気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

プラウダ高校 BTR-70 完成です!!

2025年01月31日 | ガルパン模型制作記

 ラストのステップ16です。銃塔を組み立てて車体にセットします。

 

 銃塔は外側のみ組み立てました。車体内部のインテリアパーツは全て省いていますので、銃塔内部のパーツも不要でした。

 

 車体にセットしました。

 

 塗装前の組み立てが完了しました。大きな車体ですが、形状がシンプルです。いかにも装甲車らしい外観です。

 

 塗装を行いました。今回のキットについている塗装見本図には通常のグリーン系、冬季カラーのホワイト系の2色が示され、前者はロシアングリーンとなっています。

 ですが、劇中車のカラーはもう少し青味がかかった鮮やかなグリーンで、これはプラウダ高校チームの車輌全般に共通します。旧日本海軍の艦上機のカラーに近い色です。近似のカラーは、手元にあるなかではミスターカラーの16番の濃緑色でしたので、これを吹き付け塗装しました。

 

 ゴムパーツのタイヤをはめ込みました。色もそのままですから塗装は必要ありませんでした。

 

 車輪は8つですので、タイヤも8本つけました。

 

 銃塔の機関砲2丁、すなわちKPVT 14.5mm重機関銃、およびPKT 7.62mm機関銃の銃身を28番の黒鉄色で塗りました。

 

 前照灯の内部をポスカの銀で塗り、レンズのパーツをウェーブのアイズのパーツに置き換えました。

 

 最後につや消しクリアを薄く吹き付けて仕上げました。個人的には初めての戦後の装甲車のキットでしたが、大きな車体の割には形状がシンプルでパーツ数も多くはなかったため、思ったよりも楽に作れました。

 

 劇中車は、ワンシーンのみで車体の右側面の一部しか出ていませんので、校章マークがあるかは不明ですが、他のチームでも移動および観戦用の車輌には校章マークが付いていないことが多いので、今回も校章マークは貼らないでおきました。

 

 以上で、プラウダ高校チームのBTR-70が完成しました。製作日数は、2023年8月9日から8月16日までの8日間で、組み立てに6日、塗装および塗装後の組み立てに1日かかりました。

 今回はトランペッターのインテリア付きキットを使用しましたが、インテリアは操縦席と兵員室のみで、エンジンおよび駆動系のパーツが省略されているため、インテリア部分の製作は不要として外観のみを製作しました。キットは前期型仕様ですが、エッチングパーツの大半は後期型仕様になっているので、後期型仕様に寄せることも可能であるようです。が、今回は細部にこだわりませんので、エッチングパーツも全て不要とし、作業量を大幅に軽減しました。足回りのパーツの複雑さには少々手こずりましたが、それでも全体的には割合に楽な製作となったと思います。

 

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プラウダ高校 BTR-70 作ります!! その4

2025年01月30日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11では上下の車体を貼り合わせて、背面部を組み付けます。

 

 組み立てるパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 足回りはこの段階で組み上がりましたが、車軸がずれていないかの確認は時々行いました。定規をあてて一直線になるかをチェックしました。

 

 ステップ12では前面部の小部品などを組み付けます。ステップ13では車輪を組み立てます。

 

 ステップ12で組み立てる前面のガードのパーツです。展開状態と収納状態とを選べます。ここでは収納状態にします。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ13で組み立てる車輪のパーツです。タイヤはゴムパーツなので、塗装後にそのままはめ込むだけで仕上がります。

 

 タイヤは塗装作業が終わるまで保管しておきます。

 

 ステップ14では車輪を取り付けますが、私の製作では塗装後に組み付けます。よってステップ14はスルーしてステップ15からの銃塔の組み立てに進みます。銃塔のインテリア部分は全て省きます。

 

 なので、ステップ15では上図の銃塔外観のパーツ類を準備するだけで済みました。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)プラウダ高校 アエロサンRF-8

2025年01月29日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  トランぺッター (商品コード02322)

  制作期間   2023年8月3日~8月5日

  製作記事   その1 その2 完成です!!

  総評・備考
 RF-8は、ソ連軍が第二次大戦期に運用した軍用アエロサンの一種である。アエロサンとはプロペラ推進式スノーモービルのことである。別称をGAZ-98という。雪上を高速で移動出来、偵察や哨戒、連絡任務などに用いられた。
 ガルパンでは、テレビシリーズ第9話にてプラウダ高校チームの隊長カチューシャがベッド代わりに使用しており、作戦行動等に用いられる描写はない。それでおそらくはチームの備品扱いになっているものかと推測される。
 適応キットはトランペッター、ビジョンモデルから出ている。両方の相違点はプロペラガード横に張られるターンバックルの有無であり、劇中のRF-8はターンバックルが無いので、トランペッターの製品がモデルと目される。小型なのでパーツ数も少なく、どちらのキットを組んでも簡単な作業で済む。初心者クラスにもおすすめ出来るガルパン仕様制作の入門キットの一つとされる。

  公式および適応キット一覧(2025年1月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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二条城6 旧二条城石垣、土蔵、南中仕切門

2025年01月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 二条城本丸の西口から西橋を渡って外郭の園路に出て、そこから左寄りの西へ進むと、上図の小さな石積みの遺構があります。

 

 案内説明板には、旧二条城の石垣を移築保存したものである旨が述べられています。旧二条城とは、織田信長が足利義昭のために建造した「武家御城」と記載される城館を指し、現在の二条城とは違う場所にありました。

 この旧二条城を訪れたルイス・フロイスの著書「日本史」によれば、城の範囲は三街分あったこと、石材に石仏や石塔を用いたこと、つり上げ橋のある堀をもつこと、この堀に3箇所の入口があったことなどが記載されています。

 

 旧二条城の位置は、京都御苑の西側で、その規模は現在の町名でいうと上京区の両御霊町、御霊町、近衛町、桜鶴円町のあたりに該当します。現地は市街地化しているため、遺構は地下にしか存在していませんが、これまでの数次にわたる発掘調査によって様々な遺構が検出されています。

 主な遺構としては、北辺の外堀、北辺の内堀、南辺の内堀、南辺の外堀とみられる部分が確認されており、それぞれの堀には転用石を多用した石垣が使用されています。上図はその石垣の一部を移築して保存公開しており、同じ種類の移築石垣が京都御苑の椹木口(さわらぎぐち)近くにもあります。

 

 石垣に多く使われた転用石というのは、多くが中世の石造品で、上図のような五輪塔の火輪部や石仏がみられます。中には古代の礎石とみられるものもあり、一部は平安期の宮城建築のそれではないかとされていますが、確証はありません。

 

 石垣に含まれる転用石を見てゆくと、五輪塔の火輪部が多数を占めているのが分かります。三角形をしているため、据え付けるのに適していて、石垣の基部に多くが埋め込まれています。多くは風化摩滅がみられ、石垣の材料として運ばれてきた時点で相当の年月を経た古いものであったことを伺わせます。嫁さんが言いました。

「織田信長の頃の京都って、あんまり石材が無かったんですかね、周りの山にも石切り場ってあんまり見かけないですしね・・・」
「そうやな。豊臣政権期の築城でも四国とか紀州とかの遠隔地から石材を調達してるしな」
「五輪塔や石仏なら幾らでもあったんでしょうけど、応仁の乱とかでも徴発されてたりして転用されてますよね」
「うん、信長が始めたことじゃないからな。戦国期にはどこでも似たような転用例があったし。古墳の石棺まで石垣に利用しちゃってるケースもあるし」
「五輪塔が多いのは、五つの部品から成っててバラしやすくて、割と小さいから運びやすかった、ていうのもあるんでしょう」
「そういうことやろうな」

 

「例えばこれや。五輪塔の火輪やけど、なにか後から彫り窪めて加工した跡がある。石垣に転用される前に、何かに転用されてたような感じやな・・・」
「言われてみれば、そんな感じですねえ、あちこち打ち欠いたような感じですねえ」

 

「あの長方形の石はなんですかね?」
「これか」
「ええ、何かの石材みたいに見えます・・・」
「うん、石仏や五輪塔ではないな。真ん中に突起を造り出してあるんで、礎石なのか、それとも組み合わせるための石材かもしれん」
「橋とかの脚の部分?」
「あー、それらしくも見えるねえ」

 

「こういう石垣の石の積み方って、野面積み(のづらづみ)と呼ぶんですかね?・・・それとも、乱積み(らんづみ)でしたっけ?」
「これは野面積みやな・・・」
「あのう、野面積みと乱積みってお城の本とかで見ると、なんか似たようなものに見えるんですけど、見分け方ってあります?」
「この石垣の積み方を見てみい、石を積むときに、似たような大きさの石を下から順に重ねて積むと、大体は石の並びが横にまっすぐになるんで、横のラインが見えてくる。これもそうやから、下から一段、二段、三段、四段目まであって、左側だけ五段目も残ってる」
「うん」
「乱積みやと、石の大きさを合わせないでそのまま不規則に積み上げるから、横のラインが、これ目地というか継ぎ目なんやけど、そういうラインも無くなる。そこが識別点かな」
「つまり、綺麗に重ねて積んであるかどうか、ということですね。重ねてあったら野面積みで、不揃いやったら乱積み、とみたらええんですか」
「大体はそういうことになる」
「技術的にはどっちが新しいんですか?」
「乱積み。不規則に積みつつも崩れないように固めて堅固に築くんで、専門の石工ならばでの高い技術力が必要になる。中世戦国期にはあんまり見ない。織田豊臣政権期の城から見られ始める」
「ふーん」

