気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く43 その6  榛名富士山山頂展望所

2024年11月30日 | ゆるキャン△

 榛名山ロープウェーに乗りました。中間地点で下りのゴンドラとすれ違いました。

 

 山頂の「榛名富士山頂駅」に着きました。こういう、駅にゆっくりと入っていく瞬間もワクワクしてしまいます。

 

 ゴンドラから降りた際にプラットホームから撮った景色です。確かこの架線柱も作中に出ていたと思います。右下に榛名湖の湖面の一部が見えました。

 

 山頂の「榛名富士山頂駅」の外観です。ここで時計を見て、10時32分とメモに記録しました。県立榛名公園に着いたのが10時12分でしたから、それから20分でここまで移動したわけです。

 

 駅の建物の東側に回ると展望所があります。このアングルで作中に出ています。

 

 下のコマです。作中では左の東屋も見えますが、実際には少し木で隠れていました。

 

 展望所からの景色です。左手、東側を望みました。榛名山の外輪山の山並みが広がります。

 

 同じ位置で右側、西側を見ました。作中ではこの東西の景色が広域ワイドで1枚の画に描かれています。

 

 上のコマです。本当に「これはなかなかの景色だねぇ」でした。

 

 作中に登場する富士山の位置表示板もちゃんとありました。

 

 右のコマです。作中では富士山が見えますが、この日は雲が多かったため、隠れて見えませんでした。

 

 再び西側を見ました。

 

 作中のアングルを探していたら、いつの間にか一人の観光客がやってきて双眼鏡を覗き、それからしばらく柵にもたれて景色に見入っていました。あの立ってる位置が、ちょうど各務原なでしこの位置だよな、と思い出しましたが、3分ほど待ってもずーっと動いてくれないので、待ちきれなくなって撮りました。

 

 このシーンのアングルでした。この日は日曜日で展望所も大勢の見物客でにぎわっていたため、人影が無くなることが全然なくて、常に数人、家族連れやアベック、カップル、ツアー団体客らしき老人たちが入れ替わり立ち代わり上図の場所にやってくるのでした。それで5分ほど待ってもなかなか撮れず、さっきの観光客一人の時になったときにやっと撮ったわけでした。
 こういう観光地の聖地スポットには、日曜日ではなくて平日に行くべきだな、と改めて思いました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その5  榛名山ロープウェー

2024年11月29日 | ゆるキャン△

 県立榛名公園の標識を見た後、辻で東に進み、車道の右側の上図の遊歩道を歩きました。左手に榛名富士山の山裾が斜めに見えていました。

 

 そのままロープウェー乗り場の南側の観光駐車場に出ました。ロープウェーに乗る観光客がここに車を停めているようでしたが、道の北側にも広い駐車場がありました。だいたいこのアングルで作中に出ています。

 

 上のシーンですね。例によって広域ワイドの画ですので、実際の景色より広々として見えます。

 

 駐車場の南側には、御覧のように土産物販売店や軽食処などの店舗が並んでいます。が、本格的な食事処は伊香保温泉や水沢のほうに集中しているので、観光客の大多数はそちらで昼食をとり、こちらではアイスとか団子とかの簡単な食べ物で済ませているようでした。並ぶ土産物販売店の全ての店先でアイスやジェラート類の販売をしているのは、観光客の動向に合わせてのもののようでした。

 

 道を北へ横切ってロープウェー乗り場に向かいました。乗り場横の駐車場はほぼ満車に近くなっていて、観光客の多さを思わせました。この日は日曜日ですから、ロープウェーにも行列が出来ているかな、と思いました。

 

 ロープウェーの乗り場です。正式には「榛名山ロープウェー榛名高原駅」といいます。そうか、このあたりは榛名高原と呼ばれるのか、と気付きました。確かに地形的には高原地域です。
 このロープウェー乗り場の建物も、作中に登場します。

 

 このシーンです。各務原なでしこ達が山頂から下りてきた場面です。例によって魚眼レンズ風の広域ワイドビュー風で景色や建物が曲がっていますので、実際の建物とはちょっと違う感じに見えてしまいます。

 

 ロープウェー乗り場の受付で上図の往復切符を買いました。個人大人950円ですが、私は身障者割引が適用されて470円となりました。切符にも特別割引をあらわす「特」のスタンプが押されました。

 

 行列には5分ほど並びました。もっと待たされるかなと予想していたので、5分程度で済んだのは良かったです。あまり時間がかかると、その後のスケジュールにも支障をきたしかねないからです。

 

 ロープウェーは上図のような、15人乗り2両連結式のゴンドラです。1996年に日本で初めて採用されたゴンドラのタイプだそうです。初めて見ました。

 

 ゴンドラが連結式なので、索道のシステムも複雑なのかなと思って見上げると、意外にもメインワイヤーは単線であるようでした。このロープウェーシステムのメーカーである滋賀県の「安全索道株式会社」の銘板があり、「単線固定交走式普通索道」とありました。

 

 係員に誘導されて片方のゴンドラに乗りました。その窓から上を見上げ、撮りました。上の「榛名富士山頂駅」との高低差は269メートル、これを2分50秒で結んでいます。だから行列の最低待ち時間が5分程度なのか、と納得しました。

 

 係員の安全確認の合図がなされ、扉が閉じられ、ゴンドラがガタンと揺れ、独特の振動音と共にゆっくりと動き出しました。子供の頃からロープウェーやモノレールなどの変わった乗り物に乗るのが大好きでしたので、この瞬間はいつもワクワクしてしまいました。

 各務原なでしこ達も同じようにこのロープウェーに乗ったのでしょうが、作中ではその描写が無く、いつの間にか山頂にいて、いつの間にか下りてしまっているのでした。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺7 醍醐寺の祖師堂と観音堂

2024年11月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 五重塔を見た後、下伽藍の東側に進む参道をたどり、並ぶ諸施設を順に見た。最初は上図の祖師堂に近寄った。

 

 祖師堂は、奈良仏教系の寺院でいう開山堂にあたり、寺を創建した開基または開山、宗祖や中興の師などを祀る。開基と開山はよく混同されているが、私自身の基本的理解としては、開基は寺院の建立者、開山は寺院の初代住職、と捉える。両方を同一人物が兼ねるケースも見られるが、京都や奈良の古寺においては稀である。

 ここ醍醐寺の祖師堂においては、内陣の向かって右に弘法大師空海、左に理源大師聖宝を祀る。空海は真言宗の宗祖、聖宝は醍醐寺初代住職(座主)であるので、宗祖と開山が祀られていることが分かる。
 ちなみに建物は江戸初期の慶長十年(1605)の建立で、発願者は第46代座主の義演准后であるので、真言宗醍醐派の祖と先師の顕彰の意味で建てられた施設であろう。

 

 祖師堂の前より東に進むと、上図の門が見えてきた。

 

 寺では日月門と称しているが、その位置は元々は下伽藍域の東辺にあたるらしい。そうであれば東大門として上伽藍との連絡路の通用門としての役割を果たしたものと推察されるが、現在の日月門に関しては寺での位置付けがいまひとつ分からない。

 この門は、広島県出身でのち京都に住んだ実業家の山口玄洞が昭和五年(1930)に醍醐寺に多数の建物、施設を寄進建立したうちの一棟にあたる。この日月門から東にある建物も殆どが山口玄洞の寄進による建立である。

 

