気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

鹿王院5 隣の曇華院門跡

2025年04月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿王院の舎利殿と庭園を見た後、通廊を引き返しました。途中の本堂の前で一礼し、それから上図の景色を見つつ、客殿へと戻りました。嫁さんが「色々と興味深くて面白かったですねー、いいお寺ですよ」と楽しげに言いました。

 

 客殿の一室はこのように障子戸が開け放たれて、庭園の紅葉を一幅の画像のように眺められるようになっていました。嫁さんが「座ってちょっと見ましょうよ」と言うのに合わせて、その部屋の上図の位置に並んで座り、陽光に鮮やかな光彩をゆらめかせる紅葉の姿をしばらく眺めました。

 

 庫裏から退出して、石畳道の参道を戻りました。

 

 庫裏の周囲の紅葉も綺麗でした。

 

 鹿王院を出て、西隣の曇華院門跡へと回りました。今回の特別公開は、数年ぶりとのことでしたが、それ以外にも時々公開する機会があるそうで、そのためか鹿王院よりは知名度も高いと聞きます。

 

 鹿王院山門の西隣に建つ、曇華院門跡の山門です。曇華院門跡の建物群に関しては、明確な資料がなかなか見つけられないままなので、未だに詳細が分かりませんが、建物を見る限りでは、江戸期までのものと明治期以降のものとが混在しているように見受けられました。ただし、文化財指定を受けるような古い遺構、もしくは建築史的に重要な建物、は無かったように思います。

 

 その境内地は、もとは鹿王院の塔頭であった瑞応院の旧地にあたります。瑞応院が江戸末期に廃絶した後、その跡地を明治の初めに曇華院門跡が買い取って、それまでの烏丸御池の境内地(現在の京都市中京区曇華院前町、中京郵便局の北側一帯)からこちらに移転して現在に至っています。

 なので、建物に関して江戸期までのものと明治期以降のものとが混在するのも、烏丸御池の旧地から持ってきたものと、移転後に新たに建設したものとがある、ということでしょう。

 

 書院の玄関にあたる式台です。今回の特別公開の受付は、北の庫裏の玄関口に置かれていました。曇華院門跡の建物群はすべて内部の撮影が禁止されていましたので、上図の式台の外観と、本堂方丈の南の庭だけを撮影したにとどまりました。

 

 こちらが本堂方丈の南縁から見た南の庭園です。

 

 こちらも庭園や境内の各所に紅葉が配されて綺麗な朱色や黄色の葉が風にゆらめいていました。

 曇華院は、室町期の康暦二年(1380)に室町幕府第三代将軍足利義満の祖母にあたる智泉聖通尼が開山となってひらいた通玄寺を前身とする尼寺です。智泉聖通尼はもと皇族で、順徳天皇の孫の四辻宮尊雅王の子にあたりますので、通玄寺は門跡尼寺の格となり、境内地もかつて以仁王が住んでいた高倉宮の跡地を踏襲しています。

 その智泉聖通尼が自らの隠居場として通玄寺境内に塔頭の曇華庵を創建しました。通玄寺は後に足利義満によって京都尼五山の第三位に定められ、曇華庵には将軍家の息女が入室して通玄寺の住持などに就く慣例が定着しました。応仁の乱で通玄寺と曇華庵はともに焼失し、曇華庵が通玄寺を吸収合併して寺名を曇華院と改めて再出発、それ以降は皇室の子女が入室して江戸期には「竹之御所」の号を勅許されています。

 ですが、文政十年(1827年)に光格天皇皇女で27世住持の秀峰聖清尼が没した後は無住となり、元治元年(1864年)の禁門の変による火災で焼失して壊滅してしまいました。明治六年に明治天皇の勅命により、参議庭田重基(にわたしげもと)の娘の清山慈廉尼が28世住持として入寺、現在地に移転して寺を再興、いまに至っています。

 今回の特別公開では本堂方丈のほか、書院や庫裏も順路に含まれて寺内を一通り回る事が出来ました。門跡尼寺ならばでの美しい調度品や雅やかな設えの品々が展示されて、嫁さんも興味深く見学していましたが、私のほうは建物をメインに観察していて、各所で建物の年代が異なるのに気付かされました。

 本堂と書院は明治期以降の再興時のものと思われますが、庫裏の一部や北の客殿と称する一角はやや古くて移築の痕跡も見られ、おそらくは烏丸御池の旧地に残存していた建物を持ってきたものかと推測しています。

 なお、本堂に祀られる本尊は十一面観音像で、通玄寺以来の安置像と伝わります。寺伝では恵心僧都源信の作ということになっていて、本当であれば十一世紀前半を軸とする藤原期の遺品となり、私自身の専門分野である藤原期仏像彫刻史における重要な作例に据えられるべきですが、今回は厨子が開かれず、厨子の壇も分厚い緞帳に覆われて全然見えませんでした。
 ですが、本物ではないだろうな、と思いました。秘仏では無いので、昔から人々の目に触れる機会は幾らでもあったことと思います。恵心僧都源信の活躍期に対応する藤原期の仏像であれば、とっくに昭和期に文化庁か京都府教育委員会の文化財調査事業にて然るべき報告がなされている筈ですが、そういった報告資料の類はいまだに出ていないからです。

 かくして、「ここも良いお寺でしたねえ」と大満足で上機嫌の嫁さんを先頭にして、曇華院門跡の山門を出たあとは、例によって四条河原町へ移動して嫁さんのショッピングのお供に専念しました次第です。  (了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿王院4 本堂と舎利殿

2025年04月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿王院の客殿の前縁を通って通廊に進み、上図の本堂へ向かいました。嫁さんが「あれが本堂なの?なんか小さくないですか?こっちの客殿のほうが立派ですよね、こっちが本堂かと思ってましたー」と小声で言いました。

 私も同じことを考えたので「ほんまやな」と応じました。足利義満筆の「鹿王院」の扁額が懸けられている客殿のほうが規模も建物も立派で、一般的な禅寺の方丈本堂のスタイルを示して南面して庭園に面しているため、一見して客殿が鹿王院の中心的な建物のように見えてしまいます。

 

 ですが、西に延びる通廊が南に折れる屈折点に建つ、この小さなお堂が鹿王院の本堂にあたります。もとは宝幢寺の開山堂であったもので、開山の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の塔所でもあります。

 足利義満創建の興聖寺のち宝幢寺が応仁の乱で炎上壊滅して廃絶してしまった時に、残っていたのが開山堂を中心とする子院の鹿王院だけであったといい、これが宝幢寺の寺籍を引き継いで再建に向かい、堂宇を建て直して庭園を整備し、現在に至っています。

 いまの本堂は江戸期の延宝四年(1676)に建て直されたもので、位置と規模は創建以来の開山堂のそれを踏襲しているといいます。

 

 本堂の前まで来ると、南には舎利殿が上図のアングルで見えます。本堂の南に続く通廊はその舎利殿の西扉に面して終わっていますので、客殿と舎利殿をつなぐ通楼の中央に本堂が位置していることが分かります。

 

 本堂の内陣へは脇の扉口から出入りします。外から内陣の安置仏像が見えたので、嫁さんがスマホで撮っていました。内部では撮影禁止になっているからでしょう。

 

 これも嫁さんが撮ったズーム画です。スマホってこんなに綺麗に撮れるんですね・・・。スワイプしてスッと撮ってしまうので、3秒もかかりませんでした。ピント合わせが必要ないため、カメラと違って一瞬で撮れるそうです。しかも暗所を明るく撮る機能が付いているらしく、実際には暗がりだった本堂内陣が明瞭に写っています。

 本堂内陣には、本尊の釈迦如来坐像を中心に十大弟子像、普明国師(春屋妙葩)像、足利義満像、虎岑和尚像などが安置されています。本尊の釈迦如来坐像および十大弟子像は運慶の作と伝わっていますが、現在の仏像群は江戸期の作であるようなので、創建当時の安置像は失われているようです。実際に運慶の作であったのかは不明なままです。

 それで嫁さんが「ねえ、運慶の仏像がここにあったという可能性は全く無いんですか?」と疑問を投げかけてきました。運慶は鎌倉期の初めの頃の仏師で、足利義満が興聖寺を創建する室町期初めとは150年余りの隔たりがあります。少なくとも足利義満が運慶に依頼して仏像を造らせた、というのは有り得ないわけです。

 ですが、足利家には運慶作の仏像との接点があります。周知のように、義満の六代前の祖先にあたる足利義兼(よしかね・足利家二代当主)は源頼朝の義弟(義兼の妻は、頼朝の妻の北条政子の妹である北条時子)にあたって鎌倉幕府の重鎮でありましたが、その菩提寺であった栃木県足利市の樺崎寺(かばさきじ)の安置像であった二躯の大日如来坐像はいずれも運慶の作で、いまは国の重要文化財になっています。
 さらに樺崎寺には、他にも多くの安置像があったと言われていますが、寺の廃絶にともなって散逸し行方知れずになっています。その一部が足利家に伝わっていたとする伝承も否定出来ませんので、そのなかに運慶作の仏像も含まれていたのかもしれません。
 それを足利義満が建てた興聖寺に安置して祀った可能性も考えられますので、いま鹿王院本堂に安置される仏像の当初の像を運慶の作と伝える寺伝は一概に無視出来ません。むしろ、鹿王院に関しては、伝承が史実を伝えている可能性のほうが高いかもしれないな、と個人的には思っています。

 それで、嫁さんの問いかけに対しては「可能性は全く無い訳ではない。だけど、それを確かめる術は無い」と答えておきました。

 

 本堂内陣にて合掌礼拝し、外に出ました。庭園を隔てて客殿と庫裏が望まれました。やっぱり、あちらのほうが建物が立派で構えもしっかりしていますので、どう見ても鹿王院の中心の堂宇に見えてしまいます。

 

 舎利殿に行きました。内部は撮影禁止でしたので、嫁さんもスマホをバッグにしまって、内陣壇上の立派な室町期の大きな厨子を見上げていました。厨子の中には多宝塔が安置されており、その内部には源実朝が宋から将来したと伝えられる仏舎利が安置されています。
 その仏舎利は、正確には歯であり、ゆえに仏牙舎利とも呼ばれます。鹿王院の別名が仏牙寺(ぶつげじ)である所以です。

 

 舎利殿を辞して、その軒下を一回りしました。嫁さんがしばらく考え込んでいましたが、こう言いました。

「足利家って、鎌倉幕府の後継者として室町幕府を開いたんですよね」
「そうやな」
「教科書とかですと、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼして、となってますけど、なんか違うような気がするんですねえ」
「うん、君のその解釈は正しいかもしれんな・・・」
「わあ、間違ってないんですね、やった」
「そもそも足利氏は鎌倉幕府の重鎮やったから、執権北条氏得宗家のボンクラぶりと利権横行と組織の腐敗ぶりを見かねて度々諫言しとったけど、聞き入れられずにむしろ疎外されまくったから、尊氏さんの代で見切りをつけて後醍醐天皇の反幕府の動向に乗る形で、鎌倉幕府組織の粛清に走った、というのが真相やろうな、と思う」
「あー、なるほどー、粛清、ですか」
「足利氏も武家やから、幕府という武家のための政治システム自体はちゃんと残して続けたいわけや。ただ、執権の北条氏がもうガタガタで末期症状でどうにもならん、手におえない腐敗ぶりやったから、いったん整理しないと駄目だ、そのうえで新たな幕府組織を建て直そう、という青写真はあったんやないかと思うね」
「うんうん、それ、よく分かります。幕府をリセットして、リニューアルしたいわけですよね」
「そう、そういうこと。ただ、武家ってのは基本的に世襲制やから、幕府を担う将軍とか執権のクラスも血筋はそれなりの系譜をもって繋ぐ必要性は原則としてあったわけやな」
「血筋で繋ぐ、というのは、例えば足利氏が源氏だから源頼朝以来の鎌倉幕府を引き継いで繋ぐ、ということですか」
「そういうロジックもあったかもしれんし、いわゆる源平の交代論とかで平氏の北条氏と代わる、というのもあったかもしれんけど、基本的には幕府の血脈というのか、血筋とか血統という大切な要素で繋がってしかるべきだという認識はあった筈やと思う」
「ふーん、なんとなく分かりますね、その血脈ていうのか、血縁的にも繋がっていったんですかね?」
「繋がってたよ。初代の足利尊氏の正妻は、北条氏一門筆頭の名門赤橋流の出で、赤橋登子(なりこ)さん。その兄の北条守時は鎌倉幕府最後の執権やった」
「ああ、そうでしたねえ、赤橋登子さんが鎌倉北条氏の最後の姫様やったんですもんね、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の建武の新政が滅茶苦茶過ぎたから、全国の武士や御家人の不満が高まって、足利尊氏に期待が集まっていったという事になってますけど、実際は赤橋登子さんの存在が大きかったんですかね」
「そうだと思うな。やっぱり後醍醐天皇の偏った建武新政よりもかつての鎌倉幕府のほうが良かった、となって鎌倉北条氏の姫君に再びスポットがあたり、その夫の足利尊氏に期待が寄せられる、という成り行きやろうな。しかも尊氏はああいう頼りない極楽トンボの坊ちゃんやったから、登子さんが「アンタしっかりしなきゃ駄目じゃないの!」と何度も叱るわけやな・・・」
「あははは、まるで源頼朝と北条政子みたい・・・」
「いや、実際それに近かったと思うな。政子さんも女傑やったけど、登子さんのほうが上やろ。政子さんは伊豆のいち土豪の長女に過ぎなくて、たまたま惚れた相手が頼朝さんやったわけで・・・。登子さんは最初から幕府一門筆頭の赤橋流北条氏の姫様で、お父さんは赤橋流北条久時、この人は執権北条時宗の側近で、六波羅探題も務めてる。元寇の役の頃には五か国を束ねる守護職やった筈・・・。赤橋氏は北条氏の得宗家に次ぐナンバー2やから、得宗家が絶えてしまった後は実質上のトップや。身分もトップクラスやから、最初から高飛車でもポンポンいける。それに旦那は源氏のトップの足利氏の総領だろ、名だたる源氏一門もみんな頭が上がらん。弟の足利直義も義姉さんには逆らえんし、執事の高階師直(たかしなもろなお・通称が高師直)かて登子さんの下僕になっちゃうやろ・・・、そういう立場で登子さんが檄を飛ばすわけや。幕府の怨敵の後醍醐の南朝を殲滅せよ、何の益にもならない南北朝の内戦を終わらせろ、国内に静謐を取り戻すために奉公せよ、さもないとアンタたちはクビ、所領は没収しますわよ、と尊氏に言わせて全国の守護、地頭にパッパをかけまくったんやろな」
「あははは、かっこいいー」
「いや、それな。・・・実際、もうちょっと有名になっててもおかしくない歴史人物やで。登子さんは・・・」
「やっぱり、足利尊氏さんも登子さんが奥様やったから将軍になれて、室町幕府を開けたわけなんですね」
「血統的にもそうならざるを得ない。鎌倉幕府北条氏から室町幕府足利氏へのバトンタッチ、という形になって幕府組織そのものは存続してゆくし、リニューアルされて武家政権のパワーも強化されるから、全国の御家人も納得して忠誠を誓う。鎌倉幕府最後の執権の妹で、室町幕府初代将軍の正妻、という赤橋登子の立ち位置というのはものすごく重かった筈。一種の橋渡し役になってる・・・」
「うんうん、わかります、わかります・・・・、それでね、もう一つ疑問があるんですけど、足利氏って源頼朝が鎌倉幕府を開いた時にすでに重臣やったでしょ・・・」
「そう。頼朝が伊豆で兵を挙げて、鎌倉入りした時に足利義兼が供奉してる。同じ源氏(八幡太郎源義家の次男の系列が源頼朝、三男の系列が足利義兼)やから、頼朝も気に入ってて、奥さんの政子さんの妹の時子さんと結婚させて義兄弟になる」
「それ、それなんですよ、それぐらい親密な間柄なのに、なんで大河ドラマの鎌倉殿の13人の中に足利氏って居ないのかなあ、って」
「え?」
「ええ?・・・いえ、ですからね、なんでか足利義兼さん、鎌倉殿の13人の中に入ってないんですよ」
「僕はテレビ見ないんで、大河ドラマも知らんのやけど、鎌倉殿の13人ってあれやろ、鎌倉幕府の将軍とか執権とかを支えた重臣格の面々やろ・・・、足利義兼は居ないの?」
「うん」
「義兼の子の足利義氏も居ない?」
「うん・・・、て言うかね、足利氏そのものが居ないんですよ」
「そんなアホな・・・、うそやろ・・・、足利義氏は北条義時とか泰時とかの補佐役やったんで・・・。それで鎌倉幕府内で「関東の宿老」と崇められたぐらいの重鎮やぞ。その名前も出ないなんて、間違いとちゃうか・・・」
「やっぱり間違いなんですよねえ、大河ドラマなんてその程度なんでしょうねえ・・・」

