気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

京都鉄道博物館3 特別展示車輌と台車いろいろ

2025年02月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館のトワイライトプラザから本館の一階の南口に入りました。外からの引込線が内部に続いていて、車両工場のコーナーになっていますが、この時は特別展示コーナーになっていて、上図の近江鉄道100形が展示されていました。

 

 まず、驚いたのはJR西日本の管轄になる京都鉄道博物館が、私鉄の車輌も引き入れて展示している、という事でした。京都鉄道博物館ではJRの車輌しか展示しないものだと思い込んでいたので、いまも現役で走っている近江鉄道100形がなんでここに入ってるのだ、と思いました。

 ですが、嫁さんは別の意味で驚いていて、「近江鉄道って、あの近江八幡から豊郷まで乗った電車・・・?こんな青い電車って走ってたっけ?黄色やアイボリーの電車は乗りましたけどね・・・、でもどうやってここまで持ってきたんですかねえ・・・」と話していました。

 

 コーナーの主旨案内板によれば、ここでは、JR西日本の営業路線と繋がった引込線を活用して現役車両を展示していますが、今回は開業128 年を迎えて今年度より公有民営方式による上下分離に移行した近江鉄道の100形電車を特別展示します、との事でした。同時に、これが京都鉄道博物館開業後の、甲種輸送による車両の特別展示の最初であるそうでした。

 嫁さんは、案内文を一通り読むと私を振り返って、「甲種輸送って何?」と訊いてきました。

 

 甲種輸送(こうしゅゆそう)とは、甲種鉄道車両輸送(こうしゅてつどうしゃりょうゆそう)の略称で、日本貨物鉄道(JR貨物)など貨物鉄道事業者の機関車の牽引によって車両をレール上で輸送することをいい、書類上は貨物列車扱いとなるそうです。線路が繋がっていれば可能ですし、繋がっていなくてもクレーン等で移して線路に置けば可能となります。

「甲種輸送、ってのがあるんなら、甲乙丙丁とかのあれで、乙種輸送とか丙種輸送ってのもあるんですかね?」
「うん、あるよ。乙種はトレーラーとか船とか艀に載せて、レールの上以外、道路とか航路とかで輸送する。丙種は車輌をレール上の長物貨車に載せて、機関車が長物貨車を牽いて輸送する。一般的には丙種はあんまり使わないらしいから、甲種か乙種のどちらかになるな」
「ふーん・・・、じゃあ、丁種は無いんですね」
「丁種輸送なんて、聞いたこと無いで・・・」

 

 近江鉄道は、周知のように明治期に創立された、滋賀県最古の私鉄です。線路の幅はJRと同じ1067ミリなので、この100形もここまで持ってこられたわけですが、そうなると、今後は他の私鉄の車両もここで特別展示する機会が有り得る、ということになります。

 ですが、近畿地方の私鉄の多くは線路の幅が1435ミリの標準軌ですので、ここ京都鉄道博物館での特別展示は難しいかもしれません。阪急、京阪、近鉄はもちろん、京都の嵐電や叡電も1435ミリですから、JR西日本や京都鉄道博物館の線路には入れないわけです。
 なので、おそらくは同じ1067ミリの狭軌の鉄道車両に限られるのだろうな、と思いました。

 

 特別展示コーナーは、館内図では「車両工場」と記されており、実際に工場と同じ整備用の各種設備があり、作業用の車輌を上からも見学出来るように吊り下げ式の通路が設けられています。

 実際にここで整備や検査を行なっているのかは分かりませんが、係員の話によれば、ここへの出し入れに際して最低限のメンテナンス作業は行っている、とのことでした。

 

 それにしても、いまも運行されている現役の私鉄車輌がこうして博物館施設にて展示されているというのは、初めて見た気がします。京都鉄道博物館ならばでの展示、京都鉄道博物館でしかやれない特別展示、ということで、今後もこのような各種の現役車輛を間近に見られる機会を提供してゆく、というコンセプトなのでしょうか。

 

 この近江鉄道100形電車は、2009年に西武鉄道より新101系および301系を譲り受け、改造して導入した通勤形電車の一種です。2輌ずつの5編成、計10輌が2013年から2018年にかけて順次導入され、2013年より運行を開始して現在に至っています。
 私も嫁さんも豊郷行きで何度か利用していますが、こうして特別展示の体裁にて眺めると、印象が全然違って見えますから不思議なものです。

 

 向かいには上図のカットモデルの模型が展示されています。車体の内部構造と、線路および台車との関係がよく分かります。
 案の定、こういった模型が大好きな嫁さんが、ガッとくらいついてケースにはりついて「これ面白い・・・」と食い入るように眺めていました。

 

 その隣には、台車や車輪の実物が幾つか展示されています。鉄道車両の台車部分は、普通に鉄道を利用していれば大抵はホームの下に隠れて見えませんので、間近に見ると新鮮な迫力があります。
 上図は151系電車のDT23形台車です。

 

 こちらは4種類の車輪です。右端より順に、松葉スポーク車輪、D51用の動輪、151系用の車輪、新幹線300系用の車輪です。
 これらのなかで新幹線300系用の車輪が最も薄くて華奢に見えますが、実は最も強靭な車輪であるそうです。270キロ運転時の安定性を高めるために車輪の軽量化が図られて車輪径が910ミリから860ミリに縮小され、車軸も中グリ軸と呼ばれる中空式となり、素材の鋼は優れた高品質かつ強靭な日本でしか作れない材料が使われています。

 確か、新幹線を含めた高速鉄道用の専用車輪やレールは高度な製造技術が必要なため、これを造れるメーカーは日本の日本製鉄およびJFEスチールの2社だけ、と聞いた事があります。

 

 こちらは4種の台車を二段に並べて展示しています。上図の上は国鉄TR23形台車、下は京阪1700系用のKS50台車で1955に製造された日本最初の空気バネ台車であるそうです。パッと見ても上段の台車が古めかしく見えるので、要するに戦前の台車と戦後の台車を分かりやすく展示してあるのだな、と分かります。

 

 こちらの上は国鉄TR10形台車の客車用2軸ボギータイプであるTR11台車、下は阪急2000系用のFS345台車です。このコーナーには、国鉄だけでなく私鉄の台車も寄贈されて展示されているわけですが、それも京都鉄道博物館の特色のひとつであるのでしょう。

 

 こうした各種の台車は、嫁さんも私も、Nゲージや鉄道コレクションの車輌の台車パーツを組み込んだり交換したりしているので、実物を見るのが楽しいです。色々と勉強になります。基本的な構造が模型でもそのまま踏襲されているうえ、車輪を外したりする際の段取りも同じであることが見て取れます。

 

 なので、上図のように下から台車を見たりして、その外枠のフレームとか、車輪の軸部の据え付け状況とか、サスペンションの機構やブレーキシステムの形状などが学べたのは良かったです。本や図鑑を100回見ても、実物を1回見て分かる情報量には遠く及ばないものだな、と改めて思いました。  (続く)

 

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京都鉄道博物館2 機関車4種と寝台特別急行客車2種

2025年02月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館のプロムナードには、上図のディーゼル機関車のDD54形33号機も展示されています。嫁さんが「これこれ、マイクロエースの3次形の本物、これを見たかったんですよー」と大喜び、テンション上げまくりでした。

 DD54形は、日本国有鉄道が1966年から設計、製造した液体式ディーゼル機関車の一種で、エンジンはドイツのマイバッハ系列のライセンス供与による提携生産品を使用しました。山陰本線および播但線、福知山線などの列車牽引運用に用いられていたC57形およびC58形等の蒸気機関車と置換えに配置され、1972年末には一部の列車を除き山陰地区東部の全面的なディーゼル化を達成し、山陰線の路線群における無煙化を促進したことで知られます。

 1971年までに40輌が製造され、32輌が福知山機関区、8輌が米子機関区に配備され、山陰本線の全線で活躍、1968年には福井国体開催に合わせて運行されたお召列車の牽引を担う栄誉に浴しています。

 つまりは山陰線専用のディーゼル機関車であったわけで、丹波の山陰線沿いの育ちだった嫁さんが私に続いてNゲージにハマり出して「山陰線ジオラマ計画」なるジオラマ製作にとりかかった時に、最初に購入候補にあげた機関車でした。

 そのNゲージ製品は、トミックス、カトー、マイクロエースから出ており、それぞれに幾つかの仕様を再現していますが、嫁さんがこだわったのが、ここの展示車輌でDD54形の唯一の現存機でもある33号車の特徴である、スカート両脇の白色のステップ側面で、1から6次車までに区分されるなかの3次車の独自の要素でした。これはマイクロエースの製品にしか再現されていませんので、嫁さんも散々探し回り、ヤフオクでやっと見つけて落札していました。

 この33号機は、山陰線にて最後まで使用された4両中の1両で、米子機関区に配置されて一時は特急「出雲」の牽引機に指定されていたそうです。1984年に廃車となって大阪交通科学博物館にて保存展示されていましたが、大阪交通科学博物館の閉館後は京都鉄道博物館に移され、現在に至っています。

 

 プロムナードの南には、上図のトワイライトプラザのコーナーがあります。その大きな鉄骨トラス構造の上屋は、大正時代以来の2代目京都駅の遺構の再利用になるもので、その中には戦後を代表する電気機関車や寝台車、2015年春に引退した寝台特急「トワイライトエクスプレス」の車輌を展示しています。

 

 トワイライトプラザの正面向かって右には、上図のEF81形103号機があります。日本国有鉄道が1968年に開発した交流直流両用電気機関車の一種です。この103号機は、敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室に配置されて、寝台特急「トワイライトエクスプレス」の牽引機として大阪・青森間の日本海縦貫線区間で活躍したほか、同区間における臨時列車や臨時工事列車の牽引などにも使用された車輌で、現在は「トワイライトエクスプレス」牽引機時代のデザインカラーのままで保存されています。

 嫁さんがDD54形を一生懸命見学している時に、私はこのEF81形をしばらく見上げていました。気が付くと、嫁さんも横にやってきていて一緒に見上げ、スマホを向けているのでした。

「この機関車をさっきからずーっと見てますね、何か思い出でもあります?」
「いやね、この前行ってきた碓氷峠鉄道文化むらの展示車輌にはこれは無かったなあ、と思ってね」
「ふーん、じゃあ、貴重な保存車なんですかね」
「現存してるのは3輌ぐらいしか無いらしいからね、貴重であるのは間違いない」

 

「じゃあ、左の機関車も貴重なんですかね?」
「EF58形はまだ数があるんじゃないかな、碓氷峠鉄道文化むらにも展示されてるし、埼玉の鉄道博物館にもあるらしいし」
「わりと有名な機関車だったのかな」
「戦後の日本を代表する旅客用電気機関車といったら、だいたいはこれのイメージやしな」
「ふーん」

 

 EF58形は、 日本国有鉄道の前身である運輸省鉄道総局が1946年から製造した旅客用直流電気機関車の一種です。終戦後に激増した旅客輸送需要に対応する機関車として量産され、1958年までに各種仕様を合わせて172両が製造されました。

 そして1950年代から1970年代にかけて東海道本線、山陽本線や高崎・上越線、そして東北本線といった主要幹線に配されて旅客列車牽引の主力機関車として活躍、戦後の復興期の公共交通の要として働き続けました。最後の1輌が廃車となったのが去年、2023年のことでしたから、昭和、平成、令和の3時代を駆け抜けたことになります。

 

 そのEF58形が牽引したブルートレインの客車が1輌、EF58形の後ろに繋がっていました。「あかつき」「彗星」などで活躍したプルマン式のA寝台車だったオロネ24形4号車です。

 

 そのオロネ24形4号車の説明板です。オは32.5から37.5トンクラス、ロネはA寝台車を意味します。プルマン式とは、アメリカ寝台保有会社プルマン社が製造した寝台車の形式名で、通路を挟んで二段の寝台が進行方向に設けられ、寝台幅を広く取って広い空間を確保しています。日本でも長らく上級寝台車のタイプとして使われた形式です。

 

 オロネ24形4号車の後ろには、上図のEF65形1号機がありました。これも貴重なトップナンバーです。嫁さんがスマホを向けつつ言いました。

「1号機って、なかなか残せるもんじゃないんでしょうねえ・・・」
「だろうな、試作機やったのも多かったし、何よりも最初の生産車だから、劣化も老朽化も一番になるし、廃車も当然ながら1番になるやろうから、保存するとなったら相当のコストがかかったやろうな・・・」

 

 EF65形は、日本国有鉄道が1965年に開発し運用した平坦路線向け直流用電気機関車の一種です。平坦線区向け国鉄直流電気機関車の標準形式とされ、1979年までに国鉄電気機関車としては史上最多の308輌が製造されました。
 基本的に貨物列車用として計画されましたが、高速走行性能と牽引力の強さを活かして旅客列車用としても活躍、ブルートレインを牽引する500番台や耐雪耐寒装備を強化するなどの改良を加えた1000番台、1000番台の一部を改造した2000番台などがありました。現在も約20輌が定期運用を終えたものの、現役として在籍していると聞きます。

 このEF65形は、ゆるキャンの原作第92話の作中にて「横川鉄道博物館」の展示車輌の1輌として描かれていますので、そのモデルとなっている500番台のF形タイプを、Nゲージのカトー製品にて購入しました。「横川鉄道博物館」こと碓氷峠鉄道文化むらの保存展示車が520号機で、高速貨物列車牽引用の500番台F形に該当するからです。

 対してこちらの1号機は、一般型の0番台の1次車にあたり、中央本線の電化および増発、山陽本線貨物列車の電化および増発、東海道本線などの増発用として開発されたタイプです。運転席の面に通行用の扉がつかない非貫通型にあたりますが、Nゲージでは扉が付く貫通型の1000番台や2000番台のほうが多く製品化されていて、非貫通型の0番台や500番台はあまり見かけなくなっています。実物も貴重ですが、Nゲージのほうでもレア物になりつつあるようです。

 

 トワイライトプラザには、上図の寝台特急「トワイライトエクスプレス」の客車2輌も展示されています。上図はスロネフ25形501号車、列車の1号車にあたるA個室車輌です。


 「トワイライトエクスプレス」は、かつて大阪駅・札幌駅間で運行されていた臨時寝台特別急行列車です。1989年に運転を開始、2015年に臨時列車としての運行を終了して、それ以降はツアー専用列車として2016年まで運転されていました。
 その後は廃止となりましたが、「トワイライトエクスプレス」の列車名は2017年から京阪神地区と山陰・山陽地区間での運行を開始した「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(みずかぜ)」に受け継がれています。

 こちらで保存展示される客車2輌は、かつての国鉄24系25形客車を全面的に改造したもので、基本デザインはヨーロッパの豪華夜行列車オリエント急行をモデルとしたそうです。
 従来の寝台列車が「ブルートレイン」で青色のイメージカラーであったのに対して、日本海をイメージした深緑に明け方の薄明(はくめい)の英語トワイライトを表す黄色の帯をつける独自のカラーとしています。

 上図のように各客車には、天使が向かい合うデザインのエンブレムもマーキングされて高級感を醸し出しています。

 

 10年前に廃車となったわりにはピカピカで、まだ現役のような感じですから、嫁さんも「こんなん、まだ使えますでしょ、もったいないですねえ」と話していました。

 ですが、元になっている国鉄24系25形客車が1973年からの製造なので、既に車齢が51年に達している古い車輌であるわけで、老朽化や部品類の経年劣化がひどくなっているそうです。

