土肥金山の観光坑道を出た後は上図の金山資料館を見学しました。順路に組み込まれているので、この資料館を見て通らないと出口へ行けないのですが、大抵の見物客はここの展示の目玉である金塊などをみて大喜びするらしいので、実は坑道よりもこちらの方が人気が高いそうです。
この施設は、法律上は博物館法に定めるところの展示施設に該当しますので、文化財指定を受けている物でも収容展示出来、展示方法も博物館に準じた内容になります。なので、個人的に期待していた展示がありました。
期待していた展示とは、上図の土肥金山町の全体復元模型です。土肥金山の歴史を紹介する博物館的な施設ですから、立体復元展示の一種である模型は、必ずあるだろうと予想していましたが、やっぱりありました。しかも、なかなか精巧に作ってあって、江戸時代に栄えた土肥金山町の姿がよく分かります。
町並みの中心あたりの山寄りにある、3番の札が立ててある区画が、江戸期の伊豆金山奉行所です。江戸幕府は土肥を直轄領として土肥金山の運営にあたり、金山奉行の大久保石見守長安は伊豆金山奉行も兼ねました。その事務所にあたります。
金山町の中央に、鉱山の上流から流れる川があって海に注いでいます。現在の土肥街区の真ん中を流れている山川にあたるのでしょうか。
金山奉行所に隣接して鉱山の付属施設が並び、そこから山の中腹の坑道口へと山道が続きます。この模型では三ヶ所に坑道口が見えますが、全盛期にはさらに数ヶ所にあったそうなので、坑道が広範囲に掘られていたことがうかがえます。
土肥金山の金で作られたという、江戸期の大判小判です。時代劇の悪役スターの必須アイテムですな。「お代官様、山吹色の手土産をどうぞ」「お主もワルよのう・・・」のセリフは定番ですな。 (アホかお前は)
続いて金山施設での諸作業の様子もこのように精密に模型化されて展示してありました。鉱石を砕いて粉にして、金を取り出すまでの各工程が分かりやすく示されています。
私自身も模型が趣味なので、こういった模型による立体展示は見ていて楽しいですね。立体展示といえば、プラモデルで作るジオラマもそうですが、こういった歴史的光景の復元展示というのが、考証や文献検討をともなう研究活動なくしては出来ないだけに、ジオラマとしては最も難しい、高度なテーマなのだなと思います。人形にしても姿勢や服装、表情に至るまで細かく作り込んであって、同じものが全くありません。
なので、こういった模型は、プロの業者が製作しているケースが殆どです。博物館や資料館向けの立体模型を製作する専門の業者が、日本だけでも数社あると聞きます。多くは建築模型などのメーカーであると聞いています。
こういった展示模型をあちこちの博物館で拝見していて、いつも興味を覚えるのは、このような昔の日本の歴史的な風景、景色というものを具体的にどうやって考証し復元しているのか、ということです。
基本的な資料は古文献や絵画であり、現代のように直接見て分かる写真や映像といったリアルな媒体がありませんから、立体化および復元にあたっては相当な考証と研究の蓄積が必要となる筈です。大体は考古学や歴史学の範疇に含まれる筈ですから、私自身の研究活動内容ともどこかでリンクすると思うのですが、それでも全く別のカテゴリーだなという気がします。
面白いのは、監督の奉行所役人も含めて、作業に携わる関係者全員がマスクをしていることでした。常に粉塵に見舞われる鉱山環境にあっては、坑道だけでなく奉行所や工房でもマスクが欠かせなかったようです。現代のマスクとはちょっと構造が異なっていて、両耳にかけるのではなくて頭部に巻くような形状になっているのが面白いです。
おお、千両箱だ。怪盗ねずみ小僧の必須アイテムですな・・・。 (アホかお前は)
江戸幕府の御用船であった千石船の模型です。土肥金山は海に面していましたから、産出した金は船で幕府の直轄機関である銀座に運ばれていたわけです。銀座とは、いまでいうと銀行および貨幣鋳造所にあたり、江戸時代には江戸のほか大坂、京都、長崎などに置かれました。
土肥金山の場合は、駿府の銀座が取扱拠点でしたから、上図の説明文のように駿府へと船で運んでいたわけです。往路は当然ながら金を積んでゆきますが、復路は資材や食料や雑貨などを運んでいた、というのは興味深いです。
隆盛を極めた金山町の維持と、鉱山人足だけで一万人を超えたとされる人数を養うには、現地伊豆の生産量や経済力だけでは無理だったのでしょう。 (続く)