 

「これ、発掘された遺構を移築してるってことですけど、元々この規模の小さな石垣なんですかね?」
「もとの石垣の規模よりは小さくなってるやろうな。堀の石垣やったらしいが、堀が空堀であれ水堀であれ、この高さでは足りん。もう少し高く積んであったんやろう、思う」
「上半分ぐらいが無くなっちゃってるわけですか?」
「たぶんな。旧二条城は足利義昭の居城やったが、信長による義昭の追放で廃城となって破却して、石を安土城へ運んだりしてるから、石垣もそのまま残されたとは考えにくいからな」
「じゃあ、これは、破却された後に残ってた石垣ってことですかね」
「そう見たほうがええんやないかな」

 城郭の石垣についても熱心に実際の遺物を観察し、私との質疑応答で得られた知識をきちんとメモする嫁さんでした。もともと歴史が好きで、文化財に対する好奇心が旺盛で、向学心も豊かな、賢いモケジョさんです。

 

 それから園路に戻って南へ向かい、上図の南米蔵の横を通りました。

 

 その南米蔵の案内説明板です。嫁さんが一通り読んだ後に訊いてきました。

「この米蔵、国の重要文化財になってますけど、文化財の公開義務とやらによって内部とか一般公開されたことはあるんですかね?」
「さあ、どうかなあ、公開されたって聞いたこと無いなあ。櫓や門は時々に特別公開があったりするけど、これらの土蔵は公開の必要が無いから対象外になってるんじゃないかなあ・・・」
「そうなんですか・・・、いっぺん中を見たいなあ、と思ったんです・・・」
「土蔵の中、ていうても格段変わったものでもないよ。普通の土蔵と同じ内部やで」
「そうなんですか・・・」

 

 それから本丸の水濠に沿って南側へ回り、梅林の中を進んで東へ行くと、石垣で仕切られた場所があり、道が左にクランクして上図の城門が構えられています。いわゆる「埋門(うずみもん)」形式で、本丸の外郭の東西の防御線の要となる中仕切門の一種で、これは南側にあるので南中仕切門と呼ばれます。寛永の本丸築城時の遺構で、国の重要文化財に指定されています。

 

 南中仕切門の案内説明板です。嫁さんが「埋門の形は姫路城が有名で、高松城にもある、て書いてありますけど、どっちも実際に見てますの?」と訊いてきました。大きく頷いておきました。

「姫路城のは、確か「る」の門やな。ここの門と違って石垣の中に小さく目立たないように造ってある。高松城のも同じタイプやけど、板戸がついてて通れへんかった気がする」
「他の城にもあるんですか?」
「いっぱいあるよ。石垣の切れ目に門を置いてるのは大体埋門タイプやで。ここ二条城でも、本丸の東西の虎口の内側の「御門」が多聞櫓の下の石垣にはさまれてる形やったから、それも埋門タイプになるな」
「あ、そうなんですかー」

 

「この門は、どっちが正面になるんですか?向こう?」
「そう、向こうが正面。こっちは城内側になるから内側になる。門扉もこっちに開いてるやろ」
「あっ、そうか、そういえば城門の扉は内開きですもんね・・・」

 

 それで門扉の表側に近寄って、上図の潜り戸を確認する嫁さんでした。
「あー、この扉も表に引手、把手が全然ありませんねー、扉を動かしたくても手をかける所が無いー」

 

「この門の蝶番も立派ですねー」
「しかも錆が表面だけでしっかりしてるやろ、鍛造の際に鋼を組み合わせて錆びにくい質の鉄に鍛えてる」
「ですねー、なんか、かっこいい・・・」

 

「あと、屋根も見ておいてくれ、ここのは招造(まねきづくり)と言ってな、屋根は切妻造りやけど、棟(むね)から下がる片方を長く造って、もう片方を短く切ってある。ほら、正面の屋根が短い。その下に庇を付けてるから屋根が二重に見えるやろ・・・」
「ええ、屋根が二重に見えますねえ、下のは庇で、上が屋根なんですね、招造ですか・・・」

 そう言ってメモに書いて、再び「まねき、づくり」と復唱して覚えていた嫁さんでした。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く44 その18  野反湖 野反湖バス停から

2025年01月27日 | ゆるキャン△

 野反湖展望台案内所の南側に、上図の展望所とみられるベンチ群があり、その横を道が下の野反湖畔まで通っていました。ベンチ群からの眺望はあまり開けておらず、むしろ道を下った下の方にも広場らしき場所が見えて、そちらが展望所なのかもしれないな、と思いました。

 野反湖周辺ガイドの案内マップで見ると、道は湖畔の展望所までで行きどまりになっているようでした。最初はこの道が湖畔東岸ルートに続くのかなと考えていたのですが、マップではここ展望台駐車場の少し上にある池ノ峠駐車場の南側の「車道出合」から湖畔東岸ルートが始まっており、野反湖の東岸に沿ってほぼまっすぐに富士見峠まで続いていました。

 次に来るときは、この湖東岸ルートを歩いて、今日の湖畔西岸ルートに続けての野反湖一周を試みるのも面白そうだな、と思いました。行くなら、車道の冬季通行止めが解除されてバスが運行される陽春の5月から、高山植物の開花シーズンの6、7月にかけてのタイミングが良いな、と考えました。

 

 しばらく野反湖を眺めていましたが、そのうちに空は雲に覆われ、天気予報の通りに気温も下がってきて、寒くなってきました。時計を見ると15時32分でしたので、駐車場へ戻りました。

 

 バス停は、あれだな・・・。

 

 バス停「野反湖」です。長野原草津口駅からのバス路線の終点にあたります。今回は途中の「野反峠」で降りて富士見峠から歩きましたが、こちらの「野反湖」で降りて逆に歩いて富士見峠の「野反峠」バス停まで歩くことも出来ます。ただし、その場合は地形の関係で登り坂が多めになります。

 

 「野反峠」バス停の時刻表は御覧のとおり、一日に3便しかありません。5月1日から10月20日までがバスの運行期間で、それ以外は冬季通行止めとなりますから、車やバイクを利用したとしても、野反湖へ行ける期間は5か月余りしかないわけです。

 

 で、午後の最終便はこの15時39分発でした。これに乗れないと帰れなくなってしまいます。野反湖キャンプ場に一泊した場合は、午前の第1便が9時26分発となります。とにかく3便しかありませんので、バス利用での野反湖行きは、バスの時刻をおさえておくことが肝要です。

 同時に、長野原草津口駅から野反湖までの途中にある、各務原なでしこ達も立ち寄った旧太子駅跡へバス利用で立ち寄るのも難しいことが分かります。午前中に2便がありますから、始発便に乗れば旧太子駅跡へ立ち寄ることも出来ますが、その始発便は平日のみの運行で、長野原草津口駅を7時55分に出ます。それに合わせるならば、例えば高崎からですと6時10分発の普通列車に乗らないといけません。
 いずれにせよ、野反湖行きのバス便は最低限で、一往復するのがやっとというダイヤです。せめてもう1便あればな、と思います。

 

 バス停の前で思案しているうちに、帰りのバスがやってきました。時刻は15時37分でした。行きと同じ運転手さんが笑顔で「いかがでした?」と訊いてきました。

「お蔭様で、景色も良くてハイキングが楽しめました。地図にあるとおりの1時間40分で歩きました」
「ほう、そうですか、するとあなた、足は速いほうなのですな」
「ええ、そのようです。周りによく言われます」
「確か、湖畔西岸ルートでしたな、どこからでも野反湖が綺麗に見えますでしょう」
「ええ、どこから見ても絵になりますねえ」
「そう、そう、ノゾリキスゲの花が咲くころはもっと絵になりますよ」
「実はその花の咲くころにもう一度来たいと思っています」
「なら、5月下旬から6月いっぱいまでがよろしい。是非来て下さいや」

 

 予定通りの15時39分に出発しました。しばらくは登りになり、やがて池ノ峠駐車場の横を通りました。運転手さんがその横を指して「そこから湖畔東岸ルートになりますんでね、さっきの展望台駐車場からはいまの車道を登っていくことになりますんで」と教えてくれました。

「その近くにバス停は無いのでしょうか」
「あることはあるんですがね、「湖畔」てのがあるんですがね、もうちょっと南、車道のピークまで行くんで離れてるんですわ。「野反湖」のバス停から行ったほうが近いですよ」
「そうですか」

 話しているうちにも登り坂は続き、ついにはハンディGPSの数値が1555メートルに達しました。そのピークを過ぎたあたりにオオカラボリ駐車場があり、そこに「湖畔」バス停も見えました。

「あれから下へ降りると湖畔東岸ルートの真ん中あたりに繋がってるんですよ」
「そうですか」

 