 なので、日月門をくぐって左手に見えてくる上図の大講堂も昭和五年の山口玄洞の寄進建立になる。大講堂として本尊の阿弥陀如来像を祀るが、現在は観音堂とも呼ばれる。西国三十三所札所の上醍醐の准胝堂が平成二十年(2008)に落雷で焼失したため、その再建までの間の西国札所をこの大講堂に仮移設し、納経もここだけで行うからである。

 そういえば私自身も30代の前半ぐらいに西国三十三所の札所巡礼を行なって全所満願を果たしたが、当時の醍醐の札所は第十一番で上醍醐の准胝堂であったな、と思い出す。
 現在は下伽藍からの山道を一時間余り登らないと上醍醐へ行けないが、昔は南の宇治谷を経由する県道782号線で醍醐山の東に登り、県道横の通用門から上醍醐境内地に直接入れたため、車で三度ほど上醍醐まで登ったことがある。その頃は准胝堂も健在であったが、建物は昭和四十三年(1968)の再建であったと聞く。

 

 大講堂の隣には上図の弁天池があり、池のへりに弁天堂が建つ。 これも山口玄洞による寄進建立である。

 

 大講堂を中心とする区域を、醍醐寺では大伝法院と称しているが、その東側の通用門は上醍醐への連絡口となっていて、これを出てしまうと再び下醍醐境内地に戻れなくなるので、引き返して今度は大伝法院の東側の参拝路へ回った。その右手に上図の倒壊した建物を見て驚いた。

 

 なんだこの廃墟は、という驚きと、ここに建物があったのか、という驚きが重なった。右の建物は半壊状態、左の建物も大きく傾いて倒壊寸前といった状態であった。世界遺産にも登録されている醍醐寺の境内になぜこのような廃屋同然の施設が放置されているのか、と不思議に思った。奥に見える建物が健在であるようなのが、対照的であった。

 

 横に回り込むと、大きく傾いて倒壊寸前の左の建物の一部が見えた。こちらは外観はまだ維持されているものの、建物の半分は無くなっているのて、窓や格子の向こうに木々の緑色が見えた。

 この廃墟は、塔頭の一つだろうか、と後日調べてみたが、醍醐寺の塔頭は今も昔も三ヶ所のまま、理性院、報恩院、光台院が存在する。廃墟に該当するような施設は、寺の境内図にも見当たらなかった。
 ところがグーグルマップで見ると、廃墟の位置に「旧伝法学院」とあり、「醍醐の杜」と同じく台風で被害を受けて倒壊して未だにそのまま、という記事にも出会った。

 伝法学院とは醍醐寺の修学道場つまりは僧侶の教育施設にあたり、現在は光台院の東側に大きな施設を構えているので、例の廃墟は昔の施設であったもののようである。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 A41センチュリオン

2024年11月27日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  プラッツ/AFVクラブ 公式キット (商品コードGP-39)

  制作期間   2023年12月24日~12月29日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 完成です!!

  総評・備考
 センチュリオンは、イギリスが開発した第二次大戦後の第一世代の主力戦車である。量産型のMk.Ⅰ以降は戦後の1948年より登場しているため、「第二次世界大戦時に開発・使用された車輌」とするガルパンの登場戦車の規定から外れるが、Mk.Ⅰの原型となった試作型のA41は戦中の1945年に完成しており、ガルパン劇場版および最終章にて活躍するのもこのA41である。劇場版では大学選抜チームに、最終章では聖グロリアーナ女学院チームに所属しているが、仕様は同じで島田愛里寿が車長であるのも同じである。
 適応キットは無く、プラッツから5種の公式キットが発売されている。大学選抜チーム仕様のキットが3種(下のキット一覧の1、2、4)と聖グロリアーナ女学院チーム仕様のキット2種(下のキット一覧の3、5)に分かれるが、中身の戦車本体は同じで元製品はAFVクラブである。
 AFVクラブは元々センチュリオンのMk.Ⅰ以降の各型式のキットをリリースしており、ガルパン劇場版の劇中車に合わせてA41タイプの砲塔を新規開発のうえ製品化して、これが公式キットになっている。ストレートに組んでも良いが、劇中車に完全に合わせるならば、なお幾つかの追加および修正作業が必要となる。いずれも簡単な作業で済むので、初心者クラスにもおすすめ出来るガルパン仕様制作の入門キットの一つとされる。

  公式および適応キット一覧(2024年11月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その4  榛名公園へ

2024年11月26日 | ゆるキャン△

 榛名湖バス停から県立榛名公園までは上図の県道28号線、高崎東吾妻線が通じています。それに沿って湖畔遊歩道が設けられています。前日に雨が降ったのか、未舗装の遊歩道はドロドロのまま、あちこちに水溜まりが残っていました。こういうこともあろうかと、今回は撥水トレッキングシューズを履いてきたので泥道も平気でした。

 

 左手には榛名湖の湖面と榛名富士山の雄大な景色がありました。榛名富士山は、約3万1000年前の榛名山の4度目の火山活動によって形成された溶岩ドームの一種で、綺麗な円錐形をなして富士山のような山容を見せています。
 標高は1390.5メートル、榛名連山においては最高峰である掃部ヶ岳(かもんがたけ 標高1449メートル)、相馬山 (そうまやま 標高1411 メートル)に次いで三番目に高いです。

 

 遊歩道が日陰から日なたに出ました。10月なのにまだまだ暑さが感じられました。今年の夏も異様な暑さで残暑も長引いてるなあ、と思いつつ歩きました。

 

 榛名湖の南東辺にさしかかりました。湖畔の遊歩道がここで内陸側にカーブして湖岸と離れていきました。

 

 まもなく上図の芝生地に出ました。南に観光駐車場があるので、この芝生地も県立榛名公園の区域内になるのだろうな、と考えつつ、遊歩道からそれて芝生地をまっすぐ進み、上図の榛名富士山を目指しました。

 

 芝生地の横には漁協の施設がありましたので、回り込んで観光駐車場の脇から北へ進む車道に入ろうとしたら、まもなく左手に湖畔の上図の湿地帯とみられる葦の群生地が広がり、そのなかにも遊歩道が伸びていました。

 

 ですが、上図の看板を見て、湿地帯の遊歩道へ入るのを止めました。この辺りは沼ノ原湿原といい、かつての榛名湖が火山活動で埋め立てられた名残であるそうです。山野草の宝庫とされ、アケボノソウ、マツムシソウ、ユウスゲ、サギソウ、ウメバチソウ等などの分布が確認されています。

 

 北へ向かう車道に出ました。上図の車道の左側に黒い車が停まっている辺りから再び湖畔の遊歩道へ連絡していました。

 

 湖畔の遊歩道に入ってみました。この辺りが沼ノ原湿原の北端にあたるようで、南側では私の背丈ほどもあった葦の群生が、こちらでは殆どありませんでした。上図奥に見える遊歩道の屈折部まで、行ってみました。

 

 遊歩道の屈折部に着きました。このまままっすぐ進めば、先に見た立ち入り遠慮の看板のあった出入口に通じてるのだな、と察しました。上図右側に設けられた展望所まで行って榛名湖の景色を眺め、それから引き返しました。

 

 引き返しながら撮った景色です。どうやら、作中で各務原なでしこ達が歩いていた場所はこのあたりのようだな、と思いました。

 

 おそらく、このあたりの遊歩道の中央に、各務原なでしこが立ってスマホで榛名湖の景色を撮っていたのだろうと思います。

 

 このシーンですね。例によって広域ワイドの画ですので、私のデジカメでは撮れない左右の景色も描かれています。左奥に、遊歩道の途中に設けられた展望所も見えます。

 

