気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影29 泉涌寺法音院書院

2024年10月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 泉涌寺総門をくぐって100メートルほど進むと、右手に上図の塔頭の門が見えました。左脇の寺号碑に「法音院」と刻まれています。U氏が「ここだな」と言って門前に立ち止まり、右脇の説明板に視線を移しました。

 

 説明板です。一読してU氏は「うむ」と満足げに呟き、再度読み始めました。御覧のように「寛文五年幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得」とあり、「書院は伏見桃山城の遺構の一部である」と明記されています。

 本多豊前守正貫は、徳川家康の参謀であった本多正信の一族で、正信の弟の正重の養子となって下総舟戸藩を継いだ人です。その後に減封となって旗本に転じ、幕府の書院番頭を勤めています。書院番頭は将軍の親衛隊である馬廻衆の頭であり、幕府の最高格式の職制のひとつです。

 この法音院は、その本多氏の菩提寺でもあり、もとは応仁の乱で焼けて廃寺になっていたのを、江戸幕府の支援によって現在地に移転し再興された歴史を持ちます。その書院が伏見桃山城の遺構の一部であるとされるのも、何らかの記録なり根拠なりが存在するのでしょう。

 

 説明板の隣にはカラーの境内図がありました。泉涌寺塔頭のひとつとして参詣客が訪れているためか、境内の各施設を分かりやすく示していました。目的の建物も「客殿 大書院」とありました。

 

 門をくぐって中に入ると、正面に庫裏玄関と受付があり、その右側に七福神の堂がありました。庫裏玄関から急ぎ足で出てきた住職に挨拶すると、これからお勤めだとかで自転車にまたがって出ていかれました。伏見城から移した書院建築を・・、とU氏が問いかけたのにも、「ああ、あの裏の建物ですんで、外から見るだけになりますんで」と左手でその方向を指し、「では」とサーッと門を出てゆかれました。

「お勤めって何だろう」
「塔頭の住職なら、本寺での諸々の奉仕作業があるやろうな、時間的には午前の勤行か読経かのタイミングやしな」
「なるほど、忙しいみたいだな・・・」

 

 とりあえず、住職に示された方向へ回り込んで、上図の書院の建物を見ました。

「お、まわりの建物とちょっと違うな。外観の設えとか屋根の意匠とか、それに古めかしくみえるな」
「せやね」
「寛文五年、だったか、その頃には伏見城はもう無くなってるな。解体された建材が再利用のために保管されていた段階になるな。それで幕府の支援があって、檀乙は将軍家直属の書院番頭の名門の本多氏であるわけだ。その本多氏が菩提寺にしてるんだから、それ相応の格式の建物を寄進した可能性がある。伏見城の遺構が再利用されたとしてもおかしくはない」
「春に行った養源院と同じケースやな。幕府の要人が関わってて、幕府の支援がついてる」
「そういうことだな」

 

 これで決まりだな、と言いつつ屋根の妻飾りと鬼瓦を見上げるU氏でした。建物の各部に移築の跡がみられ、部材のそれぞれも相当の風食がみられました。解体後もかなり長い間放置されていたような雰囲気でした。左右分割で二枚の部品から構成される妻飾りに、合わせ目の隙間が出ているのも、そんな感じでした。

 伏見城が廃城となって城割りや建物の解体が始まったのが元和六年(1620)からで、三年後の元和九年には「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす」とあって本丸御殿の一部がまだ残されていたものの、それも解体され、城跡は元禄年間に開墾されて桃の木が植えられたといいます。

 法音院の再建が寛文五年(1665)でありますので、伏見城の建材を再利用して書院を建てたのであれば、その建材は元和六年(1620)の廃城解体開始からすでに40年余りを経ていたことになります。いまの建物の部材にやつれや風食が見られるのも当然かもしれません。

 

 上図では下半分が隠れていますが、鬼瓦にある家紋は「本」と見えました。つまりは本多氏の家紋で、この建物がもとは本多氏の所有であったことが分かります。
 伏見城の廃城後のある時期に、その建物を本多氏が貰い受けて一時期は使用していたことを伺わせます。それを寛文五年(1665)の法音寺の再建に際して寄進し、本多氏の菩提寺の一施設として再利用した、という流れではなかったか、と推測します。

 

 妻飾り部分を拡大して撮影しました。装飾の彫物の部分がかなり風化しており、中央の合わせ目に残る釘穴から、何らかの形状の釘隠しが打たれていた痕跡がうかがえます。一般的な花紋であったのか、家紋をあしらったものであったかは分かりません。

 

 建物の主屋部分の外観はかなり改造されていますが、戸口の上に透かし窓を配置する点に御殿建築の面影がしのばれます。

 

 建物の向こう側は庭園に面しているようで、半分ほどが建て直されてガラス戸が追加されたようで、新しい感じになっていました。

 

 ですが、主屋の頭貫にあたる横長の一材をよく見ると、各所にほぞ穴やダボ穴、切り込みの痕跡が見られて、もとは別の建材を横に付け直して転用した状況がうかがえます。
 ほぞ穴の位置から、もとは他の建物と繋ぐ廊下のような部分が接していた可能性が考えられますが、いずれにしても単独で建っていた施設ではなかっただろうと思います。

 

 屋根庇の内側の様子も、垂木だけが妙に古めかしいのでした。野地板は新たに張り替えられているようで、白っぽく見えました。こちらの頭貫にはほぞ穴やダボ穴、切り込みの痕跡がみえないので、屋根の妻飾りと同じように当初の建材がそのまま再利用されているのかもしれません。

 

 隅部を区切る尾垂木の伸びもしっかりしていて気品があります。先端断面に釘穴が見えますので、もとは金具か装飾具を取り付けていたものと思われます。
 全体的にみると、書院建築の典型的なタイプであるのは間違いなく、伏見城の御殿の建築群の一部であったとしても違和感はありません。規模が小さいので、繋ぎの施設か付け書院のタイプであったかもしれません。

 

 かくして20分ほどで書院の外観の観察を終えました。由緒といい、建物の様相といい、まず伏見城からの移築遺構であるとみて良いでしょう。
 それでU氏は大変にご機嫌でしたが、私も似たような気分であったのは自然なことでした。二人で書院に向かって一礼し、境内をあとにして門を出たのでした。

 泉涌寺塔頭法音院の公式サイトはこちら。  (続く)

 

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伏見城の面影28 泉涌寺へ

2024年10月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年10月5日、水戸の友人U氏と4月に続いて四度目の旧伏見城移築建築巡りを楽しみました。いつものように前の晩に京都入りして祇園四条のカプセルホテルに泊まったU氏と祇園で待ち合わせ、市バス202系統に乗って上図の「泉涌寺道」バス停で降りました。

 

 バス停の横の辻から東に進むと泉涌寺への参道であった緩やかな登り坂に入りました。
「この辺に来るのも久しぶりのことだな」とU氏が懐かしそうに景色を見回しつつ言いました。私も頷きました。

 平成10年から13年までの三年間、この通りの北側の街中のアパートに住んでいた時期があったからです。U氏も三度ほど遊びに来て、泊まり込んでは京都社寺巡りを楽しんでいたものです。

 

 しかし、二人とも、近くの名刹である泉涌寺には、一度しか行ったことがありませんでした。いつでも行ける距離にあったため、次に行こう、次の機会に寄ろう、と延ばし延ばしにしているうちに私が奈良市に戻ってしまい、それ以来20年ずっと泉涌寺界隈には寄る機会がありませんでした。

 ですが、上図の泉涌寺総門と左脇の即成院の表門のたたずまいは、20年前のままでした。

 

 ですが、U氏も私も、この泉涌寺総門から中へ入ったことは無いのでした。20年前も何度も前を通っていたのに、です。U氏はともかく、約100メートルほどの至近に住んでいた私ですら、不思議なことにこの門をくぐっていません。

 

 泉涌寺には一度だけ行った、というのは正確には泉涌寺塔頭のひとつである上図の即成院(そくじょういん)に行ったことを指します。その即成院にも20年ぶりに入ることにしました。

 

「あー、あれも昔のままだなあ、門の上に鳳凰が載ってるって、京都広しと言えどもここだけだな」
「せやな」

 

 門をくぐって右に曲がり、細長い境内地を進んで上図の本堂に向かいました。そのたたずまいも20年前と変わっていませんでした。

 

 20年前にここを訪れたのは、本堂内陣の聖衆来迎像つまり木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像を拝観するためでした。藤原彫刻を学んでいた私としては、ここに現存する藤原期の十一躯の菩薩坐像を一度は実見しておく必要があったからです。

 この藤原期の十一躯の菩薩坐像は、即成院を創建した橘俊綱が病を得て出家し、ほどなくして没した嘉保元年(1094年)頃の制作と推定され、橘俊綱が摂関家の藤原頼通の三男であったことと合わせ、当時の一流の仏師つまりは定朝一門の系譜に連なる仏師の作とされています。定朝様式を長く研究していた私にとっては重要な基準作例のひとつでした。

 昔も今も、本堂内陣の仏像群は撮影禁止なので、外陣に貼ってあった上図のパネル写真だけを撮っておきました。

 

 しかし、隣の上図のアニメシーンのパネルは初めて見ました。U氏が「何かのアニメになってるらしいが、知ってるか」と私を振り返りました。私も知らなかったので「さあ?」と返すにとどまりました。本堂の入口部分が影絵のようになっているだけで、外は架空の都会の景色になっています。

 

 同じアングルで撮ってみました。毎年10月に催されるお練り供養行事の舞台廊下が設置されていました。U氏が「奈良の當麻寺を思い出すなあ」と言い、「その當麻寺のお練り供養の菩薩に扮するアルバイトを一度やったことがあるよ」と私が応じると、「それは最高の体験と違うかね」と言いました。

 思い起こせば、最高どころか、不安と恐怖に包まれた供養行事でした。菩薩の衣装とお面を付けて左右に移動しつつ両手で持ち物を支えて回り歩くのでしたが、お面の目玉部分の小さな穴からしか外が見えず、視界が限られて周囲や足元の様子もよく見えないまま、高くて細い舞台廊下の上を進むのでした。怖いことこの上なしでしたから、次の年もバイトに来ないかと誘われて即座に辞退した記憶があります。

 

 右手の建物は、たぶん本坊か庫裏だろうと思います。その奥の白い建物が地蔵堂だったかと思います。お練り供養の菩薩の行列は地蔵堂から発して本堂に至るものか、またはその逆かもしれませんが、とにかく舞台廊下は本堂から地蔵堂へと続いています。

 

 即成院を辞して、隣の泉涌寺総門をくぐりました。くぐりながらU氏が「伏見城からの移築伝承の建物が泉涌寺にもあると聞いてびっくりしたんだが、何か謂れがあるのかね?」と訊いてきました。
 私もその件は去年に知ったばかりで詳細を知らなかったので、「謂れがあるんやろうけど、とにかく現地へ行って関係者に話とか伺えたらええんやけどな・・・」と返しました。U氏は「なるほど」と言って頷きつつ、門内参道を歩き出しました。  (続く)

 

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伏見城の面影27 平等院南門

2024年10月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平等院の鳳凰堂を眺めつつ、拝観順路に沿って園池の西辺へまわりました。見学客の多くは西側の「平等院ミュージアム鳳翔館」に入っていきましたが、U氏と私はその脇から塔頭浄土院前の参道に進み、左折して南門へ向かいました。

 

 途中の右側に、上図の養林庵書院がありました。桃山期から江戸初期頃の建築で、国の重要文化財に指定されています。普段は非公開で、特別公開も稀にしか行われないと聞きます。

 この養林庵書院も、伏見城からの移築と伝わりますが、確証がありません。文化財関連の資料でも伏見城移築伝承に関しては触れておらず、岩波書店の「平等院大観」の養林庵書院の解説記事においても、建物を江戸初期頃のものとする見解が述べられるにとどまっています。

