気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く41 その11  アプトの道 なでしこのレールと恵那のベンチ

2024年09月30日 | ゆるキャン△

 ゆるキャン群馬キャンプ編の安中市エリア聖地巡礼、「アプトの道」の続きです。12時15分にカフェの横から階段を降りて「アプトの道」に戻りました。ここからは作中で各務原なでしこ達が終点まで歩いていますので、聖地巡礼ルートのメインになります。

 

 少し歩くと、前方に既視感のある風景が見えてきました。国道18号線旧線から分かれて碓氷湖畔の観光駐車場へと通じる車道と「アプトの道」とが繋がっている地点です。ここで各務原なでしこ達が記念撮影をしています。

 

 このシーンですね。カラーイラストです。

 

 同じイラストが第91話の表紙にもなっています。原作コミック第16巻83ページです。作中では、3人はそのまま「アプトの道」を進んで行ったようなので、碓氷湖には立ち寄っていないようです。

 

 現地は、「アプトの道」から碓氷湖へ行ける唯一の連絡路であり、碓氷湖畔観光駐車場にある公衆トイレの案内もあります。第三橋梁「めがね橋」より1キロ、峠の湯までは1.1キロの地点です。

 

 同地点から横川駅方面を見た図です。

 

 振り返って熊ノ平駅跡方面を見たところです。左の車道を下っていくと碓氷湖畔の観光駐車場および公衆トイレへ行けます。

 

 再び歩き始めて、左にあった赤い消火栓ボックスを何気なく見て、それから数歩進んで「あれ?」と振り返りました。赤い消火栓ボックスも作中に描かれていなかったっけ、と思い出したからです。それで改めて上図のアングルを見て、あ、ここも作中に出てるな、と気付きました。

 

 このシーンでした。原作コミック第16巻84ページ2コマ目です。奥の道標や「アプトの道」が左寄りにクランクするのもそのまま出ています。

 

 それから碓氷第二トンネルに進みました。明治25年(1892)9月の竣功で、全長は約111.9メートルです。ここのポータルは明治期の標準的な型式を示しており、笠石、帯石、ピラスターも揃っています。総レンガ造りの冠木門タイプのオーソドックスなポータルです。

 

 第二トンネルを抜けると、「アプトの道」が不自然に右へクランクしていました。その左裾の芝生の窪地に数本のレールが露出していました。ここも作中に出ていますね。

 

 右のシーンですね。原作コミック第16巻86ページ4コマ目です。斉藤恵那が「線路の跡じゃない?」と言い、次の5コマ目で各務原なでしこが露出したレールを見て指先で軽くなぞっています。各務原なでしこの膝の下に見えるレール横の白い長方形のものは何だろう、と思いましたが・・・。

 

 現地で見ると、レールの脇に横たえてある白っぽい丸太でした。枕木にしては短すぎるので、他の何らかの部材なのだうと思いました。

 

 そして近くにはベンチが置かれ、休憩地点として整備されているようでした。

 

 するとこのベンチで、斉藤恵那がつかの間の昼寝を試みたわけですか・・・。

 

 左上のシーンですね。原作コミック第16巻87ページ2コマ目です。何かあるとすぐ横になる斉藤恵那です。でもそんな時間的余裕はありませんでしたから、3コマ目のシーンで各務原なでしこと瑞浪絵真はドンドン先へ進んで行ったわけです。

 

 で、斉藤恵那が「あー まってまって」と慌てて駆けていったアングルがこちら。  (続く)

 

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伏見城の面影25 興聖寺本堂

2024年09月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 翌4月14日は快晴でした。U氏はいつもの祇園四条のカプセルホテルに連泊して祇園四条駅から京阪電車に乗り、私はその列車に清水五条駅から乗り込んで合流、宇治駅まで行きました。U氏との宇治行きは、実に10年ぶりのことでした。

 京阪宇治駅からは、おなじみの朝霧通りを歩いて宇治川の東岸を進み、観流橋を渡って上図の槇ノ尾山(御所山遺跡)が見える地点まで行きました。U氏も宇治へは何度か来ているそうで、ゆっくり歩きながら景色を楽しんでいましたので、私も歩速を落としてそれに合わせました。

 

 宇治川の流れをしばらく眺めた後、琴坂と呼ばれる上図の長い参道を進み、興聖寺の境内地に入りました。

 

 興聖寺山門付近の桜。

 

 興聖寺の山門の前にて、U氏が立ち止まり、ちらりと私を見て問いかけました。

「で、行くのか?」
「ああ」
「俺も行っていいかな?」
「もちろん」

 ということで、山門を入る前に大事な寄り道をしておきました。

 

 再び山門の前に戻りました。御覧の通りの竜宮造で、江戸期の天保十五年(1844)に改築されています。宇治市の有形文化財に指定されています。

 

 山門をくぐり、階段をあがって、寺では「中雀門」と呼んでいる江戸期弘化三年(1846)建立の薬医門をくぐると、すぐ右側に上図の石塔の笠石と相輪があります。U氏が「これって、浮島の十三重石塔のてっぺんの部分だろ」と指さしました。その通り、鎌倉期の国重要文化財の浮島十三重石塔の遺品であり、塔が明治四十一年(1908)に再建された後で宇治川から発見され、ここ興聖寺に移されて保管されています。

 

「で、あれが問題の本堂だな。前にも見てるけど、伏見城からの移築というのは知らなかったから、今あらためて見ると、いかにもそれっぽいな」
「それっぽい、じゃなくてこちらのは本物だろうと思うけどな」
「本物だとしても、伏見城にあった頃の姿とは違ってるような感じだな。屋根とかは改造されてるんと違うかね」

 U氏の言う通りでした。本堂の建物は、 慶安元年(1648年)に伏見城からの移築建築を用いて改築したといいます。伏見城合戦の東軍鳥居元忠以下の将兵の血が付いたままの床板を天井板として使っており、他の場所にもある血天井に比べると血痕の残り方が生々しいため、西賀茂正伝寺本堂の血天井と並べて有名になっているそうです。

 

 本堂の正面部分です。屋根は改造されているようですが、主屋部分は広縁と落縁の造りも含めてほとんど改変が加えられておらず、中央の石段からあがる部分も間口を広げるだけの改造にとどめています。昨日見てきた養源院本堂の客殿とよく似た構造、外観を示しており、落縁の外側に雨戸が付いている点も共通しています。
 なので、もともとは養源院本堂の客殿と繋がっていた、と推定しても違和感があまり感じられません。

 

 内部空間は、仏堂に転用する際に最低限の改造、つまり中央の間口を広げて奧室に須弥壇と厨子を入れて板敷を入れてあるほかは、書院時代のままの間取りを伝えています。

 徳川家の正史である「徳川実記」によれば、伏見城の廃城後の元和九年(1623)8月、二代将軍徳川秀忠の命により松平越中守定綱が淀藩3万5千石へ入部、淀城を幕府の援助によって築いて最初の城主となりました。築城に際して廃城となった伏見城の資材が転用され、天守は二条城より移築し、寛永二年(1625)にほぼ完成したとされています。

 その後、寛永十年(1633)に松平越中守定綱は美濃国へ移封され、代わって幕府の老中職を勤めた永井信濃守尚政が10万石で淀に入部、城郭と城下町の拡張を図り、侍屋敷の造営が行われたといいます。

 

 いまの興聖寺は、その永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)に現在地に再興したものなので、淀城の拡張工事の際に旧伏見城の建物を新造の建物に置き換えたうえで、古い建物を興聖寺再興の際に本堂として再利用した可能性があります。

 寺では単に旧伏見城からの移築と伝えていますが、実際には淀城に移築されていた旧伏見城建築の再移築、と考えたほうが良さそうに思います。

 

 本堂に向かって右側には、上図の式台があります。これも本堂に付属する建築として旧伏見城からの系譜が推測出来そうに思われますが、間取りを見ると、むしろ奥に繋がる明治四十五年(1912)建立の大書院と共通した空間構成になっているようですので、大書院とともに付けられた式台だろうと思われます。