 その「湖畔」バス停付近からの景色でした。かなり高い位置に来ていることが野反湖の見え方から分かりました。そのあとは雑木林のトンネルの中を走ることが多く、富士見峠に近づくまでは、野反湖の湖面があまり見えませんでした。

 15時51分、行きに下車した「野反峠」バス停に停まりました。大きなリュックを背負った登山客3人が乗り込んできました。私を含めて4名が、その日の帰りのバスの乗客でした。

 

 それからはしばらくウトウトしていて、目が覚めた後はメモに湖畔西岸ルートの各ポイントの様子や所要時間などをまとめました。そのうちに16時34分、上図の「道の駅六合」に停まり、発車しました。

 

 それから窓の外の景色をボーッと眺めていましたが、時々、赤い三角形の防火用水標識が道端にあるのを見ました。集落ごとに設置されている感じで、この帰り道だけで12ヶ所を見つけました。ゆるキャンの作中にて斉藤恵那が見つけたのは、どのあたりだったのでしょうか。

 

 16時41分、運転手さんが左手を指差して「あれが太子駅跡ですよ」と教えてくれました。そちらを見ると、駅舎のような建物と数輌の貨車が見えました。その直後に入口に置かれた貨車と、その向かいの「旧太子駅」バス停を見ました。

 次に来るときは、あの旧太子駅へ行こう、大井川鐡道井川線から譲渡された貨車1輌も見たい、と考えました。

 

 また、例の防火標識を見つけて撮りました。夕方の薄暗い景色のなか、赤色の三角形はものすごく目立つのでした。遠くからでもすぐに分かるので、カメラを構えて準備して、横を通ったら撮る、ということを十五回ほど繰り返しましたが、成功したのは二回だけでした。

 

 16時55分、終点の長野原草津口駅に着きました。野反湖を出てから1時間16分後でした。運転手さんに御礼を言って下車しました。

 

 かくして、今回のゆるキャン聖地巡礼のメインであった野反湖行きが、つつがなく終わりました。予想よりも楽しく、素晴らしく、面白い学びが豊かな高山域の秘境でした。ゆるキャン聖地巡礼でなくても再度行きたい場所だな、と思いました。

 その後は長野原草津口駅の休憩ルームで50分ほどの待ち時間を過ごしました。吾妻線のダイヤと野反湖行きのバスの時刻は全然リンクしていませんから、行きも帰りも、長野原草津口駅での待ち時間が生じます。ここに着く特急「草津・四万」も、草津温泉行きのバスの時刻に合わせて運行されているため、野反湖へ行くための手段としては適していません。なんだかなあ、と思ってしまいます。

 長野原草津口駅からは、17時52分の普通列車で出て、19時5分に新前橋駅で乗り換えて、高崎駅に着いたのは19時17分でした。駅ビル内の中華料理店で夕食をとり、20時前に高崎の東横インにチェックインしました。

 以上、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルート聖地巡礼3日目のレポートを、野反湖編として括ります。次回からは項を改めて、4日目の伊香保温泉での聖地散策を綴ります。  (了)

 

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プラウダ高校 BTR-70 作ります!! その3

2025年01月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8では上部車体の内外の各部品を取り付けます。私の製作ではインテリア関連は全て省きますので、外側の最低限のパーツのみを組み付けます。

 

 ステップ8の第一段階では側面のJ1とJ22だけを取り付けます。

 

 組みつけました。

 

 第二段階では上図のパーツ類を取り付けます。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ9ではハッチ類や排気管、装備品などを取り付けます。ここでは装備品は不要ですので、シャベルのH54は付けません。

 

 ステップ9の第一段階で取り付けるパーツ類です。シャベルのH54も見えますが、ジャンクパーツ保管箱行きとなりました。

 

 組みつけました。

 

 第二段階では上図のパーツ類を取り付けます。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ10では細かい部品、小さなパーツ類を取り付けます。エッチングパーツも含まれますが、全て省きます。

 

 小さなパーツばかりでした。紛失しないように気を付けました。

 

 組み上げて次へ進みました。

 

 ガソリン缶は最初は不要としましたが、何も装備していないのも寂しいし、チームの移動用車輛なのであれば燃料はどうしても必要であり、ガソリン缶ぐらいは携行していてもおかしくないだろう、と思いましたので、取り付けることにしました。

 

 組み上がりました。

 

 ガソリン缶の取り付け状況です。

 

 組みつけに苦労して手間取った、前照灯のライトガードです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く44 その17  野反湖 野反ダムから展望台駐車場へ

2025年01月25日 | ゆるキャン△

 野反湖キャンプ場のバンガローエリアの見学を終えて車道の出入口より退出しました。

 

 野反湖キャンプ場の出入口の外側には上図の建物があります。板張りの山小屋ふうの建物で、最初はキャンプ場関係の施設かなと思いましたが、玄関口の表札には「野反ダム管理所」とありました。その横にダムがあるのかと探しましたが、もう少し北に離れていました。

 

 しばらく降りていくと、下方に野反ダムの堤体の一部が見えてきました。

 

 ダムの近くには上図の水利使用標識がありました。これを見ると、野反ダムが東京電力ホールディングスの再生可能エネルギー発電事業会社である東京電力リニューアブルパワーの管理に置かれていることが分かり、野反湖の正式名称が「野反貯水池」であることが分かります。

 へえ、湖じゃなくて貯水池なのか、と思いました。確かに元は野反池だったから、その貯水量がダムによって増えただけ、という認識なのかな、と考えました。
 そしてこのダムが信濃川水系の中津川の源流であると知り、要は長野県および新潟県側への水流のダムなのだ、と理解しました。

 

 野反ダムの堤体を見下ろしました。なにか普通の擁壁のようで、あまりダムらしくない外観でした。堤体の高さは44メートル、車道が通る堤頂部の長さは152.5メートルで、竣工年は昭和三十一年(1956)です。

 日本の発電用ダムとしては初めてのロックフィルダムであり、材料となる岩石を高所から落下させ、その衝撃で締め固めつつ高く築き上げるという投石工法で建設されました。堤体本体の上流側は水の流出を防止するため、一面にわたって鉄筋コンクリートで舗装されていますが、これも日本のダムとしては珍しいものだそうです。

 同じような型式のダムはここ野反ダムのほか、岐阜県の小渕ダム、岩手県の石淵ダム、秋田県の皆瀬ダムの3基だけだそうです。

 

 いずれにせよ、ダムとしては珍しい形式、工法によるものですが、小規模のダムであるためか、堤体の上を歩いている限りでは普通のコンクリート橋の上を進んでいるような感じでした。

 ゆるキャンでは以前に長島ダムや滝沢ダムが聖地として登場していますが、その2ヶ所はいずれも巨大で規模も大きくていかにもダムだという雰囲気、迫力がありましたが、今回の野反ダムはそれらとは正反対の印象でした。

 

 ダムの下方を見下ろしても、中津川の水流が全然見えず、水音もしませんでした。放流していないのか、それとも川が木々に埋もれて見えないのか、のどちらかだろうと考えました。

 

 反対側の野反湖です。なかなかの見ごたえある湖面の景観ですが、ゆるキャンの作中にはこのアングルも野反ダムも出てきません。原作者のあfろ氏が野反湖の周囲を歩き回っていないからでしょう。車かバイクでサーッと来て、キャンプしてハイ終わり、だったのかもしれません。

 

 満々と水をたたえて静まり返っていました。今回のルートにおいて最も湖面に近づいた時でした。汀の位置を見ると2メートルぐらい下がっているようなので、満水期ではないのだろうと思いました。総貯水容量が27,050,000立方メートルだそうなので、その九割か八割はあるんだろうか、と考えました。 

 

 ダムの中央から真南よりやや東寄りに見た図が、野反湖の南北を見渡せるような感じでした。よく見ると、向こうの鞍部が富士見峠であるようで、鞍部の中央にポツンと野反湖休憩舎らしき建物が見えました。

 あそこから、湖畔西岸ルートを1時間38分で歩いて野反湖キャンプ場ビジターセンターに入り、さらに10分ほど歩いてここ野反ダムの上に居るわけです。距離にして約5キロ余りでしたが、様々な景色の美しさに感動しながら歩いていたので、あまり距離を意識しなかったのでした。

 

 野反ダムを渡ると道は登り坂に転じ、ぐるりと右に回って開けた場所へ出ました。上図の標識を見て、今回の湖畔西岸ルートの終点である展望台駐車場に着いたことを知りました。時刻は15時25分でした。帰りのバスの時刻まで、残り14分でした。

 これにより、富士見峠から湖畔西岸ルートを通って展望台駐車場までのハイキングの距離と所要時間を、約5.5キロ、2時間50分と記録しました。これは、途中でのテントエリア広場、ビジターセンター、63番バンガロー区画の3ヶ所での休憩時間を含みます。

 ちなみに、バスで野反峠に着いたのが12時1分でしたから、それからの時間総計は3時間24分となります。富士見峠をスタートした12時35分までの34分間は野反湖休憩舎にてピザを食べて休んでいましたが、今回の残り時間が14分でしたので、野反湖休憩舎での食事休憩をもし1時間としていたら、帰りのバスの時刻には間に合わなかったことになります。

 