 平等院は江戸期までに度々の火災に見舞われており、それによって寺の歴史史料や記録類の殆どが失われたという経緯があり、そのために文献史料のうえで平等院の歴史を探り確かめるという検証作業がほぼ不可能になっています。私自身も鳳凰堂や本尊の定朝仏を研究するうえで史料不足という分厚い壁に突き当たって苦労させられており、外部の史料や当時の貴族階級の日記類から断片的に情報を得るしか方法がありませんでした。

 なので、養林庵書院に関しても、それを管理する塔頭の浄土院が古記録類を火災で失っているため、文献史料がありません。確証が無いのも当然で、伏見城移築伝承に関しても検証して確認することが不可能となっています。残念なことですが、仕方がありません。

 あとは、養林庵書院に入って内部の様相を実際に見てみることしか出来ませんが、特別公開されることが稀であるため、いまだに見学の機会を得ていません。U氏も「いつか見に行きたいねえ」と話していました。

 

 養林庵書院の門前を過ぎて石段を登ると、「平等院ミュージアム鳳翔館」の南西隅に上図の丹塗りの門が見えてきました。

 

 いったんくぐって外側に出て、あらためて振り返り門に向き合いました。これが平等院南門です。現在も南の観光駐車場からの拝観路の南の出入口として機能しています。

 

 こちらは脇に案内説明板が設けられています。「伏見桃山城からの移構とされ」とあります。平成二十二年の修復工事に際して材がアカガシであることが確認されていますが、アカガシは戦国期の城門に多用された木であることが諸史料から知られ、この門がもとは城門であったことを示唆しています。

 

 確かに外観は、城郭では一般的な冠木門タイプで、寺院の門としてはあまり見ない形式です。部材が太くて頑丈に造られ、装飾の類が一切みられないのも、寺院の門にはあまりない要素です。

 

 U氏が「これも、さっきの北門と同じでもとは冠木門だったんだろうな、屋根は後から付けたっぽいな」と言いました。しかし、冠木門だったと仮定した場合、その冠木(かぶき)の左右から肘木が張り出しているのには違和感がありました。それを指摘しようと思いましたが、U氏も気付いたようで、「あの出っ張ってるのは何の部材だろう」と付け足しました。

 

 再び近づいて冠木の上の部材を見上げました。上図のように、肘木の内側に水平に板が張られていました。

 

 U氏が「これ、天井の板なのかね?」と言いましたが、私もこういう部材はあまり見た事がないので、「天井と言われれば天井に見えるな・・・」と返すにとどまりました。寺院の門に天井がつくケースは無いわけではありませんが、頭貫にあたる冠木の上に張ってあるのは初めて見た気がします。

 さきに見た案内説明板では、「天井板を備えた古式武家門の姿を良く残す」とありましたが、そもそも日本に現存する数多くの武家門のなかの古式な遺構に、こういった天井板が供えられたケースを見た記憶がないのです。

 私の覚えている限りでは、現存最古の武家門は、秋田県の角館にある旧石黒家の門、城郭の門としては愛媛県の宇和島城の上り立ち門が挙げられますが、いずれも天井板がありません。それよりも古い遺構があるかどうかは確認していませんが、基本的に武家門に天井を張るケースは珍しいのではないかと思います。

 

 しかも肘木と共に前方へ板が庇のように張り出しているので、天井には見えませんでした。そもそも、この門の主柱が左右とも屋根の棟木まで続いておらず、冠木の上にも出ていません。それで屋根をどう支えているかというと、天井のように張られた板の上に細い材が組まれて屋根を支えている、という変わった構造になっています。

 なので、この門がもとからこういう構造ではなくて、後で屋根を追加して現在の姿になったことが理解出来ます。城門であったのをここへ移して平等院の門にした際に屋根と屋根を支える板を追加したのでしょう。

 

 しかも、問題の板は後方へも張り出して、門の支脚の上に通された貫に打ち込まれているのでした。つまり門の主脚上ではやや前に庇のように張り出し、後ろの支脚の上では上図のように張り出していません。つくづく、変わった構造だなあ、と思いました。

 U氏が推測したように、これはもとは冠木門だっただろうと思います。ここに移して平等院の門にしたときの改造で、冠木上に天井のような板を張り、そのうえに小屋組を組んで支持材として、屋根を追加して支える形に改造したのだろうと思います。
 U氏は「もう一つ考えられるのは、これが元は櫓門で、上に櫓があって、その床板だけが残されている、という・・・」と話していましたが、なかなか面白い推測だと思います。城門だったのならば、その可能性もありますが、寺院の門に改造されて原形を失ったいまとなっては、確認のしようがありません。

 

 門扉の内側の閂です。シンプルな造りです。この門は城門としては小型に属して防御性も高くないタイプですので、伏見城にあったとしても本丸や二の丸といった重要区画に設けられたのではなく、外郭部の通用門クラスであったかと推測されます。

 

 屋根を見上げました。部材は綺麗に保たれており、例の天井板と同じ材が屋根裏にも張られているようでした。さきに見てきた北門と同様、こちらの南門も冠木門の冠木と主柱だけが古くて、さらに材はアカガシであるわけです。かつては伏見城のどこかの通用門クラスの冠木門であった、とみなして移築伝承を前向きに捉えておいても良いでしょう。

 

 最後に屋根の妻飾りをチェックしました。御覧のように下の広がりが小さく、釘隠しの飾りが木製で設えられています。江戸初期によくみられる形式です。屋根が江戸期に追加されたことを示しているのでしょう。

 

 かくして、平等院に伝わる、伏見城移築伝承のある二棟の門を見ました。今も平等院の南北の拝観出入口として使用されており、いずれも元は冠木門であった可能性が高いと考えられます。

 時間があるのでU氏が「鳳翔館」も見て行こう、と言い、南門から引き返して「平等院ミュージアム鳳翔館」を見学、それで平等院での拝観見学を終えました。退出する際に、U氏が「次に行く時は、怜子さんを連れていけよ、必ず」と念を押すように勧めてきたので、頷き返しておきました。

 京阪宇治駅まで歩いて戻る途中で、U氏が「これで京都にある伏見城移築の伝承の建物はみんな回ったことになるのかね?」と訊いてきましたので、「いや、あと二ヶ所残ってる」と返しました。「そんなら次は秋に行こうぜ」となり、それで秋の京都巡礼の基本プランが決まりました。

「それで秋に残る二ヶ所を回るとして、その次には別のテーマで京都巡りがしたいよなあ」と言うので、どんなテーマかと訊き返しました。U氏はなぜかニヤリとして、「応仁の乱とか、戦国時代の混乱期のさ、足利将軍家とか管領家の拠点とか城とかの史跡を回る、ってのはどうだな?」と言いました。

 あ、それええなあ、と思いました。もう少し時代を下げて織田信長の活躍期あたりまでの史跡や遺跡も含めたら面白いかもしれません。一般の多くの京都通や京都ファン、京都の歴史愛好家などでもあまりタッチしていないジャンル、カテゴリーであるので、観光資料やネット上の情報でも網羅されていない未知の事柄、埋もれた情報が数多く発見出来そうな気がします。とりあえず、それでいってみるか、ということになりました。  (続く)

 

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伏見城の面影26 平等院北門

2024年10月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 興聖寺を出て、宇治川に架かる朝霧橋を渡って橘島の北へ行き、橘橋を渡って宇治川の西岸へ移動しました。U氏の希望で平等院表参道のスタバに寄ってコーヒー休憩をしたのち、向かいの生け垣の連絡口を通って、上図の平等院の表門前へ進みました。

 

 U氏は、寺での正式名称が北門である表門の近くに寄り、見上げるなり、ふう・・とため息をついて言いました。 
 「この門も伏見城からの移築って伝承があるとはなあ・・・、何度もくぐってるけれど、全然知らなかったな・・・」
 私も同じように見上げながら応じました。
 「こっちも同様や。伏見城からの建物の移築の件で調べていて初めて知ったんよ・・・。淀藩の永井信濃守が寄進修築してるらしいんで、これも本物なんやろう、と思う」

 

 ただし、いまの表門の構造材の全部がそうではないようで、例えば屋根部分の部材、例えば上図の貫(ぬき)や虹梁(こうりょう)などは新しいので、現在地にて平等院の門として建てた際に、新たに改造追加した部分ではないかと思われます。

 

 それで、改造追加した部分であると思われる屋根部分を外して捉えますと、その下の構造材がやたらに太くて表面の風蝕もかなり進んだ古びた状態であるのに気付かされます。

 U氏も、そのことには気づいていたようで、「もとは冠木門(かぶきもん)だったんと違うかな。二脚だし、冠木が見事なくらいに太い立派な材を使ってる。柱なんかはけっこう高級な木材を使ってるなあ、あれ」と感心しつつスマホで撮っていました。

 

 U氏の指摘通り、もとは冠木門だったのだろうと思います。屋根を取っ払って、二脚の柱の切断された上端を復元すれば、城郭では一般的な通用門の形式であった冠木門の姿になります。

 ただ、冠木門としては間口が広い方に属しますので、城郭の通用口のなかでもメインの導線にあたる主要な虎口に設けられていた可能性が考えられます。

 

 門に向って右側の柱を中心とする軸部の様子です。柱の上端は屋根を設ける際にカットされていますが、横材の冠木はカットされた形跡がなく、端の切断面はもっと古い風化浸蝕の様相を示しています。現在地に移築される前からの状態をそのまま伝えているようです。

 

 屋根裏を見上げてみると、御覧のように冠木と柱だけが古びています。表面もかなり風蝕が進んでいます。消去法でいえば、冠木と柱以外は後世の追加、すなわち現在地に平等院の門として移築された際の改造部分、とみることが出来ます。

 

 それでは門扉はどうか、とその軸部と本体に視線を移しました。門扉本体もやはり古びた雰囲気がありますので、これも移築前からの部材がそのまま引き継がれている可能性が考えられます。

 

 内部から見直しても、屋根部分の構造材がやっぱり新しく見えます。木材の質や種類も異なっているように思えます。

 

 そして、向かって左側にのみ、潜り戸が付けられます。上図はその潜り戸を内側から見たところですが、御覧のとおり頑丈に作られて閂(かんぬき)の部材も太く金具もしっかりしています。何よりも、引手(ひきて)が全く無くて外側からは開けられないような構造になっているのが寺院の門との決定的な違いです。

 U氏が「寺院の山門クラスにこういう防御重視の脇戸は有り得ないもんな、最初から寺の門だったのなら、こういう脇の通用口の戸だって薄い一枚板だろうし、引手も付いてるだろうし、固定するにも閂じゃなくて鍵になるだろうな」と言いました。

 

 したがって、伝承が史実であれば、永井信濃守によって淀城から移築転用の形で寄進され、平等院の門に相応しいように屋根を追加して改造した、旧伏見城の冠木門であったもの、ということになります。

 淀城は前回の記事で述べたように旧伏見城の建物多数を移築して築かれており、幕府の老中職にあった永井信濃守が入府してからは石高の引き上げに伴って城郭と城下町の拡張が図られています。その拡張の際に、もとの建物を新しいのに置き換えたり、建て直したりした所があって、その旧建物を寄進の形で再活用すべく興聖寺や平等院に移した、というプロセスが想定出来ます。上図の門も、その一例であったのかもしれません。

 ですが、平等院のほうでは、案内資料類はおろか、寺の記録においてもこの門に触れていません。専門資料のナンバーワンとして名高い岩波書店の「平等院大観」にすら、この現在の表門(北門)に関しては記載がありません。不思議なことではありますが、おそらく、寺においては正式な門ではなくて、宇治川岸に連絡する唯一の通用門であったに過ぎなかったからではないか、と思われます。

 平安期の創建になる平等院には、建立以来の北大門がありましたが、当時の伽藍境内地はもっと広大なものであったため、その位置も現在の門とは異なります。北大門の後身の北門は江戸期の元禄十一年(1698)に焼失しましたが、その後は再建されなかったため、観音堂の裏手にあった通用門が北門の代わりとなって、その外側に参道が形成されていき、結果としていまの表門となって現在に至っているわけです。