 

 もう1輌は上図のスシ24形1号車です。嫁さんが「これもトップナンバーですね、スシやから食堂車ですねえ、よし覚えたっと」と車番を指差して確認していました。

 

 「トワイライトエクスプレス」の客車はあともう1輌、オハ25形551号車が上図の引込線ゾーンに居るということですが、この日はどこかへ移動していたのか、向こうに見える客車はオハ46形13号車だけでした。  (続く)

 

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京都鉄道博物館1 京都鉄道博物館へ

2025年02月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月4日の午後、二条城から地下鉄とJR嵯峨野線を乗り継いで、上図の京都鉄道博物館に行きました。この日の嫁さんの本来の目的地がここだったのでした。二条城へ行ったのは、近いからついでに行けるよね、という思い付きで午前中から出かけたわけでした。

 

 京都鉄道博物館は、周知のように国内では最大級の鉄道博物館です。日本では埼玉県にも鉄道博物館がありますが、敷地の規模や展示車輌の数では京都のほうが上であるそうで、「トップナンバー」と呼ばれる第1号の車輌が多く展示されているのも特徴であるそうです。

 私自身は昔、まだ梅小路機関車館だった頃に三度ほど行ったことがあるだけで、2016年にオープンしたこの京都鉄道博物館のことは全く知りませんでした。2023年の6月に鉄道模型Nゲージを初めて鉄道にも関心を持ち始めるまでは、あんまりその種の施設には興味が無かったからです。

 

 ですが、嫁さんはオープン直後に一度行ったことがあるそうで、同じようにNゲージに熱中し始めてからは、もう一度行っておかないといけませんねー、と何度か話していました。梅小路機関車館だった頃しか知らない私を「昭和ですか?遅れてますねえ、時代は令和ですよ?時勢に遅れてはアカンですよね」とこきおろしつつ、「Nゲージやってるんなら、いっぺん行かないと駄目ですよ?」とけしかけてくるのでした。

 それで、実質的には引っ張って行かれたわけですが、いざ入ってみると、かつての梅小路機関車館の頃とは全く違った立派な施設と数多くの展示車輌の姿に驚かされました。エントランスから入ると、上図の長い駅構内をイメージしたプロムナードに並ぶ新旧の車輌の姿がドンと表れて、ジリジリと迫力をもって眼前にせまってくるのでした。

 

 おお、栄光のC62形だ・・・。おや、26号機?・・・これ見た事あるような・・・、確かこれは大阪弁天町にあった交通科学博物館の展示機だったかな・・・。そうか、交通科学博物館が閉鎖したからこっちに引き取られたわけか。

 すると、京都鉄道博物館には梅小路機関車庫の1号機と2号機も居る筈なので、C62形が3輌もあるわけか・・・。

 

 私の記憶に間違いがなければ、このC62形26号機は、現存する唯一の川崎車輌製造の車輌だった筈です。亡父の資料類か何かで読んだのですが、C62形は計49輌が発注され、日立製作所、川崎車輛、汽車製造の三つのメーカーが分担して製造しましたが、現存するのは5輌のみで、その4輌までが日立製作所の製造になります。

 嫁さんが「銀河鉄道999」の機関車やー、と楽しそうにスマホで撮っていました。そういえば、この前ゆるキャン聖地巡礼で行ってきた、群馬県の碓氷峠鉄道文化むらの屋外展示の蒸気機関車に「銀河鉄道999」のヘッドマーク付けてたなあ、あれはC62形じゃなくてD51形のナメクジだったなあ、と思い出しました。

 

 C62形26号機の隣には、何やら古めかしそうな車輌がいました。車体カラーこそ115系でお馴染みの湘南色ですが、そのカラーの最も古い車輌かなあ、と思いました。

 

 その説明板です。なるほど、戦後初の長距離電車として東海道本線や山陽本線で活躍した車輌だったか、と知りました。後ろに同系のモハ80形が繋がっていて、2輌編成のような形で展示されています。

 嫁さんが「これはクハだから制御の機械がついてて、運転席付きで、向こうがモハだからエンジンがついてる・・・」と自身の鉄道知識を確認するように呟いていました。その横顔へ、エンジンじゃなくてモーターやで、モはモーターの事や、と小声で言い添えておきました。

 

 プロムナードの一番右側には、新幹線の0系車輌の4輌編成がありました。子供の頃の昭和40年代、初めて新幹線に乗ったときはこの0系でしたし、今でも新幹線の基本的なイメージはこの懐かしい姿のままです。

 いまの新幹線の最新の車輌は数えて6世代目にあたるN700Sで、これは前回の群馬ゆるキャン聖地巡礼の時にも乗りましたが、初めて乗った0系の印象にくらべると隔世の感があり、乗り心地も静粛性も格段に向上しています。それでも個人的には「夢の超特急」といえば0系だなあ、と思います。

 0系の保存車輌はいまも各地にありますが、ここ京都鉄道博物館の展示車輌はトップナンバー車で、1964年3月に落成した1次車の先行製造車にあたります。1978年に廃車後、交通科学館に保存展示されていたのを引き取ったものです。日本の鉄道史の金字塔的な存在であることにより、2007年に機械遺産に、2008年に鉄道記念物に、2009年に重要科学技術史資料に指定され、文化財に準じた扱いを受けています。

 

 プロムナードの奥には幾つかの旧型の客車が並んでいます。そのうちの上図のナシ20形食堂車は、寝台特急「ブルートレイン」の食堂車であったもので、現在も館内の食堂車、お弁当販売ブースとして公開されています。

 嫁さんが「ちょっと中見てきていい?」と言うので外で待っていたら、すぐに出てきて「家族連れで満席でしたー」と戻ってきました。子供達にも人気があるようで、館内での食事をここで楽しむ人も多いそうです。

 

 プロムナード内には旧型の食堂車であった上図のスシ28形301号車も展示されています。嫁さんが「スシって、寿司のこと?」と訊くので「いや違うで、車輌記号のひとつで、スは37.5から42.5トンのクラス、シは食堂車の意味や」と説明しました。

 

 続けて「そしたら28形ってのも何かの意味があるんですか?」と訊かれましたが、「これは確か10の位の数字と1の位の数字でそれぞれに意味があって・・・、ええと、20はちょっと分からん・・・、8は車台の形式が3軸のボギー車であるんやったかな・・・」と述べるにとどまりました。

 

 嫁さんはすぐに台車を見にいき、「ほんまですねー、3軸ですよ。こういうのがボギー台車なんですねえ」と感心しつつスマホで撮り、メモしていました。

 それで、ボギーというのは、車体の方向とは独立に曲線部などを走れるようにした台車のことで、それを装備した車輌のことをボギー車と呼んだんだ、と説明しておきました。

 20のほうは、全然分かりませんでしたので、帰宅後に亡父の資料類にある「車両記号表 昭和16年(1941年)制定  昭和28年(1593年)改訂分」をひも解いて調べ、昭和32年以降に製造された軽量客車の慣習記号だと知りました。横で読んでいた嫁さんが「慣習記号なんてあるんですねえ、正式な記号じゃないんですねえ・・・」と感心していました。

 この「車両記号表 昭和16年(1941年)制定 昭和28年(1593年)改訂分」は、日本車輌の公式サイトでも公開されていて見られます。こちら
 これを含めた記事群「鉄道知識の壺」は、Nゲージを初めて以降、鉄道知識を学ぶための基本資料として重宝しています。嫁さんもよくプリントアウトして使っています。

 

 さらに嫁さんは妻面の下方に打たれた上図の複数の銘板を熱心に見ていました。

「これ、一番下の右の日本車輌の昭和八年ってのが最初の銘板ですよね」
「そうやな、製造されたときのな」
「その上の日本国有鉄道ってのが、納車先なわけですね」
「そう」
「あとの三つはそれぞれの工場で改造した年の銘板ですね」
「うん、あちこち改造してるんやな」
「旭川って、北海道ですよね?・・・高砂は兵庫県の高砂市ですよね、あと、他で鷹取ってのもよく見ますけど、鷹取はどこかなあ・・・」
「神戸や。須磨区にあった」
「あった、って過去形?今は無くなってるんですか?」
「うん、阪神淡路大震災でやられてな、跡地も市街地復興事業で提供して、工場の機能そのものは兵庫県の網干(あぼし)ってところに移して、いまの網干総合車両所になってる筈」
「ふーん」

 

 スシ28形301号車の隣には上図のマロネフ59形1号車があります。戦前に製造された皇室・貴賓客用の寝台客車で、御料車の一種です。いわゆる「お召列車」を編成したうちの1輌です。戦前からの製造順に1号、2号と付けられたなかの14号御料車にあたり、1938年に国鉄鷹取工場にて昭和天皇の弟宮や貴賓客専用として製造されました。

 マロネフのマは42.5から47.5トンクラス、ロネは戦前の上級寝台車、フは車掌室および制御器を有する客車の意味で緩急車とも呼ばれます。59形の5は鋼製客車、9は3軸ボギー車を意味します。

 戦前、戦後を通じて製造された御料車は、幾つかが埼玉の鉄道博物館や愛知の博物館明治村にて保存されており、外見は公開されていますが、皇室の専用車という特殊性の故に、車内への立ち入りは不可となっています。
 ですが、ここのマロネフ59形1号車だけはイベント等で内部が公開されたことがあります。つまり、車内に入れる可能性がある唯一の皇族・貴賓用客車であるわけです。
 それで、嫁さんが「次の公開イベントに絶対中に入りたい」と言いましたが、私も車内に入りたいです。

 

 プロムナードの一番奥には、上図のクハ103形1号車があります。国鉄の通勤電車の代表格として長く親しまれた形式です。嫁さんも「大阪環状線で最近まで走ってましたよね?何度か乗りましたー」と話しました。

 

 運転席上の表示窓にもしっかり「大阪環状線」とあります。

 103系は、日本国有鉄道(国鉄)が設計し製造した直流通勤形電車の一種で、1963年から1984年までの21年間に3447両が製造され、東京、名古屋、大阪などの大都市および近郊区間にて活躍しました。大阪環状線では1969年からの約48年間を走り、2017年に最終運行便が引退しています。
 上図はそのトップナンバー車で、末期は阪和線で2011年まで活躍し、引退後は吹田工場に保管されていたのを、京都鉄道博物館の開館に際して収容されました。  (続く)

 

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二条城9 二の丸御殿 下

2025年02月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 「蘇鉄の間」と「黒書院」の連接部の戸袋を見た後、その真上の軒の重なりを見上げながら嫁さんが言いました。

「建物が繋がってるところの軒って、片方がもう片方の軒を切ってるみたいな感じになるんですね。軒同士を組み合わせて繋いだりしないんですねえ」
「まあ、そうやな。宮廷建築は割と屋根や軒とかを綺麗に繋ぐけど、武家の御殿建築は建物を主要なものから順に建てて、後で繋ぐという建て方をするケースが多かったらしいから、あのように軒は一方が切られる形になるな」
「蘇鉄の間のほうが後から追加されてるんですね」
「そうやな。黒書院は大広間に次ぐ格式を持つんで、将軍家と徳川譜代の大名や高位の公家などの対面所として使われたからな、建てた順番は黒書院のほうが先になるな」

 

「じゃあ、蘇鉄の間って、慶長の築城の時は単なる渡り廊下やったかもしれませんね?」
「その可能性はあるかもしれんな。寛永の大改修そのものが後水尾天皇の行幸を迎える為に行われてるからな、それ以前の慶長の建物は徳川家の私城レベルで造ってただろうから、もっと質素な実用本位の御殿だったかもしれん。蘇鉄の間なんてのも最初は無くて、ただの廊下やったから、寛永の改修でいまのような立派な廊下殿に建て直してると考えたほうが良いかも」
「うん、私もそう思いますー」

 

 それから「黒書院」を見ました。内部は五つの部屋に分かれ、東側の廊下空間も「牡丹の間」と呼ばれて障壁画で埋められます。その障壁画の一部は、慶長の築城時のものが残されている可能性が指摘されています。

「慶長の築城時の障壁画が残ってるということは、建物そのものも慶長の御殿の一部が残されている、ということなんですかね?」
「寛永の大改修でどれだけ直したかによるな。柱も壁も全部取り替えていたら、障壁画も全部撤去しないといけなかっただろうし、建物の一部だけを直したんであれば、もっと古式の部分が色々残っててもおかしくないんやけど・・・、でも文化財調査の報告書だとほぼ新築同然と述べてるし、ごく一部がかろうじて残された、ということやろうな」
「なんだか、もったいないですねえ、家康が築城した最初の御殿の景色も見てみたいですねえ」

 

 それから嫁さんは屋根の破風を見上げて、あー、とガッカリしたような声を上げました。

 

「どしたん?」
「うん、あの破風飾りとか瓦の家紋もみんな皇室の菊ですよ、德川家の御殿なのに三つ葉の葵紋が全然見えませんよ・・・」
「それは仕方ないやろ、大政奉還に明治維新で、二条城も召し上げで皇室の離宮になったんやから、ああいう装飾なんかは変えられてしまうもんやし・・・」
「でも現在は元離宮でしょ?皇室の所有じゃなくなって、京都府の所有になってるんでしょ?・・・なのに菊紋は付けたまんまで外さないんですよねー」
「なんやね、所有元が変わったから菊紋は外して京都府の府章つけろってか?六葉形のあれ・・・」
「えええ・・・、それは有り得ない・・・です・・ね・・・、あははは」

 

 二の丸御殿の北端に位置する「白書院」です。間取りは「黒書院」と共通ですが、規模は少し小さくなっており、内部の障壁画も水墨画がメインとなって落ち着いた空間意匠にまとめられています。徳川将軍の居間と寝室に使用された建物とされており、他の豪奢な建物とは趣が異なっています。

「要するに、いまの住宅で言う居間と寝室の組み合わせの基本形なんですよね」
「せやな」
「黒書院や大広間のほうは、現代風に言ったら応接間なんですよね」
「うん」
「で、式台が玄関、遠侍が待合室になるのかな」
「そうなるね」

 

 「白書院」から引き返して、もときた道を戻りました。戻りながら、嫁さんは並ぶ建物の屋根の破風や瓦などをずっと観察していましたが、「大広間」のそれを見上げた時に「あれー、破風の飾り物が外されてますねえ」と指さしました。

 

「ああ、ほんまやな。破風の飾り金具がほとんど外されてるな、菊紋も無くなってるな、なんでやろな」
「大広間の建物だからですかね?」
「分からんね」
「でも、なんかこう、このほうが德川家の御殿って雰囲気がしません?・・・あれ、・・・あっ!!」
「なんや、なに?」
「あれ、屋根のてっぺんのあれ見て、えーと、鬼瓦っていうんだっけ・・・」
「鬼瓦?」

 

「おお、德川の葵紋が付いたままやんか・・・」
「うん、德川の三つ葉葵、わー、初めて見たー、すごーい」
「確かにあれはすごい、元の鬼瓦がそのまま残されてるな、これは僕も初めて見たなあ・・・」
「あれですよ、あの紋がついててこそ二条城の御殿なわけですよね、德川の城のしるしですよ」
「ああ、そうやな」

 