 遊歩道から車道に戻って50メートルほど北へ進むと、右側に広い観光駐車場、左側に榛名公園の中心域とおぼしき広い芝生地がありました。芝生地の手前の松並木の下に、上図の公園標識が見えました。

 

 ああ、これですか。作中に出ている群馬県立榛名公園の標識は。

 

 このシーンですね。奥に榛名湖ボート乗り場のボートが並んでいるのが見えます。この地点で、榛名湖バス停から榛名山ロープウェーまでのルートの四分の三ぐらいを歩いてきたことになります。
 ここで時計を見ると10時12分でした。榛名湖バス停からの移動時間は11分でした。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その3  榛名湖バス停にて

2024年11月25日 | ゆるキャン△

 高崎駅西口からのバスで終点の榛名湖に着きました。バス停は榛名湖の南岸に位置しますので、180度の視界に青々とした湖面が広がります。この広い湖が火口跡カルデラなのか、どれだけ凄い爆発を繰り返したんだろう、と驚かざるを得ませんでした。

 

 バス停および観光駐車場の向かいには、高崎駅から乗ってきたバスが降りてきた坂道があります。合流点の脇に榛名神社の看板が立ちますが、その通り、この坂道を登っていくと榛名神社のバス停へ行きます。現地の地図で見て、榛名神社が鎮座している山が榛名山であると知りました。

 

 高崎駅から乗ってきたバスが回送便となって、その坂道を戻ってゆきました。この状況で作中に登場しますので、狙い定めて撮影しました。

 

 左のシーンですね。作中では各務原なでしこ達が榛名湖バス停でバスに乗って高崎駅へと向かいましたから、今回の私のコースとは真逆でした。作中の頃と違ってバスがどこも減便となっている現在では、作中通りのルートを効率的に回って榛東村役場まで向かうのは至難の業です。それで前回も今回もエリアごとに分けて泊まりがけでゆっくり回っているわけでした。

 右のシーンのアングルも、バスが通ったタイミングで撮りました。

 

 このアングルです。バスの向きが違いましたが、ほぼ一致する景色でした。走り去ってゆくバスは伊香保温泉行きでした。

 

 再び榛名湖と榛名富士山を、各務原なでしこ達がアイスを食べながら眺めていた場所で見ました。柵の二ヶ所に看板がはってありますが、その中間あたりです。

 

 このシーンです。三人の後ろの駐車場は、実際にはバス停横のバス待機場になっていて、さっき乗ってきたバスの後ろに続いていた増便バスが、高崎駅行きとなって発車するまで待機していたので、上のシーンと同じアングルで撮ることが出来ませんでした。

 

 それで、作中に描かれる赤枠内の看板と、黄枠内のバリケードが実際にあるのかを探すことにしました。

 

 黄枠内のバリケードは、実際には2個ありました。左側のバリケードが作中に出ているもので、貼り付けてある案内標識も同じでした。

 

 そして赤枠内の看板の実物がこちらでした。作中では「上州バス」となっていますが実際は「群馬バス」でした。あとの表示文章は同じでした。バスの回転場所でもあるわけですね。

 

 以上で榛名湖バス停の聖地スポットを全て見て撮りましたので、次へ向かって歩き出しました。一度振り返ってバス停の全景を撮りました。

 

 次の目的地は、榛名湖の東岸に位置する群馬県立榛名公園でした。湖畔の車道沿いの遊歩道が通じており、歩いて10分から12分ぐらいか、と試算しつつ、上図の景色を左に見ながら歩きました。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺6 醍醐寺清瀧宮から五重塔へ

2024年11月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 醍醐寺の下伽藍の清瀧宮本殿に礼拝した後、左右の四棟の摂社を順に拝んだが、上図の黒保社には特に念入りに祈念した。
 折しも、ゆるキャン群馬キャンプ編ルートの聖地巡礼を継続中で、巡礼地域の殆どの景色のなかに赤城の連山が望まれるのだが、その赤城山の古名を黒保(くろほ)、または黒保根(くろほね)ともいう。その山頂に鎮まる赤城神社ももとは黒保神社と呼ばれたというが、上州一円ならばともかく、遠く離れた畿内洛東の醍醐寺境内にその勧請社が鎮座するのは奇異の観すら抱かせる。

 しかし、ここ醍醐寺を本拠とする修験道の一派、当山派(とうざんは)の山岳修験者が中世、近世期には東国へも進出して武蔵、上野、下野、相模の諸国に教線を展開、ことに上野国においては上毛三山(じょうもうさんざん)の霊峰群がその支配下に置かれたという。いま妙義山に鎮座する妙義神社はその一拠点であったほか、榛名山と赤城山にも山岳修験の霊場が明治の神仏分離まであったというから、赤城の黒保神と醍醐寺とは中世、近世を通じて700年余りも繋がっていたことになる。いま清瀧宮の摂社に黒保社が並ぶのも、そうした歴史の反映と理解出来る。

 それで、今後のゆるキャン群馬キャンプ編ルート聖地巡礼の安全と成功を、上毛三山の霊峰のひとつ赤城の黒保神に祈願しておいた。

 

 清瀧宮より拝殿の横を通って、奥に五重塔の姿を認めつつ、拝殿の正面に回った。いま清瀧宮に礼拝したが、参詣の作法としては逆で、拝殿からの遥拝から始めるのが本来の形である。それでいったん拝殿の前へ回ることにした。

 

 しかし、何度見ても上図の建物は、神社の拝殿というよりは住房のような外観と雰囲気を持つ。現代人の感覚からすれば珍しい部類に入るが、中世近世においてはこうした四面障子の三間の規模がわりと多かったと聞く。理由の一つとして、拝殿が神楽殿を兼ね、祭礼時には障子を全て外して四方吹き放ちとして、周囲から祭礼神楽を見られるようにする場合があったことが挙げられる。

 特に近世、江戸期においては神社の祭礼神楽儀式がアトラクションの一種として人気があり、祭礼そのものが人々の娯楽であったから、拝殿の建物それ自体を舞台装置とするケースはむしろ一般的であったようである。そうした歴史を反映しての、この拝殿の形式であったとすれば、旧拝殿建築の七間の規模をあえて踏襲しなかったのも頷けよう。

 

 清瀧宮の区域の南東には、上図の南門が建つ。近世の簡素な造りながらも、下伽藍創建以来の南大門の位置と機能とを踏襲する重要な門である。普段は西大門からの出入りがなされるために、こちらは常に閉じられていると聞く。いま西大門の両脇に侍立する藤原期の金剛力士像は、もとはこの位置にあった南大門の安置像であったものである。

 

 南門から振り返って清瀧宮の境内域を見渡した。拝殿と本殿が東に向いて中軸線を西へと引く配置であるが、これは下伽藍の中軸線が南北に通るのとは異なる。おそらくは醍醐山上の上伽藍の清瀧宮本宮の軸線に合わせているのかもしれないが、しかし現在の境内地にて拝礼すれば、拝者は西に向くので、東の上伽藍の清瀧宮本宮には背中を向けることになる。不可解な状況ではあるが、何らかの意図なり事情なりが介在していたのであろうと推察される。

 

 南門から下伽藍の中軸線に沿う参道を進んで右に視線を転ずれば、上図の五重塔の端正な佇まいがみえてくる。醍醐寺の語りつくせぬ魅力の第一と謳われる、国宝の名建築である。

 