 

 門からは大勢の観光客の波に紛れて上図の鳳凰堂の前に進みました。U氏は「いいなあ」「いいねえ」「すごくいい」と感嘆句を小声で連発し、観光客の大半と同じように盛んに撮影していました。

 私の方は、鳳凰堂の正面観に向き合う位置に近づくにつれて、深い感慨と限りない思い出とが胸の内に静かに湧き出てくるのを感じつつ、鳳凰堂の本尊の定朝作阿弥陀如来像の崇高なる姿を心に鮮やかに再現しては、法悦のような清らかな幸福感と、懐かしい記憶の流れとに浸るのみでした。

 なにしろ、ここ平等院鳳凰堂が、私にとっては人生最高の聖地であり、語り尽くせぬ想い出の地であり続けているからです。仏教美術研究者としての長年にわたる中心的研究対象がここ鳳凰堂の本尊阿弥陀如来像とその作者であった仏師定朝であったのも大きいですが、それ以前の自身の若き日の青春の記憶の多くもここ平等院鳳凰堂に刻まれている、というのも、聖地中の聖地たるゆえんです。

 

 そのことは、U氏もよく知っていますから、私の横に並んだ時に、小声でこう言ったのみでした。

「いまも、思い出すかね」
「うん・・・」
「・・・本当に、綺麗な人だったなあ・・・」

 さきに興聖寺にて見学前にその墓前に詣でたのを思い出したように、ちらりと後ろのその方角を振り返っていました。いまも宇治川の向こう岸から鳳凰堂を見守っているであろう、亡き前妻の美しかった双眸のきらめきを、私も思い出していました。

 思えば昭和60年春、平等院鳳凰堂前のこの場所にて、定朝仏を拝んではその歴史的意義のレポートの原案を呟きつつノートにメモしていた大学生の私に、背後からいきなり声をかけてきた女子高生でした。定朝に関連する平安期の史料「春記」のコピーを読んでいた私が「其ノ尊容・・・」と思わず口に出した時、背後で「満月ノ如シ、ですか?」と声がしたので驚いて振り返ると、慌てて一礼してきた彼女の笑顔がありました。運命的な邂逅だったな、と今でも笑ってしまいます。

 

 しばらく二人で無言のまま鳳凰堂を眺めていましたが、再び歩き始めた際にU氏が言いました。

「そういえば、ここへは、怜子さんとは来たのかね?」
「いや、まだ・・・」
「そうか、やっぱりな・・・」

 いまの嫁さんとは、結婚以前から京都の色々な古社寺に一緒していますが、彼女は大学時代に宮廷文化や源氏物語を研究して宇治にも何度も行っている筈なのに、嫁に来てからは、宇治市エリアの古社寺に行きたいと言ってきたことが未だに一度もありません。おそらく私の前妻の記憶に遠慮しているのでしょう。

 なので、U氏は、私の推測と同じ事を言いました。
「たぶんさあ、星野が言いだして、連れていってくれるのを待ってるんと違うか・・・」
「うん・・・、実は僕もそう思ってる・・・」
「そんならさ、早く連れていってやれよ。・・・怜子さんは絶対、待ってるぞ」
「うん、そうする」

 そう答えた途端、なぜか気持ちが軽くなってきて、嬉しささえもこみ上げてきたように感じたのでした。  (続く)

 

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伏見城の面影25 興聖寺本堂

2024年09月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 翌4月14日は快晴でした。U氏はいつもの祇園四条のカプセルホテルに連泊して祇園四条駅から京阪電車に乗り、私はその列車に清水五条駅から乗り込んで合流、宇治駅まで行きました。U氏との宇治行きは、実に10年ぶりのことでした。

 京阪宇治駅からは、おなじみの朝霧通りを歩いて宇治川の東岸を進み、観流橋を渡って上図の槇ノ尾山(御所山遺跡)が見える地点まで行きました。U氏も宇治へは何度か来ているそうで、ゆっくり歩きながら景色を楽しんでいましたので、私も歩速を落としてそれに合わせました。

 

 宇治川の流れをしばらく眺めた後、琴坂と呼ばれる上図の長い参道を進み、興聖寺の境内地に入りました。

 

 興聖寺山門付近の桜。

 

 興聖寺の山門の前にて、U氏が立ち止まり、ちらりと私を見て問いかけました。

「で、行くのか?」
「ああ」
「俺も行っていいかな?」
「もちろん」

 ということで、山門を入る前に大事な寄り道をしておきました。

 

 再び山門の前に戻りました。御覧の通りの竜宮造で、江戸期の天保十五年(1844)に改築されています。宇治市の有形文化財に指定されています。

 

 山門をくぐり、階段をあがって、寺では「中雀門」と呼んでいる江戸期弘化三年(1846)建立の薬医門をくぐると、すぐ右側に上図の石塔の笠石と相輪があります。U氏が「これって、浮島の十三重石塔のてっぺんの部分だろ」と指さしました。その通り、鎌倉期の国重要文化財の浮島十三重石塔の遺品であり、塔が明治四十一年(1908)に再建された後で宇治川から発見され、ここ興聖寺に移されて保管されています。

 

「で、あれが問題の本堂だな。前にも見てるけど、伏見城からの移築というのは知らなかったから、今あらためて見ると、いかにもそれっぽいな」
「それっぽい、じゃなくてこちらのは本物だろうと思うけどな」
「本物だとしても、伏見城にあった頃の姿とは違ってるような感じだな。屋根とかは改造されてるんと違うかね」

 U氏の言う通りでした。本堂の建物は、 慶安元年(1648年)に伏見城からの移築建築を用いて改築したといいます。伏見城合戦の東軍鳥居元忠以下の将兵の血が付いたままの床板を天井板として使っており、他の場所にもある血天井に比べると血痕の残り方が生々しいため、西賀茂正伝寺本堂の血天井と並べて有名になっているそうです。

 

 本堂の正面部分です。屋根は改造されているようですが、主屋部分は広縁と落縁の造りも含めてほとんど改変が加えられておらず、中央の石段からあがる部分も間口を広げるだけの改造にとどめています。昨日見てきた養源院本堂の客殿とよく似た構造、外観を示しており、落縁の外側に雨戸が付いている点も共通しています。
 なので、もともとは養源院本堂の客殿と繋がっていた、と推定しても違和感があまり感じられません。

 

 内部空間は、仏堂に転用する際に最低限の改造、つまり中央の間口を広げて奧室に須弥壇と厨子を入れて板敷を入れてあるほかは、書院時代のままの間取りを伝えています。

 徳川家の正史である「徳川実記」によれば、伏見城の廃城後の元和九年(1623)8月、二代将軍徳川秀忠の命により松平越中守定綱が淀藩3万5千石へ入部、淀城を幕府の援助によって築いて最初の城主となりました。築城に際して廃城となった伏見城の資材が転用され、天守は二条城より移築し、寛永二年(1625)にほぼ完成したとされています。

 その後、寛永十年(1633)に松平越中守定綱は美濃国へ移封され、代わって幕府の老中職を勤めた永井信濃守尚政が10万石で淀に入部、城郭と城下町の拡張を図り、侍屋敷の造営が行われたといいます。

 

 いまの興聖寺は、その永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)に現在地に再興したものなので、淀城の拡張工事の際に旧伏見城の建物を新造の建物に置き換えたうえで、古い建物を興聖寺再興の際に本堂として再利用した可能性があります。

 寺では単に旧伏見城からの移築と伝えていますが、実際には淀城に移築されていた旧伏見城建築の再移築、と考えたほうが良さそうに思います。

 

 本堂に向かって右側には、上図の式台があります。これも本堂に付属する建築として旧伏見城からの系譜が推測出来そうに思われますが、間取りを見ると、むしろ奥に繋がる明治四十五年(1912)建立の大書院と共通した空間構成になっているようですので、大書院とともに付けられた式台だろうと思われます。

 大正八年(1919)に貞明皇后がここに行啓された際に大書院に逗留されたといい、その際にこの式台が玄関口として使用されたそうです。

 

 式台の破風の妻飾りもシンプルです。装飾意匠も控えめで、あまり旧伏見城建築の雰囲気が感じられません。

 

 したがって、伏見城から淀城を経て、先の老中にして淀藩主の永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)の興聖寺再興に際して移築せしめた旧建築とは、上図の本堂部分のみ、としておくのが良さそうです。

 この本堂に関しては、寺に伝わる再興時からの記録である「宇治興聖寺文書」に何らかの記載があるのかもしれませんが、まだ閲覧の機会を得ていません。「宇治興聖寺文書」は同朋舎出版から3巻で刊行されているので、機会があればどこかの図書館で読んでみようと思います。

 

 いずれにしても、寺院の本堂にしては変わった造りの建物であることが、遠くから見るほど強く感じられます。屋根は大幅に改造されているようですが、主屋部分は城郭の御殿建築、書院建築特有の外観を呈しているからです。
 拝観料を払えば内部にも入れますが、U氏も私も過去に何度か入っているので、今回は外からの見学にとどめました。

 

 以上、興聖寺本堂でした。徳川期再建の旧伏見城からの移築建築の典型的な一例、とみておいて良いでしょう。

 寺の再建に幕閣の老中職を勤めた永井信濃守尚政が関わっており、その居城だった淀城は、旧伏見城の資材を転用して建てられ、二条城より移築したという天守も元は伏見城の天守だったそうです。つまり、永井信濃守尚政は、当時最も多くの旧伏見城移築建築を用いた城に住んでいたことになります。したがって、旧伏見城の建物を興聖寺に転用出来る権限があった、唯一の幕府重鎮であったことになります。

 その永井信濃守尚政が、興聖寺と宇治川をはさんで向かい合っている平等院にも修復寄進をしているのですが、その平等院にも伏見城からの移築と伝える門の建築が二棟あります。次は、その平等院へ向かいました。  (続く)

 

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伏見城の面影24 正行院客殿

2024年09月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 養源院を退出する際に、U氏が「次はどこへ行くんだ?もう一ヶ所を追加するんだろ?」と訊いてきました。そうだ、ここからバスで行くか、それとも歩いていくか、と応じると「今回は泊まりだから時間はたっぷりある、ゆっくり景色を見ながら歩いて行こうぜ」と答えてきました。

 

 それで養源院南門から南に進み、法住寺殿跡の石碑を一瞥し、上図の大きな南大門をくぐりました。いまは妙法院(蓮華王院)の管理下にありますが、もとは豊臣秀吉が建立した方広寺の南大門であったものです。両袖の築地塀も同時期の遺構で、かつての広大な方広寺境内地の規模がうかがえます。

「おい、この門から大仏殿跡までどれくらいあるかな、500メートルぐらいか?」
「いや、400メートルぐらいやないかな」
「ここが南大門だから、北の大門もあったのかね?」
「さあ、方広寺はあんまり勉強しとらんから分からんね。普通に考えたら大和大路の東側が境内地になるから五条通あたりが北限かなと思うけど、規模が広かったから北大門もあったと考えるのが自然やな」
「なるほど」

 

 それから南大門の前の塩小路通を西へ歩き、鴨川に架かる塩小路橋を渡りました。U氏が「ここからの鴨川の景色もなかなかいいね。桜並木があるし、川幅も三条や四条あたりよりは広くてゆったりしてる」と言いつつスマホで撮影していました。

 その後も塩小路通を西へ進み、高倉塩小路の交差点を渡りました。U氏が私を振り返って「おい、もうすぐ京都駅前になるんだが?場所はあってるのか?」と問いかけてきたので「次の辻を左へ曲がってくれ」と応じてその方向を指しました。

 

 次の辻で左折して南下すると、交差点があってその東南隅に上図の寺門がありました。そこだ、と教えるとU氏は「京都駅のすぐ東側じゃないか、こんな場所にお寺があるんだな」と感心したように言いました。

 

 その寺は正行院といい、猿寺の通称で親しまれています。山門脇の案内説明板です。

 