 それからの嫁さんは大満足で上機嫌でした。「今日はもう時間が無いですから次に行きますよ、二条城はまた機会を見て行きましょう」と言いました。

「また行くの?」
「今日は内部を回りましたでしょ、外回りをまだ見てないですもんね・・・」
「え、外回り・・・、って、城の外濠の回りを一周するってこと?」
「ええ」
「なるほど、それは僕もやったことなかったねえ」
「あ、外回りは見て無かったんですか?」
「うん、北大手門と西門は昔に外から見たことあるけど、一周はしてなかったから、隅櫓とかは見てないんやな」
「じゃ、今度は外回り一周、決定ですよー」
「はいはい」

 

 ということで、二条城を後にして、次の目的地へと移動しました。その次の目的地こそが、嫁さんの本来の計画コースで、今回の二条城は思い付きで追加したのでした。だから、予定よりも早く、朝から出かけたわけでした。

 二条城には久し振りに行き、本丸御殿も初めて見ることが出来ましたが、数度目の訪問であったにもかかわらず、見ていなかった箇所、初めて見たような気がする場所などがあって、学びや気付きの多かった、楽しい半日となりました。
 嫁さんはお城の勉強も兼ねて色々楽しんでいましたが、私もそれ以上に面白味のある考察の積み重ねが出来て、思った以上に有意義な時間を過ごせたな、と思います。  (了)

 

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二条城8 二の丸御殿 上

2025年02月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南門から再度唐門をくぐり、左の園路に進んで、二の丸御殿の外観を見てゆきました。嫁さんが「二の丸御殿を構成している六つの建物って、外見とかに違いはあるんですか?」と訊いてきたからでした。私自身もあまり考えたことが無かったので、じゃあ、見て行こうか、となりました。

 二の丸御殿は、周知のように徳川家康が慶長六年(1601)に造営しましたが、その当時の建築は殆ど伝わっていないとされています。現在の建築は、後水尾天皇の二条城行幸に備えて寛永元年(1624)から同三年(1626)までに行われた大改修を経たもので、改修といってもほとんど新築に近いものでありました。

 なので、現在の御殿は寛永の大改修時の状態を伝えており、内部の設えや障壁画についても寛永期の作であることが近年の研究で明らかになっています。

 

 二の丸御殿の南からの三つの建物を見ました。右より「遠侍」、「式台」、「大広間」です。江戸期の古絵図にはそれぞれ「御遠侍」、「御式台」、「御広間」と記されています。

 

 そのうちの「式台」の手前まで近づくことが出来ます。園路は「式台」の手前の柵までとなっており、上図の右前に柵が見えます。

 「式台」は、二つの部屋から成ります。南側の「式台の間」と北側の「老中の間」があり、ここで老中と大名が挨拶をかわし、将軍への取次ぎが行われました。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。

 ちなみに徳川将軍家以外の諸家諸藩の城の御殿は、復元図や古絵図資料などを見ますと、「式台」と「遠侍」が逆であったり、「遠侍」に該当する建物が別になっていたりします。
 諸藩の御殿の基本形式は徳川家のそれに倣ったとされていますが、その場合、いまの二条城二の丸御殿のレイアウトが基本タイプと見なされますので、それを参考にしてゆくと、諸藩の城の御殿の様子や特色がある程度わかってまいります。

 

 「式台」の横から「遠侍」を見ました。「遠侍」の右奥に玄関である「車寄」の檜皮屋根が見えました。

 「遠侍」は二の丸御殿の六棟の建物のなかで最も規模が大きく、内部も九つの空間に分けられます。二の丸御殿を訪れた人がまず通されて、対面を待つ場所です。 来客の身分や職制に応じた部屋割りがなされ、一の間から三の間、柳の間、若松の間、芙蓉の間、そして勅使の間があります。
 それぞれの部屋の襖や壁には金地の障壁画「竹林豹虎図」が描かれており、虎之間とも呼ばれました。

 

 こちらは「大広間」です。二の丸御殿の諸建築のなかで最も格式が高い建物です。徳川将軍家の表向きの対面に用いられた公式的かつ儀礼的空間であり、将軍が諸大名と対面する際に使用されました。内部は五つの部屋に分かれ、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間から成ります。

 

 「大広間」の外装は障子戸で統一されています。縁側が回りますが、基本的に縁側へ出るとか、縁側に上るとかのケースはあまり無かったそうで、障子戸を開け放って庭園を鑑賞する際にも廊下から眺めたといいます。
 その場合は縁側の下に護衛の侍が控えており、縁側があることによって彼らの姿が廊下から見えないようになっていたといいます。

 

 嫁さんが「式台」と「遠侍」の連接部の西側に付く上図の黒っぽい施設を指して「あれ何ですか?将軍家の隠密の部屋?」とのたまいました。ただの戸袋や、と答えると「トブクロ、ってなに?」と再び訊いてきました。

 君は戸袋を知らんのか、障子や雨戸を収納するための箱状の施設やけど、と教えると「ふーん、宮廷建築にはあんまり見かけない施設なので分からなかった・・・」と言いつつ、メモに書き込んでいました。

 そういえば、嫁さんの専門である平安期からの宮廷建築、皇族の宮殿や公家の邸宅建築には、こういう戸袋はあんまり無いな、障子や雨戸自体が武家建築の書院造のパーツだったなあ、と思い出しました。

 ですが、中世以降の宮廷建築や公家邸宅建築には逆に武家建築からの影響があったりしたようで、江戸期の建築になると書院造の基本パーツも武家と公家であまり違いがなくなってきます。

 

 二の丸御殿の西側に広がる庭園の苑池です。これも寛永の大改修によって造り替えられたもので、「八陣の庭」とも呼ばれます。典型的な池泉回遊式庭園の形式で、小堀遠州の代表作として挙げられています。

 

 「大広間」の北に繋がる「蘇鉄の間」の建物を見ました。「蘇鉄の間」は「大広間」と「黒書院」を繋ぐ廊下殿で、外の西側に広がる庭園に蘇鉄が植えられているのが見えるようになっています。

 ちなみに、蘇鉄とは、熱帯や亜熱帯地域に自生するソテツ科の植物を指します。「生きた化石」と呼ばれ、原始的なシダ植物の形態を残した起源の極めて古い植物です。

 日本では蘇鉄は、九州南部より以南の地域に一種だけが自生するとされ、関東より南の地域では、路地植えの庭園樹木として古くから親しまれてきた歴史があります。京都でも古社寺の歴史的な庭園や京町家の庭木として数多くみられ、有名な所ではここ二条城の蘇鉄のほか、京都御所や仙洞御所、桂離宮、西本願寺の大書院庭園などの蘇鉄が有名です。
 城郭では、各地の主要城郭の御殿の区画に植えられたものが現存している例が多く、大阪城や岡山城、掛川城、川越城などに見られます。

 

 なので、ここの「蘇鉄の間」も、庭園の蘇鉄を鑑賞するための空間であったと言えるでしょう。この建物だけが障子と板戸とを交互に並べているのも、歩きながら庭園鑑賞が出来るように障子を等間隔で開けるからです。

 

 「蘇鉄の間」の北には、上図の「黒書院」があります。その連接部にも戸袋が設けてありますが、嫁さんはわざわざ指差して「とぶくろ」と声に出し、「よし覚えましたよー」とのたまうのでした。  (続く)

 

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二条城7 桃山門、南門

2025年02月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南中仕切門から東に進んで、本丸外堀の南東隅まで来ました。嫁さんが左手の上図の景色を指して「これも絵になりますねえ、時代劇のロケで使ってるわけですね、水戸黄門の水戸城とか・・・」と言いました。

 

 本丸の東虎口の櫓門と東橋です。櫓門の内側に塀が続きます。寛永改修時は、後水尾天皇の行幸に際して橋を二階建ての廊下橋とし、そのまま櫓門の二階を通って通廊を経て本丸御殿に入れるようになっていましたから、現在の東櫓門の二階建ての姿は、その名残であることが理解出来ます。

 ちなみに廊下橋に続く溜蔵と橋の手前までの二階廊下は、昭和の初めまで残っていて、昭和五年(1930)に解体されましたが、その部材は現在も土蔵に保管されているそうです。今後の復元が計画されているのかどうかは知りませんが、元通りに建てると、現在の本丸東虎口への見学順路を遮断する形になります。それで色々と支障が生じるために、復元の話が持ち上がらないのかもしれません。

 

 外堀沿いに左折して北にある上図の立派な長屋門に行きました。本丸東虎口への動線を北の鳴子門とともに遮断する防御線としての城門で、桃山門といい、寛永改修時の建築遺構の一部をとどめるものとして国の重要文化財に指定されています。

 

 桃山門の案内説明板です。嫁さんが読み始めてすぐに私を振り返り、「寛永行幸時の絵図には、て書いてありますけど、そういう絵図があるんですか」と訊きました。

「あるよ。江戸幕府の京都大工頭を勤めた中井家に伝来してる古文書の古絵図のなかに二条城関連のものが幾つかあるんやけど、寛永行幸時の絵図、ってのは「二条御城中絵図」のことで、当時の城内の建物の配置や名称が詳しく記されてる。雑誌やお城の本に載ってる二条城の復元イラストは、だいたいこれを参考にしてるはず」
「その絵図、見ることが出来るんですか?」
「出来る。ちょっとスマホ貸してみ、君も見られるようにしておこうか・・・・・・・・はい、これ」
「あー、職場のデジタルアーカイブなんですねえ、ほんまに「二条御城中絵図」ってある、あっ、建物が三色に色分けされてる、あー、本丸の建物みんな描いてありますね、多聞櫓も天守閣もみえる・・、これ凄ーい、いまじゃ無くなってる建物が色々ある、面白いわあ・・・」
「で、ここ桃山門のあたりを見てみ?」
「ええーと、こっちか、これですかね・・・えっ、ええーっ、なに、建物がずらっと並んでるじゃないですか、ここにも御殿が建ち並んでいたんですか・・・」
「その左側の建物の名前、分かる?」
「あれ、逆さまになってますね、でも読めます、権大納言、です」
「そう。寛永行幸時の権大納言の居間なんやけど、当時の権大納言は誰だったか、君は分かるんやろ?」
「後水尾天皇の時でしょ、二条城に同行してるから武家伝奏(ぶけてんそう)も務めてる筈ね・・・、広橋兼勝(ひろはしかねかつ)は違うな・・・元和に亡くなってるから。すると次の三条西実条(さんじょうにしさねえだ )かなあ・・・」
「そういうふうにパッと人名を思い出せるのな、流石やな・・・。で、その権大納言の建物の南にある大きな建物の名前、見てみ?」
「ええと、えーと、これ?・・・えっ、行幸御殿?・・じゃあ、後水尾天皇の御殿がここに建てられてたの」
「そう。その絵図は寛永行幸時に建設された行幸御殿以下の建築群が全部描かれてる。これがずっと、こう、本丸まで長い建物で繋がって廊下橋で東門を通ってる。分かる?」
「うん、これ、この御長局って建物ですね。その左に中宮御殿があるのね、東福門院徳川和子の御殿ですね」
「その中宮御殿の上の部分が御長局と繋がるあたりに通路をはさむ二つの部屋がある建物があるやろ」
「うん、名前とか書いてないですけど、これが今の桃山門の位置になりますねえ」
「その部分だけ建物を残して、長屋門の形式に造り替えたのがこの桃山門なんだろうというわけや」
「なるほどー、だから北の鳴子門と全然違って立派な城門になってるわけですねえ、もとは行幸御殿や中宮御殿からの通廊下殿の建物だったのが、形を変えていまに伝わってるわけですか」

 

 桃山門は、「二条御城中絵図」では御殿に連接する通廊下殿の建物にあたるようで、その間取りをほぼ活かして通路空間であった部分をそのまま城門の戸口に改造したような構えになっています。
 そのため、上図のように門口は太い堅固な木を使って鉄板張りとしていますが、門口の上の軒は城門らしからぬ雅な宮廷建築の造りのままで、横の建物も御殿風の細い柱と広い白壁に包まれています。

 

 脇戸も追加され、その横の壁にも格子窓を追加して監視機能を持たせてあります。もとの御殿通廊下殿の建物をどのように改造したかがよく分かります。

 

 脇戸の内側です。城門の脇戸にしてはがっしりした造りになっていません。むしろ普通の扉板の造りです。

 

 そして門の内部の左右にはこのような広い空間があります。上図は東側の部屋で、城門には珍しく、天井板がはめ込んであります。御殿の建築群の内部空間のひとつがそのまま残されているような雰囲気です。

 

 こちらは西側の部屋です。屋根裏の木組みも全部見えますが、城郭建築の組み方ではありません。宮廷建築の組み方がそのまま残されているようです。

 

 桃山門から上図の東櫓門までは、現在は土塁に沿った道になっていますが、寛永行幸時は御長局と呼ばれた長い通廊殿が東櫓門の前の廊下橋まで続いていたわけです。この御長局の北の突き当りに溜櫓と呼ばれる建物があり、これが本丸への廊下橋の連接部にあたっていたわけです。

 その溜櫓は、前述したように昭和五年(1930)に二階廊下とともに解体され、その部材は現在も土蔵に保管されているそうですから、復元しようと思えば出来る筈です。当時の古写真でその姿を見ることが出来ますが、なかなか立派な建物です。出来れば元通りに復元してほしいなあ、と思います。

 

 桃山門から引き返して、二の丸の南側へ進みました。まもなく右手、南側に上図の門が見えてきました。嫁さんが「これ、高麗門っていうんですよね」と言いました。そうだ、と頷いておきました。

 

 南門の案内説明板です。御覧の通り、大正天皇の即位式の饗宴に際して新たに設けられた門である旨が記されています。つまりは徳川期二条城にはもともと無かった門であるわけです。

「この門は、饗宴が終わってもそのままにして、撤去しなかったんですねえ」
「ここは当時は皇室の離宮やったからね、南向きなので、離宮の正式な門にあたるしね」
「そういうことですよね」

 この南門とともに建てられた大饗宴場は、即位大典の儀式の後に解体撤去され、廃材が岡崎公園に建てられた京都公会堂の建物に転用されていますが、その京都公会堂も廃されて、現在は京都会館に建て替わっています。ロームシアター京都と呼ばれる建物のことです。  (続く)

 

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二条城6 旧二条城石垣、土蔵、南中仕切門

2025年01月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 二条城本丸の西口から西橋を渡って外郭の園路に出て、そこから左寄りの西へ進むと、上図の小さな石積みの遺構があります。

 

 案内説明板には、旧二条城の石垣を移築保存したものである旨が述べられています。旧二条城とは、織田信長が足利義昭のために建造した「武家御城」と記載される城館を指し、現在の二条城とは違う場所にありました。

 この旧二条城を訪れたルイス・フロイスの著書「日本史」によれば、城の範囲は三街分あったこと、石材に石仏や石塔を用いたこと、つり上げ橋のある堀をもつこと、この堀に3箇所の入口があったことなどが記載されています。

 

 旧二条城の位置は、京都御苑の西側で、その規模は現在の町名でいうと上京区の両御霊町、御霊町、近衛町、桜鶴円町のあたりに該当します。現地は市街地化しているため、遺構は地下にしか存在していませんが、これまでの数次にわたる発掘調査によって様々な遺構が検出されています。

 主な遺構としては、北辺の外堀、北辺の内堀、南辺の内堀、南辺の外堀とみられる部分が確認されており、それぞれの堀には転用石を多用した石垣が使用されています。上図はその石垣の一部を移築して保存公開しており、同じ種類の移築石垣が京都御苑の椹木口(さわらぎぐち)近くにもあります。

