気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く37 その11  霧ヶ峰から松本へ

2024年02月29日 | ゆるキャン△

 車山高原肩のレストハウス「チャプリン」で45分ほどを「コーヒー」や「厚焼きトースト」、「高原のソフトクリーム」などをいただいて過ごした後、バス停に戻って上図の12時53分発の上諏訪駅行きバスに乗りました。

 既に空はどんよりとした雲に覆われつつあり、天気予報通りに雨が降りそうな気配でした。ですが、この天気予報は諏訪地域の山間部のもので、麓の諏訪湖および市街地では「曇り時々晴れ」となっていました。

 

 帰りのバスの車内は、朝に登って来た時のほぼ満員の状況とはうってかわって閑散としていました。乗客は私を含めて9人でした。

 乗車直前にバス停で二人組の登山客と雑談した際に、霧ヶ峰の登山ルートは車山高原から白樺湖に降りるか、茅野駅行きのバスに乗り換えて白樺湖経由で下りるパターンが一般的、と聞きました。その逆もあるけれど、全体的にずっと登りになるからキツい、霧ヶ峰から車山高原まであがってそれから白樺湖方面に行くほうが大体下り坂になるから楽、と聞きました。
 なので、今朝ともに上諏訪駅から乗った大勢の登山客の大部分は、白樺湖方面に移動したのだろうな、と理解しました。それで帰りのバスは空いていて席に座ることも出来ました。

 

 車山高原から霧ヶ峰インターへ戻る途中の、南側の景色です。見ていたら窓ガラスにポツポツと水滴が付き始めました。とうとう降って来たか、バスに乗ってからで幸いだった、と思いました。

 

 帰りのバスも、行きと同じように霧ヶ峰インターからビーナスラインを北へ進んで八島湿原に向かいました。その途中の北側の景色です。正確には八島ヶ原湿原と呼ばれ、日本を代表する高地帯の湿原として知られます。
 霧ヶ峰高原の北西部に位置して標高は1630メートル、湿原の主役ともいえるミズゴケの種類は18種にのぼり、中には稀少な種類もあって国の天然記念物に指定されています。

 

 八島湿原のビジターセンター(上図左奥の建物)と観光駐車場に着きました。バス停はビジターセンターの玄関口前にあって、バスは観光駐車場の中を横断してバス停に停まりました。十数人の登山グループ客が乗ってきました。
 雨が・・・、と話していたので、雨に降られて急いで帰ることにしたもののようでした。ですが、パラついた程度で間もなく止みました。

 

 八島湿原から霧ヶ峰インターを経て、下の霧ヶ峰高原スキー場の最寄りの「強清水」バス停に入りました。ここで付近の山小屋からの荷物や配達物などを積み込んで、バスはロータリーからビーナスラインに戻りました。
 空は、東のほうはどんよりとしていましたが、西側はまだ青空が広がっていたので、諏訪市街に戻る頃にはまだ晴れてるのかな、と思いました。

 

 13時50分、終点の上諏訪駅前バス停に着きました。思った通り、諏訪市街エリアの天気はまだ晴れ間があって、霧ヶ峰高原ほどには崩れていませんでした。

 上図奥に見える白い施設が、上諏訪駅の南に建つ、東口とここ西口とを結ぶ連絡用の陸橋です。駅から西口へは直接出られないので、駅の改札口は東口にしかありません。それで東口から西口に行くには、あの白い陸橋を回らないといけないのです。

 上図では、白い陸橋は上諏訪駅の付属のようにみえますが、実際は上諏訪駅の東に並ぶ商業施設への連絡用陸橋であって、駅の建物には含まれません。
 だから、駅内から陸橋には上がれず、いったん外に出ないといけないのですが、そのことを知らずに駅内で陸橋への階段を探し回って右往左往した挙句、時間を無駄に浪費したり、西口からのバスに乗り遅れたり、というケースが少なくないそうです。

 

 記念に撮った上諏訪駅前バス停です。西口のほうです。時刻表を御覧下さい。霧ヶ峰高原に行く季節限定の登山バス時刻表が、一日6便しか無いこと、午前中と夕方だけに配分されていることが分かります。この時期は土日祝日のみの運行ですが、夏場の指定期間は毎日運行されるそうです。

 この霧ヶ峰高原行の登山バスは、毎年、時刻表が変わります。運行元のアルピコ交通の霧ヶ峰線・八島湿原線の案内ページにて春のシーズン前ぐらいに公開されますので確認しておくことをおすすめします。
 アルピコ交通の霧ヶ峰線・八島湿原線の案内ページはこちら

 

 13時53分、上諏訪駅の玄関口に着きました。この駅舎は東口にしか玄関が無いため、西口のバス停へはいったん外に出て南の陸橋を渡っていく必要があり、時間がかかります。帰りも3分ぐらいかかって陸橋経由で東口に回りました。

 

 次に乗る予定の列車は14時32分発の松本行き普通でした。30分余りの余裕があったので、駅内の土産物コーナーで嫁さんにリクエストされた品も含めて食材中心に7品ほど購入し、その場で宅配便発送の手続きもしました。まだ旅行を続けますから、荷物が増えるのは避けたいですし、食材には生ものも含まれますから、すぐに家に配達して貰ったほうが嫁さんも安心してくれます。

 買物をして、14時32分発の松本行き普通に乗り、しばらくはウトウトしていたと思います。その間の記憶があんまり無いからです。

 

 ウトウト状態から覚めて時計を見たら15時15分でした。その4分後の15時19分に松本駅に着きました。

 

 この日の宿は、上図の「ホテルMマツモト」でした。JR松本駅から徒歩3分の至近にある、ビジネスホテルとカプセルホテルを合わせたようなタイプのリーズナブルな宿泊施設です。
 「ホテルMマツモト」の公式サイトはこちら

 以前に出張で利用したことがあって知っていたのですが、それよりもこの建物の商業施設の中に文教堂があって閉店間近だったのと、すぐ隣にタイムズレンタカーの店舗があるのが、今回ここを選んだ理由でした。翌日はレンタカーを利用する予定だったからです。

 それで、チェックインする前に文教堂へ寄ってプラモデルや鉄道模型の品ぞろえを見物して2品ほど購入し、その後レストランで早めの夕食をとりました。それからタイムズレンタカーの店舗にも立ち寄って、翌日の予約手続きをしました。

 以上で、この日までの二日間の巡礼行動のレポートを、下諏訪霧ヶ峰編として括ります。翌日はレンタカーで高ボッチ高原へ行きましたので、項を改めまして高ボッチ高原編として綴ります。  (了)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目) 作ります!! その6

2024年02月28日 | ガルパン模型制作記

 ステップ15では砲身を組み立てます。砲の筒先に付けるA64は、劇中車のと形状が異なりますので、プラパイプで作り直します。
 ステップ16では砲塔を組み立てます。ガルパン仕様への追加工作が色々ありますので、順に述べてゆきます。

 

 ステップ15で組み立てる砲身のパーツ類です。ひとまず、ガイドの指示通りに組みます。

 

 砲身が組み上がりました。

 

 続いて砲身の先のA64を付けずに、劇中車の形状に合わせたプラ材で作り直します。

 

 用意したのは、上図のエバーグリーンの4ミリ径パイプでした。本当は4.5ミ径が欲しかったのですが、品切れでした。

 

 4ミリ径パイプを6ミリの長さにカットして、砲身の先端のすぼまっている部分もカットしました。

 

 そして6ミリの長さにカットした4ミリ径パイプを取り付けて、上図のようにマスキングテープで巻いて0.5ミリの厚みを追加しました。

 

 ステップ15が完了しました。

 

 ステップ16の砲塔の組み立てに進みました。

 

 手始めに、ガルパン仕様への追加工作のひとつ、砲塔前面のベンチレーターの円縁の移動を行ないました。これも前に制作したボーダーモデル品の時と同じ材料と手順で作業を進めました。ウェーブの「Uバーニア(丸)M」のパーツ7を用意し、形状を整えて上図の円縁パーツに仕上げました。

 

 円縁パーツを劇中車に合わせた位置に貼り付けました。続いて天面前部左側の不要なモールドを削ってパテで埋めました。天面の右側のカバーA72を1ミリほど内側にずらしてセットしました。

 

