに隔たりが無かったでしょうから、控えの間と主室がワンセットのような関係に設えられているのも頷けます。

 

 主室を見ました。「奧之間」とも呼ばれます。さきに見た宸殿の「上段之間」に次ぐ格式の部屋ですが、建具や調度が落ち着いた繊細な造りになっていて、女性らしい部屋の雰囲気がかもし出されています。

 嫁さんが「見どころは、あの右の出窓部分ですかねー」と上図右端の花頭窓(かとうまど)を指差しました。
「出窓部分て・・・、付書院(つけしょいん)だろ」
「あー、そうですそうです、付書院って言うんでしたね」
「あれ、花頭窓の上にも障子の明り取り窓が付いてるよな」
「ええ、珍しいみたいですよね。一般的には欄間が付きますもんね。あれも後水尾天皇の心配りのデザインかも」
「それが見どころ?」
「いえ、見どころはですね、花頭窓の障子がガラスなんですよ。江戸時代のガラス・・・」
「ほう、輸入品かね?」
「だと思いますねえ、窓ガラスなんて当時の日本で生産してないでしょうから、長崎出島あたりから・・・ね」
「オランダか。それにしてもよく調達出来たもんやな。これも後水尾天皇の御配慮かな」
「でしょうね」

 

 その付書院の外側を縁側より見ました。花頭窓の外側の障子の中央にガラスが入っているのが分かります。嫁さんによれば、左側のガラスは明治期に割れてしまい、当時のガラスに交換されているとのことです。
 そして、花頭窓の上の障子部分の外側が跳ね上げ戸になっているのが分かりました。主室内部をより明るくするための仕掛けですが、あまり類例を見ない方式です。

 嫁さんが「ここの書院はいつ見ても面白いですけど、今回はさらに知識が増えて面白かったですね」と言いました。
 さきに大徳寺真珠庵で見た書院の通僊院(つうせんいん)ももとは京都御所の女御(にょうご)の化粧御殿であったといいますから、この日は安土桃山期と江戸初期の后妃の住居建築を続けて見学出来たことになります。

 嫁さんが大徳寺真珠庵の次に聖護院を選んだのも、京都にさえ数棟しか現存しない后妃の住居建築のうちの二棟を同じ日に見る、という意図があったからだそうです。私としてはいずれも初の見学でしたが、安土桃山期と江戸初期の建築遺構を順に見た事で時期ごとの違い、建物の特色や様相が大変によく理解出来ました。いい学びの機会を与えてくれた嫁さんに感謝、です。

 ですが、聖護院の面白さは、まだまだ終わらなかったのでした。  (続く)

 

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聖護院2 聖護院門跡の宸殿から書院へ

2024年12月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院宸殿の対面所は、武家の御殿建築の対面所と比べると、広さにおいてはあまり変わりませんが、明るさにおいては暗めで、室内装飾については控えめに造られているように思います。

 例えば、明るさについては、上図右側の障壁を開ければ外の光が入りますが、対面の儀では上段之間の主上を御簾と暗がりのなかに包むために閉め切るのが普通だそうで、昼間でも暗くなりますから、燭台も用意して火をともすということです。

 武家の場合は、外側の障壁の半分を障子戸にしていますから閉めていても外の光を淡く取り入れて室内もそれなりに明るくなります。室内装飾も、武家の御殿のほうは釘隠や打金具の量が多く、家紋入りの金具も目立つように配置し、さらに障壁画の背景に金泥を塗るケースも多いですから、例えば二条城二の丸御殿のように金色の装飾がとにかく目立ちます。

 そういう、公家と武家の御殿対面所の差がよく分かる、聖護院宸殿の事例でした。京都広しと言えども、そういう学びが出来る場所はここ聖護院宸殿しかありませんから、嫁さんも昔は何度も通って公家の御殿建築の特色を細かく観察し研究していたのだそうです。

 

 順路にしたがって宸殿の東に建つ本堂へ行きました。上図は本堂の前から宸殿をみたところです。

 嫁さんが「やっぱりそのへんのお寺の本堂とか方丈とかとは、建物の造りや雰囲気がまったく違いますよねー、御所の紫宸殿をモデルにして縮小したタイプやとよく言われてますけど、ほんまにそうですねえ」と話していましたが、同感でした。なにしろ皇族が住持を勤め、一時期は実際に仮の皇居として使用されていたのですから、建物もそれなりの規模と格式で設計されて建てられたのでしょう。

 

 本堂は、宸殿と同時期の建物がありましたが、昭和四十三年(1968)に建替えてコンクリート造の建物になっています。創建以来の平安期の国重要文化財の本尊不動明王像を安置しているので、その保護の目的も兼ねて本質的には耐震耐火の文化財収蔵庫として造られ、外見のみを旧本堂のそれにあわせています。

 なので、写真は撮らず、内陣の安置像を拝するにとどめました。本尊不動明王像は典型的な天台宗系の十九観の姿にて表されています。嫁さんに問われるままに、十九観について簡単に説明しました。

 十九観(じゅうきゅうかん)とは、正式には「不動十九観」といい、不動明王を心にイメージした際の姿形においてみられる十九の特徴、を指します。空海が請来したものを始め、幾つかの典拠がありますが、それらを天台宗の安然(あんねん)が集約して「不動十九相観」というテキストにまとめました。
 そのテキストを手本として、平安期から鎌倉期にかけて数多くの画像や彫像が造られました。時期によって色々な変化や特徴がありますので、それらと本来の十九観を識別する専門用語として、私自身は「安然様」の語句を用いています。そして聖護院の本尊不動明王像は、その「安然様」の典型例であります。

 本堂を辞して、上図の宸殿の東側面を見ました。さきに見学した対面所の外回りにあたります。一番右の「上段之間」の部分のみが床が高く上げられているため、それに応じて外構えの貫や扉も一段高くなっているのが分かります。

 

 宸殿の北東に隣接する、国重要文化財の書院です。拝観順路はそちらへ回りますが、書院の全景を撮るならここしかないので、撮影しておきました。左隣の宸殿に比べて背が低く、建物の造りや雰囲気も異なります。

 

 京都御所でいえば化粧御殿とか妃御常御殿にあたる建物だ、と嫁さんが教えてくれました。なるほど女性専用の御殿か、道理で優しく雅な数寄屋風の外観にまとまっているな、と思いました。

 

 本堂から引き返して宸殿の東縁を進みました。まっすぐ行って書院の前室へと向かいましたが・・・。

 

 途中の宸殿の「二之間」の襖と板戸が開け放たれていたので、そこから上図のように「上段之間」を間近に見る事が出来ました。

 

 ここに光格天皇や孝明天皇がお出ましになられていたのですか・・・。京都御所の同じ「上段之間」は特別公開の時期でさえ見られませんから、ここの遺構はとても参考になります。

 

 同じ位置から、「二之間」および「三之間」の内部も見えました。狩野益信の障壁画は、南からみるよりも東から見た方が、障壁画全体の構図やデザインがよく見渡せます。

 

 それから、書院へと向かいました。

 

 宸殿の東縁の北端の仕切り板戸を外して書院玄関口への渡り廊下が付けられています。書院の建物は江戸初期の建立といい、これを江戸中期にいまの宸殿を新造した際に京都御所より移築して、宸殿と連接させたといいます。

 

 書院の案内説明板です。要約すれば、後水尾天皇の典侍(ないしのすけ)であった逢春門院こと藤原氏の櫛笥(くしげ)隆子の御所での住居であった建物であるそうです。

 典侍とは、古代の律令制における女性の官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)が相当して史料上では「すけ」の略称で記されることが多いようです。本来、その上役に長官の尚侍(ないしのかみ)が有りましたが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に内侍司(後宮)の長官となりました。

 江戸期においては宮中における高級女官の最上位であり、その統括者を大典侍と称し、勾当内侍(こうとうのないし)と並んで御所御常御殿の事務諸事一切を掌握しました。また、天皇の日常生活における秘書的役割を務める者(お清の女官)と、天皇の寵愛を受け皇子女を生む役割を持つ者とに分かれ、前述の櫛笥隆子は後者にあたりました。つまりは側室であったわけです。

 後水尾天皇といえば、后妃が多かったことでも知られます。正妻にあたる中宮は東福門院こと徳川和子ですが、側室は6人居て、そのうちの5人までが典侍でした。前述の櫛笥隆子は年次順でいうと三番目ですが、最も多い五男四女をもうけており、後水尾天皇の寵愛がとくに深かったことが伺えます。


 その櫛笥隆子の住居が聖護院に移築されたのは、当時の住持であった第三十五世門跡の道寛法親王が後水尾天皇の第十三皇子で、櫛笥隆子がその母親であった関係によったものとされています。

 おかげで江戸期の後宮関連の書院建築の唯一の貴重な遺構がいまに伝わることになったわけです。京都御所に現存する御常御殿以下の諸建築群が安政二年(1855)の建立なので、それよりは200年以上も古い17世紀初め頃の建築遺構とされています。
 そしてこの書院が、嫁さんの一番好きな宮廷建築遺構であるそうです。  (続く) 

 

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聖護院1 聖護院門跡の宸殿へ

2024年12月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺真珠庵を辞して市バス206系統に乗り、東大路の熊野神社前で降りて、コンビニの北の交差点から東へ進み、少し行ったところの左手に、上図の大きな看板が立てられていました。

 ここですよ、と嫁さんに示されて、思わず「聖護院門跡・・・」と声に出してしまいました。

 

「そうです、全国の山伏さんたちの総本山、本山修験宗の聖護院門跡ですよー」
「うん・・・」
「で、こちらが正面玄関口にあたります山門です」
「うん・・・、なかなか立派やね・・・」
「あれ?・・・もしかして、ここは初めてだったりするんですか?」
「うん、初めてです。名前は知ってたけど、修験道の本山というから、もうすこし質素な構えかと思ってた」
「あははは、質素ではないですね、御覧の通りの立派な構えでございますよー」

 

 嫁さんの言う通り、上図左に庫裏の破風付きの大きな式台が格の高さを示し、右には仕切り塀の開かれた通用口の奥の雅な建物が姿を覗かせていて、相当の規模の寺院建築群であることを思わせました。これは・・・、と目を見張りつつ、門跡寺院であることを思い出して、傍らの嫁さんに小声で聞きました。

「門跡ってことは、こちらの歴代の住持は皇族やったわけかね?」
「ええ、そうです、昔はね。住持を勤めた皇族の方が即位された例もありますし、京都御所が焼けた時にこちらが仮の御所となって、天皇がお住まいになった時期が、確か二度ありましたしね」
「ふーん、それはいつ頃?」
「一度目は天明の大火の時だったかな、光格天皇がここの宸殿に入って仮御所としてます。二度目は、えっとー、安政元年の内裏炎上で、孝明天皇がこちらに移って仮宮としてますね」
「住持を勤めた皇族の方が即位した、いうのは誰?」
「あ、それはさっき言った光格天皇ですよ、そのときは同母弟の盈仁法親王が門跡を継承されてますね」
「ふーん、詳しいですな、流石やな」
「エヘヘヘ」

 

 二度も仮御所となったのであれば、上図のような堂々たる宸殿建築が広い前庭をともなって境内地の中心に据えられているのも頷けます。現在の宸殿は江戸期半ばの建立とされ、光格天皇や孝明天皇が仮御所とした際の建物がいまに伝わっています。その由緒により、昭和十一年に「聖護院旧仮皇居」として史蹟に指定されています。