 残念ながら一般の参拝および内覧は受け付けていませんでした。いわゆる非公開寺院のひとつでした。

 

 ですが、山門から目的の建物である客殿が見えるので、充分でした。

 

「おい、あれがそうなのかね?」
「伝承では本堂が、伏見城の壊された建物を、寛永年間(1624~1644)に徳川家光が寄進して、それを改造して建てられたもの、となってるけど、それにしては建物が新しすぎるんで、どうも違うような気がする。隣のあの客殿のほうが、それっぽい外観と雰囲気を持ってるな、て思うんや・・」
「なるほど、確かに・・・」

 U氏も東隣のピカピカの本堂をチラリと見た後、バッグから双眼鏡を取り出して客殿を観察し始めました。

 

「水戸の、どう思うかね?」
「部材の彫り込み装飾は、江戸初期の形式みたいだね。それか、やや古い感じかなあ。徳川期伏見城の建物だったなら有り得る造形だな」
「やっぱり、そう見るかね・・・」

 

「しかし、葵紋とかは残ってないみたいだな。瓦は後世のものに交換したっぽいな・・・」
「あー、そんな感じやな」

 

 次に西側へ回って見ました。寺の駐車場の入口ゲート越しに、上図の軒破風の張り出し部分が見えました。
「おい、あれ改造されてるけど、元は車寄だったんじゃないかな?さっき見てきた養源院のとよく似てるな」
「うん、そんな感じだな。山門から見えたんが式台なら、こっちは車寄だったかもしれんな・・・」

 

 そして客殿の西側へ回ってみました。御覧のようにあちこちで建物がカットされたような状態で、屋根も半分をカットして二階建てに改造されていました。

「おい、これめちゃくちゃ改造されてるな、大屋根だけみると御殿っぽいな、破風の格子は外されて白壁になってるけど。カットされる前の建物をイメージすると、この寺の規模にしちゃ、大きすぎるような・・・」
「大きすぎたからあちこち切り詰めて改造したんやろうな・・・」
「徳川家光が寄進した時点で建物そのものは破却解体されてたんだから、部材とかを寄進したというのが実態かもしれんな。それを使ってそれらしく建て直して、境内地におさまるように改造した、ということかな」
「かもしれんね。客殿が二階建てというのも珍しい」
「そうだな」

 

 大屋根の残存部分をしばらく見上げました。U氏が「かなり古い部材みたいだな」と何度も言いました。

 

 確かに上図の懸魚(げぎょ)などは丸く象られて江戸期よりは桃山期よりの古式を残しています。

 

 境内地の裏手、北側は広い駐車場になっていますので、そこからは客殿の北面がよく見えました。二階建ての上層部分の造りも、寺の客殿のそれにしてはあまり他にみない形です。城郭御殿のような広い柱間と大きな扉口が印象的でした。扉口は下4分の3ほどが近年の雨戸で覆われていました。

 

 しばらく見ていたU氏が「あの二階部分もさあ、もとは一階だったんじゃないかな、屋根が半分カットされてるだろ、そのカット部分の主屋を二階に上げて改造したんじゃないかな・・・」と腕組みをしつつ言いました。その発想はありませんでしたので、あ、なるほど、と思いました。その可能性もあるかもな、と考えました。

 いずれにせよ、寺が非公開で話も伺えない状態ですから、これ以上の推測は無理でした。移築伝承を裏付ける証拠、たとえば古文書があるのかどうかも分かりません。寺の建物は文化財指定を受けていませんから、その方面での報告書も無いと思います。
 なので、この正行院客殿が伏見城からの移築建築であるかどうかは、現時点では可能性の問題にしかなりません。

 かくしてこの日の巡礼は終了となり、続きは明日、ということになりました。とりあえず京都駅あたりで夕食で何か食べよう、ということで、そちらへ向かったのでした。  (続く)

 

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伏見城の面影23 養源院客殿

2024年09月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 客殿(本堂)に入る前に、上図の中門および番所、築地の構えを見に行きました。養源院の正門にあたりますが、普段は閉じられていて一般の拝観順路からも外れています。本堂とともに国の重要文化財になっている建物群ですので、U氏が「折角だからちょっと見ていこう」と見に行きました。私も後に続きました。

 

 寺院の正門には有り得ない番所が付く点も、徳川家の全面支援による建設の一端を示しています。現存の伽藍は元和七年(1621)の再建ですが、その発願は二代将軍徳川秀忠正室の祟源院(お江)なので、江戸幕府の公的造営ではなかったものの、幕府の直営事業として位置づけられたようです。

 そのためか、上図の中門や番所は当時の最高格式の建築として建てられており、寺院というより城郭の門や番所に近い雰囲気に仕上がっています。移築の痕跡は一切見えませんので、ここで元和七年に新造された建物であるようです。

 

 現存の建築群の建設が江戸幕府の直営事業であったことは、事業の責任者の顔ぶれを見れば分かります。養源院の正式記録である天明六年(1786)の「由緒書」には、事業の担当者として「御奉行 佐久間河内守殿、御見分 土井大炊守殿 板倉伊賀守殿」とあり、当時のトップクラスの普請事業担当者ばかりであることが知られます。

 まず、普請奉行の佐久間河内守実勝(さねかつ)は、元は豊臣秀吉の小姓でしたが、後に徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長十四年(1609)に名古屋城築城の普請奉行を務めました。さらに寛永九年(1632)には幕府の作事奉行となっています。現代で言えば建設関係のトップにあたりますが、茶人としても知られ、宗可流の開祖にあたります。

 御見分役の土井大炊守利勝(としかつ)は、徳川家康の母方の従弟にあたり、徳川秀忠政権においては老中職にあって絶大な権勢を誇りました。徳川秀忠正室の祟徳院の再建発願を容れて事業を実質的に推進せしめた人物であろうとされていますが、当時はずっと江戸詰めでしたから、養源院再興の現場には直接的には関与していなかったようです。

 したがって、もう一人の御見分役の板倉伊賀守勝重(かつしげ)が実質的に担当していたものとみられます。徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長六年(1601)より京都所司代を勤めていました。元和五年(1619)に京都所司代職を子の重宗(しげむね)に譲って引退していましたから、養源院再興の時点では隠居の身分でしたが、それでも幕命により御見分役を務めたようです。元和九年(1623)に従四位下に叙せられて侍従に任ぜられたのは、その功績によったのかもしれません。

 

 したがって、現存の客殿(本堂)以下の建立には、土井大炊守利勝が実質上の実行委員長として采配を振るい、普請奉行を佐久間河内守が、御見分役を板倉伊賀守勝重が務めた、という構図で理解して良いでしょう。当時の幕閣の重要なメンバーが並んでいますから、養源院の再建事業というのは、そのへんの有力寺社の再建工事とは格も中身も違っていたのだろう、と言えそうです。

 

 なので、客殿が伏見城からの移築であるとされるのも、何らかの根拠があってのことだろうと思います。既に江戸期の寛政十一年(1799)の「都林泉名勝図絵」(江戸後期の京都の寺社の名庭園を網羅したガイドブック)の養源院の項に「当院の客殿書院は伏見城の館舎を此処に引移すなり」とあり、一般的にも知られていたようです。

 そうなると、伏見城のどの時期の建物が移築されたのか、という問題が出てきますが、豊臣期までの伏見城は伏見城合戦で西軍に攻められて全ての建物が焼かれたことが史料にも記されるため、その建物を移築することは有り得ないと考えられます。
 したがって、その後に徳川氏が再建した伏見城の建物が候補となります。徳川家康が慶長六年(1601)から再建し、元和五年(1620)に廃城が決定して翌年から破却が始まり、元和九年(1623)の時点で本丸書院以外の全ての建物が解体撤去されています。元和七年の養源院再建は、伏見城の破却が進められている時期にあたりますので、解体撤去された建物を転用するというのは可能だったわけです。

 なので、養源院の客殿が伏見城からの移築であるとするならば、それは元和五年(1620)から破却が始まった徳川期伏見城の建物であった可能性が強くなります。

 

 上図は、中門を見た後で客殿の車寄の南側に回って、立ち入り禁止区域の外から見た護摩堂です。通常は非公開なので、近くまで寄ることも出来ません。

 

 護摩堂は、崇源院の五女(末娘)にあたる徳川和子(とくがわまさこ)こと東福門院(とうふくもんいん・後水尾天皇の皇后)が宮中の祈願所として併設したもので、国の重要文化財に指定されています。

 

 U氏が「いよいよ入りますかね」と言い、私も頷いて上図の車寄(くるまよせ)つまり玄関口から内部に進みました。

 

 車寄の内部です。本堂客殿との取り合い部分の構造がシンプルなので、最初から客殿とワンセットで造られていることが伺えます。つまり、客殿と同じく車寄も伏見城からの移築である可能性が考えられます。

 外見は、屋根を入母屋、妻入りとして正面中央に軒唐破風を付けますが、この形式は二条城二の丸御殿の車寄、名古屋城本丸御殿の車寄、などと共通しています。いずれも江戸幕府黎明期の主要御殿建築の車寄として評価出来るでしょう。

 

 私たちが入った時、車寄から客殿南側へ観光ツアーの団体が案内人に連れられてひしめいていましたので、U氏が反対側の北側への出入口を指差して「あっちから見よう」と言い、国重要文化財の俵屋宗達の杉戸絵を横目に見つつ入っていきました。

 上図はその北側から入ったところの、客殿西側の広縁と下間の並びの杉戸引違です。左端は落縁で、雨戸と障子が落縁の外側に付けられているのが分かります。この形式は古いもので、江戸期の書院建築では類例が稀です。私の知る限りでは、知恩院大方丈ぐらいです。
 なお、奥の杉戸が開放されている部分が下間の奥室で、寺では「牡丹の間」と呼び、秀吉の学問所であったと伝えています。

 

 その「牡丹の間」を見ました。中央に地蔵菩薩像が祀られ、奥の襖には牡丹図が描かれています。狩野山楽の筆とされます。

 

 観光ツアーの団体が北側に移動してきたので、入れ替わるようにして南側へ回りました。上図は南の広縁と三つの前室です。左の白い襖の部分が下間前室、その右奥の開かれた両折桟唐戸の部分が室中前室「松ノ間」、奥の杉戸が外されて開放されている部分が上間前室にあたります。

 上間は明治期に聖天堂に改められていて撮影禁止でしたので、その内部構造を撮れませんでしたが、一見して城郭御殿の上段の間に相当する格式の高い空間であることが分かりました。その奥室にのみ、床と棚と付書院の正規座敷飾り三点セットがみられ、上段部分の天井は最高格式の折上小組格天井となっています。

 こうした空間は、本来は高位の人物が御成りになる部屋であり、想定される人物は、徳川将軍家かその関係者、ということになります。徳川期伏見城の客殿であったのならば、当然ながら将軍家、養源院客殿においては願主の祟源院および娘の東福門院、ということになるでしょう。

 U氏が得意の身体尺による計測法で客殿の柱間寸法を測っていたので、どのくらいかと訊ねると「両側の室の寸法は16尺20寸ぐらい、中央の室中は22尺70寸・・いや75寸に近いかな」と答えました。それらを6.5という数値で割ると、両側の室の算出値は2.5、室中のそれは3.5という数値に近くなります。やっぱりな、と納得しました。

 実は、6.5というのは6.5尺のことで、室町戦国期までの柱割制の基本単位のひとつです。6.5尺を基本にして寺社の柱間寸法を決めるやり方で、建物の規模に応じて2倍、2.5倍、3倍、3.5倍と乗算して柱間を決める方式です。江戸期になると書院建築の寸法は柱割制から畳を基本単位とする畳制に移行しましたから、養源院客殿の平面規模は室町戦国期までの柱割制を踏襲していることが分かります。戦国期末期に建てられた伏見城の建物であれば、間違いなく柱割制で設計されているはずなので、この点でも移築伝承は本物である可能性が示唆されます。

 