 

 しばらく話した後は、東側の正面に回って扉の上の上図の額を見上げました。「駄都殿」とありました。駄都(だつ)とは、サンスクリット語「dhātu」の音訳で、意味は「仏舎利」です。つまりは「駄都殿」が舎利殿の正式名称であるわけです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿王院3 方丈と庭園

2025年03月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿王院の中門をくぐって境内地の中心域に入りました。中門の先には上図の庫裏が見えました。江戸期の寛文年間(1661~1673)の再建になる建物で、この日は今回の特別公開の受付と順路にあたっていました。

 

 上図の右へ進むと庫裏の戸口で特別公開の受付になっていました。左に延びる飛び石の道は庫裏の式台への通路でした。

 

 同じ位置から西側は、上図のように土塀で仕切られていて、鹿王院の伽藍の中心部の庭園が土塀の向こうにあることを思わせました。

 

 土塀には、一ヶ所だけ上図の通用口が設けられていて、庫裏から庭園へ行き来できるようになっていますが、通常は通行止めになっているそうです。嫁さんが「あの向こうに三角の屋根が見えてるの、舎利殿ですかね?」と指さしましたが、私もここは初めてでしたので「分からん」と応じました。

 

 それで嫁さんが通用口にギリギリまで近づいて中を覗きましたので、つられて一緒に覗きました。上図の建物は、外観の雰囲気からみても舎利殿のように見えましたが、後でその建物が舎利殿であったことを知りました。

 

 庫裏の前庭にも綺麗な紅葉が並んでいましたが、嫁さんは上図の紅葉の手前の枯木のほうを興味深く眺めてスマホで何度か撮っていました。「あの枯木、なんか形がいいですねえ、決まってますねえ、応仁の乱の業火の中で奮戦する足利家の武士みたい・・・」と言いました。また、うまいこと言うなあ、と感心しました。

 

 するとこの紅葉も「業火」ですか・・・。

 

 鹿王院の前身である興聖寺および宝幢寺は、足利家の直轄寺院の一つとして京都十刹の一に列しました。十刹(じっさつ)とは、中国より導入された禅宗寺院の制度のひとつで、五山制度に基づく寺格の一つです。五山に次ぐ位置にあり、諸山より上になりますが、日本においては臨済宗の寺院において付せられた寺格制度でした。

 日本での十刹は既に鎌倉期に定められていたようですが、制度としては未完成であったらしく、足利氏の室町幕府が定めた「天下十刹」が整った制度の最初となりました。至徳三年(1386)に足利義満が五山制度の改革を進めた際に十刹制度の改革も行ない、「天下十刹」を「京都十刹」と「関東十刹(鎌倉十刹)」に分けて有力寺院の序列化を図りました。

 このうちの「京都十刹」において興聖寺および宝幢寺は第五位に列せられ、室町期を通じてその寺格は不変でした。が、応仁の乱で罹災し炎上壊滅、そのまま廃絶しました。残ったのは開山堂のみで、その一画を担った子院の鹿王院が宝幢寺の寺籍を継いで、現在に至っています。

 現在の寺観は、慶長年間(1596~1615)の地震で荒廃していたのを、德川家重臣の酒井忠次の五男の忠知が寛文年間(1661~1673)に再興して以来のもので、忠知の子である虎岑玄竹(こしんげんちく)が中興開山となっています。

 

 庫裏の玄関の特別公開受付に進んで手続きを行ないました。

 

 拝観順路の起点にあたる庫裏玄関の上り間には、上図の韋駄天像が祀られていました。禅宗寺院においては玄関を守護する護法神として崇められています。

 

 庫裏から順路の廊下を通って、上図の客殿の前廊に出ました。寛文七年(1667)頃の復興とされていますが、内部は法事のために非公開でした。

 

 客殿の建物は江戸期の再建ですが、上図の扁額だけは興聖寺創建当初のもので、当時の開山堂鹿王院の額であったものが伝わっています。「鹿王院」の字は足利義満の筆です。

 

 客殿から南の庭園を見ました。客殿は寺の方丈を兼ねますので、この南側の庭園も客殿に付随するものと思われがちですが、客殿の庭園は建物の裏側に配置されています。今回の特別公開の範囲外でしたので、その客殿の庭園は見られませんでした。

 

 ではこの広い庭園は何かと言うと、上図の舎利殿に付随する「本庭」と呼ばれる庭園であるそうです。現在の庭園は前庭、本庭、後庭で構成される平庭式枯山水庭園で、宝暦十三年(1763)に舎利殿が再建されたのに伴って作庭されたものとされています。

 ですが、本庭の石組は室町期の古いものであり、興聖寺および宝幢寺の庭園が荒廃で失われていたのを再利用して造園したものとみられます。鹿王院一帯においては、発掘調査は未だに行っていませんから、前身の興聖寺および宝幢寺の庭園がどのようなものであったかも分かっていません。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿王院2 門前の空堀と竹林

2025年03月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 嵯峨の鹿王院は、通常は非公開であるために、同地域でも稀な紅葉の名所であることが余り知られていません。今回の特別公開は、その紅葉のピーク期に重なっているので、意図的に合わせて集客効果を狙っていたのかもしれませんが、境内には思ったよりも多くの観光客が入っていました。

 

 嫁さんが石畳道の分岐点で「どっちへ行きます?」と訊いてきたので、左方にある鎮守社には帰りに寄ろうか、と答えて上図の前方の中門を目指して歩き出しました。その選択をすぐに変更させられることになるとは、この時は予想もしていませんでした。

 

 嫁さんが「門の前に橋が架かってますよー、川が流れてるんですかね、いい感じですー」と指さしましたが、私自身は橋の両側の石積みを見て「あれ?・・・川じゃないのと違うか・・・」と呟きました。

 鹿王院は、室町幕府の三代将軍足利義満が創建した宝幢禅寺の一区画にあたります。ということは、まさか・・・。

 

 これは、空堀じゃないか・・・。と驚きまして橋の上からも見下ろして、土塀に沿ってクランクしている立派な石積みの護岸の丁寧な造りに、見事だな、と感心させられました。

 

 嫁さんも「これ人工の川みたいですねー」とすぐに悟ったようでした。

「人工の川、というのは間違いでは無いけどな、これは水を流さないから厳密には川ではない、空堀や」
「あっ、空堀っていうんでしたねー。これに水が流れてたら、二条城のお濠みたいになりますね」
「規模は全然違うけどな・・・」
「でもこの幅でもお濠としては充分なんじゃないですか?思いっきりジャンプしても飛び越えられへんし・・・」
「そうやな、防御線として必要最低限の規模はとってあるな・・・」
「えっ、じゃあ、この空堀はやっぱり防御線だったんですか?・・・お寺を護るための・・・?」
「そう思うけどな・・・、土塀は伽藍中枢部の塁線にあたるんやけど、きれいにそれに合わせて外側に空堀が巡ってる。単なる門前の施設とは明らかに違うぞ、もしかして境内地の回りを囲んでるかな」
「なんか凄そう、あっちに回って確かめてみましょうよ」

 ということで、石畳道を引き返してさきの分岐から左に進み、鎮守社の横を抜けました。

 

 左の石畳道の終点が、上図の門でした。鹿王院で「本庭」と呼ぶ舎利殿前の庭園の正門にあたり、寺では勅使門としています。今回の特別公開の順路の範囲外になるため、門前の橋とともに立ち入り禁止の竹柵がかけられていました。空堀は、その門前をも区切って更に西へ続いていました。

 

 そして中門の右手の東側にも空堀がずっと続いて、土塀に沿って屈折しているのが認められました。つまり、鹿王院の中心伽藍のエリアは南、東とも空堀で囲まれているわけです。西側は墓地や住宅地や駐車場、北側は嵐電の線路になっていて入れませんから、そこまで空堀が巡っているのかは確認出来ませんでした。

 ですが、足利義満の本邸だった鹿苑寺の北山第も、創建当時は周囲に空堀を巡らせて、いまでも鹿苑寺山門前や境内地外郭に空堀の一部が残されています。また義満が創建して京都五山の筆頭格に据えた相国寺も、かつては周囲に二重の堀を回していたようで、その一部が発掘調査で検出されています。

 鹿王院も、足利義満が建てた宝幢禅寺の開山堂院が前身ですから、寺では開山と鎌倉幕府ゆかりの舎利を祀る最重要の区画に相当していた筈です。その境内地を護るように空堀が巡らされていても不思議はありません。やっぱり武門の棟梁の寺なればこその、有事への備えだったのだろうと思われます。

 そういえば、さきの鎌倉幕府においては、寺社と言えとも騒乱、戦火を免れる事はなく、将軍が社寺にて襲撃を受ける最悪の事態が数度に及んでいます。それで源氏の二代将軍頼家、三代将軍実朝も揃って斃れ、源氏の正統は途絶えてしまいました。その悲惨な歴史を教訓としての、源氏分流の足利将軍家の護りの備えであった、とみるべきでしょう。

 

 なので、勅使門および空堀の南側に鎮座して南ではなく東を向いて山門からの石畳参道筋に面している上図の三社明神社も、寺の歴史と密接に関わる鎮守社であった可能性が考えられますが、鹿王院の寺誌や資料類にはこの三社明神社の記載がありません。

 三社明神社とは、一般的には国家として特に崇拝した三つの神社を指します。 多くの場合、伊勢神宮と石清水八幡宮と賀茂神社、もしくは、伊勢神宮と石清水八幡宮と春日大社を指し、祭神名でいうなら天香語山命、天火明命、建稲種命の組み合わせが多いようです。
 しかし、ここ鹿王院の三社明神社の祭神については、神殿や名札らしきものが見えず、説明板も無いので分かりませんでした。
 

 三社明神社の南側は竹林になっていますが、そのなかに上図のような、嵐山の竹林の小径のミニチュア版のような散策路が整備されていました。嫁さんが「素敵じゃないですか、嵐山の本家よりこっちのほうがいい感じ」とその道をたどっていきました。

 

 この竹林は、寺で聞いた話によれば、戦前までは寺の周囲をぐるりと囲んでいたそうです。それが戦後の宅地化によって削られていき、墓地やマンションや駐車場などに転じて行って、いまでは南側の境内地内の竹林だけが残っている、ということです。
 山門からの石畳参道の西側に見えていた竹林がこれでしたが、範囲は南北に50メートルも無いので、上図の散策路も50メートルに満ちませんでした。歩いて行くとすぐに山門の横に出てしまいますが、雰囲気は良かったです。

 

 それで境内地の外郭に戻って空堀を再び見ながら中門へと向かいました。

 

 何度見ても立派な空堀です。鹿苑寺の空堀もかつてはこうした石積みを備えていたと思われますが、江戸期の整備事業により山門前の部分のみが水濠に変えられて石積みも切石組みに更新されています。それで室町期の足利将軍家全盛期の遺構としては、この鹿王院の空堀が唯一の例なのだろうと思います。

 そして空堀の外には竹林がありましたが、この堀と竹林の組み合わせは、そのまま中世戦国期の館や城郭の一般的な防御線であった堀と竹藪の組み合わせに繋がるわけです。戦国乱世の頃には全国各地に見られた堀と竹藪の組み合わせですが、そのルーツのひとつが、鹿苑寺や鹿王院のような室町幕府足利家の直轄寺院の備えだったのかもしれません。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿王院1 鹿王院へ

2025年03月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年12月1日、嵯峨野の古刹二ヶ所の特別公開に行きました。嫁さんが「令和6年度第60回京都非公開文化財特別公開」の案内チラシを貰ってきたのが事の始まりでした。