 

 旧皇居の建築遺構は、いまの日本に現存する限りでは、ここ聖護院のほか、奈良吉野の南朝の吉水院および賀名生(あのう)堀家ぐらいですが、その奈良の旧皇居の遺構は規模が小さいため、ここ聖護院の宸殿と書院は京都御所の建築群に次ぐ規模と遺構を伝える唯一の存在と言えます。

 つまり、ここ聖護院の中心建築群は、京都においても旧皇居の建物とその内部を間近に見られる唯一の事例であるわけです。いま国の重要文化財に指定されているのは書院のみですが、宸殿も江戸期の遺構を伝えて貴重なものです。

 

 私自身は、仏教美術史が専門で専攻は仏像彫刻史でしたから、昔から聖護院と聞けば本尊の平安期の不動明王立像を思い出すのが常でした。天台宗系の典型的な十九観不動明王像の優品として国の重要文化財に指定される有名かつ重要な遺品です。12世紀、藤原時代後期の優品です。

 その姿を初めて拝したのは、昭和60年に京都国立博物館にて開催された特別展「最澄と天台の名宝」においてでした。天台宗の三門跡のひとつにも数えられた聖護院の本尊ですから、こうした天台宗美術の展覧会には必ずと言ってよいほど出品されていて、私自身も憶えている限りでは三回観ており、また京都国立博物館に寄託されて常設展示にも出ていた時期がありましたから、いわゆる「よく見かける」仏像遺品のひとつでありました。

 そういう経緯があって本尊の不動明王立像をよく見知っていたため、聖護院へ出かけていく必要が無く、そのまま今回の機会に至ったわけなので、私なら当然行っているだろうと思っていた嫁さんが驚いてしまった次第でした。

 それで、上図の式台から入って拝観手続きを行なった後は、嫁さんが案内役となって色々説明しつつ拝観順路をたどりました。大学時代に宮廷文化を学び源氏物語などの王朝文学史を中心に研究し、京都御所へ何度も見学に行っているほか、ここ聖護院にも10回ぐらいは勉強しに行った、という嫁さんです。最高の案内役でありました。

 

 式台からは控えの間の「孔雀之間」を通り、狩野永納の障壁画を見、聖護院門跡使用の二種類の輿を見ました。それから次の間の「太公望之間」の狩野永納の障壁画を見て、庫裏と宸殿の連接部にあたる「波之間」を経て上図の宸殿の広縁に進みました。

 

 宸殿の正面にあたる南側の広縁です。宸殿内部は西の内陣と東の対面所とに分かれますので、南側の戸口の柱間などがそれぞれ異なります。上図手前の広い戸口部分が内陣、奥の狭い三間ぶんの戸口が対面所にあたります。

 今回、内陣は儀式の最中で閉じられていましたので、対面所のほうへ行きました。

 

 広縁より対面所の内部を見ました。南から三之間、二之間、上段之間と並ぶ縦三室の空間で、上図は三之間より二之間、上段之間を望む範囲にあたります。この三つの空間がそのまま身分による席順をも表しており、皇族以外の侍僧、臣下は二之間までしか入れなかったそうです。
 
 嫁さんが二之間の畳を指差して「畳の方向が中央だけ違うの、分かります?」と訊いてきました。頷き返しつつ「畳を南北に敷いてるな、あれ通路のしるしだな」と答えました。

「やっぱり、分かるんですねえ」
「武家の書院の対面所でも同じ畳の敷き方をしてるからな。畳の目を南北に向けて敷いたら、だいたいは通路。両側の畳は東西に目を向けるから、そこは侍臣が並ぶ位置になる。上段之間に主君が居て、例えば「近う寄れ」と言えば、言われた家臣は中央の畳を通って上段之間のすぐ近くまで行って平伏して「ははーっ」となる」
「あははは、そうですねえ。公家のほうは無言で頭を下げるだけですけどね」
「せやな」

 

 こちらは三之間の西側です。全ての畳が目を東西に向けて敷かれていますので、この空間は侍者が並んで控える場所であることが分かります。対面の儀の際に、お目見えする人はこの部屋の下手に座し、お声がかかれば二之間の手前まで進む事が出来た、ということです。

 

  こちらは三之間の東側です。障壁画は狩野益信の筆で、東西に九人の仙人を配して描いているので「九老之間」とも呼ばれます。この九人の仙人の詳細は嫁さんも知らなかったようで、「竹林の七賢とか、道教の八仙とは別なんでしょうねえ、九人居ますもんねえ」と言いました。それで教えてあげました。

「たぶん、香山九老(こうざんきゅうろう)の九人やないかな」
「え、香山九老?」
「うん、中国や朝鮮も含めて宮廷の障壁画に好んで採られてた画題のひとつや。確か、唐の詩人の白楽天とか、当時の世俗と断ち功利を捨てて、高齢となって悠々自適の生活を送ってた九人の聖人が、香山という場に集まって風雅清談を事とした、とかいう故事を絵にしたの」
「白楽天って白居易ですよね、あとの八人は?」
「残念ながら、覚えとるのは劉嘉(りゅうか)、虞真(ぐしん)、張渾(ちょうき)の三人だけ。あとは忘れたよ」
「その香山九老の壁画って、他にもあるんですか」
「知ってる限りでは円山応挙の作品がある。あと、渡辺崋山も描いてなかったかなあ・・・」
「メモしときますね」

 

 上段之間を見ました。歴代の聖護院の宮家が座し、一時は光格天皇や孝明天皇の御座所となった、対面所の最上部の空間です。御簾は上げられた状態になっていますが、主が御成りになる時には下げられて、臣下が直接尊顔を伺えないようにします。
 背後の床の間の壁画は、皇族の権威をあらわす「滝と松」を描いています。上の筬欄間(おさらんま)に懸けられた「研覃(けんたん)」の扁額は後水尾天皇の筆であるそうです。

 「研覃」の「覃」は農業用の鍬や鋤のことで、「研覃」の意味は「良い農具で耕された田畑のように、多様な機縁を受け入れられる柔軟な心」です。  (続く)

 

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紫野大徳寺28 真珠庵 下

2024年12月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 真珠庵の方丈を見学しました。方丈内部は四列に前室と奥室を並べた八室に分けられ、唐門から玄関廊を進んで入る南西の一室は客間(礼の間)にあたります。室内には達磨の掛け軸が据えられ、襖絵の「山水図」は曾我蛇足(そがじゃそく)の筆です。曾我蛇足は一休宗純に禅を師事し、同時に一休が蛇足に画を師事したという相互師弟の関係にあったことで知られます。

 その隣りの縦二室は、方丈の中心空間とされる室中の間で、奥室は仏間となっていて開祖一休宗純の頂相(ちんそう)が祀られています。頂相とは、師匠の肖像画もしくは彫像で、一休宗純のそれは木像となっています。

 嫁さんが双眼鏡も使ってしばらく見ていて「頭髪とか髭とかありますけど、あれ本物なのかなあ、一休さんって禅僧なのに剃髪していなかったですもんねー」と小声で言いました。それで私も双眼鏡で見ましたが、違うな、と感じて「あの頭髪は本物じゃないみたいやな、獣の毛を代用して使ってるみたいやな」と返しました。嫁さんは「そうなの?酬恩庵の彫像のほうは毛が本物やったと聞いたから、こちらもそうなのかと思いましたけど・・・」と言いました。

 嫁さんの言う通り、一休宗純の彫像はほかに京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん)にも安置されていて、そちらは頭髪や髭に一休本人の遺髪を使用したことが知られています。一休宗純が草庵を結んだ地であり、墓所の宗純王廟もありますから、遺髪が御影にあたる彫像に使用されるのも当然です。
 しかし、こちらの真珠庵の彫像は単なる開基の像として造られたようで、酬恩庵像とは似ているものの、やや若い雰囲気に表されています。一休宗純が大徳寺住持を勤めた頃の姿を示しているのでしょうか。

 

 仏間の前室には、掛け軸が三つ懸けられています。その中央が遺偈(ゆいげ)で、左右は「諸悪莫作」「衆善奉行」の偈(げ)です。いずれも一休宗純の直筆とされています。

 遺偈は僧侶が死に際して読む詩で、ここの遺偈は「須弥南畔 誰会我禅 虚堂来也 不値半銭」とあります。現代文に訳せば「須弥山の南のほとりまでやってきたが、誰も私の禅風を理解できなかった。虚堂がやってきたとしても、その価値は半銭にも及ばない」という内容です。

 虚堂とは南宋の禅僧であった虚堂智愚(きどうちぐ)で、一休宗純が尊敬し理想と崇めた人物ですが、その虚堂がやってきたとしても私の禅を理解できないだろう、と言い切るあたりに、破戒僧として知られた一休宗純の面目が感じられます。
 似たようなスタンスは左右の偈「諸悪莫作」「衆善奉行」にも感じられます。これは中国古代の詩人白居易(はくきょい)が鳥窠道林(ちょうかどうりん)に仏教の奥義を問いかけて得た解答で、意味は「悪いことをするな、善いことをせよ」となります。単純であるからといって誰でもできるとはかぎらない、ということを示唆する言葉ですが、生前は数々の無茶をやらかした破戒僧の一休宗純が言うと「お前が言うんかい」と反駁されそうです。

 でも、一休宗純がこれを偈(げ)としてしたためたのは、世間に対する彼一流の反語というか、皮肉であったように思います。なにしろ、親交のあった本願寺門主の蓮如(れんにょ)の留守中に居室に勝手に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をして、帰宅した蓮如に「俺の商売道具に何をする」と言わしめて二人で大笑いしたというような、破天荒な型破りの禅僧であったのですから。

 嫁さんも、そういう一休宗純のことを「そういう、茶目っ気のある、世に囚われない生き様っていうのが周りに親しまれたんでしょうし、女性にもモテたでしょうね」と評価していましたが、実際に女性にはかなりモテたようで、禅宗では禁じられている恋愛沙汰は数知れず、妻子もちゃんと居たわけです。
 それでいて、大徳寺でも怒られないし罰せられないし、師の華叟宗曇(かそうそうどん)も笑って許してしまうのですから、これはもう特別扱いされているな、出自が後小松天皇の落胤つまりは皇族だったと伝えられるのも本当なんだろうな、と思ってしまいます。

 

 方丈を一通り見て北へ回り、上図の庭を見ました。嫁さんが「なんかごちゃごちゃしてて、よく分かりませんね」と素っ気なく評していました。

 

 方丈の北側の縁側へ回ると、縁側の端で再び方丈の内部に導かれますが、嫁さんは「それよりは、あっちへ」と北を指差しました。

 

 嫁さんが指差した先には、書院の通僊院(つうせんいん)が見えました。この建物も内部の撮影が禁止されていましたので、外観だけを撮りました。
 屋根の造りが公家風の雅なラインにまとまっていますが、それもそのはず、正親町(おおぎまち)天皇の女御の化粧殿を移築したものと伝わります。つまりはもと京都御所にあった建物です。

 

 通僊院の南縁に進み、その西側の納戸の間に入る直前にその前庭を撮りました。前庭に細長く立つ手水石と井戸があり、その脇の通廊が方丈との連絡空間にあたります。

 