 展望台駐車場は、野反湖周辺の観光駐車場のなかで最も広いそうです。その北側に堂岩山(標高2051メートル)や八間山(標高1934メートル)への登山口があり、少し南側にある池ノ峠駐車場と併せて、野反湖の東側の山々への登山者が車を停めておく基地になっているそうです。

 その駐車場の中央あたりにバス停「野反湖」がありますが、まだバスは来ていませんでした。

 

 展望台駐車場の西側には、閉鎖となった野反湖展望台兼案内所の建物がありました。玄関口のガラス戸から中をのぞきましたが、内部は少々の廃材が置かれているのみでガランとしていました。

 

 建物の外壁に貼ってあった、上図の「ぐんま県境稜線トレイル」の案内マップです。

 

 現在地の野反湖が群馬県と新潟県の県境に接していることが分かります。

 

 南のほうには、昨日行ってきた榛名湖と榛名富士の表示もありました。同じ群馬県内にありますが、距離的にはものすごく離れています。私も一泊して二日をかけて榛名山、ここ野反湖を回りました。

 こんな長距離のルートを、高校生3人で榛東村経由でよく移動したなあ、と感心してしまいました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く44 その16  野反湖 キャンプ場の63番バンガロー

2025年01月24日 | ゆるキャン△

 野反湖キャンプ場バンガローエリアの続きです。ビジターセンターから三壁山への登山路を経て、バンガローエリアの北東端の高台に登りました。そして14時39分、上図の63番バンガローの前に着きました。

 

 おお、実際にあるんだ・・・。各務原なでしこ、斉藤恵那、瑞浪絵真らが泊まった63番バンガロー。

 

 現地はバンガローエリアの北東端にあたり、以前はこの63番と隣の48番の2棟のバンガローだけがあってその横は駐車場付きの展望広場になっていたそうです。確かに現状でも野反湖を一望できる一番のビューポイントです。

 

 そして近年に8人用の大型のバンガローが2棟増設されて、現在のように63番バンガローの左手に隣接しています。上図左端に見えるのがその8人用の大型のバンガロー2棟のうちの南側の建物で「白砂山」の名前が付けられています。

 「白砂山」との間にスペースがあり、そこが63番バンガローの区画になっているようで、作中でも各務原なでしこ達が景色を眺めています。

 

 このシーンです。作中では5月のGW期間中ですが、周辺にまだ残雪が見えます。5月でも現地ではまだ冬の気候であるようで、6月からようやく気温が上がって現地の高山植物群の開花期になり、行楽シーズンに入るそうです。

 ちなみに上図のシーンでも、あfろ氏特有の景観美化がなされていて、例えば手前の草藪や「白砂山」の横の木が省略されています。それで実際よりも広々として見えます。

 

 そして上図のスペースで、斉藤恵那と瑞浪絵真がシートを敷いて寝転がり、またはチェアに座って、のんびりと野反湖の景色を眺めていたわけです。

 

 このシーンですね。作中では残雪がありますから、全体的に白っぽくみえる景色だったことでしょう。

 この位置で、3人は夜を過ごしてキャンプ飯を楽しむわけです。実は、私がここに来た時点では、COMIC FIZでの連載の最新話がズバリの第98話で、まさに3人が第63番バンガローの横でキャンプを楽しんでいた最中でありました。

 なので、3人が居るところへ私が「加わった」ような気分で、野反湖の景色もキャンプ場の雰囲気も3人と「共有」している状態に浸れまして、テンションが最高潮に達していたのでした。意図して日時を合わせたわけではなく、たまたまそうなったのですが、とにかく嬉しい「一致」でした。最高のひとときでした。

 

 3人がシートを敷いて夜のひとときを過ごしていた場所は、御覧のように、63番バンガローの横になります。中には入れませんでしたが、室内の様子は作中にて見られます。

 

 このシーンです。バンガローとしては一般的な造りです。

 以前に奈良県に住んでいた頃に、アウトドアスポーツサークルに参加して各地でキャンプをした時期がありましたが、グループまたは団体での実施であったため、幾つかのキャンプ場ではバンガローやコテージに泊まっています。いずれも同じような、何もない殺風景ともいえる室内空間でした。当時、一緒に泊まった仲間が「捕虜収容所」とか「刑務所」とか形容していたのを覚えています。

 

 この位置で20分余り、「各務原なでしこ達と一緒に」座ってお茶を飲み、持参のナッツ類をかじり、まったりと野反湖の景色を眺めました。最高の聖地スポットで最高の気分を味わいましたが、既に日は傾き、雲も増えてきて現地が陰に包まれることが多くなり、それに応じるかのようにハンディGPSの温度計がぐんぐん降下しました。

 ビジターセンターに到着した時点では14度でしたが、この場所では8度になっていました。さすがに標高1500メートル余りの高山域は夕方に近づくと一気に寒くなるなあ、と身を震わせて立ち上がり、もう少し景色を眺めた後、いつかもう一度、高山植物の開花期シーズンに来よう、と思いつつ名残惜しい気持ちで出発しました。

 

 63番バンガローの広場から斜め下を見下ろした図です。沢山のバンガローが並んでいますが、眺望の良さではここ63番バンガローがダントツであることが実感出来ました。時計を見ると15時9分、帰りのバスの時刻まで30分でした。

 

 もと来た道を引き返して、ビジターセンターの前の車道まで降りました。

 

 それから車道をたどって、上図の野反湖キャンプ場の入口の看板の横を通りました。時刻は15時14分、帰りのバスの時刻まで25分でした。  (続く)

 

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二条城5 本丸御殿、西橋

2025年01月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 本丸の天守台に登りまして、周囲を見回しました。嫁さんも私も、天守台に登るのは今回が初めてでしたので、本丸を中心とした四方の景色がいずれも見応えがあって、20分ぐらいはとどまって眺めていました。嫁さんは北に見える上図の西門跡を最も長く見ていました。

「あの西門跡も張り出してますねえ、東の櫓門よりも張り出しが広いですねえ、お城の本でよく見かける枡形(ますがた)っていう部分はああいう場所ですか?」
「うん、あれも枡形やな。基本的には、動線を二度直角にクランクさせて、敵が城内にストレートに進めないようにしたものを枡形というの。城の出入り口を虎口(こぐち)というんやけど、その虎口の動線を枡形にしたものを枡形虎口と呼ぶの」
「ふーん、枡形虎口、ですね」
「そう、一般的に枡形虎口は塀や石垣で区切った四角い空間に二つの門を配置して造られる空間なんやけど、あの西門もそういう枡形虎口の構えになってた。いまは門や建物が全然残ってへんけれど、江戸期はあの橋が架かってる内側に門があって、内側の石垣の塁線上に建ってた多聞櫓の真下に門があったから、二重の門構えになってた。古絵図ではどちらも「御門」と書かれてるんで、東櫓門みたいに「二階御門」とは書いてない」
「あっ、だからさっき東櫓門のところで、西も同じ櫓門かどうかは分かんない、て言ってたわけですね」
「うん、枡形虎口としては西側のほうが防御効果が高い。門と門の間の空間が広いから、一定の人数を配置出来るし、ここ天守台からもこう、見下ろせるやろ、ここから火縄銃で撃っても充分に届く。向こう側の隅にも三階建ての櫓が建っていたから、西の門は両側の天守閣と三階櫓からもガードされてたわけ」
「うん、分かります。めちゃめちゃ護りが固い門ですねー」

 

 その西門から内側にも門を経て通路がクランクしていて、江戸期は多聞櫓と本丸御殿の土蔵とにはさまれた通路空間が東の櫓門の内側の通路空間に繋がっていました。
 そのため、本丸へ侵入した敵はその狭い通路空間に閉じ込められて三階櫓や多聞櫓から迎撃にさらされ、本丸御殿の土蔵が塀代わりになっていましたから、本丸御殿に入ることも難しく、東西の門の守備兵の反撃を受けて相当のダメージを受けます。
 かつての本丸御殿は、いまのような旧宮家の御殿建築とは違って、戦闘時には防御区画として機能するように造られていましたから、天明の大火の飛び火で焼けてしまわなければ、現在も国宝指定を受けて見られたかもしれません。

 残念ですねえ、と嫁さん。

 

 天守台から西の南寄りには上図の細長い建物が見下ろせます。城内に幾つかあった米蔵のひとつ、南米蔵です。北に位置する北米蔵とともに寛永改修の本丸増築時の建物で、国の重要文化財に指定されています。

 

 それから東の端へ移動して東の景色を見ました。本丸を囲む水濠の静かな水面が鏡のように見え、に木々の影や建物の姿が水面にも写っていました。嫁さんが「そういえば」と私を振り返りました。