「この前、山科区の阿弥陀寺へ行きましたでしょ」
「ああ、別々にな。君は翌日にエリさんと行ったんやな」
「うん、あの後、隨心院と勧修寺にも行きましてん、面白かったですよー。それでね、このチラシ、勧修寺で貰ったんでチェックしてみたんですよ。で、こことここにも行きたいなあ、て思うのですよ・・・」
「ほう、鹿王院と曇華院門跡か。どっちも行った事無いな。鹿王院は何度か門前を通ってるけどな」
「あ、場所はご存知なんですか」
「ああ、嵯峨のほうや。嵐電の鹿王院駅があるやろ、その南へちょっと行った所。アニメのけいおん!の修学旅行編の聖地ルートに接してる。巡礼ファンなら、かならず鹿王院の門前を通る」
「ふーん、曇華院門跡のほうは?」
「これは確か、鹿王院の隣やった筈なんで、山門の前は通ったかもしれん。門跡というから皇室関連の寺なんやろうけど、勉強しとらんから知らないな・・・」
「鹿王院のほうは?」
「これは室町幕府ゆかりの名刹や。足利義満が建てた興聖寺という寺の、開山堂やったっけ、それが応仁の乱で焼け残ったのを再整備して現在の鹿王院に至ってるんやなかったかな・・・。鎌倉幕府から引き継いだ舎利を安置してる、と聞いたけどな・・・」
「鎌倉幕府から引き継いだ舎利?・・・足利氏の室町幕府が引き継いでるってことですか?」
「そうや。確か源氏の三代将軍の実朝が中国から請来した仏舎利やったと思う。源氏の権力の象徴みたいなもんやったんやろう・・・。請来した仏舎利は鎌倉の円覚寺におさめられたんやけど、時の天皇・・・誰やったっけ、後光厳天皇やったかな・・・、まあ、天皇がその一部を京都に献上させて、それがのちに夢窓疎石の弟子の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に下賜されとったんやな・・・、足利義満が興聖寺を創建したときに、その春屋妙葩を開山に迎えたから、実朝請来の仏舎利も興聖寺に安置されることになったわけ。鎌倉幕府ゆかりの仏舎利やから、源氏一門で鎌倉幕府の重鎮やった足利氏も大切に護って信仰したんやろうな・・・」
「それが、いまは鹿王院にあるってことですか」
「あるんやろな・・・、僕も行った事無いからどんな舎利かは知らんのやけど・・・」
「なんか凄そう・・・、鎌倉幕府と室町幕府の至宝、って感じがしません・・・?・・・それ見たい、めっちゃ見たいです・・・」
「僕も見たいねんで、次の休みに行くか」
「わーい、楽しみです、室町幕府ゆかりの寺って、京都でもあんまり行った事無いからめっちゃ興味ありますよ・・・、結婚前に行った地蔵院とか以来じゃないですかねー」
「地蔵院・・・、ああ、幕府管領の細川武蔵守頼之の墓所やな・・・(当時のレポートはこちらこちら)」
「うんうん、それそれ」

 ということで、その次の休日の朝から出て、地下鉄と市バスを乗り継いで、最寄りのバス停「下嵯峨」で降りました。そこから鹿王院へは、歩いて5分ぐらいでした。

 

 鹿王院の山門前に着きました。嫁さんが「屋根の曲線が綺麗ですねえ」と甍の線を見上げました。

 

 門脇の「令和6年度第60回京都非公開文化財特別公開」の案内板です。鹿王院は、普段は非公開なので、こういった特別公開の時にしか入る機会がありません。

 今回の特別公開は、実に七年ぶりの機会だそうで、三年余りをかけて修復工事を行なっていた舎利殿が2023年10月に竣工したのを記念してのものだそうです。

 

 山門に懸かる「覚雄山」の扁額です。足利義満が春屋妙葩を開山に迎えて創建した興聖寺が程なくして宝幢禅寺と改称した際に、山号をこの「覚雄山」と定めました。それでここの正式名称も「覚雄山 大福田 宝幢禅寺鹿王院」となっています。
 ちなみにこの扁額は足利義満の筆になるもので、康暦二年(1380)の創建当時の遺品です。

 

 山門自体も康暦二年(1380)の創建当時の建築で、いま鹿王院に残る最古の遺構です。足利義満の建立ですから、数少ない室町幕府全盛期の建築遺構ですが、なぜか未だに文化財指定を受けていません。

 

 建物の細部は禅宗様を基調にしつつ、構造材を必要最低限におさえてシンプルに仕上げ、軽快な造りにまとめています。前代の鎌倉期や後代の江戸期の建築と比べると、細部まで洗練された優美な雰囲気があります。

 

 屋根の棟木を支える斗と肘木も丁寧な造りです。南北朝合一を果たして内戦を終結させ、国内に静謐をもたらした足利義満政権の平和的な気分が建築にも美術にも一種の安定した情感をあたえていた様子がよく伺えます。

 

 ですが、よく見れば貫も柱も垂木も必要最低限にとどめていることが分かります。とくに垂木は間隔を大きく開けており、疎垂木(まばらだるき)と呼ばれる形式にあたりますが、とくに間隔が広いのがこの時代の特徴の一つです。

 その特徴を、嫁さんも的確に理解していたようで、「屋根を支える垂木ぐらい、もうちょっと数を揃えられなかったんですかねえ」と呟いていました。

 その言葉は正しい、と思いました。長く続いた南北朝の内戦によって国力も民力も疲弊しきってどん底にあった当時の日本の状況が、足利将軍家の直轄寺院の正門の垂木さえも満足な数すら揃えさせなかったレベルであったことがよく分かります。足利義満政権が必死で取り組んだ政治的課題が、乱れて疲れ切って荒廃しきった国土の再建であったのは当然でありました。

 

 山門をくぐって、広い境内地に入りました。中門まで続く長い石畳道が、紅葉のなかに伸びていました。鹿王院は嵯峨地区でも特に聞こえた紅葉の名所ですが、普段は非公開であるために、その境内地の秋景色の素晴らしさもあまり知られていないようです。

 

 嫁さんが「けっこう広いですねえ、足利家のお寺って、相国寺も鹿苑寺も慈照寺もそうですけど、敷地が広大ですよねえ」と言いました。

 

 石畳の参道の左手には何らかのお堂の区画の跡とみられる低い石垣が続いていました。創建当時の興聖寺および宝幢禅寺の堂塔伽藍の様相はいまでは詳らかになっておらず、現在の敷地の広さから見ても、応仁の乱で焼けて失われた堂宇施設の多さがしのばれます。

 

 しばらく行くと石畳道が左に分かれていました。立ち止まって左を見ると上図のような景色でした。境内に「三社大明神」と呼ばれる鎮守社が祀られる、というのはあれですかね、と嫁さんが指差しました。

 

 同じ位置から北に視線を戻すと、石畳道がやや右にそれて、その奥に中門が見えました。鹿王院のいまの中心伽藍はあの中門の向こうになるのだな、と理解しました。このあたりの紅葉も見事でした。

 

 特に右側の上図の紅葉が、火焔のような形でした。嫁さんが「この寺を焼き尽くした応仁の乱の業火みたいですねえ」と言いつつ、スマホを向けて撮っていました。業火とは、うまいこと言うなあ、と思いました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伏見城の面影31 山科阿弥陀寺山門

2025年03月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月9日、上図の阿弥陀寺を訪ねました。嫁さんも誘ったのですが、この日の午後にサークルの会合があるとかで、代わりに翌日にモケジョ仲間と行きますから、との事でした。

 阿弥陀寺は、普段は非公開寺院ですが、令和6年度の京都非公開文化財特別公開の対象エリアが珍しく山科区に設定されて4ヶ所の寺院が公開となったうちの、初の特別公開寺院となりました。山科区の古刹はなかなか拝観出来ませんから、よい機会だと思って出かけたのでした。

 

 門前の案内看板には、今回の特別公開にて披露される本尊の阿弥陀如来坐像以下の伝世文化財の名称が列記されていました。目玉はやはり本尊の阿弥陀如来坐像のようで、寺伝では恵心僧都の作、小松内大臣重盛公の念持仏、とされていました。

 小松内大臣重盛とは、六波羅の小松第に屋敷を構えた平左近衛大将重盛のことです。平清盛の長男で、文武両道に長け、温厚柔和で冷静沈着な優れた武人でありましたが、病により41歳という若さで亡くなっています。平清盛政権が短命に終わった理由の最たるものが重盛を失った事、と当時から言われていましたから、相当な人物であったことは間違いありません。

 その平重盛は、東山の小松谷に堂を建てて48体の阿弥陀仏像を安置し信仰したことで知られますが、その際に阿弥陀寺へ阿弥陀仏を移して本尊として祈念したとされています。現在の小松谷正林寺にはその48体の仏像は伝わっておらず、散逸したか、失われたかのいずれかと考えられますが、いまの阿弥陀寺の本尊阿弥陀如来坐像がそのうちの1体である可能性も考えられます。

 阿弥陀寺の本尊阿弥陀如来坐像は、最近の修理で金泥に包まれて輝いていますが、作風から見て十二世紀後半以降の作とみられ、小松内大臣重盛公の念持仏とする寺伝とも符合します。美術史でいうところの藤末鎌初期の作であり、平重盛が造らせたものとみても矛盾しません。

 なので、寺伝で恵心僧都の作とするのは、最初の本尊が平安期の作であったことを示すものと考えます。それがいつしか失われ、これに代わる二代目の本尊として現在の像が平重盛の関与によってもたらされたもの、と推定しています。

 

 ということで、とりあえず本尊阿弥陀如来坐像の年代観と歴史的背景について私なりに推測をまじえて理解しましたので、続いて客殿の展示品などを見学し、約一時間ほどで上図の本堂を退出しました。

 その際に、展示品の説明にあたっていた若住職の奧様が「山門のほうも見ていって下さい、中に説明板も置いてますので」と案内してくれましたので、では、と山門に向かいました。

 

 阿弥陀寺の山門です。来た時に一度くぐっていますが、案内説明板は扉の内側に設けてあったので、入った時には気付きませんでした。

 

 扉の内側に設けてあった案内説明板です。読み始めてまもなく、目が点になりました。「伏見城の遺構から調達した材を使い」再建されたとありました。するとこれは伏見城の解体建材を用いて建てられた門なのか、と驚き感動し、説明文を三度読みました。

 しかも「林羅山の命で」とあります。徳川家康のブレーンの一人として江戸幕府の黎明期の基礎固めに多大な功績を遺した林又三郎信勝その人です。徳川期再建伏見城の解体および移築の事業にも関わったとされており、山科阿弥陀寺とどのような関連があったのかは分かりませんが、寺の賜紋のひとつが徳川葵であるのはそういうことか、と察しました。

 それで、本堂へ引き返して、若住職の奧様に山門の説明文について質問したところ、寺でも山門については詳しい事が分からなかったが、近年に林羅山の子孫の方より山門寄進に関わる古文書の写しが送られてきて、それで初めて山門の由来が判明した、という意味の説明をいただきました。なんと林家伝来の古文書に記される内容であったか、と再び驚かざるを得ませんでした。

 それで建立が元和七年(1621)、作事担当が左甚五郎および近江の大工達、という具体的な事柄が分かっているわけか、と納得しました。案内説明文では元和七年を1615年と記していますがこれは誤りです。

 左甚五郎(飛騨ノ甚五郎)こと伊丹甚五郎は慶長十一年(1606)に京伏見禁裏大工棟梁の遊左法橋与平次に学び、元和五年(1619)に徳川将軍家大工頭の甲良豊後守宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として活動していますから、元和七年に林羅山の依頼で仕事をしてもおかしくはなく、時期的にも符合性があります。

 また、近江の大工達、というのも、甲良豊後守宗広が近江出身で配下に近江の職人を抱えていた史実と矛盾しません。伊丹甚五郎が甲良豊後守宗広の女婿となったことにより、御作事掛大工方を近江の職人たちと共に担った流れがあって、ここ阿弥陀寺山門の建立も同じようなチームで請け負ったのだろうと思われます。

 

 したがって、この山門は、確かな古文献史料によって旧伏見城の建材使用の事が記された、おそらくは唯一の事例かと思われます。

 今までに京都市内外で多くの旧伏見城移築と伝わる建築を見て回ってきましたが、いずれも伝承のみで、確実な証拠や典拠を欠いていたため、建物の実物を見たうえで様式や特徴から、旧伏見城関連であるか否かを推測するしか無かったのでした。それだけに、林羅山の子孫に伝わる古文書からここの山門の建立の経緯が判明したというのは、感動的なことでありました。

 現在、旧伏見城からの移築または建材による建築として確定しているのは、ただ一棟、広島県の福山城の伏見櫓(国重要文化財)であり、これは解体修理時に発見された「松ノ丸ノ東やくら」という陰刻が決め手となっています。今回の阿弥陀寺山門は、これに続く確定遺構となることでしょう。

 上図は、山門の主要構造材となっている二本の本柱と、その上に横に渡される冠木を下から見上げたところです。門に使われている部材のなかで、この本柱と冠木の3本の材がひときわ太く、そして古びた雰囲気をまとっています。

 

 そのことは、門をくぐった内側から見上げても分かります。御覧のように門の扉、屋根の垂木や敷板、控柱の全てが新しく見えますので、本柱と冠木の3本の材とは時期的な差があることが察せられます。おそらく、本柱と冠木の3本の材だけは「伏見城の遺構から調達した材を使い」再利用しているのでしょう。

 

 門の横から、冠木の木口(こぐち)を見ました。御覧のように胡粉で白く塗られています。が、年輪の輪に沿って腐食が見られ、表面のやつれと併せて、製材後に相当の年数を経ていることがうかがえます。冠木以外の材がみんな表面もツルツルで新しく見えるのとは対照的です。

 

 相当の年数、を具体的に推定すると十年余り、となるでしょうか。徳川期に伏見城の再建が始まったのが慶長七年(1602)6月頃で、これを建材の製材時期の一応の上限とみることも可能です。

 そして伏見城の廃城が決まったのが元和五年(1619)、建物の解体や移築が進められて、元和九年(1623)7月時点では本丸の一部の建物が残っていた程度であったようです。

 林羅山の命でここの山門を建てたのがその間の元和七年(1621)でありますから、まさに伏見城の解体や移築が進められていた時期に、その建材を山科阿弥陀寺に再利用したことが分かります。慶長七年(1602)からの再建工事で用いた建材を転用したならば、製材してから19年前後が経過していたことになりますが、その程度であれば、建材の再利用は十分に可能であったことでしょう。

 

 そうなると、この建材は冠木門の体裁に整えられている点からみて、伏見城のどこかの通用門クラスのものを転用している可能性も考えられます。阿弥陀寺の山門として建立するにあたり、屋根や控柱を追加して寺院の門の形式に整えて現在の姿になった、という経緯が推定出来ます。城郭の冠木門の寺院への転用例は他でも幾つか見られますから、ここの山門もその一事例とみなせることでしょう。

 ともあれ、京都市内に新たな旧伏見城の建築遺構の一例を見出すことになりました。この種の建材転用は、当時は徳川家に関連のある施設や寺院向けに普遍的に行われていたようですので、探せば他にも見つかるかもしれません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館12 幻の蒸気機関車とジオラマと運転席