 近づいて見上げれば、いかにも古代の五重塔らしい低めの輪郭と大きな逓減率(ていげんりつ)が実感されてくる。京都に現存する他の五重塔に比べると塔高における相輪の占める割合が大きく見える。
 総高は38メートルを測るが、相輪部(そうりんぶ)は12.8メートルに達して全体の3割以上を占める。それで屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、中世以降の塔のような細長い外見とは異なった安定感を示す。

 この塔の逓減率の大きさというのは、それ自体がこの塔独自の特色でもあるが、それは各層の軒先の中心線つまり逓減線が内側にへこむラインをとっている事に起因する。近世初期の木割書(木造建築の教科書)である「匠明(しょうめい)」にて「三墨チカイ」と述べられるラインにあたる。

 試みに塔の柱間と逓減の数値を実測値と比例値にて表すと、それぞれの平均値は2.14と2.15になるが、中世以降の五重塔のそれは平均して1.32から1.75と1.48から1.92となる。古代の五重塔のそれは2.43から2.60と2.4から3.0となるので、醍醐寺五重塔が古代の遺構の数値に近いことがよく示される。最も近似する数値を持つのが法隆寺五重塔であるのは示唆的で、相輪部の比率が大きい点も共通する。

 

 加えて各層の軒の出の長さも注目される。仏教建築のなかで最も高層であり、風雨に晒されて劣化する確率が高いのが塔であるので、古代以来の多くの塔が風雨対策として屋根の軒の出を長くして、横風や横なぐりの雨が塔身部に及ばないように工夫した歴史がある。軒の出を長くとると、そのぶん屋根が広がって瓦の必要数も増えるので、屋根全体の重量が増してゆく。それを支える軒先の木組みをより大きく、より外側へ延ばし、かつ頑丈に造る工夫が要求される。

 醍醐寺の塔は、日本の塔のなかでも軒の出が割と長いほうに属するので、上図のように二段の垂木列とこれらを支える堅固な木組みとが特色のひとつとなっている。

 

 木組みを拡大して撮影してみた。御覧のように、軒を支える支持装置である、斗(ます)と栱(ひじき)の組み合わせである斗栱 (ときょう) を外に二つ重ねて支持架としている。いわゆる二手先(ふたてさき)の組物である。

 白鳳・天平時代の塔にはさらに一つの組物を追加した三手先(みてさき)のケースも見られるが、醍醐寺の塔はそこまで軒が長くなく、その意味では平安期の塔建築らしいとも言える。

 

 醍醐寺五重塔は、平安期の天暦五年(951)に建立された創建当初の遺構である。醍醐天皇の冥福を祈るため、承平元年(931)に第三皇子の代明(よしあきら)親王が発願し、醍醐天皇の中宮であった穏子(やすこ)皇太后の令旨で建立が計画されたが、承平七年(937)の代明親王薨去により工事が停滞し、親王の弟にあたる朱雀天皇が引き継いで、発願の20年後となる村上天皇治世の天暦五年にようやく完成した。

 なので、建物の実年代は十世紀半ばであるわけだが、それにしては前述のように七、八世紀以来の伝統的な塔婆の数値と外観を示す。基本プランは、おそらく発願当時に決定していたはずであるから、八世紀代までの塔の前例を参考にしたか、それに倣っての設計がなされたものと思われる。

 現存する平安期の塔婆建築の建設期間の平均が約2、3年とされているので、20年もかかった醍醐寺五重塔は極めて特殊な事例と言える。そして現在においては、現存する十世紀代の塔婆建築の唯一の遺構であり、醍醐寺においても創建以来の姿を伝える唯一の建築である。

 

 そして何よりも特筆すべきは、この醍醐寺五重塔が、平安期最古の塔婆建築であり、平安京内外の数多くの塔婆建築がおしなべて応仁文明の乱にて焼滅したなかで、唯一難を逃れた塔である、という点である。

 いまの京都市の内外を巡り歩いても、華やかなりし平安京の景色や雰囲気は微塵も感じられないが、ここ醍醐寺にだけは、平安期の時空間がなおも生き続けている。平安京の最後の残り香、と形容するのも勿体ないほどの、平安期の歴史の真実とその重みが、この塔にだけは、鮮やかなほどに感じられる。

 その歴史的体験が常に心地よくもあるので、個人的には平等院に次いでこの醍醐寺に多く参拝してきた。それでも見飽きることはなく、いまなお語りつくせぬ魅力がここにはある。魅惑の醍醐寺、と題して綴るのも、その五重塔の存在ゆえにである。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 センチュリオン 完成です!!

2024年11月23日 | ガルパン模型制作記

 ラストのステップ21では、砲塔および履帯、スカートをセットします。いずれも塗装後に行なうので、このまま塗装作業に移りました。

 

 塗装前の状態です。この後、薄くサーフェイサーを吹き付けました。

 

 本塗装を行ないました。車体色は、公式キット指定のミスターカラー301番グレーFS36081を使用しました。履帯は28番の黒鉄色を吹き付けました。

 

 転輪のタイヤゴム部分をポスカの黒で塗りました。

 

 車外装備品を塗りました。金属部分は28番の黒鉄色、木製部分は43番のウッドブラウンで塗りました。

 

 砲塔の機銃は28番の黒鉄色で塗りました。車体色とあまり変わらない気がします。

 

 車体前面の予備履帯も28番の黒鉄色で塗りました。

 

 仕上がりました。操縦席バイザーのマスキングテープも剥がしました。

 

 ワイヤーも28番の黒鉄色で塗りました。

 

 仕上がった状態です。

 

 左側フェンダー上の車外装備品、鶴嘴の身と柄を取り付けました。

 

 右側フェンダー上の車外装備品、スコップとハンマーとパールを取り付けました。

 

 履帯をはめこみました。やや緩かったので、スカートに隠れる部分で調整しておきました。

 

 左右のスカートを取り付けました。

 

 砲塔左右側面に校章マークのデカールを貼りました。いつものモデルカステンのガルパンデカールセットから適当なサイズのものを選びました。

 

 最後に薄くつや消しクリアを吹き付けて仕上げました。

 

 斜め前からのアングル。デザイン的にシンプルであるためか、全体的にスマートにみえます。

 

 斜め後ろから見た背面部です。砲塔も車体も背面部は独特の形状をしているため、このようなアングルから見るとセンチュリオンらしさがより感じられます。

 

 以上で、聖グロリアーナ女学院チームのセンチュリオンが最終章仕様にて完成しました。製作期間は2023年12月24日から12月29日までの5日で、組み立てに4日、塗装および塗装後の組み立てとデカール貼り付けに1日かかりました。

 キットはプラッツの公式キットを使用しました。中身は扱いやすさで定評のあるAFVクラブの製品でしたので、組み立て自体は割合に楽でした。ガルパン仕様への工作は幾つかありましたが、難しい作業は無く、いずれの追加工作も簡単に出来ました。
 今回は最終章第4話の聖グロリアーナ女学院チーム所属車として作りましたが、劇場版の大学選抜チーム所属車と仕様は変わりませんので、いずれを選んでも作りやすい、初心者にもお勧めのキットです。

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その2  高崎から榛名湖へ

2024年11月22日 | ゆるキャン△

 高崎駅西口のバスターミナル2番乗り場の上から高崎駅ビルを見ました。その壁面の時計が8時前でしたので、あれ?と自身の時計を見、タブレットの時刻表示を確かめました。いずれも8時13分でしたので、おいおい駅の時計が15分も遅れててどうするよ、と思いました。