「ここに建っていた天守閣、説明板では寛延三年(1750)に落雷で焼失、とありましたけど、伏見城からの移築だったらしいですね」
「まあ、そういうことになってるな」
「それで思ったんですけど、慶長の築城の時に二の丸の北西隅に建ってた天守閣はどうしたんですか?こっちに移さなかったんですかね?」
「ああ、それはな、寛永改修の時に淀城に移築したということになってる。確か、淀城天守閣は指図とかの古絵図が残されてるんで、建物の形や構造が判明していると聞いた」
「ふーん、なんで淀城へ移しちゃったんですかね」
「そりゃ、二条城の寛永改修よりも前に淀城の築城が始まってたからね。秀忠の側近、久松松平家の越中守家綱が淀に入部して、廃止された伏見城に代わる山城国の重要拠点として淀城を築いてたんで、これが元和九年(1623)やった筈。二条城の改修が始まったんはその翌年からなんで、江戸幕府としては、山城国での布石として淀城の築城と二条城の改修をセットで進めていたことになるわけ。だから二条城の最初の天守閣は淀城へ、というのも計画のうちにあったんやろうと思う」
「でも、でもですよ、淀城からみたら伏見城のほうがうんと近いじゃないですか、伏見城の天守閣を移せば楽でいいのに、わざわざ遠くの二条城から移してきて、伏見城のもわざわざ遠くの二条城へ持っていくって、かなり手間とか費用を無駄にかけてるような気がするんですよねえ」
「おー、君もそう思うか・・・、そうなんや、そうなんやよ・・・僕も同じことを思ったの。淀城の天守閣以外の建物はだいたい伏見城からの転用だったらしいので、なんで天守閣だけ別にしたんだ、って思った。どうしても二条城へ持っていかないといけない理由があったんかな、って調べてみたんやけど、全然分からないままなの・・・」

 

 デジカメの望遠モードで、東の桃山門や二の丸御殿の建築群の一部を引き寄せて撮りました。江戸期には本丸の石垣の上にぐるりと多聞櫓が続き、四隅には櫓および天守閣が建っていましたから、いまのような景色とは違ってもっと迫力がある城郭の構えの景色が望まれた筈です。二条城においても、失われた部分がかなり大きいのだと改めて理解出来ます。

 

 天守台を降りて、本丸庭園の園路を歩きました。

 

 本丸御殿へと向かいました。今回の一般公開は予約制で、時間ごとに人数を限って順番に見学するシステムでした。予約は全部嫁さんがやってくれましたので、私はついていくだけでした。

 

 本丸御殿の玄関口は西側にあります。もとの本丸御殿は先述のとおり玄関口が東側にあって、東櫓門からの虎口空間に連接していましたから、いまは建物も配置も全然違っていて玄関口も反対側になっていることが分かります。

 おかげで、二条城の最終防御区画にあたる本丸の本来の様子や城郭としての構えが、いまでは分かりにくくなっています。文化庁はそのあたりは放置しているようで、昔さかんに論議されていた本丸地区の一部の復元案というのも、立ち消えになったままです。

 

 本丸御殿の案内説明板です。これを読んだ後、係員の誘導で本丸御殿に入り、見学しました。内部の撮影は禁止でしたので、一切の画像はありません。

 

 約30分ほどで本丸御殿の見学を終えました。嫁さんは大満足だったようで、やっと旧桂宮邸の御殿建築を見ることが出来ました、と御機嫌でした。もとは京都御苑の旧桂宮邸跡にあったのを移築していますが、また元の場所へ移築して復元整備したらいいのに、などと話していました。

 嫁さんの言うように、いまの本丸御殿を再び旧位置に戻すことが出来れば、これまで不可能だった本丸地区の発掘などの学術調査、および江戸期本丸御殿の復元が可能となります。近年に復元が成った名古屋城本丸御殿よりも規模が大きくて立派だったとされる二条城本丸御殿ですから、その勇姿を見てみたいものです。

 上図は西門跡の虎口空間から北の水濠と北米蔵をみたところです。

 

 そして南には、本丸の石垣塁線と天守台が見えます。さっきまで登っていた天守台です。嫁さんが「あそこから火縄銃で撃てる、って聞きましたけど、西門に届くんですか?」と聞きました。

「江戸期の火縄銃は、確実に当たる有効射程距離がだいたい100メートル以内と聞くけど、角度をとって大きく弓なりに弾を飛ばしたら500メートルぐらいはいくらしい。命中率は思いっきり下がるけどな」
「ふーん」
「むしろ弓矢のほうが効果的かもしれん。和弓なら有効射程は200メートルぐらい、伸ばせばもっといくかも」
「そしたら天守台からも西門に届きますねー」
「せやから天守閣が西側に配置されてるのは、西門の防御を意識してると思う」
「うん、よく理解出来ましたー、お城っていろいろ面白いですねー」

 

 西橋を渡りながら西門の枡形虎口の空間を見ました。東櫓門の虎口よりも広くて、動線が左にクランクするのが分かります。奥に壁の如くそびえる高い石垣の上にはかつて多聞櫓が続いていましたから、その狭間から放たれる弓矢、鉄砲の射線が西門をカバーしていたことも分かります。

 西の「御門」は現存する東の門と同じ櫓門形式であったかどうかは分かりませんが、普通の二脚門または高麗門であったとしても、その固い枡形虎口と周囲の櫓からの防御射撃による効果により、護りがきわめて堅固であったことが伺えます。
 ひょっとすると、東門よりもこちらの方がガッチリかも、と嫁さんが話していましたが、同感でした。  (続く)

 

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プラウダ高校 BTR-70 作ります!! その2

2025年01月22日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3も足回りの組み立てが続きます。今回のキットの組み立て工程は足回りがメインなので、ステップ5までその組み立て作業を続けます。足回りが組み上がると、だいたい完成に近づきます。

 

 ステップ3も二段階に分かれます。まずは上図のパーツを組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 次の段階で取り付けるパーツ類です。

 

 組みつけました。

 

 近くで見ますとこんな感じです。タミヤだと一体成型のパーツにしそうな部分ですが、トランペッターはとにかく分割して細かく分けるのが好きなようで、パーツ数も無駄に多くて作業量も半端ないです。

 

 ステップ4でも作業を続けます。

 

 なんでこんなに細かいんだ、と思い始めつつも、作業を進めました。

 

 組みつけました。

 

 次の段階でも、何の部品なのかよく分からないパーツを付けていきます。ロッドかな・・・。

 

 組み上がりました。精密感マシマシでした。実際の部品構成と同じパーツ割になっているのでしょう。

 

 ステップ5です。ひたすら作業を続けます。根気が試されます。もはや修業といっていいかもしれません。

 

 最初の段階で何かのパーツを組み付けます。

 

 組み上がった状態です。サスペンションの支持アームでしょうか。

 

 次の段階で取り付けるパーツ類です。車輪を取り付ける軸部のパーツのようです。後のステップでこれに車輪を付けることを確かめ、その取り付けは慎重に進めて軸線が水平になるようにしなければ、と考えました。

 

 それで、組み上げた後に定規をあてて、片側の4軸の中心が水平に一直線に並んでいるかをチェックしました。これまで色んなパーツを組み付けていますから、どこかでズレたり歪んだりするのが普通で、ここでも定規で測った中心線が一致しませんでした。

 幸い、まだステップ3から取り付けたパーツ類の接着剤が乾いていませんでしたから、あちこちを指で押し、引いたりして組み合わせを調整し、車軸の並びを一直線に整えることが出来ました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く44 その15  野反湖 キャンプ場バンガローエリアにて

2025年01月21日 | ゆるキャン△

 野反湖キャンプ場のバンガローエリアの見学に出かけました。ビジターセンターの外に出て、教えられた通りに車道を横ぎって向こう側へ行くと、上図の三壁山への登山口の標識がありました。その右に見える登り坂をたどればよいのだな、と思って足を進めました。

 

 かなり急な坂を登りながら左右を見回しました。上図は左手の景色です。三壁山の東麓の斜面上に沢山のバンガローが建ち並んでいました。

 

 対して右手には、上のほうに数棟しか見えませんでした。歩いている登山路がキャンプ場の北東端にあたることがよく分かりました。傾斜も急になっていて、建物とかを建てられるような地形ではありませんでした。

 

 50メートル余り登って、いったん後ろを振り返りました。野反湖の湖面を含めた周辺の景色が綺麗に望まれました。湖面を望むキャンプ場、がウリの野反湖キャンプ場ですが、さきに通ってきたテントエリア広場のほうが湖面に近くて景色も広々としていたな、と思い出しました。

 

 で、この道にも既視感がありました。やっぱりこの道が作中にも出ていた道か、と考えました。

 

 このシーンですね。各務原なでしこ達三人の背後にビジターセンターの建物の一部が見えますので、位置的にはもう少し下のほうの景観です。

 

 再び前へ向き直って登りました。このアングルも作中に出ています。

 

 右のシーンですね。道が右に曲がっていくところも同じです。曲がりきると車道に出ます。

 

 道を曲がりつつ、左側の下を見下ろしました。エリア内の車道を施設管理作業車とみられる軽トラが走り降りていくのが見えました。これだけの広さと多くの施設があると、メンテナンスも大変なんだろうなあ、と思いました。

 

 道を曲がりながら右手を見ると、端に位置する赤い屋根のバンガローが見えました。あれが目指す63番バンガローだな、と思いました。

 

 エリア内を九十九折に巡る車道に出ました。その右手の景色が上図で、バンガローエリアの中心域にあたります。

 

