清浄華院を辞して寺町通を南下、上図の廬山寺に立ち寄りました。この寺には藤原時代文化を勉強していた頃に三度ほど行った事があります。
なぜかというと、紫式部の邸宅跡とされているからでした。源氏物語も一通り読んで当時の情勢や風俗を偲んだりしましたので、ここはある意味聖地の一つでした。ですが、確証があるわけではなく、昭和四十年(1965)に歴史学者の角田文衛さんが紫式部ゆかりの「堤邸」の跡と考証したのが契機となって今に至ります。
「堤邸」とは、紫式部(藤原香子)の曽祖父の中納言藤原兼輔から伯父の為頼、父の為時へ伝領された邸地の名称であり、鴨川の西側の堤防の西に接して占地したことに因みます。それで藤原兼輔は「堤中納言」とも呼ばれましたが、その邸宅の位置が現在の廬山寺にあたります。発掘調査を行なっていないので、「堤邸」の遺跡は確認されていませんが、境内地の大半は宮内庁管轄の廬山寺陵墓群になっていることもあって、掘っての検証は無理だと思われます。
廬山寺の大師堂です。山門を入って正面に見えるので本堂とよく間違われているそうですが、寺のルーツのひとつ與願金剛院の開基である良源つまり元三大師を本尊としてお祀りするお堂です。その右手に回ると受付があり、そこから東側の本堂へ行きます。その本堂および付属の尊牌殿は、江戸期の寛政六年(1794)に仙洞御所の一部を移築したものです。
本堂入口横の歌碑と説明板です。歌碑には紫式部とその娘の大弐三位の歌が刻まれています。つまりは母娘の歌碑です。
紫式部(藤原香子) めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月影
大弐三位(藤原賢子) 有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
数年前、大弐三位を主人公にした歴史小説が二冊出たので、興味をもって図書館で借りて読んだことがあります。タイトルは「紫式部の娘。賢子がまいる!」、「紫式部の娘。賢子はとまらない!」でした。著者の篠綾子さんは独特の切り口で平安期から江戸期までの歴史小説を多く書かれており、個人的には「酔芙蓉」や「幻の神器」や「岐山の蝶」などが面白かったと記憶しています。中世戦国期の歴史に関心がある方なら、たいてい読んでいるでしょう。
歌碑の前でサークルの文芸部メンバーの三人とバッタリ会いました。「星野先生じゃないですかー」と声を掛けられてやっと気付き、成り行きで少し紫式部の歌の文化的背景などを簡単に話しました。
自身が参加するサークルを、普段は模型サークルなどと書いていますが、以前の記事にて述べたように、正確には文芸同好会のなかの模型分会という位置づけです。しかし現在では本家の文芸同好会よりも分家の模型分会のほうが倍以上の会員数を有して活動も盛んに行っているため、周囲からはほとんど模型サークルとして認識されており、それで我々もそのように呼んでいますが、本家の文芸同好会も地味ながらちゃんと活動していることは、私自身も時々古典朗読の集まりに顔を出しているので知っています。
今回会った三人の娘さんたちは、その古典朗読の集まりの常連でした。前回の朗読会で「源氏物語」をやったそうなので、その関係で廬山寺に来ていたもののようでした。
娘さんたちと別れて、廬山寺陵墓群へ寄ってみました。東に戦国末期の御土居がめぐる独特の墓地の静かな雰囲気が割と好きなので、廬山寺参拝の時は大抵この参道へも歩いています。
廬山寺を辞して、すぐ西にある梨木神社に行きました。かつての三條家の邸宅跡を神社と成したところです。
三條家は藤原北家閑院流の嫡流にあたり、公家としての家格は清華家、華族としての家格は公爵家でした。幕末期に三條實萬(さねつむ)、三條實美(さねとみ)の父子が出て維新に貢献したことから、久邇宮朝彦親王の令旨によって三條家邸宅跡にこの父子を祭神とする社殿が造営されたものです。
別名を萩の宮ともいうように、一般には萩の名所として知られます。境内全域に約500株の萩が植えられており、九月中旬から下旬にかけて萩祭りがおこなわれます。今回はたまたまこの萩祭りの期間中でしたので、本来の予定にはなかったのを変更して立ち寄ってみました。
びっしりと咲き広がる萩の香りに包まれて、拝殿から本殿までを回りました。
実はこの梨木神社には今回初めて入りました。小学校の頃に、左翼による梨木神社の爆破事件というのがあって、それで名前をかすかに覚えている程度だったのですが、今回横を通りましたので、なんとなく寄りましたが、萩の群生の見応えはなかなかのものでした。
本殿の奥には校倉の神庫が見えました。奈良では幾つかの社寺で校倉を見かけますが、京都の社寺ではあんまり見かけた記憶が無かったので、珍しいなあ、とは思いました。
参道はどういうわけか、上図のようにマンション敷地になっており、建物の脇を迂回して南の表鳥居のほうに出るといった形でした。聞く所によれば、10年くらい前に、社殿の修復等の資金集めに苦慮した挙句に境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の定期借地権で貸して、その賃貸料を社殿の修復費用に充てたのだそうです。それであと50年ほどは参道はマンションによって占められる、ということでした。 (続く)