 さらに劇中車に合わせて前方のB76の取り付け位置をやや上にあげました。B74の右側面の不要なモールドを削り取りました。

 

 以上でステップ16の工程とガルパン仕様への追加工作を完了しました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その5 蒸気機関車の部品類 上

2024年02月27日 | ゆるキャン△

 大代川側線の見学に行く途中の道の、左手の広場には、御覧のように蒸気機関車の部品や車輪とおもわれる多数の金属の部品が置いてありました。修理やレストア中の蒸気機関車に関連する大量の部品の置き場であるようです。幾つかは赤錆が進行して金属自体がボロボロになっていました。

 

 うわー、こりゃ凄いなあ、と思わず声が出てしまいました。蒸気機関車の生のパーツをこんなに沢山見るのは、生まれて初めての事でした。子供の頃に蒸気機関車のプラモデルを父に作って貰った記憶がパッと頭に浮かびました。
 
 私の父は、鉄道工学の専門家で、旧国鉄、JR、名鉄の色々な車輌の設計や製造に関わった技術者でもありましたから、こういう部品のそれぞれも、全部知っていた筈です。蒸気機関車のプラモデルを作ってくれた時も、パーツの名前を一つ一つ私に教えてくれたのですが、いま覚えているのは、ほんの一部に過ぎません。

 なので、上図の部品類も、手前右側の投炭口ハッチ、その2つ隣の片端が円錐形になっている泥溜タンクしか分かりませんでした。

 

 この二つの大きな丸いのは、ボイラーの上に乗っている部品です。左のは頂部にハッチがあるので砂溜め、右のはサイズややや大きいので蒸気ドームだろうと思います。

 父が遺した大量の青焼きの車輌設計図のうち、蒸気機関車のは、C10形、C11形、C12形、C55形、C56形、D51形、D52形、D62形、E10形の9種類がありましたので、大井川鐡道で使用されているC10形、C11形、C12形、C56形の4種の図面のコピーをとって持参すれば良かったな、と思いました。
 再度ここに来る機会があれば、図面のコピーを持って来よう、と決めました。

 

 沢山あるので、色々見入ってしまいました。上図の中央右寄りにあるのは煙突のようですが、上部に巻環の痕跡が見えますので、たぶんC11形190号機の煙突だろう、と推測しました。

 C11形190号機はその時はトーマス号に扮していて、さっき新金谷車両区で見ましたが、その構成部品の大半はそれ以前にトーマス号を担当していたC11形227号機のそれを受け継いでいる、と聞いたことがあります。

 

 なので、ここに置かれている部品の幾つかは、C11形190号機の部品であるのかもしれません。

 

 これは左右の水タンクですね。上面の2ヶ所に吊り上げ用の円環が付いていて、整備の時にこれにクレーンを引っかけて吊り上げて外します。戦車の砲塔とかにも似たようなパーツがあるなあ、と思い出しました。

 

 これは除煙板のようです。デフとも呼ばれますが、これは標準型のタイプです。外から見ると薄い板のように見えますが、内側から見るとこのようにちゃんとフレーム材があって、各所に溶接とリベット留めで合板が重ねてあり、強度の確保がなされていることが分かります。

 

 さきほど見た左右の水タンクはいずれも内側を外側に向けて並べてあります。つまり外側同士をくっつけて並べてあります。
 外側にはナンバープレートの係止枠が付いており、整備中はナンバープレートは外してその下の表面にナンバープレートの数字をチョークとかで仮メモしてあるのですが、それが上図の状態では見えませんので、どの機関車の水タンクなのかが分かりませんでした。たぶん、C11形190号機の部品だろう、と思います。

 

 パイプ類です。細いのはたぶん冷却管、太いのはボイラー室に付属する過熱管の一部だろうか、と推測しました。

 

 このへんは、何の部品なのか全然分かりませんでした。

 

 カゴやバケツの中には小さな部品や細かいパーツが沢山積まれていました。

 

 この「元ダメ バン」のペイントは何を示すのでしょうか・・・。

 

 ネジやワッシャーなどは殆ど赤錆まみれでした。再利用して活かすことがあるのだろうか、と思いました。以前に川本氏に聞いた話では、最近はこういった古い金属部品でもレーザーで加工して錆落としして新品同様に戻せる技術が普及しているので、再活用の範囲が広がっている、ということです。

 上図のパーツ類も、こうしてここに集めて置いてあるので、少なくとも廃棄対象ではないことが分かります。蒸気機関車の部品なんて今では新品が製造されていない筈ですから、既存の古いパーツを転用したり、それをもとに再生したりした部品を使っているものと思われます。

 

 一通り見て回って、元の位置に戻りました。これは、さっきも見ましたが、間違いなく泥溜タンクです。表面に赤い塗装が残っていますが、大井川鐡道の機関車で車体を赤く塗ったのはジェームズのC56形44号機だけですから、これはC56形44号機の泥溜タンクなのでしょうか。

 

 これはちょっと分かりませんでした。蒸気ドームの横に並んでいることから、タービン発電機ではないか、と考えましたが・・・。  (続く)

 

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豊家の余香8 高台寺霊屋

2024年02月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺の庭園と開山堂を見た後、いったん南門から出て順路を東に進み、高台の山裾を斜めに登るような形で分岐点に着き、そのまままっすぐに上図の霊屋(おたまや)の前に進みました。その階段は老朽化のためか、いずれ修理するようで、木造の仮設階段によってカバーされていました。

 

 霊屋の前に立って建物を見上げました。庭園の東の丘裾の傾斜地を削って平坦地を造り、傾斜が残る西側と南側に石を積んで建物の基礎面を確保し、そのうえに敷地いっぱいに建物を建てています。
 高台寺は、本質的には豊臣家の墓所および供養所としての性格をもつ寺院であり、開祖の高台院北政所はこの霊屋の地下に埋葬されています。ですから、その境内地のどこからも見える高所に、中心の墓所である霊屋が建てられなければいけません。それで、かなりの土木工事を施して霊屋の敷地を構築したあとがうかがえます。

 南と西に門が設けられて土塀がまわっていますが、内部の通路空間は必要最低限であるため、見学者はその狭い通路から霊屋の建物を見上げ、内部へは立ち入り禁止であるために、正面の扉口から内部をのぞくことになります。

 

 先に見てきた開山堂の外観が禅宗様の質素な素木造であったのに対して、こちらの霊屋は御覧のように外観も豪華な造りです。豊臣政権期の建築の特色をよく示しています。南に付く上図の唐破風も、豊臣政権期特有の持ち上がりが少ない破風の形式です。

 U氏が「5月に見てきた大徳寺の唐門に似た雰囲気があるよなあ」と感心しつつ見上げ、撮っていました。ともに同時期の建築ですから、まとっている時代の気分や美的感覚が共通していても不思議はありません。
 ただ、こちらは墓所の霊廟(れいびょう)建築であるので、あまり豪華に走らず、装飾も控えめにとどめています。現存する最古級の霊廟建築として国の重要文化財に指定されています。

 

 「高臺寺誌稿」によれば、この霊屋も、かつての康徳寺(こうとくじ)の建物として寺町(現在の京都市上京区高徳寺町付近)に建てられていたのを、慶長十一年(1606)に東山の現在地に移したといいます。

 ですが、康徳寺は北政所が亡き母朝日局の菩提を弔うために建てているので、その霊屋であったのならば、本来は朝日局の霊屋であっただろうと考えられます。それを現在地に移した後は、秀吉と北政所の夫妻の墓所になっていますから、朝日局の供養はどうなったのだろうか、と少し不思議に思ってしまいます。それに、康徳寺の霊屋が最初からいまのような豪華な造りだったのか、という疑問も浮かび上がります。

 また、北政所の公館から移したものとする別説があるようですが、この北政所の公館というのが、どういう建物でどこにあったのかが分かっていません。屋敷でなく公館と称しますから、現在の圓徳院の位置にあった北政所屋敷とは無関係だろうと思われます。

 これに関して、U氏は「公館というのなら、政治的本拠地の居館だった聚楽第とかさ、そういう所にあった屋敷のことだろうな」と言いましたが、私自身は、北政所が高台寺圓徳院の地に移る前に住んでいた京都新城の屋敷のほうが可能性が高いかな、と思います。京都新城にあった建物であれば、開山堂とは対照的なほどに豪華で立派な外観のさまも納得出来るからです。