 大正八年(1919)に貞明皇后がここに行啓された際に大書院に逗留されたといい、その際にこの式台が玄関口として使用されたそうです。

 

 式台の破風の妻飾りもシンプルです。装飾意匠も控えめで、あまり旧伏見城建築の雰囲気が感じられません。

 

 したがって、伏見城から淀城を経て、先の老中にして淀藩主の永井信濃守尚政が慶安元年(1648年)の興聖寺再興に際して移築せしめた旧建築とは、上図の本堂部分のみ、としておくのが良さそうです。

 この本堂に関しては、寺に伝わる再興時からの記録である「宇治興聖寺文書」に何らかの記載があるのかもしれませんが、まだ閲覧の機会を得ていません。「宇治興聖寺文書」は同朋舎出版から3巻で刊行されているので、機会があればどこかの図書館で読んでみようと思います。

 

 いずれにしても、寺院の本堂にしては変わった造りの建物であることが、遠くから見るほど強く感じられます。屋根は大幅に改造されているようですが、主屋部分は城郭の御殿建築、書院建築特有の外観を呈しているからです。
 拝観料を払えば内部にも入れますが、U氏も私も過去に何度か入っているので、今回は外からの見学にとどめました。

 

 以上、興聖寺本堂でした。徳川期再建の旧伏見城からの移築建築の典型的な一例、とみておいて良いでしょう。

 寺の再建に幕閣の老中職を勤めた永井信濃守尚政が関わっており、その居城だった淀城は、旧伏見城の資材を転用して建てられ、二条城より移築したという天守も元は伏見城の天守だったそうです。つまり、永井信濃守尚政は、当時最も多くの旧伏見城移築建築を用いた城に住んでいたことになります。したがって、旧伏見城の建物を興聖寺に転用出来る権限があった、唯一の幕府重鎮であったことになります。

 その永井信濃守尚政が、興聖寺と宇治川をはさんで向かい合っている平等院にも修復寄進をしているのですが、その平等院にも伏見城からの移築と伝える門の建築が二棟あります。次は、その平等院へ向かいました。  (続く)

 

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継続高校 Ⅲ号突撃砲G型 作ります!! その6

2024年09月28日 | ガルパン模型制作記

 ステップ15では車体の背面部と履帯を組み立てます。背面部ではガルパン仕様への工作を二つ行います。履帯は、今回のキットにはベルト式と連結式の両方が入っており、連結式のパーツはキットにもともと含まれているものでした。ベルト式パーツの方は今回のキットが限定販売品であった時の特典として入っていたものでした。私自身はいまだに連結式パーツが苦手ですから、ベルト式パーツ一択になるのは自然の成り行きでした。

 ステップ16では武装やシュルツェン架などを組みつけます。主砲はマズルブレーキが後期型の円形タイプで、劇中車の前期型楕円形タイプと形状が違いますので、パーツA28、A29はタミヤの有名なキットの前期型楕円形タイプのパーツE6、E7に置き換えます。あとのパーツは、機銃関係もシュルツェン架も全て不要です。さらにガルパン仕様への工作を一つ行います。

 

 ステップ15で組み付ける背面部のパーツ類です。ガルパン仕様への工作を二つ行います。

 

 ガルパン仕様への工作の一つは、上図の車外装備品のクランクロッドの改造です。キットのパーツは御覧の形状です。

 

 劇中車の装備するクランクロッドは、御覧のようにグリップが長く、さらに先端を差し込む筒状の留め具が車体に備え付けてあります。

 

 劇中車の仕様にあわせて、上図のようにプラ材で改造しました。

 

 ガルパン仕様への工作のもう一つは、背面装甲板のリベットを上図赤枠内の5個だけにすることでした。それ以外のリベットは劇中車にありませんので削り取ります。

 

 劇中車の背面装甲板のリベットが5個しかありません。これに合わせます。

 

 不要なリベットを削り取りました。

 

 組み上がりました。

 

 工作中の側面観です。各所にタミヤの有名なキットのパーツが転用されているのが分かります。

 

 ステップ16にて、主砲もタミヤの有名なキットのパーツに置き換えました。劇中車には前期型の要素もあちこちに見られるので、合わせるのがなかなか大変です。

 

 ガルパン仕様への工作は、上図に示すようにフェンダー後端のリベット打ちの縁の追加です。リベットは5個ずつ並びます。

 

 ジャンクにちょうどいいパーツの切れ端がありましたので、カットし整形して上図のようにフェンダー後端に取り付けました。この追加工作は、タミヤの有名なキットで再現製作する場合でも同じように必要となります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その10  アプトの道 カフェMINI MINI

2024年09月27日 | ゆるキャン△

 ゆるキャン群馬キャンプ編の安中市エリア聖地巡礼、「アプトの道」の続きです。作中にも登場する、碓氷湖畔のカフェに着きました。ここにも入って一休みしようと考えました。ここから「アプトの道」のゴールまでまだ約3.8キロもありますから、休める時に休んで体力を温存しておこう、という判断からでした。

 

 カフェの建物は作中にもそのまま描かれています。原作コミック第16巻73ページ4コマ目です。店名だけが違います。

 

 作中での店名は「クラブマン」ですが、実際には「MINI MINI」です。真ん中に車のミニのイラストが入っているので、このミニミニとは、ドイツのBMWの小型車ブランドのあれか、と気付きました。

 車にはあまり詳しくなかったので、あれ、ミニってクーパーのことだっけ、それともワンだったっけ、と首をかしげて思い迷いました。作中での店名が「クラブマン」であるのはなんでだろう、と考えたりもしました。

 

 とりあえず、中に入りました。原作コミック第16巻74ページ4コマ目の各務原なでしこと同じように「こんにちはー」と声をかけました。奥から「はーい、いらっしゃーい」と店主らしき女性が出てきました。

 

 作中とまったく同じドアです。休憩中に店主さんの御許可をいただいて店内をあちこち撮ったうちの一枚です。

 

 三角形のログハウスですから、内部空間も三角形でした。沢山の写真や額縁が飾られています。

 

 奥まで三角形の空間が続きます。天井がありませんから、空間の高さが広さをも感じさせます。こういう感じのログハウスを奈良の山の中に建てて住んでみたいですね。

 

 壁に掛けられている写真の多くはミニシリーズです。店主さんの愛車であるそうで、店の外に停めてあった赤い車もそうでした。作中でも似たような感じで店主さんの愛車への思いなどが綴られていますが、それも原作者のあfろ氏が取材に来た際に話したそのままの内容であったそうです。

 

 折角なので何か飲もうと思い、おススメを訊きましたら、バナナジュースだということで、それを注文しました。
 私が京都から来たと伝えると、店主さんも京都へはよく行っているそうで、しばらく京都の名所の話をしました。まだ行けてない所も色々あるといい、おススメは?と訊かれたので「醍醐寺ですね」と答えると、「あー、醍醐寺は行ってないわねえー」と笑っておられました。

 こちらへは観光ですか、と訊かれたので「今日はゆるキャンの聖地巡礼で、初めて「アプトの道」を歩いています」と答え、それからはしばらく「ゆるキャン」に関する話になりました。聖地巡礼のファンもちらほら来ているそうですが、まだ原作の連載も数週間前だったし、アニメにもなっていませんから、数の上では大井川エリアや伊豆エリアには及ばないだろうな、と思いました。

 

 その際に撮らせていただいた、作中で各務原なでしこ達が座っていたテーブルです。入口を入ってすぐ左側にあります。

 

 作中の場面です。原作コミック第16巻82ページ1コマ目です。同じテーブル、同じ椅子、同じカーテンです。

 