2025年03月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 梅小路機関車庫から隣の旧二条駅舎に入った途端、嫁さんが「あっ、大きな蒸気機関車の模型がありますよ、すごーい!」と右側の大きなウインドーを指差して言いました。上図の1/12スケールのC63形1号機の模型でした。

 

 説明板です。嫁さんが「ほんまに幻のSLとして終わってしまったんですねえ・・・」と一通り読んでから少し残念そうに言いました。

「そうすると、さっき見たあの赤いナンバープレート、この機関車に関わる唯一の形見であるんでしょうね」
「まあ、レプリカでなくて本物であればな・・・」
「本物ですよ、きっと。他のナンバープレートも全部本物なんでしょう、やからC63の1のナンバーも本物なんですよ」

 

 C63形は、日本国有鉄道が計画し設計したテンダー式蒸気機関車の一種です。国鉄最後の制式蒸気機関車として計画されながらも、1956年(昭和31年)に設計図が完成したのみで、実際には製造が行われませんでした。それで、幻の蒸気機関車とも呼ばれています。
 計画では、地方ローカル線での客貨両用目的での使用を前提とし、主として老朽化が特に深刻化していたC51形を置き換える目的で設計されました。構造はC58形をベースにして、できるだけC51形に近い性能を得ることを目標とし、国鉄最後の新製蒸気機関車ということもあって、多くの新設計が取り入れられたといいます。

 

「なるほど、C58形がベースか、言われてみればよく似てるなあ」
「うん、うん、C63っていうからC62形と同じような大きな機関車かと思ってましたけど、違いましたね」
「主要路線じゃなくて地方ローカル線で使うのが目的やったんなら、ローカル線での万能機と言われたC58形がベースに相応しいわけやな。当時の主要路線はもうC62形とかが活躍しとったんやから、地方路線に新型機を入れるということでC63形を計画したけれど、国鉄の電化や無煙化への取り組みのほうが優先されたから、結局は開発中止になったと・・・」
「・・・それで、ナンバープレートだけを作って終わりになってしまったと・・・ですねえ」
「そういうことやな」
「なんかもったいないですねえ・・・、折角設計図まで出来てね、ナンバープレートも作ったのにねえ・・・」
「そういう声が実際に多かったやろうし、残念がる人々も当時は大勢居たんやろな、だからせめて模型で作って、その姿を後世に残そうとしたんやろな」
「そういうことですかー、だからNゲージでマイクロエースがC63形を出したんですかねー」
「たぶんね」
「やっぱり、買おうかなー・・・買っていいですか?」
「買っちゃうの?」
「だってねえ・・・、C63形って地方ローカル線向けに計画されたんでしょう、C51形を置き換える目的で計画されたんでしょ、山陰線でもC51形は走ってたそうやから、C63形がもし製造されてたら、山陰線にも配属されてC51形と置き換えになった可能性はあるんですよね?」
「言われてみればそうやな、山陰線にはC58形も走ってたんやから、その後継機タイプのC63形も運用される可能性もあったわけやなあ」
「うんうん、それそれ・・・、ですから、うちの山陰線ジオラマにマイクロエースのC63形も入線させて走らせますよ。幻のSLが甦って走ります、ってなんか素敵じゃないですか・・・」
「・・・まあ、好きにやって、楽しんで下さい・・・」
「わーい、やったー」

 

 旧二条駅舎の館内の展示は模型がメインでしたので、Nゲージの模型も沢山陳列されており、上図の大きなジオラマも展示されていました。モケジョの嫁さんにはたまらない空間であったのは間違いなく、いちいち私の肩をたたき、腕を引っ張り、あちこち指差してはハイテンションのまま各所の展示ケースにビタッと張り付いてゆくのでした。

 

 とくに上図の、昭和期の山陰線の丹波エリアの景色を模したとされるNゲージジオラマには、20分ぐらいは張り付いて観察し、スマホであちこち撮っていました。特に段々に連なる田畑や藁葺き屋根の民家の表現に見入り、「まるで美山かやぶきの里みたい」と言いました。

 

「これ、昭和でも初期の頃の景色みたいな感じしません?」
「あー、それはそうかも。この木造の橋なんて、戦後はもう見られなかったみたいやね」
「橋もそうですけど、道路がみんな未舗装っぽいんで、昭和の田舎でも思いっきり山奥の未開の村って感じ・・・」
「そのわりには奥に赤い立派な鉄橋が架かってるんやけどな・・・」
「そう、そうなんですよ、あれが全然この景色にマッチしてないんですよ、えらく浮いて見えちゃう・・・、あの鉄橋だけ近代化されててどーすんの、って感じ・・・」
「あははは」

 

「この駅も、思いっきり田舎の駅って雰囲気ですよね、田舎過ぎて・・・、ウチの山陰線ジオラマにはちょっと時期感が合わないかなあ・・・」
「君のジオラマは、だいたい昭和40年から60年代の時代幅で作ってるやろ、これは昭和30年代か、もうちょっと前の20年代の終戦直後の日本の山村って感じやもんな、車なんて走ってなさそうな、実際どこにも車が置いてない・・・」
「千代川も馬堀も並河もこんな田舎やった頃はあったんでしょうけど、昔の写真見てもあんまりそういう景色じゃないんですよね、亀岡や園部はもっと町っぽい感じだったし・・・」

 

 ジオラマの線路に置かれた機関車はC11形でした。かつての山陰線の主力機関車の一種でした。
「これの写真、よく見ますよ。山陰線の福知山とか亀岡とかで色々使われてたみたい・・・」
「確か、福知山駅だったか、保存車輌あるって聞いたな・・・」
「あー、それ福知山駅の南の公園ですよ、もとは機関区のあった場所らしいですよ、橋の上に機関車を置いて保存してあるらしいですよ、今度フクレル行く時に見ましょうよ」
「そうやな」

 

 それにしても、なかなか良くできたジオラマです。この時代の景色を再現したものはあまり見かけませんので、嫁さんにとっては色々と参考になったことでしょう。

 

 昔の日本の村の風景、という感じですが、やっぱり奥の赤い立派な鉄橋がミスマッチですね・・・。

 

 民家の並びや石垣、斜面の畑、段々の水田などは細かくリアルに造られています。奥の里山の部分も紅葉の彩りを添えて秋の風情を醸し出しています。

 嫁さんは、山陰線ジオラマの参考にしていましたが、こちらも大井川鐡道ジオラマを作っており、いまでも昭和レトロスタイルの鉄道設備のままで運行している大井川鐡道の沿線には、上図のような農村の景色も割と普通に見られますので、民家の藁葺き屋根を瓦葺か銅板葺きに換えるだけで、そのままいけそうな感じがあります。
 現在は井川線の範囲を作っていますので、メインは山の中の渓谷沿いの地形になっていて、民家は一軒も無いジオラマに仕上がる予定です。

 

 最後に嫁さんが関心を示したのは、C11形蒸気機関車の324号機の運転室のカットモデルでした。

 

 御覧のように運転室だけを保存して中に入れるようにしてあります。嫁さんは「運転席に座ったら、山陰線も大井川鐡道本線もどっちも雰囲気が楽しめますねー」と言い、上図の運転席に座ってハンドルやレバー類にも手を伸ばしてタッチして、御機嫌でした。ガチのモケジョさんですが、同時に完全な鉄子でもあるな、と思いました。

 

 色々楽しんで学んで体験して大満足、超御機嫌の嫁さんを先にして、京都鉄道博物館の旧二条駅舎より退出したのは16時27分、閉館時刻の3分前でした。

「次はね、福知山のフクレルに行きましょうよ、ね?」
「・・・はいはい」
「いつがいいですかねー」
「君に任せます」
「本当?わーい、やったー」  (了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館11 梅小路機関車庫とその模型

2025年03月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の梅小路蒸気機関車庫内の展示機を一通り見ました。

 

 機関車庫の扇形車庫は1914年(大正3年)に建設された鉄筋コンクリート造で、庫内の1915年(大正4年)完成の5トン電動天井クレーン、および引き込み線とともに、2004年に国の重要文化財に指定されています。ほかに土木学会選奨土木遺産、準鉄道記念物に指定されています。

 

 庫外の引き込み線にも2輌の蒸気機関車が停まっていました。見学通路からちょっと離れた位置にあり、1輌は大部分が隠れていて見えませんでした。

 

 それで手前の8620形の11号機を見ました。ナンバープレートは8630なので、8620形の付け番の計算式にあてはめれば、30ひく20たす1で11になるわけです。

 8620形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が導入した、旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車の一種です。 1914年から1929年までに672輌が製造され、全国各地の路線で活躍しました。平坦で距離の長い路線に投入され、客貨両用に使用されたため、8620形の姿を見ない路線は無い、とまで言われました。
 現在も各地に約20輌が静態保存されており、ここ梅小路機関車庫の11号機は動態保存機として時々「SLスチーム号」を牽引しています。

 

 梅小路機関車庫の中央にある転車台です。

 

 転車台は、「SLスチーム号」のC56形機関車の停まっている側線に繋がっていました。C56形機関車をいつでも機関車庫内に収容出来るようにスタンバイしているのでしょうか。

 嫁さんが「こういう蒸気機関車の機関車庫とか、転車台とか、Nゲージでも見るとカッコイイですよ、そのジオラマがあるんで、見に行きましょう」と言いました。そんなジオラマ展示があるの?と訊き返した途端に、腕を引っ張られて、再び機関車庫内へ導かれました。

 

 機関車庫内の一角に、大きなNゲージの梅小路機関車区全域のジオラマが展示されていました。いま京都鉄道博物館の敷地になっている場所に、かつては梅小路機関区の機関車庫をはじめ庁舎や事務棟や検査工場、関連施設などが建ち並んでいたそうで、その往時の姿をNゲージサイズの1/150スケールにて再現してありました。

「おお・・・、これは凄いな・・・、素晴らしい」
「でしょ、でしょ、これ毎回必ず見てるんですよ。こういうの、家でも作りたい・・・」
「こんな大きな範囲を、山陰線ジオラマに入れるんかね?」
「ううん、無理無理。広い家に引っ越したらスペースがとれるかもだけど、今の家じゃ狭いからねえ・・・、それよりは福知山にあった機関車庫のほうが規模的にも小さいから作れるかも」
「福知山に機関車庫があったのか・・・、機関区があったから当然機関車庫もあったわけやな」
「うん、昔の写真とか調べたらね、福知山の機関車庫と転車台とかのがあったですよ。それを再現したNゲージのジオラマもあるんだって。今度見に行きません?」
「どこへ?」
「福知山のフクレル」
「ああ、福知山城の横に最近出来たという鉄道資料館のことか。そこにジオラマもあるわけか」
「うん」

 

 それからは二人で、めいめいの位置でケースにへばりついて広いジオラマを眺めました。上図は南からのアングルで、左側のホッパーと呼ばれる炭台やガントリークレーンのある位置が、いまの京都鉄道博物館の本館施設の南側にあたります。その南側に線路に沿って建ち並ぶ倉庫群のエリアは、いまは京都貨物駅のコンテナヤードの東端にあたっています。

 

 こちらは西からのアングルです。上図右の「梅小路機関区庁舎」の建物群の位置がいまの京都鉄道博物館の本館施設の北側にあたります。その左側に並ぶ線路の一部が、いまの京都鉄道博物館のプロムナードコーナーの線路として再利用されているようです。それらの線路に置かれているのが旧型客車ばかりなので、かつては客車などの駐機場だったのでしょうか。

 

 その客車が置かれた線路のエリアが、上図のように「梅小路客貨車区」とありました。客車だけでなく貨車もこちらで管理していたようです。

 

 東からのアングルです。機関車区の横を山陰線が通っているのは現在も変わりません。山陰線と扇形機関車庫との間は現在は緑地になっていますが、かつては「投炭練習室」や「講習室」などの教育関連施設が並んでいたようです。

 嫁さんが、首をかしげつつ、山陰線の横にある「投炭練習室」を指差して言いました。

「投炭練習室って何ですかね?・・・石炭を投げる練習?」
「投げるんじゃなくてな、蒸気機関車の釜に石炭をくべることを「投炭」と呼んだの。単に放り込めば良いものではなくって、釜に投じる量とかタイミングとか、色々と熟練の技が要求されたんで、そういうのを練習したんやな。「投炭」そのものも過酷な重労働なんで、なるべく体力を削らないで効率的に行う姿勢、動作手順があったというから、そういうのも練習していたんと違うかな・・・」
「ふーん、蒸気機関車って、色々と手間がかかってたんですねー」  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館10 梅小路機関車庫のSLたち 下

2025年03月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の梅小路機関車庫の続きです。マイテ49形の特別展示の横には、上図のC51形239号機がお召列車の装いで展示されていました。京都鉄道博物館で保存しているC51形239号機を、去る2019年3月の「梅小路京都西駅」開業に合わせて、梅小路機関区所属機のお召し仕様に装飾し直したものだそうです。

 

 C51形は、日本国有鉄道の前身である鉄道院が1919年に開発した幹線旅客列車用の大型テンダー式蒸気機関車の一種です。製造当初は18900形と称しましたが、1928年6月の形式番号改変にてC51形と改められました。 1919年から1928年までに289輌が製造され、1920年代から1930年代にかけて主要幹線の主力機関車として活躍、1930年から1934年まで超特急「燕」の東京・名古屋間の牽引機を務めました。国鉄の蒸気機関車としては比較的早い時期、1966年に全廃されたため、いま完全に現存しているのはここの239号機と、埼玉の鉄道博物館の5号機の2輌だけです。

 この239号機は、お召し列車の専用機関車に指定され、1928年11月の昭和天皇の大礼から1953年5月の千葉県下植樹祭までに104回にわたりお召し列車に起用されています。お召し列車の専用機関車としては歴代最多の栄誉に浴した名機であり、ここでのお召し仕様展示もその歴史をふまえてのものであるそうです。

 

 嫁さんが「これ手塚治虫の「火の鳥」みたいなデザインに見えますね、鳳凰ですか?」と訊きました。そうだ、と答えておきました。鳳凰は、菊花紋とともに皇室を象徴する意匠として知られます。機関区によってそれぞれのデザインがあったそうで、こちらのは梅小路機関区のデザインであるそうです。

 

 隣にはD51形のトップナンバー機がありました。日本を代表する蒸気機関車として知られています。
 D51形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計、製造したテンダー式蒸気機関車の一種です。全国各地の主要路線のみならず、地方線においても主に貨物輸送の牽引車として活躍しました。1935年から1945年までに製造され、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄の在籍車輌総数だけでも1115輌に達し、台湾や外地向けの製造分も含めると1184輌に及びます。これはディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車の一形式の製造輌数としては最多であり、この記録は現在も更新されていません。