 退出後に、しばらく玄関前の枝垂れ桜を眺めました。養源院本堂の客殿は、いまでは数少ない江戸初期の書院建築の遺構であり、色々と興味深い様相が見られて楽しめました。どう見ても考えても、客殿は伏見城からの移築であるという伝承は本物だろう、という意見にU氏も私も落ち着きました。面白かったな、と言い合いました。

 ですが、京都府や京都市の文化財調査報告書類ではこの種の移築伝承を、単なる言い伝えとするにとどめるか、または無視して顧みない傾向があるようです。
 そのために、実は本物の旧伏見城建築である可能性が高いのに、全然気付かれていなかったり、違う評価を下されて誤解されたまま、というケースがあるのだろうと思います。伝承軽視という、戦後の歴史学の悪弊は、令和になっても残り続けるのでしょうか。  (続く)

 

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伏見城の面影22 養源院へ

2024年09月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 長楽寺を辞して、その山門の南隣の通用門から上図の大谷祖廟(おおたにそびょう)の境内地を通りました。大谷祖廟は、真宗大谷派本山の真宗本廟(東本願寺)が所有する墓地で、浄土真宗の宗祖である親鸞の墓所です。浄土真宗では親鸞の墓所を「御廟」と呼び、大谷祖廟一帯を「東大谷」と呼ぶそうです。

 

 大谷祖廟の広い境内地と長い参道を西へと下りました。この広大なエリアももとは長楽寺の境内地であったそうですが、延享二年(1745)に、江戸幕府が1万坪の境内地を没収し、これを大谷祖廟に寄進したことにより、現在の状況になったということです。

 

 それから祇園のバス停へ行って市バス206系統に乗り、博物館三十三間堂前で下車し、三十三間堂の東の道を南下して上図の養源院南門前に着きました。

 

 門前には上図の巨大な「血天井」の立札が建っています。
 U氏が「こういうの、遊園地のお化け屋敷の看板みたいな俗っぽい感じでダメだな、血天井見たいか?見たいなら入って来い、て誘ってる安っぽさがダメだな、な、思うだろ・・・」と話していました。

 

 こちらは養源院の正式な説明文。伏見城の遺構を用いて再建された、とあり、何らかの史料もしくは関連資料が伝わっているのかもしれません。U氏も「ここの建物は徳川家の全面支援で再建してるから、伏見城の遺構ってのも本物なんだろうねえ」と期待感を示していました。

 

 養源院は、豊臣秀吉の側室であった淀殿が、父の浅井長政の追善を願って、長政の二十一回忌にあたる文禄三年(1594)に建立し、長政の戒名の養源院をもって寺号としたのに始まります。

 その後、元和五年(1619)に落雷で焼失しましたが、二年後の元和七年(1621)に淀殿の妹で二代将軍徳川秀忠公正室の崇源院(お江)が再建を切望、徳川家の菩提所として歴代将軍の位牌をまつる寺院として再出発しました。
 現在の寺観は再建以来のもので、平成二十八年に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂、南門の5棟が国の重要文化財に指定されています。そのうちの本堂(客殿)は旧伏見城の遺構を用いて再建されたといい、伏見城の戦いで鳥居元忠以下が自刃したの廊下の板の間を供養のために天井となしています。

 南門からは緩やかな登りの石畳参道が、あおあおと空をも覆う若葉の下を本堂式台まで続いていました。

 

 本堂式台の前庭には、桜が咲いていました。U氏が「うん、いい景色だ。徳川葵の御紋も見えるし、まさに徳川家の聖域のひとつ、って雰囲気だな」と満足げに呟きました。水戸藩28万4千石の末裔ですから、江戸幕府黎明期の姿を伝える養源院の歴史的空間に感動しているようでした。

 

 「で、あれが本堂の客殿か。旧伏見城の建物か。なかなか立派な屋根の妻飾りだな」
 「そうやな」
 「周りの木が大きく育ってるので、建物の全容がいまいち見えないな」
 「そうやな」

 

 そこで式台に向かって左側の、あまり見学客が行かない場所へ回ってみました。寺務所が奥にあるのか、関係者の車らしいのが数台停めてありました。
 そこからは、客殿とその北に伸びる部分がよく見えました。

 

 縁側の下に近寄ってみました。高い柱、深い軒先、客殿の北側は屋根が一段低くて扉も蔀戸とし、客殿部分の板戸障子との区別が図られています。書院造の客殿とそれに繋がる副殿の典型的な外観が示されています。寺院の客殿はもっと屋根が低くて間口も狭いのが普通なので、この建築は寺院よりも寸法を大きくとる御殿建築の典型的な様相を伝えていると言う事が出来ます。

 

 客殿の主屋部分の外観です。周縁が無く、戸口を障子戸で統一する点は、慶長八年(1603)に徳川家が築造した二条城の二の丸御殿の大広間や黒書院と共通しますが、雨戸が付く点や長押の上の壁を板張りとする点は古式です。

 なので、徳川期再建伏見城の建物を移築したものであれば、その建設時期が慶長六年から慶長七年まででありますから、現存の二条城御殿とは一年しか違わない、ほぼ同時期の建物であることになります。

 

 したがって、この養源院本堂が正しく旧伏見城建築であるかどうかは、二条城御殿を参考にして比較すれば分かると思います。見ればみるほど、よく似ています。相違点を探すほうが難しいです。同時期に徳川家が建設した御殿建築ですから、似ていて当たり前だと思います。

 

 ですが、上図の花頭窓(かとうまど)の古そうな枠が外された状態で縁の下に置かれているのには、ちょっと違和感を覚えました。U氏も同じように頭を傾げていて、「これもかつての建築の部材なのかね?」と言いました。

「こういう花頭窓って、城郭の御殿や客殿には付いてるものなのかね?」
「うーん、現存してる掛川、川越、高知の御殿には無かったと思うな。二条城の二の丸御殿にも無かったと思うが」
「だよな、寺院の書院になら付くだろうけど、ここの本堂はもとは城郭御殿だからな、本来は無かったんじゃないかな。この枠はどこかで後世に追加したものを、修理工事の時に撤去したんと違うかね?報告書とかも出てるんじゃないのか?」

 U氏の推測は当たっているかもしれません。養源院本堂は、昭和六十一年(1986)に京都府指定文化財に指定されており、その建造物群に関する報告書が平成二十七年に京都伝統建築技術協会より刊行されています。機会があれば、その報告書を読んでみたいものです。  (続く)

 

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伏見城の面影21 長楽寺後山墓地

2024年09月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 長楽寺仏殿と建礼門院塔を見た後は、上図の文化財収蔵庫に入って国重要文化財の木造時宗祖師像七躯を見学しました。時宗の開祖としても有名な智真(一遍)の立像も安置されています。室町期の応永二十七年(1420)2月に慶派仏師の康秀が製作した旨の銘文があることで知られます。あとの六躯も同じ室町期に相次いで製作されており、おそらくは七躯をセットで順番に造立していったものともられます。

 

 その後、U氏がいう「水戸藩28万4千石の赫奕たる歴々の勇士たちの鎮まる聖域」へ向かいました。長楽寺の裏山に位置して一般的には後山墓地と呼ばれますが、U氏は正式名称の「尊攘苑」のほうで通していました。

 

 5分ほど山道を登ると、上図の「尊攘苑」入口に着きました。道が二手に分かれて下段の墓地と階段の上の墓地へと通じていました。

 

 入口脇に立つ墓地の全体図です。かなりの規模であることが分かります。私は思わずU氏に問いかけました。

「この墓地全体が、水戸藩関連の墓地になってるのか?」
「いや、正確には三割ぐらい、かな。あとの七割ぐらいは寺の檀家や信者の墓だな」

 

 墓地全体図の右下に25人の氏名が列記されています。私は再び問いかけました。

「1番の高城都雀、2番の能勢春臣、ってのも水戸藩のゆかりの人なのかね?」
「いや、違うと思う。聞いた事ないからな・・・。寺の檀家や信者のほうじゃないかな・・・」

 後日調べてみたら、高城都雀(たかぎとじゃく)は江戸期の俳人、能勢春臣(のせはるおみ)は幕末の歌人で古筆刀剣の鑑定も行った文化人、であり、いずれも水戸藩とは関連が無さそうでした。

 

 下段の墓地の中央辺りに、ひときわ大きくて目立つ頼山陽(らいさんよう)の墓碑がありました。江戸期の歴史家および思想家として有名で、主著の「日本外史」は幕末から明治にかけて広く読まれ、尊王倒幕の志士にも影響を与えたとされています。
 U氏によれば、水戸藩でも「日本外史」はかなり知られたようで、水戸光圀が始めた「大日本史」と共に参考書として読まれたそうです。

 

 下段の墓地を一周してから上段の墓地への階段を登りました。その後に上図の石碑を見ました。碑の上部に「尊攘」の太字が刻まれていることから、尊攘碑と呼ばれます。

 

 傍らの説明板。

 

 その左隣には、水戸藩兵留名碑がありました。U氏が姿勢を正して恭しく一礼しましたので、氏の言う「赫奕たる歴々の勇士たち」の顕彰碑なのだろうな、と察してこちらも頭を下げました。

 

 水戸藩兵留名碑の説明板。

 

 上段の墓地の最高所には、上図の徳川余四麿昭訓の墓所がありますが、私たちが訪れた時には墓石の改修工事中で、墓碑が一時撤去されていました。

 U氏は最初、墓石が無くなっているので驚き、動揺し、左右を見回して頭を抱え、「しゃっ、一大事である、昭訓公の墓石が無くなってる、これは何としたことか」と騒いでいましたが、参道手前にある「改修工事につき・・」の貼り紙を見つけて「なんと・・・」と安堵の声を発していました。

 

 徳川余四麿昭訓の墓所の説明板。兄の水戸藩主徳川慶篤を支えて上京し京都御所の守衛や海防の任務に努めましたが、僅か十六歳にて病没、弟の昭武公が跡を継いで最後の水戸藩主となったことが分かります。

 

 U氏と並んで場所に一礼しました。

 

 それから、登ってきた山道を引き返して下り、仏殿の背後へ回りました。来た道とは反対側のルートでしたが、こちらが後山墓地への正規の参拝路であるそうです。

 

 長楽寺仏殿の横から出て南へと回りました。

 

 かくして長楽寺においては、その仏殿が、伝承にいう旧伏見城建築とは無関係で、旧地の正伝寺にて江戸期に新造された建物であったことを確認出来ました。

 旧伏見城からの移築建築と伝える建物は、京都市内だけでもあちこちにありますが、それらが本物なのか違うのかをこれまで誰も考察、検証していません。ネット上でも、伝承をうのみにして列挙している記事が殆どで、建築や遺構をきちんと見学して考証している方は、これまで見かけたことがありません。

 それで二年前、2022年の4月にU氏が「そういう伏見城移築の建物を回って記事にしたらどうかな、単なる伝承の建物は外して、確かな建物だけをリストアップして順に紹介したら面白いんじゃないかな」と言い出し(当時のレポートはこちら)、「君がやってみたらいいじゃないか」と私にけしかけて以来、今回で四度目を数える旧伏見城移築建築巡りが続いているわけですが、いざ回ってみますと、面白くて興味深い学びや気づきが豊富に得られます。京都の歴史散策の新たなステージ、フィールドが広がってゆくのを実感させられます。  (続く)

 

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伏見城の面影20 長楽寺仏殿

2024年09月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 長楽寺の表門をくぐり、境内に入りました。山裾の傾斜地に寺域があるため、参道はほとんど階段となっています。その左右に客殿、庫裏、拝観所、受付などの建物が並びますが、左手の庫裏と拝観所と受付はリニューアル工事のため解体されていて、右手の客殿に臨時の受付が設けられていました。

 

 臨時の受付へ行く手前の左手に置いてあった手水鉢の石盤。大正の頃に当時の住職夫妻が設置したもので、表面には富岡鉄斎の書が彫られています。

 