 私が来た時には、他のお客さんが居なくて、少し経ってから二人組が来て外のテラスのテーブルへつきましたので、店内にはずっと私だけでした。店主さんとの雑談も盛り上がりまして、気付いたらなんと一時間半ぐらいも長居をしていました。お店に着いたのが10時44分、退出したのが12時13分でしたから、のんびりし過ぎたと思いました。

 しかし、スケジュール的には二時間ほどの余裕をプラスして計画していましたから、以後の予定にも影響はありませんでした。

 

 店主さんに御礼を言って退出しました。素敵なお店でした。再び「アプトの道」を歩く機会があったら、必ずここに寄ります。

 「コーヒーハウス・ミニミニ」の案内情報はこちら

 

 お店の横を通る国道18号線旧線の脇からのアングルを撮りました。作中に出ているからです。

 

 このシーンですね。各務原なでしこ達がタクシーでここに着いたシーンです。原作コミック第16巻73ページ1コマ目です。

 実は、私自身も時間がなくてバスも使えない場合に、横川駅からタクシーでここのカフェまで乗って、それから「アプトの道」を歩くというプランを考えていました。それで各務原なでしこ達と同じルートを楽しめるわけですが、それよりも、折角「アプトの道」に行くのだから、熊ノ平駅跡からの全コースを歩きたい、という気持ちのほうが強かったので、今回のような行程に落ち着いた次第でした。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その9  アプトの道 碓井湖畔のカフェへ

2024年09月26日 | ゆるキャン△

 ゆるキャン群馬キャンプ編の安中市エリア聖地巡礼、「アプトの道」の続きです。第三トンネルを抜けて間もなく、上図のように右側に国道18号線旧線が寄ってきました。それまでは高低差があってかなり下に見えていた国道18号線旧線が、今度は「アプトの道」よりも高い位置にやってきました。「アプトの道」のほうは緩やかに下っていくままでした。

 

 そして国道18号線旧線が上図のように「アプトの道」の上をまたいでいきました。横川駅からタクシーで熊ノ平駐車場へ登った時にこの橋も渡っていますが、橋の少し手前で碓氷湖畔のカフェの横を通ったな、と思い出しました。
 つまり、あと数分も歩けば、各務原なでしこ達が歩いた碓氷湖畔からのコースに合流するわけだ、と地図を取り出して確認しました。

 

 国道18号線旧線の橋の下をくぐって少し行くと辺りがパッと開けて上図のようなスペースが左側にあり、東屋がありました。
 この施設は、横川駅で貰ってきた「アプトの道」の案内マップ「碓氷峠路探訪」には載っておらず、「信越本線碓氷峠鉄道施設マップ」にも記載が無かったので、新たに設置された休憩ポイントだろうか、と考えました。

 

 地図では上図の方角に碓氷湖が位置して見える筈でしたが、景色は夏の木々の深緑色の膨らみに覆われて湖面すら見えませんでした。もう少し先なのかな、と思いました。

 

 とりあえず、東屋で休憩して、ちょっと空腹も覚えていたので、高崎駅で買ってきた弁当を開きました。気温の高い日でしたから、生ものも含まれる弁当は早めに食べておこうと考えたからです。

 

 弁当を食べつつ、東屋の建物をあちこち眺め、上図の額を見上げました。まるでボランティア活動で作られたような、手描きの味わいある額でした。近くに中尾川というのがあるようですが、手持ちの地図には碓氷川しか載っていなかったので、その小さな支流だろうか、と思いました。

 

 弁当を食べ終わったので、再び歩き出しました。上図の擁壁に挟まれた区間を進みました。奥が開けているようで眩しいほどに明るく見えていました。あの辺かな、と考えました。

 

 その明るく見えていた地点に出ました。左上に赤い屋根の建物が見えました。道の左脇に小さな立て看板が二つ見えました。既視感を覚え、ああここだ、と気付きました。

 

 作中で各務原なでしこ達が碓氷湖畔のカフェから「アプトの道」に降りてきた地点がここでした。ここから各務原なでしこ達と同じルートをたどるわけでした。原作コミック第16巻82ページ3コマ目です。

 

 道の左脇の小さな二つの立て看板です。

 

 「アプトの道」を歩いている時点では見えませんでしたが、小さな二つの立て看板の前から上にあがる細い石段道があります。作中で各務原なでしこ達が降りてきたのもこの石段道でした。
 とりあえず、ここを登って、作中にも登場する碓氷湖畔のカフェへと向かいました。

 

 石段道を登り切ったところの右手には、上図の「森の雑貨屋 コロボックリ」の店舗がありました。この日はお休みのようでしたので、その前を横切って反対側へ行きました。

 

 「森の雑貨屋 コロボックリ」の北側に、駐車場をはさんで上図のオシャレなログハウス調のカフェがありました。
 作中にて各務原なでしこ達が軽井沢駅からタクシーで移動し、熊ノ平駅跡と第三橋梁「めがね橋」に立ち寄った後にこのカフェまで来て、休憩ののち、ここの横から「アプトの道」へと歩いていったわけです。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)BC自由学園 ARL44

2024年09月25日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  プラッツ/アミュージングホビー 公式キット (商品コードGP-44)

  制作期間   2023年7月18日~7月26日、10月22日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 完成です!!

  総評・備考
 ARL44は第二次大戦中にドイツ占領下のフランスで秘密裏にB1-bisを参考に開発され、戦後に60輌が完成したフランスの重戦車である。ガルパンではBC自由学園チームに属して最大の火力を持つ車輌として登場し、副隊長の押田ルカ率いる一隊に5輌が配されて無限軌道杯の第1試合にて大洗女子学園チームと対戦している。
 適応キットはアミュージングホビーの製品(下のキット一覧の3)が唯一で、プラッツより公式キット化(下のキット一覧の1と2)されており、入手は比較的容易である。ただし、劇中車には各所で独自の仕様が見られるため、それに合わせて改造や修正が必要となる。いずれも簡単な作業で済み、大型の車体ゆえにパーツも大きくて扱い易いので、初心者クラスにもおすすめ出来るガルパン仕様制作の入門キットの一つとされる。

  公式および適応キット一覧(2024年9月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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伏見城の面影24 正行院客殿

2024年09月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 養源院を退出する際に、U氏が「次はどこへ行くんだ?もう一ヶ所を追加するんだろ?」と訊いてきました。そうだ、ここからバスで行くか、それとも歩いていくか、と応じると「今回は泊まりだから時間はたっぷりある、ゆっくり景色を見ながら歩いて行こうぜ」と答えてきました。

 

 それで養源院南門から南に進み、法住寺殿跡の石碑を一瞥し、上図の大きな南大門をくぐりました。いまは妙法院(蓮華王院)の管理下にありますが、もとは豊臣秀吉が建立した方広寺の南大門であったものです。両袖の築地塀も同時期の遺構で、かつての広大な方広寺境内地の規模がうかがえます。

「おい、この門から大仏殿跡までどれくらいあるかな、500メートルぐらいか?」
「いや、400メートルぐらいやないかな」
「ここが南大門だから、北の大門もあったのかね?」
「さあ、方広寺はあんまり勉強しとらんから分からんね。普通に考えたら大和大路の東側が境内地になるから五条通あたりが北限かなと思うけど、規模が広かったから北大門もあったと考えるのが自然やな」
「なるほど」

 

 それから南大門の前の塩小路通を西へ歩き、鴨川に架かる塩小路橋を渡りました。U氏が「ここからの鴨川の景色もなかなかいいね。桜並木があるし、川幅も三条や四条あたりよりは広くてゆったりしてる」と言いつつスマホで撮影していました。

 その後も塩小路通を西へ進み、高倉塩小路の交差点を渡りました。U氏が私を振り返って「おい、もうすぐ京都駅前になるんだが?場所はあってるのか?」と問いかけてきたので「次の辻を左へ曲がってくれ」と応じてその方向を指しました。

 

 次の辻で左折して南下すると、交差点があってその東南隅に上図の寺門がありました。そこだ、と教えるとU氏は「京都駅のすぐ東側じゃないか、こんな場所にお寺があるんだな」と感心したように言いました。