 

 2番乗り場でも、列に並んでいた登山客らしき服装のペアが、私がやったのと同じように、駅の壁の時計と自身の時計とを見比べていました。バスの発車時刻が8時30分なので、あと15分だ、とか話していました。

 

 2番乗り場からは、箕郷や室田へも行けますが、箕郷や室田ってどこだろう・・・。

 

 2番乗り場の時刻表です。これから乗るバスは、左の「榛名神社・榛名湖」行きで、この日は日曜日でしたから、8時30分発が始発でした。8時20分の時点で既にバス待ちの行列は50人を超えていて、人気の観光地であることがうかがえました。

 

 8時25分、バスが入ってきて、皆が乗り始めました。群馬バスの車輛でした。

 

 席は全て埋まり、立っている方も30人ぐらいになって、さらに乗り込んでくるので車内が満員になりかけましたが、運転手さんが「今日はもう1便を出しますんで、後ろのバスになりますんで良かったらそちらへもどうぞ」と呼びかけたので、立っていた乗客の大部分がゾロゾロと降りて後ろのバスに乗り換えていました。

 観光シーズンの期間中はバスも臨時に増便するのだな、と思いました。同時に、これから行く聖地スポットはどこも観光客で混雑するのだろうか、撮影とか出来るんだろうか、と少し不安になりました。

 

 高崎駅を出てから約1時間半、その殆どが榛名山の南裾の深い山林の中をくねくねと曲がりながら登ってゆく感じでした。途中で榛名神社の門前バス停に停まり、20人ほどが降りました。その全員が登山の服装でした。

 

 9時55分、終点の榛名湖バス停に着きました。高崎駅からの運賃は830円でした。上図手前が乗ってきたバス、その右後ろに停まっているのがこの日の増便バスでした。

 

 榛名湖バス停の時刻表です。乗ってきたバスはここで行先表示が回送となっていたので、どこかへ移動するようでした。それで、増便のバスのほうが、折り返して10時30分発の高崎駅行きになるのかな、と考えました。

 作中で各務原なでしこ達が乗ったのは、おそらく10時30分発か、その次の11時30分発の便だろうと思います。それで高崎駅に着いて、スーパーで買い物をして、長野原草津口駅行きの特急「草津・四万」に乗っていますが、それぞれの時間は、現時点のダイヤおよびバスの時刻とは異なっているようでした。

 

 バス乗り場の待機スペースに停まっていた、増便のバスの横に行きました。その行先表示は「榛名湖」のままでしたが、しばらくして「高崎駅」に変わりました。どうやらこのバスが、折り返して10時30分に発車する便であるようでした。

 そのバスの横の歩道の辺りが、作中で各務原なでしこ達がアイスを食べながら榛名富士山を眺めていた場所だろう、と考えました。

 

 同じ位置から眺めた、榛名湖と榛名富士山の姿です。各務原なでしこ達がアイスを食べながら眺めていた景色です。

 この榛名湖は、榛名山のカルデラ内に生じた火口原湖で、周囲は約4.8キロメートル 、面積は約1.2平方キロメートル、最深部は約12メートルから15メートルを測ります。奈良時代の「万葉集」にて上野国を象徴する歌題「伊香保の沼」と詠まれ知られています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その1  伊勢崎から高崎へ

2024年11月21日 | ゆるキャン△

 2024年10月13日、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルート聖地巡礼の2日目の朝は快晴でした。6時20分に起床、6時半にバイキング方式の朝食をいただき、7時25分に出発しました。
 上図は宿の「東横イン伊勢崎駅前」です。高崎や前橋の宿が取れなくても、こちらは空いている場合が多いので、ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地巡礼の宿の候補としてもおすすめです。

 

 歩いて5分でJR伊勢崎駅に入りました。7時34分発の高崎行きの普通列車に乗りました。伊勢崎から高崎までの運賃は420円でした。

 

 車窓に広がる朝の上州平野の景色。遠くに霞むのが赤城山の連山でした。田圃は黄金色に輝いていて、まだ青稲が多い近畿地方よりは稲作の時期が早いことを思わせました。

 

 途中の新前橋駅に停車中、向かいのホームにE257系5500番台の特急列車が入ってくるのが見えました。回送中らしく、列車名および行先表示が出ていませんでした。

 

 ですが、車体のカラーとデザインは間違いなく特急「草津・四万」のそれでした。作中で各務原なでしこ達が乗った車輛でした。

 

 高崎駅には8時6分に着きました。改札口を出てすぐに横の例の弁当屋跡のコンビニに入って弁当を買いました。作中に登場する3種類の駅弁はいずれも食べましたので、今回は別の弁当を買いました。これから行く榛名山エリアにはあまり食事処が無いと聞いていたからです。

 

 弁当を購入した後、駅の西口を出てペデストリアンデッキ上に進み、上図のバス乗り場案内図を見に行きました。

 

 高崎駅を中心とするバス路線図です。御覧のように、ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地スポットである榛東村役場、榛名湖、伊香保温泉のいずれにもバスで行けます。これは大変に便利です。前回も今回も宿泊および巡礼スタート地点を高崎に設定した理由がこれでした。

 

 高崎駅のバスターミナルは東口、西口の両方にありますが、ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地スポットである榛東村役場、榛名湖、伊香保温泉へのバスは全て西口から出ています。

 

 高崎駅西口のバスターミナルの案内図です。乗り場は1番から9番まであります。

 

 その2番乗り場へ向かいました。

 

 2番乗り場からのバスの行き先は上図の通りです。ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地スポットである榛東村役場、榛名湖、伊香保温泉へは、すべて2番乗り場から出ています。大変に分かりやすいです。だから個人的には「高崎駅西口2番」と覚えています。

 

 ペデストリアンデッキから下の2番乗り場に降りる階段です。向かいに高崎オーパが見えます。下にバスが停まっているのが1番乗り場で、その手前が2番乗り場です。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺5 醍醐寺清瀧宮へ

2024年11月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年10月17日、久しぶりに醍醐寺へ出かけた。ビーノでのんびりと走って30分ほどで北門をくぐり、北の参拝者駐車場の脇にビーノを停めた。その際に北門へと続く白い土塀を撮ったのが上図である。

 

 この白い土塀は醍醐寺塔頭の理性院(りしょういん)のそれである。理性院には2023年春の特別公開で初めて入って、書院の狩野探幽の壁画や本堂の建築、本堂内陣安置の秘仏大元帥明王の厨子および国重要文化財の不動明王像など、興味深い文化財の数々を拝観して色々と新たな学びや気づきを得させてもらった。

 

 その理性院の山門前で立ち止まり、一礼した。門内の石畳道の奥に横たわる石仏群の赤い前掛けが鮮やかに望まれた。そして、なんとなく、真言密教の秘奥義のひとつとされた大元帥法がここ理性院に伝承されていることの意味に思いを馳せた。

 大元帥法(たいげんすいほう)は、真言密教において怨敵や逆臣の調伏および国家安泰を祈って修される法である。平安初期の承和六年(839)に入唐八家(にっとうはっけ)のひとり常暁(じょうぎょう)が唐から請来して山背国法琳寺(ほうりんじ)に伝えたのが初めである。その翌年に常暁は大元帥法の実施を朝廷に奏上して認められ、仁寿元年(851)に太政官符により大元帥法の毎年実施が正式に決定された。
 以来、毎年の正月に宮中の治部省にて催され、明治まで続けられた。儀式に必要な備品などは常暁ゆかりの大和国秋篠寺が調達する慣わしであったが、その秋篠寺にも大元帥明王を祀る堂とゆかりの閼伽井があり、秘仏の鎌倉期の大元帥明王像(国重要文化財)が祀られる。