 そのためか、現在も保存機が全国各地に100輌余りあって、動態保存されているものも2輌が知られます。かつては山陰線でも福知山機関区所属の数輌が活躍していて、初期型と標準型と戦時型の三つの仕様が存在していました。

 嫁さんが自らのNゲージの「山陰線ジオラマ計画」用に購入したのは、福知山機関区に居た727号機と同じ標準形の後期型仕様と同じタイプの、マイクロエースの750号機です。嫁さんはさらに戦時型も購入する予定だそうで、かつて園部車輌区に属した1018号機と同じ戦時型仕様のタイプとしてマイクロエースの1002号機に目を付けている、と話しました。
 それで、初期型は買わないのか、と尋ねたところ、「亀岡車輌区に25号機や66号機が居たそうなんで、いずれはナメクジ型も買わないといけないですねえ、・・・買っていいですか?」と聞き返してきました。こちらとしては嫁さんが楽しんでいれば十分なので「もちろん、好きな時に買ったらええ」と答えておきました。すると笑顔で頷いていました。

 嫁さんは、ガチのモケジョだけあって、ふだんから模型やプラモに色々とお金を使っていますが、どちらかといえば節約、倹約する主義で、決して無茶したり衝動買いしたりして、やたらに買いまくるようなことは絶対にしません。ひと月幾らまで、と決めてその範囲内で中古ショップなどでコツコツと買っていますが、買わないで資金を貯めている期間のほうが長いです。その様子を結婚前からずっと見て知っているので、私としては特に言うことはありません。

 

 D51形の隣には、C11形の64号機が居ました。嫁さんが「大井川鐡道のきかんしゃトーマスになってる機関車ですよねえ、でもなんか、見た目の印象が違うような気がしますねー」と言いました。

「そりゃあ、トーマスのほうはデフが無いし、ヘッドライトも下に移してあるもんな」
「あっ、そうですねえ、デフレクターがこっちは付いてるんですねえ・・・、大井川鐡道のは、C10形もデフレクター付いて無いですもんね、スッキリしたイメージがあります・・・」

 

 C11形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1932年に設計したタンク式蒸気機関車の一種です。明治期以降に導入および製造された、種々雑多な種類の機関車の運用が煩雑でコストもかかり、それらが老朽化していたのをまとめて置き換えるため、規格および形式の統一化を図って開発されました。1932年から1947年までに381輌が製造され、全国各地のローカル路線で主力牽引車として活躍しました。小型で扱いやすく、維持費も比較的安く済むことから、いまも数輌が動態保存されて各地で運用されており、静態保存機も全国各地に多数が残されています。

 このC11形は、大井川鐡道に集中して残されており、動態保存機が2輌、静態保存機が1輌、導入予定機が1輌の計4輌にわたっています。私も数度のゆるキャン聖地巡礼にて大井川鐡道に乗り、動態保存機のうちの2輌つまり227号機とトーマスに扮している190号機、静態保存機の312号機を見ています。
 嫁さんも、模型仲間と去年に初めて大井川鐡道に行ったときはトーマス列車に乗っていますから、190号機の動いているのを見てきているわけです。

 

 次に、修理中のC62形2号機を見ました。2024年の1月に操作ミスによる炭水車の脱輪事故を起こして以来、ずっと、庫内での修理作業が続けられているようでした。

 

 御覧のように前から庫内に突っ込んで、炭水車を外して隣の線路に移してありましたので、運転室の様子だけでなく、その床下の車台や各機器の様子がよく見えました。というか、見えるようにしているのでしょう。

 

 嫁さんが「こんなふうに機関車の後ろの断面を見られるのって、あんまり無いんじゃないですか?」と言いました。
 確かに、解体や廃車の車体ならば、こういう風に見られるかもしれませんが、車籍もある現役の蒸気機関車では通常は炭水車が繋がっていてこのようには見えません。稀な機会であるのは間違いありません。

 

 大型の機関車ですからボイラーも大きくて、運転席も広くてゆったりした空間を持っています。操作機器のハンドル類もあまりゴチャゴチャと付いていない感じで、ボイラー本体の広い壁面が印象的でした。

 

 隣の線路に置いてあった炭水車です。その後部台車が手前に引きだしてあり、これが事故で脱輪した台車なのかどうかは分かりませんでしたが、どこにも破損個所はみえず、修理も完了しているもののように感じられました。いずれは元のように「SLスチーム号」の牽引運転に復帰するのでしょうか。

 この2号機は、周知のように除煙板にステンレス製の「つばめマーク」が取り付けられており、「スワローエンゼル」の愛称で親しまれてここ梅小路機関車庫の顔として知られます。

 

 C62形2号機の隣には、既視感のあるディーゼル機関車が居ました。嫁さんが「あっ、あれ、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車の機関車じゃない?・・・ナンバーも同じですよね、ね?ね?」と嬉しそうに指さしながら私の肩を揺すりました。

 その通り、以前に嫁さんと嵐山のトロッコ列車に乗りに行った時の牽引機関車、DF-10形の1104号機でした。当時のレポートはこちら

 

「わー、ほんまにここの所属機なんだあー、定期的にメンテナンスを受けてるわけですねえ」
「そうやな、嵯峨野観光鉄道はJR西日本の子会社やから、これの整備もJR西日本に委託してるんかもな」

 

「これがここに居てるってことは、いまのトロッコ列車は別の機関車が引いてるってことですよね」
「予備機があると聞いてるが。何号機なんかは知らんけど」
「ちょっと調べますね・・・、(しばらくスマホで検索)・・・分かりました、1156号機です。これと同じ塗装ですけど、籍はJR西日本の所属ですって」
「まあ、そうなるやろうな。嵯峨野観光鉄道には引込線も検車区も無いからな、線路は嵯峨野線に繋がってるし、ここまで持ってこられるから、予備機も整備もJR西日本が受け持つことになってるわけやな」
「そういうことですねえ」

 

 庫内の一番端の駐機線には、上図の7100形7105号機「義経」号が居ました。
 7100形は、日本国有鉄道の前身である鉄道院、鉄道省が、1880年の北海道初の鉄道(官営幌内鉄道)の開業にあたってアメリカ合衆国から輸入したテンダー式蒸気機関車8輌のうちの1号機です。大正期には全車が廃車となり、そのうちの3輌が現存しています。1輌は「弁慶」号の名で埼玉の鉄道博物館に、もう1輌は「静」号の名で小樽市総合博物館に展示されています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館9 梅小路機関車庫のSLたち 上

2025年03月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 梅小路機関車庫の引込線内の約1キロを往復する、上図の体験展示「SLスチーム号」がホームに停まっていました。嫁さんに「どうする?乗る?」と聞きましたが、「見てるだけでいいです。あれって、客車が窓無しの開放タイプでしょう、蒸気機関車の煙とか煤とかが飛んできて、服についたりするの、あかんですので・・・」と少し残念そうに答えました。

 

 C56形160号機です。160輌が製造されたC56形のラストナンバー機で、1939年に川崎車輌兵庫工場にて製造されました。戦前は津山機関区、戦後は鹿児島機関区や横浜機関区を経て、1964年から上諏訪機関区に移り、小海線や飯山線や七尾線などで運用されました。
 ここ梅小路運転区へ移ったのは1972年で、以後は動態保存機となり、SL北びわこ号やSLやまぐち号の牽引機関車として活躍しましたが、2018年に本線運転を終了し、現在に至っています。

 

 正面観です。嫁さんが「この形式が、大井川鐡道千頭駅のジェームスですよね?」と言いました。その通り、大井川鐡道では同じC56形の44号機が動態保存機となっていますが、不具合のために長らく運用されておらず、千頭駅のトーマスコーナーにて赤い車体のジェームスに扮しています。

 それとは別に、大井川鐡道ではもう1輌、135号機が兵庫県の播磨中央公園から移されて現在は動態復元工事を受けているそうです。その復元工事は大井川鐡道の「創立100周年記念チャレンジプロジェクト」の一環として、費用がクラウドファンディングによって集められました。
 私と嫁さんも、ささやかながらそのクラウドファンディングに参加しましたので、135号機が大井川鐡道本線を走る日を楽しみにしています。

 

 さらに嫁さんは「これ、カトー・・・」と呟きました。その通り、カトーが販売しているNゲージ製品がこの160号機を忠実にモデル化しています。マイクロエースからも出ていますが、我が家では大井川鐡道のジオラマ用として、44号機や135号機と同じ初期型タイプのほうをマイクロエースの製品で購入しています。

 上図の160号機は後期型で、大井川鐡道の44号機や135号機の初期型との相違点は、デフレクターの点検窓がある、テンダー後部のヘッドライトが高い位置にある、等が挙げられます。

 

 梅小路機関車庫の保存機の見学に移りました。一番右端の待機線には上図のB20形10号機がありました。嫁さんが「Bってことは動輪が2つですねー、小っちゃい機関車ですねー」と言いました。

 B20形は、日本国有鉄道の前身である運輸通信省(のちに運輸省に改組)が第二次大戦の末期から終戦直後にかけて製造した入換作業用の小型タンク式蒸気機関車です。戦時中に規格生産されたため、徹底した資材節約と工数削減化がはかられて生産性重視の省力構造とされ、製造数も15輌と必要最低限にとどめられています。現存するのはトップナンバーの1号機とこちらの10号機のみで、こちらは動態保存となっていて、いまでも時折機関車の入換作業に使われています。

「これって、山陰線でも運用されてたんですかね?」
「どうやろうな、戦時中の製造やから材質も工作精度も悪かったやろうし、おおかたは終戦後に整理されちゃったと聞いてるし・・・。残ってても機関区内での入換作業にしか使わなかったみたいやから、鉄道マニアの方が撮る機会も稀やったろうし、蒸気機関車の昭和の写真集とかは沢山あるけど、B20形の写真図版ってのは見たことないなあ・・・。山陰線にも配置されてたか、てのは分からんね・・・」
「お義父様の鉄道関係の資料とかにも無いんですか?」
「無いと思う。B20形は完全な国策による統制規格型の機関車やから、製造は当時の鉄道省が全部やってて、民間の工場は立山工業(現在の大谷製鉄)が終戦後にタッチしたぐらいか」
「じゃあ、これ、この10号機は鉄道省の?」
「いや、戦時中に鉄道省が造ったんは5輌やから、あとは終戦後に立山工業が10輌を追加製造してるんで、この10号機も立山工業製やろうな」

 

 B20形の隣から扇形車庫内の展示機の並びになりました。その最初は上図のC59形でした。
 C59形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計した、幹線旅客列車用テンダー式蒸気機関車の一種です。1941年から1947年までに173輌が製造され、東海道線や山陽本線などの主要路線で特急列車を牽引、お召列車にも充てられるなど、C62形の登場まで国鉄特急の花形として活躍しました。いま現存するのは、この164号機を含めて3輌です。

 

 次はC53形の45号機でした。C53形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省がアメリカから輸入したC52形を参考にして国産化したテンダー式蒸気機関車の一種です。1928年から1930年までに97輌が製造され、各地の主要幹線での急行列車牽引機関車として活躍しました。現存するのは、この45号機のみです。

 

 次はD52形468号機でした。マンモス機関車の俗称の通り、大きくてがっしりした武骨な姿が印象的です。
 D52形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が戦時中に設計した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。戦時輸送のために導入された大型貨物用蒸気機関車であり、資材不足に対応した戦時設計となって1943年から1946年までに285輌が製造されました。
 しかし、戦時中の粗製乱造などがたたって粗雑な製造個体が多かったため、戦後に相当数が性能悪化で廃車となり、また改造されてC62形やD62形へと転じたため、1962年時点で在籍していたのは154輌であったそうです。全国各地の主要路線で貨物列車牽引の主力として活躍し、いまはこの468号機を含めて7輌が保存されています。

 

 次はD50形の140号機でした。
 D50形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が戦前に設計した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。開発当初は9900形と呼ばれましたが、1928年からD50形に形式変更されました。1923年から1931年までに380輌が製造され、9600形に代わる強力な機関車として置き換えられて全国各地の主要路線で活躍しました。信頼性の高さから、後継機のD51形が登場した後でも併用して運行され、さらに78輌がD60形に改造されて延命されました。現存するのはここの140号機を含めて2輌のみです。

 

 次は嫁さんがお気に入りのC58形の1号機でした。山陰線でも活躍していたからです。
 C58形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省、運輸通信省、運輸省が開発した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。ローカル線用の客貨兼用として設計され、 1938年から1947年までに431輌が製造されました。性能も良く、貨客両用の万能機として重宝され、任務も列車輸送のほか本線入換や支線運用など多岐にわたり、全国各地のローカル線や都市部の入換用として使用され、千葉、和歌山、四国全域では主力機関車として活躍しました。
 山陰線においては、浜田、福知山、豊岡、西舞鶴の各機関区にあわせて10輌前後が配置され、嵯峨野線での運用もみられて昭和期の京都駅までの旅客および貨物列車を牽引する姿が多数の写真集などに残されます。
 各地で活躍して親しまれたため、現存数も多く、ここのトップナンバー機をはじめ全国各地に40輌余りの静態保存機と2輌の動態保存機があります。

 

 次のC55形もトップナンバー機でした。
 C55形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計した、亜幹線旅客列車用の中型テンダー式蒸気機関車の一種です。1935年から1937年までに62輌が製造され、本州や九州や北海道の幹線および亜幹線へ配置されて活躍しました。強化型であるC57形がすぐに登場して大量製造されたため、その陰にあって目立たない存在でした。が、性能や使い勝手が良好であったことにより、北海道や九州においてはC57形よりも長く運用されていたそうです。
 ただ、本州では比較的早期に廃車となったため、現存機もここの1号機を含めて4輌しかありません。

 

 次は、梅小路機関車庫の顔とも言うべきC62形の、これもトップナンバー機です。
 C62形は、日本国有鉄道が運用した最後の旅客用テンダー式蒸気機関車です。D52形からの改造という名義で、1948年から1949年にかけてで49輌が製造され、輸送量を要求される東海道本線、呉線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用されました。C59形の後継機として特急列車の花形となり、1950年より特急「つばめ」および「はと」を牽引、寝台特急の「あさかぜ」「みずほ」「はやぶさ」等の牽引車としても活躍、日本の蒸気機関車の歴史の最後の華として輝かしい実績を残しました。
 現存するのは5輌で、うち1号機を含めた3輌がここ京都鉄道博物館の展示機です。2号機は車籍もあって動態保存となっていますが、2024年の1月に操作ミスによる脱輪事故を起こし、このときは庫内での修理作業の最中でした。

 