 

 その寺は正行院といい、猿寺の通称で親しまれています。山門脇の案内説明板です。

 

 残念ながら一般の参拝および内覧は受け付けていませんでした。いわゆる非公開寺院のひとつでした。

 

 ですが、山門から目的の建物である客殿が見えるので、充分でした。

 

「おい、あれがそうなのかね?」
「伝承では本堂が、伏見城の壊された建物を、寛永年間(1624~1644)に徳川家光が寄進して、それを改造して建てられたもの、となってるけど、それにしては建物が新しすぎるんで、どうも違うような気がする。隣のあの客殿のほうが、それっぽい外観と雰囲気を持ってるな、て思うんや・・」
「なるほど、確かに・・・」

 U氏も東隣のピカピカの本堂をチラリと見た後、バッグから双眼鏡を取り出して客殿を観察し始めました。

 

「水戸の、どう思うかね?」
「部材の彫り込み装飾は、江戸初期の形式みたいだね。それか、やや古い感じかなあ。徳川期伏見城の建物だったなら有り得る造形だな」
「やっぱり、そう見るかね・・・」

 

「しかし、葵紋とかは残ってないみたいだな。瓦は後世のものに交換したっぽいな・・・」
「あー、そんな感じやな」

 

 次に西側へ回って見ました。寺の駐車場の入口ゲート越しに、上図の軒破風の張り出し部分が見えました。
「おい、あれ改造されてるけど、元は車寄だったんじゃないかな?さっき見てきた養源院のとよく似てるな」
「うん、そんな感じだな。山門から見えたんが式台なら、こっちは車寄だったかもしれんな・・・」

 

 そして客殿の西側へ回ってみました。御覧のようにあちこちで建物がカットされたような状態で、屋根も半分をカットして二階建てに改造されていました。

「おい、これめちゃくちゃ改造されてるな、大屋根だけみると御殿っぽいな、破風の格子は外されて白壁になってるけど。カットされる前の建物をイメージすると、この寺の規模にしちゃ、大きすぎるような・・・」
「大きすぎたからあちこち切り詰めて改造したんやろうな・・・」
「徳川家光が寄進した時点で建物そのものは破却解体されてたんだから、部材とかを寄進したというのが実態かもしれんな。それを使ってそれらしく建て直して、境内地におさまるように改造した、ということかな」
「かもしれんね。客殿が二階建てというのも珍しい」
「そうだな」

 

 大屋根の残存部分をしばらく見上げました。U氏が「かなり古い部材みたいだな」と何度も言いました。

 

 確かに上図の懸魚(げぎょ)などは丸く象られて江戸期よりは桃山期よりの古式を残しています。

 

 境内地の裏手、北側は広い駐車場になっていますので、そこからは客殿の北面がよく見えました。二階建ての上層部分の造りも、寺の客殿のそれにしてはあまり他にみない形です。城郭御殿のような広い柱間と大きな扉口が印象的でした。扉口は下4分の3ほどが近年の雨戸で覆われていました。

 

 しばらく見ていたU氏が「あの二階部分もさあ、もとは一階だったんじゃないかな、屋根が半分カットされてるだろ、そのカット部分の主屋を二階に上げて改造したんじゃないかな・・・」と腕組みをしつつ言いました。その発想はありませんでしたので、あ、なるほど、と思いました。その可能性もあるかもな、と考えました。

 いずれにせよ、寺が非公開で話も伺えない状態ですから、これ以上の推測は無理でした。移築伝承を裏付ける証拠、たとえば古文書があるのかどうかも分かりません。寺の建物は文化財指定を受けていませんから、その方面での報告書も無いと思います。
 なので、この正行院客殿が伏見城からの移築建築であるかどうかは、現時点では可能性の問題にしかなりません。

 かくしてこの日の巡礼は終了となり、続きは明日、ということになりました。とりあえず京都駅あたりで夕食で何か食べよう、ということで、そちらへ向かったのでした。  (続く)

 

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継続高校 Ⅲ号突撃砲G型 作ります!! その5

2024年09月23日 | ガルパン模型制作記

 ステップ12では、車体前部の各部品を取り付けます。今回のキットは後期型の標準的な仕様ですので、増加装甲のパーツは無く、実車では装甲板が厚くなっていますが、1/35スケールキットではその厚みまでは表現されていません。しかし劇中車は前期型の車体に後期型の車輪を合わせた、いわゆる後期型の最初期の生産タイプがモデルになっているようですので、増加装甲板も追加されています。
 それで、タミヤの有名なキットより、増加装甲のパーツ3種をもってきて付けます。A33をタミヤのB32に、I27をタミヤのB31に置き換え、E5もタミヤのB45に交換します。その際にB31とB32のサイドに付くフックは削り取ります。前面の増加装甲はタミヤのD30を使います。
 また前部のトラベリングロックは劇中車にありませんので、I25、I26は不要です。フェンダー上のワイヤー留め具H9も、モデルカステンのパーツに置き換えますが、その取り付け位置のモールドは参考のためにそのままにします。

 ステップ13およぴステップ14では車体背面部を組み立てます。ステップ13では牽引フック部分は全て不要で、同じ位置にタミヤのB11を取り付けます。F43とF46、F44とF45に通すフックのパーツはキットにありませんので、ジャンクよりタミヤのパーツを調達します。
 ステップ14では、F39、F40、F51、F52は劇中車にみえないので不要です。遮熱板のI29は、ステップ13で取り付けたI8およびI9に直接取り付けます。

 

 ステップ12で組み立てる車体前部のパーツ類です。増加装甲のパーツ3点はタミヤの有名なキットから持ってきました。

 

 参考までに、劇中車の車体前部の状況を。この仕様に合わせます。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ13で組み立てる車体背面部のパーツ類です。キットに無い牽引フックはジャンクにあったタミヤのパーツをもってきました。

 

 中央のフックの位置にタミヤのB11をもってきて、全て組み上がりました。

 

 こうしてみますと、前部も背面部も前期型の仕様になっていますね。劇中車が後期型の極初期のタイプ、つまり車体は前期型を流用して砲や足回りを後期型とする仕様であることがよく分かります。

 

 ステップ14では、上図の遮熱板I29のみを取り付けます。

 

 組みつけました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その8  アプトの道 第三トンネルまで

2024年09月22日 | ゆるキャン△

 ゆるキャン群馬キャンプ編の安中市エリア聖地巡礼、「アプトの道」の続きです。国道18号線旧線から連絡路の階段を引き返して、第三橋梁「めがね橋」の上に戻りました。上図は横川方向を見た図で、奥の暗がりのなかに第五トンネルがうっすらと見えます。

 

 橋から下の国道18号線旧線を見下ろしました。横断歩道の向こうが、瑞浪絵真がスマホで「めがね橋」を撮った位置です。横断歩道の左側に橋があり、下を碓氷川が流れて碓氷湖に注いでいます。

 

 第三橋梁を渡りつつ、後ろを振り返って第六トンネルを見ました。

 

 再び振り返った際に、第六トンネルの右側つまり北側にも、信越線新線跡のトンネルがあるから見えるかな、と思って探しましたが、見えませんでした。

 

 ですが、信越線新線跡の橋梁は見えました。地図で見ると隣にある感じでしたが、実際には少し離れていました。

 

 信越線新線跡の橋梁部分をデジカメの望遠モードで撮りました。

 この新線は、昭和三十八年(1963)7月に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで開通し、旧線同様に最大66.7パーミルの急勾配を昇降するべく、一般的な車輪による粘着式運転を行ないました。そのために直流1500V・架空電車線方式に変更しました。
 その後、昭和四十一年(1966)2月に旧線の一部を改修工事する形で最大66.4パーミルの新線がもう1線開通し、これをもって横川駅から軽井沢駅までの全区間の新線が複線化されました。