 書院内部は四室に分けられ、その南東の部屋に嫁さんの主目的である源氏物語図屏風が展示されていました。今回の真珠庵特別公開の目玉でしたから、その部屋にのみ、見学客が詰めかけていて、縁側にも立ち並んでいたので、私はそこを通るのを諦め、隣の部屋から反対周りに回って、屏風を遠くからチラ見したにとどまりました。

 嫁さんはいつの間にか見学客の一番前に陣取って座って背をかがめつつ、数分ほど屏風に見入っていました。それをしばらく見守った後、北側に出て上図の広縁と北庭を撮りました。広縁西端の板戸の向こうに見える建物は庫裏です。

 この書院通僊院に関しては、係員の説明でも詳しいことが示されず、建立年代に関しても「正親町(おおぎまち)天皇の治世」と大雑把に述べられたのみでした。

 正親町(おおぎまち)天皇の治世、とは具体的には弘治三年(1557)11月から天正十四年(1586)11月までの時期を指します。戦国末期から安土桃山期にあたり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが活躍した時期です。
 その頃に建てられた女御の化粧殿であったわけですから、本来は京都御所の後宮に位置した建物であったということになります。戦国末期から安土桃山期にかけての旧御所建築というのは、現在でも遺構が稀ですから、ここ真珠庵の書院通僊院は室町後期の貴重な建築遺構であると分かります。方丈と共に国の重要文化財に指定されているのも当然だな、と納得しました。

 問題は、いつ真珠庵に移されたかですが、これについては係員の説明では「不明です」と一言で括られていました。嫁さんが「庫裏の建物が慶長十四年(1609)やったですよね、将軍は徳川秀忠ですよね、その頃に庫裏を建てたんなら、真珠庵の整備が江戸初期に行なわれたということですよね、そのときに御所の女御の化粧殿を貰い受けて移築したんじゃないですかね」と推測していましたが、その可能性はあるかもしれません。

 通僊院の北東隅には茶室の庭玉軒(ていぎょくけん)が連接していますが、そちらは外観も含めて撮影禁止でしたので、見学のみで終わりました。

 

 見学を終えて山門を出た際に、嫁さんが「面白かったですねー」と言いました。私は初の拝観でしたから面白くて興味深い学びが色々とありましたから、そのことを言ったら、「じゃあ、次にもっと面白い所へ行きますねー」と言われました。

「えっ?今日はここ真珠庵だけじゃないの?」
「まだ時間ありますし、もう一ヶ所行ってもいいですか?・・・ダメですか?」
「いや、ダメってことはないよ・・・」
「やったー、じゃあ、行きますよー」

 そうして大徳寺中心伽藍の横を元気に早足で抜けていく嫁さんを、慌てて追いかけたのでした。  (続く)

 

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紫野大徳寺27 真珠庵 上

2024年12月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年10月20日、大徳寺の塔頭のひとつ真珠庵へ行きました。その久しぶりの特別公開にて源氏物語図屏風が初公開されると聞いた源氏物語ファンの嫁さんが「これ、絶対に行きますよ、ね?」と言い出したからでした。

 

 地下鉄と市バスを乗り継いで大徳寺に行き、本坊の北に境内地を構える真珠庵へまっすぐに向かいました。上図はその山門です。江戸期の建物で、おそらくは寛永十五年(1638)の方丈造営の際に併せて建てられたものかと思われますが、寺の案内文にはまったく記載が見当たらず、文化財指定も受けていません。

 

 真珠庵の表札を見ました。嫁さんは真珠庵には同志社大学在学中に一度行った事があるそうですが、私自身は初めてでしたので、今回の拝観はとても楽しみでした。

 

 山門をくぐると石畳道が通用門をへて方丈の玄関唐門までまっすぐに続くのが見え、その左手には松の木が並んでいました。

 

 松並木の奥には上図の庫裏がありました。杮葺の優雅な建物で、江戸初期の慶長十四年(1609)の建立とされています。書院である通僊院(つうせんいん)もほぼ同時期の建物であるらしいので、庫裏と書院とが相次いで整備された時期があったものと推定されます。

 

 嫁さんが「真珠庵はですね、庭がけっこうあるんですけど、こちらの山門からの参道筋のところの前庭がもっとも綺麗に整ってていい雰囲気なんですよね」と嬉しそうに言いました。

 それで「真珠庵は、大徳寺の塔頭のなかでお気に入り?」と訊いたら、「うーん、お気に入りと言うよりは、一休さんのお寺だったですからね、アニメの一休さんのイメージも浮かんできて親しみがある、って感じですかねー」と笑っていました。

 その通り、ここ真珠庵は、室町期に大徳寺を復興して文明六年(1474)に後土御門天皇の勅命により大徳寺第四十八世住持を勤めた一休宗純(いっきゅうそうじゅん)を開祖として創建された塔頭です。周知のように、一休宗純は大徳寺住持となっても大徳寺には住まず、寺外に仮の住房を設けて半ば隠遁の生活をしていたと伝わりますが、その仮の住房がいまの真珠庵のルーツであったかと思われます。

 

 本堂にあたる方丈の玄関である上図の唐門が、今回の特別公開の受付でした。拝観手続きを行ない、係員に見学順路の説明を受けた後、玄関廊から方丈に進みました。

 

 今回の特別公開期間中においては、真珠庵の建物は内部のみ撮影禁止、外観や庭園だけは撮影OK、ということでしたので、とりあえず唐門の外から見える、上図の方丈の入母屋造、檜皮葺の屋根の綺麗な曲線と破風の格子を撮っておきました。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺8 醍醐寺の不動堂と金堂

2024年12月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 旧伝法院跡の廃墟の横から北西に続く道をたどると、上図の建物の前を横切る。天暦三年(949)に朱雀天皇が発願し建立した法華三昧堂の位置で、その建物は享徳十九年(1470)に焼失している。
 その跡地に、真如苑(しんにょえん)の開祖伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰するために醍醐寺が平成九年(1997)に建立したのが現在の建物で、真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)と呼ばれる。内陣には金色の涅槃像が祀られる。

 真如苑とは、真言宗醍醐派の一派で、旧称を真言宗醍醐派立川不動尊教会という。本拠地の立川真澄寺(しんちょうじ)のことはよく知らないが、その運営する仏教美術品収蔵施設の「半蔵門ミュージアム」には一度行ったことがある。国重要文化財の運慶作の大日如来坐像が展示されているからである。

 この大日如来像は、もと足利氏の菩提寺であった栃木県の樺崎寺(かばさきでら)下御堂の本尊であったものが廃仏毀釈の際に行方不明となり、平成二十年(2008)にいきなりニューヨークのクリスティーズのオークションで競売にかけられて大騒ぎとなり、国外流出が懸念されたものの、真如苑が落札して事無きを得た、という経緯をもつ。当時は新聞やテレビでそのニュースが流されていたから、私もよく覚えているが、いずれにせよ運慶作という国宝級の文化財が海外へ売り飛ばされるという最悪の事態を回避出来たのは幸いである。

 それで、真如苑が「救出」した大日如来像を、「半蔵門ミュージアム」にて初めて拝見したのだが、見た瞬間に「おお運慶だ・・・」と感動したのをいまも忘れない。

 

 真如三昧耶堂の西隣には、上図の不動堂がある。醍醐寺における立ち位置は不明だが、由緒は平安期までは遡らず、中世以降に設けられた施設であるもののようである。

 不動堂は、真言密教の重要な堂宇の一つであるので、たいていの真言宗寺院には見られるが、その安置像である不動明王像への信仰は、平安期においては真言宗よりも天台宗のほうが熱心であった歴史がある。それで平安期までの不動明王の彫刻や絵画の優品は殆ど天台宗寺院に伝わっている。延暦寺、園城寺などの遺品がよく知られる。

 

 不動堂の前庭には円形の石造護摩壇、および前立ての不動明王石像が置かれる。堂前で柴燈護摩(さいとうごま)が焚かれる際の儀場にあたる。真言宗当山派の柴燈護摩は、醍醐寺の開山である聖宝理源大師が初めて行ったとされ、その由緒と伝統を受け継いで、醍醐寺をはじめとする真言宗の当山派修験道系列の寺院でいまも行われる。

 醍醐寺での柴燈護摩自体は、もとは醍醐山上の上伽藍で行われたとされるが、現在の上伽藍にその跡はとどめられていないと聞く。聖宝が鎮護国家の祈願道場として延喜十三年(913)に創建した五大堂あたりがその跡地ではないかと個人的には思うのだが、堂宇も変転を重ねているため、詳細がよく分からない。いずれ調べてみたい部分のひとつである。

 

 不動堂の西には下伽藍の中軸線があり、その中心に上図の金堂が、下伽藍の中枢として建つ。いま日本に10棟しか現存しない平安期仏堂の一として、国宝に指定される。

 

 平安期の仏堂建築は、京都府下では5棟、京都市内に限れば4棟しか無い。この醍醐寺金堂はそのうちの1棟であるから大変に重要かつ貴重な建築遺構であるが、もと奈良県民で飛鳥期以来の古代の建築を見慣れた目には、中世期鎌倉ごろの建物に見えてしまう。

 それもそのはず、この建物は醍醐寺本来の建物ではなく、もとは紀州の湯浅満願寺金堂であったのを豊臣秀吉が移築、豊臣秀頼が竣工させて現在に至る。建立時期こそ平安後期に遡るが、鎌倉期に改修を受け、さらに安土桃山期に現在地に移築した際にも屋根を改造して近世風の立ちの高い形式に変えている。

 それで大学時代の昭和61年に初めて訪れた時、この金堂を見て時期を「あれは平安にしてはなんか違う・・・、鎌倉?室町?もしかして桃山?」と迷いながら推測したのを覚えている。

 

 なぜ推測を迷ったかというと、建物の組物の形式が正面と側面とで異なるからである。正面のは鎌倉期の改修による出三斗、側面と背面のは平安期の平三斗のまま、という珍しい混合形式で他に類例を見ない。さらに屋根は近世風で、移築が完了した慶長五年(1600)の様相をよく示す。

 それで、正面観をパッとみれば、組物は中世風、屋根は近世風に見えるから、本当に平安期の仏堂建築なのか、と思ってしまったわけである。

 醍醐寺下伽藍の創設時の金堂は、延長四年(926)の建立で、当初は「釈迦堂」と呼ばれた。永仁年間(1293~1299)に焼失し、再建した建物も文明年間(1469~1487)に大内氏の軍勢に焼かれて失われている。

 

 それで当時の醍醐寺座主であった義演准后が金堂の再建を成すべく候補を探していた折、豊臣秀吉が紀州征伐の際に湯浅の国人白樫氏の勢力圏を殲滅すべく、本拠地の満願寺城と満願寺を焼き討ちする流れとなり、これを高野山真言宗の木食応其(もくじきおうご)上人が調停して焼き討ちを回避、交換条件として満願寺の建築物を秀吉に差し出すこととなった経緯がある。
 秀吉は貰い受けた満願寺本堂の建物を、義演准后の依頼により、後の慶長三年(1598)の「醍醐の花見」に際して醍醐寺へ移築すべく発願したが、その完成を見ることなく没し、秀頼が引き継いで慶長五年(1600)に移築を完了した。その時点での建物がいまに伝わるわけである。数奇な運命を辿った建築物の一例である。