 その隣には客車が後尾を前にした状態で置いてありました。マイテ49形の2号車です。先月10月の14日の「鉄道の日」に準鉄道記念物に指定されたということで、それを記念して特別に公開されていたものでした。

 マイテ49形は、日本国有鉄道が製造した展望車の一種で、もとは日本国有鉄道の前身である鉄道省が1929年から製造した20メートル級鋼製客車の形式である国鉄スハ32系客車の一種でした。当初はスイテ37040形と呼ばれましたが、戦後の形式変更によりマイテ49形となり、1960年に廃車となりました。

 その後は大阪の交通科学博物館に保存されていましたが、1987年に車籍復活させてJR西日本が引き継ぎ、山口線の「SLやまぐち号」をはじめとするイベント列車や団体臨時列車で運用しました。2022年に日本の鉄道開業150周年記念の一環として京都鉄道博物館への収蔵が決まり、現在に至っています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館8 梅小路機関車庫へ

2025年03月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館の二階にあがりました。建物は中央が吹き抜けになっていて、上からメイン展示の特急電車車輌3種を見下ろせます。

 

 嫁さんに続いて、ぐるりと回りました。鉄道車輌を上から見下ろす機会は滅多にありませんが、鉄道模型Nゲージではいつものことなので、ああこの車輌はNゲージでも見たなあ、天蓋の形状とかそのまんまだな、などと思い出したりしました。

 

 二階の展示には模型が多く、上図のNゲージの車輌も沢山並んでいました。鉄道模型店のショーウインドーよりも大きく長い展示スペースはさすがに迫力があり、各種の編成の列車が並んでいてもまだスペースに十分な余裕がありました。

「これ、Nゲージの色んな列車、ここの所蔵品なんですかねえ?」
「たぶんそうやろ、もとは大阪の交通科学館にあったのを引き継いでるかもしれん」
「あっ、そうか、そうですよね」
「ざっと見ると、殆どはJR西日本所管の列車みたいやな」
「でも外国の列車も混じってますよ・・・」

 

 こういう展示は、最近にNゲージにはまり出して熱中している嫁さんにも私にも、興味深くて楽しいものでした。みんな欲しい、全部買い揃えたらいくらかかるんだろう、と嫁さん。

 

 二階の展示を一通り見て回りました。半分ほどはジオラマ展示で、子供たちや家族連れのたまり場になっていましたので、それらは避けて進みました。順路に沿って最後まで行くと、連絡デッキへの通路に出て、上図の景色が見えました。東寺の五重塔が見えました。

 

 連絡デッキを渡ると、SL第二検修庫と呼ばれる建物の頂上を通って下へ降りる階段がありました。SL第二検修庫の頂上には見学用の窓があり、のぞくと上図のようにSL第二検修庫の内部が見下ろせました。
 C系蒸気機関車のものとみられる大きな動輪が三つ、レールの上に置かれていましたが、それ以外の本体や部品が見当たりませんでしたので、どこかへ修理か検査に出しているのだろうか、と思いました。

 

 SL第二検修庫の頂上から下りていく階段は、東つまり京都駅の方向に向かっています。それで東海道線や山陰線の線路も望まれます。手前には引込線や駐機線が並びますが、左側の線路は京都鉄道博物館の専用線であるらしく、蒸気機関車が2輌見えました。

 

 階段を下りながら左手、北を見ると、御覧のように梅小路機関車区の扇形車庫が見えます。中心の転車台から扇形車庫内へ伸びる線路の殆どに蒸気機関車が停まっているのが圧巻です。このエリアは、昔に見た梅小路蒸気機関車館の姿そのままであるようでした。これを取り込んで展示エリアの一角に組み込んだのが、いまの京都鉄道博物館であるわけです。

 

 再び、引き込み線の左端の駐機線に停まっている蒸気機関車2輌に視線を戻し、デジカメの望遠モードで引き寄せて撮りました。9600形でした。ナンバープレートは9633ですから、9600形の34号機にあたります。

 

 9600形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が1913年から製造した、最初の本格的な貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車です。誕生当時の正式名は「鉄道院第九六〇〇號形式機関車」であり、1926年までに770輌が製造されました。
 「キューロク」の愛称で親しまれ、四国を除く日本全国の各路線で長く活躍しました。国鉄においては最後まで稼動した蒸気機関車でもあったため、石炭貨物列車に使用されていた北海道および九州を中心に、全国各地にいまも多数の静態保存機が残されています。

 ここの9633は、2006年に「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として準鉄道記念物に指定されています。1972年の梅小路蒸気機関車館の開館当初は車籍を有する動態保存車でしたが、現在は除籍され静態保存となっています。

 

 西に傾きつつある太陽がナンバープレートにまともにあたって、数字が見えにくいほどに輝いていました。車体が黒いので、金色の光彩が対照的にピカーッと目にも刺さってくるのでした。

「わー、まぶしい、まぶしすぎますー」
「ナンバープレートの枠とか数字が金色やもんな・・・」

 

「そういえば、これのNゲージ、持ってましたよね?・・・大井川鐡道の機関車、でしたかね?」
「うん、千頭駅に居るトーマスファミリーのヒロや」
「あ、あれも9600形なんですか。デゴイチかと思ってました・・・」
「ああ、あれはデフ板と砂タンクが付いてるから、パッとみたらD51形にも見えるな」
「そのヒロの9600形のナンバーは?」
「確か、49616やったと思う・・・」
「そうすると、4かける100に16プラス1を足して、417号機ですか」
「もう付け番の計算式、覚えてんやな」
「それはもう、教えて貰った事はしっかり覚えますよー」

 

 9600形の後ろには、上図のC61形2号機が停めてありました。C61形は、1947年から1949年にかけて、D51形のボイラーを流用して製造された日本国有鉄道の急行旅客列車用テンダー式蒸気機関車です。33輌が製造され、主に東北や九州で活躍しました。東北本線、常磐線、奥羽本線、日豊本線、鹿児島本線などの地方幹線に配属され、旅客列車を中心に多くの列車を牽引しました。

 上図の2号機は、D51形1109号機の改造機として1948年に三菱重工業三原工場で製造され、仙台機関区(現・仙台車両センター)の配属となって、東北本線や常磐線で活躍しました。のちに宮崎機関区に転属し、日豊本線で使用されたあと、1972年に梅小路機関区に移されて現在に至ります。
 いま4輌が現存するうちの2輌の動態保存車の片方で、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定されており、2018年頃まで引込線内にて「SLスチーム号」の牽引機として稼働していました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館7 目玉の車輌たちとSLナンバープレートの数々

2025年03月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の続きです。中央のメインホールに並ぶ3輌の車輌は、いずれもJR西日本を代表する特急車輌として知られます。上図は前回紹介した489系のクハ489形1号車です。

 

 その隣には583系のクハネ581形35号車が並びます。国鉄が設計し製造した動力分散方式の交直両用特急形寝台電車の一種です。1967年から1972年までに434輌が造られ、全国各地の主要路線で夜行列車および昼行特急として活躍しました。JR西日本での最後の列車の運行は2013年の事でした。

 

 嫁さんが「これも昭和の電車って雰囲気ですねえ、引退してから10年ぐらいですから平成にも走っていたわけですねえ」と言いました。

「君はこれを例えば京都駅とかで見たこと無いのかね」
「うん、無いと思いますね。ここで初めて見た気がするので・・・。乗った事あります?」
「あるよ、敦賀や金沢へカニ食べに行ったな。これの特急「雷鳥」に何度か乗ったけど、デザインカラーがこれと違ってた気がする。山陰線特急カラーみたいなグレー系やったと思う・・・前面がグレーで下に白の横線が何本か並んでて、側面は窓周りのブルーの下に黄色のラインが引いてあったかな・・・」
「あー、それNゲージで見たことありますよ、トミックスの特急「きたぐに」でしたかね」
「あっ、そうやな、それや。「きたぐに」は大阪から新潟まで行くけど同じ北陸線を走るから、車輌を「雷鳥」でも使ってたんやろうね」
「雷鳥って、いまのサンダーバードのことですよね」
「そうやな。むかしは「ライチョウ」と呼んだけど、車輌が新しくなった時に「サンダーバード」と改称したんやろな」
「雷鳥を英語で読んだらサンダーバードになるわけですねえ」
「え?・・・いや違うで。雷鳥は英語でグラウス(Grouse)や。サンダーバード(Thunderbird)ってのはアメリカインディアンの伝説に登場する雷鳴と稲妻の精霊のことや」
「ええ、そうなんですかー」

 

 こちらは新幹線の500系、521形の1号車です。最近まで東海道・山陽新幹線で「こだま」として普通に走っていたので嫁さんも私も何度か乗っています。現在も山陽新幹線で「こだま」として現役の数編成が走っていますが、次代のN700系への置き換えが進んでいるそうで、2027年には全廃される予定だそうです。

 

 500系は、JR西日本が独自に開発し製造した新幹線車輌です。自社路線の山陽新幹線の、航空機への競争力強化の一環として、車体強度・台車強度・力行性能などのすべてを320キロ運転対応として設計したもので、1996年から1998年までに16輌編成9本の合計144輌が製造されました。144輌の最低限数にとどまったのは、1輌あたりの製造コストが3億円を超えるという高コストの車輌であったためでした。

「コストが高かったから廃車になるのも早かったんですかねえ」
「それもあるやろうけど、500系ってのは、山陽新幹線の線形に合わせて開発されて320キロを出せるけど、東海道新幹線のほうは線形の関係で320キロを出せないの。確か上限が270キロまでやったと思う。それで500系は性能的には過剰やったんで、それでコストも高いときてるから、すぐにJR東海とJR西日本が共同で次世代の車輌の開発にとりかかって、それで出来たんが現行のN700系なわけ。そっちのほうがコストも安くて、東海道と山陽を通しで走らせても問題ないから、N700系は2992輌も造られて新幹線の主力になってて、いまは最新型のN700S系に発展しとるというな」
「なるほどー」

 

 嫁さんが「こうしてみると、この3輌、JR西日本の昭和、平成の代表的な特急電車を並べてるわけですねー」と言いました。同時に、運行当時に最も人気があった特急電車の車輌3種を並べている、という形でもあります。

 

 メインの特急車輌3種の向かいには、上図の230形蒸気機関車の233号機があります。
 230形は、日本国有鉄道の前身である逓信省鉄道作業局(官設鉄道)が発注したタンク式蒸気機関車です。日本にて量産が行われた最初の蒸気機関車の形式であり、日本で2番目の民間機関車メーカーである汽車製造会社が初めて官設鉄道に納入した機関車です。

 

 案内説明板です。230形機関車は43輌が製造されましたが、現存するのは2輌のみで、こちらの233号機は保存状態が極めて良好です。1959年の廃車後、1967年から2014年まで大阪の交通科学博物館で展示されていたものを、こちらに引き取ったわけです。
 2004年に鉄道記念物、2007年に機械遺産、そして2016年に国の重要文化財に指定されています。日本最初の量産型機関車であることにより、国内の鉄道遺産の最高ランクの資料として認定されたわけです。

 

 案内説明板はもう一種ありました。さっきのは国重要文化財の説明板で文化庁が設置したものですが、こちらは京都鉄道博物館の設置分です。

 

 続いて嫁さんが注目していたのが、本館内の北壁にずらりと貼られたナンバープレートの列でした。大半は蒸気機関車のものですが、一部に電気機関車やディーゼル機関車の分も混じっています。

 

 ナンバープレートは右から古い順に貼られているようです。一番最初が1800形の2号車のナンバーで、これは館内に展示されている1800形機関車がもと付けていたものです。

「その次の番号って、28686てありますよね、28626形の機関車だったんですかね?」
「いや、あれはハチロクや。8620形蒸気機関車のことで、28686ってのは、ええと、ええとな・・・、計算するからちょっと待って・・・、よし、167やな、つまり8620形の167号機」
「えええ・・・、なにそれ・・・、28686が167号機って、全然分かんない・・・、ナンバープレートに6の数字はあるけど1と7の数字は無いじゃないですか・・・」
「やから、これは8620形独自の番号の付け方があるんよ・・・、千の単位の8と百の単位の6はハチロクの通し番号なの。これはずっと変わらない。番号の付け方は80進法なんで、万の単位の数字は80でかけるの。それから十の単位は8620形の20から付けてるんで、計算では十からの2ケタの数字は20で引くの。そういう独自の計算式があってな、正確には万の位の数字かける80、プラス十の単位からの二桁の数字から20を引いた数字、これにプラス1で、付番が決まるの。分かるかな・・・」
「うーんと、じゃあ28626は、2かける80で、プラス26から20を引いて、これにプラス1なの?全部足したら167、あー、167番ってわけですねー」
「そうそう、じゃあ、あの右端の38636って分かる?」
「3かける80の、プラス36から20引いて1をプラス、で240プラス17だから257、・・・257番?」
「そう。理解出来た?」
「なんとか・・・、そうなんだあ、8620形のナンバーってそうやって付けたんですか、なんか驚き・・・、でもなんでそんなややこしい付け方になったんですか?」
「説明するとやな、8620形の1号機は8620やから2号機は8621になる。それで順番に付けて行くと80号機で8699になる、やろ?」
「うん」
「すると81号機は8700となるんだが、当時は8700形機関車というのがあってな、その番号とダブるから、81号機は万の単位の数字を追加して18620としたわけ」
「へええ、18620・・・、計算すると80のゼロの1でプラスして81・・・、なるほど81番ですねえ、そうすると82号機は18621になる?」
「そう、そういう番号の付け方になる」
「うわあああ・・・、なんか凄い知識を覚えた気がするー。こんな計算の仕方、よく知ってますねえ・・・」
「父に教わったからね・・・」
「あっ・・お義父様に・・・そういえば鉄道の技術者だった方ですね・・・そういった計算式は基礎知識ですよね」
「だから8620形だけじゃなくて9600形、キューロクの付け番の計算も教わった」
「9600形蒸気機関車の?・・・大井川鐡道の千頭駅にあるヒロの元の機関車?」
「うん、あれに見える29642とか39621とかが9600形のナンバーや。千の単位の9と百の単位の6はキューロクの通し番号なんで、その96の数字が付いてたら全部9600形になる」
「番号はどう計算するんですか?」
「キューロクの場合は万の位の数字を100でかける、それと、十の位からの2ケタの数字にプラス1、これを全部足せばええんや」
「じゃあ、29642は、2かける100、42に1プラス、全部足して243、243番?」
「そうです」
「わーい、また覚えました。いつか誰かに自慢してやろうっと・・・」

 