 なので、上図の新線跡の橋梁も二つ見えました。これらの新線も平成九年の北陸新幹線開通に伴って廃止されています。

 

 第三橋梁を渡った後、脇の平場から橋を見下ろしました。どこから見ても立派な姿です。

 

 それから第五トンネルをくぐり抜けました。

 

 この碓氷第五トンネルは、明治二十五年九月の竣功で、全長は約242メートルです。御覧のようにポータルも本格的に造られており、笠石、帯石、ピラスター、ウイングの基本パーツが揃っています。ウイングの外側に石積みの擁壁が加えられています。

 

 第五トンネルから第四トンネルを見ました。ほぼ真っすぐなので、第四トンネルの向こうに第三トンネルも見えました。
 こういうトンネルの連続は、Nゲージのジオラマにしても楽しくてワクワクしてしまいます。いま少しずつ製作している大井川鐡道井川線のジオラマにも、こういった感じで三つのトンネルを置くモジュールを計画していますが、ここの景色がとても参考になりました。

 

 第四トンネルを抜けてきました。この碓氷第四トンネルも明治二十五年九月の竣功で、全長は約100メートルです。ポータルの造りは先の第五トンネルと共通ですが、レンガでなく石材を使用して構築されています。レンガと石材の使い分けの基準はどのようだったのでしょうか。

 第四トンネルの横川側に、上図の道標が立っています。

 

 道標の横から、すぐ下を通る国道18号線旧線への連絡路が伸びています。そういえば、横川駅から乗ったタクシーの運転手さんの熱心な説明のなかに「あそこで降りて、第四トンネルから「めがね橋」まで歩いていかれる方もいらっしゃいますよ」というのがありました。その降りる場所がここであったわけです。

 

 続いて第三トンネルに進みました。これのポータルも石材を積み上げて造っていますね・・・。アーチ部分だけをレンガで造り、その巻厚(まきあつ・覆工の厚さ)は四層です。

 

 第三トンネルを抜けました。この碓氷第三トンネルは明治二十五年九月の竣功で、全長は約74メートルです。こちら側のポータルも石材造りです。第四トンネルと同じ造りであるようで、スパンドレル部分が狭いのが特徴です。

 

 しかし、こうした標識がどのトンネル、橋梁でも横川駅側にのみ立てられているのは、何とかなりませんかね・・・。「アプトの道」を歩く観光客の殆どが横川駅側から進んで、長い急こう配の道を登ってくるから、こういうふうになっているのだろうと思います。
 ですが、今回の私のようなゆるキャン巡礼者は、まず間違いなく反対側の熊ノ平駅からスタートして、最短でも碓氷湖畔カフェの横から歩きますから、トンネルや橋梁の番号を知るのは通ってからになるのですね。

 一応、今回は旅行前の事前予習で利用した「国重要文化財 碓氷峠鉄道施設」というサイトの「信越本線 碓氷峠鉄道施設マップ」なる詳細な地図を携行していきましたので、通ったトンネルや橋梁の位置や番号は分かりましたが、やっぱり現地では最後に標識を見て確認していましたから、熊ノ平駅側にも標識を立てて欲しかったな、と思います。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その7  アプトの道 第三橋梁(めがね橋)

2024年09月21日 | ゆるキャン△

 ゆるキャン群馬キャンプ編の安中市エリア聖地巡礼、「アプトの道」の続きです。
 第六トンネルを抜けると前方に橋梁が見えましたが、これまで渡ったどの橋よりも長さがありました。これがあの有名な「めがね橋」こと第三橋梁だな、と気付きました。

 

 橋のたもとの右側の平場に寄ってみました。上図のように長く、そして高い立派な総レンガ造りの橋梁の姿が見えてきました。おおお・・と思わず声が出ました。全国各地で色々な明治期のレンガ造り構築物を見てきましたが、これほどの雄大な規模の橋梁を見るのは初めてだったからです。

 

 第六トンネルの横川側に、第三橋梁の下へ降りる階段がありましたので、降りていきました。第三橋梁の下を国道18号線旧線が通っていて観光駐車場もあるので、連絡路が設けられていて、壮大な橋梁を下からも眺める事が出来るからです。

 

 連絡路の脇に立つ案内説明板。使用されたレンガは200万個以上・・・、凄いですね・・・。

 

 連絡路は橋の下をくぐります。その際に見上げると、御覧のような迫力です。明治の半ばにこんな大きなレンガ造りの橋梁を作ってしまうのですから、文明開化以降の富国強兵、殖産興業のスローガンに象徴される近代日本のすさまじい活力と向上心と弛みない努力のさまが偲ばれます。凄い、素晴らしい、という他に言葉がありません。

 

 「めがね橋」の通称で知られる碓井第三橋梁は、旧信越線のレンガ造り橋梁のなかで最大の規模を誇ります。全長は約91メートル、高さは約31メートル。ゆるキャンでもおなじみの大井川上流のあの畑薙大吊橋が同じ高さでしたが、吊橋とレンガ造り橋梁とでは外観が全然違います。こちらのどっしりとした重量感、ガッシリとした堅牢感、度々の地震にも揺るがなかった安定感、どれをとっても「めがね橋」のほうが勝っていて見応えも充分です。

 この第三橋梁は、信越線敷設工事の最初に作り始められたようで、他の施設よりも早い明治二十四年(1891)12月に竣功しています。これだけの規模の橋ですから、工期も長く見積もって早めに構築されたのでしょう。

 

 上図のアングルでゆるキャン第90話の表紙イラストになっています。原作コミック第16巻56ページです。

 

 このイラストですね。連載当時はカラーだったと思います。瑞浪絵真がスマホで撮影しています。

 

 瑞浪絵真が撮影していた場所です。左の横断歩道を渡れば「めがね橋」の下をくぐって階段を登って橋の上の「アプトの道」に行きます。歩道を手前方向へ進むとバス停があり、200メートルぐらい登っていくと観光駐車場があります。

 

 この谷間には、御覧のとおり碓氷川が流れています。今回の「アプトの道」の全コースのなかで最も広くて深い谷でした。

 

 碓氷川の標識から国道18号線旧線を横川側に約50メートルほど進んで振り返ると、上図の景色になります。このアングルも作中に出ています。

 

 このシーンですね。原作コミック第16巻72ページ1コマ目です。各務原なでしこ達は軽井沢駅からタクシーで移動し、運転手さんの好意により熊ノ平駅跡に寄っていますが「めがね橋」にも立ち寄ったことが分かります。タクシーはたぶん観光駐車場で待機していたのでしょう。

 

 どこから見ても絵になる、立派な鉄道橋梁です。国の重要文化財に指定されるだけあって、他に類例を見ない規模のレンガ造り四連アーチ橋梁です。

 このような綺麗なアーチが並ぶ古い橋梁の文化財といえば、個人的には長期出向で九州に住んでいた時期に熊本県の知人に連れられて見に行った、阿蘇郡小国町の旧国鉄宮原線の幸野川橋梁を思い出します。あちらは六連アーチで全長は116メートルでしたが、コンクリートの骨格に鉄ではなく竹を用いた、竹筋コンクリート造りと呼ばれる珍しい構造で、国の登録文化財に指定されています。

 

 しばらく立ち止まって見上げていましたが、全然見飽きません。魂に響く不滅の建築、とはこういう建物を言うのでしょう。

 

 旧線のバス停に寄って見ました。「めがね橋」から約50メートルの場所にあります。指定期間の土日にのみ軽井沢駅と横川駅を結ぶバスがここにも停まります。バス停からさらに150メートルほど離れると観光駐車場があります。

 

 旧道脇に立つ、古い方の案内説明板です。昭和四十五年の設置で、現地がまだ碓氷郡松井田町だった頃に立てられています。

 平成八年(1996)の夏、大学時代の群馬県の知人に誘われて、彼の地元である碓氷郡松井田町へ行き、彼の実家が氏子になっている妙義神社に参拝したことがあります。その後、横川駅の横を通って坂本宿の街並みと碓氷関所跡にも行きました。その帰りに「峠の釜めし」も食べたと記憶しています。
 当時はまだ「アプトの道」はありませんでしたから、旧信越線跡のトンネルや橋梁の遺構は見に行っていませんでしたが、もし行っていれば、「めがね橋」ぐらいは見られたのだろう、いまと変わらない姿に圧倒されたのだろう、と思います。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)コアラの森学園 センチネルAC1

2024年09月20日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  コマンダーモデル (商品コード1-070)

  制作期間   2023年9月25日~9月30日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 完成です!!