 車道から回り込む形で、48番バンガローの横を通り、少し行った所で後ろを振り返りました。上図左手前が48番バンガロー、車道の向こうの中央の三角屋根の小屋が3番バーベキュー棟、その右奥の赤い屋根が炊事場棟「ノゾリキスゲ」です。このアングルで作中に出ています。

 

 左のシーンです。瑞浪絵真がこちらを指差して「あれじゃないですか?」と話しています。その通り、こちらの位置の背後に、各務原なでしこ達が泊まる63番バンガローがあります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く44 その14  野反湖 キャンプ場ビジターセンター

2025年01月20日 | ゆるキャン△

 野反湖ハイキングの続きです。今回は湖畔西岸ルートの終点である野反湖キャンプ場のバンガローエリア(旧称第1キャンプ場)のビジターセンターを紹介します。作中で各務原なでしこ、斉藤恵那が館内を見て回り、瑞浪絵真がピザが休みだったショックで玄関口に座り込んでいた施設です。

 上図がそのビジターセンターの正面観です。玄関前に作業用の軽ワゴン車が停めてあるのも、作中と同じです。

 

 このシーンです。野反湖キャンプ場の管理棟を兼ねており、キャンプの手続きもこちらで受け付けています。作中画では、作業用の軽ワゴン車の看板に何と書かれているのかが分かりませんでしたが・・・。

 

 実際には「野反湖キャンプ場入口」とあります。その通りにキャンプ場の入口付近に停めてあることが多いのか、それともこの駐車位置にて野反湖キャンプ場の入口にあたるビジターセンターを指しているか、のどちらかでしょう。

 

 ビジターセンターの玄関口です。右側に「キャンプ場受付事務所」とあります。建物は二階建てですが、斜面上に建っていて二階に玄関口が設けられていますので、一階部分は地階のような感じになってあまり目立ちません。

 

 中に入ると、フロント、自販機コーナー、売店、展示室などがあります。売店ではキャンプ用品を主に取り扱っています。

 

 作中でも同じアングルから描かれます。右手前の売店および展示室のショーケースのレイアウトも同じです。自販機コーナーは玄関ホールにあり、作中ではその横で瑞浪絵真がへたり込んでいます。

 

 同じ位置から右側を見ました。作中では切れている売店および展示室のスペースです。奥には薪も売っています。

 

 フロントの前を横切って奥へ進むと、上図の休憩室があります。かつて野反湖の北端に位置した展望台案内所が閉鎖されてその機能がこちらに移されています。

 係員の方の話によれば、こちらの休憩室では、売店で購入したコーヒーやインスタント、菓子や冷凍食品などを食べて下さい、との事で、食事の提供はやっていないそうです。基本営業時間は8時30分から19時までですが、状況により休憩室のみが休業の場合があるそうです。

 

 フロントにて、ゆるキャンの聖地巡礼に来た旨を話しましたら、展示コーナーにゆるキャンの案内もありますので見て行って下さい、と言われました。御覧のように、作中での野反湖キャンプ場の景色が実際の景色と並べてパネル展示してありました。

 

 既にゆるキャンの事は御存知のようで、関連グッズの一部も販売していました。巡礼者も夏ぐらいからちらほらやってきているとの事で、多くは日帰りだが一部はバンガローに泊まってくれたりします、と嬉しそうに話していました。

 この時点ではまだアニメ4期のことはアナウンスされていなかったと思いますが、アニメ4期には間違いなく群馬キャンプ編が含まれると思います。
 4期はおそらく、3期の終わりに新入生で加わった中津川メイ、瑞浪絵真の二人を準メインに据えてのストーリー展開がなされると思いますので、雁坂みちキャンプ編でメイの活躍を、群馬キャンプ編で絵真の活躍を描くのだろうと予想しています。
 野クルのメンバーも、大垣千明と犬山あおいが雁坂みちキャンプ編に、各務原なでしこと斉藤恵那が群馬キャンプ編に登場して分かれますので、雁坂みちキャンプ編と群馬キャンプ編はセットになるはずです。それに志摩リンのソロでの行動を三峰神社と滝沢ダムにて描写して加えることで、4期の1クールの12話が構成されるのかな、と予想しています。
 それで、アニメ4期にはここ野反湖キャンプ場も登場すると思います。放送後は全国から巡礼ファンが訪れるようになるでしょう。

 

 フロントにて、キャンプ場のバンガローエリアを見学したいと申し出ましたら、ビジターセンターの前から三壁山(みつかべやま 標高1930メートル)への登山路が通じていて一般登山客も行き来しているので、その範囲ならば良いですよ、と言われました。ゆるキャンの聖地の一つになった63番バンガローも、その登山路の近くなので、外見をみるだけなら良いでしょう、との事でした。

 それで、教えられた通りに外へ出て、駐車場の脇にある上図の案内板に近寄って地図を確認しました。

 

 上図右下の「現在地」が案内板の位置にあたります。そこから車道を隔てた向かいに三壁山への登山路の入口があり、その登山路が上図のマップに点線で示されていました。
 点線は斜め左上に進んで、バーベキュー棟の手前で右にクランクして上へ伸びますが、その手前右側に、48番と目指す63番のバンガローの位置表示がありました。

 ただ、この案内板のマップは古い時期のままなので、その後に増設された8人用大型バンガローなどは表示されていません。それで野反湖キャンプ場の公式サイトバンガロー配置図のほうを参考にして下さい、との事でした。  (続く)

 

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二条城4 本丸櫓門、本丸庭園

2025年01月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鳴子門から南へ進むと、右手に本丸へと渡る東橋と本丸東櫓門が見えてきました。嫁さんが「時代劇とかでよく見る建物ですよー、水戸黄門だったかな、水戸城の門とお濠、て感じで出てたの見ましたよー」と嬉しそうに指差し、スマホを向けていました。

「これから本丸に向かうわけやが、家康が慶長八年に竣工させた時は二の丸部分だけやったから、この本丸はまだ無かったのよ」
「あ、そうなんですか。じゃあ、寛永の後水尾天皇行幸の際の改修の時に本丸を追加したんですかね?」
「そう、そういうこと。それで規模的には倍ぐらいになってる」
「なんでそんなに大きくしたんですか?改修って言うより増築と言う方が当たってません?」
「うん、実質的には増築なんやな。天守閣も慶長の時はいまの二の丸の北西隅に建ってたけど、それを撤去して、本丸の南西隅に新たに建ててるし、縄張り全体も大きく変わったから」
「後水尾天皇行幸の際に城を立派に造り直したってことですよね、それは、たぶん、天皇に徳川家の力を誇示するためですよね」
「そう。その解釈は正しい。後水尾天皇の時期ってのは紫衣事件があったりして幕府と朝廷が揉めてた時期やし、後水尾天皇もけっこう我儘やったから徳川将軍家は秀忠も家光も対応に苦慮してて、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)との絡みで、幕府としては圧力をかけざるを得なかった経緯がある」
「でも、結局は行幸で二条城に入られてるから、そのときは和解してるわけですよね。江戸時代の天皇で二条城に行幸したの、後水尾天皇だけでしょう・・・なんでかなあ・・・」
「ヒントは、中宮や」
「中宮・・・?・・あっ、分かった、東福門院ですね、德川和子(まさこ)ですね・・・。なるほど、そっかあ、正室の中宮は徳川家の出で家康の孫でしたね、つまり、奥さんの実家の城が二条城なわけで、旦那の後水尾がそこを訪問したという構図なわけですね」
「やっぱり分かったねえ、流石やな」
「えへへへ」
「要するに正室東福門院の実家としての徳川家の威信にかけて、本丸を増築して二の丸も大幅に改修したわけや」
「そういうことですね、なるほどー」
「だから、本丸部分は、実質的には後水尾天皇に見せる為に造られたといっても過言じゃない。本丸の天守閣もそのために建てたけど、狙いが当たって天皇は天守閣を気に入って二度も登られてる」
「ふーん」
「寛永の行幸御殿は二の丸の庭園の南側にあったんで、そこから天皇は廊下を渡って本丸へは東橋の廊下殿から入ってる。いまの東橋はただの橋やけど、寛永の時は二階の廊下橋になってたから、天皇は御殿からそのまま下へ降りることなく、建物づたいに本丸へ行ってた」
「じゃあ、いまのあの東橋は、その後で造り直したものなんですか」
「そういうことになる」

 

 その東橋を渡って、本丸東櫓門に向かいました。本丸に繋がる重要な東からの連絡路をかためる防御拠点として、窓の無い総塗込の白壁に包まれて防火耐火の備えを示しています。
 寛永の改修時の本丸増築に伴って東の虎口に設けられた城門で、中井家文書の江戸期の「二条御城中絵図」には「二階御門」と記されます。その通りの二階建ての櫓門です。

 この櫓門が二階建てであるのは、寛永の後水尾天皇行幸時に建てられた天皇用の行幸御殿がいまの二の丸庭園の南側にあり、そこから長局殿と廊下殿が伸びていて、本丸の東橋も当時は二階建ての廊下橋となって櫓門に繋がる構造であったことの名残でもあるようです。後水尾天皇は行幸御殿からずっと建物づたいに本丸へ渡り、そのまま本丸御殿や天守閣に登っていましたから、現在の東櫓門の二階部分を通っていたことになります。