 その説明板。例によって真剣に三度読みするU氏でした。その背中に向かって問いかけました。

「水戸の、ここには何度も来てるんやろ?この説明文もよく知ってるんじゃないのかね?」
「いや、これは初めて見るんだ。前回は五年ぐらい前に来たんだけどさ、そのときはこの説明文は無かったんだよ」
「そうなのか」
「この手水石盤も、もとは別の場所にあったような気がするんだけどな・・・」

 

 首を傾げつつも、石盤に彫られた書を一字一字、声を発しないで口だけを動かして暗読するU氏でした。

 

 それから臨時受付に行って拝観料を支払い、参道から上図の仏殿を見上げました。
 受付に住職が居られたので、U氏が「西賀茂の正伝寺からこちらに移築されたという仏殿を拝見したく参りました」と挨拶し、「ああ、正伝寺ね・・・、その仏殿はあれですよ」と指さして教えられた際に、「もとは伏見城から移築した建物だと聞きましたが」と尋ねました。住職はなぜか苦笑気味に「まあ、そういうことになっとりますがね、建物はその後に建て直されてますんでね・・・」と応じられました。私たちは思わず顔を見合わせました。

 

 とりあえず仏殿に行こう、と階段を登りました。仏殿の全容が木立の間に表れてくるにつれ、U氏が私を振り返りました。
「右京大夫、どう見ても典型的な禅宗様の仏殿にみえるが」
「うん、同感や」
「俺はここに三度来てるんだけどさ、今回で四度目か・・・、この仏殿が伏見城からの移築と聞いてちょっとびっくりしたんだよ、だってそんなふうな建物には見えなかったしな、今改めて見ても、伏見城移築には見えない」
「うん、御住職も、建て直されてます、言うてはったな・・・」

 

 その「建て直されてます」の意味が、仏殿の前に立てられた上図の説明文によって明らかになりました。要約すると、この仏殿の建物は正伝寺にて江戸期の寛文六年(1666)に造営されたのを、明治二十三年(1890)に現在地へ移築したもの、ということです。つまりは江戸期に新造された建築であったわけです。

 これによって、伏見城からの移築とする伝承は、ただの誤伝に過ぎない事が判明しました。伏見城から南禅寺金地院を経由して正伝寺に移されたと伝わる御成殿と御前殿の二つの建物のうち、本堂の方丈に転用された御成殿のほうは現在も残っていますが、御前殿を転用した法堂は、何らかの事情によって江戸期の寛文六年に新たに建て直された、ということになります。
 それを明治期に正伝寺が長楽寺に譲渡して、いまに至っているわけです。

 

 かくして、伏見城からの移築建築ではないことが判明した、長楽寺の仏殿です。U氏が納得したように言いました。
「そもそも城郭の建物をお寺の仏堂に転用するってのがさ、ちょっと無理があったんと違うかね?城郭と寺院じゃ建物の造りがまるで違うしな・・・、客殿は書院造りだから、書院造りも入ってる方丈の建物には転用出来るだろうけど、御前殿ってのは要するに玄関口の建物だろ、そんなのをどうやって仏殿に使えるんだろう、って思うな」

 そういうことやな、と私も頷きました。江戸期に正式な禅宗様の仏殿を新築して置き換えたのも、色々と仏殿に似つかわしくない構造と外見であったからかもしれません。
 または、単に老朽化したため、という可能性もあります。慶長年間の伏見城の建物であったとすれば、寛文六年の時点では六十年余りを経ていることになるからです。

 

 正面はもちろん、側面を見ても典型的な禅宗様の裳階付き仏殿です。城郭建築の要素は全くありませんでした。

「ちょっと残念だったな・・・」
「いや、意味は大きい。旧伏見城建築でないことが確定したんやから・・・」
「なるほど、有るのを確かめるのと同じく、無いのを確かめるのも重要、ってわけだな、うん」

 

 それで仏殿の見学は終わりとなり、左隣に建つ上図の十三重石塔の前に降りました。寺では「建礼門院御塔」と伝えています。 建礼門院平徳子は平家滅亡後にここ長楽寺で出家したといい、その縁で遺髪が埋められているとされています。

 

 「建礼門院御塔」の前から仏殿を見ました。境内地の平坦面がそんなに広くないので、仏殿と「建礼門院御塔」は窮屈なほどに隣接しています。かつての長楽寺は広大な境内地を誇り、現在の円山公園の大部分や真宗の大谷祖廟(東大谷)の大半の境内地が含まれていたといいますから、相当な規模でした。現在の境内地は、もとは山麓の奥之院であった地域だそうです。

 

 かつての奥之院であったことは、上図の遊行滝の施設があることからも伺えます。かつての時宗の行者たちの修業の場であったのでしょう。

 

 「建礼門院御塔」の斜め向かいの参道脇に上図の長澤芦雪(ながさわろせつ)の供養碑とみられる石碑がありました。他にも色々な人の碑が建っていますが、U氏は小声で「芦雪を殺す・・・」と言いながらこの石碑に近寄り、一礼しました。

 「芦雪を殺す」とは周知のように司馬遼太郎が長澤芦雪を主人公として描いた歴史小説の題です。私も文庫本「最後の伊賀者」を持っていたので、それに収録されている「芦雪を殺す」も何度か読みましたが、ああいう破天荒な画家であったのかな、という疑問は少なからずあります。若くして夭折しているためか、暗殺されたという伝承がやたらに流布しているようですが、それも本当かな、と思います。

 

 石碑の横に立てられていた説明文です。列挙されている障壁画作品の幾つかは実際に拝見したことがありますが、なかでも印象に残っているのは、和歌山県東牟婁郡串本町の無量寺の「虎図」および「唐子琴棋書画図」(国重要文化財)です。あと、説明文にはありませんでしたが、兵庫県美方郡香美町の大乗寺の「群猿図」(国重要文化財)も素晴らしいものでした。  (続く)

 

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伏見城の面影19 長楽寺へ

2024年08月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年4月8日の夕方、水戸の友人U氏から電話がありました。
「右京大夫、京の桜は咲き始めた?」
「ああ」
「では、今度の土日に一泊二日で行く」
「合流場所は?」
「地下鉄東山駅の出入口に8時」
「承知」

 かくして4月13日の朝、いつもの祇園四条のカプセルホテルに前泊してバスで東山三条までやってきたU氏と、上図の地下鉄東山駅前で合流しました。2月に続いて三度目の旧伏見城移築建築巡りがスタートしました。

 

 東山駅前から三条通を少し東へ進み、U氏が「ちょっと路地裏歩きがしたいね」というので上図の五軒町の路地道を歩いてやや遠回りし、神宮道へと向かいました。

 

 神宮道に出て右折し、ゆるやかな登り坂をたどっていくと、左手に上図の青蓮院門跡の表門が見えました。

「あの泰然とした、雅な佇まいはいつ見ても変わらんなあ、かつては内紛とかゴタゴタだらけだったのが嘘みたいだなあ」
「水戸の、その内紛やゴタゴタってのは、左翼や総評(日本労働組合総評議会)のスト騒動や中核派の放火事件のことかね?」
「それもあるが、一番大きかったのは先の門主が世襲制を入れようとして天台宗と揉めた件だな。天台宗は住職の世襲を認めてなかったからな・・・。次いで多数の文化財が青蓮院の所有から離れてる件があるが、これも先の門主のときだったんで、どういう経緯があったのかと国会でも問題になってたよ」
「ふーん、そんなことがあったんか、先の門主ってヤバイ人物だったのかね?」
「なんだ、星野が知らんのは意外だな・・・、ヤバかったのは間違いないが、旧皇族だぞ。香淳皇后の弟だからな」
「えっ」
「だから、いまの上皇陛下は甥、今上陛下は大甥にあたられる」
「・・・香淳皇后の弟、ていうと、久邇宮(くにのみや)家やな、それが青蓮院の先の門主やったのか・・・」
「そう、久邇宮家の三男で、東伏見宮家に入って、戦後に青蓮院門主になってる。東伏見慈洽(ひがしふしみじごう)を名乗ってるけれど、あれもおかしいんだよな。皇室典範じゃ皇族の養子は認めてなかったし、宮内省も認めてなかったのに、臣籍降下で華族になって改めて「東伏見」の苗字を賜ったということになってる」
「ふーん、それが世襲制を入れようとして天台宗と揉めたってのは、自分の子に青蓮院門主を継がせようとしたわけか」
「そう、現にそうなってる。旧皇族の権威に天台宗が屈服させられてな、いまの門主は息子の東伏見慈晃(ひがしふしみじこう)だし、今度はその長男が次の門主になるらしい」
「ふーん、そうやったのか、天台宗の名門青蓮院が東伏見の一族に完全に乗っ取られた感じになるわけか・・・」
「そういうことだ。伝統ある由緒正しき名刹の歴史も、住職に誰がなるかで左右されちゃうわけ。旧皇族であったとしても、天台宗の三門跡寺院の格式にふさわしい人物かどうかとなれば、また別の問題だよな・・・」

 

 話しながら歩いているうちに、知恩院の裏門にあたる上図の黒門の前を通りました。

「この門を細かく見ていたのも、もう二年前になったか」(当時のレポートはこちら
「月日の経つのは早いもんやな。僕も京都に凱旋移住してからもう五年が過ぎた」
「そうか。で、あの門は、豊臣秀吉期の木幡山伏見城の城下町の門の建築遺構、という可能性で考えていいんだよな」
「ああ」
「それにしても不思議だよな。いま現存してる旧伏見城の建物ってさ、殆どが徳川家に関連する寺社に残ってるんだよな。徳川家の伏見城の建物ならともかく、豊臣期の建物なんて破壊しちゃいそうなもんなのにな」
「そうやな。徳川政権が豊臣政権の次に国政を預かる事を明白にならしめる意味で、前政権の遺品をまとめて管理するという意味合いもあったかもしれん。全てを破壊していなかったところをみると、良い建物は良いと認めて後世に残そうととする配慮はあったのかもな」
「なるほど、そういうことかもしれんな・・・」

 

 やがて上図の知恩院の三門の前を過ぎました。

「やっぱり京都の徳川家の菩提寺だけのことはあるねえ、建物も敷地の石垣の構えも、見る者を圧倒してくるような規模で意図的に造られてる気がするな」
「そりゃそうやろう、德川家は京都に二条城を構えてるけど、二条城は実質的には御殿とか迎賓館クラスの施設なんで、あれだけでは有事の際に拠点として使えない。だいいち、囲まれたら終わりや。やっぱり、防御戦に有利な山を抱える場所とか、堅固な要塞みたいな丘上の寺院でないと軍事作戦が有利に展開出来ないからな」
「うん、そういうことだな」

 

 知恩院の南門をくぐって、円山公園に入りました。

 

 円山公園の奥の高所に立つ、上図の坂本竜馬および中岡慎太郎の銅像。

「この歴史人物の片方、坂本竜馬はさ、最近の研究によって色々と史観が変わりつつあるようだな。司馬遼太郎の小説のイメージが定着しすぎて超有名人になってしまったため、史実とはかけ離れてしまってたのが是正されつつあるのかも」
「それはあるな。でもこの二人を揃えて幕末維新の二偉人とするのは、そんなに間違ってないと思うな」
「それ、筑前福岡藩の早川養敬の証言だったかな、坂本龍馬は青写真が秀逸だったけれど、中岡慎太郎を語らずしてそれは成り立たず、とかな」
「うん、そう。薩長和解の斡旋かて竜馬の功績みたいに言われてるけど、あれも慎太郎の内助の功というか、水面下での働きがすごく影響してるはずやね」
「それは竜馬本人も認めてるもんな。ええと、手紙だったっけ、確か「「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」って書いてるよな」
「ええコンビやったと思うで。当時の人々もそう捉えていたやろうし」
「だから、敵対勢力から見たら最大のターゲットになるわけだな。二人揃ってるところを襲撃して暗殺してるのは、ちょっと話がうますぎるよなあ」
「当時もそういうふうに言われてたみたいやけど、よくピンポイントで暗殺出来たもんやな・・・」
「そりゃ実行犯がそれだけ優秀だったわけだろ。諸説あるけど、京都見廻組の可能性が高いというのも納得出来るな」
「新撰組は関与してなかったんかね?」
「どうだろうなあ、あっちは所詮私兵の集まりだ。京都見廻組は幕府の一種の警察組織だから情報収集能力も組織のパワーで綿密に抜かりなくやる筈。攘夷運動の2トップを一挙にやる、ってのも組織の合理的思考からくる作戦だったんだろうな」
「なるほど・・・」

 

 色々と話しているうちに、最初の目的地である長楽寺の参道に着きました。前回の京都巡りにてU氏が「次に行こうぜ」とリクエストしていた時宗の古刹です。

 

 参道入り口の右脇に立つ案内板です。この種の案内板の前でU氏は必ず立ち止まり、真剣な目つきで三度読みます。内容的に正しいかどうかの判断はいったん横に置いて、まずは書かれてある情報を仕入れておく、というスタンスです。

 

 それから参道を登って上図の山門の前に至り、二人で並んで一礼しました。その後にU氏が門の右側の立札を指差しましたので、つられて視線を向けました。

 

 U氏が指差した立札です。

「お、寺の後山に水戸藩士の墓地がある、と話していたんはこれのことか・・・」
「さよう、われらが水戸藩28万4千石の、赫奕たる歴々の勇士が静かに眠る清浄の聖地である」
 わざと低い声音で重々しく答えるU氏でした。

 

 それから山門をくぐりました。

 

 この時期、春季特別展が「建礼門院秘宝展」と題して開かれていました。そのためか、拝観料が追加されて千円になっていました。

「なんと、千円も取るとはこれ如何に。水戸藩28万4千石の光輝なる尊王精神を何と心得ておるのか・・・」
 今度は声高に周囲に聞こえるように誰も居ない境内に言い、憤慨するU氏でした。  (続く)

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 下

2024年08月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 11時2分発のトロッコ列車の案内アナウンスが流れたので改札口に行きました。嫁さんが係員にスマホの予約画面を提示すると、改札口前に列が5つ出来ているうちの中央、3列目に案内されました。我々の乗る車輌が3号車だからでした。

 トロッコ列車は客車が5輌あって、1号車から5号車まであります。席は全部が予約制なので、あらかじめオンラインまたは窓口で購入します。乗車前にホームへ案内されますが、列ごとに順番にホームの指定位置へと誘導されます。

 

 ホームのすぐ隣がJR山陰線つまり嵯峨野線の駅でした。山陰線の新旧の線路の位置関係がよく分かります。嵯峨野観光鉄道の路線は、旧山陰線の線路を活用していますが、駅を出てすぐの箇所で、現山陰線の一部を通ります。

 

 10時57分、トロッコ列車がホームに近づいてきました。後ろに並んでいた嫁さんが小声で「わー」と言い、私の背中を軽くつついて、良いアングルの写真撮ってね、と催促してきました。言われるまでもなく、既に私のデジカメは連写モードに入っていました。

 

 ホームに入ってきた列車の先頭はディーゼル機関車のDE-10形でした。「嵯峨野」のエンブレムが渋い感じでした。嫁さんが「あれと同じ機関車が梅小路機関区にもあるんですよ、予備機だとか聞きました」と後ろで言いました。

 なるほど、予備機があるのか、この嵯峨野観光鉄道が西日本旅客鉄道(JR西日本)の完全子会社である関係で、車輌はJR西日本の車輌でも使用出来るようになっているわけか、と理解しました。

 

 私たちが乗った客車3号車の車内です。SK100形といい、JR西日本から譲受したトキ25000形貨車の改造車であるそうです。貨車を客車に改造して観光列車用に供している点は、大井川鐡道井川線の客車と同じでした。が、こちらは客席が木製でクッションが全くありませんので、嫁さんが「痛くならないかなあ」と不安げに話していました。

 

 そしてトロッコ亀岡駅までの全線を往復で乗り、トロッコ嵯峨駅に戻ってきたのが11時56分でした。途中の保津渓谷の景色は嫁さんがスマホとタブレットでドンドン撮っていましたので、私がデジカメで撮ったのは上図の1枚だけでした。

 

 11時56分にトロッコ嵯峨駅に戻って下車した直後に、ディーゼル機関車のDE-10形の横を通って改札口へ行くので、横から機関車を何枚か撮りました。

 

 ディーゼル機関車のDE-10形です。こんな近くで撮るのは初めてでした。

 

 「嵯峨野」のエンブレム。1991年つまり平成3年の開業であることが分かります。

 

 製造元の日本車輌の銘板。昭和46年といえば、私は5歳で、当時の父は日本車輌の技術者で名古屋製作所に勤務していたと記録にあります。当時の名古屋製作所では機関車の製造を行なっていたそうですから、このDE-10形1104号機の製造に父も関わっていたのかもしれません。

 

 その父は既に故人となりましたが、その勤務現場で製造されたDE-10形1104号機は、いまも現役です。

 

 嫁さんが「ね、あれもスロープロウですか?」と小声で訊いてきました。そうだよ、と頷いておきました。

 

 改札口のすぐ手前に、このDE-10形1104号機の先頭が位置していましたが、明らかに観光客へのサービスのためでしょう。大抵の乗客はこの機関車を撮ったり記念撮影したりするので、撮り易い位置に停めているのだと思います。

 嫁さんが「これのNゲージ欲しいなあ」と言うので、君はDE-10形を持ってるやないか、と返したら「え?持ってましたっけ?」と首を傾げつつ、改札口を通っていきました。
 去年の夏に初めてNゲージの線路買いに河原町のポチへ行ったやろ、あのとき川さんに案内して貰ったやろ、そのときに動力不良の中古機関車を500円ぐらいで買ったろ、と説明すると、「あー、あれですか、茶色の機関車。あれDE-10やったんですか」と思い当った表情になり、「持ってるんなら、買う必要無いですねー」と納得していました。

 

 かくして嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車往復を楽しみました。場所が嵐山だけに、これからどうする?と訊きましたが、嫁さんはもう大満足だったようで、「帰りましょう、帰ってランチ食べましょう」と言うのでした。

 

 それでまっすぐJR嵯峨嵐山駅に入ってホームで帰りの列車を待ちました。次のトロッコ列車が発車していくのが見えました。それを見ていた嫁さんが「いま気付いたんですけど、あのトロッコ列車って、あれ1編成だけで他に無いんですね、あの1編成でがんばって毎日往復して運行してるんですねえー」と感心していました。

 嵯峨野観光鉄道の路線は片道7キロちょっとしかありませんから、往復でも15キロ未満で所要時間が1時間未満です。機関車の整備は梅小路機関区で行なっているうえ、予備機もあります。だから平成3年の開業以来の機関車と客車の1編成だけで充分なのでしょう。  (了)

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 中

2024年08月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 「ジオラマJAPAN」にてNゲージジオラマを見物した後、隣の上図の「19世紀ホール」に行きました。

 

 館内には蒸気機関車が並んでいました。わあー、黒光りしてるのがカッコいいー、とスマホを向けて撮影し始める嫁さんでした。

 

 向かって右には、C58形48号機。1938年に川崎重工兵庫工場で製造され、広島、大分、山口などで活躍したのち北海道に移り釧路で1974年に廃車となりました。それを大阪の共永興業が引き取って保管していたのを、2001年に嵯峨野駅前に移して展示、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

「するとこの機関車は、山陰線では走ってないんですねえ・・・」
「C58形はローカル線用の客貨兼用の機関車やからね。あと都市部の入換用とかに使われてたらしい。山陰線を走ってたんはC51形やC57形やからね」
「そうなんですかー」

 

「この三角形の刃みたいなの、何ですか?」
「スノープロウやね。除雪用のスカートや。この機関車は北海道で働いていたから雪対策の装備は必須やったんやな」
「蒸気機関車って、雪が高く積もっても力強く押しのけて進みそうですね」
「そういうイメージは確かにあるな、でも豪雪地帯では流石に動けなくなって運休も多かったらしい」

 

「動輪、C57やC62のと比べると小さいですねえ」
「ああ、C58形の動輪はC11形と同じ1520ミリ径やからね、高速運転に適していたし、動きが軽快やったらしい」
「C11って、大井川鐡道で走ってる機関車ですよね?」
「ああ」
「C58は大井川鐡道では走っていなかったんですか?」
「聞いた事ないなあ、天竜浜名湖鉄道の前身の国鉄二俣線では主力機関車だったけどな」
「あ、天浜線のほうで走ってたんですか・・・」
「うん、確か、掛川駅と天竜二俣駅の近くにC58が静態展示されとるよ」

 

 後ろに回って炭水車の背面を見ました。

 

「これ、この前ヤフオクでカトーのNゲージ落札しましたよね、模型も良かったけど、こっちの迫力にはやっぱりかなわないですよね」
「そりゃそうや。こっちは本物なんやからな・・・」

 

 向かって真ん中に位置している、D51形603号機。1941年に日立製作所笠戸工場で製造され、東京、宇都宮、高崎で働いた後、山口、岡山、姫路、敦賀、金沢、福井などで働き、1975年に夕張で最後の運転をなして廃車となりました。
 その後は国立博物館に展示される予定となって追分機関区に保管されていましたが、機関区の火災で炎上し、その後共永興業に引き取られて保管され、2001年に嵯峨野駅前に移されて展示、2003の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

 このD51形603号機は、追分機関区での火災で車体の大半が失われたそうで、その後このようにカットモデルとして整備されて保管されていたそうです。蒸気機関車のボイラーの内部構造がよく分かるようになっています。

「D51は山陰線でも走っていたんですね、Nゲージもちゃんと買いましたもん」
「園部や福知山の車両区に配属されてた、いうからね。亀岡駅とかで旅客列車や貨物列車引いてる写真見たよな」
「はい、見ましたね、いずれジオラマ作って再現したいですよね」
「ジオラマって、亀岡駅のか?」
「ええ、でも園部の車両区とかも作ってみたいかなあ、と」

 

 向かって左には、C56形98号機。1937年に日本車輛名古屋工場で製造され、北海道に配属されて活躍したのち、新潟を経て浜田にて1974年に廃車となりました。それを大阪の共永興業が引き取って保管していたのを、2001年に嵯峨野駅前に移して展示、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

「これは山陰線の西の方で走ってたんですよね」
「出雲とか浜田とかね。浜田駅では入換用に活躍してる写真見たな」
「大井川鐡道にもありますよね。最近に兵庫の加東から譲り受けてレストアしてるんですよね」
「うん、クラウドファンディングにも参加したもんな」
「大井川鐡道には、C56は2輌あるんですよね」
「うん、44号機がいまは千頭駅でジェームスに扮してる。レストアしてるんは135号機やな」

 

「小型の機関車なので、ちょっとC11みたいな雰囲気がありますよね」
「C11の準同型車にC12があってな、そのC12をタンク式からテンダー式に設計し直したんがC56や。C11みたいな雰囲気があるのも、部品とかは殆ど共通になってるからやな」
「そうなんですかー」

 

「そういえば、私たちのNゲージにC56ってありましたっけ?」
「まだ買ってないやろ、大井川鐡道の135号機がレストアを完了して営業運転に復帰したらな、記念にカトーかマイクロエースあたりがその姿のNゲージを出すんじゃないかな、て思うので、買うならそっちを買いたいな」
「じゃ、そうして下さい」

 

 そしてD51のカットモデルの後ろには上図のコッペル機関車の「見習機関車」若鷹号があります。1921年にプロイセン王国のオーレンシュタイン・ウント・コッペルで製造され、日本に輸入されて阿波鉄道で活躍、1936年に廃車となって後は国鉄鷹取工場に保管され、改造を受けて現在の姿になりました。
 その後は鷹取工場の教習用に使用され、2000年にトロッコ嵯峨駅前に移設され、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。