  総評・備考
 センチネルAC1は、第二次大戦中にオーストラリア軍が開発した巡航戦車である。鋳造による一体構造の車体をもつ最初の戦車で、オーストラリアで大量生産された唯一の戦車でもあった。1943年までに65輌が生産されたが戦線への配備はなされず、実戦経験も無いままに終わっている。
 ガルパンではコアラの森学園チームの車輌として最終章にて初登場し、無限軌道杯に参加し第一試合にて知波単学園チームと対戦したが敗退している。
 センチネルAC1の1/35スケールのプラモデルは未だに出ておらず、ガレージキットが2種知られているのみであるが、2024年現在において入手が可能なのはコマンダーモデルの品(下のキット一覧の2)である。アメリカのガレージキット製品であり、国内の普通の模型店では取り扱っていないため、海外キットの輸入販売も扱っている専門店にて取り寄せる必要がある。

  公式および適応キット一覧(2024年9月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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伏見城の面影23 養源院客殿

2024年09月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 客殿(本堂)に入る前に、上図の中門および番所、築地の構えを見に行きました。養源院の正門にあたりますが、普段は閉じられていて一般の拝観順路からも外れています。本堂とともに国の重要文化財になっている建物群ですので、U氏が「折角だからちょっと見ていこう」と見に行きました。私も後に続きました。

 

 寺院の正門には有り得ない番所が付く点も、徳川家の全面支援による建設の一端を示しています。現存の伽藍は元和七年(1621)の再建ですが、その発願は二代将軍徳川秀忠正室の祟源院(お江)なので、江戸幕府の公的造営ではなかったものの、幕府の直営事業として位置づけられたようです。

 そのためか、上図の中門や番所は当時の最高格式の建築として建てられており、寺院というより城郭の門や番所に近い雰囲気に仕上がっています。移築の痕跡は一切見えませんので、ここで元和七年に新造された建物であるようです。

 

 現存の建築群の建設が江戸幕府の直営事業であったことは、事業の責任者の顔ぶれを見れば分かります。養源院の正式記録である天明六年(1786)の「由緒書」には、事業の担当者として「御奉行 佐久間河内守殿、御見分 土井大炊守殿 板倉伊賀守殿」とあり、当時のトップクラスの普請事業担当者ばかりであることが知られます。

 まず、普請奉行の佐久間河内守実勝(さねかつ)は、元は豊臣秀吉の小姓でしたが、後に徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長十四年(1609)に名古屋城築城の普請奉行を務めました。さらに寛永九年(1632)には幕府の作事奉行となっています。現代で言えば建設関係のトップにあたりますが、茶人としても知られ、宗可流の開祖にあたります。

 御見分役の土井大炊守利勝(としかつ)は、徳川家康の母方の従弟にあたり、徳川秀忠政権においては老中職にあって絶大な権勢を誇りました。徳川秀忠正室の祟徳院の再建発願を容れて事業を実質的に推進せしめた人物であろうとされていますが、当時はずっと江戸詰めでしたから、養源院再興の現場には直接的には関与していなかったようです。

 したがって、もう一人の御見分役の板倉伊賀守勝重(かつしげ)が実質的に担当していたものとみられます。徳川家康から家光までの三代に仕え、慶長六年(1601)より京都所司代を勤めていました。元和五年(1619)に京都所司代職を子の重宗(しげむね)に譲って引退していましたから、養源院再興の時点では隠居の身分でしたが、それでも幕命により御見分役を務めたようです。元和九年(1623)に従四位下に叙せられて侍従に任ぜられたのは、その功績によったのかもしれません。

 

 したがって、現存の客殿(本堂)以下の建立には、土井大炊守利勝が実質上の実行委員長として采配を振るい、普請奉行を佐久間河内守が、御見分役を板倉伊賀守勝重が務めた、という構図で理解して良いでしょう。当時の幕閣の重要なメンバーが並んでいますから、養源院の再建事業というのは、そのへんの有力寺社の再建工事とは格も中身も違っていたのだろう、と言えそうです。

 

 なので、客殿が伏見城からの移築であるとされるのも、何らかの根拠があってのことだろうと思います。既に江戸期の寛政十一年(1799)の「都林泉名勝図絵」(江戸後期の京都の寺社の名庭園を網羅したガイドブック)の養源院の項に「当院の客殿書院は伏見城の館舎を此処に引移すなり」とあり、一般的にも知られていたようです。

 そうなると、伏見城のどの時期の建物が移築されたのか、という問題が出てきますが、豊臣期までの伏見城は伏見城合戦で西軍に攻められて全ての建物が焼かれたことが史料にも記されるため、その建物を移築することは有り得ないと考えられます。
 したがって、その後に徳川氏が再建した伏見城の建物が候補となります。徳川家康が慶長六年(1601)から再建し、元和五年(1620)に廃城が決定して翌年から破却が始まり、元和九年(1623)の時点で本丸書院以外の全ての建物が解体撤去されています。元和七年の養源院再建は、伏見城の破却が進められている時期にあたりますので、解体撤去された建物を転用するというのは可能だったわけです。

 なので、養源院の客殿が伏見城からの移築であるとするならば、それは元和五年(1620)から破却が始まった徳川期伏見城の建物であった可能性が強くなります。

 

 上図は、中門を見た後で客殿の車寄の南側に回って、立ち入り禁止区域の外から見た護摩堂です。通常は非公開なので、近くまで寄ることも出来ません。

 

 護摩堂は、崇源院の五女(末娘)にあたる徳川和子(とくがわまさこ)こと東福門院(とうふくもんいん・後水尾天皇の皇后)が宮中の祈願所として併設したもので、国の重要文化財に指定されています。

 

 U氏が「いよいよ入りますかね」と言い、私も頷いて上図の車寄(くるまよせ)つまり玄関口から内部に進みました。

 

 車寄の内部です。本堂客殿との取り合い部分の構造がシンプルなので、最初から客殿とワンセットで造られていることが伺えます。つまり、客殿と同じく車寄も伏見城からの移築である可能性が考えられます。

 外見は、屋根を入母屋、妻入りとして正面中央に軒唐破風を付けますが、この形式は二条城二の丸御殿の車寄、名古屋城本丸御殿の車寄、などと共通しています。いずれも江戸幕府黎明期の主要御殿建築の車寄として評価出来るでしょう。

 

 私たちが入った時、車寄から客殿南側へ観光ツアーの団体が案内人に連れられてひしめいていましたので、U氏が反対側の北側への出入口を指差して「あっちから見よう」と言い、国重要文化財の俵屋宗達の杉戸絵を横目に見つつ入っていきました。

 上図はその北側から入ったところの、客殿西側の広縁と下間の並びの杉戸引違です。左端は落縁で、雨戸と障子が落縁の外側に付けられているのが分かります。この形式は古いもので、江戸期の書院建築では類例が稀です。私の知る限りでは、知恩院大方丈ぐらいです。
 なお、奥の杉戸が開放されている部分が下間の奥室で、寺では「牡丹の間」と呼び、秀吉の学問所であったと伝えています。

 

 その「牡丹の間」を見ました。中央に地蔵菩薩像が祀られ、奥の襖には牡丹図が描かれています。狩野山楽の筆とされます。

 