 私自身は奈良市に長く住んでいたが、そのうちの20年余りは秋篠町に住して秋篠寺の近隣であったため、その秘仏大元帥明王像を6月6日の公開日に拝見するのが毎年の習慣であった。
 秋篠寺もかつては真言密教の拠点として常暁とも接点があり、その坐像が大元帥明王像と同じ大元堂にまつられているのを毎年拝んでいたので、大元帥法についても関連論考を幾つか渉猟(しょうりょう)して一通りの知識は得ていた。

 それで、当然ながら法琳寺、醍醐寺理性院の名も知っていたが、前者は中世期に廃絶して遺跡も定かではなく、後者は昨年初めて拝観の機会を得たばかりである。大元帥法が如何にしてここ理性院に伝承されたのかについても知りたかったが、その契機なり資料なりには、未だ接していないままである。いずれ法琳寺の遺跡とともに、詳しく追究してみるべきかな、と思いをめぐらせた。

 

 理性院の山門前を過ぎて少し伽藍域に近づいた左側に、上図の鳥居が建つ。醍醐の氏神とされ、醍醐寺伽藍の鬼門を守る鎮守社の地位にあった長尾天満宮の参道入口である。今回は時間の関係で入らず、通り過ぎた。

 

 醍醐寺の正門たる仁王門の前に着いた。西を正面とする下伽藍の正門に相当し、東に醍醐山の薬師瑠璃光浄土を望んで両脇を雄渾たる体躯の金剛力士像が護り固める。いつ参ってもこの門前に至れば襟を正し頭を深く垂れざるを得ない。

 

 受付を経て参道に進んだ。かつては両脇に諸塔頭の築地と門が並んだであろうが、いずれも廃絶して遺跡すら地上にはとどめていない。ただ、地表にとどめられる造成面の痕跡が、緩傾斜地に並んだ塔頭の境内地の地形を偲ばせる。

 

 それらの塔頭跡の大部分は、いつしか「醍醐の杜」と呼ばれて、かつては深い境内森林の下に静まっていたのだが、平成30年の台風にて木々がなぎ倒されたという。いまはそれらの倒木も除去されて、跡地の一角には上図の説明板が立つ。

 文中の「復興」とは、植栽および育成による「醍醐の杜」の復原を指すのであろうが、少なくとも百年単位の事業になるものと思われる。並行して諸塔頭の遺跡の発掘調査などが行われれば、未だに不明の部分が少なくない醍醐寺の歴史に数条の解明の光がもたらされるかもしれない。

 

 かつての「醍醐の杜」の現状である。上図の範囲には無量光院や灌頂院が存在したというが、後者はいまの三宝院の前身であるといい、その区画だけでも調査すれば、三宝院の不明な前史についても何らかの手掛かりが得られるかもしれない。

 

 無量光院跡の東には、上図の清瀧宮本殿が建つ。延長四年(926)に創設されたここ醍醐寺下伽藍の本来の計画には無かった施設であるが、醍醐山上の上醍醐に寛治二年(1088)に創建された清瀧宮より、永長二年(1097)に分祀してここに創建したものという。

 当時の社殿は文明年間の兵火で焼失、現在の上図の建物は永正十四年(1517)の再建である。国の重要文化財に指定されている。

 

 その東には上図の拝殿が建つ。現在の建物は御覧のように桁行(けたゆき)、梁間(はりま)とも三間の規模であるが、元の建物は宝暦十三年(1763)の指図によれば桁行が七間あったというから、その後に規模を半分以下に縮めて建て替えられたことが分かる。その建て替えの時期は不明だが、建物の形式からみて江戸期半ば以降であろうと推測される。

 

 再び西に転じて本殿に横から近づいた。本殿は乱石積(らんせきづみ)の基壇上に建ち、四周には透塀(すかしべい)を巡らせて東に向き、正面中央に幣門を置く。その左右には摂社が2棟ずつ配置されており、北から白山社、横尾社、黒保社、八幡社という。

 このうち、白山と八幡は分かるが、横尾と黒保は京都ではここにしか無い珍しい神様であるという。個人的には横尾と聞くと信州上田の諏訪神の別名だったかな、と思い、また黒保というのは上州赤城山の神奈備の古称だったかと思い出す。中世期に醍醐寺を軸とする真言宗の勢力が当山派修験の活動によって東国にも及んだ歴史と無関係ではないように思う。

 

 本殿をデジカメのズーム機能で引き寄せて見、撮った。典型的な三間社流造の建物で、懸魚(げぎょ)の左右の雲形(くもがた)が丸く広がる点に室町期の特色を示す。永正十四年(1517)の再建というのも頷ける。

 祭神の清瀧権現(せいりょうごんげん)は、仏教においては善女龍王(ぜんにょりゅうおう)と呼ばれ、教義的には中国密教の守護神と位置づけられて「清龍」と称された。唐の長安青龍寺の鎮守となっていたのを、弘法大師空海が勧請して京都洛西の高雄山麓に鎮座せしめたのが、日本における清瀧権現の創祀であった。のちに入唐八家のひとり恵運(えうん)もこれを山階の安祥寺に勧請しているが、昌泰三年(900)頃に理源大師聖宝(しょうぼう)がこれを醍醐寺山頂に降臨せしめ、以後は醍醐寺の真言密教を守護する女神となったという。

 なので、こちらの社殿は里宮であって、本宮は上醍醐のほうにいまも鎮座する。久しぶりにそちらへもお参りに登るか、と考えたことであった。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 センチュリオン 作ります!! その7

2024年11月19日 | ガルパン模型制作記

 ステップ19では砲塔各所の部品を取り付けます。ガイド図に誤記があります。Q51はQ54の間違い、Q52はQ55の間違いです。
 ここでのガルパン仕様への工作は三ヶ所にあります。ひとつめはQ32の向きを合わせます。二つ目は、Q22からQ25までの4枚のハッチのパーツにヒンジ軸を追加します。このヒンジ軸は不要パーツのQ20を利用して取り付けます。三つ目は、砲塔左右のボックスの取り付け位置を少し下げる調整です。

 ステップ20では装備品のワイヤーを取り付けます。キットに入っているパーツは細い感じがするので、いつもの飯田水引にて作ります。

 

 ステップ19で組み付けるパーツ類です。Q22からQ25までの4枚のハッチのパーツに追加するヒンジ軸も不要パーツのQ20をもってきて準備しました。

 

 まず、砲塔左右のボックスの取り付け位置を少し下げる調整を行ないます。上図の左右のボックスQ54、Q55を砲塔左右側面に取り付ける位置を少し下げます。

 

 キットの指示にしたがって仮組みしますと、上図のようになります。砲塔天面とボックス天面とが段差もなくてほぼ繋がります。

 

 ところが、劇中車においては左右のボックスの位置がやや低いので、砲塔天面とボックス天面の間に僅かな段差面があります。この状態に合わせます。

 

 左右のボックスを取り付ける際に、上図の砲塔側面下端の突起がパーツを受け止めて固定するようになっています。このまま取り付けると、砲塔天面とボックス天面とが段差もなくてほぼ繋がるわけです。

 

 そこで、砲塔側面下端の突起を左右とも全部削り取りました。こうすることで左右のボックスを下へ下げることが出来ます。

 

 少し下げて仮組みした左右のボックスです。劇中車と同じように、砲塔天面とボックス天面の間に僅かな段差面がつきました。

 

 組み上がりました。

 

 ガルパン仕様への工作はあと一ヶ所残っていますが、次のステップにて行います。

 

 ステップ20では装備品のワイヤーを取り付けます。キットに入っているパーツは細い感じがするので、いつもの100均の飯田水引で作ります。最近は他のガルパン車輛のワイヤーもこれで作っていますが、とにかく安くて使いやすくて出来栄えもなかなかのものですから、重宝しています。

 

 ガイド図の指示では、長さは9センチにカット、とありますが、余裕を持たせて10センチでカットし、マスキングテープの上で上図のように2本を並べて接着しました。これを左右2本作り、それぞれの片方にホールドのB1を付けました。

 

 仮組みしてみたら、ちょうどピッタリな感じにおさまりました。やっぱり9センチは短いと思います。それから既に取り付けておいた背面部のワイヤーホルダーB6に瞬間接着剤でくっつけて固定し、そこから各部で曲げを作りながらフェンダー上にはわせてセットしました。

 

 残っていたガルパン仕様への工作一ヶ所をここで行います。劇中車の砲塔の2ヶ所のハッチの天面右側に、開放時の支脚とみられる方形の支柱が斜めに付いていますが、キットのパーツでは小さな丸い突起になっていますので、プラ材で作り直します。

 

 キットのハッチのパーツには、御覧のように小さな丸い突起が付いています。これがハッチ開放時の支脚になるようですが、劇中車のそれとは形が異なります。

 

 プラ材で上図のように支柱を追加し斜めに取り付けました。以上で塗装前の組み立てが完了しました。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 センチュリオン 作ります!! その6

2024年11月18日 | ガルパン模型制作記

 ステップ17では、車体前面の予備履帯と操縦席バイザーを取り付けます。予備履帯は、キットの指示では2つとも同じ向きですが、劇中車のそれは向きが逆になりますのでそれに合わせます。

 ステップ18から砲塔の組み立てに進みます。ガルパン仕様への工作が三ヶ所にあります。そのうちの二ヶ所を順に説明します。残り一ヶ所は後のステップに回します。また、ガイド図でQ14の両側に付けるパーツの番号が抜けていますが、R5です。パーツQ19およびQ21は劇中車にありませんので不要とし、ダボ穴も埋めます。
 コマンダーズハッチのパーツQ5、Q26、Q27は劇中車のそれに向きを合わせます。

 

 ステップ17で組み立てる予備履帯と操縦席バイザーのパーツ類です。

 

 組みつけました。予備履帯は劇中車に合わせて向きをセットし、バイザーは塗装時の保護のためにマスキングテープで覆いました。

 

 ステップ18で組み立てる砲塔関連のパーツ類です。

 

 砲塔を組み上げました。コマンダーズハッチのパーツQ5、Q26、Q27は劇中車のそれに向きを合わせました。さらにガルパン仕様への工作が三ヶ所にあります。そのうちの二ヶ所を順に説明します。

 

 一ヶ所目は、砲塔側面の段差です。御覧のように、そのまま組み上げた状態では段差と隙間が生じます。

 

 ところが、劇中車の該当箇所には段差も隙間もありません。砲塔側面全体が一つの面で繋がっています。これに合わせます。

 

 上図のように0.5ミリプラ板を貼り増して、段差をなくし隙間を埋めました。左右で同じ工作を行ないました。

 

 砲身を組みつけました。

 

 続いて、ガルパン仕様への工作の二ヶ所目を紹介します。

 

 上図にて二ヶ所の赤円内のモールドを示しました。この二つの突起が劇中車にはありません。

 

 劇中車のシーンを御覧下さい。二つの突起が無いのが分かります。

 

 二つの突起をカットしました。今回のセンチュリオンの製作においては、ガルパン仕様への工作の多くが砲塔に集中していますので、後のステップでも追加工作が加わります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その7  横川、高崎、伊勢崎

2024年11月17日 | ゆるキャン△

 碓氷峠鉄道文化むらからダッシュで横川駅に行きましたが、列車の発車時刻までまだ3分あったので、急いで駅横の上図の釜めし小屋に行きました。

 

 そして上図の「峠の釜めし」を1個買いました。この日の宿での夜食にするためでした。

 

 それから駅前の例のパネルと、その隣のEF63形電気機関車の3号機の動輪を記念に撮りました。
 
 前回の訪問時に、D51形のパネルの横にあるのでD51形の車輪だろうと思っていたのですが、碓氷峠鉄道文化むらの鉄道資料館の展示パネルで、EF63形3号機が解体されてその動輪だけを釜めしの荻野屋さんが記念に譲り受けて横川駅前にて保存展示している、という経緯を知りました。それで今回、ちゃんと撮っておいたわけです。

 

 横川駅の改札口を走って通り、上図の駅名標を撮りました。これは新しいほうの駅名標です。

 

 そして古いほうの駅名標も撮影。

 

 それからホームに待機していた16時発の高崎行き普通列車を撮りました。まもなく発車のベルが鳴り響きました。

 

 すぐに乗り込みました。席につくかつかないかのうちに列車が動き出しました。時計を見ると16時2分でしたので、あれっ、2分遅れで発車か、と気付きました。

 

 ですが、時刻表通りの16時32分に高崎駅に着きました。横川からの信越線はずっと下り坂でスピードも出ており、2分遅れても余裕でダイヤ通りに到着するもののようでした。

 高崎駅で両毛線に乗り換えるので、上図の電光案内板を見上げ、次の小山行きの普通列車が16時58分発であるのを確かめました。待ち時間は26分ある、ならば、高崎駅内の聖地スポットを見て撮っておこう、と考えました。

 

 それで、駅内連絡橋をわたって2番ホームへ移動し、その南側へ移動しました。ホームには普通列車が停まったままでした。その先頭車両の横のホーム屋根を見上げました。

 

 この構内信号機です。正式名称は「出発反応標識灯」だったかな、と思います。2番ホームに上越線と信越線の「出発反応標識灯」が並んでいます。これが作中にて描かれています。

 

 右のコマの上の赤枠内に見えます。よく見ないと気付かないかもしれませんが、私自身は鉄道ファンになっているので、普段こういった鉄道施設や信号や標識類にも目がいくようになっています。

 それで、作中に描かれる「出発反応標識灯」にも気がついていて、各務原なでしこ達が乗った特急「草津・四万」が高崎駅の2番ホームから発車したのだと知りました。特急「草津・四万」は渋川まで上越線を走りますから、その発車時にはおそらく「2上越」の「出発反応標識灯」が点いていたのでしょうが、作中ではそこまで描かれていません。さらに「2信越」のプレートが実際よりも上に位置しています。

 撮影後、元の6番ホームへ戻り、16時58分発の小山行きの普通列車に乗りました。

 

 17時25分、この日の最終目的地の伊勢崎駅に着きました。この日の宿はこの伊勢崎駅近くの東横インに予約したからです。計画では高崎駅近くの東横インに泊まる積りでしたが、この日は土曜日で満室で予約出来ず、次候補の前橋のほうも満室で取れず、結果的に第三候補だった伊勢崎のほうになりました。