 なので、二階部分の正面に窓が無いのも、もとは廊下橋が取り付いて通路空間になっていたからで、それを廊下橋の撤去後に壁で塞いだだけであったから、と推測出来ます。

 

 案内説明板です。「本丸の西にも西櫓門てのがあったんですねー、焼失とあるから今は無いわけですねー」と嫁さんが言いましたが、西櫓門に関しては疑問も少なくないことを話しておきました。

「西櫓門の何が疑問なんですか?」
「櫓門であったのかどうかは不明なんや・・・」
「違う形の門であった、という事ですか?」
「その可能性があるんやな。江戸期の二条城の古絵図とか見るとさ、こっちの東櫓門は「二階御門」と書いてあって建物の構造が正確に示されるんやけど、西のほうは単に「御門」としか書いてないのよ・・・」
「ふーん、二階じゃないんですかね」
「あと、門の配置や石垣との組み合わせも東と西では異なるんや。西の門跡は後で見に行くから、またその時に説明しようか」
「うん」

 

 話しながら本丸東櫓門をくぐりました。振り返って背面を見た嫁さんが「こっちにも窓が無いんですねー、側面にしか窓が無いわけだ、防御のために窓の数も最低限におさえたんですねー」と感心していました。

「窓は無いけどな、銃眼や狭間は内側にしっかり造ってある。隠し狭間や。戦闘になったら、中から白壁を突き破って狭間を現して、東橋を渡ってくる敵を弓や鉄砲で迎え撃つわけやな」
「やっぱり狭間が隠されてるんですかー、平和な江戸時代であっても、德川家は、幕府はいざというときの備えはしてたんですね」
「それが武家政権の本質やで」

 

「ちょっと戻って、内部の窓の造り方とか見たいです」
「なら、見ようか、・・・こんな感じやで」
「ふーん、こんなんなってるですか、窓の戸を開けても、太い格子がはめてあるから、中に入れないようになってますねー」
「窓を破られたら、本丸が危うくなるからな・・・」

 

 ついでに門口の内側も観察しました。御覧の通りの鉄板張りの堅固な造りでした。東大手門のそれと同じ手法で作られていますので、寛永の改修時に櫓門に造り替えたのも、東大手門と一緒の工事であったことが分かります。

 

 門扉に付く潜り戸を見ました。御覧のように頑丈に造られています。

「これは内側からしか開閉出来ないようになってる。外側は取っ手も引手もないから扉を動かせないのよ」
「あ、そうなんですか、ちょっと外側をもういっぺん見てきます」

 

 外側は御覧の通りでした。

「あー、ほんまに取っ手も引手もありませんねー、扉を動かそうにも出来ない。こういうのが門の防御の工夫なのかー」
 
 納得したらしく、何度も頷きながらスマホで撮る嫁さんでしたが、ふと何かを思い付いたような表情になり、訊いてきました。

「ここの護りを固めるには、こういう櫓門の形が一番だったということですか?他の形式の門では不足だったんですか?」
「というよりは、本丸自体は二条城の中心防御区画になるんで、有事の際には二の丸じゃ戦えないから本丸を陣場にすることになる。それに伴う対策としては、城郭としての最低限の構えを、可能な限りの固い防御施設で護る、ということに尽きるから、攻防の要となる東の虎口は櫓門でガッチリ護る、ということや」
「櫓門が一番固いんですか?」
「そう。屋根が付くから風雨もしのげる。雨が降ってても火縄銃が使える」
「あっ、そういうこと・・・」
「他の形式の門なら、雨の時は鉄砲が使えないけど、櫓門なら二階に鉄砲組を配置すれば、雨でも撃てる。高い所からの狙撃も、つるべ撃ちも可能になる。近代戦でいうとトーチカに機関銃が入ってるようなもんで、敵にとっては脅威この上ない」
「なるほどー、納得です」

 

 本丸東櫓門からの空間は、上図のように左右の高い石垣にはさまれています。現在は何もありませんが、中井家文書の江戸期の「二条御城中絵図」によれば、かつては高い石垣にはさまれた場所に「御門」がありました。現存する東櫓門と合わせて二重の門構えになっていたわけです。そして高い石垣の上には「御多門」と記される長い櫓が本丸の東辺いっぱいに続いていました。

「あのうえに塀じゃなくて櫓が続いていたんですか、で、この空間にも門があったわけで、今よりも厳重な守りの構えになってたわけですね。今も残っていたら、ものすごく立派に見えるでしょうね」
「だろうな、日本の城郭としては姫路城に次いで建物がよく残ってるとされる二条城だけど、残ってる建物よりも失われた建物のほうがはるかに多い。当然ながら城の外見の風景とかも、昔のままじゃないのやな」
「そうなんですね、江戸時代の二条城はもっともっと立派だったんですね」

 

 高い石垣に挟まれた「御門」跡を通ると通路は右にクランクし、二方向に設けられた階段へと続きます。嫁さんが「こうやって通路を屈折させるのもお城の防御のひとつなんですね」と言いました。

 敵が「御門」も破って侵入してきた場合、正面に石垣があるので真っ直ぐ進めず、石垣が左にも続くので左にも行けません。それでいったん足踏み状態になったところへ右の階段上から守備側が弓鉄砲をあびせてやっつける、という防御戦が展開されるわけです。

 ですが、この二方向の階段は、もう一つの意味を持ちます。かつての本丸御殿は寛永の改修時に新築されたものですが、その玄関口は東に向いており、ここの二方向の石段がそのまま本丸御殿玄関への登段部となっていたのでした。

 現在の本丸御殿は、二条城が皇室の離宮になった後の明治二十七年(1894)に、明治天皇の命によって京都御所の北にあった桂宮家の御殿の主要部を移したもので、寛永建立の本丸御殿とは外観もレイアウトも全く異なります。その玄関は反対側の西側にあります。

 

 その、かつての桂宮家の御殿主要部の建築群の南側へ回りました。旧宮家の御殿ですから、城郭の御殿建築とは全然違う雰囲気でした。嫁さんが「五摂家の邸宅とかも、こんなんだっただろうと思いますね」と言いました。

 

 本丸御殿は、長い間一般公開されていませんでしたから、嫁さんも私も今回が初めての見学でした。特に嫁さんは平安期以来の皇室、公家の歴史や宮廷文化、宮家の建築などに関心を持って、大学でも研究テーマにしていましたから、かつては京都御所の北側の旧桂宮邸跡に建っていたこの御殿が、現存する唯一の宮家建築であり、明治天皇や皇后、また皇太子時代の大正天皇や昭和天皇もここを利用されたのもよく知っています。

 それで、二条城本丸御殿のことを「もうひとつの京都御所でありますよ」と話していましたが、確かに離宮二条城の中心部の御所であったわけです。

 

 園路は、広い本丸御殿の芝生の庭園の中を回る感じで、歩きながら本丸御殿の建築群の様子を眺めることが出来ました。分岐からはかつて五階の天守閣が建っていた天守台へも行けるようになっていたので、嫁さんが「天守台に登りましょう、城内で一番高い場所でしょ、登ったら本丸御殿の全部が見えますよ」と言い、私の手をグイグイと引っ張ってゆくのでした。

 

 本丸庭園の案内説明板です。現在の本丸御殿が旧桂宮家御殿の移築で成立する前は、15代将軍徳川慶喜が建てた仮の御殿がありましたが、明治十四年(1881)頃に撤去されました。

「その仮の御殿ってのも残して欲しかったですねえー」
「残そうにも出来なかったんと違うかな、仮の御殿だったし、長く持たないような建物だったかもしれんて」
「あー、そうですよねー。残せなかったから、代わりに桂宮家の御殿を持ってきたのかー」
「でも、桂宮家は御殿を二条城へ持っていかれたあと、どこに住んどったのかね?」
「あっ、それはですね、その桂宮家はですね、天正の頃の八条宮の流れで、常磐井宮、京極宮と改称して、それから桂宮と改称して12代続いたんですが、最後の12代当主の淑子(すみこ)内親王が世継ぎが無いまま明治十四年(1881)に亡くなりまして、それで断絶となったんです。それで桂宮御殿も空き家になってしまったので、明治天皇が桂宮家を顕彰すべく二条城へ移して保存したという成り行きなんです」
「そうなのか、桂宮家は断絶していたのか・・・、あれ、ちょっと待った・・・、桂宮家宜仁(よしひと)親王殿下って居られたろ?・・・ええと、十年ぐらい前まで居られたよな?・・・確か、三笠宮家の次男にあたられる・・・」
「あー、その桂宮家は別なんですよー。宜仁親王が独身のまま宮家を創設して昭和天皇から「桂宮」の称号を賜ったのでして、一代限りで断絶になってます・・・」
「そうやったんか・・・」

 

 天守台に登って本丸御殿を一望しました。わー、なかなか立派ですね、と嫁さん。

「もとの徳川家の本丸御殿って、どのくらいの規模だったんですか?あの旧桂宮御殿と同じぐらい?」
「中井家伝来の古絵図、例えば「二条御城中絵図」とかを見ると、現在の二の丸御殿とほぼ同じぐらいの規模があるんで、ここの天守台の近くまで御殿の建物が並んでて、天守閣とも多聞櫓と廊下殿で繋がってた」
「わー、そしたらここの庭園のいっぱい木が並んでる所にも建物が並んでたわけですか、大きかったんですねー」
「そうやな。いまの本丸御殿の倍ぐらいの規模にはなるかな」
「残ってたら、間違いなく国宝になってますね」
「うん、天明の大火の飛び火で燃えてなければな・・・」