 この建物がもと在った紀州湯浅の満願寺へは、平成の始め頃に和歌山の友人との紀州雑賀一揆の史跡巡りの際に一度立ち寄ったことがある。現在はJR紀勢線湯浅駅の南に小さな境内地を構えており、その背後の低丘陵が満願寺城跡だったが、そこも大した規模ではなかったようで、醍醐寺金堂が本当にそこにあったのか、と疑問すら感じた事を思い出す。

 

 内陣の薬師如来坐像(国重要文化財)および日光菩薩、月光菩薩の両脇侍、および四天王像を拝して一礼し、しばらく眺めた後に金堂を後にした。

 

 仁王門を出て回れ右をし、門の両脇に侍立する阿吽の金剛力士像にも一礼した。久しぶりの下伽藍拝観はこれで終いとはなったが、しかし醍醐寺の歴史上の始原は醍醐山上の上伽藍に在る。かつて車で裏山から登って三度ほど参っただけなので、正規の参詣のかたちである下伽藍からの山道を一度は辿らねばなるまい。

 その機会を、来年の桜の咲く頃までには見つけておこう、と思いつつ帰路についた。「醍醐の桜」の時期にこそ、上伽藍の悠久の歴史が鮮やかに感じられるだろう、と考えたからである。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺7 醍醐寺の祖師堂と観音堂

2024年11月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 五重塔を見た後、下伽藍の東側に進む参道をたどり、並ぶ諸施設を順に見た。最初は上図の祖師堂に近寄った。

 

 祖師堂は、奈良仏教系の寺院でいう開山堂にあたり、寺を創建した開基または開山、宗祖や中興の師などを祀る。開基と開山はよく混同されているが、私自身の基本的理解としては、開基は寺院の建立者、開山は寺院の初代住職、と捉える。両方を同一人物が兼ねるケースも見られるが、京都や奈良の古寺においては稀である。

 ここ醍醐寺の祖師堂においては、内陣の向かって右に弘法大師空海、左に理源大師聖宝を祀る。空海は真言宗の宗祖、聖宝は醍醐寺初代住職(座主)であるので、宗祖と開山が祀られていることが分かる。
 ちなみに建物は江戸初期の慶長十年(1605)の建立で、発願者は第46代座主の義演准后であるので、真言宗醍醐派の祖と先師の顕彰の意味で建てられた施設であろう。

 

 祖師堂の前より東に進むと、上図の門が見えてきた。

 

 寺では日月門と称しているが、その位置は元々は下伽藍域の東辺にあたるらしい。そうであれば東大門として上伽藍との連絡路の通用門としての役割を果たしたものと推察されるが、現在の日月門に関しては寺での位置付けがいまひとつ分からない。

 この門は、広島県出身でのち京都に住んだ実業家の山口玄洞が昭和五年(1930)に醍醐寺に多数の建物、施設を寄進建立したうちの一棟にあたる。この日月門から東にある建物も殆どが山口玄洞の寄進による建立である。

 

 なので、日月門をくぐって左手に見えてくる上図の大講堂も昭和五年の山口玄洞の寄進建立になる。大講堂として本尊の阿弥陀如来像を祀るが、現在は観音堂とも呼ばれる。西国三十三所札所の上醍醐の准胝堂が平成二十年(2008)に落雷で焼失したため、その再建までの間の西国札所をこの大講堂に仮移設し、納経もここだけで行うからである。

 そういえば私自身も30代の前半ぐらいに西国三十三所の札所巡礼を行なって全所満願を果たしたが、当時の醍醐の札所は第十一番で上醍醐の准胝堂であったな、と思い出す。
 現在は下伽藍からの山道を一時間余り登らないと上醍醐へ行けないが、昔は南の宇治谷を経由する県道782号線で醍醐山の東に登り、県道横の通用門から上醍醐境内地に直接入れたため、車で三度ほど上醍醐まで登ったことがある。その頃は准胝堂も健在であったが、建物は昭和四十三年(1968)の再建であったと聞く。

 

 大講堂の隣には上図の弁天池があり、池のへりに弁天堂が建つ。 これも山口玄洞による寄進建立である。

 

 大講堂を中心とする区域を、醍醐寺では大伝法院と称しているが、その東側の通用門は上醍醐への連絡口となっていて、これを出てしまうと再び下醍醐境内地に戻れなくなるので、引き返して今度は大伝法院の東側の参拝路へ回った。その右手に上図の倒壊した建物を見て驚いた。

 

 なんだこの廃墟は、という驚きと、ここに建物があったのか、という驚きが重なった。右の建物は半壊状態、左の建物も大きく傾いて倒壊寸前といった状態であった。世界遺産にも登録されている醍醐寺の境内になぜこのような廃屋同然の施設が放置されているのか、と不思議に思った。奥に見える建物が健在であるようなのが、対照的であった。

 

 横に回り込むと、大きく傾いて倒壊寸前の左の建物の一部が見えた。こちらは外観はまだ維持されているものの、建物の半分は無くなっているのて、窓や格子の向こうに木々の緑色が見えた。

 この廃墟は、塔頭の一つだろうか、と後日調べてみたが、醍醐寺の塔頭は今も昔も三ヶ所のまま、理性院、報恩院、光台院が存在する。廃墟に該当するような施設は、寺の境内図にも見当たらなかった。
 ところがグーグルマップで見ると、廃墟の位置に「旧伝法学院」とあり、「醍醐の杜」と同じく台風で被害を受けて倒壊して未だにそのまま、という記事にも出会った。

 伝法学院とは醍醐寺の修学道場つまりは僧侶の教育施設にあたり、現在は光台院の東側に大きな施設を構えているので、例の廃墟は昔の施設であったもののようである。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺6 醍醐寺清瀧宮から五重塔へ

2024年11月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 醍醐寺の下伽藍の清瀧宮本殿に礼拝した後、左右の四棟の摂社を順に拝んだが、上図の黒保社には特に念入りに祈念した。
 折しも、ゆるキャン群馬キャンプ編ルートの聖地巡礼を継続中で、巡礼地域の殆どの景色のなかに赤城の連山が望まれるのだが、その赤城山の古名を黒保(くろほ)、または黒保根(くろほね)ともいう。その山頂に鎮まる赤城神社ももとは黒保神社と呼ばれたというが、上州一円ならばともかく、遠く離れた畿内洛東の醍醐寺境内にその勧請社が鎮座するのは奇異の観すら抱かせる。

 しかし、ここ醍醐寺を本拠とする修験道の一派、当山派(とうざんは)の山岳修験者が中世、近世期には東国へも進出して武蔵、上野、下野、相模の諸国に教線を展開、ことに上野国においては上毛三山(じょうもうさんざん)の霊峰群がその支配下に置かれたという。いま妙義山に鎮座する妙義神社はその一拠点であったほか、榛名山と赤城山にも山岳修験の霊場が明治の神仏分離まであったというから、赤城の黒保神と醍醐寺とは中世、近世を通じて700年余りも繋がっていたことになる。いま清瀧宮の摂社に黒保社が並ぶのも、そうした歴史の反映と理解出来る。

 それで、今後のゆるキャン群馬キャンプ編ルート聖地巡礼の安全と成功を、上毛三山の霊峰のひとつ赤城の黒保神に祈願しておいた。

 

 清瀧宮より拝殿の横を通って、奥に五重塔の姿を認めつつ、拝殿の正面に回った。いま清瀧宮に礼拝したが、参詣の作法としては逆で、拝殿からの遥拝から始めるのが本来の形である。それでいったん拝殿の前へ回ることにした。

 

 しかし、何度見ても上図の建物は、神社の拝殿というよりは住房のような外観と雰囲気を持つ。現代人の感覚からすれば珍しい部類に入るが、中世近世においてはこうした四面障子の三間の規模がわりと多かったと聞く。理由の一つとして、拝殿が神楽殿を兼ね、祭礼時には障子を全て外して四方吹き放ちとして、周囲から祭礼神楽を見られるようにする場合があったことが挙げられる。

 特に近世、江戸期においては神社の祭礼神楽儀式がアトラクションの一種として人気があり、祭礼そのものが人々の娯楽であったから、拝殿の建物それ自体を舞台装置とするケースはむしろ一般的であったようである。そうした歴史を反映しての、この拝殿の形式であったとすれば、旧拝殿建築の七間の規模をあえて踏襲しなかったのも頷けよう。

 

 清瀧宮の区域の南東には、上図の南門が建つ。近世の簡素な造りながらも、下伽藍創建以来の南大門の位置と機能とを踏襲する重要な門である。普段は西大門からの出入りがなされるために、こちらは常に閉じられていると聞く。いま西大門の両脇に侍立する藤原期の金剛力士像は、もとはこの位置にあった南大門の安置像であったものである。

 

 南門から振り返って清瀧宮の境内域を見渡した。拝殿と本殿が東に向いて中軸線を西へと引く配置であるが、これは下伽藍の中軸線が南北に通るのとは異なる。おそらくは醍醐山上の上伽藍の清瀧宮本宮の軸線に合わせているのかもしれないが、しかし現在の境内地にて拝礼すれば、拝者は西に向くので、東の上伽藍の清瀧宮本宮には背中を向けることになる。不可解な状況ではあるが、何らかの意図なり事情なりが介在していたのであろうと推察される。

 

 南門から下伽藍の中軸線に沿う参道を進んで右に視線を転ずれば、上図の五重塔の端正な佇まいがみえてくる。醍醐寺の語りつくせぬ魅力の第一と謳われる、国宝の名建築である。

 

 近づいて見上げれば、いかにも古代の五重塔らしい低めの輪郭と大きな逓減率(ていげんりつ)が実感されてくる。京都に現存する他の五重塔に比べると塔高における相輪の占める割合が大きく見える。
 総高は38メートルを測るが、相輪部(そうりんぶ)は12.8メートルに達して全体の3割以上を占める。それで屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、中世以降の塔のような細長い外見とは異なった安定感を示す。

 この塔の逓減率の大きさというのは、それ自体がこの塔独自の特色でもあるが、それは各層の軒先の中心線つまり逓減線が内側にへこむラインをとっている事に起因する。近世初期の木割書(木造建築の教科書)である「匠明(しょうめい)」にて「三墨チカイ」と述べられるラインにあたる。

 試みに塔の柱間と逓減の数値を実測値と比例値にて表すと、それぞれの平均値は2.14と2.15になるが、中世以降の五重塔のそれは平均して1.32から1.75と1.48から1.92となる。古代の五重塔のそれは2.43から2.60と2.4から3.0となるので、醍醐寺五重塔が古代の遺構の数値に近いことがよく示される。最も近似する数値を持つのが法隆寺五重塔であるのは示唆的で、相輪部の比率が大きい点も共通する。

 

 加えて各層の軒の出の長さも注目される。仏教建築のなかで最も高層であり、風雨に晒されて劣化する確率が高いのが塔であるので、古代以来の多くの塔が風雨対策として屋根の軒の出を長くして、横風や横なぐりの雨が塔身部に及ばないように工夫した歴史がある。軒の出を長くとると、そのぶん屋根が広がって瓦の必要数も増えるので、屋根全体の重量が増してゆく。それを支える軒先の木組みをより大きく、より外側へ延ばし、かつ頑丈に造る工夫が要求される。

