気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

高槻のRailside Cafeに行きました

2024年07月31日 | その他

 2024年6月8日、久しぶりに高槻へ行きました。高槻市には昔、2年半ほど住んでいたことがあり、上図のJR摂津富田駅が最寄りでした。約10年ぶりにそのJR摂津富田駅で降りました。

 

 JR摂津富田駅の南口バスロータリーの南側に、サークルの鉄道仲間の川本氏に「最近にレンタルレイアウトのカフェが出来たんで一度行ってみ」と教えられた、そのカフェがありました。パン屋さんのあるビルの二階だ、ということでした。

 

 お店の名前は「Railside Cafe」、上図の看板には「鉄道模型が走るカフェ」とありました。

 

 入口階段前にあったメニュー表です。今回はここで昼食もいただこうと考え、手持ちの車輌を幾つか持参して入りました。

 

 二階のお店のドアです。ドアのガラスのデザインも変わっていて、なかなかオシャレです。

 

 店内の中央には大きなNゲージのレイアウトが設けられていました。今までこういった大きなレイアウトは鉄道模型店でしか見たことがなかったので、カフェで見るのは初めてでした。大阪府にはこの種のレイアウトカフェは幾つかあるそうですが、京都府には一軒も無いのです。

 

 なかなか立派なレイアウトです。全部で6線が引かれていて、同時に6人までが車輌を走らせて楽しめるそうです。

 

 コントローラーはカトーのパワーパックです。レイアウトそのものもカトーのレールで構成されていますが、車輌はどのメーカーのものでも走らせることが出来ます。
 私が案内されたのは一番右の席で、「1番線」とありました。レイアウトの最も外側の周回路線でした。

 

 持参した車輌のひとつ、トミックスの天竜浜名湖鉄道のTH2109号車、ゆるキャンラッピング車。これは初代で、現在はSEASON3バージョンのラッピングに変わっており、いずれトミックスから発売されるものと思われます。

 

 続いては、アルナインの大井川鐡道井川線のDD20形機関車と3輌の客車。家でも走らせる機会がなかなか無かったので、本格的な運行は今回が初めてでした。カトーの動力ユニットの調子は上々で、一周約10メートルの路線をスイスイと走ってくれました。

 上図でも分かるように井川線の車輌は線路はJRと同じ狭軌ながら車体が小さいため、ホームが高く見えてしまいます。客車の出入口ドアの真ん中あたりにホーム面がきていました。

 

 さらに先頭に自作スクラッチのDD100形機関車を繋いで走らせました。これも快調にスイスイ走りました。かつての井川線の列車はDD100形が牽引していたのですが、実際にその姿を見たことはありません。なので、Nゲージでその雄姿を見ると感動してしまいます。

 同時に、いずれDD100形は改修しなければ、と考えました。もともと、ややオーバースケール気味で、1/150スケール換算で車高が1.3倍ぐらい高いので、上図のようにDD20形との高低差が一目瞭然でした。上面を約4、5ミリほど削って低くする必要があります。

 

 パスタとコーヒーを注文していただきながら、走っている車輌を眺めて楽しんでいるうちに、一時間があっという間に過ぎました。こんな大きなレイアウトを自宅に作るのは現時点では無理なので、こういったレンタルレイアウトのお店で楽しむのが良いと思います。京都にもこういうカフェがあればいいのに、と思いました。

 同時に、ジオラマの製作に関する参考にもさせていただきました。緑地帯をどういう素材でどのように作るのかも、店主さんに色々教えていただきました。今後予定している大井川鐡道ジオラマ製作に向けての第一歩となるでしょうか。

 このお店のレンタルレイアウトは、車輌持ち込みで平日なら1時間700円、土日祝800円、車輌もレンタルする場合は30分で600円です。お客は子供連れのママや家族連れが多いそうで、総じて子供たちが鉄道模型を楽しむ場所、という感じになっているそうです。
 
 Railside Cafeの公式サイトはこちら

 

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伏見城の面影18 七本松観音寺の山門

2024年07月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 洛翠園不明門を辞して南禅寺永観堂道バス停より市バス5系統に乗って四条烏丸へ行き、そこで昼食をとった後、52系統に乗って上図の七本松出水バス停で降りました。

 U氏が「このへんは初めて来たな」と言い、私も「僕もや」と応じました。
「で、どこなんだ」
「すぐそこや、見えるやろ」

 

 バス停の南約30メートルに、上図の門が建っていました。観音寺の山門です。
「ほう、小さな門だな、通用門クラスかな」
「そうやろな」

 

 門の左脇に立つ案内板です。U氏が早速読み始め、いつものように三度読んでいましたが、最後に冒頭の「慶長一二年」を指して「これはアリかもな」と言いました。私も頷きました。

 慶長十二年(1607)といえば、徳川家康が伏見城の作事を停止して、建物や屋敷、器材などを駿府城へ運ばせ始めた年です。家康は慶長十一年(1606)に居城を伏見城から駿府城へ移しており、慶長十二年からは家康の異父弟の松平定勝が伏見城の城代に任ぜられています。そして伏見城の規模や機能の縮小が徐々に行われたとされており、幾つかの建物が不要となっていったようです。

 

 「伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ」と書いてあります。U氏が「牢獄だと?」と呟いて私を振り返り、「伏見城に牢獄ってあったのかね?」と訊いてきました。

「そりゃあ、あれや、城郭も生活空間の一種やし、城兵がなんか悪事とかやらかしたら裁いて罪に問うことにはなるやろうし、牢獄ぐらいあっただろうな。例えばさ、黒田官兵衛も荒木村重に監禁されて有岡城の牢獄に押し込められたからな」
「そうか、なるほど」

 

 門の扉を見ました。U氏が言いました。
「この板とか、なんかものすごく古い感じだな。隙間が出来るぐらいに縮んでるし。下半分は修理したんだろうが継ぎ接ぎになってるし。枠のほうがちょっと新しい感じに見えるが」

 

 反対側の門扉も同様でした。こちらのほうが、下半分の板の継ぎ足しが無いので、オリジナルに近い感じがします。

 

 門をくぐって内側斜めから見ました。典型的な棟門の形式ですが、主柱や貫、屋根などは後世の材で造られているようで、木肌の色や雰囲気が門扉部分のボロボロの板とは違いました。

 

 やはり門扉の板と内側の閂がやたらに古い感じでした。ボロボロになっても張り替えなかった事自体、それなりの由緒があって残し伝えないといけなかった経緯を示唆しているのでしょうか。

 

 主柱や貫、屋根などは、何度見ても細部を観察しても、木肌の感じ、製材痕などが綺麗に見えました。やっぱり後世の材で造られているな、とU氏も言いました。

「本当に牢獄の門だったのであるとすれば、こういう棟門じゃなくてさ、簡単な冠木門の形式だったかもしれん。冠木門だったなら、いまの棟門に直した場合に主材はだいたい交換するだろうから、残るのは門扉ぐらいになるかもしれんな」

 そのU氏の推測は、なかなかいい線をいってるな、という気がしました。確かに冠木門から棟門に改造されたのであれば、主柱や貫、屋根などが後世の材で造られているように見えてもおかしくありません。

 

 だとすれば、この柱の木製の根巻飾りも江戸期の移築後に付けられたものと考えられます。安土桃山期の建築ではこういった根巻飾りは金属板で打たれて金箔押しになっているケースが多いからです。

 

 屋根裏の造作も完全に新しいものに見えます。蟇股の目玉部分がほとんど造形されておらず、脚の両端が雲形に象られているあたりも江戸期の造りによくみられる特色です。

 

 屋根全体を後世の追加と推測するならば、上図の妻飾りも同様になります。

 

 風雨の影響を受けやすかったためか、かなり風食朽損が進んでいます。紋章が打たれた痕跡も見えません。

 

 総じて、江戸期に建てられた門という雰囲気が強いです。門扉の板だけが妙に古めかしくみえますが、普通は交換されていてしかるべき部材ですので、ボロボロになってもそのままになっているのが不思議です。

 U氏が「あえてボロボロの板を残してるってことは、それがもとの伏見城の門の板だったから、ということかもしれんな。だいたい寺の創建が慶長十二年ってのが、伏見城の作事停止、駿府城への移築で建物の解体が始まった年だからな、そのときに牢獄の門だったか、こういう通用門クラスの門を何らかの形で譲り受けて移築する、ってのは可能性としてはアリだな。案内板の寺伝はただの伝承じゃないんだろう、何かの記録とかが残ってるのかもしれんな」と言いました。

 その言葉通り、いまの観音寺山門が旧伏見城からの移築である可能性は否定出来ません。ただ、いまの門は柱も屋根も全部江戸期のものに見えますので、妙にボロボロになっているのに今も現役の門扉だけが、旧伏見城から移されてきた部材かもしれない、と推測しておくほうがよさそうに思います。

 時計を見ると14時47分でした。それで京都駅まで移動して新幹線ホームまで行ってU氏を見送りました。別れ際に「次は桜の頃に行くから、例の長楽寺とか養源院とか行こうぜ」と言われました。

「次は日帰りなのか?」
「いや、一泊二日で行こうかと思ってる。伏見城の移築建築、まだ他にあるのかね?」
「京都市内はもう無いと思う。あとは宇治市やな」
「いいじゃないか、宇治市は久し振りに行きたいな。平等院とかさ」
「なら、一日目は長楽寺と養源院、二日目は宇治方面、でええかな」
「いいよ、あとは右京大夫に任せる」
「承知」

 ということで、次は桜の時期に伏見城移築建築巡りを行なうことになりました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その16  旧東海道筋の街並み 下

2024年07月29日 | ゆるキャン△

 島田市の島田宿大井川川越遺跡の復原エリアを東へ歩きました。御覧のように江戸期の景観が復原されていて、当時の旅人の気分が味わえます。

 歴史を学ぶための場として最もふさわしいのが、遺跡や遺構の実物大復原であることは、もと奈良県民で平城宮の壮大な宮殿や宮門の実物大復原に親しんでいた身としては本当によく理解出来ます。絵とか図面とか模型よりも、実物大の建物のほうが情報量、迫力、説得力がダントツであるからです。これが歴史か、と子供でも分かります。

 こうした江戸期の街並みは、全国各地に昔ながらの街並みが伝わって幾つかは重要伝統的建造物群保存地区に指定されている所でも見られますが、大なり小なり後世の修理や追加や改変が加わっていますから、ズバリの江戸期の街並みそのまま、というケースは皆無です。

 だから、島田宿大井川川越遺跡の復原エリアというのは学術的価値からみても非常に素晴らしいものです。昭和41年の指定以来50年余りを費やして遺跡の解明と保存維持に尽力している島田市の文化財行政のレベルがいかに高いかが分かります。
 大井川鐡道が鉄道遺産として世間に認識され、登録文化財に指定される建物が幾つかあったのも、実は本社と路線の半分ぐらいが島田市に所在していることが非常に大きく、島田市の教育委員会による文化財保護施策がさまざまになされた結果といえます。
 台風災害に埋まった線路をすぐ手当して復旧を施しているのも、鉄道文化遺産としての大井川鐡道を保護するという観点に関連する取り組みの一環であったのですが、訪れる鉄道ファンやゆるキャンファンの多くはその事を知らないようです。

 

 大井川川越遺跡の復原エリアに建ち並ぶ復原建物を順に見てゆくことにし、西端の南側に位置する「札場」に入ってみました。外の説明板は昭和50年代に設置されたものだそうで、文字がかすれ気味になっていますが、直すことはしないようです。

 

 札場の番台には川越業務の世話人の実物大イラストパネルが置いてあり、それらしい雰囲気を醸し出していました。

 

 札場の説明文です。現代風に言うと経理事務所とか経理課のような役割の施設です。川札の換金による売り上げの確定、人足への給料支払い、経費積み立てを行なっていたわけです。

 

 札場の隣は立合宿の建物でした。上図はその立合宿の内部です。今で言うと合宿用の宿泊施設で、内部の部屋空間が広いです。

 

 立合宿の隣の建物も宿屋でした。外観がちょっと違いました。

 

 中に入ってみても、部屋の造りや設えが綺麗で、身分の高い人か、それなりの職位にある役人向けの宿泊施設といった雰囲気でした。案内文には仲間の宿とありました。

 

 なるほど、川越業務の責任者、世話人、年寄の寄合などに使われた施設ですか。その責任者が役人や人足の投票で選ばれるというのが、いかにも江戸期らしいと思います。

 あまり知らない人が多いのですが、江戸幕府というのは徳川将軍家からのトップダウン方式での統治システムではありましたが、天領や諸藩での地域支配においては割合に自治を認めており、土地の事は土地の人々に任せる、といったスタンスでありました。幕府の関与は交通網の整備と監視、西国諸藩への監視と警備、治安維持と裁判、食料生産量のコントロールなどが主でしたから、地域の政治は諸藩や地域住民で責任をもってあたれ、というのが基本方針でした。

 なので、町や村単位での統治は住民の裁量に任される事が多く、納税の義務さえ果たせば、自治はある程度認める、というのが鎌倉幕府、室町幕府以来の伝統的な支配方針であったようです。自治がある程度認められていたから、地域でのルールや責任者を投票や多数決で決めるというのはどこでも普通に行われていたそうです。
 だから、投票や多数決で少数派のほうになってしまうと、あいつは反対しやがった、と差別すら受けました。いわゆる村八分の因習はそこから来ています。いまでもその流れが学校や会社などで普通にみられるでしょう。

 

 仲間の宿の向かいには、二番宿(上図左)、七番宿(上図右)の復原建物が並んでいました。番宿とは、川越人足が詰めていた施設のことで、今で言うと労働者の宿舎にあたるでしょうか。大井川の川越人足は一から十までの組に分けられており、それぞれの番号の番宿にて待機していましたから、一番宿から十番宿までがありました。現在は二番宿、三番宿、七番宿、十番宿が復原されており、そのうちの三番宿と十番宿が公開されていました。

 ちなみに二番宿の左隣は広い空き地になっていますが、江戸期の古絵図ではそこに川会所の記載がありますので、もとは川会所があった場所だと分かります。

 

 七番宿の右隣には明治期の古民家が残され、現在は島田市博物館の分館として公開されています。

 

 御覧のように、分館のなかに海野光弘版画記念館と民俗資料室が併設されています。海野光弘は静岡市出身の木版画家で、その没後に全作品が遺族より島田市に寄贈され、それによって版画記念館が設置されたということです。

 

 明治期の古民家にしては立派な玄関の構えです。これが分館の出入口になっていて、戸をガラガラと開けて中に入りました。

 

 入ると右に受付、正面が上図の土間でした。土間の中央右側に竈が設けられており、江戸期以来の典型的な日本民家の内部空間のレイアウトが示されていました。

 

 土間に向かって左側には、座敷や控えの間などの空間が4つあり、奥に2つの座敷があって中庭に面していました。

 

 土間の奥はもと厩と納戸であった空間で、内部には民俗資料室の大型の展示品が幾つか置いてありました。市民の体験講座もここで催されるようです。

 

 中庭に出ました。なかなか立派な外観の古民家です。この建物は明治32年に当地の地主を勤めた桜井氏の私邸であったもので、一階部分が地元島田市の大工によって造られ、二階部分は京都の大工を呼んで数寄屋ふうに造ったということです。中庭の左右には槙の古木がそびえ、とくに西側(上図左側)の槙は樹齢約300年とされています。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)戦車道連盟 M29ウィーゼル

2024年07月28日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タコム (商品コードTKO2167)

  制作期間   2023年12月15日~23日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 完成です!!

  総評・備考
 M29ウィーゼルは、制式名称をM29輸送車といい、第二次大戦中にアメリカが開発した軍用装軌車両の一種である。雪上での作戦に用いることを想定して造られた雪上車である。
 ガルパンでは最終章第4話にて戦車道連盟の車輌として登場し、対継続高校戦で搭乗車を撃破された大洗女子学園あんこうチームの5人が試合会場からの退場移動にて乗っていた。ワンシーンだが雪原での移動シーンが描かれ、まさに雪上車として使われている。
 公式キットは無く、適応キットは昔はモノグラムの製品があったが、現時点ではタコムの製品が唯一である。小型車輌のゆえにパーツが小さく、足回りも実車と同じ形状で細かく再現されるため、初心者にはちょっと難しいかもしれない。経験者または上級者向けのキットであろう。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その28  大井川鐡道の井川駅を作る その二

2024年07月27日 | ゆるキャン△

 ベースがだいたい出来上がったので、駅舎などの建物の製作にとりかかった。画用紙を用意して、記録メモや写真から駅舎の原図を描き起こして上図のように正面図と側面図を仕上げた。

 Nゲージのジオラマを作って楽しむ場合、駅もストラクチャーで販売されているキットを買って組み立てるケースが多いが、私の場合は実在の井川駅を再現するので、ズバリのストラクチャーが出ているわけはなく、自作するしか方法が無い。
 駅以外の施設を作る時も、ホームとかトンネルとかは井川線独自の小さなサイズになるので、市販のストラクチャー類がそのまま使えない。多くは自作することになるかと思う。

 

 画用紙に1/150スケールで原図よりトレースして図を描いた。これを切り取って折り曲げれば建物の形になるようにした。

 

 切り取って、仮に組み立てた状態である。左より売店跡、駅舎、事務棟である。今回の井川駅のジオラマの建物はこの三つで全てであった。

 

 仮組みしたものを再び展開して実物と同じような色のポスカやコピックペンで着彩し、戸口や窓などの輪郭線を極細ペンで描き起こした。

 

 再び組み立てて、内部から接着剤を塗って固定した。

 

 駅舎の庇部分はプラ板で作り、計6本の支柱は1ミリブラ丸棒で作って庇と同じ緑色に塗り、実物と同じように取り付けた。

 

 建物が仕上がったので、その敷地部分のベースをグレー系のカラーで仕上げ塗りした。

 

 ホーム部分も同じように仕上げ塗りした。カラーは駅舎敷地のグレーよりもやや濃いカラーにした。

 

 続いて山裾部分の工作にとりかかった。グリーンマックスの2513番「石目模様 石垣B」をカットして自然石乱積みの部分を作った。

 

 このように曲げてカットしてペース上にセットした。駅舎の改札口の斜め向かいの、井川駅の大きな駅名標が建つ区画である。このような自然石乱積みの部分はトンネルの北側にも擁壁として有るので、そちらの工作でも使った。

 

 それ以外のコンクリートブロックの部分は、グリーンマックスの2514番、「石目模様 石垣C」を使用した。

 

 上図のように張り出し部分も実際と同じように仕上げた。もとは雨などで山裾から土砂が線路敷に流れ込むのを防ぐための擁壁だったのだろうと思う。

 

 続いて山裾の地表面を作ることにした。ダイソーで買ってきた上図の「超軽量工作ねんど」を使用した。パッケージに表示がなされていないが、紙粘土の軽量版であり、表面が紙と変わらないので、水性絵具での着彩も容易である。加えてジオラマ自体の軽量化をはかるには、これが一番だろうと考えている。

 

 むしって薄く引き伸ばしたのを上図のように貼り付けていった。スタイロフォームにもよく馴染むので、地表面の起伏を自在に表すことが出来た。乾燥して固まるまでに二日ぐらいはかかるので、それまでに木を差して位置決めが出来るし、作り直しや追加盛り付けが出来る。100均の紙粘土だが、ジオラマへの適性は抜群で、これからも重宝すると思う。

 

 次は岩肌および露岩の表現である。ダイソーの「カラーグラスサンド」を使用した。園芸用品コーナーにあるので、本来は鉢植え用の素材なのであろう。サイズやカラーがいくつかあるが、上図の品は一番小さなサイズにあたる。

 

 トンネル横の擁壁をセットし、その下に露出する岩崖と地表面の露岩を「カラーグラスサンド」を積んだり並べたりして作った。地面が紙粘土なので、押し込めばそのままくっつくが、後でポロポロ外れても困るので、瞬間接着剤を流し込んで接着固定した。

 

 続きのベースも並行して作っていった。紙粘土を薄く貼りつけた山裾が、積雪のように見えて面白かった。雪の景色を再現するのにも使えるな、と気付いた。

 

 山裾の地表面は、再び水性塗料のクサカベのアキーラで塗った。ガルパンプラモデルの塗装用に購入して使っているものだが、Nゲージジオラマの製作にも応用出来るのは有り難かった。紙粘土で形成した地表面の塗装には最適の絵具である。

 

 4色の絵具を使って上図のように塗った。ほとんど水彩画のタッチで進めたが、複数の色を混ぜ合わせているので発色は多彩となって、一種のグラデーション効果による地層面の表現も楽しめた。

 上図には2本の木が見えるが、これらもダイソーの品である。3本入りで100円。最近のダイソーやセリアには、ジオラマ情景製作用の素材も色々売っているので、時々チェックしている。

 

 塗り上がったのを、二日ほど置いて乾燥させた状態が上図である。アキーラは水性塗料ながらエマルション効果による油性塗料の性質も併せ持つため、塗っている時は半光沢になるが、乾燥させれば光沢が落ちて落ち着いた色になる。

 こうして山裾の地表面が仕上がった。その上にジオラマ用の情景パウダーを撒き散らしてゆけば、草や芝などが作れるわけである。  (続く)

 

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伏見城の面影17 洛翠園の門

2024年07月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺中門の見学後に上図の勅使門を見ましたが、こちらは旧京都御所の門なので、今回のテーマである「旧伏見城建築遺構めぐり」の対象には含まれませんでした。U氏もさらりと一瞥したのみでした。

 

 改めて中門の全景を見、撮りつつ「京五山の別格筆頭たる南禅寺に寄進されたからこそ、今日まで残ったわけだな」となにか満足げに呟くU氏でした。

 

 南禅寺の境内地から北への路地を進み、上図の扇ダム放水路沿いの歩道を西へたどりました。U氏が言いました。

「次はどこかね」
「そこの表通り、白川通に出たらすぐ右にあるよ」
「どういう建物かね?」
「よく分からんね、言うなれば、判じ物やな」
「なに判じ物・・・、水戸藩28万4千石の面目にかけても、解いてつかわそう」
「御意」

 

 その建物の前に着きました。白川通に面した松下美術苑真々庵の隣の庭園、洛翠園の西端に位置し、現地では不明門(あかずのもん)と呼ばれる建物です。

 U氏は初めて見るらしく、「うわ、変わった建物だなあ」と驚きと感嘆と不審の入り混じった声を上げました。

 

「門扉の家紋は、もしかして菊紋・・・いや違うな、別の花かな・・・」
「水戸の、菊紋で正しいで」
「あんな菊紋があるのかね」
「八重菊紋や」
「ふーん、初めて聞いたな。この建物がもと伏見城の門なのかね」
「横の説明板にそう書いてあるよ」
「あ、あれか」

 

 脇の説明板を例によって三度読みした後で、うーむと腕組みしつつ、上図の軒下の造作を見上げるU氏でした。垂木は疎垂木で放射状に配されていますが、城郭関連の建物にはあまり見かけない形式です。寺社の小建築に多い建て方です。

 

 御覧のように門口の上の貫の上に直接屋根が架かっています。門口の上辺材の左右には彩色の痕跡が白っぽく残っています。胡粉でしょうか。

 

「おい、内部は門というより部屋みたいになってるぞ」
「うん、内側に障子戸みたいなのが張ってあるな、庭園を眺める東屋みたいになってる。待合が設えてあるんかもな」
「待合があるんなら、門としては使ってないということか」

 待合(まちあい)とは、待ち合わせや会合のための場所または座席を指します。庭園内の東屋や観覧所などに多く設けられる施設ですが、常設のものではなく、場合によっては取り外したりします。ここの建物の場合は門であるので、門として使う場合には待合を外して通路空間を確保したのでしょう。

 

「見ろ、あの上の虹梁みたいなのは、破風の板と違うかね」
「言われてみれば確かに・・・破風やな。虹梁とは全然違う。真ん中に繰り下げがついとる」
「そのうえに丸い穴が開いてるだろ、あれ家紋を打ってた跡と違うかね」
「水戸の、あれが破風板なら真ん中に家紋は打たないよ、釘隠しの飾りなら打つけどね」
「ああ、確かに」
「しかし、破風板をあんなふうに構造材に転用してるの初めてみたな。もとは破風付きの門だったのを改造したようにも見える」

 

 もしあれが破風板ならば、門に破風を付けるのは、唐門形式であれば前後、妻門形式であれば左右、の一対になりますから、二枚あることになります。が、反対側へ回ってみたら破風板はありませんでした。

 

 そのことは、ネットで探して見つけた、上図の不明門の内部画像によっても確かめられます。破風板は上の一枚のみで、向こう側には付いていません。他の建物の部材を持ってきたのかもしれませんが、門の左側だけに付いているのも妙です。

 さらに、天井には龍が描かれています。門の天井に龍を描く事例は初めて見た気がします。昔からの絵ではなくて、現在地に移築後に新たに描かれた可能性も考えられます。

 全体としては、門のように見えるが門としての体裁にはなっていない、庭園内の東屋のような位置にあるという、よく分からない建物です。複数の部材を寄せ集めてこしらえたような、変わった造りも他に例をみません。伏見城からの移築とされていますが、史実なのか、伝承なのかは分かりません。

 U氏が「さっき判じ物と言われたけどさ、これは判じ物以上だな、さっぱり分からんぞ」とボヤいていました。

 

 この不明門が建つ庭園は、もとは南禅寺の境内地に含まれていましたが、明治になって政府の所轄地となり、1909年に実業家の藤田小太郎の私邸が建てられました。その際に庭園が新たに小川治兵衛によって造られましたが、それがそのまま今に伝わって洛翠園と呼ばれています。
 戦後には旧郵政省の所有となって宿泊施設が置かれ、庭園も公開されていましたが、2009年に閉鎖となって売却されました。そのまま企業の所有となって現在に至っており、ここ十数年にわたって非公開のままであると聞きます。

 

 U氏が再び門扉の菊紋を見ながら、「これも現在地に移築してから付けたんだろうな」と言いました。門扉に家紋を貼るのは皇族か貴族、もしくは明治以降の富豪や政治家や財界人に限られます。武家の門に家紋を表す場合はたいてい妻飾りか瓦に付けます。

 なので、旧伏見城の建物の門扉では有り得ません。U氏の推測通り、菊紋を含めた門扉そのものが、昔からのものではなくて現在地に建ててからの追加であると思われます。不明門そのものも、旧伏見城の建物であるかどうかは確証がないようです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その15  旧東海道筋の街並み 上

2024年07月25日 | ゆるキャン△

 島田市博物館から旧東海道筋を東へ進んで島田大堤を越えたところで、左手に上図の建物を見つけました。
 島田大堤のすぐ東側、というのが気になりましたが、それ以上に外観がちょっと変わっていて、かなり古い建物であることが察せられました。島田宿大井川川越遺跡に現存する唯一の江戸期の建物はこれかな、と考えつつ近寄りました。

 

 近づこうと足を進めだした途端に、右手に上図の案内板があるのに気づき、読みました。島田宿大井川川越遺跡の歴史というか、大井川の川越の歴史についての説明文でした。島田市博物館の展示で見た説明文と大体同じ内容でした。

 

 そしてこの建物が、やはり島田宿大井川川越遺跡に現存する唯一の江戸期の建物でした。安政三年(1856)の建築で、江戸期に東海道第一の難所とうたわれた大井川の川越を統括した川庄屋の事務所にあたります。

 

 建物の名称は、上図のとおり川会所といいます。説明文の通りですが、もう一つ、日本に現存する江戸期の東海道筋の会所の建築遺構はこれが唯一であり、貴重な文化財であることを覚えておくべきです。会所という建物自体は中世期から各地に設けられ、近世には日本中の町や村に置かれましたが、その建築遺構が残っているという事例を殆ど聞いたことがありません。

 

 川会所は公開されていて中にあがれます。個人的には会所と言う建物に関心があり、昔のままに現存する会所の建築を見るのは初めてのことでしたから、興味津々で中に入りました。

 まず右側に、上図のように納戸が並んでいました。内部空間の一方が納戸で占められる点も会所らしいな、と感じました。会所は、現在の言葉でいうと公民館にあたります。一般的な公民館もやはり納戸や押入れといった収納スペースが多い点、共通しているな、と思います。

 

 隣の部屋には川庄屋が使用した駕籠がありました。会所は江戸期には町や村の公的施設として寄合や集会や相談窓口などに使用され、江戸幕府や諸藩の地方統治システムの基本単位となっていましたから、これを預かる管理責任者は、幕府および諸藩から任命された役人か、認可を受けた町および村の庄屋階級でした。だから会所の責任者には駕籠の使用が認められていたわけです。

 

 江戸期の川会所の窓口業務の様子がマネキン使用でリアルに展示されていました。川会所に詰めて事務にあたった担当者は裃を着用していて、幕府および諸藩から任命または認可を受けた正式な事務官であったことを示しています。

 

 そして川会所の場合は、川越業務に関連して何らかの不正や過ちがあった場合に被疑者を検挙し裁判にかけて検証する施設でもありましたから、上図のように床が高く造られており、裁きの場では川役人が裁判官として上に座ったわけです。一段低い縁側に川役人に仕える庄屋階級や町や村の役人が並んでいたものと思われます。

 なお、川会所の建物自体は、やはり昭和45年に移築復元されており、もとは北西900メートルの場所に位置していたそうです。最初に、島田大堤のすぐ東側、というのが気になりましたが、会所という公的施設を堤防のすぐ横に設置する事は江戸期の治水防災の観点からして有り得ない、と考えたからです。
 なにしろ、今でも増水期には暴れ川となる大井川ですから、昔の氾濫の被害もどれだけ多かったかが察せられます。江戸期だけでも堤防決壊が七度、氾濫による浸水被害は数え知れず、という日本最大級の危険度を示した大井川ですから、その堤防のすぐ横に建物を建てたら、流される可能性が大です。

 

 なかなか興味深い建築遺構でした。色々と楽しい学びがありました。

 私自身は長らく中世戦国期の歴史を勉強していて、故郷の奈良県の中世戦国期の城館や寺社や集落をあちこちまわって調査していた時期がおよそ10年ほどありました。その期間中に奈良県下の中世武士や土豪の根拠地、城郭や城館や屋敷の遺跡、集落の遺構などを回り、その総数は600ヶ所余りに及びました。
 その取り組みのなかで、地域によっては公民館のことを今でも会所と呼ぶところがあったり、公民館自体がかつての会所の位置に建てられているケースが多い事を知りました。さらに会所といっても中世と近世では中身や機能が異なること、近世つまり江戸期の会所のほうが、現在の公民館に近いこと、などを知りました。

 しかしながら、会所の建物が中世や近世のままに残っている事例は、文化財の多い奈良県でさえ、一件も見かけませんでした。京都府でも事情は同じでしたから、今回の島田市の島田宿大井川川越遺跡の川会所の建築遺構が本当に珍しく、大変勉強になりました。こういった貴重な歴史遺産はいつまでも伝えていただきたいものです。

 

 川会所の入口付近に建てられている、国史跡の指定標柱。島田宿大井川川越遺跡、とあります。指定年は昭和41年、私の生まれた年です。

 

 川会所から東には、島田宿大井川川越遺跡の復原建物が幾つか並んでいました。多くの建物は昭和47年から48年にかけて遺構調査成果にもとづいて江戸期の姿に復原されています。周辺地域の大半においては昭和57年までに発掘調査が続けられて数多くの遺構や遺跡範囲が確認されています。

 

 こんな感じで江戸期の島田宿大井川川越地区の街並みが見られます。時代劇のセットみたいですが、建物の一棟一棟がちゃんと内部空間や細部に至るまで江戸期の姿にて復原されています。道路はかつての東海道ですから、江戸期の旅人の気分が味わえます。

 こうした中世近世の街並みを復原している事例は、私の知る限りでは他には福井県の一乗谷朝倉氏遺跡しかありません。あちらは中世戦国期の街並みの唯一の復原例で、こちらは近世江戸期の街並みの唯一の復原例です。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その27  大井川鐡道の井川駅を作る その一

2024年07月24日 | ゆるキャン△

 2023年6月からはじめた、鉄道模型Nゲージに関する取り組みは、9月に千頭駅をフルスクラッチで完成させたことで一段落していた。次なるステップへ進むには知識も情報も不足していたため、11月下旬に二泊三日の行程で大井川鐡道の全線に乗って井川駅まで行き、未訪だった大代川側線も含めて全域を踏破、多くの現地記録と写真画像を持ち帰った。その行程は既に「ゆるキャンに登場しない大井川鐡道を巡る」と題してレポートしている。

 その見学取材のメインが井川線であり、終点の井川駅を最も時間をかけて念入りに見学したため、鉄道模型Nゲージに関する取り組みの続きは、井川駅の製作と決まった。大井川鐡道の旅から帰って三日後の11月25日から制作にとりかかり、二週間を経て12月3日に一応の完成をみた。

 今回のレポートは、その井川駅の製作工程を五回に分けて綴り、個人的には初めてのNゲージジオラマの製作となった取り組みの忘備録を兼ねるものである。

 

 上図の二つの描図は、2023年11月22日に井川駅を隅から隅まで歩き回って見学し、撮影しつつ、大まかにスケッチした平面概念図である。

 右の黄色い紙には井川駅の全域を鉛筆で描き、それをベースにして、ジオラマ製作の範囲になると想定される駅の中心域を赤ボールペンで描いた。いずれも、帰りの列車の時刻までに駅内のあちこちを回りつつ描いているので、大まかな概念図ではあるが、現地の様子を細部まできちんと捉えており、写真と合わせれば井川駅の様子が分かる。

 左の赤ボールペン図の下に記した30は、ジオラマのベースの横寸法を30センチとした場合を示しており、縦寸法は書いていないが20センチ×3の60センチである。最初はこのサイズでジオラマ化しようと考えていて、現地で周りの景色を1/150スケールに換算しながら概念図を描いたわけである。

 

 しかし、大井川鐡道の旅から帰って三日後の11月25日から設計図の作成にとりかかり、Nゲージのレールを井川駅内のレイアウトに合わせて繋いでみたところ、実際のレイアウトを忠実に再現することは不可能であることが判明した。井川駅内の緩やかなカーブに一致するレールが、手持ちのトミックスのレールには無かったからである。
 そこで、再現出来ないカーブ部分は直線にして妥協しておくことにした。

 同時に、井川駅内のホームと本線と側線2本を八割ぐらいでジオラマにおさめようとする場合、ベースのサイズも最初の30センチ×60センチでは短くて収まらないことにも気付いた。もう少し長いベースが必要であった。

 それでトミックスのレールを井川駅内のレイアウトに近い形で繋いだうえで、それに見合うベースのサイズを計測してみたところ、20センチ×65センチが最低限であることが分かった。上図はその20センチ×65センチの範囲で設計し直したレイアウト案である。

 この図の左下には、現在は撤去されているガーター橋が描き加えてあり、2023年までは繋がっていた堂平までの線路も今後はモジュール化することを一応の選択肢に入れている。それで、実際には撤去されてしまった駅ホーム横の分岐ポイントも再現して描いてある。

 

 ベースの基本サイズが決まったので、材料を買い出しに出かけた。私の初めてのジオラマ製作は、材料を出来るだけ100均の品で揃え、かつ収納が楽に出来るように分割式で取り組んでみようと考えていたので、とりあえずは近所のダイソーへ出かけた。

 上図はダイソーで見つけたコルクボードの一種であり、サイズは22センチ×33センチであった。これを2枚繋げると22センチ×66センチの長いベースが作れるので、最低限で20センチ×65センチとしたベース案には最適であった。

 

 ダイソーでは、上図のスポンジシートも2枚購入した。これは千頭駅の製作でも使った品で、厚さは2.5ミリでカットしやすい。これをコルクボートの上に貼って地面にしようと考えた。

 

 このように、スポンジシートをコルクボートの上に貼ってベースを作った。同じようにもう1枚を作った。

 

 出来上がって繋いだベースの上に、トミックスのレールをさきのレイアウト案に沿ってセットしてみた。実際には線路が3本ともゆるやかにカーブしているが、そのまま忠実にカーブレールで繋ぐとベースからはみ出してしまうため、直線レールで妥協した。それでもギリギリであった。

 

 セットした線路を定規代わりにして上図のようにトレースしておき、線路を外した。

 

 トレースした線に沿って上図のようにカットし、線路部分を切り抜いた。トミックスのレールは5ミリの高さの道床部分に載っている形であるが、井川線の線路は周知のようにもとはダム建設用の臨時的な工事用軌道であったために道床を築かずに地面に直接レールを敷いている所が殆どであり、これに合わせることにした。

 すなわち、5ミリ厚のスポンジシートを切り抜いたあとへトミックスのレールをはめ込めば、ちょうどレールの高さが地面と同じになる。加えて、収納時にレールも外してしまえるようにしたかったので、レールは着脱自在とした。

 

 上図が、スポンジシートを切り抜いたあとへトミックスのレールをはめ込んだ状態である。この方法でモジュールを作れば、線路は着脱自在で収納も楽に出来ると気付いたので、今後のモジュール製作は基本的にこの方法でゆこうと決めた。

 問題は、レールに電気を送るフィーダー線をどうセットするか、であった。上図のように線路をセットしてもフィーダー線だけはレールに横からはめ込む関係で、ベースの上に配線が位置するのが避けられない。何らかの形で隠すか、カトーのレールのように内側から配線を繋ぐ方式に改造するか、と色々思案したが、妙案は浮かばず、モジュールとモジュールの間の隙間でフィーダー線をはめ込むしかない、と考え着いた。

 

 ベースにはめこんだトミックスのレールをローアングルで見た。ベースの地面の高さにレールがあって、実際の井川駅内の様子と大して違わない感じになった。仮に線路をこのまま接着固定した場合、両側の隙間にもバラストや砂を入れてゆけば、よりリアルな地面上のレールの景色が再現出来る。

 だが、私の製作ではレールは着脱自在とするので、両側の隙間にバラストや砂を入れることは無い。ペースの地面のほうをレール下のグレーに合わせて着彩したうえで大まかにバラストを撒こうかと考えた。

 

 続いて駅のホームをスチレンボードで作ることにし、試しに井川線の車輌を置いて高さをチェックした。井川線のホームは普通の鉄道のホームより低いので、車輛の台車部分もホームからよく見える。上図のような感じでいいだろう、と考えてホーム部分はダイソーの5ミリ厚のスチレンボードで構成することにした。

 

 続いて、井川駅の駅舎と付属の施設の配置平面図を描いて上図のようにベース上に置いて、建物の位置を決めた。駅舎とそれに繋がる事務棟、駅舎の向かいの売店跡、である。この範囲でギリギリだったので、例えば駅舎の南にあるお手洗いや休憩所スペース、下の車道への連絡階段は割愛した。

 

 駅舎の平面配置図の作成と並行して、売店跡のすぐ横に位置する井川線の第61号トンネルの出口もスチレンボードで上図のように作った。

 周知のように井川線の車輌は小さいので、駅ホームは低いしトンネルも小さい。それで市販のストラクチャー類がほとんどオーバースケールとなってしまうため、今回のジオラマはほとんど全てが手作りとなった。駅舎も紙に描画して組み立てる予定であった。

 

 トンネルの出口をセットした。一度、井川線の車輌を線路上に走らせてトンネルの高さをチェックした。実際と同じようにギリギリにしたが、その場合は本線の電車やかわね路号の列車はトンネルに入れなくなる。実際にはあり得ない、井川駅へのかわね路号の運行を楽しんでみたい気もするので、このトンネルのサイズに関しては、いずれ再検討することにした。

 なお、トンネル本体については、機会があれば別にモジュールでトンネルと山だけを作って繋ごうか、と思案している。

 

 続いて、トンネルからつながっている山裾の部分を作るべく、セリアで上図のホビー用ポリスチレンフォームを購入した。鉄道模型界隈で一般的に言われるスタイロフォームと同質の素材である。

 

 上図のように山裾部分を作った。細長くカットして二段に積み、切れ端も殆どくっつけてなるべく活用した。

 

 ベースの塗装にとりかかった。手元にあった上図の水性絵具、クサカベのアキーラで試しに塗ってみることにした。

 

 このように、グリサイユグレーとミキシングホワイトをポンポンと適当にベースの上に散らしておいて・・・。

 

 筆でかき混ぜつつ薄く塗り伸ばした。かつて京都造形芸術大学の絵画実習で学んだ、渦巻き塗りの手法。

 

 ベースの場所ごとに色調を変えて、地面、ホーム、駅敷地の三ヶ所を塗った。これらはプラモデルでいうと塗装の下地色に該当する。これらの上に、必要に応じて各色の粉などを振りかけていくわけである。  (続く)

 

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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 完成です!!

2024年07月23日 | ガルパン模型制作記

 塗装に取り掛かりました。作中車はカラーページが無くて車体色が不明ですので、ここは上図のアイルランド陸軍の現存実車と同じ車体色にすることにしました。

 

 車体、砲塔、車輪の全てをまとめてエアブラシで塗装しました。履帯はミスターカラーの28番の黒鉄色で塗りました。

 

 使用したのは366番のインターミディエートブルーFS35164でした。手持ちの塗料のなかで最もアイルランド陸軍の現存実車の車体色に近かったからです。

 

 転輪のタイヤゴム部分はポスカの黒で塗りました。

 

 車輪を車体に組み付ける前に、履帯との組み合わせをチェックしました。

 

 車輪と履帯を取り付けました。今回の車輌の履帯は薄くて華奢なので、組み付けと接着は慎重に進めました。

 

 砲塔の主副の機関銃を28番の黒鉄色で塗りました。

 

 左右の前照灯のレンズ部を8番のシルバーで塗りました。

 

 砲塔を車体にセットしました。塗装後の組み立てが完了しました。

 

 校章マークはモデルカステンの「MGデカール ガールズ&パンツァー Vol.3」より2枚を使いました。作中車にはマークがありませんが、それではどのチームの車輌か分かりませんので、ここではあえて貼り付けました。

 

 校章マークは、以前に製作した同チームのStrv m40L軽戦車にならって、砲塔左右の2枚としました。

 

 最後につや消しクリアを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 かくして新潟ビゲン高校チームの車輌は2種類となりました。「リボンの武者」の強襲戦車競技イベント「大鍋」大会に出場した2車種が揃いました。作中の「大鍋」大会に参加した高校は多くが1種類のみの戦車で戦っており、2種類以上の戦車を揃えていたのは、新潟ビゲン高校の他にはBC自由学園、サンダース大附属高校、プラウダ高校、聖グロリアーナ女学院などの強豪チームばかりでした。

 

 側面観です。足回りは、以前に製作した同チームのStrv m40L軽戦車と共通です。が、砲塔が小さい初期型のままなので容易に識別出来ます。

 

 こうして見ると、外観のデザインはかなり先進的ですね。第二次大戦前の1934年に開発されて生産されましたが、当時としては先進的なトーションバー・サスペンション、視察用ペリスコープ、全溶接構造などの特徴を持っていました。
 使い勝手も良かったらしく、現在もアイルランド陸軍とスウェーデン陸軍にて動態保存されているほどに、長く使用されていました。また1956年にドミニカ共和国に売却された車輌は、2002年まで実戦配備され運用されていたそうです。

 

 以上で、新潟ビゲン高校チームのランズベルクL-60軽戦車が「リボンの武者」の作中車の仕様にて完成しました。製作期間は、2023年9月11日から24日までの14日間でした。組み立てに11日、塗装に1日をあてました。新潟ビゲン高校チームの2種の戦車を出来たら揃えてみたい、という気持が、2019年からの4年を経て結実しました。

 L-60軽戦車の適応キットは現在でも出ていませんが、同じ車体と足回りを持つホビーボスのハンガリー38MトルディⅠ軽戦車のキットをベースにすれば、なんとか作れるわけです。
 以前に同様のプロセスで同チームのStrv m40L軽戦車を作った時は、車体もかなり改造しましたが、今回のL-60軽戦車は砲塔を初期型のタイプに改造するだけで済みましたので、製作の難度はさほどに高くはなかったと思います。

 

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伏見城の面影16 南禅寺中門

2024年07月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺の主参道に建つ上図の門は、現在は中門と呼ばれますが、江戸期までは脇門と呼ばれていました。左隣に建つ勅使門が、寛永十八年(1641)に明正天皇より京都御所の「日の御門」を拝領して移築されるまでは、この門が勅使門とされていました。

 この中門は、もとは慶長六年(1601)に細川家家老の松井佐渡守康之が伏見城内の自邸の門を寄進して勅使門としたものであり、「日の御門」の拝領移築にともなって現在地に移されています。

 

 したがって、この中門は二度場所を変えていることになります。一回目は伏見城下から南禅寺勅使門の位置へ、二回目は勅使門の位置から現在地へ、です。上図は中門の右側に隣接する番所です。早速、U氏が指さしました。

「この番所って、武家屋敷の門の番所だよな、南禅寺の門の横には有り得ない建物だな、これももと伏見城下松井屋敷の門の付属だろうな」
 うん、そうやと思う、と私も頷きました。

 

 「見ろ、門の脇戸の側面に築地塀の側板が残ってるけど、築地塀そのものは無くなってるな」
 「勅使門だった時は両袖に築地塀がついてたんやろうけど、右側に寄せて移築した際に塀だけ撤去されたんやろうな」
 「すると番所も移動してるのかな」
 「移動してるんやないかな?いまは参道端の水路の上に基礎構えてるし」
 「ああ、本当だ」

 

 中門をくぐって内側から現在の勅使門との位置関係を見ました。奥に見えるのがかつての京都御所の「日の御門」です。いまの中門がもとその位置に建っていたわけです。20メートルぐらいしか離れていません。

 

 移築後は門も番所も参道の右端に寄せられて、結果的に番所は参道端の水路の上という、有り得ない位置に建っています。そうまでしても残したかったのでしょう。この建物の由緒を南禅寺でも重くみて維持を図った歴史が感じられます。

 ちなみに、南禅寺には他にも伏見城からの移築と伝わる建物があります。いま国宝に指定されている方丈の大小のうちの小方丈が、寛永年間(1624~1645)に建てられた伏見城の小書院とされています。
 しかし、伏見城は元和五年(1619)に廃城となって翌年から城割りが始まっているので、その数年後に小書院を建てたというのは辻褄があいません。それで小方丈のほうは旧伏見城建築であるかどうかは疑問視されています。

 

 ですが、こちらの旧松井屋敷門のほうは本物とみられます。御覧のように寺社の門とは異なる武骨で簡素な造りに武家の門の特色が顕著です。

 この門を南禅寺に寄進した松井佐渡守康之は、はじめ室町幕府の奉公衆として足利将軍家に仕え、ついで細川藤孝の家臣として織田信長に仕えました。後に細川家の家老職を任せられ、細川忠興を支えて江戸期は中津藩および小倉藩の家老を勤めています。豊臣秀吉の治世期には伏見城下に屋敷を構えていましたが、その屋敷門を南禅寺に寄進したものが現存しているわけです。

 

 屋根裏の造作も簡素で最低限の木組みとなっています。中世戦国期の武家屋敷というのは、戦乱期にあっては焼かれたり破壊されたり、もしくは移築移転が多かったりで長期の維持がなされない前提で建てられるケースが多かったため、あまり堅牢かつ重厚な造りにはならないのが常であったようで、現存する建築の多くが簡易簡素の造りを示しています。

 

 それでいて外観だけは、武門の誇りを示すべく豪壮に造られ、形式に則って脇戸または潜り戸が設けられます。この中門でも元は潜り戸があったようで、向かって左側の上図の潜り戸部分はいまは板で塞がれています。これは南禅寺に寄進されてからの改造部分の一つでしょう。

 

 U氏が「城郭の大手門とかの城門を簡易化、小型化したような木組み、構造だなあ」といい、木組みや貫をあちこち見ては「実用本位の門だねえ、装飾とかなんにも無いな」と感心したように言いました。

 安土桃山期の武家屋敷の門構えというのは、規模の違いこそあれ、建物そのものは武家の建築形式でその型も一つか二つぐらいしか無かったようです。江戸期の武家屋敷の門が、全国どこへ行っても似たような長屋門や棟門の姿に造られているのも、安土桃山期の武家屋敷の門構えを受け継いでいるからだと思われます。
 なので、伏見城下に建ち並んでいた全国の諸大名の武家屋敷の門も、ほとんど似たり寄ったりの姿だったのだろうと思われます。

 

 「この門扉も当時のままなんだろうかね」
 「さあ」
 「なんか、枠とかは新しく取り替えたみたいになってるが」
 「そうやろうね。門扉ってのは消耗品やからね、寺でも屋敷でも毎日開閉するから痛むのも早いやろな」
 「でも武家建築の門の扉だな。お寺の門の扉って雰囲気じゃない」
 「せやな」

 

 ということで、この南禅寺中門が旧伏見城下の建築遺構であることは、まず間違いないだろうと思われます。

 この門が寄進された慶長六年(1601)は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が伏見城に入城した年です。当時の伏見城は前年の伏見城合戦で小早川秀秋、島津義弘ら西軍に攻められて炎上落城して廃墟同然であったため、翌慶長七年(1602)6月に藤堂高虎を普請奉行に任じて再建にとりかかっています。

 なので、この門は豊臣期の伏見城下の松井屋敷の門であったわけで、徳川家康の再建事業に際して撤去され寄進されるに至ったのでしょう。数少ない豊臣期の門遺構として、知恩院の黒門とともに記憶されるべき貴重な建物です。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その14  島田の旧東海道筋へ

2024年07月21日 | ゆるキャン△

 静岡ホビースクエアからJR静岡駅に戻り、12時21分発の列車に乗り、26分後の12時47分に島田駅で降りました。

 

 島田駅南口のバスターミナルで13時発のバスに乗り、大井川沿いの堤防道路を通って上図の島田市博物館に行きました。この日は川根温泉ホテルに泊まる予定でしたが、チェックイン時刻を16時台にしていたため、それまでの約3時間を博物館と大井川川越遺跡および旧東海道筋の見学にあてました。

 大井川川越遺跡は、正式には「島田宿大井川川越遺跡」といい、江戸期に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれた東海道大井川の川越しに関わる人々の仕事場や旅人たちが利用した施設などを、当時のままに復元し公開している遺跡です。国の史跡に指定されており、旧東海道筋の街並みなどが復原整備されています。日本でもここだけしかない珍しい屋外歴史ミュージアム施設ですので、一度行ってみたいと思っていました。

 大井川川越遺跡の一角に島田市博物館が位置し、旧街道筋の古民家の一つが博物館の分館となっている関係で、大井川川越遺跡と島田市博物館はワンセットの観光スポットになっています。大井川鐡道の新金谷駅から大井川橋を東へ渡って徒歩30分ぐらいで行けますので、私も平成11年に新金谷駅からのんびり歩いて大井川を渡って島田市博物館まで行ったことがあります。当時は大井川川越遺跡はまだ発掘作業および復原整備事業の最中でした。

 

 まずは島田市博物館に入って上図の常設展示と大井川川越遺跡のパネル展示を見ました。中世から近世にかけての史跡が多い島田市なので、この種の展示構成と展示資料の面白さは静岡県でも指折りです。
 大井川川越遺跡という、全国的にも類例が殆ど無い歴史文化財集中エリアを全面的に保存して景観保存に尽力している点からも、島田市の文化財行政のレベルの高さがうかがえますが、それは島田市博物館の展示の中身にもよく表れていると思います。

 文化財学専攻で文化財行政にも多々関わってきた私の経験からいいますと、文化財行政がしっかりしている自治体ほど、政策や施策がしっかりしていて財政状況も健全で町が住みやすいように造られている傾向がある、と思います。
 逆に言えば、財政もしっかりしていて行政機能が正常にコンスタントに機能しているから、教育関連や文化関連にもきちんと注力出来るわけで、結果として文化財保存などの取り組みに積極的になり、これを観光資源としても活かす方向へ努力する流れになります。もちろん自然災害などへの緊急対応も素早く出来る傾向があります。

 私の感覚からいうと、島田市は文化財行政の充実度は静岡県でもトップクラスだと思います。諏訪原城の復原整備事業もそうでしたが、とにかく国史跡クラスの遺跡が多いので、それらにきちんと対応してきた歴史があります。発掘調査に関しても地味に精力的に展開しているようです。
 島田市には私の文化財学科時代の後輩が居ますので、発掘調査報告書も何冊かいただいたこともあり、そういう情報は割と入ってくるのですが、川根本町の無いも同然な文化財行政に比べれば、全然違います。

 大井川鐡道に関しても、沿線自治体のなかでの支援および援助の総額は島田市が最も多く、大井川鐡道の昭和期開業以来の駅舎や施設の多くが登録文化財に指定されているのも、島田市域においてであり、島田市の文化財保存施策が大井川鐡道にも及んでいることが伺えます。
 また、令和4年台風15号災害による大井川鐡道の被災に関しても、島田市がいち早く対応して、国道と鉄道の被害復旧にあたっています。その流れで川根温泉笹間渡駅までの区間を復旧させています。隣接する川根本町が何の対策もせず予算も計上せず、川根本町域の鉄道の不通区間も放置されたままになっているのとは雲泥の差です。

 

 島田市博物館の展示を一通り見て予備知識を得た後、隣の大井川川越遺跡に行きました。正確には博物館の敷地も全て大井川川越遺跡の範囲に含まれるそうで、それを前提としての史跡エリア「ヒストピア島田」構想の一環として平成4年に開館しています。

 

 博物館の南側に旧東海道の道筋が通り、その西端は大井川の河原につながっています。一帯は江戸期の景観をイメージして公園化されていますが、江戸期にはこの辺りも河原であったそうです。

 

 江戸期までの大井川東岸の堤防であった、「善太夫嶋堤」の案内説明板です。

 

 「善太夫嶋堤」の遺構です。高さ六尺であったといいますが、現存の遺構はそれより低くなっています。

 

 「善太夫嶋堤」と旧東海道が交わる地点に設けられていた堰の戸板をはめ込む溝石です。堰はセキと読みますが、ここ島田宿では「セギ」と呼ばれていたそうです。

 

 「善太夫嶋堤」から東へ続く車道が、旧東海道の街道筋です。博物館のすぐ東側のエリアですが、景観復原事業の範囲外であるようで、両側の民家は新しいものが多いです。道だけが緩やかに屈折して江戸期の街道の面影を伝えています。

 

 博物館から100メートルほど東進した地点の左手には一本の大木が建つ堤がありました。最初見た時は、一里塚かなと思いましたが、違いました。大堤と呼ばれる、江戸期の護岸堤防の一種でした。

 

 大堤に沿った小川に橋がかかりますが、江戸期の姿に復原されています。この大堤が近世までの大井川と島田宿の境目であり、橋から東がかつての島田宿の範囲になります。大井川川越遺跡の復原整備事業による街並み復元エリアにあたります。

 

 大堤の脇に立つ案内説明板です。江戸期に築かれた大井川東岸の堤防で、島田大堤と呼ばれました。戦国期までに築かれていた川除堤(かわよけづつみ)が、慶長の大洪水(1604~1605)で決壊したため、正保元年(1644)頃までに築かれた大きな堤です。大堤の規模は高さ二間(約3.6メートル)、長さは三一五〇間(5733メートル)と記録され、現在も遺構が途切れ途切れに残されています。
 この島田大堤の築造を含む治水灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えたそうです。

 

 島田大堤の案内説明板の奥、島田宿の街並みエリアの西端に上図の背の高い古そうな建物が見えました。おや、あれは?と気付いて歩きかけた足を止めました。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版)

2024年07月20日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  グンゼ産業 (商品コードG775)

  制作期間   2023年5月24日~6月3日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 完成です!!

  総評・備考
 ガルパンの主人公である西住みほ以下あんこうチームの搭乗車となったことでお茶の間でも広く知られるようになったドイツのⅣ号戦車であるが、テレビシリーズの段階ではD型、D型改としてのF2型およびH型の3種類があり、劇場版および最終章においてはH型が最終形態としての姿をみせている。
 これに対して、コミック版では「フェイズエリカ」に継続高校チームのJ型が、「樅の木と鉄の羽の魔女」に伯爵高校チームのG型が登場してアニメ版との差別化が図られたが、G型は後にアニメの最終章で黒森峰女学園チームの車輌として加わり、テレビシリーズのF2型とほぼ同じ姿をみせた。
 そのため、公式キットはまだ出ていないものの、中身が同じあんこうチームF2型の公式キットが利用出来る。適応キットは各社より多数が出ているが、今回の伯爵高校チームの車輌のような、完全なシュルツェン装備タイプを再現出来るキットは下のキット一覧に示すように6点しかない。そのうちのミニアート品(下のキット一覧の5)はフルインテリアキットであり、内部の再現製作も楽しめる。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その5

2024年07月19日 | ガルパン模型制作記

 砲塔の改造の続きです。砲塔後部の拡張部分を除去すべく、ニッパーで切り取ってヤスリで形を整えていきました。

 

 砲塔前部の張り出しは、形状が異なるので、実車の画像などを参考にして改造します。

 

 張り出しの上面を上図のようにカットしました。

 

 カットした部分にプラ板を張ってL-60の初期型砲塔の形状に合わせました。

 

 砲塔後面は、熱をあてて曲げ加工したプラ板をあてて円形に整え、薬莢排出口の穴をあけました。

 

 砲塔上面の工作の状況です。プラパイプで機銃架を作り、プラ板でハッチとハッチの枠を作り、ジャンクパーツで跳弾板とペリスコープと砲塔背面のフックを作りました。

 

 改造が完了しました。なんとかL-60の初期型砲塔に近づけることが出来ました。

 

 反対側からの姿。

 

 上面の様子。ハッチは開閉自在にしようかと迷いましたが、接着固定しました。

 

 武装は、主武装がマドセン20ミリ機関砲、副武装が7.92ミリマドセン機関銃ですが、トルディⅠでは副武装が34/37A 8 ミリ機関銃に換装されているため、副武装のC1の代わりにジャンクから形状の似た7ミリ機銃のパーツをもってきて取り付けました。

 

 ちなみにL-60のスウェーデン陸軍向けの量産型つまりL-60sは、主武装がボフォース37ミリ戦車砲に強化されているので、今回のL-60aタイプとは容易に識別出来ます。

 

 この初期型砲塔と武装のL-60軽戦車をもって、新潟ビゲン高校チームは試合にのぞんでいたわけですね。  (続く)

 

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伏見城の面影15 南禅寺金地院大方丈から

2024年07月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の本堂にあたる大方丈の横へ回りました。U氏が「やっぱり規模が大きすぎるな。伏見城の縄張図で規模を調べてきたんだが、本丸や二の丸って今の二条城よりも狭いのな。それなのにこの建物は二条城の書院建築より大きいな」と言いました。

 確かにその通りかもしれません。加えて、上図の外観の建築様式は完全に江戸期のそれでしたから、江戸期に現地で新たに造営された建物だろうと思います。近年の研究では、寛永四年(1627)に以心崇伝によって建立されたものとみられていますが、それが正解でしょう。

 なので、この大方丈が伏見城からの移築とする寺伝は、ただの伝承にすぎないか、もしくは、移築の計画だけで終わったか、移築されたが規模が小さかったために現在の大方丈に建て直された、のいずれかの経緯を反映しているのかもしれません。

 

 大方丈の右側には中興開基の以心崇伝を祀る上図の開山堂があります。江戸期において開山の像は方丈内部の仏間に安置される形式が一般的ですが、金地院の場合はこのように開山堂が別に建てられており、鎌倉期以来の禅寺の古いスタイルが踏襲されています。また、かつては大方丈の他に小方丈もあって、その小方丈がいま正伝寺に移築されて今に伝わりますが、この大方丈と小方丈の併置も古いスタイルです。

 金地院は、もとは室町幕府第4代将軍足利義持が応永年間(1394~1428)に、南禅寺第68世の大業徳基を開山として洛北の鷹ケ峯に創建したと伝えており、それを江戸初期に以心崇伝が中興して現在地に移した経緯があります。いまの金地院が示す古いスタイルは、鷹ケ峯に創建された前身寺院の構えを受け継いでいるのかもしれません。

 

 大方丈の前面に庭園「鶴亀の庭」の白砂が広がります。 寛永九年(1632)に以心崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州政一に作庭させたものであり、造営時には全国の大名からたくさんの名石が寄進されたといいます。

 小堀遠州は周知のように江戸期を代表する作庭家で、全国各地に小堀遠州の作と伝える庭園がたくさんありますが、大部分は伝承に過ぎず、ここ金地院庭園のように史料のうえで小堀遠州の作庭であることが確かめられる事例は唯一であるそうです。

 

 大方丈の内部を見学しました。上図の前縁部以外は撮影禁止でした。桁行十一間、梁間七間の大きな規模ですが、平面形式は典型的な禅院方丈の六間取りとなっています。前列中央の奥が仏間で、本尊の地蔵菩薩像を安置しています。

 東側の奥にある「富貴の間」は、奥を一段高めて上段を設け、床および違棚、付書院を設け、帳台構を付して天井を折上げ格天井としています。各室の襖や障子腰板の障壁画に狩野派の作です。格式の高い部屋であり、葵紋をあしらった飾金具が使用されていて、武家御殿の大広間を彷彿とさせる室空間になっています。
 このような「富貴の間」がある点も、禅院方丈としては極めて異例の造りですが、おそらくは徳川将軍家の御成を迎えるためであったのでしょう。

 

「要するにだ、ここ金地院は京都における徳川家の重要拠点でもあったわけだ、神君家康公の遺言による三ヶ所の東照宮の一つがここだし、それを遥拝する仏殿としての機能も併せ持った方丈は、将軍家の御成があっても良いように高い格式で造られてる。庭園は小堀遠州、障壁画は狩野探幽、当代一流の名人による仕事だ。最初の頃は伏見城の書院を移して使ったかもしれんが、徳川家の菩提寺となった知恩院の壮大さに比べりゃ、小さかったんだろうな、そこで寛永四年に新たに大きな建物を造営した、と、こういう流れかもしれんぞ」

 U氏がそう話しましたが、それで合っているのではないかと思います。ここに伽藍を建設し始めた時には伏見城からの移築による大小の方丈があったのかもしれませんが、徳川家の拠点に相応しい大方丈を新たに造営するにあたって両方とも撤去、小方丈のみが正伝寺に移された、と考えれば、金地院方丈が伏見城からの移築とされる寺伝とも符合します。

 

 大方丈を出て、拝観順路を進んで明智門へと向かいました。これで金地院境内を一巡したことになります。

 

 近づいてくる明智門を見つつ、U氏が言いました。

「そういえば、徳川家の拠点である金地院の中門が、明智光秀の寄進門というのも、なんか不思議な組み合わせだな」
「あれはもとの門が豊国神社へ移されたんで、明治期に大徳寺から買い取って移したものやからな」
「あっ、そうか、そうだった。この前見てきたあの唐門がここにあったわけか」
「せや」
「それもなんかすげえ景色だったのと違うかね。国宝の三大唐門のひとつだぞ」
「せやな」

 

 金地院を辞して、参道を北へ進んで上図の門をくぐりました。南禅寺主参道に面するこの門も金地院の建物で、下乗門と呼ばれます。金地院一山の総門にあたり、参詣者はここで馬や輿から降りて門をくぐる習わしでした。

 

 金地院下乗門から右に曲がって南禅寺主参道に進むと、やがて上図の門が見えてきました。U氏が「よし、あれだな」と気合を入れ直していました。かつて伏見城内にあった武家屋敷の門であったもので、慶長六年(1601)に南禅寺に寄進移築されたものです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その13  静岡ホビースクエア

2024年07月17日 | ゆるキャン△

 静岡駅に着いた後は、駅ビル内のアスティ静岡に移動して昼食をとるべく上図の石松に入りました。ゆるキャン聖地巡礼で静岡に来るとどうしても浜松餃子が食べたくなってしまいます。

 

 安定の浜松餃子定食。

 

 やっぱり、これだよね。旨し。

 

 昼食後は駅南口のホビースクエアに行きました。次に乗る列車の時刻まで一時間ぐらいあったので、久しぶりに模型の聖地に立ち寄ることにしました。

 

 アーマーモデリングでとりあげられたという作品が展示されていました。これはもしかして、終戦時に浜名湖に新型の四式中戦車チトを沈める場面では・・・?

 聞くところによると、この戦車の探索が何度か行われているにもかかわらず、いまだに発見出来ていないそうです。もしかして、水没推定地点が違うのでは?と思ったりもします。

 

 きかんしゃトーマスの大型模型。HOゲージよりも大きいので、1/50ぐらいかな。Nゲージではトミックスから出ています。中古品で買おうかな。

 

 なにかのアニメのワンシーンかな、蒸気飛行艇とありますが・・・。

 

 これがベルゲパンツァーの一種ですか。車体はパンターですな。ガルパン最終章第4話の冒頭に出ていたのは車体がティーガーⅠでしたが、ドラゴンやライフィールドモデルのキットをそのまま作っても劇中車にならないのが悩ましいところです。

 

 ウッディジョーの慈照寺銀閣。庭園が実際よりも簡素化されているので、印象が全然違います・・・。建物自体も創建当初の状態ではなくて現在の姿です。

 

 ウッディジョーの木製模型はいいですね。昔からずっと憧れています。年取ってガルパンプラモや鉄道模型Nゲージをある程度やりきった後は、この精巧かつ温もりに満ちた木製模型の世界に浸ってみたい気がします。問題は費用ですかね・・・。

 

 個人的に人生最高の聖地である、宇治平等院鳳凰堂。憧れの模型です。いつかは必ず買って作ります。広い家を見つけて引っ越してからの話になりますが・・・。

 

 この平等院鳳凰堂は、最近の修理復元で藤原時代創建当初の要素が戻されて彩色も鮮やかに復原されていますが、この模型はそれ以前の状態をうつしとっています。藤原時代仏教美術史専攻であり、定朝様式の仏像と平等院鳳凰堂を長年研究してきた身としても、少なからぬ違和感を禁じえませんでした。

 それで、この模型を作る時には、色々と手直しして、いまの復原整備された鳳凰堂の姿に仕上げてみたいという気持があります。

 

 この翼廊部分とかも、細部のあちこちで江戸期修理の要素が見えるんですね・・・。屋根の形も微妙に違いますし。藤原時代の甍のカーブはもっとゆるやかですね。

 

 こちらは奈良の薬師寺の東西両塔。慣れ親しんだ故郷の風景のひとつなので、こちらも作ってみたいです。

 

 これですか、一時期嫁さんが騒いでいた「安宅船」は・・・。個人的には織田信長の鉄甲船に興味がありますが、史料的に具体的な姿が分かっていないので、その模型化は無理でしょうね・・・。

 

 ウッディジョーの人気商品は城郭シリーズだそうです。姫路城と首里城。首里城のほうは城郭というより宮殿でしょうね。

 

 熊本城です。サークルの先輩がこれを作って、周囲の櫓や塀も含めた本丸全体をスクラッチで製作していましたが、材料は紙と木材だったそうです。展示会でそれを見た時には、電飾も仕込まれているので驚いた記憶があります。

 

 安定のタミヤコーナー。

 

 今回の展示品のなかで一番テンションがあがった品。海賊戦艦アルカディア号。中学から高校の頃は、アニメのキャプテン・ハーロックシリーズの大ファンでした・・・。

 うちゅーうーのうーみーはーー、おーーれーーのうーみー・・・と心の中で歌いつつ、ふと時計を見たら12時13分でした。わっ、いつの間にか時間が経ってるぞ、次の電車の時刻まであと8分しかないじゃないか、と慌てて退出してスカイウォークを静岡駅へ駆け戻ったのでした。  (続く)

 

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