 高崎から伊勢崎までは両毛線の普通列車で30分ぐらいです。明日の聖地巡礼コースが高崎駅前を8時30分に出るバスでスタートするので、朝に30分程度で高崎駅へ移動できる範囲内の宿であれば良かったのでした。東横インにこだわったのは、私自身が会員であってこの日がちょうど通算10泊目の無料サービス宿泊日にあたっていたためでした。

 

 JR伊勢崎駅前から見た、この日の宿の「東横イン伊勢崎駅前」です。駅前、といってもちょっと離れています。直線距離はそんなにありませんが、道路がやや迂回気味でしたので、歩いて6分かかりました。

 17時33分にチェックインし、入浴した後、嫁さんに定期の電話連絡をしました。それから横川駅で買ってきた「峠の釜めし」を食べつつ、この日の行動記録をまとめました。明日の聖地巡礼コースを確認し、利用するバスや鉄道の時刻を第三候補までおさえておきました。そして20時40分、早めに就寝しました。

 以上、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルート聖地巡礼1日目のレポートを、高崎・横川編として括ります。次回からは項を改めて、2日目の榛名エリアの行程を綴ります。  (了)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その6  碓氷峠鉄道文化むらの車輌たち 下

2024年11月16日 | ゆるキャン△

 碓氷峠鉄道文化むらの続きです。上図はEF63形の1号機です。全部で25輌が製造されたなかの、最初の試作機にあたります。昭和三十七年(1962)に製造され、同時期に製造されたEF62形1号機とともに試験運転に投入され、EF63形の特徴や不備や内部機能などのチェックや初期データの構築に貢献、それらの成果をふまえての諸改良が行われ、量産型の2号機以降の1次車、14号機以降の2次車、22号機以降の3次車が製造されています。

 この1号機も、唯一無二の試作車タイプですから、Nゲージ化されていません。ですが、私のレイアウトでは同じぶどう色車体の19号機を1号機とみなして走らせて楽しんでいます。

 

 EF63-1の隣にはEF53-2が並びます。EF53形は、国鉄の前身である鉄道省が昭和七年(1932)から製造した直流用電気機関車で、計19輌が製造されました。その後、昭和三十八年(1963)に全車が改造されてEF59形に改番されています。上図の展示機は、EF59-11に改造改番されていたEF53-2を改造前の状態に復元したものです。

 

 EF53-2の南隣には上図のEF58-172があります。EF58形は、国鉄の前身である運輸省鉄道総局が製造した旅客用直流電気機関車です。太平洋戦争終戦後に激増した旅客輸送需要に対応する機関車として昭和二十一年(1946)に登場、昭和三十三年(1958)までに改良型も含めて172両が製造されました。

 上図の172号機は、昭和五十七年(1982)5月21日に栃木県で開催された植樹祭に、昭和天皇皇后両陛下が来臨された際のお召し列車を牽引した名誉ある車体です。現在はかなりボロボロですが、装備および塗色はお召し列車牽引時の状態を再現しています。

 

 EF58-172の南隣に並ぶEF30-20です。このEF30形は、国鉄が製造した世界最初の交直流電気機関車です。関門トンネルを挟む山陽本線の下関 - 門司間における交流電化に伴う専用機として開発され、22輌が製造されました。

 このEF30形は、他の電気機関車と異なって車体が銀色に見えますが、これはステンレス板を車体外板としているためです。これは関門トンネルの覆工より滲み出す海水による錆(塩害)を防ぐための外板です。その外板の下半分が波板状になっているのは強度維持のためで、コルゲーションと呼ばれるプレス加工処理が施された状態です。

 

 このEF30-20と、先に紹介したEF58-172が並んで作中にも登場しています。右のシーンです。ナンバーは描かれていませんが、展示状況は実際と同じです。斉藤恵那が両車の間に進んでいますので、その後は今回の私と同じように奥の階段を登って、奥にある車輌を見ていったのでしょう。

 

 EF58-172の後ろには10系客車のオハネ12-29が続きます。10系客車は、国鉄が昭和30年(1955)年に開発し量産した軽量構造の客車です。上図のオハネ12形は、三等寝台車のナハネ11形を冷房改造した型式です。

 この10系客車は、ここ碓氷峠鉄道文化むらにて初めて実物を見ました。これまではこういうタイプの客車は、大井川鐡道の12系と14系しか見た事がなかったのでした。

 

 オハネ12-29の斜め隣には上図のEF70-1001があります。御覧の通りのボロボロ状態で、前面窓の応急補修テープが痛々しい感じです。左右を他の車輛に囲まれていて外からはほとんど見えない位置にあるため、メンテナンス作業も後回しになっているのでしょうか。

 このEF70形は、国鉄が昭和三十六年(1961)に開発、製造した交流用電気機関車です。81輌が製造されていますが、上図の保存機は1001番になっているので調べてみたところ、22号機から28号機までの7輌を昭和四十三年(1968)に改造して1000番台に改番したうちのトップナンバーであったことを知りました。もとは22号機であったわけです。そしてこのEF70-1001が、現存唯一の車体であるらしいです。

 

 EF70-1001の横には「お座敷列車」と名付けられた2輌の12系客車があります。スロフ12-822の車番を見て、これは大井川鐡道に無い型式だな、と気付きました。

 周知のように、大井川鐡道にはかつて「SLやまぐち号」列車に使用された12系客車6輌が譲渡され、いまも新金谷駅の側線に留め置かれています。オハ12の3輌、スハフ12、オハフ13、マイテ49の組み合わせです。
 対してこちらのスロフ12-822は、連結しているオロ12 841とともに、国鉄が昭和五十八年(1983)に登場させた「ジョイフルトレイン」と呼ばれる車両の一種で、12系客車を改造して車内を畳敷きにした6輌からなる「くつろぎ」の1編成をなしていたものです。そのうちの2輌がここに移されて保存され、内部を公開しています。

 

 こちらの車体もボロボロです。園路からも見えますので、補修するべきだとは思うのですが、予算不足にしても、もう少し何とかならなかったのでしょうか。

 

 車内はわりと綺麗に保たれており、外側のボロボロ状態とは対照的でした。畳敷きに座卓も並んでいますので、休憩所としても使えそうな感じでした。

 

 一周して、上図のD51-96の前まで戻ってきました。前回見られなかった車輛も全て見る事が出来ましたので、満足感と安堵感とに包まれました。そのまま、近くの東屋に寄って休憩し、高崎駅で買ってきた「30品目バランス弁当」を食べました。

 

 屋外展示場から鉄道資料館に移動する際に見た、旧検修車庫の西側外観です。手前の一段低い建物が、ED42-1やTMC200Bを収容展示している所にあたります。

 

 鉄道資料館では、前回時間がなくて見られなかった模型ジオラマとレイアウトを見ました。このコーナーにだけ、親子連れや子供たちがいっぱい入っていました。あとは、上図のイメージキャラクターのパネルを撮っただけで済みました。

 この三人のうち、両側の「横川結(ゆい)」と「横川夢」の姉妹はここ碓氷峠鉄道文化むらの三代目イメージキャラクターとして知られており、同じパネルが横川駅にもありましたので知っていましたが、中央の「浅間夏綺(あさま なつき)」は初めて見ました。新たに追加されたイメージキャラクターなのでしょうか。

 

 バイバーイ。横川鉄道博物館はいつ行っても最高だねぃ(各務原なでしこ風に)。

 ということでゲートを出たのですが、時計を見ると16時前でした。あっ、確か16時の横川駅発の列車があったっけ、と思い出して100メートル先の横川駅までダッシュしました。  (続く)

 

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