「ナンバープレート、色んな機関車のを集めてありますね、かつて存在したのが廃車になったときに、ナンバープレートだけ残したんですね」
「そうやな」

 

「するとCはC11から始まってますけど・・・、あれ?・・・大井川鐡道で走ってるのC10ですよね?」
「ああ、C10形から始まるんやが、C10形は製造数が23輌しか無かったんで、ナンバープレートも回収出来なくてここには無いんやな」
「そうなんですかー」

 

「するとCが付く蒸気機関車は11、12と50から並んで、最後は63が見えるので、C63形までがあるわけですね」
「え?」
「えっ、何?」
「いまC63形と言わなかった?」
「うん、C63形まで」
「それはおかしいで。C62形までが存在したけど、C63形ってのは無かったんや」
「じゃあ、なんでナンバープレートがあるんですか?」
「えっ?」

「ほら、あの一番下の赤いの、C63形の1号機のナンバーですよね?」
「えー、マジか・・・、製造されてないのになんでナンバープレートが残されてるんや・・・」
「製造されてない・・・、でもNゲージのマイクロエースでC63形っての見たことありますけど・・・」
「Nゲージのは架空の機関車をモデル化してるだけやで、史実とゴッチャにせんといてくれ・・・、実際には設計段階で開発中止になってん、幻の蒸気機関車と言われるんや」
「ふーん」
「にもかかわらず、ナンバーが残されたのか。・・・と言う事は、試作機を造る直前まで段取りが進んで、そのナンバープレートを先行して製作したのかな・・・、そんなケースはあんまり聞いたこと無いけどな・・・」
「じゃあ、あの赤いナンバープレートは本物と違うんですか?」
「わからんね・・・、かと言って、レプリカにも見えないし・・・、ちょっと調べてみるわ・・・」

 

「Cの次のDは、D50から始まってますね、D51、D52、D60、D61とありますよ、D61形で終わりなんですね」
「え?」
「え?なに、違いますの?」
「D61形で終わりじゃない、次のD62形もあったよ。20輌しか無かったけどな・・・」
「D62・・・、のナンバープレートはあそこには無いですよ」
「そうか、もともと数が少なかったから、回収出来なかったわけか・・・」

 こんな調子で、ナンバープレートの見学だけで30分余りも過ごしていたのでした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館6 昭和の時代と連絡船ジオラマと鉄道記念物

2025年02月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の一角には、昭和の駅を再現したセットや関連の展示コーナーがあります。上図はダイハツのミゼットです。1957年(昭和32年)から1972年(昭和47年)まで生産されたといいますから、昭和41年生まれの私も子供の頃には見ている筈なのですが、あまり記憶がありません。
 むしろ、中古車とか廃車の残骸とかのほうをよく見た覚えがあります。当時の自動車で、子供の頃の記憶に一番残っているのは、車好きだった浜松の叔父が乗り回していたスバル360やカローラの初代です。

 

 昭和の駅を再現したセットです。何とかそれらしく再現しているようですが、私自身はゆるキャン聖地巡礼にて大井川鐡道や天竜浜名湖鉄道の昭和の古い駅舎群を見慣れているせいか、こちらのセットはただのニセモノにしか見えませんでした。

 このような白壁が小奇麗な和様の駅舎というのは、各地に現存する昭和の駅舎建築においてはあんまり見たことが無く、どちらかと言えば明治期、大正期の駅舎に多いようです。昭和においては、洋風か和洋折衷の建築が当時の流行りであったように思います。

 

 内部はお決まりの昭和グッズ類の展示でしたが、私の子供の頃よりは少し前の、昭和30年代のそれがメインであるように感じました。例えば右端のテレビですが、私の家にあったカラーテレビよりも古めかしく見えます。円卓もあんまり見かけませんでした。家も親戚の家でも、方形の座卓が普通だったからです。

 昭和レトロの資料館は各地にありますが、多くは昭和初期から末期までの展示品を網羅しているケースが多いです。ここの展示の基調は全体的に昭和30年代ぐらいに限定されているのでは、と思います。

 

 こちらは鉄道連絡船のコーナーで、最も大きな1/80スケールの模型展示です。国鉄の青函連絡船の八甲田丸です。もとは大阪の交通科学館にあったもので、津軽丸型の第2号船として浦賀重工業浦賀工場にて1964年に竣工した当時のマリンブルーとホワイトの塗装にて再現されています。

 嫁さんも目を輝かせて「これすごーい、船ってやっぱりいいですねええ」とケースに貼りついて何枚もスマホで撮り、続いて視線を低くして見上げるようにして眺めつつ、「船の模型って、ロマンがありますねえ」と言いました。

 こういう模型の実物を見たかったなあ、と言うので、この八甲田丸は確か今も現存していて、青函連絡船の歴史を伝える海上博物館として公開してるよ、と説明すると、「えええー、それ見たい、見に行きたいです」と両手をバタバタさせて足踏みしていましたが、「青森まで行くんかね」と言うと「えええ・・・、青森ですかあ・・・、遠過ぎます・・・」と小声になってゆくのでした。

 ですが、八甲田丸は私も見たいので、「いつか機会を見て行こうか」と話しました。嫁さんが「本当?」と笑顔をはじかせて、何度も大きく頷いたのは言うまでもありませんでした。

 

 こちらは宇高連絡船(うこうれんらくせん)の高松桟橋のジオラマ展示です。宇高連絡船は、かつて岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた日本国有鉄道および四国旅客鉄道(JR四国)の航路(鉄道連絡船)で、1988年に瀬戸大橋が開通して瀬戸大橋線が開業したのにともない、廃止されました。

 昭和61年、大学二回生の夏休みに友人たちと4人で四国の文化財探訪旅行に行った際、この宇高航路のホバークラフトに乗った事があります。確か「とびうお」号だったと思います。当時は瀬戸大橋も明石海峡大橋もまだありませんでしたから、四国へ行くには船で渡るしかありませんでした。

 大阪で集まって新幹線と宇野線を乗り継いで終点の宇野駅まで行き、そこから歩いて桟橋に行き、乗ってから30分もかからずに高松桟橋に着いたのでしたが、独特の重低音の振動と時速80キロに達する高速にヒビらされ、並航する鉄道連絡船を何隻か追い越していき、そのたびに友人達が写真を撮っては騒いでいたのを覚えています。

 その際に、このジオラマ模型の高松桟橋の実際の景色も見ている筈なのですが、写真を撮っていないので、覚えているのはオレンジ色の船体が鮮やかな連絡船伊予丸の姿だけでした。

 その伊予丸もジオラマ模型の中で精密に再現されています。上図右上の、桟橋第一岸に接岸中のオレンジ色の船体の一番大きな船です。

 

 ジオラマには、当時の宇高連絡船の幾つかが再現されています。右奥に桟橋第一岸に接岸中の伊予丸、その手前の第二岸に接岸中の第三宇高丸、その手前の第三岸に接岸中の眉山丸が並びます。ジオラマケースのどこにも説明板が見当たらなかったので、手前の小型の2隻については名前が分かりませんでした。

 嫁さんは「すごい完成度の高いジオラマですねえ、これ昔の高松駅の桟橋なんですか、いまは全然残ってないんですか・・・」と感心し、驚き、そして残念そうにじっくりと観察していました。

「ああいうふうに線路が通って、船が接岸すると線路が繋がって、船内に列車が入っていくんですねえ・・・、なんかすごいなあ・・・」
「瀬戸大橋が無かった頃は、貨物列車をこうやって船で運んだわけやな。旅客列車は本州と四国とで別々に走ってるから、乗り換えれば済むけれど、貨物列車は例えば四国から東京まで荷物を運んで行くから、こうやって連絡船に列車ごと載せて運んだわけ」
「じゃあ、橋が架かってなかったり、トンネルが無かったりした時代の九州とか北海道とかへも鉄道連絡船で結んでいたわけですね」
「そう。国鉄のは関森、青函、宇高の3航路やけど、私鉄や民間のは沢山あった」
「関森って、どこですか?」
「本州と九州を結ぶ航路。山口県の下関駅と、福岡県の小森駅・・・いや違った、小森江駅やったな・・・、関門トンネルが開通したんで廃止された」
「ふーん・・・、いまは鉄道連絡船はどこも無くなってしまってるんですか?」
「いや、あるで。近畿やったら、南海電鉄がやってる南海フェリーてのがある」
「南海フェリー・・・、初めて聞きました・・・」
「僕も乗った事無いけど、昔、仕事で何度か和歌山へ行った時に一度だけ和歌山港駅まで乗って行ったの、そん時に徳島港行きのフェリーが接岸してたの見たな」
「それって、徳島に行くんですか、車で明石海峡大橋渡って徳島へ行くのとではどっちが近いんですか?」
「そりゃあ、車で明石海峡大橋のほうやろうな・・・、フェリーで行く場合は難波から和歌山港まで特急サザンで行ったら一時間ちょっとやろ、フェリーが二時間ぐらいやから、大阪から徳島まで三時間で行ける。JRで行くと瀬戸大橋を渡るんで岡山へ迂回するから、三時間じゃ着けないと思う。車で行ったら明石海峡大橋渡って二時間ちょっと、これは実際に車で行ったことあるんで覚えてる」
「でもフェリーで行くの、なんか楽しそうですね」
「僕もそれを思ったの。四国へ旅行する機会があったら、南海フェリーで行ってみる?」
「うんうん、行く、行きたい、鉄道連絡船っての絶対乗って体験したいです・・・」

 

 それから嫁さんは、ハッと気付いたような表情になって、ジオラマの線路のあたりを指差して言いました。

「これって、よく見たらNゲージじゃないですか?」
「そのようやね」
「じゃあ、この船の模型も全部1/150スケールなんですねえ」
「そうやな」
「これ、売ってませんかね?」
「トミックスもカトーもこんなん出してないやろう、ここの展示用に特別に制作されたものやろうな」
「もし売ってたら、絶対欲しい、連絡船あったら、買いますよ?」
「君の山陰線ジオラマには海は無いやろ?」
「うん、海は無いですから、川に浮かべます」
「大堰川にか・・・?・・・冗談やろ・・・?」

 

 鉄道連絡船ジオラマ展示の近くには、上図の古い電気機関車が展示されています。EF52形1号車です。
 嫁さんが「これもトップナンバーですねえ、貴重ですねえ」と言いました。現存するのはたった2輌で、一般公開されて常時見られるのはこちらの1号車だけですから、貴重なのは間違いありません。

 

 EF52形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が、1928年から製造した直流用電気機関車の一種です。1931年までに9輌が製造され、戦前は東海道線で活躍、戦後は阪和線や中央東線などで運用されました。
 最後の車輌が廃車となったのは1975年で、以降は1号機と7号機の2輌が現存しています。7号機は、製造元の川崎重工業の兵庫工場に保管されて一般には原則非公開となっているため、こちらの1号機が唯一の見学可能車輌となっています。

 この1号機はもと大阪の交通科学博物館に静態保存されていたもので、1978年に準鉄道記念物に指定され、2004年に鉄道記念物に昇格しています。2014年の交通科学博物館の閉館後、2016年からここ京都鉄道博物館で保存展示されています。

 

 そのEF52形のインテリア表示模型もありました。模型が大好きな嫁さんは、これにも目を輝かせて「この模型すごーい、て言うか欲しい・・・、家に飾ってあったらずっと見てても飽きないですよ」と言いました。

 

 ですが、こうしたインテリア表示模型が造られたのも、実車が鉄道記念物に指定されているからです。そのため、保存上の観点により内部を公開するのが難しいですから、こうして模型にて内部が分かるようにしてあるわけです。

 それで、嫁さんが「鉄道記念物、って文化財と一緒の扱いなの?文化財保護法とかの対象?」と訊いてきました。文化財保護法とは関係無い、国鉄が1958年に制定した、日本の鉄道に関する歴史的文化的に重要な事物等を指定して保存、継承するための制度や、と説明しておきました。
 国鉄がJRに変わって以降は、2004年からJR西日本がこの制度を引き継いでおり、2010年にはJR北海道もこの制度を踏襲して新たな物件の指定を行なっています。

 

 さらに嫁さんは「鉄道記念物と重要文化財ではどっちが先で、どっちが上になるんですか?」と訊きました。重要文化財のほうが先で上だ、と返しておきました。

 重要文化財とは、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指します。そして、重要文化財のうち、世界文化の見地から特に価値の高いものを国宝に指定します。

 現在の文化財保護法では1950年からの指定分を指しますが、それ以前は1897年からの古社寺保存法および1929年からの国宝保存法による指定分があり、それらの呼称は「国宝」および「特別保護建造物」でした。これらも1950年からの文化財保護法により一括して「重要文化財」として再指定する形をとっています。

 なので、重要文化財の歴史は1897年から始まります。鉄道記念物のほうは1958年に制定されています。前者は日本国政府が指定しますが、後者は国鉄の指定となります。重要文化財のほうが先で上、であるわけです。

 

 続けて上図のもっと古い蒸気機関車を見ました。嫁さんが「40号機関車?」と言いましたが、違いました。

 

 説明板によれば、1800形1801号機であるそうです。1800形は、国鉄の前身である工部省鉄道局が輸入したタンク式蒸気機関車の一種です。東海道線の京都・大津間の開業にともない、同区間に介在する急勾配に対応するため、1881年にイギリスのキットソン社から8輌が輸入されました。そのうちの唯一の現存車輌です。

 高知鉄道、東洋レーヨン滋賀工場を経て1964年に国鉄へ寄贈され、大阪の交通科学博物館に静態保存されていたもので、1965年に準鉄道記念物に指定され、2004年には鉄道記念物に格上げされています。
 ナンバーの「40」は復元であり、1800形の2号車として1893年当時の鉄道作業局(後の鉄道院)の改番手続きにて40と付け番された経緯にちなんだものです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館5 模型と貨車とエンジン

2025年02月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の本館一階の続きです。上図の103系のカットモデルを見ました。車体の三分の一ほどが展示され、横のホーム状のステップ段から中に入れるようになっています。これも大阪環状線を走っていた車輛のようですが、さきにプロムナードで見た1号車とは別の個体であるようです。

 ですが、館内の展示車輌配置図には載っていません。このようなカットモデルは車輛ではなくて展示ディスプレイの一種として扱われているのでしょう。

 

 こちらは蒸気機関車の内部を見られるように作った模型です。各部名称の札があちこちに貼ってあるので、蒸気機関車の各パーツのそれぞれの名前が分かります。説明板を見忘れましたが、嫁さんに聞いたところではC58形だったようです。

 

 蒸気機関の罐の内部構造がよく分かります。以前に嵐山のトロッコ嵯峨駅の19世紀ホールでD51形のカットモデルを見た事があり、その記憶とあわせるとより理解が深まりました。