 醍醐寺の塔は、日本の塔のなかでも軒の出が割と長いほうに属するので、上図のように二段の垂木列とこれらを支える堅固な木組みとが特色のひとつとなっている。

 

 木組みを拡大して撮影してみた。御覧のように、軒を支える支持装置である、斗(ます)と栱(ひじき)の組み合わせである斗栱 (ときょう) を外に二つ重ねて支持架としている。いわゆる二手先(ふたてさき)の組物である。

 白鳳・天平時代の塔にはさらに一つの組物を追加した三手先(みてさき)のケースも見られるが、醍醐寺の塔はそこまで軒が長くなく、その意味では平安期の塔建築らしいとも言える。

 

 醍醐寺五重塔は、平安期の天暦五年(951)に建立された創建当初の遺構である。醍醐天皇の冥福を祈るため、承平元年(931)に第三皇子の代明(よしあきら)親王が発願し、醍醐天皇の中宮であった穏子(やすこ)皇太后の令旨で建立が計画されたが、承平七年(937)の代明親王薨去により工事が停滞し、親王の弟にあたる朱雀天皇が引き継いで、発願の20年後となる村上天皇治世の天暦五年にようやく完成した。

 なので、建物の実年代は十世紀半ばであるわけだが、それにしては前述のように七、八世紀以来の伝統的な塔婆の数値と外観を示す。基本プランは、おそらく発願当時に決定していたはずであるから、八世紀代までの塔の前例を参考にしたか、それに倣っての設計がなされたものと思われる。

 現存する平安期の塔婆建築の建設期間の平均が約2、3年とされているので、20年もかかった醍醐寺五重塔は極めて特殊な事例と言える。そして現在においては、現存する十世紀代の塔婆建築の唯一の遺構であり、醍醐寺においても創建以来の姿を伝える唯一の建築である。

 

 そして何よりも特筆すべきは、この醍醐寺五重塔が、平安期最古の塔婆建築であり、平安京内外の数多くの塔婆建築がおしなべて応仁文明の乱にて焼滅したなかで、唯一難を逃れた塔である、という点である。

 いまの京都市の内外を巡り歩いても、華やかなりし平安京の景色や雰囲気は微塵も感じられないが、ここ醍醐寺にだけは、平安期の時空間がなおも生き続けている。平安京の最後の残り香、と形容するのも勿体ないほどの、平安期の歴史の真実とその重みが、この塔にだけは、鮮やかなほどに感じられる。

 その歴史的体験が常に心地よくもあるので、個人的には平等院に次いでこの醍醐寺に多く参拝してきた。それでも見飽きることはなく、いまなお語りつくせぬ魅力がここにはある。魅惑の醍醐寺、と題して綴るのも、その五重塔の存在ゆえにである。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺5 醍醐寺清瀧宮へ

2024年11月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年10月17日、久しぶりに醍醐寺へ出かけた。ビーノでのんびりと走って30分ほどで北門をくぐり、北の参拝者駐車場の脇にビーノを停めた。その際に北門へと続く白い土塀を撮ったのが上図である。

 

 この白い土塀は醍醐寺塔頭の理性院(りしょういん)のそれである。理性院には2023年春の特別公開で初めて入って、書院の狩野探幽の壁画や本堂の建築、本堂内陣安置の秘仏大元帥明王の厨子および国重要文化財の不動明王像など、興味深い文化財の数々を拝観して色々と新たな学びや気づきを得させてもらった。

 

 その理性院の山門前で立ち止まり、一礼した。門内の石畳道の奥に横たわる石仏群の赤い前掛けが鮮やかに望まれた。そして、なんとなく、真言密教の秘奥義のひとつとされた大元帥法がここ理性院に伝承されていることの意味に思いを馳せた。

 大元帥法(たいげんすいほう)は、真言密教において怨敵や逆臣の調伏および国家安泰を祈って修される法である。平安初期の承和六年(839)に入唐八家(にっとうはっけ)のひとり常暁(じょうぎょう)が唐から請来して山背国法琳寺(ほうりんじ)に伝えたのが初めである。その翌年に常暁は大元帥法の実施を朝廷に奏上して認められ、仁寿元年(851)に太政官符により大元帥法の毎年実施が正式に決定された。
 以来、毎年の正月に宮中の治部省にて催され、明治まで続けられた。儀式に必要な備品などは常暁ゆかりの大和国秋篠寺が調達する慣わしであったが、その秋篠寺にも大元帥明王を祀る堂とゆかりの閼伽井があり、秘仏の鎌倉期の大元帥明王像(国重要文化財)が祀られる。

 私自身は奈良市に長く住んでいたが、そのうちの20年余りは秋篠町に住して秋篠寺の近隣であったため、その秘仏大元帥明王像を6月6日の公開日に拝見するのが毎年の習慣であった。
 秋篠寺もかつては真言密教の拠点として常暁とも接点があり、その坐像が大元帥明王像と同じ大元堂にまつられているのを毎年拝んでいたので、大元帥法についても関連論考を幾つか渉猟(しょうりょう)して一通りの知識は得ていた。

 それで、当然ながら法琳寺、醍醐寺理性院の名も知っていたが、前者は中世期に廃絶して遺跡も定かではなく、後者は昨年初めて拝観の機会を得たばかりである。大元帥法が如何にしてここ理性院に伝承されたのかについても知りたかったが、その契機なり資料なりには、未だ接していないままである。いずれ法琳寺の遺跡とともに、詳しく追究してみるべきかな、と思いをめぐらせた。

 

 理性院の山門前を過ぎて少し伽藍域に近づいた左側に、上図の鳥居が建つ。醍醐の氏神とされ、醍醐寺伽藍の鬼門を守る鎮守社の地位にあった長尾天満宮の参道入口である。今回は時間の関係で入らず、通り過ぎた。

 

 醍醐寺の正門たる仁王門の前に着いた。西を正面とする下伽藍の正門に相当し、東に醍醐山の薬師瑠璃光浄土を望んで両脇を雄渾たる体躯の金剛力士像が護り固める。いつ参ってもこの門前に至れば襟を正し頭を深く垂れざるを得ない。

 

 受付を経て参道に進んだ。かつては両脇に諸塔頭の築地と門が並んだであろうが、いずれも廃絶して遺跡すら地上にはとどめていない。ただ、地表にとどめられる造成面の痕跡が、緩傾斜地に並んだ塔頭の境内地の地形を偲ばせる。

 

 それらの塔頭跡の大部分は、いつしか「醍醐の杜」と呼ばれて、かつては深い境内森林の下に静まっていたのだが、平成30年の台風にて木々がなぎ倒されたという。いまはそれらの倒木も除去されて、跡地の一角には上図の説明板が立つ。

 文中の「復興」とは、植栽および育成による「醍醐の杜」の復原を指すのであろうが、少なくとも百年単位の事業になるものと思われる。並行して諸塔頭の遺跡の発掘調査などが行われれば、未だに不明の部分が少なくない醍醐寺の歴史に数条の解明の光がもたらされるかもしれない。

 

 かつての「醍醐の杜」の現状である。上図の範囲には無量光院や灌頂院が存在したというが、後者はいまの三宝院の前身であるといい、その区画だけでも調査すれば、三宝院の不明な前史についても何らかの手掛かりが得られるかもしれない。

 

 無量光院跡の東には、上図の清瀧宮本殿が建つ。延長四年(926)に創設されたここ醍醐寺下伽藍の本来の計画には無かった施設であるが、醍醐山上の上醍醐に寛治二年(1088)に創建された清瀧宮より、永長二年(1097)に分祀してここに創建したものという。

 当時の社殿は文明年間の兵火で焼失、現在の上図の建物は永正十四年(1517)の再建である。国の重要文化財に指定されている。

 

 その東には上図の拝殿が建つ。現在の建物は御覧のように桁行(けたゆき)、梁間(はりま)とも三間の規模であるが、元の建物は宝暦十三年(1763)の指図によれば桁行が七間あったというから、その後に規模を半分以下に縮めて建て替えられたことが分かる。その建て替えの時期は不明だが、建物の形式からみて江戸期半ば以降であろうと推測される。

 

 再び西に転じて本殿に横から近づいた。本殿は乱石積(らんせきづみ)の基壇上に建ち、四周には透塀(すかしべい)を巡らせて東に向き、正面中央に幣門を置く。その左右には摂社が2棟ずつ配置されており、北から白山社、横尾社、黒保社、八幡社という。

 このうち、白山と八幡は分かるが、横尾と黒保は京都ではここにしか無い珍しい神様であるという。個人的には横尾と聞くと信州上田の諏訪神の別名だったかな、と思い、また黒保というのは上州赤城山の神奈備の古称だったかと思い出す。中世期に醍醐寺を軸とする真言宗の勢力が当山派修験の活動によって東国にも及んだ歴史と無関係ではないように思う。

 

 本殿をデジカメのズーム機能で引き寄せて見、撮った。典型的な三間社流造の建物で、懸魚(げぎょ)の左右の雲形(くもがた)が丸く広がる点に室町期の特色を示す。永正十四年(1517)の再建というのも頷ける。

 祭神の清瀧権現(せいりょうごんげん)は、仏教においては善女龍王(ぜんにょりゅうおう)と呼ばれ、教義的には中国密教の守護神と位置づけられて「清龍」と称された。唐の長安青龍寺の鎮守となっていたのを、弘法大師空海が勧請して京都洛西の高雄山麓に鎮座せしめたのが、日本における清瀧権現の創祀であった。のちに入唐八家のひとり恵運(えうん)もこれを山階の安祥寺に勧請しているが、昌泰三年(900)頃に理源大師聖宝(しょうぼう)がこれを醍醐寺山頂に降臨せしめ、以後は醍醐寺の真言密教を守護する女神となったという。

 なので、こちらの社殿は里宮であって、本宮は上醍醐のほうにいまも鎮座する。久しぶりにそちらへもお参りに登るか、と考えたことであった。  (続く)

 

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伏見城の面影30 妙心寺長慶院山門

2024年11月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 泉涌寺法音院を辞して再び市バスに乗り、U氏のリクエストによって京都国立博物館に立ち寄って常設展示を見学しました。その後に円町へ移動して昼食をとり、それから市バスで上図の妙心寺北門前まで移動しました。

 

 妙心寺の北大門から境内地に進みました。U氏が「いやー、三年ぶりかね」と言いながら門の建物を見上げ、スマホで撮影していました。

「去年(2023)の2月以来だな、妙心寺は」
「せやな」
「その前は21年の秋だった、11月だったかな」
「よう覚えとるねえ」
「覚えてるよ、桂春院だったろ、あれの庭園が綺麗だったんで印象に残ってるのよ」
「その桂春院の隣やで、今回行くんは」
「ほう」

 

 北大門から東に曲がって上図の石畳道を歩きました。妙心寺境内地の塔頭エリアの路地はたいていこのような石畳道なので、独特の歴史的風情がただよっています。時代劇のロケも時々行われているそうです。

 

 石畳道を二度曲がって、境内地の北東隅にあたる上図の塔頭の門前に着きました。この南隣に、以前に二人で参拝した桂春院があります。

 

「ここや、妙心寺塔頭のひとつ、長慶院や」
「ほう、長慶院っていうのか、いい寺名だな、長く慶びあれ、という意味かな」
「かもしれんが、この寺を創建した願主の名前が長慶院なんで、そのまま寺号になってる」
「ふむ?その願主ってのは?」
「女性や。俗名は杉原くま、または木下くま、という」
「えっ、くま?・・・確か、北政所ねねの姉妹じゃなかったか?」
「せや。杉原のくま、ねね、ややの三姉妹の長女や」
「うわあ・・・、こりゃまた重要な人物じゃないか、北政所のお姉さんだったのか・・・」

 

 山門に懸かる「長慶院」の表札です。くまの法号である、長慶院殿寮嶽寿保大姉、に因みます。

「願主が長慶院くまさんで、開山は妙心寺第71世住持だった東漸宗震(とうぜんそうしん)、この人は出身が美濃国可児郡やな・・・」
「すると、近くの尾張国春日井郡にいた杉原くま、ねねとは昔から知り合いだったのかな」
「そこまでは分からんが、東漸宗震には高台院ねねも帰依していたから、木下一族で信仰しとったのは間違いない」
「ふむ」

 

 長慶院の創建は慶長五年(1600)で、その際に伏見城の東門を譲り受けて上図の山門としたと伝わります。それを話したら、U氏が目を輝かせました。

「慶長五年だと?」
「うん」
「それで願主が豊臣一族の木下くまならば、譲り受けた伏見城の東門というのは、豊臣期になるじゃんか」
「うん、そういうことになる」

 既に何度か触れているように、伏見城は時期的には豊臣期の城郭と徳川期の城郭とに分かれます。豊臣秀吉が建設した城がほぼ完成したのが慶長二年五月、秀吉が伏見城で病没したのが慶長三年八月のことでした。
 その二年後の慶長五年六月、に東西手切れとなり、小早川秀秋、島津義弘らの西軍が鳥居元忠が城代として守る伏見城に攻め寄せ、八月に城は落城しました。この落城に関して石田三成が城内の建物をことごとく焼き払った旨を書状に記しているので、秀吉時代の伏見城の主要建築はすべて焼亡したとされています。

 そして、翌慶長六年三月に関ヶ原戦で勝利をおさめた徳川家康が伏見城に入り、慶長七年六月に藤堂高虎を普請奉行に起用して城の再建にとりかかっています。その十二月に城の再建が一段落し、徳川家康が帰城しています。

 なので、慶長五年に譲り受けた伏見城の東門とは、慶長七年六月に再建が進められた徳川期の建物では有り得ません。それ以前の豊臣期の建物である、としか言いようがありません。伏見城合戦で焼け残った建物を譲り受けた、という可能性も考えられますが、どのみち豊臣期の建築遺構である点は揺るがないでしょう。

 

 ですが、いまの門の大部分は、上図の主柱や門扉を除けば、後からの追加であるようです。U氏は「前回見た平等院の北門と同じパターンだろうな、もとは冠木門だったのを、屋根や側壁を追加して寺院の門の型式に改造したという・・・」と話していましたが、私も同意見でした。

 

 御覧のように、この門には各所に改造の痕跡がみられます。冠木門の主柱の内側を大きく削り取って別材をあてて埋めて門扉の蝶番の金具を取り付けています。もとの蝶番部分が壊れたか、打ち付けた柱面が割れたかして、このような修理に至ったもののようです。
 また、主柱の根元部分も別材に替えられています。根元は雨水などで朽損しやすいので、上図のようにカットして新しい材に替えて修理するケースが一般的です。また、その根元部分の礎石に接する底部にも刳り込みが残りますが、これはおそらくここに移築して山門とした際に敷居を追加してはめ込んだ跡でしょう。

 

 門扉も、枠は新たに交換されているようですが、扉板と釘隠はもとの部材をそのまま踏襲しているようです。伏見城東門であった頃は、扉付きの冠木門であったものと推測されますが、その部分が黒っぽく見えます。

 

 内側に入って門扉の脇の潜り戸を見ました。御覧のように主柱の隅を不自然に彫り切って戸を嵌めていますが、城郭の門の潜り戸ではこういう造作はやりませんし、何よりも潜り戸自体が細すぎます。閂も支え木もありませんので、ここに山門として移築した後に追加した戸口であることが分かります。

 

 御覧のように主柱の裏面に木の芯部が露出しており、上端では腐って空洞が出来ているのが見えます。横の冠木から伝ってくる雨水が、どうしても上端に流れ落ちますので、水分に弱い木芯部は腐って朽ちていくわけです。さきに見た根元部分の修理跡も、こうした腐朽箇所を除去して別材に交換しているわけです。

 

 そして潜り戸の横には、何らかの金具か継ぎ具を差し込んだ方形の孔が6つ残ります。飾り金具を取り付けた跡かもしれませんが、位置的には変なので、違う目的の何かを差し込んだ跡だろうと推測します。

 

 屋根を見上げました。御覧のように古い冠木門の冠木に載せる形で虹梁(こうりょう)を交えて支柱をつけ、虹梁の中央前寄りに束(つか)を立てて棟木(むねぎ)を据え、屋根を載せています。これらの材がみんな白っぽく、真新しい感じがしますので、屋根は全てここに移築してからの追加改造であることが分かります。

 

 外から見ても、屋根部分が新しいことがうかがえます。冠木門の主柱と冠木と門扉だけが古めかしく見えます。その主柱をU氏が指さして、「あれさ、鏡柱とも言うよな?」と訊いてきました。「うん、鏡柱やな」と応じました。冠木門の主柱の正式名称が鏡柱(かがみはしら)です。

 

 かくして、豊臣期伏見城の門の建物が妙心寺塔頭の長慶院に伝わっているのを確認しました。伏見城の東門を移したという寺伝はおそらく本物でしょう。

 ですが、いま見られる門の大きさは小型に属します。冠木門でありましたから、少なくとも本丸や二ノ丸といった主要部、もしくは重点防御区画の門ではなかった可能性が高いです。伏見城の外郭部または周辺塁線上の通用口クラスの門であったとみるのが良さそうに思います。
 なので、伏見城合戦でも焼け残った門であったかもしれません。問題は長慶院こと木下くまが、いかなる契機によって慶長五年(1600)にこの門を譲り受けて妙心寺に寺を建てたのか、という点ですが、それに関しては長慶院のほうに話をうかがうか、寺史や関連史料をあたるしか方法がありませんが、今回は門の見学のみで終わったため、機会があれば何らかの伝手を求めて探ってみようかと思います。

 

 以上、妙心寺長慶院山門でした。この門が、U氏と私の京都における伏見城移築建築遺構巡りのラストとなりました。

 伏見城からの移築伝承建築は、京都府だけでなく他県にも幾つか知られており、広島県福山城の伏見櫓が、現時点では確認された旧伏見城建築の唯一の遺構として知られています。  (了)

 

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伏見城の面影29 泉涌寺法音院書院

2024年10月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 泉涌寺総門をくぐって100メートルほど進むと、右手に上図の塔頭の門が見えました。左脇の寺号碑に「法音院」と刻まれています。U氏が「ここだな」と言って門前に立ち止まり、右脇の説明板に視線を移しました。

 

 説明板です。一読してU氏は「うむ」と満足げに呟き、再度読み始めました。御覧のように「寛文五年幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得」とあり、「書院は伏見桃山城の遺構の一部である」と明記されています。

 本多豊前守正貫は、徳川家康の参謀であった本多正信の一族で、正信の弟の正重の養子となって下総舟戸藩を継いだ人です。その後に減封となって旗本に転じ、幕府の書院番頭を勤めています。書院番頭は将軍の親衛隊である馬廻衆の頭であり、幕府の最高格式の職制のひとつです。

 この法音院は、その本多氏の菩提寺でもあり、もとは応仁の乱で焼けて廃寺になっていたのを、江戸幕府の支援によって現在地に移転し再興された歴史を持ちます。その書院が伏見桃山城の遺構の一部であるとされるのも、何らかの記録なり根拠なりが存在するのでしょう。

 

 説明板の隣にはカラーの境内図がありました。泉涌寺塔頭のひとつとして参詣客が訪れているためか、境内の各施設を分かりやすく示していました。目的の建物も「客殿 大書院」とありました。

 

 門をくぐって中に入ると、正面に庫裏玄関と受付があり、その右側に七福神の堂がありました。庫裏玄関から急ぎ足で出てきた住職に挨拶すると、これからお勤めだとかで自転車にまたがって出ていかれました。伏見城から移した書院建築を・・、とU氏が問いかけたのにも、「ああ、あの裏の建物ですんで、外から見るだけになりますんで」と左手でその方向を指し、「では」とサーッと門を出てゆかれました。

「お勤めって何だろう」
「塔頭の住職なら、本寺での諸々の奉仕作業があるやろうな、時間的には午前の勤行か読経かのタイミングやしな」
「なるほど、忙しいみたいだな・・・」

 

 とりあえず、住職に示された方向へ回り込んで、上図の書院の建物を見ました。

「お、まわりの建物とちょっと違うな。外観の設えとか屋根の意匠とか、それに古めかしくみえるな」
「せやね」
「寛文五年、だったか、その頃には伏見城はもう無くなってるな。解体された建材が再利用のために保管されていた段階になるな。それで幕府の支援があって、檀乙は将軍家直属の書院番頭の名門の本多氏であるわけだ。その本多氏が菩提寺にしてるんだから、それ相応の格式の建物を寄進した可能性がある。伏見城の遺構が再利用されたとしてもおかしくはない」
「春に行った養源院と同じケースやな。幕府の要人が関わってて、幕府の支援がついてる」
「そういうことだな」

 

 これで決まりだな、と言いつつ屋根の妻飾りと鬼瓦を見上げるU氏でした。建物の各部に移築の跡がみられ、部材のそれぞれも相当の風食がみられました。解体後もかなり長い間放置されていたような雰囲気でした。左右分割で二枚の部品から構成される妻飾りに、合わせ目の隙間が出ているのも、そんな感じでした。

 伏見城が廃城となって城割りや建物の解体が始まったのが元和六年(1620)からで、三年後の元和九年には「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす」とあって本丸御殿の一部がまだ残されていたものの、それも解体され、城跡は元禄年間に開墾されて桃の木が植えられたといいます。

 法音院の再建が寛文五年(1665)でありますので、伏見城の建材を再利用して書院を建てたのであれば、その建材は元和六年(1620)の廃城解体開始からすでに40年余りを経ていたことになります。いまの建物の部材にやつれや風食が見られるのも当然かもしれません。

 

 上図では下半分が隠れていますが、鬼瓦にある家紋は「本」と見えました。つまりは本多氏の家紋で、この建物がもとは本多氏の所有であったことが分かります。
 伏見城の廃城後のある時期に、その建物を本多氏が貰い受けて一時期は使用していたことを伺わせます。それを寛文五年(1665)の法音寺の再建に際して寄進し、本多氏の菩提寺の一施設として再利用した、という流れではなかったか、と推測します。

 

 妻飾り部分を拡大して撮影しました。装飾の彫物の部分がかなり風化しており、中央の合わせ目に残る釘穴から、何らかの形状の釘隠しが打たれていた痕跡がうかがえます。一般的な花紋であったのか、家紋をあしらったものであったかは分かりません。

 

 建物の主屋部分の外観はかなり改造されていますが、戸口の上に透かし窓を配置する点に御殿建築の面影がしのばれます。

 

 建物の向こう側は庭園に面しているようで、半分ほどが建て直されてガラス戸が追加されたようで、新しい感じになっていました。

 

 ですが、主屋の頭貫にあたる横長の一材をよく見ると、各所にほぞ穴やダボ穴、切り込みの痕跡が見られて、もとは別の建材を横に付け直して転用した状況がうかがえます。
 ほぞ穴の位置から、もとは他の建物と繋ぐ廊下のような部分が接していた可能性が考えられますが、いずれにしても単独で建っていた施設ではなかっただろうと思います。

 

 屋根庇の内側の様子も、垂木だけが妙に古めかしいのでした。野地板は新たに張り替えられているようで、白っぽく見えました。こちらの頭貫にはほぞ穴やダボ穴、切り込みの痕跡がみえないので、屋根の妻飾りと同じように当初の建材がそのまま再利用されているのかもしれません。

 

 隅部を区切る尾垂木の伸びもしっかりしていて気品があります。先端断面に釘穴が見えますので、もとは金具か装飾具を取り付けていたものと思われます。
 全体的にみると、書院建築の典型的なタイプであるのは間違いなく、伏見城の御殿の建築群の一部であったとしても違和感はありません。規模が小さいので、繋ぎの施設か付け書院のタイプであったかもしれません。

 

 かくして20分ほどで書院の外観の観察を終えました。由緒といい、建物の様相といい、まず伏見城からの移築遺構であるとみて良いでしょう。
 それでU氏は大変にご機嫌でしたが、私も似たような気分であったのは自然なことでした。二人で書院に向かって一礼し、境内をあとにして門を出たのでした。

 泉涌寺塔頭法音院の公式サイトはこちら。  (続く)

 

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伏見城の面影28 泉涌寺へ

2024年10月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年10月5日、水戸の友人U氏と4月に続いて四度目の旧伏見城移築建築巡りを楽しみました。いつものように前の晩に京都入りして祇園四条のカプセルホテルに泊まったU氏と祇園で待ち合わせ、市バス202系統に乗って上図の「泉涌寺道」バス停で降りました。

 

 バス停の横の辻から東に進むと泉涌寺への参道であった緩やかな登り坂に入りました。
「この辺に来るのも久しぶりのことだな」とU氏が懐かしそうに景色を見回しつつ言いました。私も頷きました。

 平成10年から13年までの三年間、この通りの北側の街中のアパートに住んでいた時期があったからです。U氏も三度ほど遊びに来て、泊まり込んでは京都社寺巡りを楽しんでいたものです。

 

 しかし、二人とも、近くの名刹である泉涌寺には、一度しか行ったことがありませんでした。いつでも行ける距離にあったため、次に行こう、次の機会に寄ろう、と延ばし延ばしにしているうちに私が奈良市に戻ってしまい、それ以来20年ずっと泉涌寺界隈には寄る機会がありませんでした。

 ですが、上図の泉涌寺総門と左脇の即成院の表門のたたずまいは、20年前のままでした。

 

 ですが、U氏も私も、この泉涌寺総門から中へ入ったことは無いのでした。20年前も何度も前を通っていたのに、です。U氏はともかく、約100メートルほどの至近に住んでいた私ですら、不思議なことにこの門をくぐっていません。

 

 泉涌寺には一度だけ行った、というのは正確には泉涌寺塔頭のひとつである上図の即成院(そくじょういん)に行ったことを指します。その即成院にも20年ぶりに入ることにしました。

 

「あー、あれも昔のままだなあ、門の上に鳳凰が載ってるって、京都広しと言えどもここだけだな」
「せやな」

 

 門をくぐって右に曲がり、細長い境内地を進んで上図の本堂に向かいました。そのたたずまいも20年前と変わっていませんでした。

 

 20年前にここを訪れたのは、本堂内陣の聖衆来迎像つまり木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像を拝観するためでした。藤原彫刻を学んでいた私としては、ここに現存する藤原期の十一躯の菩薩坐像を一度は実見しておく必要があったからです。

 この藤原期の十一躯の菩薩坐像は、即成院を創建した橘俊綱が病を得て出家し、ほどなくして没した嘉保元年(1094年)頃の制作と推定され、橘俊綱が摂関家の藤原頼通の三男であったことと合わせ、当時の一流の仏師つまりは定朝一門の系譜に連なる仏師の作とされています。定朝様式を長く研究していた私にとっては重要な基準作例のひとつでした。

 昔も今も、本堂内陣の仏像群は撮影禁止なので、外陣に貼ってあった上図のパネル写真だけを撮っておきました。

 

 しかし、隣の上図のアニメシーンのパネルは初めて見ました。U氏が「何かのアニメになってるらしいが、知ってるか」と私を振り返りました。私も知らなかったので「さあ?」と返すにとどまりました。本堂の入口部分が影絵のようになっているだけで、外は架空の都会の景色になっています。

 

 同じアングルで撮ってみました。毎年10月に催されるお練り供養行事の舞台廊下が設置されていました。U氏が「奈良の當麻寺を思い出すなあ」と言い、「その當麻寺のお練り供養の菩薩に扮するアルバイトを一度やったことがあるよ」と私が応じると、「それは最高の体験と違うかね」と言いました。

 思い起こせば、最高どころか、不安と恐怖に包まれた供養行事でした。菩薩の衣装とお面を付けて左右に移動しつつ両手で持ち物を支えて回り歩くのでしたが、お面の目玉部分の小さな穴からしか外が見えず、視界が限られて周囲や足元の様子もよく見えないまま、高くて細い舞台廊下の上を進むのでした。怖いことこの上なしでしたから、次の年もバイトに来ないかと誘われて即座に辞退した記憶があります。

 

 右手の建物は、たぶん本坊か庫裏だろうと思います。その奥の白い建物が地蔵堂だったかと思います。お練り供養の菩薩の行列は地蔵堂から発して本堂に至るものか、またはその逆かもしれませんが、とにかく舞台廊下は本堂から地蔵堂へと続いています。

 

 即成院を辞して、隣の泉涌寺総門をくぐりました。くぐりながらU氏が「伏見城からの移築伝承の建物が泉涌寺にもあると聞いてびっくりしたんだが、何か謂れがあるのかね?」と訊いてきました。
 私もその件は去年に知ったばかりで詳細を知らなかったので、「謂れがあるんやろうけど、とにかく現地へ行って関係者に話とか伺えたらええんやけどな・・・」と返しました。U氏は「なるほど」と言って頷きつつ、門内参道を歩き出しました。  (続く)

 

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伏見城の面影27 平等院南門

2024年10月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平等院の鳳凰堂を眺めつつ、拝観順路に沿って園池の西辺へまわりました。見学客の多くは西側の「平等院ミュージアム鳳翔館」に入っていきましたが、U氏と私はその脇から塔頭浄土院前の参道に進み、左折して南門へ向かいました。

 

 途中の右側に、上図の養林庵書院がありました。桃山期から江戸初期頃の建築で、国の重要文化財に指定されています。普段は非公開で、特別公開も稀にしか行われないと聞きます。

 この養林庵書院も、伏見城からの移築と伝わりますが、確証がありません。文化財関連の資料でも伏見城移築伝承に関しては触れておらず、岩波書店の「平等院大観」の養林庵書院の解説記事においても、建物を江戸初期頃のものとする見解が述べられるにとどまっています。

 平等院は江戸期までに度々の火災に見舞われており、それによって寺の歴史史料や記録類の殆どが失われたという経緯があり、そのために文献史料のうえで平等院の歴史を探り確かめるという検証作業がほぼ不可能になっています。私自身も鳳凰堂や本尊の定朝仏を研究するうえで史料不足という分厚い壁に突き当たって苦労させられており、外部の史料や当時の貴族階級の日記類から断片的に情報を得るしか方法がありませんでした。

 なので、養林庵書院に関しても、それを管理する塔頭の浄土院が古記録類を火災で失っているため、文献史料がありません。確証が無いのも当然で、伏見城移築伝承に関しても検証して確認することが不可能となっています。残念なことですが、仕方がありません。

 あとは、養林庵書院に入って内部の様相を実際に見てみることしか出来ませんが、特別公開されることが稀であるため、いまだに見学の機会を得ていません。U氏も「いつか見に行きたいねえ」と話していました。

 

 養林庵書院の門前を過ぎて石段を登ると、「平等院ミュージアム鳳翔館」の南西隅に上図の丹塗りの門が見えてきました。

 

 いったんくぐって外側に出て、あらためて振り返り門に向き合いました。これが平等院南門です。現在も南の観光駐車場からの拝観路の南の出入口として機能しています。

 

 こちらは脇に案内説明板が設けられています。「伏見桃山城からの移構とされ」とあります。平成二十二年の修復工事に際して材がアカガシであることが確認されていますが、アカガシは戦国期の城門に多用された木であることが諸史料から知られ、この門がもとは城門であったことを示唆しています。

 

 確かに外観は、城郭では一般的な冠木門タイプで、寺院の門としてはあまり見ない形式です。部材が太くて頑丈に造られ、装飾の類が一切みられないのも、寺院の門にはあまりない要素です。

 

 U氏が「これも、さっきの北門と同じでもとは冠木門だったんだろうな、屋根は後から付けたっぽいな」と言いました。しかし、冠木門だったと仮定した場合、その冠木(かぶき)の左右から肘木が張り出しているのには違和感がありました。それを指摘しようと思いましたが、U氏も気付いたようで、「あの出っ張ってるのは何の部材だろう」と付け足しました。

 

 再び近づいて冠木の上の部材を見上げました。上図のように、肘木の内側に水平に板が張られていました。

 

 U氏が「これ、天井の板なのかね?」と言いましたが、私もこういう部材はあまり見た事がないので、「天井と言われれば天井に見えるな・・・」と返すにとどまりました。寺院の門に天井がつくケースは無いわけではありませんが、頭貫にあたる冠木の上に張ってあるのは初めて見た気がします。

 さきに見た案内説明板では、「天井板を備えた古式武家門の姿を良く残す」とありましたが、そもそも日本に現存する数多くの武家門のなかの古式な遺構に、こういった天井板が供えられたケースを見た記憶がないのです。

 私の覚えている限りでは、現存最古の武家門は、秋田県の角館にある旧石黒家の門、城郭の門としては愛媛県の宇和島城の上り立ち門が挙げられますが、いずれも天井板がありません。それよりも古い遺構があるかどうかは確認していませんが、基本的に武家門に天井を張るケースは珍しいのではないかと思います。

 

 しかも肘木と共に前方へ板が庇のように張り出しているので、天井には見えませんでした。そもそも、この門の主柱が左右とも屋根の棟木まで続いておらず、冠木の上にも出ていません。それで屋根をどう支えているかというと、天井のように張られた板の上に細い材が組まれて屋根を支えている、という変わった構造になっています。

 なので、この門がもとからこういう構造ではなくて、後で屋根を追加して現在の姿になったことが理解出来ます。城門であったのをここへ移して平等院の門にした際に屋根と屋根を支える板を追加したのでしょう。

 

 しかも、問題の板は後方へも張り出して、門の支脚の上に通された貫に打ち込まれているのでした。つまり門の主脚上ではやや前に庇のように張り出し、後ろの支脚の上では上図のように張り出していません。つくづく、変わった構造だなあ、と思いました。