 いま西本願寺に伝わる国宝の唐門や飛雲閣が、京都新城からの移築ではないかとされていますが、ここ高台寺の霊屋に関しても、そうした可能性を否定出来ません。飛雲閣の建築意匠と、ここの霊屋のそれには、よく似ている箇所が少なくないように感じられるからです。

 

 ですが、真相はただひとつ、ここに眠る高台院北政所のみが知っておられるでしょう。その家紋の五七桐紋(ごしちきり)の飾り金具の金色の淡い煌めきに、永遠に秘められて知られなくなってしまった豊臣家の数々の歴史の輝きがひっそりと息づいているように感じられました。

 

 この霊屋の建物は、昭和25年のジェーン台風によって大きな被害を受けたため、昭和29年から30年にかけて解体修理が行われました。その結果、建物自体は創建以来の構えでしたが、もとは西に向いていた事が分かり、「高臺寺誌稿」などが伝える移築の件が史実であることが確かめられました。

 

 ですが、どこから移築したのかは、それを示す墨書や銘文等の史料が発見されなかったために、いまなお不明です。

 

 寺で貰った拝観の栞を読みながら、霊屋の各所を観察していたU氏が、ふと思いついたように私に問いかけました。

「こういう、大名家とかの御堂の霊廟って、あちこちにあるんだよな、東京にゃ徳川家関連の歴代将軍の霊廟があるし、日光東照宮のところもあるし、他の大名家の霊廟の建物も幾つかあるんだよな・・・?」
「水戸の、君はそういう霊廟の建築って、德川家関連以外のは見てへんのかね・・・」
「ああ、わが水戸藩28万4千石の墓所は、残念ながら墓石と石碑ばかりで霊廟は無いからな」
「東北の諸藩の霊廟は?」
「あー、仙台藩の霊屋なら見たことある。国の重文になってる・・・」
「なら、松島にある圓通院の霊屋やろな」
「うん、それそれ」
「他は?」
「いや・・・、そういうのは星野のほうが詳しいんと違うかね、実際にあちこち見てるんだろ?」
「まあな、覚えてる限りでは、山形に住んでた頃に、新庄藩の瑞雲院と桂嶽寺の茅葺の霊屋を見たな。宮城県はさっき言うた圓通院霊屋と登米伊達藩の覚乗寺霊屋、秋田県は佐竹藩の天徳寺霊廟、青森県は・・・津軽藩の長勝寺霊廟と革秀寺霊廟、それと南部藩のも見に行ったな」
「おい、南部藩って青森だったか?岩手じゃないのか?」
「岩手のは盛岡南部藩や。岩手はなんでか全然行っとらんのよ・・・。僕が見に行ったんは、青森の三戸の分家の南部藩のほう。そこに聖寿寺館ちゅう居館の遺跡があってな、そこに物凄い立派な霊屋の建築があるんよ。あれは感動したで」
「ふーん、色々行ってるなあ、東北以外ではどこに?」
「うーん、関東は無いな・・・、中部だと長野県の松代藩真田氏の長国寺霊廟、静岡県の掛川藩の龍華院霊屋ぐらいかな・・・、あ、愛知県の尾張藩の徳川義直の定光寺霊廟も見てるわ・・・。近畿だと・・・京都とか奈良にはあんまり無いな・・・、兵庫県は姫路藩本多家の円教寺霊廟と明石藩松平家の長寿院霊屋、あと和歌山県の高野山に幾つか大名家の霊廟があるけど、大半は石造だな・・・・。中国四国地方だと 備前足守藩木下家の大光寺霊廟、伊予松山藩の松平家の常信寺霊廟、ぐらいか。九州は、ええと、福岡の久留米藩有馬家の梅林寺霊廟、長崎の大村藩の本経寺霊廟、佐賀の鍋島小城藩の玉毫寺霊廟の三ヶ所だな・・・」
「やっぱりあちこち行ってるなあ、流石だな」
「転勤で全国各地へ引っ越して住んでたからな、住んでた時に近くの歴史や文化財は何でもかんでも興味を持って見に行ったからね」
「でも霊廟建築はあんまり無いんだな」
「無いと言うか、大名家の墓所ってのは城館とあわせて大体行ってるけどな、殆どは墓石と石碑の組み合わせなの。霊廟の建物まで建ててる所は少ないの。そもそも江戸幕府徳川家が、確か8代将軍の吉宗やったかな、その頃に全国の大名に贅沢を禁じて倹約に励めってんで、霊屋の建立禁止令ってのも出してるんで、それ以後は全国の大名家が霊廟建築を造らなくなったんや」
「そんなことがあったのか・・・」
「うん、だから霊廟の建物というと、現存して文化財になってるのは、大名家よりも寺院の僧侶の墓のほうが多いんやないかな」
「なるほど・・・・」


「で、そういう色んな大名家の霊廟を見てきた星野の眼からみると、ここの霊屋が最も古くて立派、ということになるわけか」
「まあ、最古の遺構だし、豊臣政権期の典型的な建築様式で丁寧に造ってあるしな・・・」
「その言い方だと、他にもあるみたいだな・・・」
「実はな。さっきも話したけど、東北の青森の南部藩聖寿寺館の霊屋、あれ凄い豪華やった印象がある。国重文になってる筈。確か寛永の頃の建物やったけど、桃山期の復古調の感じで、聚楽第の雰囲気がああやったんじゃないか、って思った」
「ふーん、それは俺も見に行かないとな・・・」
「で、こっちの霊屋の場合はさ、ホラ、組物(上図)の彩色の繧繝(うんげん)とかは平安期以来の伝統的技法も多用しているから、豊臣政権期の典型的な建築様式ではあるけれど、こっちも復古調の感じが強い。ああいう組物の彩色の繧繝(うんげん)は、例えば宇治平等院の鳳凰堂の繧繝のパターンをアレンジしてる。木口に金色の飾り金具を打ってるから、繧繝のグラデーションをわざと大まかにして合わせてある」
「なるほど・・・」

 

 霊屋の内部は、正面の扉口から拝する事が出来ます。内部空間全体が、高台寺蒔絵と呼ばれる豊臣政権期の最高級の蒔絵技術による様々な装飾模様で彩られています。

 上図のように、内部の仏壇は三つに区切られています。中央の厨子には大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には高台院北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されています。そして高台院北政所の木像の真下2メートルの地下に、北政所の遺骸が埋葬されています。

 高台寺蒔絵の装飾の他には狩野永徳による絵が見られ、厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されています。向かって右側の秀吉の厨子の扉および勾欄の材に墨書と針刻があり、「ふん六五年十二月 久造之」「幸阿ミ久造之」と読めますので、当時の蒔絵師を代表した幸阿弥派の七代目の幸阿弥久次郎長晏(きゅうじろうながずみ)が文禄五年(1596)12月に製作にあたったことが分かります。

 この霊屋が現地に移築されたのは慶長十一年(1606)といいますから、その十年前に内部の蒔絵装飾が製作されたことになります。霊屋がもと康徳寺の建物であれば、康徳寺が寺町にあった頃に、当時の日本の蒔絵師のトップであり、後陽成天皇即位に際して豊臣秀吉から道具類の製作を命ぜられた幸阿弥久次郎長晏がこれらの蒔絵を製作したことになりますが、当時の最高級の蒔絵を、北政所の一私寺に過ぎなかった康徳寺の建物にはたして作り得たのか、という疑問がわいてまいります。

 なので、先にこの霊屋がもとは北政所の公館つまり京都新城の屋敷にあった可能性を述べましたが、そのことは内部の蒔絵が幸阿弥久次郎長晏による当時の最高級の出来である点を考えれば、より強くなってきます。京都新城は、秀吉が聚楽第を破却した後に豊臣関白家の正式な邸宅として建てた公的な居館屋敷でしたから、そういう場所の建物であれば、当時の最高級の蒔絵が製作されても違和感はありません。

 なので、この霊屋にも、高台寺や豊臣政権期の秘められた数々の謎へのヒントがありそうに思われます。

 

 霊屋の拝観の最後に、西門へ行って上図の臥龍廊(がりょうろう)を上から見下ろしました。U氏が「やっぱり、一度は歩いてみたいものだな」と言いました。

 この石段は北政所も行き来したでしょうから、一度同じように歩いてみたら、北政所が見つめていたもの、その思いなどが僅かながらでも偲ばれるのかな、と思います。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く37 その10  車山高原肩にて

2024年02月25日 | ゆるキャン△

 車山高原肩の「ころぼっくるひゅって」を出て車山肩の駐車場に戻った時点で、時計を見ると11時57分でした。とりあえず、駐車場脇のバス停に行って、帰りのバスの時刻を確かめました。

 

 うん、12時53分発です。あと56分ありました。そこで「チャプリン」で軽く何かを食べることにし、その前に聖地スポットの撮影をやっておくことにしました。

 

 まずはバス停近くの、駐車場入り口付近のこの位置。このあたりに志摩リンがビーノを停めています。

 

 このシーンですね。アングルが西向きなので、東側に広がる車山肩の駐車場の景色は入っていません。

 

 志摩リンがビーノを停めた位置は、上図の景色が背景になっているので、駐車場入り口付近だと分かります。

 

 このシーンですね。志摩リンの右奥に小屋、左奥に「ころぼっくるひゅって」へ登る道の石積みが見えます。

 

 上図のシーンも劇中に出ています。実際のバイク駐輪スペースは駐車場の東側にありましたが、志摩リンは反対側の西側、つまり手前のポールの近くにビーノを停めています。

 

 このシーンですね。実際のバイク駐輪スペースには、以前は自販機が並んでいたようです。現在は左上の建物「チャプリン」の裏手に自販機コーナーがあり、設置数も増えています。上のシーンの自販機もそちらへ移してまとめたのでしょうか。

 

 聖地スポットの撮影を終えて、車山肩の駐車場隣のレストハウス「チャプリン」に向かいました。バスの時刻までの50分ほどを、このお店で軽く食べて、休んで過ごすことにしました。

 

 「チャプリン」の玄関口から見下ろした車山肩の駐車場の景色です。劇中にはこのアングルは描かれていませんので、志摩リンは「ころぼっくるひゅって」のみに立ち寄ったことが伺えます。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目) 作ります!! その5

2024年02月24日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11ではエアフィルターや増加燃料タンクを組み立てます。前に制作したボーダーモデルの品の時と同じように、ガルパン仕様への追加工作が加わります。順に紹介してゆきます。

 

 ステップ11にて組み立てるエアフィルターと増加燃料タンクのパーツ類です。

 

 増加燃料タンクのキャップのモールドを削り取り、プラ材でキャップを作って位置をずらして取り付けました。エアフィルターのほうは側面板を追加しますが、ボーダーモデルの品より車体寸法が僅かに小さいので、プラ板の貼り増しによる調整が必要となります。これは次のステップ12でまとめて行ないます。
 なお、今回の製作は細部までの作りこみ再現は行いませんので、リベットの数を合わせたりする作業は省きます。

 

 ステップ12では車体部品の取り付けを進めます。A53、A54は劇中車にありませんので不要です。
 ステップ13ではサイドスカートを組み立てます。A107は劇中車にありませんので不要です。ガルパン仕様への追加工作もありますので、順に述べてゆきます。

 

 ステップ12で取り付ける部品、パーツ類です。このうち消火器のA29は片方しかなく、形状がやや異なりますので、劇中車のに合わせてプラ材で左右の2個とも自作しました。上図中央下寄りに写っているオリーブグリーン色のパーツ2個がそれです。

 

 全て取り付けました。エアフィルターの側面板も、プラ板で作って貼り付けました。これは前にボーダーモデルの品を製作した際に、今回のタミヤ品の分もまとめて同寸法にて作っておいたものです。また牽引ホールドのA44は劇中車に合わせて立てました。

 

 さらにC48、C49の天面にリベットを1個ずつ追加しました。今回の製作ではリベット等の細部までは合わせませんが、目立つ箇所については合わせています。他の劇中車仕様の細かい箇所の工作は省きました。

 

 以上でステップ12の工程が完了しました。

 

 ステップ13に進んで、サイドスカートを組み立てます。ボーダーモデル品の時と同じように、スカート前端の段差を並行に削って修正します。

 

 修正するスカート前端の段差です。ガルパン仕様ではこの段差が並行になっています。これはボーダーモデル、タミヤイタレリのいずれも同じですので、修正作業の段取りも共通です。

 

 まず、マスキングテープを上図のように下段の線に並行に貼りました。はみだし部分が見えますので、これを削り取ります。

 

 削り取って並行に仕上げました。

 

 ステップ14ではサイドスカートを車体に組み付けます。私の製作では、塗装後に履帯をはめこんでからサイドスカートを取り付けます。

 

 なので、ここでは仮組みだけをして、パーツの合いを確かめておきました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その4 大代川側線へ

2024年02月23日 | ゆるキャン△

 新金谷駅の車両区を見た後は、大代川側線に向かいました。大代川側線は、新金谷車両区の東側から南東方向に分かれて伸びる側線で、工場が並ぶ中を通ります。南に大井川の支流である大代川が流れていることにちなみ、大代川側線と呼ばれます。

 

 往還下陸橋から視線を東に向けると、大代川側線が東へカーブして伸びているのが見えました。とりあえず、往還下陸橋から東へ降りて、線路に近づいてみることにしました。

 

 往還下陸橋を降り切ったところにT字路があり、左折すると大代川側線を渡る踏切に進みます。その踏切まで行ってみました。

 

 踏切から西の線路を見ました。線路の左側に、たった今降りてきた往還下陸橋が見えます。この線路を向こうへたどれば、本線との合流点に行きます。

 

 今度は東を見ました。線路沿いに道があるかな、と探しましたが見当たりませんでした。線路沿いにたどるのは無理だな、と考えてタプレットを取り出し、現地のグーグルマップを開いて、線路に近い道筋を探しました。

 ですが、大代川側線に沿った道や近い道は、この辺りには無く、踏切から北へ100メートルほど進んで交差点で右折し、細い車道を進んで橋を渡り、右手に水神社の小さな境内地を見て50メートルほど進み、突き当りを右折して広い道に出ました。それから200メートル余り進むと、右手の駐車場越しに線路が再び見えてきました。

 

 駐車場の脇から見た大代川側線です。廃線っぽい雰囲気がただよっていますが、れっきとした現役の側線です。その証拠にレールの頂面が銀色に光っており、日常的に車両が出入りして移動していることがうかがえました。

 

 もとの道に戻って更に80メートルほど進むと、右手に杉本鉄工所の敷地への簡易踏切がありました。その簡易踏切の前から南東方向へまっすぐ伸びる大代川側線を見ました。まだまだ続いているなあ、側線の端はもっと向こうなのだな、と思いつつ線路の先を見ていると、何か黒っぽい車輛が停まっているのが見えました。

 

 あれ何だろう、とデジカメの望遠モードで覗いてみて、思わず「アッ」と声が出てしまいました。あれは蒸気機関車じゃないか?

 

 デジカメの望遠モードをMAXにしてファインダーで確かめると、間違いなく蒸気機関車でした。おおっ、初めて見る機関車かもしれん、と一気にテンションが上がりました。線路沿いの道を足早に進んで、蒸気機関車の近くへ出来るだけ行こうとしました。

 

 ですが、道は突き当りで左へと曲がって、いったん線路より遠ざかりました。工場や倉庫が立ち並んで線路が見えなくなりましたので、とにかく線路が見えるところまで行こう、と上図の道を奥へと進みました。右手に真っ白な建物が見えてきて、それがネットでの大井川鐡道の紹介動画にも出ていた機関車整備棟であると気付いたので、ヨシ、あれだな、と確信して足を早めました。

 

 なので、道の右手ばかり注目していましたが、ふと左手を一度見た途端に、思わぬ景色を目にしました。上図の景色でした。
 なんだあれは、と驚いて、足がそちらへ吸い寄せられるように進んでしまいました。  (続く)

 

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豊家の余香7 高台寺開山堂

2024年02月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 現在の高台寺の中心的堂宇となっている、上図の開山堂です。現存の建物のなかでは最も古いとされ、昭和25年の部分解体修理の結果、未完成の建物を転用し、これに他建築の化粧部分を補足して建てられていることが判明しています。
 つまりは前身の建物があったことになりますが、それが高台寺の由緒を理解するうえで最も重要な因子であることは言うまでもありません。

 高台寺は、「高臺寺誌稿」によれば、もとは康徳寺(こうとくじ)といい、慶長三、四年頃(1598~1599)に北政所が亡き母朝日局の菩提を弔うために寺町(現在の京都市上京区高徳寺町付近)に建立したものを、慶長九、十年頃(1604~1605)に東山の現在地に移したといいます。そのために、現在地に移ってからもしばらくの間は康徳寺と呼ばれていたと伝えます。
 したがって、いまの開山堂の前身の建物とは、もと寺町にて創建された康徳寺の建物であった可能性が高くなります。元は北政所の持仏堂であったといいますから、康徳寺の仏殿としての位置にあったものと推測されます。

 

 開山堂の外観は、康徳寺の頃には曹洞宗に属していただけあって、質素な禅宗様の素木造白壁塗りの建築の様相を示しています。が、堂内は逆に絢爛豪華な金銀および極彩色漆塗りの装飾が施されていて、安土桃山期の豪華絢爛たる建築内部の姿をよくとどめています。

 現状ではかなりの退色や剥落があり、また消えてしまった文様や絵柄も少なくありませんが、それでも豊臣政権期の「豪華さ」とはどのようであったかがうかがえます。

 

 堂内の空間は、現在では正面の奥を上図のように三つに区切り、左右の間を仏壇として、左の仏壇には高台寺の普請に尽力した堀直政の像、右の仏壇には高台院北政所の兄である木下家定と夫人雲照院の像を安置しています。
 左右の仏壇の間は瓦敷の廊下となり、奥の開山塔所へと続いています。奥の開山塔所には、中興開山の三江紹益の木像が祀られています。

 これらのうち、中央の瓦敷の廊下、奥の開山塔所の部分は後からの追加工事で付けられたものであることが分かっています。開山堂の前身の建物、つまり康徳寺の仏堂であった時期にはこれらの部分は無かったようです。
 また、前身の建物はもっと左右に伸びた長い建物であったことが分かっており、これを現在地に移築した際に、左右を切り詰めて現在の規模に直しているようです。

 

 なので、U氏が「もとの康徳寺の仏堂ってのは、この開山堂よりも規模が大きかったんだなあ、なんで小さく縮めたんだろうなあ」と疑問を呈していたのには同感でした。

 いまの高台寺の敷地は広大で庭園もありますから、建物を小さくしないと収まらない、というような理由ではなかった筈です。なにか特別の事情があったのかもしれませんが、高台寺に関する諸々の文献史料には、一切の説明がありません。不思議なことではあります。

 

 開山堂の見どころの一つとされる、上図の堂内前部の折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)を見上げました。堂内で最も技巧が凝らされた部分で、かつ優美な雰囲気をたたえています。裏板は金箔を押し、小組組子は格間部分を四つに分けて、それぞれの下端に赤、青、白、緑の彩色を施し、各色の境の組子は金箔押しとしています。

 素晴らしいのは、赤、青、白、緑のそれぞれの色が格縁の組手の位置で四枚の組子を合わせた際に組子下端の同じ色が集まって一つのブロックを構成するという、今で言うルービックキューブのような仕掛けが施されている点です。こういったテクニカルな装飾意匠は、安土桃山期特有のものであり、他の時代には見られません。現存する天井としては最も精巧な遺品とされています。

 

 この折上小組格天井については、豊臣秀吉の御座船の天井を転用したものと伝わります。その金具類のなかには、開山堂の天井にはめ込む際に切り詰めたり輪郭を修正したりしたものがあり、これらの改造の痕跡からも、天井が転用品であることが分かります。御座船の天井であったのならば、相当な大きさの船であったことになります。

 これについて、U氏が「御座船って、あれか、大安宅船の「日本丸」のことかね」と私を振り返って問いかけてきました。

「確証はないけど、秀吉の御座船というから「日本丸」よりは「鳳凰丸」のほうかな、どうやろな・・」
「ふむ、船や軍艦のオタクの君が言うんなら、「鳳凰丸」のほうか。・・・てか、「鳳凰丸」って何?初めて聞いた名だぞ・・・」
「大坂城の広大な水濠に浮かんでた秀吉の黄金造りの御座船や。確か、オーストリアのグラーツだったか、そこにあるエッゲンベルク城に伝わっとる豊臣期大坂図屏風に描かれてるんや。それをもとに、最近大阪城の遊覧船として再現されとる・・・」
「あっ、思い出したぞ、あの大阪城のお堀めぐり観光の御座船だな。最近出来て話題になったやつだな」
「そう、あれの元になってる船が「鳳凰丸」や。中央に鳳凰が載った宝形屋根が付いとるんで、その名がある」
「なるほど・・・、すると「日本丸」のほうは違うのかね?」
「あれは、もともとは九鬼嘉隆の水軍の旗艦で「鬼宿(きしゅく)丸」といったらしいが、朝鮮の役の時に名護屋城に回航されたのを秀吉が見て、最も優れた船やということで「日本丸」と名付けたんや。朝鮮の役には九鬼嘉隆が乗って行って海戦とかやってるけど、どうも秀吉自身は乗ってないらしいんで、御座船にあたるかは微妙なんやな・・・」
「ふーん」
「で、その「日本丸」はその後も九鬼氏の鳥羽藩の持ち船として改造して江戸期の安政(1855~1860)ぐらいまで在ったらしいけど、詳細が分からんのよ」
「なるほど、それで「鳳凰丸」が候補に挙がるわけか」
「いや、それも確証はない、って言うたやん・・・。あと、琵琶湖の竹生島の都久夫須麻神社の船廊下というのがあるやろ、国重文の。・・・あれが「日本丸」の遺構と伝わってるんで、本当ならば「日本丸」の上構えの建物をバラしているわけで・・・。(豊臣)秀頼が都久夫須麻神社に建物を寄進したんが慶長七年(1602)やから、その時には「日本丸」は解体されてることになる。その天井部分だけを慶長九年頃に建設中やった高台寺に持ってくる言うのは、実は可能なんやな・・・」
「ふーん、面白いな。すると、「鳳凰丸」のほうはどうなったんだ?」
「そっちはさっぱり分からん。大坂の陣の大坂城落城で運命を共にしたんかも」
「そうか。そうすると、俺たちが見上げてるこの天井、秀吉の御座船の天井を転用してるのが本当だとしても、「日本丸」なのか「鳳凰丸」なのかは分からん、強いて言うと「日本丸」のほうが可能性がある、ということか」
「まあ、そういうことになる」
「面白いなあ、それでいいじゃないか、歴史の秘められた謎ってのはさ」
「まあな・・・」

 

 堂内での歴史談義を終えて堂外に出て、庭園の池を眺めました。この庭園は小堀遠州作と伝わり、開山堂をはさんで東西に二つの池を配置します。西の池は偃月池(えんげつち)、東の上図の池は臥龍池(がりょうち)と名付けられます。周囲には枝垂桜や萩が植えられ、花の名所としても知られます。安土桃山時代を代表する庭園として、国の史跡・名勝に指定されています。 

 開山堂の東から上の霊屋に続く上図の屋根付きの廊下および階段を望みました。龍の背に似ているところから、臥龍廊(がりょうろう)と呼ばれるそうです。

 U氏が「これをまっすぐ行けば、霊屋に行けるのにな」と、立ち入り禁止の木札を見下ろしつつ、ボヤキました。昔は拝観順路になっていたと聞きますが、いまは閉鎖されて立ち入り禁止となっています。

 

 それで、臥龍廊の外観だけを眺めて、いまは南側から回り込む拝観順路へと向かいました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く37 その9  ころぼっくるひゅっての内外

2024年02月21日 | ゆるキャン△

 車山高原肩の人気のお店「ころぼっくるひゅって」の続きです。上図は、山小屋の南側にあるテーブル席ですが、この日はグループ客のみにあてがわれているのか、販売コーナーの奥にあるので目立たないためか、使用している形跡が見られませんでした。
 しかし、メニュー表とかが置いてあるので、私でも利用しようと思えば利用出来たのでしょう。このテーブル席も劇中に出ていますから、ここを利用するのもアリです。

 

 このシーンですね。奥の時計や左のストーブが無いので、実際よりもスッキリして見えます。椅子の形状はそのまんまですね。

 

 販売コーナーを見て回りました。山小屋ならばでの、登山客や観光客向けのグッズ類が豊富に並んでいました。

 

 店内のほぼ中央、カウンター横の棚の上にある、志摩リンwithビーノのフィギュア。精巧な再現度で定評のあるアルターさんの1/10スケールフィギュアです。確か、2万円以上する高額品だったと思います。

 

 このフィギュアはまさに志摩リンが霧ヶ峰に登ってこのお店を訪れた際のいでたちを再現しています。このお店に飾られるに相応しい品です。おそらく、ファンからの寄贈品でしょうね。かたわらに大垣千秋のミニフィギュアも見えました。

 

 カウンター付近の様子です。右の上方に見える方形の透明ケースが、先ほど紹介したアルターさんの志摩リンwithビーノフィギュアの展示位置です。御覧のようにかなり高い位置にあるので、私の頭よりも上になります。なので、写真を撮るのがちょっと難しかったです。
 透明ケースの下にはゆるキャンのイラストカードや紹介文などが掲示されていました。

 

 なので、劇中で右端に見える大きなメニューボードがどこかに移動されて見当たらなかったのでした。探してみると玄関口の近くに移されていました。

 

 土産物を幾つか購入し、退出しました。玄関口外の待機行列は相変わらずでした。土曜日にしては少ないほうだったようですので、私も5分ぐらいの待機で入れました。空を見ると、来た時よりも雲の量が増えていました。これは間違いなく午後から崩れるな、と思いました。

 

 ビーナスライン横の駐車場に戻りました。このアングルでの景色を撮りました。

 

 劇中に同じアングルでこのように出ているからです。季節的にもほぼ同じですので、丘陵の枯れ草の色も同じでした。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目) 作ります!! その4

2024年02月20日 | ガルパン模型制作記

 ステップ10では、車体各所の部品を取り付けます。ガルパン仕様への追加工作が8か所にありますが、既に2か所は前のステップで終えています。C27の天面の改造、C23への金具A96の取り付け、です。
 後の6か所は、これから順番に紹介します。

 

 追加工作の1か所目は、上図のエンジンフードパネル上に斜めにモールドされている棒の向きを劇中車に合わせて逆にすることです。モールドを削り取り、同じ長さに作ったプラ板を用意して貼り付けます。

 

 仕上がりました。この金具は装備品の抑え板とみられ、中央の蝶ネジを軸として回転するようですが、実物を写真で見たことがありませんから、よく分かりません。

 

 ステップ10で組み付けるパーツを全て準備して並べました。

 

 追加工作の2か所目は、C24に上図のパールC95の本体をカットして留め具のみを取り付けることです。C95をいったん取り付けて、その後に2つの留め具だけを残してカットします。

 

 仕上がりました。

 

 追加工作の3か所目は、上図の前照灯A38を劇中車の仕様に合わせて改造することです。右はそのままですが、左はシェードをカットします。そして共にレンズ部の丸みを削って平らにします。

 

 仕上がりました。

 

 追加工作の4か所目は、前端の左右の牽引ホールドのA44を取り付けないことです。劇中車にはありませんので、A44は不要となります。

 

 追加工作の5か所目は、ステップ9で作ったC25と、先ほどC95の留め具だけを取り付けたC24とを、逆に取り付けることです。劇中車ではそうなっていますので、合わせました。

 

 追加工作と並行して、組み立て指示に沿ってのパーツの取り付けも進めました。この時点でステップ10の工程のパーツは全て組付けました。

 

 追加工作の6か所目は、上図の右側フェンダー前部の予備履帯ラックの4本の固定用棒を追加再現することです。前に制作したボーダーモデルの品でも同じ作業をしました。その手順を今回紹介しましょう。

 

 まず、上図のプラストラクトの0.5ミリ丸棒を準備しました。これは模型専門店や画材専門店で販売しており、主に建築模型の細部を作る際に使われますので、芸大の売店や契約店でも扱っていることが多いです。

 私自身はこれを京都市の河原町五条に本店がある画箋堂さんで買いました。このお店ではプラ材も豊富に扱っていて、ジオラマ用の素材なども色々ありますので、鉄道模型の方々もよく訪れているそうです。

 

 で、上図のようにラックの内寸法に合わせて、プラストラクトの0.5ミリ丸棒をカットして4本作りました。別に1ミリのプラ板を適当な大きさにカットして治具としました。

 

 このように、ラック内に治具のプラ板を置きます。

 

 治具のプラ板の上に、あらかじめ両端に接着剤を付けておいたプラストラクトの0.5ミリ丸棒を置いてゆきます。これを等間隔に4本並べてゆきました。

 

 接着剤が固まったら、治具のプラ板を抜き取ります。

 

 これで、完成です。難しそうに見えますが、簡単な作業です。前にボーダーモデルの品を製作した際にも、同じ要領で予備履帯ラックの固定棒を追加再現しました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その3 往還下陸橋から

2024年02月19日 | ゆるキャン△

 新金谷車両区の車輛群を一通り見たので、大代川側線に向かうことにしました。車両区の南側の車道へ回って、車両区の南端から線路をまたぐ往還下陸橋へと昇りました。上図は往還下陸橋の西側から新金谷車両区を見下ろしたところです。手前下に消防車のような車輛がありましたが、外観がなにかオモチャっぽく見えたので、本当に消防車なんだろうか、と首をかしげました。

 

 先に横から見た蒸気機関車の2輌、急行かわね路号のC10形8号機、トーマスに扮したC11形190号機を望遠モードで引き寄せて撮りました。いずれも石炭を満載しているのが分かりました。

 

 新金谷車両区の長大な機関車庫の屋根が並んでいました。思ったよりも複雑な形状で、建物もあちこちで増改築を重ねているようでした。

 これをNゲージの模型で再現するのは大変そうだな、と思いました。2023年11月の時点で、私のNゲージの大井川鐡道の駅は、千頭駅と井川駅が仕上がっています。今後は金谷駅と家山駅を作ろうかと計画していますが、これらを作った後には、やっぱり新金谷駅を作ることになるのかな、と感じています。

 ですが、実際に上図の機関車庫の複雑な形状とかを眺めていますと、新金谷駅はちょっと・・・、という気分になってしまいます。金谷駅と家山駅を仕上げてから、新金谷駅をどうするかをまた考えよう、と決めました。

 

 新金谷車両区の長大な機関車庫の南端は、御覧のように斜めに切れています。私が立っている往還下陸橋のラインに沿って敷地が斜めに区画されていますので、建物の端がみんな斜めになっています。奥の建物は屋根が低くなっていて、新しい感じがしますので、増築部分だろうと思います。外観がこのように複雑な形状を呈していますので、これを忠実に1/150スケールで再現出来たら凄いだろうな、と思いました。

 新金谷駅の向かいのプラザロコの模型展示のなかに新金谷駅のジオラマがありますが、それとてスペースの関係で形状をかなり大まかに作っているにとどまり、機関車庫に至ってはストラクチャーのキットをそのままセットしたような感じです。忠実に精密に作っている先行事例には、ネット上でさえお目にかかれていません。

 

 仮に、この長大な機関車庫も含めて1/150スケールで忠実に精密に再現するとなれば、まず10畳ぐらいの広さの部屋が必要となりますが、狭い我が家にそんな余裕はありません。嫁さんも「いつか広い家に引っ越して模型をドンドン楽しみましょう」と言ってくれていますが、まだまだ先の事になるでしょう。

 

 新金谷駅は、大井川鐡道の本社が置かれていますから、駅舎の他にも建物が多く、鉄道の設備もそれなりの規模があります。側線も多くて転車台もあり、しかも敷地が細長いので、1/150スケールでジオラマを作ると基台の長辺が3メートルを超える寸法となります。

 そういえば、以前に制作した千頭駅も、駅舎とホーム部分だけで1.3メートルを測ります。側線や転車台まで追加したら、千頭駅もやっぱり基台の長辺が3メートルに近くなるかと思います。

 

 往還下陸橋を東へ歩いて、車両区の機関車庫の東端まで来ると、その横の側線に停めてある上図の旧京阪電車の3000系が見えました。私たちが昭和の昔に「テレビカー」と呼んでいた懐かしい車輛です。平成の初め頃に初めて大井川鐡道に乗った時には、この3000系もまだ現役でした。2輌の1編成として走っていたと思いますが、現在はその片方のクハ3507だけが廃車後も御覧の状態で置かれて倉庫の代用になっています。

 

 旧京阪3000系と同じ側線には、御覧のようにED500形電気機関車、旧南海電鉄の6000系が停まっていました。長い事使わない車輛をまとめてこの側線に置いているようでした。

 

 ED500形電気機関車、ボロボロですね。塗装色が赤く見える部分は錆止めの下地でしょうか。2024年春の復活を目指して検査、修理中だと聞きましたが、外装品類がみんな外されていました。パンタグラフも連結器も見えませんでした。

 

 その向こうの旧南海6000系は、相変わらずピカピカに見えました。すぐにでも営業運転出来そうな感じでした。聞くところによると、この6000系も早ければ2024年中に営業運転に入るかも、ということです。譲渡されたのが2020年、令和2年7月でしたから、既に2年余り放置されていたわけですが、いつまでもそのまま、というわけにはいかないでしょう。

 おそらく、この6000系が運行するとすれば、いま災害不通のために千頭駅に取り残されて運用停止状態となっている同じ旧南海の21000系と置き換えられるのだろう、と推測していますが、どうでしょうか。

 

 以上、南の往還下陸橋から眺めた新金谷駅の車両区と側線の車輛群でした。上図の右側へ枝分かれしている大代川側線へと視線を移して、陸橋を東へと下り始めました。  (続く)

 

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豊家の余香6 高台寺開山堂へ

2024年02月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺の境内の北側に回って茶室「遺芳庵」の右横を過ぎると、前方に上図の景色がひらけてきました。広い庭園の池にかかる細長い屋根つきの楼船廊が、奥の建物の軒下まで続いていました。U氏が「おお、なかなか」と感動していました。

 

 拝観順路は境内地の北側から回り込んで、小方丈跡の横から庭園の南の門へと迂回する形でしたが、いったん庭園の西端をたどりますので、上図のように庭園内に建つ細長い屋根つきの楼船廊、その奥の開山堂がよく見えます。

 

 U氏が、上図の屋根つきの楼船廊の中央に建つ唐破風の建物を指して「あれだな、伏見城から持ってきた観月台というのは」と言いました。

 その通り、観月台は、慶長年間(1596~1615)に高台院北政所が伏見城から移築した建物です。豊臣秀吉遺愛の建物と伝わっており、事実であれば、現存する希少な豊臣期伏見城関連の遺構となります。国の重要文化財に指定されています。

 

 この観月台は、現状では、小方丈跡の解体された北書院と開山堂を結ぶ屋根つきの楼船廊の途中に位置し、庭園の偃月池の水面をまたぐ場所にあたっていて、庭園を鑑賞するための建物であることが分かります。高台院北政所が、この観月台にて亡き秀吉を偲びながら月を眺めた、と伝わっていますが、それも史実でしょう。

 この観月台が、伏見城にあった頃はどのような状態にあったのかは分かっていません。庭園などを眺めるための展望所でありますから、伏見城の御殿の庭園にあったものと推定されますが、その前に豊臣期の伏見城の詳細がまったく分かっていませんから、現存する観月台が、建てられた当初からこの姿のままであったかは不明です。

 ただ、屋根の唐破風が北をのぞく三方に付きますので、もとは北に通路が付いて東西と南に視界をまわした形ではなかったかと考えられます。現状の屋根つきの楼船廊との繋がり方は、ちょっと不自然に見えるからです。例えば、庭園の中に突き出したような位置に建っていて、文字通りの月見や、庭園鑑賞の場にされていたものでしょう。

 

 拝観順路は南へ進んで現在の本堂である大方丈の横から東に折れ、上図の通用口をくぐって庭園の南に回ります。その前にU氏が「大方丈も見とこう」と言ったので、いったん引き返して大正元年(1912)再建の大方丈を見学しました。

 

 現在の本堂である大方丈です。創建当初の大方丈は文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであったそうですが、現存していれば豊臣期伏見城の建築遺構として国の重要文化財に指定されていたでしょう。

 U氏が「もとの大方丈を見たかったな」と呟きましたが、私も同じ思いでした。いまの京都市の各地に伏見城からの移築と伝える建物が幾つか残っていますが、大部分は徳川期伏見城の遺構と目されますので、それ以前の豊臣期伏見城の遺構の様相や実態は不明のことが多いです。徳川期の建物はだいたいが豊臣期の建物の再興または模倣とみられていますが、それでも豊臣期ならばでの色々な要素や特徴が、かなり省かれたり失われたりしているものと推測されます。

 

 本堂である大方丈の南には、上図の勅使門が建ちます。大方丈の正式な表門にあたり、大方丈と同じ大正元年(1912)の再建です。

 

 庭園の門をくぐって中に入り、正面の開山堂に進む際に、左手の上図の細長い屋根つきの楼船廊を見ました。楼船廊の床が一段高くなっている部分が観月台の床面にあたります。楼船廊の向こうには、2025年秋の竣工を目指して再建工事が進行中の小方丈の覆屋が見えました。

 この楼船廊は、もともと小方丈まで繋がっていたといいますから、いまは切れて無くなっている部分は、小方丈の再建にともなって新たに追加されるのでしょうか。U氏も私も屋根銅板の寄進を行ないましたから、竣工後の立派な小方丈の姿を見るのを楽しみにしています。

 

 さて、正面の開山堂に進みました。 慶長十年(1605)に高台院北政所が高台寺の持仏堂としてに建立したもので、その後寛永二年(1625)に増築を受けて現在の姿になりました。
 入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂で、後に高台寺の中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となって、今に至っています。高台寺創建以来の貴重な建築遺構で、国の重要文化財に指定されています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く37 その8  志摩リンのボルシチ

2024年02月17日 | ゆるキャン△

 「ころぼっくるひゅって」にて志摩リンも食べたボルシチセットをいただきました。このお店ではカウンターにて注文し、出来上がったら呼ばれるので客がカウンターへ取りに行く、といったセルフ方式がとられています。店員さんが厨房とカウンターにかかりきりで外へ出られないため、そうなっているのでしょう。

 建物内の席はアナウンスがスピーカーからも聞こえるので分かりますが、外の展望テラス席のほうでは客に聞こえにくいのか、客が周囲の景色に夢中になっていて聞こえていないのか、何度も同じ氏名を呼んでいる時がありました。
 ですが、平均して3、4分ぐらいで料理が出来上がるようで、私も3分後に名前を呼ばれてカウンターへ取りにいきました。上図がそのボルシチセットで、パンとコーヒーがセットになっていました。

 

 劇中で志摩リンが食べていたボルシチセットは、ドリンクがキャラメルラテのようですが、これはカウンターでの注文時にドリンクが選択制になっているからでしょう。私は普通にコーヒーを選びましたが、他にも幾つかあったので、志摩リンがチョイスしたドリンクも多分あったのでしょう。

 かくして美味しくいただきましたが、量的には軽食クラスのモーニングセット程度なので、朝食が蕎麦とお握りであった私としては、全然満腹には至りませんでした。後で「チャプリン」にも寄って何か軽く食べようか、と考えました。

 

 私の席からの、店内の北側の一室の内部の眺めです。見回してみて、劇中とほぼ同じであるのに感動しました。壁の古時計、額縁、丸額、壁のV字形の筋違、などが一致していました。

 

 劇中の志摩リンのアングルからのシーンです。志摩リンは中央の円卓についていましたが、見ている方向は同じ窓です。壁の古時計、額縁、丸額、壁のV字形の筋違、などがそのまま見えます。

 

 志摩リンがついていた円卓には、この時は若い女性の二人組がついていました。この部屋は建物内のメインの食堂空間にあたり、上図に写っているのは右側の部分だけです。上図に写っていない左側にも木壁で仕切られたテーブル席が三つ並んでいて、そちらは3、4人のグループ客が入って満席でした。

 

 劇中でも同じアングルが見られます。私が居た席からは、この角度で見えるので楽しめました。劇中との違いは、右奥の隅に置かれたストーブが無くて、その位置に壁からカーテン風の網状の何かが垂らされている点でした。

 

 ボルシチセットをいただいた後、食器類を持って再び外に出て、上図の展望テラス席への通路の右側にある食器返却コーナーに行き、表示にしたがって皿やフォークやカップなどをそれぞれの位置に居れ、ゴミ類をダストボックスに放り込みました。片づけまでを自分で行なうセルフ方式であるわけです。

 このときは展望テラス席も空席が目立っていましたが、料理のほうが追い付いていないためか、玄関外の待機行列は相変わらず長いままでした。店員さんは、見たところ3人しか居なかったようで、2人が厨房に居て、1人がカウンターで注文と料理引き渡しを行なっていましたが、それで一日平均して300人前後の客をさばいているそうですから、かなり大変だろうな、と思いました。

 

 食器類を返却コーナーに入れた直後に、建物の出入口を撮りました。ドアの右側の窓が、志摩リンや私が見ていた北側の食堂空間の窓にあたります。ドアを入ってすぐ左にカウンターがあります。ドアからまっすぐ建物の中を突きぬけると、反対側の玄関口に至ります。
 面白かったのは、ドアの上の木壁に貼られた「珈琲」の看板が、アンティークでよく見かける古式の大きな木挽きノコギリの再利用品であったことです。たぶん、この建物の建設に使用したノコギリなんだろうな、と推測しました。

 この「ころぼっくるひゅって」には宿泊棟もあり、私が上図の写真を撮った位置の、ちょうど背後に建つ二階建ての建物がそれでしたが、写真を撮り忘れました。

 

 再び建物内に戻って、記念に何か買っておこうと考えて売店コーナーを見ました。上図のアングルも劇中に出ています。

 

 このシーンですね。志摩リンが左横を見ていますが、私が実際に同じ位置で左横を見たら、その方角の陳列棚には店名ロゴ入りのマフラー靴下やタオルなどが並んでいました。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目) 作ります!! その3

2024年02月16日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8では車体上部を取り付けます。砲塔ターレット部のA21は、先に制作したボーダーモデルの品と同様に砲塔下の隙間および段差を劇中車に合わせて無くすため、不要とします。

 ステップ9では、エアインテークカバー、雑具箱、操縦手用フードを組み立てます。エアインテークカバーのC26は、ボーダーモデルの製作時と同じ要領で天面の劇中車仕様への改造を行ないます。この改造は次のステップ10で扱うC27も一緒にまとめて行ないます。またC28は劇中車にありませんので不要です。
 雑具箱のC25に付けるA96は内側に向けて逆に向けます。これは合計3個あって、次のステップ10で取り付けるC23にも並べますので、C23への取り付けもまとめて行ないます。
 操縦手用フードは、C31の視察窓のシールドを改造して開口し、右側板のA30に劇中車に合わせて横棒を追加します。

 

 ステップ8で組み合わせる上下の車体パーツです。

 

 組み合わせました。

 

 ステップ9では、エアインテークカバーのガルパン仕様への改造から始めます。次のステップ10で扱うC27も一緒にまとめて行ないます。

 

 まず、天面の中央のハッチのモールドを削り取りました。ハッチのヒンジ部と金具は再利用するので丁寧に切り剥がしました。

 

 天面に上図のようにプラ板を貼り、周縁部との段差を無くして平滑に仕上げました。その後、中央のハッチ部分をケガキ線で区切って表現しました。

 

 丁寧に切り剥がしておいたハッチのヒンジ部と金具を再び貼り付けました。片方はハッチの向きが逆でしたが、劇中車の仕様に合わせて両方とも同じ向きに揃えました。

 

 上図中央の雑具箱のC25に付けるA96は、劇中車に合わせて内側に向けて逆に向けます。このA96は、上図のように合計3個あって、次のステップ10で取り付けるC23にも並べますので、C23への取り付けもまとめて行ないます。上図左のパーツがC23です。

 

 組み上がりました。

 

 続いて操縦手用フードを組み立てます。劇中車に合わせて追加する横棒もプラ棒にて準備しました。

 

 まず、C31の視察窓のシールドが閉状態になっているのを、劇中車に合わせて改造して開口します。シールド部分をいったん切り離して、下にずらせば視察窓が開口します。

 

  視察窓の開口が完了しました。右側板のA30に、劇中車に合わせて横棒を追加しました。この横棒の追加は前回のボーダーモデルの品の製作と同じです。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その2 新金谷駅の車両区

2024年02月15日 | ゆるキャン△

 9時8分に金谷駅を発して、4分後の9時12分に新金谷駅で降りました。降車後に乗ってきた近鉄16000系を撮りましたが、この列車の運行も新金谷駅までで、折り返して金谷駅へと向かうようで、窓の行き先表示が「金谷」に差し替えられました。

 

 新金谷駅の旧字体の駅名標です。上の時計は9時14分になろうとしていました。この日のSL急行かわね路号は11時52分発なので、その30分前の11時22分にはプラザロコの窓口で予約した切符の発券手続きを行うことになります。それまでの2時間8分を使って新金谷の車両区と大代川側線の見学にあてることにしました。

 

 改札口を出て、プラザロコの向かいの休憩所付近から、まだ停車中の近鉄16000系を撮りました。その後、発車して金谷駅へと戻っていくのを見送りました。

 

 新金谷車両区のほうへ、広い駐車場の端を歩いて進みました。側線にはこの日のSL急行かわね路号の客車と思われる7輌編成の旧客車が待機中でした。その横には上図のE31形電気機関車が停まっていました。

 E31形は、もと西武鉄道の車輛で、平成22年に3輌が大井川鐡道に譲渡されました。奥にもう1輌が見えましたので、3輌のうちの2輌が新金谷車両区に居たわけですが、そのどちらかが、この日のSL急行かわね路号の補機となるのだうな、と推測しました。

 

 この日のSL急行かわね路号の客車と思われる7輌編成の旧客車の1輌を見ました。中央にかわね路のプレートが付いているのが見えました。7輌編成というのは長い方だと聞きましたが、この日は予約している乗客が多いのだろうな、大半は団体ツアー客なんだろうな、と思いました。

 

 E31形電気機関車を間近で見、撮りました。Nゲージでもこの車輛を2輌買い揃えて走らせていますので、実物を見ると嬉しくなってしまいます。同時にNゲージのこの車輛、マイクロエースの製品ですが、細部まで精巧に再現されているのに気づかされます。

 

 駐機線に停めてあった旧型客車のオハ47形です。きかんしゃトーマス号の列車用に外装がオレンジ色となっています。この日はトーマス号は休みでしたので、その客車は大部分が駐機線に停めてありましたが、一部はSL急行かわね路号の7輌編成のなかに含まれていました。

 

 車両区の中心部へ近づくにつれて、色々な車輛が視界に入ってきました。もう1輌のE31形電気機関車、南海6000系、東急7200系、そしてこの日のSL急行かわね路号の主役たるC10-8号機が見えました。いずれもNゲージで揃えていますので、実物を見てテンション上がりまくりでした。

 

 C10-8号機は運行準備中で、煙突に排煙パイプをかぶせてボイラーの音を響かせていました。日本に現存する動態のC10形蒸気機関車はこれが唯一です。昭和五年(1930)製造ですから94歳の機関車です。重要文化財に指定してもいいぐらいの価値があると思います。

 

 C10-8号機の後ろには、トーマス号も見えました。これは川本氏の教示によればC11形の190号機であるそうなので、熊本から来て復活したという機関車にあたるわけです。本来のC11-190号機の姿を再び見られる日は来るでしょうか。

 

 C10-8号機とトーマス号のC11-190号機の並びです。2023年11月時点で大井川鐡道が保有している動態の蒸気機関車は6輌と聞きましたが、4輌は修理およびレストア中だというので、上図の2輌が営業運転出来る蒸気機関車の全てであるわけです。
 なので、故障とかしても代替機が無いわけです。いずれも大井川鐡道の主力たる観光列車の牽引車ですから、片方でも欠けると売り上げが無くなります。代替機が1輌でもあればリスク回避が出来ますから、それを目指しての富山県高岡市からのC11-217号機の引き取り移設であるのでしょう。  (続く)

 

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