 天明の大火とは、天明八年(1788)正月30日に発生した京都の歴史上最大の火災です。鴨川の東、いまの団栗橋の付近より出火、東からの強い風に吹かれて鴨川を超えて西へひろがり,北と南へも拡大して二昼夜燃え続け、2月2日の朝にようやく鎮火しました。
 この大火で、北は鞍馬口通、南は七条通、東は鴨川の東、西は千本通までの範囲がまるまる焼けました。当時の京都市街がこの範囲でしたから、文字通りの焼け野原になってしまったわけです。

 被害は、幕府の「罹災記録」によれば、京都市中1967町のうち1424町が焼失、焼失家屋は3万6797、焼失世帯は6万5340、焼失寺院は201、焼失神社は37に及んだということです。幕府の京都所司代および東西両奉行所は全滅、京都御所や摂関家屋敷、東西の本願寺も焼けてしまいました。応仁の乱の被害をはるかに超えたとされています。

 このとき二条城も類焼し、本丸御殿のほかに隅櫓および多聞櫓の殆どを失いました。現在、石垣のみが残っている箇所がその類焼の範囲ですが、二条城の全盛期の建物全体の四割ぐらいに達しています。  (続く)

 

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プラウダ高校 BTR-70 作ります!! その1

2025年01月18日 | ガルパン模型制作記

 2023年夏、まだ作っていないガルパン車輌を連続して製作していた時期、プラウダ高校チームの車輌としては21輌目にあたるBTR-70を作りました。最終章第1話にてカチューシャ以下が試合観戦時に使用していた、ソ連の八輪装甲兵員輸送車です。

 劇中では上掲のワンシーンのみで、車体の前部上半分および銃塔しか見えませんが、それでも車体側面部の形状やガンポートの並びなどからBTR-70であることが分かっていました。ガルパンでは数少ない戦後の軍用車両で、実車は1976年から1980年にかけて生産され、アフガニスタン紛争やチェチェン紛争などに投入、いまもロシアや旧共産圏の諸国にて現役で運用されています。

 このBTR-70は、乗員3名と歩兵7名の計10名を定員としますが、ガルパンのプラウダ高校チームではそれ以上の人数を乗せたりしているようで、上図の劇中シーンにも11名がうつっています。実際の歩兵7名は銃や弾薬や諸装備を擁していますが、ガルパンでは歩兵は無くて軽装の女子高生たちですから、そのぶん多く人数を乗せられるのでしょう。

 

 BTR-70の適応キットは上図のトランペッター製品のほか、レベルやズベズダから出ています。前期型と後期型とがありますが、外見上はほぼ変わりませんので、どのキットを使っても劇中車を再現出来ると思います。
 今回使用した上図のトランペッター製品は前期型で、京都伏見のBOOKOFF SUPER BAZAAR1号店にて2500円で購入しました。

 

 中身です。トランペッター製品の常で、パーツ割もわりと細かいです。

 

 左が組み立てガイド、右が塗装見本図です。今回の製作は、劇中車が車体の一部しか出ていないことをふまえて、細部の作りこみや多数のエッチングパーツの使用を避け、作業量もなるべく減らした簡易工程で進めることにしました。第4話の上映開始までにとにかく出来るだけ作る、と意気込んで同時期に各チームの車輌を色々と併行の形で作っていたため、このBTR-70だけに作業カロリーを集中的に費やすわけにはいかなかったからでした。

 それで、基本的にはプラパーツのみで組み立てと決め、インテリア部分は全部省き、塗装もプラウダグリーンの1色にまとめることにしました。

 

 ステップ1は、車体の組み立てから始まりました。組み立てといっても各所に小部品を取り付けるだけでした。戦後の装甲兵員輸送車というのは、いまでもそうですが、各国の車輌がいずれも似たようなシンプルなデザインになっています。装甲車の一種ですから、戦車のようにあちこち出っ張ってはおらず、車体も上下の2パーツを貼り合わせれば仕上がってしまいます。

 個人的には初めて作る戦後の装甲兵員輸送車のキットでしたが、これは簡単そうだな、と最初は思ったのでした。

 

 上下の車体パーツです。

 

 最初に上図の削り取り指示がある二ヶ所の十字形のモールドを削りました。他にも削り取り指示や穴あけ指示がありましたが殆どは後期型の仕様なのでスルーし、取り付け指示のパーツは全てエッチングパーツであるため、これも全て不要としました。

 

 削った後の状態です。

 

 ステップ2です。プラパーツでの組み立てはここからスタートします。足回りが中心となります。

 

 最初の段階で取り付けるパーツ類です。側面のハッチやフレームなどでした。

 

 組み上がりました。

 

 次の段階で取り付けるパーツ類です。足回りの軸部でしょうか。

 

 組み上がりました。この時点で、どうやら足回りの構造が複雑そうだな、と気付きました。この種の足回りはたいていアームやロッドを複雑に組み合わせたトラス構造になることが多いからです。

 組み立て前に「これは簡単そうだな」と思っていたのですが、次第に「もしかしてこれは難しいほうのキットなのか?」という不安に変わり始めたのでした。  (続く)  

 

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ゆるキャン△の聖地を行く44 その13  野反湖 キャンプ場バンガローエリアへ

2025年01月17日 | ゆるキャン△

 野反湖ハイキングの続きです。今回は湖畔西岸ルートの終点である野反湖キャンプ場のバンガローエリア(旧称第1キャンプ場)の駐車場ゾーンおよびその周辺付近を紹介します。作中で各務原なでしこが案内板のマップを見ていたりした場所があります。

 上図は、湖畔西岸ルートの終点である観光駐車場の南側のゾーンです。「カメヤマ」駐車場といいます。すぐ西に「カメヤマ沢」の谷があることに因む名称のようです。バスで貰った野反湖周辺ガイドには漢字で「金山沢」と記されます。

 

 野反湖キャンプ場の体育館の横を抜けると、西の高台に上図の建物が見えました。地図を見て、キャンプ場の管理棟を兼ねる野反湖ビジターセンターだと知りました。その位置までに二段の削平段が連なって、いずれも駐車場になっていました。

 

 駐車場ゾーンの園路をたどり階段をあがって、一段上の広い駐車場に出ました。そこから道を横切って北側のもっと広い駐車場に行きました。広大なキャンプ場ですので、駐車場も充分過ぎるほどの広さがあるようですが、シーズン期には満杯となることもあるそうです。

 その駐車場の南側に、大きな案内板が立ちます。ビジターセンターが背景になっていますが、その景色に既視感を覚えました。

 

 このシーンでした。横に停めてある車が無ければ、同じアングルで撮れます。案内板の後ろの木々が小さいので、現在よりも昔の様子であることが伺えます。

 作中にて、各務原なでしこは63番バンガローに斉藤恵那と瑞浪絵真を残し、一人でテントエリアの広場へ散歩に出かけますが、その歩き始めに案内板のマップを見て位置とルートの確認をしています。

 

 各務原なでしこが見ていた案内板に近寄りました。同じものが富士見峠や野反湖休憩舎の横の分岐点にも立っていましたから、他にもあるのでしょう。

 

 ただ、こちらの地図は西を上に、北を右にしてあります。富士見峠や野反湖休憩舎横の分岐点の案内板の地図は北を上に、東を右にしてありましたから、こちらは野反湖が90度右に回転しているわけです。

 

 その地図の一部が作中にも描かれますので、拡大して合わせてみました。

 

 右のコマです。そのまま描かれています。この地図では「エビ山」は本来の漢字表記の「恵比山」ではないので、各務原なでしこも「エビ??」と首を傾げています。

 

 同じ地図の、現在私が居る地点を中心にしてみました。「現在地」とある地点で、野反湖キャンプ場のバンガローエリアの東端に位置することが分かります。湖畔西岸ルートの表示は特になく、その発着ポイントが野反湖ビジターセンターになっています。距離表示は全くありません。

 

 そういえば、どこにもハイキングルートの標識や距離表示が見当たらないのでした。作中に出ていた「テントエリア800m先」の立札も全然見当たらず、歩いてきた「カメヤマ」駐車場の一角に上図の、看板が外れてしまった支持棒が1本だけあったのを思い出しました。

 後でビジターセンターにて問い合わせて、その上図の棒がまさに作中の「テントエリア800m先」の立札のそれであったことを知りました。

 

 右のコマの立札です。その通り、「カメヤマ」駐車場からテントエリア広場までは約0.8キロあります。

 

 駐車場の北側には野反ダムから通っている車道があり、その向こうの傾斜面のうえには数棟のバンガローが見えました。

 ここからバンガローエリアになるのか、ついにここまでやってきたか、各務原なでしこ達が利用した63番バンガローはどのあたりにあるのだろうな、と考えたりしました。時刻は14時19分でした。  (続く)

 

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