「動輪が2つだけですよー、小っちゃくて可愛い機関車ですね」
「日本が明治期以降に輸入した機関車は、みんなこんな感じの小型が多かったんで、動輪2つか3つだけのタイプが殆どみたいやね。各地で静態展示されてるのも多いし、大井川鐡道にも保存されてるな」
「あー、新金谷のプラザロコに入ってる機関車ですねー、確か1275号機でしたね」
「よく憶えてるなあ」
「記憶力だけはええんですよ、フフ・・」

 

 若鷹号の運転室内も外から見ることが出来ました。意外にシンプルな造りです。

 

 館内の反対側には、上図の人車のレプリカが展示されていました。マネキン人形が妙にリアルなので、嫁さんが「ちょっとあれ怖いな・・・」と呟いていました。

 かつては全国各地にトロッコの一種としての人力車軌道があったそうですが、京都府にはあまり無かったようです。もちろん嵯峨野観光鉄道とも無関係ですが、なぜか、上図の車体の中央には嵯の字をデザインした社紋が付いています。

 

 人車の説明板です。  (続く)

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 上

2024年08月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年8月12日の朝食時に、嫁さんが「嵯峨野観光鉄道に乗りに行きましょう」と言い出しました。去る10日の大和鉄道まつりの嵯峨野観光鉄道の出展ブースで嫁さんが乗り方などを色々聞いて資料も貰っていたので、いずれ乗りに行くんだろうな、とは予想していましたが、その二日後に行くとは思いもよりませんでした。

 嫁さんも私も盆休みの期間中でしたので「行くなら今でしょ、暑すぎるから観光客も少ないほうだと思うからチャンスかも」というのが嫁さんの言い分でした。それに抗うだけの度胸も気力も無かったので、言われるままにお供しました。朝食後に支度して出発、地下鉄で二条まで行き、JR嵯峨野線に乗り換えて上図の嵯峨嵐山駅で降りました。家から約40分で着きました。

 

 二条駅から乗って来た普通列車の223系です。最近は鉄道ファンになっている嫁さんですから、しっかりスマホで撮って車番もメモし、行先表示もチェックしていました。

 去年の6月から私がNゲージにも熱中し出したのに合わせるように、嫁さんも8月ぐらいからハマり出して、自身の故郷である丹波の山陰線をジオラマで作ると言い出して「山陰線Nゲージ計画」なるものを立ち上げ、ものすごく綿密な計画表と車輌リストを作成し、それに沿って数日前からヤフオクで該当車輌を検索してはガンガン安値で落札しまくっていましたが、そのなかにこの223系のセットも含まれていました。

 

 JR嵯峨嵐山駅の西に隣接する、嵯峨野観光鉄道の本社社屋でもあるトロッコ嵯峨駅のレンガ造りの駅舎です。

 

 その看板を嫁さんが指差して「英語の下に中国語の表記が二つも並んでるんですけど・・・」と私を振り返りました。中国語には、若い人や子供が覚えやすいように漢字の画数を減らして簡略化した「簡体字」の文体もあって、本来の表記と並べて「簡体字」の文体を表記するケースが本国でも一般的になっているから・・・と説明しておきました。

 昔、昭和62年に中国に留学していた頃はまだ「簡体字」が教育現場でも普及していなかったようで、「簡体字」で書いても話が通じなかった経験がしょっちゅうでしたが、今では「簡体字」のほうを中国人も用いるようになっていると聞きます。京都市内の観光施設などで見かける中国語表記の大半も「簡体字」で示されています。

 

 切符は嫁さんがあらかじめネットで予約していたので、受付の係員にスマホの予約画面を見せて確認するだけで事足りました。改札口を通る際にスマホの画面を提示して下さい、との事でした。

 我々が乗るトロッコ列車の時刻は11時2分でしたが、それまでに50分の待ち時間があったので、それまで付属施設の「ジオラマJAPAN」と「19世紀ホール」を見て回りましょう、となりました。

 「ジオラマJAPAN」は駅舎内の西側にあり、内部にはHOゲージの日本最大級のジオラマがあって運転体験も出来るということでしたが、私たちはNゲージ派なので、「ジオラマJAPAN」へは入らず、その前に置いてあるNゲージのジオラマを見に行きました。

 

 そのNゲージのジオラマです。なかなか大きなもので、お金を入れて運転体験も出来ます。数人の子供たちがめいめいにコントローラーにかじりついていましたが、私たちはジオラマの各所の造りを観察するほうに興味がありました。

 

 嫁さんが「こういうの、こういう駅とか街並みが作りたいんですよ」と指さしていた、古い駅舎と町並みの部分です。説明によると昭和の山陰線の景色をイメージしているそうで、嫁さんの「山陰線Nゲージ計画」の参考資料としてはピッタリでした。

 駅には貨物用の側線が一本ついていて、似たようなレイアウトの駅としては八木駅が挙げられます。駅舎や駅前の町並みの雰囲気は千代川駅に似ています。嫁さんは生まれが園部で、小学校入学前に亀岡に引っ越し、最寄の駅は並河駅であったそうですが、「山陰線Nゲージ計画」で作りたいメインの駅は亀岡駅だそうです。

 

 次いで注目していたのが、上図の川の表現でした。「大堰川も、こんな感じで作ったらよいのかな」とスマホを近づけていました。嫁さんが並河に住んでいた頃は、部屋の窓から大堰川の流れが見えたそうです。

 

「この山の部分、木とか挿してないですねー」
「これはプランツとかスポンジをちぎって山肌に貼り付けてる感じやね」
「木の幹とか並ぶって景色じゃないですねえ、モコモコとしてる感じ」
「そうやね」

 

 ジオラマの三分の一は上図のように都会風に作ってあって建物もビルが殆どでした。京都市内がモデルなのでしょうか。
「こういう景色作ろうと思ったら、高いストラクチャーいっぱい買わないとあきませんねー」と嫁さん。

 

 「街並み作るなら、こういう感じの古いタイプの民家が立ち並ぶ景色のほうがいいですね」と嫁さん。この種の古民家などの建物のストラクチャーはプラ製だけでなく木製やペーパーのキットも色々出ていますので、色々な素材でチャレンジングに作りたいという嫁さんには向いているのかもしれません。

 私のほうは大井川鐡道や天竜浜名湖鉄道の田舎や山林内の景色がメインになるので、ストラクチャーはあまり必要がありませんが、木や植物の素材のほうが膨大な量で必要になるでしょう。  (続く)

 

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伏見城の面影18 七本松観音寺の山門

2024年07月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 洛翠園不明門を辞して南禅寺永観堂道バス停より市バス5系統に乗って四条烏丸へ行き、そこで昼食をとった後、52系統に乗って上図の七本松出水バス停で降りました。

 U氏が「このへんは初めて来たな」と言い、私も「僕もや」と応じました。
「で、どこなんだ」
「すぐそこや、見えるやろ」

 

 バス停の南約30メートルに、上図の門が建っていました。観音寺の山門です。
「ほう、小さな門だな、通用門クラスかな」
「そうやろな」

 

 門の左脇に立つ案内板です。U氏が早速読み始め、いつものように三度読んでいましたが、最後に冒頭の「慶長一二年」を指して「これはアリかもな」と言いました。私も頷きました。

 慶長十二年(1607)といえば、徳川家康が伏見城の作事を停止して、建物や屋敷、器材などを駿府城へ運ばせ始めた年です。家康は慶長十一年(1606)に居城を伏見城から駿府城へ移しており、慶長十二年からは家康の異父弟の松平定勝が伏見城の城代に任ぜられています。そして伏見城の規模や機能の縮小が徐々に行われたとされており、幾つかの建物が不要となっていったようです。

 

 「伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ」と書いてあります。U氏が「牢獄だと?」と呟いて私を振り返り、「伏見城に牢獄ってあったのかね?」と訊いてきました。

「そりゃあ、あれや、城郭も生活空間の一種やし、城兵がなんか悪事とかやらかしたら裁いて罪に問うことにはなるやろうし、牢獄ぐらいあっただろうな。例えばさ、黒田官兵衛も荒木村重に監禁されて有岡城の牢獄に押し込められたからな」
「そうか、なるほど」

 

 門の扉を見ました。U氏が言いました。
「この板とか、なんかものすごく古い感じだな。隙間が出来るぐらいに縮んでるし。下半分は修理したんだろうが継ぎ接ぎになってるし。枠のほうがちょっと新しい感じに見えるが」

 

 反対側の門扉も同様でした。こちらのほうが、下半分の板の継ぎ足しが無いので、オリジナルに近い感じがします。

 

 門をくぐって内側斜めから見ました。典型的な棟門の形式ですが、主柱や貫、屋根などは後世の材で造られているようで、木肌の色や雰囲気が門扉部分のボロボロの板とは違いました。

 

 やはり門扉の板と内側の閂がやたらに古い感じでした。ボロボロになっても張り替えなかった事自体、それなりの由緒があって残し伝えないといけなかった経緯を示唆しているのでしょうか。

 

 主柱や貫、屋根などは、何度見ても細部を観察しても、木肌の感じ、製材痕などが綺麗に見えました。やっぱり後世の材で造られているな、とU氏も言いました。

「本当に牢獄の門だったのであるとすれば、こういう棟門じゃなくてさ、簡単な冠木門の形式だったかもしれん。冠木門だったなら、いまの棟門に直した場合に主材はだいたい交換するだろうから、残るのは門扉ぐらいになるかもしれんな」

 そのU氏の推測は、なかなかいい線をいってるな、という気がしました。確かに冠木門から棟門に改造されたのであれば、主柱や貫、屋根などが後世の材で造られているように見えてもおかしくありません。

 

 だとすれば、この柱の木製の根巻飾りも江戸期の移築後に付けられたものと考えられます。安土桃山期の建築ではこういった根巻飾りは金属板で打たれて金箔押しになっているケースが多いからです。

 

 屋根裏の造作も完全に新しいものに見えます。蟇股の目玉部分がほとんど造形されておらず、脚の両端が雲形に象られているあたりも江戸期の造りによくみられる特色です。

 

 屋根全体を後世の追加と推測するならば、上図の妻飾りも同様になります。

 

 風雨の影響を受けやすかったためか、かなり風食朽損が進んでいます。紋章が打たれた痕跡も見えません。

 

 総じて、江戸期に建てられた門という雰囲気が強いです。門扉の板だけが妙に古めかしくみえますが、普通は交換されていてしかるべき部材ですので、ボロボロになってもそのままになっているのが不思議です。

 U氏が「あえてボロボロの板を残してるってことは、それがもとの伏見城の門の板だったから、ということかもしれんな。だいたい寺の創建が慶長十二年ってのが、伏見城の作事停止、駿府城への移築で建物の解体が始まった年だからな、そのときに牢獄の門だったか、こういう通用門クラスの門を何らかの形で譲り受けて移築する、ってのは可能性としてはアリだな。案内板の寺伝はただの伝承じゃないんだろう、何かの記録とかが残ってるのかもしれんな」と言いました。

 その言葉通り、いまの観音寺山門が旧伏見城からの移築である可能性は否定出来ません。ただ、いまの門は柱も屋根も全部江戸期のものに見えますので、妙にボロボロになっているのに今も現役の門扉だけが、旧伏見城から移されてきた部材かもしれない、と推測しておくほうがよさそうに思います。

 時計を見ると14時47分でした。それで京都駅まで移動して新幹線ホームまで行ってU氏を見送りました。別れ際に「次は桜の頃に行くから、例の長楽寺とか養源院とか行こうぜ」と言われました。

「次は日帰りなのか?」
「いや、一泊二日で行こうかと思ってる。伏見城の移築建築、まだ他にあるのかね?」
「京都市内はもう無いと思う。あとは宇治市やな」
「いいじゃないか、宇治市は久し振りに行きたいな。平等院とかさ」
「なら、一日目は長楽寺と養源院、二日目は宇治方面、でええかな」
「いいよ、あとは右京大夫に任せる」
「承知」

 ということで、次は桜の時期に伏見城移築建築巡りを行なうことになりました。  (続く)

 

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