 観光ツアーの団体が北側に移動してきたので、入れ替わるようにして南側へ回りました。上図は南の広縁と三つの前室です。左の白い襖の部分が下間前室、その右奥の開かれた両折桟唐戸の部分が室中前室「松ノ間」、奥の杉戸が外されて開放されている部分が上間前室にあたります。

 上間は明治期に聖天堂に改められていて撮影禁止でしたので、その内部構造を撮れませんでしたが、一見して城郭御殿の上段の間に相当する格式の高い空間であることが分かりました。その奥室にのみ、床と棚と付書院の正規座敷飾り三点セットがみられ、上段部分の天井は最高格式の折上小組格天井となっています。

 こうした空間は、本来は高位の人物が御成りになる部屋であり、想定される人物は、徳川将軍家かその関係者、ということになります。徳川期伏見城の客殿であったのならば、当然ながら将軍家、養源院客殿においては願主の祟源院および娘の東福門院、ということになるでしょう。

 U氏が得意の身体尺による計測法で客殿の柱間寸法を測っていたので、どのくらいかと訊ねると「両側の室の寸法は16尺20寸ぐらい、中央の室中は22尺70寸・・いや75寸に近いかな」と答えました。それらを6.5という数値で割ると、両側の室の算出値は2.5、室中のそれは3.5という数値に近くなります。やっぱりな、と納得しました。

 実は、6.5というのは6.5尺のことで、室町戦国期までの柱割制の基本単位のひとつです。6.5尺を基本にして寺社の柱間寸法を決めるやり方で、建物の規模に応じて2倍、2.5倍、3倍、3.5倍と乗算して柱間を決める方式です。江戸期になると書院建築の寸法は柱割制から畳を基本単位とする畳制に移行しましたから、養源院客殿の平面規模は室町戦国期までの柱割制を踏襲していることが分かります。戦国期末期に建てられた伏見城の建物であれば、間違いなく柱割制で設計されているはずなので、この点でも移築伝承は本物である可能性が示唆されます。

 

 退出後に、しばらく玄関前の枝垂れ桜を眺めました。養源院本堂の客殿は、いまでは数少ない江戸初期の書院建築の遺構であり、色々と興味深い様相が見られて楽しめました。どう見ても考えても、客殿は伏見城からの移築であるという伝承は本物だろう、という意見にU氏も私も落ち着きました。面白かったな、と言い合いました。

 ですが、京都府や京都市の文化財調査報告書類ではこの種の移築伝承を、単なる言い伝えとするにとどめるか、または無視して顧みない傾向があるようです。
 そのために、実は本物の旧伏見城建築である可能性が高いのに、全然気付かれていなかったり、違う評価を下されて誤解されたまま、というケースがあるのだろうと思います。伝承軽視という、戦後の歴史学の悪弊は、令和になっても残り続けるのでしょうか。  (続く)

 

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継続高校 Ⅲ号突撃砲G型 作ります!! その4

2024年09月18日 | ガルパン模型制作記

 ステップ9およびステップ10では、車体後部の各所の部品と車外装備品を組み立てます。車外装備品は全て塗装後に組み付ける予定です。
 ステップ9では、A19、E15、I11、I18が劇中車にありませんので不要となり、消火器のF33は位置を変更し、車間表示灯のA21は脚を少し縮めます。
 ステップ10では、クランクロッドのF31を劇中車にあわせて背面に移す他は、全てのパーツが不要となります。F31も形状が異なりますので、後で改造します。

 ステップ11では戦闘室を車体にセットし、保留にしていた天板部分も取り付けます。車外装備品の斧F32、ジャッキF29、F30は劇中車にありませんので不要です。フェンダー上のステーE13も、後で別部品に交換しますので不要です。さらにガルパン仕様への改造および追加工作が4ヶ所にありますが、後のステップで順番に作業する予定です。

 

 ステップ9で組み付けるパーツは上図の4点です。クリーニングロッドとその延長ロッド、車間距離灯、消火器です。

 

 このうちの消火器は、実車では斜めにセットされており、キットでも該当位置に基台のモールドがあります。劇中車では斜めではなくて真っすぐにセットされていますので、基台モールドを2つとも削り取ります。

 

 劇中車の消火器の装備状況です。御覧のように真っすぐにセットされています。

 

 基台のモールドを削り取りました。消火器は塗装後に取り付ける予定です。

 

 車間距離灯は、キットのパーツのままだと脚が長いので、0.5ミリほどカットして縮めてから取り付けました。

 

 ステップ10は、クランクロッドのF31を劇中車にあわせて背面に移すだけなので、次のステップ11にてまとめて工作します。ステップ11で組み立てるパーツを準備しました。

 

 保留にしてあったタミヤキットの天板部分を組みつけました。長さはピッタリでしたが、横幅が1ミリほど小さかったので、左右の隙間に0.5ミリプラ板を差し込んで埋めました。

 

 これで戦闘室の形状が劇中車の仕様に仕上がりました。続いてガルパン仕様への改造および追加工作が4ヶ所にありますが、内容的には後のステップにて作業したほうが効率が良いため、それぞれの工作を後のステップに回します。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その6  アプトの道 第六トンネルまで

2024年09月17日 | ゆるキャン△

 ゆるキャン群馬キャンプ編の安中市エリア聖地巡礼、「アプトの道」の続きです。第六橋梁を渡って上図の第八トンネルに進みました。この碓氷第八トンネルは、明治二十五年(1892)9月の竣功で、全長は約91メートルです。先にくぐってきた第十、第九トンネルと同じ造りなので、同じデザインと工法で10のトンネルが造られているのかな、と思いましたが、実際には違いました。

 

 第八トンネルを抜けました。上図の標識は横川駅側だけに設置されていますので、今回のように熊ノ平駅跡から歩いていると、橋梁もトンネルも向こうへ付いてから初めて標識を見て番号を知ることになります。

 

 続いて第七トンネルへ。この碓氷第七トンネルは、明治二十五年(1892)9月の竣功で、全長は約75メートルです。全体的に保存状態が良く、御覧のように内部も竣功当時のレンガ積みのままで、後世のコンクリート補修の跡がほとんどありません。継ぎ目や退避抗も綺麗に残っています。

 

 第七トンネルを抜けました。この第七トンネルから、ポータルにピラスター(付け柱)が付いているのを見ました。上図の標識の後ろに見える柱状の造りがピラスターです。明治期のトンネルらしい姿です。先にくぐってきた第十、第九、第八トンネルとはポータルの造りが異なりますが、なにか事情があったのでしょうか。

 

 第七トンネルの前から右下の国道18号線旧線へと連絡する階段がありました。横川駅からタクシーに乗った時に通ったルートで、運転手さんが「あそこに橋梁がみえますでしょ」と教えてくれたのを思い出しました。

 

 その橋梁が、上図の碓氷第五橋梁です。明治二十五年(1892)11月の竣功で、全長は約11メートルです。

 

 道からそれて崖近くまで寄ってみたら、第五橋梁のレンガ造りのアーチが見えました。土台はコンクリートで補修されているようです。

 

 再び下流側の国道18号線旧線を見下ろしました。いっぺん道路まで降りてみようかと考えましたが、国道18号線旧線に降りたところでどうするか、という案もなく、時間が貴重でしたので止めました。

 

 第五橋梁から先は、上図のように切り通しとなっています。尾根筋をスパッと綺麗に切り下げてあります。尾根がもう少し高かったら、ここにもトンネルが通されたのでしょう。

 ちなみに、「アプトの道」の熊ノ平駅跡から横川駅までの区間において、このような切り通しの場所は他にありませんでしたので、上図の景色は割と印象に残りました。

 

 切り通しを抜けると再び橋を渡りました。碓氷第四橋梁です。明治二十五年(1892)11月の竣功で、全長は約7メートルです。

 

 道の脇に尾根を削平したスペースがあったので、その縁まで寄って第四橋梁のアーチを見ました。小さな橋ですが、レンガでしっかりと造られています。アーチを中心とする造りはトンネルのポータルと基本的には同じで、上端に笠石、その下に帯石がありますが、左右のピラスターは付いていません。