 

 石垣に多く使われた転用石というのは、多くが中世の石造品で、上図のような五輪塔の火輪部や石仏がみられます。中には古代の礎石とみられるものもあり、一部は平安期の宮城建築のそれではないかとされていますが、確証はありません。

 

 石垣に含まれる転用石を見てゆくと、五輪塔の火輪部が多数を占めているのが分かります。三角形をしているため、据え付けるのに適していて、石垣の基部に多くが埋め込まれています。多くは風化摩滅がみられ、石垣の材料として運ばれてきた時点で相当の年月を経た古いものであったことを伺わせます。嫁さんが言いました。

「織田信長の頃の京都って、あんまり石材が無かったんですかね、周りの山にも石切り場ってあんまり見かけないですしね・・・」
「そうやな。豊臣政権期の築城でも四国とか紀州とかの遠隔地から石材を調達してるしな」
「五輪塔や石仏なら幾らでもあったんでしょうけど、応仁の乱とかでも徴発されてたりして転用されてますよね」
「うん、信長が始めたことじゃないからな。戦国期にはどこでも似たような転用例があったし。古墳の石棺まで石垣に利用しちゃってるケースもあるし」
「五輪塔が多いのは、五つの部品から成っててバラしやすくて、割と小さいから運びやすかった、ていうのもあるんでしょう」
「そういうことやろうな」

 

「例えばこれや。五輪塔の火輪やけど、なにか後から彫り窪めて加工した跡がある。石垣に転用される前に、何かに転用されてたような感じやな・・・」
「言われてみれば、そんな感じですねえ、あちこち打ち欠いたような感じですねえ」

 

「あの長方形の石はなんですかね?」
「これか」
「ええ、何かの石材みたいに見えます・・・」
「うん、石仏や五輪塔ではないな。真ん中に突起を造り出してあるんで、礎石なのか、それとも組み合わせるための石材かもしれん」
「橋とかの脚の部分?」
「あー、それらしくも見えるねえ」

 

「こういう石垣の石の積み方って、野面積み(のづらづみ)と呼ぶんですかね?・・・それとも、乱積み(らんづみ)でしたっけ?」
「これは野面積みやな・・・」
「あのう、野面積みと乱積みってお城の本とかで見ると、なんか似たようなものに見えるんですけど、見分け方ってあります?」
「この石垣の積み方を見てみい、石を積むときに、似たような大きさの石を下から順に重ねて積むと、大体は石の並びが横にまっすぐになるんで、横のラインが見えてくる。これもそうやから、下から一段、二段、三段、四段目まであって、左側だけ五段目も残ってる」
「うん」
「乱積みやと、石の大きさを合わせないでそのまま不規則に積み上げるから、横のラインが、これ目地というか継ぎ目なんやけど、そういうラインも無くなる。そこが識別点かな」
「つまり、綺麗に重ねて積んであるかどうか、ということですね。重ねてあったら野面積みで、不揃いやったら乱積み、とみたらええんですか」
「大体はそういうことになる」
「技術的にはどっちが新しいんですか?」
「乱積み。不規則に積みつつも崩れないように固めて堅固に築くんで、専門の石工ならばでの高い技術力が必要になる。中世戦国期にはあんまり見ない。織田豊臣政権期の城から見られ始める」
「ふーん」

 

「これ、発掘された遺構を移築してるってことですけど、元々この規模の小さな石垣なんですかね?」
「もとの石垣の規模よりは小さくなってるやろうな。堀の石垣やったらしいが、堀が空堀であれ水堀であれ、この高さでは足りん。もう少し高く積んであったんやろう、思う」
「上半分ぐらいが無くなっちゃってるわけですか?」
「たぶんな。旧二条城は足利義昭の居城やったが、信長による義昭の追放で廃城となって破却して、石を安土城へ運んだりしてるから、石垣もそのまま残されたとは考えにくいからな」
「じゃあ、これは、破却された後に残ってた石垣ってことですかね」
「そう見たほうがええんやないかな」

 城郭の石垣についても熱心に実際の遺物を観察し、私との質疑応答で得られた知識をきちんとメモする嫁さんでした。もともと歴史が好きで、文化財に対する好奇心が旺盛で、向学心も豊かな、賢いモケジョさんです。

 

 それから園路に戻って南へ向かい、上図の南米蔵の横を通りました。

 

 その南米蔵の案内説明板です。嫁さんが一通り読んだ後に訊いてきました。

「この米蔵、国の重要文化財になってますけど、文化財の公開義務とやらによって内部とか一般公開されたことはあるんですかね?」
「さあ、どうかなあ、公開されたって聞いたこと無いなあ。櫓や門は時々に特別公開があったりするけど、これらの土蔵は公開の必要が無いから対象外になってるんじゃないかなあ・・・」
「そうなんですか・・・、いっぺん中を見たいなあ、と思ったんです・・・」
「土蔵の中、ていうても格段変わったものでもないよ。普通の土蔵と同じ内部やで」
「そうなんですか・・・」

 

 それから本丸の水濠に沿って南側へ回り、梅林の中を進んで東へ行くと、石垣で仕切られた場所があり、道が左にクランクして上図の城門が構えられています。いわゆる「埋門(うずみもん)」形式で、本丸の外郭の東西の防御線の要となる中仕切門の一種で、これは南側にあるので南中仕切門と呼ばれます。寛永の本丸築城時の遺構で、国の重要文化財に指定されています。

 

 南中仕切門の案内説明板です。嫁さんが「埋門の形は姫路城が有名で、高松城にもある、て書いてありますけど、どっちも実際に見てますの?」と訊いてきました。大きく頷いておきました。

「姫路城のは、確か「る」の門やな。ここの門と違って石垣の中に小さく目立たないように造ってある。高松城のも同じタイプやけど、板戸がついてて通れへんかった気がする」
「他の城にもあるんですか?」
「いっぱいあるよ。石垣の切れ目に門を置いてるのは大体埋門タイプやで。ここ二条城でも、本丸の東西の虎口の内側の「御門」が多聞櫓の下の石垣にはさまれてる形やったから、それも埋門タイプになるな」
「あ、そうなんですかー」

 

「この門は、どっちが正面になるんですか?向こう?」
「そう、向こうが正面。こっちは城内側になるから内側になる。門扉もこっちに開いてるやろ」
「あっ、そうか、そういえば城門の扉は内開きですもんね・・・」

 

 それで門扉の表側に近寄って、上図の潜り戸を確認する嫁さんでした。
「あー、この扉も表に引手、把手が全然ありませんねー、扉を動かしたくても手をかける所が無いー」

 

「この門の蝶番も立派ですねー」
「しかも錆が表面だけでしっかりしてるやろ、鍛造の際に鋼を組み合わせて錆びにくい質の鉄に鍛えてる」
「ですねー、なんか、かっこいい・・・」

 

「あと、屋根も見ておいてくれ、ここのは招造(まねきづくり)と言ってな、屋根は切妻造りやけど、棟(むね)から下がる片方を長く造って、もう片方を短く切ってある。ほら、正面の屋根が短い。その下に庇を付けてるから屋根が二重に見えるやろ・・・」
「ええ、屋根が二重に見えますねえ、下のは庇で、上が屋根なんですね、招造ですか・・・」

 そう言ってメモに書いて、再び「まねき、づくり」と復唱して覚えていた嫁さんでした。  (続く)

 

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二条城5 本丸御殿、西橋

2025年01月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 本丸の天守台に登りまして、周囲を見回しました。嫁さんも私も、天守台に登るのは今回が初めてでしたので、本丸を中心とした四方の景色がいずれも見応えがあって、20分ぐらいはとどまって眺めていました。嫁さんは北に見える上図の西門跡を最も長く見ていました。

「あの西門跡も張り出してますねえ、東の櫓門よりも張り出しが広いですねえ、お城の本でよく見かける枡形(ますがた)っていう部分はああいう場所ですか?」
「うん、あれも枡形やな。基本的には、動線を二度直角にクランクさせて、敵が城内にストレートに進めないようにしたものを枡形というの。城の出入り口を虎口(こぐち)というんやけど、その虎口の動線を枡形にしたものを枡形虎口と呼ぶの」
「ふーん、枡形虎口、ですね」
「そう、一般的に枡形虎口は塀や石垣で区切った四角い空間に二つの門を配置して造られる空間なんやけど、あの西門もそういう枡形虎口の構えになってた。いまは門や建物が全然残ってへんけれど、江戸期はあの橋が架かってる内側に門があって、内側の石垣の塁線上に建ってた多聞櫓の真下に門があったから、二重の門構えになってた。古絵図ではどちらも「御門」と書かれてるんで、東櫓門みたいに「二階御門」とは書いてない」
「あっ、だからさっき東櫓門のところで、西も同じ櫓門かどうかは分かんない、て言ってたわけですね」
「うん、枡形虎口としては西側のほうが防御効果が高い。門と門の間の空間が広いから、一定の人数を配置出来るし、ここ天守台からもこう、見下ろせるやろ、ここから火縄銃で撃っても充分に届く。向こう側の隅にも三階建ての櫓が建っていたから、西の門は両側の天守閣と三階櫓からもガードされてたわけ」
「うん、分かります。めちゃめちゃ護りが固い門ですねー」

 

 その西門から内側にも門を経て通路がクランクしていて、江戸期は多聞櫓と本丸御殿の土蔵とにはさまれた通路空間が東の櫓門の内側の通路空間に繋がっていました。
 そのため、本丸へ侵入した敵はその狭い通路空間に閉じ込められて三階櫓や多聞櫓から迎撃にさらされ、本丸御殿の土蔵が塀代わりになっていましたから、本丸御殿に入ることも難しく、東西の門の守備兵の反撃を受けて相当のダメージを受けます。
 かつての本丸御殿は、いまのような旧宮家の御殿建築とは違って、戦闘時には防御区画として機能するように造られていましたから、天明の大火の飛び火で焼けてしまわなければ、現在も国宝指定を受けて見られたかもしれません。

 残念ですねえ、と嫁さん。

 

 天守台から西の南寄りには上図の細長い建物が見下ろせます。城内に幾つかあった米蔵のひとつ、南米蔵です。北に位置する北米蔵とともに寛永改修の本丸増築時の建物で、国の重要文化財に指定されています。

 

 それから東の端へ移動して東の景色を見ました。本丸を囲む水濠の静かな水面が鏡のように見え、に木々の影や建物の姿が水面にも写っていました。嫁さんが「そういえば」と私を振り返りました。

「ここに建っていた天守閣、説明板では寛延三年(1750)に落雷で焼失、とありましたけど、伏見城からの移築だったらしいですね」
「まあ、そういうことになってるな」
「それで思ったんですけど、慶長の築城の時に二の丸の北西隅に建ってた天守閣はどうしたんですか?こっちに移さなかったんですかね?」
「ああ、それはな、寛永改修の時に淀城に移築したということになってる。確か、淀城天守閣は指図とかの古絵図が残されてるんで、建物の形や構造が判明していると聞いた」
「ふーん、なんで淀城へ移しちゃったんですかね」
「そりゃ、二条城の寛永改修よりも前に淀城の築城が始まってたからね。秀忠の側近、久松松平家の越中守家綱が淀に入部して、廃止された伏見城に代わる山城国の重要拠点として淀城を築いてたんで、これが元和九年(1623)やった筈。二条城の改修が始まったんはその翌年からなんで、江戸幕府としては、山城国での布石として淀城の築城と二条城の改修をセットで進めていたことになるわけ。だから二条城の最初の天守閣は淀城へ、というのも計画のうちにあったんやろうと思う」
「でも、でもですよ、淀城からみたら伏見城のほうがうんと近いじゃないですか、伏見城の天守閣を移せば楽でいいのに、わざわざ遠くの二条城から移してきて、伏見城のもわざわざ遠くの二条城へ持っていくって、かなり手間とか費用を無駄にかけてるような気がするんですよねえ」
「おー、君もそう思うか・・・、そうなんや、そうなんやよ・・・僕も同じことを思ったの。淀城の天守閣以外の建物はだいたい伏見城からの転用だったらしいので、なんで天守閣だけ別にしたんだ、って思った。どうしても二条城へ持っていかないといけない理由があったんかな、って調べてみたんやけど、全然分からないままなの・・・」

 

 デジカメの望遠モードで、東の桃山門や二の丸御殿の建築群の一部を引き寄せて撮りました。江戸期には本丸の石垣の上にぐるりと多聞櫓が続き、四隅には櫓および天守閣が建っていましたから、いまのような景色とは違ってもっと迫力がある城郭の構えの景色が望まれた筈です。二条城においても、失われた部分がかなり大きいのだと改めて理解出来ます。

 

 天守台を降りて、本丸庭園の園路を歩きました。

 

 本丸御殿へと向かいました。今回の一般公開は予約制で、時間ごとに人数を限って順番に見学するシステムでした。予約は全部嫁さんがやってくれましたので、私はついていくだけでした。

 

 本丸御殿の玄関口は西側にあります。もとの本丸御殿は先述のとおり玄関口が東側にあって、東櫓門からの虎口空間に連接していましたから、いまは建物も配置も全然違っていて玄関口も反対側になっていることが分かります。

 おかげで、二条城の最終防御区画にあたる本丸の本来の様子や城郭としての構えが、いまでは分かりにくくなっています。文化庁はそのあたりは放置しているようで、昔さかんに論議されていた本丸地区の一部の復元案というのも、立ち消えになったままです。

 

 本丸御殿の案内説明板です。これを読んだ後、係員の誘導で本丸御殿に入り、見学しました。内部の撮影は禁止でしたので、一切の画像はありません。

 

 約30分ほどで本丸御殿の見学を終えました。嫁さんは大満足だったようで、やっと旧桂宮邸の御殿建築を見ることが出来ました、と御機嫌でした。もとは京都御苑の旧桂宮邸跡にあったのを移築していますが、また元の場所へ移築して復元整備したらいいのに、などと話していました。

 嫁さんの言うように、いまの本丸御殿を再び旧位置に戻すことが出来れば、これまで不可能だった本丸地区の発掘などの学術調査、および江戸期本丸御殿の復元が可能となります。近年に復元が成った名古屋城本丸御殿よりも規模が大きくて立派だったとされる二条城本丸御殿ですから、その勇姿を見てみたいものです。

 上図は西門跡の虎口空間から北の水濠と北米蔵をみたところです。

 

 そして南には、本丸の石垣塁線と天守台が見えます。さっきまで登っていた天守台です。嫁さんが「あそこから火縄銃で撃てる、って聞きましたけど、西門に届くんですか?」と聞きました。

「江戸期の火縄銃は、確実に当たる有効射程距離がだいたい100メートル以内と聞くけど、角度をとって大きく弓なりに弾を飛ばしたら500メートルぐらいはいくらしい。命中率は思いっきり下がるけどな」
「ふーん」
「むしろ弓矢のほうが効果的かもしれん。和弓なら有効射程は200メートルぐらい、伸ばせばもっといくかも」
「そしたら天守台からも西門に届きますねー」
「せやから天守閣が西側に配置されてるのは、西門の防御を意識してると思う」
「うん、よく理解出来ましたー、お城っていろいろ面白いですねー」

 