 U氏が推測したように、これはもとは冠木門だっただろうと思います。ここに移して平等院の門にしたときの改造で、冠木上に天井のような板を張り、そのうえに小屋組を組んで支持材として、屋根を追加して支える形に改造したのだろうと思います。
 U氏は「もう一つ考えられるのは、これが元は櫓門で、上に櫓があって、その床板だけが残されている、という・・・」と話していましたが、なかなか面白い推測だと思います。城門だったのならば、その可能性もありますが、寺院の門に改造されて原形を失ったいまとなっては、確認のしようがありません。

 

 門扉の内側の閂です。シンプルな造りです。この門は城門としては小型に属して防御性も高くないタイプですので、伏見城にあったとしても本丸や二の丸といった重要区画に設けられたのではなく、外郭部の通用門クラスであったかと推測されます。

 

 屋根を見上げました。部材は綺麗に保たれており、例の天井板と同じ材が屋根裏にも張られているようでした。さきに見てきた北門と同様、こちらの南門も冠木門の冠木と主柱だけが古くて、さらに材はアカガシであるわけです。かつては伏見城のどこかの通用門クラスの冠木門であった、とみなして移築伝承を前向きに捉えておいても良いでしょう。

 

 最後に屋根の妻飾りをチェックしました。御覧のように下の広がりが小さく、釘隠しの飾りが木製で設えられています。江戸初期によくみられる形式です。屋根が江戸期に追加されたことを示しているのでしょう。

 

 かくして、平等院に伝わる、伏見城移築伝承のある二棟の門を見ました。今も平等院の南北の拝観出入口として使用されており、いずれも元は冠木門であった可能性が高いと考えられます。

 時間があるのでU氏が「鳳翔館」も見て行こう、と言い、南門から引き返して「平等院ミュージアム鳳翔館」を見学、それで平等院での拝観見学を終えました。退出する際に、U氏が「次に行く時は、怜子さんを連れていけよ、必ず」と念を押すように勧めてきたので、頷き返しておきました。

 京阪宇治駅まで歩いて戻る途中で、U氏が「これで京都にある伏見城移築の伝承の建物はみんな回ったことになるのかね?」と訊いてきましたので、「いや、あと二ヶ所残ってる」と返しました。「そんなら次は秋に行こうぜ」となり、それで秋の京都巡礼の基本プランが決まりました。

「それで秋に残る二ヶ所を回るとして、その次には別のテーマで京都巡りがしたいよなあ」と言うので、どんなテーマかと訊き返しました。U氏はなぜかニヤリとして、「応仁の乱とか、戦国時代の混乱期のさ、足利将軍家とか管領家の拠点とか城とかの史跡を回る、ってのはどうだな?」と言いました。

 あ、それええなあ、と思いました。もう少し時代を下げて織田信長の活躍期あたりまでの史跡や遺跡も含めたら面白いかもしれません。一般の多くの京都通や京都ファン、京都の歴史愛好家などでもあまりタッチしていないジャンル、カテゴリーであるので、観光資料やネット上の情報でも網羅されていない未知の事柄、埋もれた情報が数多く発見出来そうな気がします。とりあえず、それでいってみるか、ということになりました。  (続く)

 

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伏見城の面影26 平等院北門

2024年10月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 興聖寺を出て、宇治川に架かる朝霧橋を渡って橘島の北へ行き、橘橋を渡って宇治川の西岸へ移動しました。U氏の希望で平等院表参道のスタバに寄ってコーヒー休憩をしたのち、向かいの生け垣の連絡口を通って、上図の平等院の表門前へ進みました。

 

 U氏は、寺での正式名称が北門である表門の近くに寄り、見上げるなり、ふう・・とため息をついて言いました。 
 「この門も伏見城からの移築って伝承があるとはなあ・・・、何度もくぐってるけれど、全然知らなかったな・・・」
 私も同じように見上げながら応じました。
 「こっちも同様や。伏見城からの建物の移築の件で調べていて初めて知ったんよ・・・。淀藩の永井信濃守が寄進修築してるらしいんで、これも本物なんやろう、と思う」

 

 ただし、いまの表門の構造材の全部がそうではないようで、例えば屋根部分の部材、例えば上図の貫(ぬき)や虹梁(こうりょう)などは新しいので、現在地にて平等院の門として建てた際に、新たに改造追加した部分ではないかと思われます。

 

 それで、改造追加した部分であると思われる屋根部分を外して捉えますと、その下の構造材がやたらに太くて表面の風蝕もかなり進んだ古びた状態であるのに気付かされます。

 U氏も、そのことには気づいていたようで、「もとは冠木門(かぶきもん)だったんと違うかな。二脚だし、冠木が見事なくらいに太い立派な材を使ってる。柱なんかはけっこう高級な木材を使ってるなあ、あれ」と感心しつつスマホで撮っていました。

 

 U氏の指摘通り、もとは冠木門だったのだろうと思います。屋根を取っ払って、二脚の柱の切断された上端を復元すれば、城郭では一般的な通用門の形式であった冠木門の姿になります。

 ただ、冠木門としては間口が広い方に属しますので、城郭の通用口のなかでもメインの導線にあたる主要な虎口に設けられていた可能性が考えられます。

 

 門に向って右側の柱を中心とする軸部の様子です。柱の上端は屋根を設ける際にカットされていますが、横材の冠木はカットされた形跡がなく、端の切断面はもっと古い風化浸蝕の様相を示しています。現在地に移築される前からの状態をそのまま伝えているようです。

 

 屋根裏を見上げてみると、御覧のように冠木と柱だけが古びています。表面もかなり風蝕が進んでいます。消去法でいえば、冠木と柱以外は後世の追加、すなわち現在地に平等院の門として移築された際の改造部分、とみることが出来ます。

 

 それでは門扉はどうか、とその軸部と本体に視線を移しました。門扉本体もやはり古びた雰囲気がありますので、これも移築前からの部材がそのまま引き継がれている可能性が考えられます。

 

 内部から見直しても、屋根部分の構造材がやっぱり新しく見えます。木材の質や種類も異なっているように思えます。

 

 そして、向かって左側にのみ、潜り戸が付けられます。上図はその潜り戸を内側から見たところですが、御覧のとおり頑丈に作られて閂(かんぬき)の部材も太く金具もしっかりしています。何よりも、引手(ひきて)が全く無くて外側からは開けられないような構造になっているのが寺院の門との決定的な違いです。

 U氏が「寺院の山門クラスにこういう防御重視の脇戸は有り得ないもんな、最初から寺の門だったのなら、こういう脇の通用口の戸だって薄い一枚板だろうし、引手も付いてるだろうし、固定するにも閂じゃなくて鍵になるだろうな」と言いました。

 

 したがって、伝承が史実であれば、永井信濃守によって淀城から移築転用の形で寄進され、平等院の門に相応しいように屋根を追加して改造した、旧伏見城の冠木門であったもの、ということになります。

 淀城は前回の記事で述べたように旧伏見城の建物多数を移築して築かれており、幕府の老中職にあった永井信濃守が入府してからは石高の引き上げに伴って城郭と城下町の拡張が図られています。その拡張の際に、もとの建物を新しいのに置き換えたり、建て直したりした所があって、その旧建物を寄進の形で再活用すべく興聖寺や平等院に移した、というプロセスが想定出来ます。上図の門も、その一例であったのかもしれません。

 ですが、平等院のほうでは、案内資料類はおろか、寺の記録においてもこの門に触れていません。専門資料のナンバーワンとして名高い岩波書店の「平等院大観」にすら、この現在の表門(北門)に関しては記載がありません。不思議なことではありますが、おそらく、寺においては正式な門ではなくて、宇治川岸に連絡する唯一の通用門であったに過ぎなかったからではないか、と思われます。

 平安期の創建になる平等院には、建立以来の北大門がありましたが、当時の伽藍境内地はもっと広大なものであったため、その位置も現在の門とは異なります。北大門の後身の北門は江戸期の元禄十一年(1698)に焼失しましたが、その後は再建されなかったため、観音堂の裏手にあった通用門が北門の代わりとなって、その外側に参道が形成されていき、結果としていまの表門となって現在に至っているわけです。

 

 門からは大勢の観光客の波に紛れて上図の鳳凰堂の前に進みました。U氏は「いいなあ」「いいねえ」「すごくいい」と感嘆句を小声で連発し、観光客の大半と同じように盛んに撮影していました。

 私の方は、鳳凰堂の正面観に向き合う位置に近づくにつれて、深い感慨と限りない思い出とが胸の内に静かに湧き出てくるのを感じつつ、鳳凰堂の本尊の定朝作阿弥陀如来像の崇高なる姿を心に鮮やかに再現しては、法悦のような清らかな幸福感と、懐かしい記憶の流れとに浸るのみでした。

 なにしろ、ここ平等院鳳凰堂が、私にとっては人生最高の聖地であり、語り尽くせぬ想い出の地であり続けているからです。仏教美術研究者としての長年にわたる中心的研究対象がここ鳳凰堂の本尊阿弥陀如来像とその作者であった仏師定朝であったのも大きいですが、それ以前の自身の若き日の青春の記憶の多くもここ平等院鳳凰堂に刻まれている、というのも、聖地中の聖地たるゆえんです。

 

 そのことは、U氏もよく知っていますから、私の横に並んだ時に、小声でこう言ったのみでした。

「いまも、思い出すかね」
「うん・・・」
「・・・本当に、綺麗な人だったなあ・・・」

 さきに興聖寺にて見学前にその墓前に詣でたのを思い出したように、ちらりと後ろのその方角を振り返っていました。いまも宇治川の向こう岸から鳳凰堂を見守っているであろう、亡き前妻の美しかった双眸のきらめきを、私も思い出していました。

 思えば昭和60年春、平等院鳳凰堂前のこの場所にて、定朝仏を拝んではその歴史的意義のレポートの原案を呟きつつノートにメモしていた大学生の私に、背後からいきなり声をかけてきた女子高生でした。定朝に関連する平安期の史料「春記」のコピーを読んでいた私が「其ノ尊容・・・」と思わず口に出した時、背後で「満月ノ如シ、ですか?」と声がしたので驚いて振り返ると、慌てて一礼してきた彼女の笑顔がありました。運命的な邂逅だったな、と今でも笑ってしまいます。

 

 しばらく二人で無言のまま鳳凰堂を眺めていましたが、再び歩き始めた際にU氏が言いました。

「そういえば、ここへは、怜子さんとは来たのかね?」
「いや、まだ・・・」
「そうか、やっぱりな・・・」

 いまの嫁さんとは、結婚以前から京都の色々な古社寺に一緒していますが、彼女は大学時代に宮廷文化や源氏物語を研究して宇治にも何度も行っている筈なのに、嫁に来てからは、宇治市エリアの古社寺に行きたいと言ってきたことが未だに一度もありません。おそらく私の前妻の記憶に遠慮しているのでしょう。

 なので、U氏は、私の推測と同じ事を言いました。
「たぶんさあ、星野が言いだして、連れていってくれるのを待ってるんと違うか・・・」
「うん・・・、実は僕もそう思ってる・・・」
「そんならさ、早く連れていってやれよ。・・・怜子さんは絶対、待ってるぞ」
「うん、そうする」

 そう答えた途端、なぜか気持ちが軽くなってきて、嬉しささえもこみ上げてきたように感じたのでした。  (続く)

 

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