 

 続いてトンネルに入りました。「アプトの道」の10のトンネルで最も長い第六トンネルです。明治二十五年(1892)9月竣功で、全長は約543メートルです。内部には他のトンネルには無い明かり取り窓が並びます。

 

 明かり取り窓の一つに近寄って外をのぞいてみました。

 

 下に国道18号線旧線が見えました。明治十九年(1886)にそれまでの中山道碓氷峠越えルートに代わって碓氷新道とし完成した道路で、信越線の工事における資材運搬ルートしても機能したそうです。いまに残るトンネルや橋梁を形成している膨大な量のレンガや石材も、この道路で運ばれたのでしょう。

 

 第六トンネルの中央寄りにも上図のような明り取り窓があり、天井にも穴が一つあいていました。第六トンネルは最も長いため、工期短縮を図るために途中からも横抗の形でトンネルを掘り、途中の沢を後で塞いでトンネルにして通したそうです。天井の穴は排煙用の穴であるそうです。

 横抗は二ヶ所にあって、甲横坑、乙横坑と名付けられ、それぞれに横抗跡の明り取り窓が設けられました。上図は甲横坑の部分にあたり、横抗跡の明り取り窓が三つ、さらに天井には丸い排煙用の穴が設けられています。

 

 とにかく長いトンネルなので、ひんやりした中をしばらく歩くことになり、ちょっと寒くなってきました。両腕から背中まで冷えてきたところで、やっと上図の出口に着きました。

 

 第六トンネルの標識です。

 

 第六トンネルのポータルは、これまでのトンネルよりも立派でした。笠石、帯石はもちろん、ピラスターも完備しています。左右のウイング(翼壁)も立派に築かれ、アーチ環はレンガではなく堅牢な迫石(せりいし)を用いて造られます。キーストーン(要石)にあたる迫石は上端が帯石に接し、左右に連なる迫石は五角形に整形した特殊な楯状迫石となっています。楯状迫石は、スパンドレル部分の壁面のレンガと噛み合わせるようになっており、ポータルの強度を増す効果があるものと思われます。

 今回の「アプトの道」で見たトンネルの意匠としては一番しっかりしていて立派です。見応えもあって、明治期のレンガ造りポータルの教科書的事例を見ているようです。次に述べる第三橋梁とともに、信越線旧ルートの碓氷峠最大の目玉として建設されただけあって、当時の土木技術の粋が結集されたのでしょう。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その5  アプトの道 第六橋梁まで

2024年09月16日 | ゆるキャン△

 熊ノ平駅跡の「アプトの道」は、最初に信越線の新線跡の上下線の間を通り、上図のように右側の上り線を踏切で渡ってその右側の旧線跡へとそれていきます。作中で、各務原なでしこは旧線跡まで行ってあちこちを撮りまくっていましたが、瑞浪絵真は踏切の手前で立ち止まってスマホで調べていたようです。

 

 このシーンです。原作コミック第16巻66ページ3コマ目です。各務原なでしこは3ヶ所で撮影していますね。2ヶ所はトンネルを、もう1ヶ所は旧線跡脇の神社あたりを撮っていたようです。

 

 踏切の上から信越線新線跡の上り線の横川方面を見ました。左に下り線が並び、いずれも奥のトンネルに続いていますが、トンネル入り口に安全対策のための防護柵が設けてあります。

 

 踏切付近で反対側を見ました。変電所跡の白いコンクリート施設、プラットホーム、作業小屋などが廃線となった時点よりそのまま保たれています。これらの施設は一括して「旧碓氷峠鉄道施設」の件名で国の重要文化財に指定されているため、文化財保護法でいう「現状維持および保存」が図られているわけです。

 

 各務原なでしこが撮っていた、旧線跡脇の神社です。左隣には殉難碑もあります。大正七年(1918)にここ熊ノ平駅構内で発生した列車脱線事故の犠牲者、および昭和二十五年(1950)に駅構内で発生した土砂崩壊により熊ノ平駅舎、鉄道官舎等が埋没した事故の犠牲者、の慰霊のために設けられたそうです。

 

 神社付近から見える横川方面のトンネルは4つあり、上図の2つの左側はいま「アプトの道」として整備されている旧線跡、右側は俗に「突っ込み線」と呼ばれる引き込み線のものです。

 熊ノ平駅ではいわゆるスイッチバック方式が採られて列車の切り替えや交換が行われていたそうですので、その際にいったん列車を引き込み線に「突っ込んで」方向の入り替えを行なっていたそうです。その引き込み線はトンネルの向こうで行き止まりになっています。

 

 そして右の「アプトの道」として整備されている旧線跡のトンネルの向こうに、新線跡の上下線の2つのトンネルが並びます。

 

 駅構内の大体の施設と景色を見て撮ったので、「アプトの道」の旧線跡に進むことにしました。上図は一度振り返って駅構内を望んだところです。

 

 今回の「アプトの道」の最初のトンネル、碓氷第十トンネルです。明治二十五年(1892)9月竣功、全長約102メートル、御覧のよう石製の笠石および帯石を除いてポータルの全てがレンガで造られています。

 旧線のトンネルは、横川駅側から順番に番号が付けられており、熊ノ平駅までに10のトンネルがあります。それで今回は熊ノ平駅から横川駅までのルートを進みますので、十、九、八・・・の順にトンネルをくぐることになります。

 

 第十トンネルの中を歩きました。空気がひんやりしていて気持ち良かったです。内部は築造当時のレンガ壁面とコンクリート補修跡とが混在していました。上図左に見える退避抗と呼ばれる、保線員がトンネル内にて列車の通過時に避難するための窪みが等間隔で配置されていました。

 

 第十トンネルを抜けようとする地点で、奥に次の第九トンネルが見えていました。いい雰囲気の廃線跡です。大井川鐡道井川線のトンネル群も似たような感じだなあ、と思い出しました。こういう雰囲気の山の中のトンネル群をNゲージのジオラマで作ってみるのも面白そうです。

 

 碓氷第九トンネルです。明治二十五年(1892)9月竣功、全長約119メートル。ポータルの造りはさきの第十トンネルと共通です。一般的なトンネルにみられるピラスター(付け柱)が無いので、ポータルがスッキリして見えますが、反面どこか弱弱しい感じがします。構造材としてのピラスターが有るか無いかで、印象も左右されます。

 

 第九トンネルを抜けると、長い橋があります。旧線跡ではトンネルと同じく橋梁も幾つか築かれていまに残っていますが、普通に「アプトの道」を歩いていると、橋梁の上をたどるだけになりますので、橋梁の姿や規模や文化財的価値といったものは分かりにくいです。道からそれて橋の横や下へ降りたりしないと、橋の姿を見られません。

 

 橋の上から右下の谷筋を見下ろすと、横川駅からタクシーで登ってきた国道18号線の旧ルートが見えました。タクシーの運転手さんが「あれが2番目に大きい橋ですよ」と指さして教えてくれた、その橋をいま渡っているのでした。

 旧線跡にて1番大きい橋は、作中で各務原なでしこ達も見上げた第三橋梁で、「めがね橋」の愛称でも知られる有名なスポットです。それに続いて2番目に大きい橋をいま渡っているのでしたが、その全容を見られませんので、いまひとつピンときませんでした。

 

 その橋は碓氷第六橋梁といい、明治二十六年(1893)3月の竣功で、全長は約51メートル、高さは17.4メートルありますが、アーチは一つだけであとは全てレンガ積みで構築しているため、ピラスターも付けられて堅牢な造りになっているということです。

 トンネルと同じように橋梁も横川駅側から順番に番号が付けられており、熊ノ平駅までに6の橋梁があります。したがって今回の「アプトの道」ではこの第六橋梁が最初の橋にあたります。  (続く)

 

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