 西橋を渡りながら西門の枡形虎口の空間を見ました。東櫓門の虎口よりも広くて、動線が左にクランクするのが分かります。奥に壁の如くそびえる高い石垣の上にはかつて多聞櫓が続いていましたから、その狭間から放たれる弓矢、鉄砲の射線が西門をカバーしていたことも分かります。

 西の「御門」は現存する東の門と同じ櫓門形式であったかどうかは分かりませんが、普通の二脚門または高麗門であったとしても、その固い枡形虎口と周囲の櫓からの防御射撃による効果により、護りがきわめて堅固であったことが伺えます。
 ひょっとすると、東門よりもこちらの方がガッチリかも、と嫁さんが話していましたが、同感でした。  (続く)

 

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二条城4 本丸櫓門、本丸庭園

2025年01月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鳴子門から南へ進むと、右手に本丸へと渡る東橋と本丸東櫓門が見えてきました。嫁さんが「時代劇とかでよく見る建物ですよー、水戸黄門だったかな、水戸城の門とお濠、て感じで出てたの見ましたよー」と嬉しそうに指差し、スマホを向けていました。

「これから本丸に向かうわけやが、家康が慶長八年に竣工させた時は二の丸部分だけやったから、この本丸はまだ無かったのよ」
「あ、そうなんですか。じゃあ、寛永の後水尾天皇行幸の際の改修の時に本丸を追加したんですかね?」
「そう、そういうこと。それで規模的には倍ぐらいになってる」
「なんでそんなに大きくしたんですか?改修って言うより増築と言う方が当たってません?」
「うん、実質的には増築なんやな。天守閣も慶長の時はいまの二の丸の北西隅に建ってたけど、それを撤去して、本丸の南西隅に新たに建ててるし、縄張り全体も大きく変わったから」
「後水尾天皇行幸の際に城を立派に造り直したってことですよね、それは、たぶん、天皇に徳川家の力を誇示するためですよね」
「そう。その解釈は正しい。後水尾天皇の時期ってのは紫衣事件があったりして幕府と朝廷が揉めてた時期やし、後水尾天皇もけっこう我儘やったから徳川将軍家は秀忠も家光も対応に苦慮してて、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)との絡みで、幕府としては圧力をかけざるを得なかった経緯がある」
「でも、結局は行幸で二条城に入られてるから、そのときは和解してるわけですよね。江戸時代の天皇で二条城に行幸したの、後水尾天皇だけでしょう・・・なんでかなあ・・・」
「ヒントは、中宮や」
「中宮・・・?・・あっ、分かった、東福門院ですね、德川和子(まさこ)ですね・・・。なるほど、そっかあ、正室の中宮は徳川家の出で家康の孫でしたね、つまり、奥さんの実家の城が二条城なわけで、旦那の後水尾がそこを訪問したという構図なわけですね」
「やっぱり分かったねえ、流石やな」
「えへへへ」
「要するに正室東福門院の実家としての徳川家の威信にかけて、本丸を増築して二の丸も大幅に改修したわけや」
「そういうことですね、なるほどー」
「だから、本丸部分は、実質的には後水尾天皇に見せる為に造られたといっても過言じゃない。本丸の天守閣もそのために建てたけど、狙いが当たって天皇は天守閣を気に入って二度も登られてる」
「ふーん」
「寛永の行幸御殿は二の丸の庭園の南側にあったんで、そこから天皇は廊下を渡って本丸へは東橋の廊下殿から入ってる。いまの東橋はただの橋やけど、寛永の時は二階の廊下橋になってたから、天皇は御殿からそのまま下へ降りることなく、建物づたいに本丸へ行ってた」
「じゃあ、いまのあの東橋は、その後で造り直したものなんですか」
「そういうことになる」

 

 その東橋を渡って、本丸東櫓門に向かいました。本丸に繋がる重要な東からの連絡路をかためる防御拠点として、窓の無い総塗込の白壁に包まれて防火耐火の備えを示しています。
 寛永の改修時の本丸増築に伴って東の虎口に設けられた城門で、中井家文書の江戸期の「二条御城中絵図」には「二階御門」と記されます。その通りの二階建ての櫓門です。

 この櫓門が二階建てであるのは、寛永の後水尾天皇行幸時に建てられた天皇用の行幸御殿がいまの二の丸庭園の南側にあり、そこから長局殿と廊下殿が伸びていて、本丸の東橋も当時は二階建ての廊下橋となって櫓門に繋がる構造であったことの名残でもあるようです。後水尾天皇は行幸御殿からずっと建物づたいに本丸へ渡り、そのまま本丸御殿や天守閣に登っていましたから、現在の東櫓門の二階部分を通っていたことになります。

 なので、二階部分の正面に窓が無いのも、もとは廊下橋が取り付いて通路空間になっていたからで、それを廊下橋の撤去後に壁で塞いだだけであったから、と推測出来ます。

 

 案内説明板です。「本丸の西にも西櫓門てのがあったんですねー、焼失とあるから今は無いわけですねー」と嫁さんが言いましたが、西櫓門に関しては疑問も少なくないことを話しておきました。

「西櫓門の何が疑問なんですか?」
「櫓門であったのかどうかは不明なんや・・・」
「違う形の門であった、という事ですか?」
「その可能性があるんやな。江戸期の二条城の古絵図とか見るとさ、こっちの東櫓門は「二階御門」と書いてあって建物の構造が正確に示されるんやけど、西のほうは単に「御門」としか書いてないのよ・・・」
「ふーん、二階じゃないんですかね」
「あと、門の配置や石垣との組み合わせも東と西では異なるんや。西の門跡は後で見に行くから、またその時に説明しようか」
「うん」

 

 話しながら本丸東櫓門をくぐりました。振り返って背面を見た嫁さんが「こっちにも窓が無いんですねー、側面にしか窓が無いわけだ、防御のために窓の数も最低限におさえたんですねー」と感心していました。

「窓は無いけどな、銃眼や狭間は内側にしっかり造ってある。隠し狭間や。戦闘になったら、中から白壁を突き破って狭間を現して、東橋を渡ってくる敵を弓や鉄砲で迎え撃つわけやな」
「やっぱり狭間が隠されてるんですかー、平和な江戸時代であっても、德川家は、幕府はいざというときの備えはしてたんですね」
「それが武家政権の本質やで」

 

「ちょっと戻って、内部の窓の造り方とか見たいです」
「なら、見ようか、・・・こんな感じやで」
「ふーん、こんなんなってるですか、窓の戸を開けても、太い格子がはめてあるから、中に入れないようになってますねー」
「窓を破られたら、本丸が危うくなるからな・・・」

 

 ついでに門口の内側も観察しました。御覧の通りの鉄板張りの堅固な造りでした。東大手門のそれと同じ手法で作られていますので、寛永の改修時に櫓門に造り替えたのも、東大手門と一緒の工事であったことが分かります。

 

 門扉に付く潜り戸を見ました。御覧のように頑丈に造られています。

「これは内側からしか開閉出来ないようになってる。外側は取っ手も引手もないから扉を動かせないのよ」
「あ、そうなんですか、ちょっと外側をもういっぺん見てきます」

 

 外側は御覧の通りでした。

「あー、ほんまに取っ手も引手もありませんねー、扉を動かそうにも出来ない。こういうのが門の防御の工夫なのかー」
 
 納得したらしく、何度も頷きながらスマホで撮る嫁さんでしたが、ふと何かを思い付いたような表情になり、訊いてきました。

「ここの護りを固めるには、こういう櫓門の形が一番だったということですか?他の形式の門では不足だったんですか?」
「というよりは、本丸自体は二条城の中心防御区画になるんで、有事の際には二の丸じゃ戦えないから本丸を陣場にすることになる。それに伴う対策としては、城郭としての最低限の構えを、可能な限りの固い防御施設で護る、ということに尽きるから、攻防の要となる東の虎口は櫓門でガッチリ護る、ということや」
「櫓門が一番固いんですか?」
「そう。屋根が付くから風雨もしのげる。雨が降ってても火縄銃が使える」
「あっ、そういうこと・・・」
「他の形式の門なら、雨の時は鉄砲が使えないけど、櫓門なら二階に鉄砲組を配置すれば、雨でも撃てる。高い所からの狙撃も、つるべ撃ちも可能になる。近代戦でいうとトーチカに機関銃が入ってるようなもんで、敵にとっては脅威この上ない」
「なるほどー、納得です」

 

 本丸東櫓門からの空間は、上図のように左右の高い石垣にはさまれています。現在は何もありませんが、中井家文書の江戸期の「二条御城中絵図」によれば、かつては高い石垣にはさまれた場所に「御門」がありました。現存する東櫓門と合わせて二重の門構えになっていたわけです。そして高い石垣の上には「御多門」と記される長い櫓が本丸の東辺いっぱいに続いていました。

「あのうえに塀じゃなくて櫓が続いていたんですか、で、この空間にも門があったわけで、今よりも厳重な守りの構えになってたわけですね。今も残っていたら、ものすごく立派に見えるでしょうね」
「だろうな、日本の城郭としては姫路城に次いで建物がよく残ってるとされる二条城だけど、残ってる建物よりも失われた建物のほうがはるかに多い。当然ながら城の外見の風景とかも、昔のままじゃないのやな」
「そうなんですね、江戸時代の二条城はもっともっと立派だったんですね」

 

 高い石垣に挟まれた「御門」跡を通ると通路は右にクランクし、二方向に設けられた階段へと続きます。嫁さんが「こうやって通路を屈折させるのもお城の防御のひとつなんですね」と言いました。

 敵が「御門」も破って侵入してきた場合、正面に石垣があるので真っ直ぐ進めず、石垣が左にも続くので左にも行けません。それでいったん足踏み状態になったところへ右の階段上から守備側が弓鉄砲をあびせてやっつける、という防御戦が展開されるわけです。

 ですが、この二方向の階段は、もう一つの意味を持ちます。かつての本丸御殿は寛永の改修時に新築されたものですが、その玄関口は東に向いており、ここの二方向の石段がそのまま本丸御殿玄関への登段部となっていたのでした。

 現在の本丸御殿は、二条城が皇室の離宮になった後の明治二十七年(1894)に、明治天皇の命によって京都御所の北にあった桂宮家の御殿の主要部を移したもので、寛永建立の本丸御殿とは外観もレイアウトも全く異なります。その玄関は反対側の西側にあります。

 

 その、かつての桂宮家の御殿主要部の建築群の南側へ回りました。旧宮家の御殿ですから、城郭の御殿建築とは全然違う雰囲気でした。嫁さんが「五摂家の邸宅とかも、こんなんだっただろうと思いますね」と言いました。

 

 本丸御殿は、長い間一般公開されていませんでしたから、嫁さんも私も今回が初めての見学でした。特に嫁さんは平安期以来の皇室、公家の歴史や宮廷文化、宮家の建築などに関心を持って、大学でも研究テーマにしていましたから、かつては京都御所の北側の旧桂宮邸跡に建っていたこの御殿が、現存する唯一の宮家建築であり、明治天皇や皇后、また皇太子時代の大正天皇や昭和天皇もここを利用されたのもよく知っています。

 それで、二条城本丸御殿のことを「もうひとつの京都御所でありますよ」と話していましたが、確かに離宮二条城の中心部の御所であったわけです。

 

 園路は、広い本丸御殿の芝生の庭園の中を回る感じで、歩きながら本丸御殿の建築群の様子を眺めることが出来ました。分岐からはかつて五階の天守閣が建っていた天守台へも行けるようになっていたので、嫁さんが「天守台に登りましょう、城内で一番高い場所でしょ、登ったら本丸御殿の全部が見えますよ」と言い、私の手をグイグイと引っ張ってゆくのでした。

 

 本丸庭園の案内説明板です。現在の本丸御殿が旧桂宮家御殿の移築で成立する前は、15代将軍徳川慶喜が建てた仮の御殿がありましたが、明治十四年(1881)頃に撤去されました。

「その仮の御殿ってのも残して欲しかったですねえー」
「残そうにも出来なかったんと違うかな、仮の御殿だったし、長く持たないような建物だったかもしれんて」
「あー、そうですよねー。残せなかったから、代わりに桂宮家の御殿を持ってきたのかー」
「でも、桂宮家は御殿を二条城へ持っていかれたあと、どこに住んどったのかね?」
「あっ、それはですね、その桂宮家はですね、天正の頃の八条宮の流れで、常磐井宮、京極宮と改称して、それから桂宮と改称して12代続いたんですが、最後の12代当主の淑子(すみこ)内親王が世継ぎが無いまま明治十四年(1881)に亡くなりまして、それで断絶となったんです。それで桂宮御殿も空き家になってしまったので、明治天皇が桂宮家を顕彰すべく二条城へ移して保存したという成り行きなんです」
「そうなのか、桂宮家は断絶していたのか・・・、あれ、ちょっと待った・・・、桂宮家宜仁(よしひと)親王殿下って居られたろ?・・・ええと、十年ぐらい前まで居られたよな?・・・確か、三笠宮家の次男にあたられる・・・」
「あー、その桂宮家は別なんですよー。宜仁親王が独身のまま宮家を創設して昭和天皇から「桂宮」の称号を賜ったのでして、一代限りで断絶になってます・・・」
「そうやったんか・・・」

 

 天守台に登って本丸御殿を一望しました。わー、なかなか立派ですね、と嫁さん。

「もとの徳川家の本丸御殿って、どのくらいの規模だったんですか?あの旧桂宮御殿と同じぐらい?」
「中井家伝来の古絵図、例えば「二条御城中絵図」とかを見ると、現在の二の丸御殿とほぼ同じぐらいの規模があるんで、ここの天守台の近くまで御殿の建物が並んでて、天守閣とも多聞櫓と廊下殿で繋がってた」
「わー、そしたらここの庭園のいっぱい木が並んでる所にも建物が並んでたわけですか、大きかったんですねー」
「そうやな。いまの本丸御殿の倍ぐらいの規模にはなるかな」
「残ってたら、間違いなく国宝になってますね」
「うん、天明の大火の飛び火で燃えてなければな・・・」

 天明の大火とは、天明八年(1788)正月30日に発生した京都の歴史上最大の火災です。鴨川の東、いまの団栗橋の付近より出火、東からの強い風に吹かれて鴨川を超えて西へひろがり,北と南へも拡大して二昼夜燃え続け、2月2日の朝にようやく鎮火しました。
 この大火で、北は鞍馬口通、南は七条通、東は鴨川の東、西は千本通までの範囲がまるまる焼けました。当時の京都市街がこの範囲でしたから、文字通りの焼け野原になってしまったわけです。

 被害は、幕府の「罹災記録」によれば、京都市中1967町のうち1424町が焼失、焼失家屋は3万6797、焼失世帯は6万5340、焼失寺院は201、焼失神社は37に及んだということです。幕府の京都所司代および東西両奉行所は全滅、京都御所や摂関家屋敷、東西の本願寺も焼けてしまいました。応仁の乱の被害をはるかに超えたとされています。

 このとき二条城も類焼し、本丸御殿のほかに隅櫓および多聞櫓の殆どを失いました。現在、石垣のみが残っている箇所がその類焼の範囲ですが、二条城の全盛期の建物全体の四割ぐらいに達しています。  (続く)

 

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二条城3 土蔵、北大手門、鳴子門

2025年01月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 二の丸御殿の内部を見学しました。内部は撮影禁止でしたので、御殿エリアで撮ったのは上図の白書院(はくしょいん)の外観のみでした。

 白書院は、二の丸御殿の建築群の一番奥に位置し、江戸期に「御座之間」などと呼ばれていました。徳川家の内向きの御殿空間にあたり、将軍の休息所および寝所として使用されました。入れるのは将軍と夫人(御台所)、側付きの女中のみであり、江戸城で言えば大奥に相当する空間でした。

 

 二の丸御殿を出た後の見学順路は嫁さんの希望に任せていましたので、「ここから北へ回って二の丸を一周しましょうか」というのに合わせてついていきました。上図の土蔵の横を通りました。

 

 二の丸御殿の北方には上図の土蔵が二棟、東と北に鉤型に並んでいます。いずれも国の重要文化財に指定されていますが、一般公開区域ではないので、東の土蔵は南側から上図のように見るだけでした。

 

 そして北の土蔵は東側から見るだけでした。東の土蔵のほうが長いですが、用途が米蔵であるのは共通です。

 

 嫁さんが「米蔵って、年貢米とかをしまっておいたわけですかね」と言いました。そうや、天領からの年貢米とかな、と応じておきました。嫁さんはさらに訊いてきました。

「天領って、二条城の置かれた山城国のそれですかね?」
「そういうのはあんまり調べた事無いんで、詳細はちょっと分からんけど、大体はそうやろうと思う。伏見奉行の管轄地と旗本の知行地とに分かれる筈・・・」
「伏見奉行って、聞いたことありますよ、いまの伏見区にあったんですよね?」
「そう、伏見城が廃城となった後の城跡を含めて周辺の七、八か村を管轄していた。確か、幕府の黎明期には畿内諸国を統括する上方郡代も兼ねてた筈。伏見区は江戸期は紀伊郡やったから、紀伊郡は全域が伏見奉行の所轄やったと思う」
「伏見奉行って、幕府の遠国奉行のひとつでしたよね、德川譜代の旗本が任命されたんですよね」
「いや、違うんじゃないかな、遠国奉行職は確かに旗本が任ぜられたけど、伏見奉行だけは別格でさ、上方郡代も兼ねてたし、主任務に京都御所の警備とか参勤交代の監視とかがあったから、一定の兵力を動員可能な大名格が任ぜられてたと思う、確か」
「ふーん、格が上だったんですね。じゃあ、旗本の知行地っていうのは?」
「旗本はな・・・、ええと、山城国で一番知られてるのは嵯峨の角倉氏やろうな」
「あっ、豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)の家ですね」
「うん、角倉家は戦国期より商人として活躍してるが、大坂の陣のときに徳川方の兵站を支援したんで、その功績で幕臣となって旗本に列してる。せやから、嵯峨とかその周辺、だいたい愛宕郡になるかな、愛宕郡の天領の代官を代々が勤めてた筈や」
「ふーん、他には?」
「他は、京都代官の小堀氏やな。京都代官は山城国の天領の大部分を統括していたから、いまの京都市だけじゃなくて宇治郡とか久世郡とか、南山城のほうまで大体の天領は小堀氏が治めてた筈・・・、あっ、あと多羅尾氏がいるな、綴喜郡の一部は多羅尾氏やったと思うが」
「多羅尾氏って、伊賀上野のほうじゃなかったですか?」
「うん、伊賀国にも居たけど、本流は近江国の甲賀じゃないかな、信楽代官を世襲で勤めてる。国境を跨いで山城国の一部を旗本領として任されてた、と聞いたことがある」
「ふーん、よう知ってますねえ」
「甲賀市の多羅尾の代官陣屋跡へ行ったことがあるからな。石垣が立派に残ってるよ・・・」

 

 話しているうちに、右手の北側に門が見えるところまで来ました。嫁さんが「北大手門ですねー」と言いつつスマホで撮っていました。

「東大手門と似たような立派な門ですねー」
「江戸期は竹屋町通をはさんで向かいに京都所司代屋敷があったから、京都所司代の連絡通用門としても機能した筈やね」
「家康が慶長八年に築城した時からある城門だって聞きましたけど、建物も当時からのものなんですか?」
「さあなあ、どうなんやろうな、東大手門は寛永の後水尾天皇行幸時に建て替えられてるけど、あっちはそういう話を聞いたこと無いもんな・・・。でも寛永の改修は御殿も堀もみんな手掛けてるから、常識的に考えれば北大手門も建て直してると思う」
「建て直してるんですよ、きっと。外見とか雰囲気が東大手門と同じじゃないですかー」

 

 北大手門は普段は閉じられていて通行不可となっています。門へ通じる道も閉鎖されていて近づくことも出来ませんので、嫁さんが私のデジカメを借りて望遠モードで引き寄せて撮りました。

 

 園路を道なりに進むと、本丸を囲む水濠の北東隅に出ました。西へまっすぐに伸びる濠の奥に北土蔵の白壁が望まれました。
 そのまま濠端の道を進もうかと思った途端、嫁さんが「今日はなんか、茶道の団体の催しやってて、あの一帯を借り切ってるみたい、北へ回る道は通行止めになってますよ」と言い、通行止めの案内表示を指差しました。

 

 それで、直進を諦めて右折、南へと向かいました。上図の小さな城門が近づいてきました。嫁さんがスマホを向けようとして「あー、逆光になるー、向こうへ行きましょう」と言い、「こっちが正面やけど、ええのか?」と問い返しましたが、「でもこっちは暗くなってて影になるから、仕方ないですよー、裏からでもええんです」と答えてきました。

 

 それで、いったんくぐって、南側の背面から建物を見上げました。鳴子門といい、国の重要文化財に指定されています。

 

 鳴子門の案内説明板です。寛永三年(1626)頃の建築、とありますが、一説では慶長八年の築城時に建てられたものを寛永の改修で直したとされており、個人的にはその説を支持しています。

 そのことを言うと、嫁さんも「これ、本丸を防御する重要な門でしょう、お城の防御の門って大切ですから、家康の築城時に無かったとは考えにくいですよね、二の丸御殿だって創建は慶長でしょ、でもそれを寛永に改修してるわけでしょ、だからこの鳴子門も一緒に改修してると思いますねー」と頷いていました。

 

 横から見ると、正面および背面に4本の控柱が立つのが分かります。つまりは四脚門ですが、城郭の門にこの形式はあんまり無かったと思います。二条城においては、四脚門は他に唐門があるだけです。

 城郭の門は、大体は冠木門、二脚門、高麗門、櫓門のいずれかなので、他の城の現存建築でも四脚門というのは見た記憶がありません。そのことを話すと、嫁さんも「そうなんですかー、二条城独特の城門ってわけですねー」と柱をなでたりしていました。

 

 鳴子門の門扉は片方のみが付いて開かれていますので、脇の潜り戸は門扉の中に隠れています。それを嫁さんが横から覗き込んで、「頑丈そうですねー」と言いました。城郭の門の潜り戸はみんなこんな感じですよ、と説明したら「じゃあ、こういう堅牢な造りにするのが普通やったんですねー」と閂などを触っていました。

「こういう本物の城門を色々見て覚えておくと、伏見城の移築建築みたいに他へ移された城門でも、それと分かりそうですねー」
「うん、それはそう。城郭の建物特有の造り、設え、雰囲気というものがあるからな」
「最近まで水戸の上田さんとあちこちの伏見城移築建築見て回ってたでしょう、ああいう建物って、同時代に築城された二条城の建物を観察して勉強しておいたら大体見分けつくんですよね」
「まあ、ある程度は見分けがつくけど、でも移築後に改造したり部材を替えたりしちゃうんが殆どなんで、そういうのを見分けるのが難しいのよ・・・」
「あー、それ上田さんも電話でボヤいてましたよ、全国の城郭の建物の殆どを見てる星野の情報量をもってしても分からん、ってのがあるから俺なんかはさっぱり分からない事だらけだよ、って」
「アハハハ」

 

 嫁さんは、続いて上図の門扉の蝶番(ちょうつがい)を指差しました。片方の門扉は外されて別に保管されているため、門の蝶番がむき出しになっています。なかなか見られるものではありませんから、江戸初期の城郭建築の金具や蝶番の造りを知るには良い資料となっています。

 

「蝶番って、今で言うヒンジですよね、城郭の門のこれ、大きくて立派ですねえ」
「門扉の頑丈さ、堅固さの要になる部品やからな、これが頼りなかったら、例えば戦闘で門にバンとぶち当てられたら簡単に押し破られるで。閂をしっかり固めても門扉そのものが蝶番ごと破られたら意味がない」
「なるほどです」
「それと、こういう金具を見ると、当時の冶金技術のほどが伺える。戦国期の日本は刀や槍はもちろん、鉄甲冑も火縄銃も鉄甲船も造ってたから、鍛冶の技術者は技術レベルが高かったし、人数も世界的にみても多かったらしい。よく日本刀が象徴的に言われるけど、釘ひとつとっても、鋼を組み合わせて錆びにくい頑丈なものを作れたから、門の蝶番とか閂の金具とかになると、それなりにちゃんとしたものを造ってる。この鳴子門の蝶番もさ、江戸期のものなのに全然錆びたりしてなくてしっかり原形を保ってるやろ」
「ええ、凄いですよね。今の鉄製品のほうが簡単に錆びついたりしてますもんね」
「鉄だけじゃなくて、銅や金銀でも日本は昔から加工技術が優れとった。戦国期に限っても、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人とも金属精錬の技術者や工人を優遇してるけど、それは国家は鉄なり、という古代以来の政治の基本鉄則を守ってたからやな。いい金属を造れる国というのは古今東西を問わず強いし、伸びてゆく、そういうのがリアルに分かってくる」
「ええ、そうですねー。江戸期までのそういう冶金技術の蓄積が、明治の文明開化以降の工業化とか軍備増強とかにつながってゆくわけですよねー」

 

 鳴子門の見学を終えた時、嫁さんが「あそこにも門みたいなのが見えますけど、今日は通行止めになってるから行けないですねー」と指さしながら残念そうに言いました。

 

「ああ、あれは北中仕切門やな。今日は見られないけど、これと対になってる同型式の南中仕切門が南側にある」
「あっ、そうなんですか、同じ形の城門なんですか」
「そう、向きが反対になるだけで建物自体は同じ。ワンセットで建ててるから。・・・後で南中仕切門のほうを見るから、あれを見られなくてもまあ大丈夫やで」
「良かった―、安心しましたー。そしたらね、南へ回るの遠回りになりますから、先に本丸の方を見にいきましょう」

 そう言って、鳴子門から南へと歩き出した嫁さんでした。  (続く)

 

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二条城2 唐門と二の丸御殿車寄

2025年01月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 東大手門の内側の番所を見た後、東大手門の南塀を見ながらその南東隅に建つ上図の東南隅櫓に近づきました。地下鉄の二条城前駅から外に出た際に真っ先に見えた建物です。嫁さんが「こっちから見ると窓が無いせいか、のっぺらとして見えますねー」とスマホで撮影しつつ言いました。

 

 東南隅櫓の案内説明板です。嫁さんが読んでいて首を傾げつつ、訊いてきました。

「この説明、昔は櫓が9つあって、内堀の南西隅の櫓が5階建てで天守閣、って書いてありますけど、天守閣って櫓の一種なんですか?」
「せやな。櫓の大型サイズのもの、もしくは四階または五階以上の櫓を天守閣とも呼ぶんで、櫓の一種になる。一般的には三階建ての櫓でも「御三階」と呼んで天守閣の代用とする場合があった。例えばさ、青森の弘前城、香川の丸亀城の天守、どっちも実質的には「御三階」で三階建ての櫓だしな・・・、あと愛媛の宇和島城の天守も実質的には三階櫓やし、福井の丸岡城の外見は二層に見えるけど内部は三階建てやから三階櫓の一種にはなるかな」
「ふーん、江戸時代のお城の天守閣って、三階櫓が多かったんですね」
「殆どの藩じゃ、三階建てぐらいが財政的にいって精一杯やった、というのもある。江戸城の天守閣が焼けた後に再建をせず、天守閣無しで通した幕府に対する遠慮もあったやろうし、とにかく立派な天守閣を建てるのが憚られた情勢もあったやろうな。あと、江戸期の泰平の世には天守閣そのものが単なる飾りで無用の長物になってたから、わざと建てなかったケースもあったしな」
「ふーん、全ての藩のお城に天守閣があったわけじゃなかったんですねー」

 

 それから嫁さんは東南隅櫓の右手に続く南側の上図の高まりを指差しました。

「あの高い部分はお濠に面してる石垣の裏側にあたるんですか?」
「そう。土塁や」
「石垣の内側に土塁があるんですね」
「正確には、土塁の外側に石を積み上げて堅牢化を図ったのが石垣になる。石垣の内側に土塁があるんやなくて、土塁の外側に石垣を追加した、というのが技術史的な順序や」
「あっ、なるほど、そうですよね、戦国時代までのお城って土塁だけで囲んでるのが多いですよね。その土塁をもっと強化するために石を積んだのが石垣なわけですかー」
「土塁のままやと、堀に水を張ったりすると土が脆くなって崩れやすくなるんで、水濠で囲む城では石垣を用いるのが多い。ここも水濠で囲まれてるし、地形的には平地に築いたから、防御線を作ろうとすると石垣のほうが有効で堅固に仕上がる」
「なるほどー」

 

 それから引き返して上図の唐門に近づきました。屋根は切妻造の檜皮葺で、その前後に唐破風が付けられます。左右の築地塀とセットで国の重要文化財に指定されています。

 

 案内説明板です。嫁さんが「これ、寛永の後水尾天皇の行幸のために造った門なんですねえ、そっかー、禁裏内裏の御幸門と同じスタイルなわけですよ、天皇専用の門なわけですよ」と納得したように話しました。

 

 徳川家は、寛永の後水尾天皇の行幸後もこの唐門を維持して撤去はしませんでしたから、以降の歴代の天皇の行幸が有り得るとの前提にたって建物を管理していたのかもしれません。

 と言うより、当時の最高格式の唐門でしたから費用も莫大にかかっており、一度の行幸だけに使用されて後は撤去、というのは徳川家としても避けたかったのかもしれません。

 

 それで嫁さんは「天皇以外でこの唐門をくぐれるのは、将軍家だけになるわけですかね」と訊きました。建前としてはそういうことになるのかもしれませんが、德川家の歴代将軍が揃ってこの唐門をくぐるどころか、実際には3代の家光、14代の家茂、15代の慶喜の3人しか通っていません。徳川将軍家の上洛そのものが稀だったからです。

 ちなみに、二の丸御殿に入れる門はここしかありませんから、歴史の上では徳川将軍の上洛滞在の際に公家の諸家や全国諸藩の大名もお供などでくぐっていた筈です。

 

 この唐門も、2011年から2013年にかけて修復工事を行ないましたので、建物の金具や彩色は建立当時の輝きを取り戻しています。
 さきに見た東大手門の装飾と共通の金具が用いられており、寛永の後水尾天皇の行幸に際して東大手門と唐門とがセットで整備された経緯がうかがえます。

 

 唐門の内側は、長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する空想の動物「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻で飾られています。

 上図は左右一対の「唐獅子」の右方で、透き通る青色の体躯に金色の渦巻紋が光ります。本来は聖域の守護神であるので、ここでも城を護る神獣としての姿に造られています。その横の牡丹も、繁栄や不死の象徴として表されています。

 

 反対側の左方の「唐獅子」は鈍く輝く銅色の体躯に表され、同じく牡丹の花と共に表現されています。

 

 欄間を彩る色とりどりの彫刻は、多くが徳川家の繁栄を願うモチーフで統一されています。繁栄および存続の象徴として描かれた松竹梅および鶴のほか、蝶や牡丹、長寿や不死を意味する亀や仙人などが配置されています。

 凄いのは、それらの繊細で多彩な色使いの技法で、よく観察すれば、同じ色でも少しずつトーンを変えて塗られており、グラデーション効果が意図されているのが分かります。
 また、天井一面に列をなして貼られた十字の金具は、満天の星をあらわしたものとされています。

 

 嫁さんが双眼鏡も取り出してじっくり観察していたので、唐門の下に20分ぐらいはとどまっていました。それから中に進んで二の丸御殿に向かいました。

 

「小学校の遠足以来22年ぶりなんですけど、全然変わっていないですねー」
「世界遺産にも指定された国宝の建築やからな、文化財保護の見地からしても外観や内部の変更は一切有り得ないな」
「でしょうね、立派な御殿やと思った小学生の時の記憶のまんまですよ」

 

「でも、あれですよね、江戸寛永の改修時の建物やって聞きますけど、明治時代に離宮になったときの変更もそのまま保たれてるんですね、皇室の菊紋が打ってあるじゃないですかー」
「ああ、確かにそうやな」
「建物そのものは家康が造営に着手した、ええっと、慶長六年(1601)でしたかね、それを寛永の時に改修してるんですよね」
「うん、その筈や」
「でも徳川葵の紋がどこにも見えませんよね。破風のてっぺんの金具の下になにか剥がした跡みたいなの見えますけど、葵紋を剥がした跡なんですかね?」
「どうやろな。葵紋を付けるんなら、瓦のほうやと思うけどね・・・、でもあれは全然付いてないなあ・・・」

 

 話しつつ、玄関の車寄に近づきました。

 

 車寄の出入口の直上の欄間の彫刻が見事な作域を示していました。修復事業は二の丸御殿の建築群にはまだ着手していませんから、この欄間彫刻も褐色化や退色、剥落などで彩色の大部分を失ったままの状態でした。

 ですが、彫刻の見事な輪郭はそのまま綺麗に認められます。余り知られていませんが、この欄間彫刻は完全な透かし彫りであり、しかも表と裏でデザインが異なっています。
 上図の表側部分には五羽の鸞鳥(らんちょう、神話上の鳥)と松と牡丹が配され、上部に雲、下部には笹が表されます。これらの図柄を中へ入って裏側から見ると、老松の大木に転じています。内部が撮影禁止なので、その老松の大木の画像を紹介出来ないのが残念です。  (続く)

 

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二条城1 二条城へ

2025年01月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月4日、去る9月から17年ぶりに一般公開が再開された二条城本丸御殿を見たい、と嫁さんが言うので、お供して二条城へ行きました。本丸御殿は私も見た事が無かったので興味深々でしたが、嫁さんは二条城に行くのが小学校の遠足以来22年ぶりだそうで、私よりも張り切っていました。

 予定では昼前からゆっくりと行こう、と決めてあったのですが、当日の朝になって嫁さんに叩き起こされ、「午後にも行きたい所ができましたので予定変更です、早く行きましょう」と急かされました。なんで前倒しすんねん、と思いつつも、朝食後すぐに出て地下鉄に乗り、二条城前駅で降りました。
 その時もまだ眠気がとれずボーッとした状態で嫁さんに引っ張られていきましたが、外へ出て二条城の外構えの景色を見た途端に目が覚めました。城郭ファンとしてのスイッチが入ってしまったのでした。

 

 「おー、東南隅櫓やな」
 「ええ、東南隅櫓ですね。二条城の二つの櫓の片方ですね、大きいほうですね」
 「寛永元年(1624)やったか、後水尾天皇の行幸に際して建てられた櫓や。堀川通に面する東が大手なので、この櫓も見栄えがするように大き目に建てたわけやな」
 「国の重要文化財になってると聞きましたけど、内部の一般公開とかしてないんですよね」
 「一般公開はしてないけど、時々特別公開はしてる。確か、7年ぐらい前に一度入った事がある」
 「ふーん、中も立派に造ってあるんですか?」
 「いや、江戸期の櫓の一般的な造りやったな。他の城の櫓とあんまり変わらんかった」

 

 城の大手にあたる上図の東大手門(国重要文化財)をいったん通り過ぎて見学受付に行き、見学料金を支払いました。戻りながら嫁さんが上図の景色を撮り「このアングルも素敵ですねー、德川の城の堂々たる威容って感じ」と言いました。

 

 その東大手門の前に来ました。慶長七年(1602)の築城時からある正門で、最初は現在と同じく櫓門でしたが、後水尾天皇の行幸の際に、上から見下ろすのは不敬として一重門に変更され、行幸後に再び櫓門に戻されたという経緯をもちます。

 

 東大手門の脇にあった屏風。本丸御殿の一般公開再開を祝って設けられたものだそうです。

 

 東大手門の内側を見ました。嫁さんが「この機会にお城の建物の構造とか建て方とか勉強しておきたいです」と言うので、その見学を優先してついていくことにしました。

 二条城は、2011年からの20年計画で築城以来の全面的な修理が実施されており、この東大手門も2017年に修理が完了しています。柱の上下端などに取り付けられた錺(かざり)金具も、かつての輝きを取り戻しています。

 

 錺金具は、上図のように銅板上に金箔や墨で四弁唐花(しべんからはな)模様を表しています。豊臣期の大阪城や伏見城で豪華絢爛に造られた錺金具の系譜を引いていますが、豊臣期の極彩色のスタンスに対抗するように、彩色を省いて金色と黒塗りの柱とのコントラストを引き立たせています。

 

 嫁さんが「この金具はオリジナルのものがそのまま伝わってるんですか?」と訊いてきました。私もよく知らなかったので「さあ、どうかねえ、これの文化財修理報告書をまだ読んでないけど、明治期に離宮になった時に新たに付け直したとかが無ければ、オリジナルになるやろうね」と答えました。

 

 「あと、柱や壁に鉄板が並べて張ってありますねえ。防御のための工夫なんですか?」
 「そうやな。簡単に打ち破られないように堅牢にしてあるのと同時に、防火対策も兼ねてる。鉄板が打ってあると火もつきにくい」
 「ああ、なるほどです」

 

 「だから扉もびっしりと鉄板を張ってるんですねえ。頑丈で重たいし、火もつけにくい、合戦でこの門をこじ開けるの大変そう・・・」
 「史料ではこういうのを「鉄張」とか「金張り」とか書いてあるんやけど、「鉄張」の事例の早いケースが織田信長の鉄甲船やと言われてる。信長の鉄甲船は完全な装甲板を回したとか推定されてるけど、実際はこういう鉄板の張り方をしていたんじゃないかな、て思う」
 「ふーん」

 

 東大手門をくぐると、右手に上図の細長い建物があります。嫁さんが「遠足で来た時は確か、この建物で菊の花を並べてたんですよ」と言いました。私自身の記憶では、昔はこの建物の中にも侍姿のマネキンが並んでいて。何かの場面を再現展示していたような気がします。

 

 建物の説明板を見ました。嫁さんが「あっ、番所なんですね、この前に聖護院門跡で見たあれ、山門の横の建物も番所だろうとか言ってましたよね、同じ性格の建物なんですか」と言いました。そうだ、と返しました。

 

 番所の正面の扉はいずれも閉められていました。昔は開放されていて内部も見られたのですが、今では一般公開の対象からは外されているようです。
 嫁さんが「内部はどんな感じなんですか?」と訊いてきましたので「監視用の部屋と、東大手門を警固する武士の宿直部屋とが並んでる」と答えました。

 

 この番所は、二条城内の12ヶ所に設けられた番所のなかで唯一現存する建物です。1626年(寛永3)の後水尾天皇行幸を描いた寛永行幸絵図の現在地に番所が描かれますが、いまの建物は寛文三年(1663)に建て直されたものです。

 江戸期の二条城では、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが番所に宿直し、各所の門を警護していました。「二条在番」は1組50人が2組常駐し、番所を詰所としていました。かつては唐門、北大手門、西門の周囲にも番所が置かれていましたが、明治期に撤去されてしまいました。
 他の城郭遺跡においても、番所の建物が現存しているところは少なく、私が見てきた限りでは秋田県の久保田城、静岡県の掛川城、香川県の丸亀城の3ヶ所だけです。あと、平成18年に取り壊されてしまった滋賀県の膳所城の番所も見た記憶があります。  (続く)

 

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聖護院4 聖護院門跡の長屋門

2024年12月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院の宸殿と書院の見学を終えて式台より外に出ました。出て、右手にある本坊の門を見ましたが、見た途端に足が止まりました。横の嫁さんも同じように立ち止まって「?」の表情を向けてきました。

 

 上図の、寺では寺務所として使用している建物でした。二層式の長屋門の形をしていましたが、その外観に奇妙な違和感と既視感とを同時に覚えたのでした。
 それで、ちょっといいかな、と嫁さんに断って、そちらへ近寄りました。

 

 正面観だけでは物足りないので、側面の妻部が見える位置まで歩いて確かめました。上図の通り、上層にのみ窓があり、そのすぐ下から風雨除けの羽目板が張られていました。

 羽目板は、正面では下層の窓の下だけに張られていて、そちらは横に張って桟で留める一般的な造りでしたが、妻部のそれは縦張りで二段になっていました。羽目板の張られた時期が異なるのではないか、と思いました。

 

 改めて正面観の全体を見ました。寺院内部の本坊への通用門にしては不釣り合いなほどに、立派過ぎる構えです。しかも寺院の門建築のそれではなくて、城郭の門の造りと雰囲気に通じる要素が濃厚でした。これは・・・、と思っていると、嫁さんが言いました。

「なんか、お城の門みたいな感じですねえ」
「あ、君もそう思うか」
「ええ・・・、やっぱり、あれの関係なのかなあ」
「え・・?やっばりって?あれの関係って・・・?」
「大学時代に、ここでゼミ課題のレポート書くために色々調べていた時に、お寺の御厚意でここの茶室と一夜造御学問所を見せていただいたんですけど・・・」
「茶室?一夜造御学問所?」
「ええ、書院の奥にあるんです、きょうは非公開でしたけど、そこは天明の大火で御所が焼けた時に光格天皇がここを仮皇居としてお住まいになったときに、紀伊守の信道という大名家が・・・」
「ちょっと待って、紀伊守て言うたか、それ、もしかして形原松平家かね?丹波亀山藩主の・・・」
「ああ、そうですそうです、丹波亀山藩主でしたね。その紀伊守信道が禁裏の警護にあたりまして、聖護院に仮住まいの光格天皇に茶室と一夜造御学問所を献上しまして、その建物を丹波亀山城から持ってきたというんです」
「なるほど、そういうことか」
「そうなんです。その時に、宸殿に繋がる建物、庫裏とかも整備したらしいんですけど、幾つかの建物を丹波亀山藩が献上したって聞きました」

 

 その「幾つかの建物」のなかにこの長屋門が含まれていた可能性はあるかもしれない、と思いました。正面観はどう見ても城郭の櫓門に近い形式で、上図の中央の通路の奥に扉がつく形式も、防御に有利な構えとしてのそれと思われます。

 

 そして通路の天井を御覧のように梁と貫がむき出しのままの質素かつ武骨な状態にしているのも、寺院の門にはあまり見られませんが、武家の門ならば、似たような事例は全国各地に見られます。

 こういう武家風の門建築は、門跡寺院の格式からいうと建物としては「格下」になります。聖護院がわざわざ好んで「格下」の門を本坊の出入口に建てるとも思えませんので、丹波亀山藩主松平紀伊守信道が光格天皇の警護にあたった際に仮皇居の聖護院に献上した諸建物のうちに含まれていた、とするほうが自然です。

 この場合、「献上」という言葉をどう解釈するかが問題となります。建物の献上には二通りがあって、ひとつは現地での新築、もうひとつは他所からの移築、となります。
 個人的には前者かな、と思いましたが、嫁さんは後者だと考えたようで、「この門、丹波亀山城から持ってきたものだとしたらですね、一回バラして、ここでまた組み立てたって事になりますよね、そういうの、形跡ていうか痕跡とか、残るものなんですか?」と訊いてきました。

「移築であれば、何らかの痕跡は残るね。解体修理をやればすぐに分かるだろうね」
「いまのこの状態では、外から見て、痕跡とかは分からないんですか?」
「分からないというより、移築した形跡が感じられないんやな・・・。ここで新築したんやないか、と思う」
「ああ、ここで新たに建てたわけですか・・・、皇室への献上ですから中古品は失礼ですよね、やっぱり新品の建物が相応しいですよね」
「そういうことやな」
「つまりは、紀伊守信道が献上して新たに造らせた建物である可能性がある、ってことですね。だからお城の武家ふうの門なわけですねー」

 

 ですが、武家ふうの門といっても、この門のような二層の細長い門の建物は、あまり見た事がないように思いました。石垣にはさまれた櫓門に細長い多聞櫓がくっついているような姿です。

 試みに、下層部分を石垣に置き換えてイメージしてみますと、上層部分はまさに城郭の多聞櫓の姿になります。窓の形も櫓のそれですし、梁の先端を軒下に突き出している点も櫓の建物には普通に見られる要素です。これらのことを、嫁さんに訊かれるままに、説明しました。

 

「じゃあ、この門は完全な武家の門なんですね。やっぱり、これも丹波亀山藩からの献上になるんですかね?」
「それについて、寺ではどのように説明していたの?」
「ええと、確か伝承だとか言ってましたね。確実なのは茶室だけで、これは献上のときの目録が残ってるらしいんです。一夜造御学問所のほうも伝承で、紀伊守信道が一夜で造って献上したとか何とか・・・。光格天皇が御学問所として使われたのでそういう名前があるんですけど。あと伝承では、仮皇居となった時期に丹波亀山藩が警護役を勤めてましたから、それの番所もあるとか、そんな風に言ってましたけど・・・」
「番所・・・」

 

 その番所というのは、山門の西隣にある上図の建物じゃないのか、と建物に近寄って嫁さんに訊きました。「さあ、建物を直に紹介してもらって説明受けたわけじゃないので・・・」と首を傾げる嫁さんでしたが、私自身は、上図の建物が丹波亀山藩の警護兵が詰めていた番所であった可能性は否定出来ないかもしれない、と感じました。

 

 何故ならば、その門内側、境内側の外観がまさに番所の監視小屋とそれに続く長屋ふうの詰所になっているからです。近年まで寺の拝観受付として使用されていたそうですが、受付用の大きな窓を追加して改造している他は、もとの状態をととめているようでした。詰所部分は築地塀に隠れて外からは見えませんが、かなり長い建物で、相当の人数を収容出来たものと思われます。

 天台宗の三門跡のひとつ聖護院の山門の横に、こんな武家風の番所と詰所が建っている事自体に違和感があります。仮皇居の警護所であったのならば、むしろ当然の構えですが、この武家風の番所を聖護院が自前で造るわけがありませんから、造ったのは警護役を勤めた丹波亀山藩であろう、という推論に自然に落ち着きます。

 ただ、推測ですので、史料なり文献記録なりの確実な証拠があればな、と思います。とりあえずは、可能性の問題にしかすぎませんが、ロマンがあって楽しいものでもあります。

 

 するとこの山門も・・・?と思いつつ、くぐって退出しました。実に楽しい時間が過ごせました。

 

 帰りに、嫁さんの希望で近くの上図の西尾八ツ橋別邸の「西尾八ツ橋の里」に立ち寄り、一休みして栗きんとんとお抹茶のセットをいただきました。

 

 その向かいの上図のお店が西尾八ッ橋本店だと思っていたのですが、「これは違います。聖護院八ツ橋総本店です」と言われました。よく見れば、暖簾に聖護院八ツ橋とありました。

 八ツ橋は京都を代表する和菓子の一種ですが、私自身は全然詳しくなく、食べたことも無いので、嫁さんに教えられるまで、八ツ橋のお店にも元祖、本家、分家等の関係があることを知りませんでした。

 

 西尾八ツ橋本店はこちらでした。「西尾八ツ橋の里」の西側に位置していました。嫁さんはこちらへも寄って、モケジョ仲間へのお土産を色々購入していました。

 かくして大徳寺真珠庵、聖護院を巡りを終え、その日の夕食後に出されたおやつの八ツ橋を、生まれて初めて食べたのでありました。  (了)

 

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聖護院3 聖護院門跡の書院

2024年12月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院の国重要文化財の書院に入りました。玄関口からの通廊に面した南側の縁側を見ました。上図のように奥に仕切り板戸があり、その手前で縁側が直角に曲がっています。軒が深いので縁側も余裕で張り出せる筈ですが、嫁さんによれば、女性用の書院建築の縁側はこの程度の幅が多いそうです。

 縁側は、本来はお付きの女官もしくは従者の控える場ですが、通常は内側の畳敷きの通廊に控える場合が多いそうなので、あまり使われない縁側に関しては必要最低限の規模で済ませている、ということだそうです。

 嫁さんの話では、こういった建物内部の空間の配置の意味を知っていると、源氏物語などの古典宮廷文学における登場人物たちの動きや立ち位置などが建物の内部でもより具体的に理解出来て楽しい、とのことでした。

 

 同じ位置から宸殿を見ました。同じ縁側でもあちらは幅が広くて柵や欄干も付けられます。日常的に通路空間および遊興に使われる空間であり、庭に降りる階段も付けられています。書院の最低限の縁側との対比が興味深いです。

 

 嫁さんが「ね、これ見て下さい、造りが凝ってますでしょ」と上図の戸板を指しました。

「これ、舞良戸(まいらど)だよな?」
「はい、舞良戸ですけど、武家や一般のとは違いますでしょ」
「うん、桟・・・舞良子(まいらこ)て言うんやったか、横じゃなくて縦になってるな」
「ええ、ええ、そうなんです。縦舞良戸(たてまいらこ)っていいます。舞良子も等間隔じゃなくって、端から3、1、4、1、3本を並べてありますでしょ、お洒落ですよね」
「この並べ方、なんか意味があるのかね?」
「並べ方は分かりませんけど、舞良子が横なのは男性、縦なのはだいたいは女性を表すんですよ。とくに平安時代は建物を外から見て、舞良戸を見るだけで誰の住居かが分かるようになっていたんです」
「なるほど・・・、この書院の場合は、妻の櫛笥隆子の住居であることが分かるように、後水尾天皇が造らせたってわけか」
「はい」

 

 続いて嫁さんが通廊の柱の上図の金具を指差して「これ、見て下さいよ」と言いました。

「釘隠し、だよね」
「ええ、そうですけど、何の意匠か分かります?」
「えっ・・・この形は初めてみたな・・・、家紋なの?」
「家紋じゃないんです。紙を畳んで二つ折にした形で「折れ文」ていうんです。公家がやり取りした恋文を意味します」
「恋文・・・、てことは、後水尾天皇から櫛笥隆子への恋文ってこと?」
「そうです。妻への愛情を建物の金具に表しているんですよ。素敵だと思いません?」
「後水尾天皇って、后妃が沢山いて奔放なイメージあるけど、さっきの縦舞良戸といい、この「折れ文」といい、女性への細やかな心配りとか結構やってるね」
「だから、もてたんですよ。もてたから奧さん何人も出来たんですよ。もてる男って、いつの時代も変わりませんよね」

 

 この通廊も畳敷き、両側の襖は白のみで清新、清潔の雰囲気にまとめてあって素敵、などと楽しそうに話す嫁さんでした。いずれ広い家を見つけて引っ越したら、襖は全部白にしましょう、と言いましたが、私としては家の事は全部嫁さんに任せていますので、頷き返しておきました。

 

 通廊の先には二つの部屋があり、手前が控えの間、奥が主室にあたりますが、その控えの間の柱の上図の釘隠しを嫁さんが指差して「これ、見て下さい、分かります?」と言いました。

「笹竜胆(ささりんどう)かね?」
「ええ、そうです、そうです。後水尾天皇が好まれたデザインだそうです」
「家紋じゃないんやな」
「天皇家は菊ですからね・・・。でもここは櫛笥隆子の住居なんで・・・」
「櫛笥藤原氏の家紋でもないんやな」
「公家の書院では基本的に家紋は付けなかったらしいですよ。五摂家でもあんまり付けなかったと聞きますし、だいいち公家の殆どはみんな藤原氏なんで、家紋もほぼ一緒なわけで、区別する必要もないし、武家みたいに家紋を誇示してテリトリーを明確にするっていう必要がありませんでしたし」
「なるほど」

 

 手前が控えの間、奥が主室にあたります。主室は主の櫛笥隆子の御座所にあたり、背後に違い棚と床の間を設けて格式を表しています。ですが、身分差を表す床の段が無く、控えの間と主室の床が同じ高さになっています。

 

 しかも控えの間にも西側に床の間と違い棚が設けられており、格式のうえでは主室とあまり変わらない造りになっています。こちらも上座として使用できる空間になっているようで、「梅之間」と名付けられています。

 この二つの部屋を繋ぐと上座が二つ存在することになりますが、そうすることで意図的に立場や身分の上下を曖昧にして、主従がお互いに気を遣わなくてもよいような、打ち解けた寛ぎの空間を演出しているのです、と嫁さんが説明してくれました。
 なるほど、と感心しました。天皇の側室の住居であれば、お付きの女官も相当の高位の人しか居ませんから、主と同じ典侍クラスになるわけです。身分差も官位の差もそんなに隔たりが無かったでしょうから、控えの間と主室がワンセットのような関係に設えられているのも頷けます。

 

 主室を見ました。「奧之間」とも呼ばれます。さきに見た宸殿の「上段之間」に次ぐ格式の部屋ですが、建具や調度が落ち着いた繊細な造りになっていて、女性らしい部屋の雰囲気がかもし出されています。

 嫁さんが「見どころは、あの右の出窓部分ですかねー」と上図右端の花頭窓(かとうまど)を指差しました。
「出窓部分て・・・、付書院(つけしょいん)だろ」
「あー、そうですそうです、付書院って言うんでしたね」
「あれ、花頭窓の上にも障子の明り取り窓が付いてるよな」
「ええ、珍しいみたいですよね。一般的には欄間が付きますもんね。あれも後水尾天皇の心配りのデザインかも」
「それが見どころ?」
「いえ、見どころはですね、花頭窓の障子がガラスなんですよ。江戸時代のガラス・・・」
「ほう、輸入品かね?」
「だと思いますねえ、窓ガラスなんて当時の日本で生産してないでしょうから、長崎出島あたりから・・・ね」
「オランダか。それにしてもよく調達出来たもんやな。これも後水尾天皇の御配慮かな」
「でしょうね」

 

 その付書院の外側を縁側より見ました。花頭窓の外側の障子の中央にガラスが入っているのが分かります。嫁さんによれば、左側のガラスは明治期に割れてしまい、当時のガラスに交換されているとのことです。
 そして、花頭窓の上の障子部分の外側が跳ね上げ戸になっているのが分かりました。主室内部をより明るくするための仕掛けですが、あまり類例を見ない方式です。

 嫁さんが「ここの書院はいつ見ても面白いですけど、今回はさらに知識が増えて面白かったですね」と言いました。
 さきに大徳寺真珠庵で見た書院の通僊院(つうせんいん)ももとは京都御所の女御(にょうご)の化粧御殿であったといいますから、この日は安土桃山期と江戸初期の后妃の住居建築を続けて見学出来たことになります。

 嫁さんが大徳寺真珠庵の次に聖護院を選んだのも、京都にさえ数棟しか現存しない后妃の住居建築のうちの二棟を同じ日に見る、という意図があったからだそうです。私としてはいずれも初の見学でしたが、安土桃山期と江戸初期の建築遺構を順に見た事で時期ごとの違い、建物の特色や様相が大変によく理解出来ました。いい学びの機会を与えてくれた嫁さんに感謝、です。

 ですが、聖護院の面白さは、まだまだ終わらなかったのでした。  (続く)

 

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聖護院2 聖護院門跡の宸殿から書院へ

2024年12月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 聖護院宸殿の対面所は、武家の御殿建築の対面所と比べると、広さにおいてはあまり変わりませんが、明るさにおいては暗めで、室内装飾については控えめに造られているように思います。

 例えば、明るさについては、上図右側の障壁を開ければ外の光が入りますが、対面の儀では上段之間の主上を御簾と暗がりのなかに包むために閉め切るのが普通だそうで、昼間でも暗くなりますから、燭台も用意して火をともすということです。

 武家の場合は、外側の障壁の半分を障子戸にしていますから閉めていても外の光を淡く取り入れて室内もそれなりに明るくなります。室内装飾も、武家の御殿のほうは釘隠や打金具の量が多く、家紋入りの金具も目立つように配置し、さらに障壁画の背景に金泥を塗るケースも多いですから、例えば二条城二の丸御殿のように金色の装飾がとにかく目立ちます。

 そういう、公家と武家の御殿対面所の差がよく分かる、聖護院宸殿の事例でした。京都広しと言えども、そういう学びが出来る場所はここ聖護院宸殿しかありませんから、嫁さんも昔は何度も通って公家の御殿建築の特色を細かく観察し研究していたのだそうです。

 

 順路にしたがって宸殿の東に建つ本堂へ行きました。上図は本堂の前から宸殿をみたところです。

 嫁さんが「やっぱりそのへんのお寺の本堂とか方丈とかとは、建物の造りや雰囲気がまったく違いますよねー、御所の紫宸殿をモデルにして縮小したタイプやとよく言われてますけど、ほんまにそうですねえ」と話していましたが、同感でした。なにしろ皇族が住持を勤め、一時期は実際に仮の皇居として使用されていたのですから、建物もそれなりの規模と格式で設計されて建てられたのでしょう。

 

 本堂は、宸殿と同時期の建物がありましたが、昭和四十三年(1968)に建替えてコンクリート造の建物になっています。創建以来の平安期の国重要文化財の本尊不動明王像を安置しているので、その保護の目的も兼ねて本質的には耐震耐火の文化財収蔵庫として造られ、外見のみを旧本堂のそれにあわせています。

 なので、写真は撮らず、内陣の安置像を拝するにとどめました。本尊不動明王像は典型的な天台宗系の十九観の姿にて表されています。嫁さんに問われるままに、十九観について簡単に説明しました。

 十九観(じゅうきゅうかん)とは、正式には「不動十九観」といい、不動明王を心にイメージした際の姿形においてみられる十九の特徴、を指します。空海が請来したものを始め、幾つかの典拠がありますが、それらを天台宗の安然(あんねん)が集約して「不動十九相観」というテキストにまとめました。
 そのテキストを手本として、平安期から鎌倉期にかけて数多くの画像や彫像が造られました。時期によって色々な変化や特徴がありますので、それらと本来の十九観を識別する専門用語として、私自身は「安然様」の語句を用いています。そして聖護院の本尊不動明王像は、その「安然様」の典型例であります。

 本堂を辞して、上図の宸殿の東側面を見ました。さきに見学した対面所の外回りにあたります。一番右の「上段之間」の部分のみが床が高く上げられているため、それに応じて外構えの貫や扉も一段高くなっているのが分かります。

 

 宸殿の北東に隣接する、国重要文化財の書院です。拝観順路はそちらへ回りますが、書院の全景を撮るならここしかないので、撮影しておきました。左隣の宸殿に比べて背が低く、建物の造りや雰囲気も異なります。

 

 京都御所でいえば化粧御殿とか妃御常御殿にあたる建物だ、と嫁さんが教えてくれました。なるほど女性専用の御殿か、道理で優しく雅な数寄屋風の外観にまとまっているな、と思いました。

 

 本堂から引き返して宸殿の東縁を進みました。まっすぐ行って書院の前室へと向かいましたが・・・。

 

 途中の宸殿の「二之間」の襖と板戸が開け放たれていたので、そこから上図のように「上段之間」を間近に見る事が出来ました。

 

 ここに光格天皇や孝明天皇がお出ましになられていたのですか・・・。京都御所の同じ「上段之間」は特別公開の時期でさえ見られませんから、ここの遺構はとても参考になります。

 

 同じ位置から、「二之間」および「三之間」の内部も見えました。狩野益信の障壁画は、南からみるよりも東から見た方が、障壁画全体の構図やデザインがよく見渡せます。

 

 それから、書院へと向かいました。

 

 宸殿の東縁の北端の仕切り板戸を外して書院玄関口への渡り廊下が付けられています。書院の建物は江戸初期の建立といい、これを江戸中期にいまの宸殿を新造した際に京都御所より移築して、宸殿と連接させたといいます。

 

 書院の案内説明板です。要約すれば、後水尾天皇の典侍(ないしのすけ)であった逢春門院こと藤原氏の櫛笥(くしげ)隆子の御所での住居であった建物であるそうです。

 典侍とは、古代の律令制における女性の官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)が相当して史料上では「すけ」の略称で記されることが多いようです。本来、その上役に長官の尚侍(ないしのかみ)が有りましたが、後に后妃化して設置されなくなったため、典侍が実質的に内侍司(後宮)の長官となりました。

 江戸期においては宮中における高級女官の最上位であり、その統括者を大典侍と称し、勾当内侍(こうとうのないし)と並んで御所御常御殿の事務諸事一切を掌握しました。また、天皇の日常生活における秘書的役割を務める者(お清の女官)と、天皇の寵愛を受け皇子女を生む役割を持つ者とに分かれ、前述の櫛笥隆子は後者にあたりました。つまりは側室であったわけです。

 後水尾天皇といえば、后妃が多かったことでも知られます。正妻にあたる中宮は東福門院こと徳川和子ですが、側室は6人居て、そのうちの5人までが典侍でした。前述の櫛笥隆子は年次順でいうと三番目ですが、最も多い五男四女をもうけており、後水尾天皇の寵愛がとくに深かったことが伺えます。


 その櫛笥隆子の住居が聖護院に移築されたのは、当時の住持であった第三十五世門跡の道寛法親王が後水尾天皇の第十三皇子で、櫛笥隆子がその母親であった関係によったものとされています。

 おかげで江戸期の後宮関連の書院建築の唯一の貴重な遺構がいまに伝わることになったわけです。京都御所に現存する御常御殿以下の諸建築群が安政二年(1855)の建立なので、それよりは200年以上も古い17世紀初め頃の建築遺構とされています。
 そしてこの書院が、嫁さんの一番好きな宮廷建築遺構であるそうです。  (続く) 

 

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