 

 こちらはDF50形ディーゼル機関車の模型です。これも内部構造が分かるように示されたカットモデルです。トップナンバー車で、実物は愛媛県の四国鉄道文化館に保存展示されています。

 

 模型では、DF50形の特徴あるエンジンの様子がよく分かります。この1号車は試作機にあたり、エンジンは当時の新三菱重工がスイスのズルツァー社と技術提携して製造した、直列8気筒直噴式の三菱神戸ズルツァー8LDA25Aと呼ばれるものでした。

 

  この模型は、嫁さんも特に念入りに見学していました。あちこちをスマホで撮りつつ、ケースに貼りついたまま、上から下から、左右からも見ていました。このDF50形も、山陰本線で活躍した機関車であるからです。当然ながらNゲージでもトミックスの製品を買っていました。

 DF50形は、日本国有鉄道のディーゼル機関車の一種で、非電化亜幹線の無煙化を目的として開発、1957年に先行試作車が製造され、以後1963年まで増備されて計138輌が製造されました。
 主に亀山機関区、米子機関区、高松運転所、高知機関区、宮崎機関区に集中配置され、山陰本線、紀勢本線、予讃線、土讃線、日豊本線などで使用されました。山陰本線および福知山線全線においては、1978年にDD51形へ置き換えられるまで運用されました。最後の車輌が廃車となったのが1985年のことでした。

 なので、山陰線の昭和期の写真集などを開くと、福知山駅や亀山駅などにおいてDF50形の貨物列車や駅構内移動などの様子が色々と見られます。馬堀駅や並河駅を通過してゆくDF50形の貨物列車の姿もあったりで、嫁さんにとっては「昭和の山陰線のディーゼル機関車」のイメージがピッタリくるそうです。

 

 こちらは国鉄489系です。ベースとなった151系や485系とともに、昭和の特急電車の代表格として親しまれた車輛です。私自身も、子供の頃の記憶にある在来線特急のイメージが、この151系や485系の「こだま形」でありました。

 489系は485系をベースにして、信越本線の横川・軽井沢間の急勾配区間の通過対策が施された車輌で、1971年に製造されました。特急「白山」として運用、碓氷峠越え区間ではEF63との協調運転を行なっていました。

 その当時の映像を、ゆるキャン聖地巡礼で訪れた碓氷峠鉄道文化むらにて見ましたが、この「こだま形」が電気機関車に牽引されて走っている姿は珍しくてインパクトがありました。

 

 こちらは国鉄ワム3500形貨車です。戦前の1917年から1926年にかけて、鉄道院および鉄道省が日本車輌製造、汽車製造などに発注してで11873両を製造した15トン積み二軸車有蓋車のワム32000形を、1928年の車両称号規程改正によって改称したものです。
 そのうちの約2500両は、1937年から1940年にかけての日中戦争において、陸軍の要請によって標準軌に改造のうえ中国大陸に送られています。戦後は貨物列車の主力貨車の一種として1970年まで活躍、最後の車輌が書類上は1983年まで在籍したといいます。
 そしてここの展示車は、現存する唯一の車輌であり、その貴重さゆえに京都鉄道博物館に収容されたわけです。

 

 国鉄ワム3500形貨車の隣には、上図の国鉄ヨ5000形貨車があります。日本国有鉄道が1959年から1968年頃までに製造、または改造して運用した事業用貨車(車掌車)の一種です。長らく国鉄の主力車掌車として、北海道を除く全国で使用されましたが、1986年に貨物列車の車掌乗務が原則廃止されたため、JRに継承された一部の車両を除く全車が廃車されました。

 展示車の8号車は、日本初のコンテナ専用特急貨物列車「たから」号の専用となっていた時期の姿に復元されています。車体カラーも、当時連結されたコンテナ車チキ5000形とコンテナに合わせて、車体が淡緑3号、台枠部が赤3号とされた状態になっています。

 

 こちらは国鉄のディーゼル車輛に搭載されていた、DMH17形ディーゼルエンジンの模型です。各所がカットされて内部が見えるカットモデルとなっていて、定期的にデモ作動を行ない、実際のエンジンの動きを示しています。

 嫁さんが「これ、マイバッハ?」と訊くので「いや違う、これは国産や。幾つかのメーカーが造ってる。新潟鐵工とか池貝製作所とか新三菱重工とかダイハツ工業・・・」と説明しました。

「なんでひとつの形式のエンジンを、幾つかのメーカーに造らせたんですかね?ひとつのメーカーで独占したら駄目やったんですか?」
「駄目とかじゃなくてな、昔は国鉄やったから国策として鉄道車輌を造らせたんで、産業育成、産業促進の観点から複数のメーカーに発注して競わせて造らせるシステムやったの。鉄道だけじゃなくて、戦前の戦闘機、戦車、軍艦も同じで、ひとつの型を複数のメーカーが造ってる。例えば零戦、三菱と中島で造ってるし、駆逐艦やったら国営の海軍工廠のほかに民間の造船所、例えば藤永田とか日本鋼管鶴見、三菱重工とかね・・・」
「ふーん」

 

 DMH17形エンジンは、日本国有鉄道の気動車およびディーゼル機関車に搭載されていた直列8気筒、副室式ディーゼルエンジンの一種です。DMはディーゼルエンジン、Hは8気筒、17は排気量が17リッター、を意味します。改良が重ねられて、最終的には12種のバリエーションが造られています。

 

 説明板です。1953年から、とありますが、正しくは1951年からの製造になります。5年間にわたって、とありますが、実際には1960年まで量産が続けられましたから、9年間にわたって、というのが正しいと思います。そして1960年代末まで、これを搭載した国鉄の気動車が大量に製造され、日本全国で使用されました。

 また、国鉄だけでなく私鉄が導入した気動車にも広く採用されており、その最後の事例は1977年製造の小湊鉄道キハ200形気動車の最終増備車2輌であったそうです。

 

「緑に赤に黄色・・・、実際にこんなふうにあちこち色分けしてるのですかね?」
「いや、これは展示用の見本なんで、各部分を分かり易いように塗り分けてあるだけじゃないかな」
「あー、なるほどー」

 

 色々な展示があって、嫁さんはあちこち指差しては次々に興味を示して見学していきましたが、私自身は「よくこんなに色々集めたなあ」という驚きのほうが大きかったです。

 

 特に、上図の新幹線100系が展示されているのにはびっくりしました。0系はあちこちで見かけるのですが、100系の保存展示車は初めて見たからです。なにしろ、いま現存している100系車輌はたった3輌だけで、ここ以外は名古屋のリニア鉄道館と片町線徳庵駅の近畿車輌敷地に保存されています。

 100系は、日本国有鉄道が開発した東海道・山陽新幹線の第2世代新幹線電車です。デビューは1985年で、1992年までに16両編成66本の計1056両が製造されました。
 私も大学生の頃に初めて乗りましたが、0系よりもフロントマスクが長いのに最初は違和感を感じたことを覚えています。サメみたいな感じなので、ダグラスとかミグとかの戦闘機みたいだな、と思いましたが、実際に「シャークノーズ」と呼ばれるデザインであったことを後で知りました。

 上図の展示車輌は100系の122形で、普通席を備える制御電動車です。JR西日本所属のV編成16号車として125形とペアを組んで使用されたものです。廃車後は博多総合車両所で保管され、2016年からここに収容されています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都鉄道博物館4 EF66形とDD51形

2025年02月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の展示の続きです。台車の次に嫁さんが「あれ!あれ見ましょう、て言うか近くでみたいです!」と指さした先に、上図の青い車体の機関車が見えました。

 

 これまた懐かしい・・・、昭和の貨物列車牽引の花形であったEF66形電気機関車ですな・・・。子供の頃に鉄道の図鑑とか読むと、貨物列車の先頭の機関車がたいていこのEF66形でしたね・・・。デザイン的にもカッコ良いですし、ブルートレインの牽引機としても活躍していましたから、中学や高校の頃に東海道線とかの電車に乗ったりすると、窓から普通によく見かけました。

 

 EF66形電気機関車は、日本国有鉄道が1968年から1974年まで、そして日本貨物鉄道(JR貨物)が1989年から1991年まで製造した直流電気機関車の一種です。名神・東名高速道路の整備によるトラック輸送の拡大化に対抗すべく、魚介類などの生鮮品輸送を中心とした貨物列車の高速化が計画され、東海道・山陽本線における最高速度100キロ以上での高速貨物列車専用機として開発、89輌が製造されました。

 このEF66形の実際の最高速度は110キロをマークしましたので、それが規定値となって、現在も日本の電気機関車の最高速度として定められています。
 現時点の直流電気機関車の最新型にあたるEH200形が、現在使用されている電気機関車の中で最大級のパワーを誇りながらも最高運転速度は95キロにとどまっているのを考えると、昭和43年の時点で110キロ運転を実現したEF66形の凄さと先進性がよく理解出来ます。

 

 ここの展示車は、1973年から1974年までに川崎重工業で製造された2次車の35輌のうちの唯一の現存車にあたる35号機です。いま車体が完存している保存展示車は、35号機のほかには埼玉県の鉄道博物館の1次車の11号機しかありませんから、貴重な車輌であることは間違いありません。

 嫁さんが首をかしげつつ「そういえば、この前、嵐山からのトロッコ列車に乗りましたでしょ、あのときトロッコ嵯峨駅の模型ジオラマ見たじゃないですか、あれの館内に機関車のカットモデルが2つ並んでましたでしょ、あれもEF66形じゃなかったですか?」と言いました。
 流石に記憶力抜群なモケジョさんです。確かにトロッコ嵯峨駅の模型ジオラマ館内にはEF66形の45号機と49号機のそれぞれの先頭運転台部分のカットモデルがあります。

 同じ49号機のカットモデルが、確か木津のパン屋さんにもあると聞いたことあるな、と話したら「えええ?パン屋さんに?なんでパン屋さんにEF66形のカットモデルがあるんです?」と訊かれました。私も現地のパン屋さんは前を通った事があるだけで中は知らない、と返したら「じゃあ機会を見て木津へ行きましょ」と言われました。
 いまは嫁さんも鉄道模型Nゲージに熱中してて鉄道にも関心を持っていますから、いずれ行くことになるだろうな、と思いました。
 そのパン屋さん、JR木津駅近くの国道24号線沿いの「パン オ セーグル」の公式サイトはこちら

 

 ここの35号機は下に見学用通路を設けてあり、整備工場の点検整備作業時と同じ視点にて機関車の底部を見られるようになっています。上図は台車のDT133の駆動部です。

 嫁さんが「すごーい、中に色々メカがぎっしり詰まってそう、110キロの高速をこれでたたき出してたんですよねー」と興奮気味に見上げ、スマホであちこち撮っていました。もう完全にテツですな・・・。

 

 EF66形35号機の隣には、上図の赤いディーゼル機関車があります。これも嫁さんが指差して「あれ!あれも見たい、トミックスのあれ、近くでみたいです!とテンション上がりまくりでした。

 

 日本のディーゼル機関車の代名詞格として有名なDD51形です。近畿地方では山陰本線や播但線、草津線などで活躍、山陰本線では寝台特急「出雲」なども牽引した機関車です。

 つまりはDD54形とならぶ山陰線のディーゼル機関車の主力機であったわけで、嫁さんがNゲージにハマり出して「山陰線ジオラマ計画」なるジオラマ製作にとりかかった時に、マイクロエースのDD54形に続けてトミックスのDD51形を購入していましたが、そのナンバーはズバリの756号機、つまりはこの実物のNゲージ化製品です。
 それで見学時にも何度か「トミックスのー」と嬉しそうに連呼していました。

 

 DD51形は、日本国有鉄道が1962年から1978年にかけて製造した液体式ディーゼル機関車の一種です。649輌が製造され、全国各地の主要路線や近郊線区に投入されて活躍、現在もJR西日本に数輌が健在で、大半は兵庫県の網干総合車両所の所属となっています。

 ここの756号機は、主に九州地区や甲信越地区の路線で活躍、最終所属は門司機関区、2014年に廃車となって吹田機関区で保管され、2015年に梅小路蒸気機関車館に展示、2016年から京都鉄道博物館に収容されています。嫁さんが展示説明板の履歴を食い入るように読んでいましたが、山陰線のさの字も無かったので、ちょっとガッカリしていました。

 嫁さんは丹波園部の出身で、小学生の頃からは亀岡市に住み、最寄りの駅が山陰線の並河駅でした。その並河駅の旧駅舎跡地に鉄道歴史公園があり、そこにDD51形の1040号機が静態保存されています。その1040号機が、嫁さんが子供の頃から知っている機関車なので、山陰線といえばDD51形、という基本認識があるわけです。

 その1040号機は、山陰線で活躍し、1994年に廃車となった時も米子運転所所属のままでしたから、京都までの山陰線を往復し続けていたことになります。並河駅にて保存されることになったのも、その縁からであったのでしょう。

 

 この機関車も、さきのEF66形と同じように下に見学用通路を設けてあり、整備工場の点検整備作業時と同じ視点にて機関車の底部を見られるようになっています。

 

 DD51形の台車を下から見上げました。台車は3組あって、両側が動力台車のDT113B、中間が無動力台車 のTR106であるそうです。 

 

 嫁さんが「こういう台車の仕組みってよく分かりませんけど、でも、見てるだけで凄いメカだなー、って感じさせられますよね」と言いました。

 確かに世界中の鉄道車輌のなかで、技術史的にも抜きん出ているのが日本製だと聞きます。現在でも各国の鉄道車輌の台車のみは、大半が日本に発注されていると聞きます。他国には造れないレベルの、凄いメカであるのは間違いないでしょう。

 

 近くには上図のインテリア表示模型もありました。模型が趣味のモケジョである嫁さんにはたまらない展示品です。案の定、ケースにスーッと吸い寄せられていき、コバンザメみたいにピタッと貼りついたまま、5分ぐらい動きませんでした。

 

「ねえ、このエンジンもドイツのマイバッハの系列ですかね?」
「違うやろ、これは日本製やろう、マイバッハ系列は、あれはDD54形のみの特殊な仕様のエンジンやね」

 横の説明板によれば、エンジンはDML61Z形とあります。日本のディーゼル機関車に搭載されたエンジンは、型番がディーゼルのDから付けられてDMの大分類コードから始まります。次のLはアルファベットの12番目なので12気筒を意味し、61の数字は排気量を現します。61リッターということです。最後のZは、インタークーラーおよび加給機付きであることを示します。
 つまり、12気筒61リッターのインタークーラーおよび加給機付きディーゼルエンジンである、ということです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする