気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その41 井川駅内の廃線

2024年05月31日 | ゆるキャン△

 井川駅の駅名標です。現在は上図のように左下が「終着駅」となっていますが、昔の写真では「どうだいら」となっています。いまは廃線小径としてハイキングコースになっている線路が、いまは土砂置き場になって埋められてしまった堂平駅まで続いているからです。

 その線路は去年まで休線扱いとなっていましたが、今年の春にとうとう井川駅から通じるガーター橋が撤去されて正式に廃線となりました。

 

 駅名標とホームと屋根と列車の写真です。Nゲージジオラマ製作用の資料画像として撮りました。この撮影位置の右側に、撤去されてしまったガーター橋が架かっていました。

 

 今年春に撤去されたガーター橋の橋脚です。かつては下の車道をまたいで井川駅からの貨物列車や資材運搬列車が橋を渡り、上図の扉で占められているトンネルをくぐって堂平駅へ行き来していたのです。

 

 こちらがわの橋脚部分を見ました。前回の井川駅行きで、まだ架かっていたガーター橋を見ていますので、なにか空しい気分に襲われました。当時のレポートはこちら。その7枚目の画像が、ありし日のガーター橋です。

 

 ガーター橋は撤去されましたが、それに続く線路はまだ残されていました。

 

 残された線路から無くなった橋の向かいのトンネルの閉鎖扉を見ました。前回の井川駅行きで井川地区のゆるキャン聖地を回り、廃線小径をたどって井川駅まで戻りましたが、その際にトンネルの中に列車が駐機しているのを見ました。当時は線路はトンネルの向こうで切れていましたが、井川駅からの線路はそのまま橋を経て続いていたため、トンネルを車庫代わりにして使っていたと聞きました。

 その景色もいまはもう見られなくなりましたが、Nゲージジオラマのほうでは橋も車庫代わりのトンネルも再現してみようかと考えています。ただ、そのレイアウトがベースにおさめられるかが問題です。

 

 残された線路の西側も切れていました。以前はそこにポイントがあったのですが、本線の列車の通行を安全ならしめるために線路を単線に切り替えたのに伴って撤去されたようです。それで、ホームから駅改札口へ続く踏切だけが残されています。

 

 ポイントの跡です。ここでも空しい気分になりました。こうやって失われて再び還らぬものがあるのだな、と思いました。
 前回の井川行きで、トンネル内に待機していた列車がここのポイントを通り、いったん向こうのトンネルへ入った後、引き返してホームに入ってゆくのをみた記憶があります。

 なので、この廃線部分に関しては、Nゲージジオラマでどうしようかと迷っています。現在の状態で再現するか、それとも線路もガーター橋も運用されていた頃の様子を再現するか、です。

 

 ホームから続く屋根は、線路の踏切の上で一段高く造られています。列車の通行を安全にするべく高さをとって、大きな荷物を運んだ列車でも通れるように配慮したのでしょう。

 

 御覧のように、線路をまたぐ屋根のほうが古いようです。ホームの屋根よりも以前に造られていたのでしょう。

 

 踏切の上の屋根の全容です。ホーム側が僅かに高く見えるのは気のせいでしょうか。それとも実際に僅かながら傾斜が付けてあって、雨水がスムーズに一方へ流れるようにしてあるのでしょうか。

 

 残された線路と踏切です。橋とポイントを撤去したさいにこれらも撤去してしまいそうなものですが、記念に残してあるのでしょうか。

 

 廃線の脇にあった駅舎の建物の東側の様子です。清掃用具やシンク、ゴミ箱などが置いてありました。

 

 駅のトンネル側の線路わきにも駅名標があり、御覧のように石積みやブロック積みの擁壁が崖面を支えています。大きな岩が露出している所もあります。井川地域の土壌には岩や岩盤が多くてしかも脆いので崩れやすい、と聞いたことがあります。
 そんなところに鉄道を通したのですから、敷設当時は岩や岩盤との戦いの連続で難工事続きだったといいます。井川線の前身の中部電力専用鉄道が、艱難辛苦を乗り越えて開通にこぎつけたのは、当時のダム建設や森林開発用の鉄道の設置が国策つまり国の事業として見なされて膨大な費用が投下されたことも大きく影響していたそうです。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その40 井川駅にて

2024年05月30日 | ゆるキャン△

 井川駅には11時12分に到着しました。乗ってきた列車が折り返して千頭行きとして発車するのが12時20分の予定でしたので、それまでの一時間8分を井川駅の見学取材と昼食休憩にあてることにしました。

 とりあえず、駅構内の北端までの線路の様子を見たり、かつての貨物用ホームまで行って上図の写真をとったり、線路のレイアウトをメモに記録したりしました。Nゲージの井川駅をいずれ作る予定なので、そのための記録メモや資料写真が沢山必要でした。ひたすら見て、撮って、メモしました。

 上図のように、私が立っていた貨物用ホームの反対側にも苔むしたホームが見えました。落ち葉に埋もれた西側の側線に接していますので、昔はあのホームも使用されていたのでしょう。

 

 ポイントは手動式です。正式には転轍器(てんてつき)と呼ばれます。昭和初期からの設備が現役で残る大井川鐡道においてはよく見かけますが、都市部の鉄道は機械化、自動化されていますので、このような手動式のは殆ど見かけません。

 

 ホームを引き返している途中、車掌さんが列車の足回りを指差して確認しているのを見ました。

 

 ホームの横の車道への出入口の様子です。軽ワゴン車が停めてあり、その脇に遮断機がありました。おそらく手前のスペースも駐車場か、作業用スペースなのでしょう。

 

 遮断機からのスペースは、そのままホームの幅が広くなっている部分に続いていますので、ホームに立ち入らないように遮断機で通行止め、侵入止めにしていることが分かります。

 こういう状況もNゲージの模型で再現すると面白いだろうな、と思いましたが、いざ作るとなるとかなり広いベースを必要とします。ベースのサイズが限られていますから、広く縦長の井川駅全部をおさめるのはちょっと無理かもしれない、駅全体の半分程度の範囲がやっとだろう、と思いました。

 

 ホームの幅が広くなりますが、奥の駅舎へ近づくにつれてまた狭くなっていきます。

 

 先頭車であったクハ600形です。その中央の昇降口が一段下にステップが付くタイプですが、ホームはさらに低いので二段を上り下りする形になります。いかにホームが低いかが分かります。
 御覧のように、他の鉄道であれば台車や車輪はホームの下に隠れて見えませんが、井川線では殆どの駅でこのようにホームからもよく見えます。

 

 ホームが線路に沿ってカーブし、徐々に幅を狭めてゆきます。

 

 ホームの東端でも、上図のように車道との段差がつきはじめてガードレールも付き、コンクリート敷きのホームの幅が狭くなっていきます。車道はここから下り坂となって、駅舎の横では3メートルぐらい下に位置しています。

 この辺りをNゲージジオラマで再現するのは難しそうです。車道も含めると下り坂になって駅との段差が開きますので、駅のレイアウトの地面を高い位置にもっていく必要があります。次回で述べる駅構内の廃線の問題とあわせて、模型での再現製作における大きな課題となってきます。

 

 狭くなっていったホームがいったん幅を少し広げ、それから再び幅を狭めています。ホーム上に屋根が設けられています。
 Nゲージジオラマで再現する場合、この辺りは基本的な製作範囲に含めています。屋根付きのホームから駅舎までの範囲を中心にして、モジュールのベースにおさまる範囲を作りたいと考えていますが、列車は最低でも5輌編成が入るようにしたいので、線路やホームは長くとることになるでしょう。

 

 ホーム東端のガードレールも、上図のような角材の組み合わせに変わります。横の車道がかなり下へ下っています。

 

 停車している列車は6輌編成でしたが、カーブの上にいるために全部の車輛が見渡せません。ホームのどこに居ても、多くて3輌ぐらいしか見えません。

 

 ホームの屋根はまだ新しい感じで、近年に設けられたものと思われます。アルミ製の今風のデザインです。昔の井川駅の写真を見ると、平成の始めまでは屋根が無かったようです。

 

 帰りに先頭車となるDD20形機関車の製造元銘板です。父が技術者として勤めていた日本車輛の文字と社章が銀色に光っています。昭和60年と読めますので、父が豊川工場の技術開発本部長を務めていた時期だと思いますが、その頃の父は休みの日でも書斎で製図台に車輛の設計図を開いては色々計算し、書き込んでいるか、分厚い本や資料を開いてあれこれノートにまとめては電卓を叩き、研究に余念が無い、というのが常でした。のんびりと寛いでいる姿を見た覚えがありません。

 当時の私は大学一回生でしたが、そんな父の背中を見ていて、専門の技術者とか研究者というのはああいうものなんだ、と思っていました。自分が仏教美術史専攻の研究者になってからは、似たようなスタンスの日々になりましたから、やっぱり父親の影響というのは大きかったな、と改めて思います。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その39 井川駅に到着

2024年05月29日 | ゆるキャン△

 閑蔵駅を出た後は、大井川をはるか下に見下ろす崖面の上のカーブとトンネルの連続をゆっくりと走りました。上図のトンネルは、数えて58番目でしたので、井川駅に着くまでにあと3つあるな、と思いました。

 序盤で一度数え間違っていたため、それ以降は慎重に全てのトンネルをカウントしていましたが、本当に正しく数えられているかは、井川駅に着くまで全然自信が持てませんでした。

 

 途中で見えた大井川の水面です。それまではかなり下に見えていたのが、やや高い位置に見え始めました。が、井川線のほうはほぼ水平に走っているので、川の高さがどんどん上がってきているのだと分かりました。もうすぐ井川ダムだな、と思いました。

 

 井川地区はまだ紅葉のピークでした。鮮やかな朱色や黄色の景色が楽しめました。

 

 そしてパッと視界が開けて、青空の下にコンクリート造の堤体が見えました。

 

 井川ダム、正式名称は井川五郎ダムです。前回の巡礼訪問の時はダム湖の井川湖の水位が最低限でしたが、今回は満水状態で、ダムの向こうの湖面があおあおと広がって見えました。
 それから60番目のトンネルをくぐり、程なく61番目の短いトンネルをくぐりました。これでトンネルは61だ、なんとか数え間違えずにきたぞ、と安堵しました。

 

 61番目の短いトンネルを出たところが井川駅の構内でした。右手に駅舎が見えました。

 

 左へゆるやかにカーブしている線路をゆっくりと速度を落としながら進み、そしてゆるゆると停まりました。上図は停まった直後に撮ったものです。

 

 かくして11時12分、時刻表通りに終点の井川駅に着きました。右側のホームへと降りて、とりあえず先頭車輛のクハ600形を見に行きました。

 

 先頭車のクハ600形です。その停車位置はホーム全体の3分の2ぐらいの位置でした。列車は最後尾のDD20形機関車を含めて6輌編成でしたから、その6輌編成の停車位置を確かめたかったのでした。

 なぜかというと、今熱中しているNゲージの模型などを作る計画のなかに、井川駅のプランもあったからです。今回の旅に行く前に千頭駅を作りましたので、次は金谷駅か井川駅を、と思案していました。金谷駅は崖面に立地する懸造りの特殊な構造をしているために1/150スケールで再現するのにはちょっと難しそうな気がしたので、じゃあ井川駅を作ろう、と決めました。

 今回の大井川鐡道の旅にて、井川駅までの全線を乗ることにしたのは、終点の井川駅をNゲージの模型で再現製作するための取材見学の目的もありました。
 井川駅は、先に述べたようにホームがカーブしている駅で、二本の側線を持ち、かつては分岐線とそのホームがあっていま廃線小径になっている堂平までの線路へ繋がり、かつてはスイッチバック方式で資材運搬列車を運行していたといい、ダム建設用の専用鉄道であった関係で車道からトラックなどのホームへの出入りが可能、というちょっと変わった構造の駅なので、地図や写真だけでは全容を把握出来ないのです。

 以前に一度行った駅ですが、そのときはゆるキャンの聖地スポットへすぐに移動したため、井川駅そのものはあまりよく見ていませんでした。だから、Nゲージの模型で再現製作するための資料つまり写真や現地取材メモなどが必要でした。
 なので、今回は乗ってきた列車が折り返して千頭行きとして発車するまでの時間を、井川駅の内外の見学取材にあてることにしました。

 

 クハ600形の停車位置の先にはまだ線路とホームが続いていました。最長で10両編成が入れると聞いたことがありますので、上図のように線路が長く延びているのも納得出来ましたが、ホームの奥が一段高くなっていて、そのあたりにトラックが停まっていました。あの高いホームへは横の車道からトラックなどが出入り出来るようで、かつての貨物や資材列車のホームだったのかな、と思いました。

 

 ホームを進みながら、一度振り返りました。ホームは一番東側に設置され、本線から二本の側線が分かれていますが、西側の側線は使われていないようで、落ち葉に埋もれてほとんど見えない状態でした。線路は三本ともカーブしていますが、曲がる角度が微妙に異なっているように見えました。

 

 トラックの停まっている高いホームに上がってみました。上図右側の本線はポイントの奥で切れておしまいになっていますが、ポイントで繋がっている中央の側線はさらに向こうへ伸びていて、そのまま埋もれている左側の側線に合流し、その先で崖面にさえぎられて終わっていました。

 かつて、小型のDB1形機関車が列車を牽引していた頃は、上図の奥に小さな手押し式の転車台が設けてあって、それでDB1形機関車の向きを変えて列車の先頭へ繋ぎなおしていたそうです。その小さな手押し式の転車台が残っているかなと思いましたが、全然見えませんでした。やっぱり撤去されているんだな、と理解し、撮影しメモしました。

 

 横の車道からホームへ通じている道路です。車道への出入口付近に軽ワゴン車が停めてありました。

 

 現在の井川線は旅客鉄道なので、ホームも客車のサイズに合わせて低く造られていますが、井川ダム建設期間中は専用鉄道として資材や木材や建設機械などを運搬した列車が行き来していたそうなので、ここでトラックに積み込んだり、または下ろしたりしたのでしょう。

 だから井川駅の規模が大きいのも頷けました。側線が二本ありますから、列車を二編成まで待機させることが可能だったわけで、本線と合わせて最大で三編成を出入りさせることが出来たわけです。

 その状態をNゲージの模型で再現するとなると、かなり長いベースが必要になります。最低でも長さが110センチないとレイアウトが収まらない気がします。これはちょっと難しい、思い切ってわざと縮めるか、それとも三分の二ぐらいの範囲だけにするか、と考え迷いました。しかもホームと線路がカーブしていますから、弓なりのレイアウトのジオラマになります。方形のベースにおさめるには工夫が必要でしょう。

 ちなみに、井川ダムの建設中は井川駅の先のトンネルを出たところの分岐からも工事用側線が設けられ、現在の中部電力井川展示館の裏手まで線路が伸びていました。その軌道跡は、前回の井川地区へのゆるキャン聖地巡礼の際に見てきましたが、それもあわせると井川駅がかつてのダム建設用鉄道のターミナル的な役割を果たした重要な駅であったことがよく理解出来ます。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺5 高山寺境内より

2024年05月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 嫁さんが「ちょっと待って」と言ったので振り返ると、上図の閉じられた中門のほうを指さしていました。

「あの門から入ってここの春日住吉の神様を拝んでいた、ってことですね」
「ん?ああ、そういうことやな・・・。ただし、この建物が現在地に移されたんは明治期なんで、それ以前の構えをそのまま踏襲しているかは分からんけどな」
「あ、そうでしたね、移築されてるんだっけ・・・」
「基本的には以前の位置、つまりは金堂と御廟の中間の、いま朱塗りの鎮守社があるやろ、あれは多分、この建物を移築した後で、神仏分離で外へ移した春日住吉の神様を祀るために、元の位置に建てたんと違うかな。確認はしてねえけど、たぶんそうやないかなと思う」
「なるほどー」

 

 続いて嫁さんは、再び石水院西面のもと内陣だった空間を見て「これは神仏習合の時代の名残なんですね」と言いました。

「そういうこと。他にはあんまり無い遺構や。昔は他の寺でもこういうお堂が在ったかもしれんけど、いま現存してるのはこの石水院だけや」
「だから貴重な価値があって国宝になってるわけですねー」
「それもあるやろうけど、中興開山の明恵上人以来の唯一の残存建築遺構、というのも大きな理由やろな」
「なるほど、はい」

 

 続いて「そういえば、もとここに祀ってた春日住吉の神様ってどんなんなんですか?いまも現存してるんですか?」と聞いてきました。

「うん、現存してるよ。いまも高山寺にある。以前に特別展で「高山寺の至宝」ってのをやったときに春日神と住吉神の影像も出品されとった。鎌倉期から南北朝期あたりの絵画作品や」
「あ、絵なんですか、彫刻かと思ってた」
「御影像、というんでこれは画像になる。彫刻やったら御像とか御正躰、と呼ぶ」
「ふーん、昔の人はちゃんと呼び分けてたんですねー」

 

 かくして石水院の見学を終え、山門より退出しました。

 

 それから嫁さんが「表参道のほうも歩いてみたい」と言うので、石水院の門前から横に進んで上図の表参道に行きました。表というだけあって幅も広くて立派な石段の参道です。私自身の過去の二度の参拝も、こちらから登ったのでしたが、以前はもっと鬱蒼とした森に覆われていましたから、今回の印象は全く違いました。

 

 表参道筋から石水院の方角を振り返りました。

 

 石水院の杮葺きの屋根と白い土塀が林間に望まれました。昔のままの景色であり、そのエリアに台風被害が及んでいないことが分かりました。
 嫁さんも「いい雰囲気ですねえ、自然に囲まれた素朴な住庵って感じ」とスマホを向けていました。

 

 表参道を一通り歩いて、また裏参道に戻って石水院の白い土塀の下を歩きました。

 

 そして行きに登ってきた石水院南面の崖面の石垣の連なりの中を降りました。途中で上図の連絡路の石段を嫁さんが指さして「これ登ったら石水院の南側に行けるわけですよね」と言いました。つまりは裏口であり、非常時の避難路としても機能したのでしょう。

 

 しかし、何度見ても立派な石垣です。中世期のものか、近世期以降のものかは分かりませんが、少なくとも石水院が現在地に移築された明治期の造成ではないようです。積み方が古式で、一見すると乱雑に見えますが、崩れないように要所要所で石をしっかりと組み合わせて石垣全体の強度を計算して積んでいることがうかがえます。

 こうした石垣を盛んに造っていたのが戦国期ですから、おそらくこの石垣も似たような時期に整備されて現在の状態になったものかと推定しています。

 

 なので、離れたところから見ると、石垣の重なりが見事なほどに決まっていて、崖面をしっかりと固定していることが分かります。高山寺の境内地でなかったら、これは戦国期の城郭かと思ってしまうような造りです。高山寺の隠れた見どころの一つだと思います。

 

 かくして下に降りてバス停に向かい、思った以上に楽しく興味深かった三度目の高山寺詣りを終えました。嫁さんも、念願だった金堂の初公開を見られて上機嫌でした。

 来週もどっかへ行きたい、と言うので、じゃあ南禅寺あたりはどうかな、と提案しました。即座に笑顔で頷いた嫁さんでした。どうもこの頃は、模型よりもなぜか古社寺巡りに熱中しているモケジョさんでした。  (了)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その2  三保松原へ

2024年05月27日 | ゆるキャン△

 JR清水駅からバスに乗り、上図の終点のバス停「世界遺産三保松原」に着きました。バス停は三保松原の中央やや南寄りの内側に位置しています。バス停から三保松原の園路入口まではすぐでした。

 

 三保松原の園路入口です。左手が三保松原の稜線になります。高い土手になっており、防風林、防水林としての機能を併せ持っていることがうかがえます。

 

 園路入口の案内板です。初めて来たので、総延長7キロメートル、5万4000本の松林が生い茂る広い海浜のどこへどう行っていいか分かりませんでした。とりあえずガイダンス施設である「みほしるべ」に行って、三保松原の基本情報を学んで、そこに設置されているゆるキャンのキャラクターパネルを見に行こう、と決めました。

 

 これが三保松原ですか・・・。昔から名前だけは聞いていましたが、確かに松林ですな。大洗海岸の松原を思い出してしまいました。

 

 羽衣の碑、ですか・・・。三保松原は、北に鎮座する延喜式式内社、駿河国三ノ宮の御穂神社の鎮守の杜として崇められ、守られてきた所ですので、御神体も松であるそうで、特に「羽衣の松」と呼ばれているそうです。それに関係した記念碑かな、と思いました。

 

 ですが、近寄ってみたら、フランスのダンサー、エレーヌ・ジュグラリスの記念碑でした。彼女は舞踊家として日本の能楽をも研究し、三保松原に由来する「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣の舞」を発表した方です。それで来日して伝説の舞台となった三保松原を訪れたいと希望していましたが、病気のため叶うことなく35歳の若さで亡くなりました。

 「せめて髪と衣装だけは三保の松原に」との遺言にしたがい、夫のマルセルが彼女の衣装と遺髪を持って来日しました。その後、昭和二十七年(1952)に地域住民により、エレーヌの功績を称えてこの上図の「羽衣の碑(エレーヌの碑)」が建てられ、その碑の袂には彼女の遺髪が納められたといいます。

 

 「羽衣の碑」の近くに、ひときわ立派な枝ぶりをみせる幹の太い老松がありました。直感的に「御神体の松じゃないかな」と考えましたが、正解でした。

 

 駿河国三ノ宮の御穂神社の御神体と崇められる、「羽衣の松」の案内板です。ただし、上図のように三代目となっています。

 後で「みほしるべ」の展示説明文を読んで知ったところによれば、「羽衣の松」の初代は宝永四年(1707)の宝永富士山大噴火の際に海に沈んだと伝わります。二代目は樹齢650年のクロマツでしたが、立ち枯れが進んだために平成二十二年に近くにある別の松を三代目に認定して世代交代し、その翌年に約3メートルの幹を残して伐採されたということです。

 

 「羽衣の松」の東側、海に面した場所に上図の羽車神社がありました。御穂神社の離宮で、羽車磯田社とも呼ばれるそうです。御神体である「羽衣の松」の横に鎮座しますので、本来は「羽衣の松」の祭祀拠点であったのだろうと思われます。

 

 羽車神社の境内地は、御覧のように松原と海浜の境目に位置しています。境内地の東側に砂浜が広がっています。

 

 おお、海だ・・・。駿河湾だ・・・。

 

 こうして松原を海岸から見渡すと、防風林、防水林であることがよく分かります。海岸は常に横風が強く吹いていて、それが御穂神社や宅地や農地に及ばないように、高く土手を築いて松林を造成したのが始まりだろうと思います。三保松原に限らず、全国各地にこのような海岸の松原が普通にありますが、ここは特に規模が大きいことで知られているわけです。

 

 三保松原の海岸には広い砂浜がありました。これでも昔よりは小さくなっているのだそうで、既に1980年代から海岸浸食による消失の危機に見舞われているそうです。

 それで、静岡県が平成元年2月に海岸保全事業を策定し、海岸から100メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置したり、離岸堤式ヘッドランド(人工岬)やL字突堤型ヘッドランドを設置して波による浸食を抑え、砂を補給したりして養浜対策を講じているそうです。

 それを知って、京都府の天橋立と同じ問題に直面してるわけか、と思いました。天橋立も流水浸水による縮小、消滅の危機にあるため、砂浜部分に養浜を行うために砂州上に小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂を食い止めているそうです。  (続く)

 

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戦車道連盟 M29ウィーゼル 作ります !!  その2

2024年05月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2では足回りを組み立てます。私の製作では戦車および車輛の車輪類は塗装後に組み付けるのが常ですが、今回のウィーゼルは小型車で車輪も小さく、サスペンションが華奢なので、履帯も含めて塗装後に組み付けるのは難しいと判断し、全てガイドの指示通りに組み立ててゆくことにしました。ここではオプションパーツのTP2は不要になります。

 

 まず起動輪と誘導輪を組み立てます。

 

 組み上がりました。上図の中央の2個が起動輪、両側の2個が誘導輪です。

 

 続いて転輪の組み立てに進みました。

 

 非常に小さな車輪です。このサイズ感は、アンツィオ高校チームのCV-33以来だと思います。

 

 あまり見た事のないタイプのサスペンションなので、パーツも仮組みをきちんと行って、間違えないように慎重に組み付けてゆきました。

 

 この状態に仕上げてからサスペンションアームに組み付けますが、その作業が非常に難しいものでした。

 

 御覧のように、ステップ1で保留にしたアームのA20、A24と一緒に組み付けました。しかもA21のダボ穴が小さくてA20、A24の先端が入らず、ダボ穴の削り調整を余儀なくされました。

 そして上図の状態で転輪を組み付けたわけですが、接着面もパーツ強度も最低限なので、普通に置いただけでもアームが折れるんじゃないかと不安になりました。これで履帯も巻くのですから、その重量にアームのA20、A24が耐えられるのか、と不安になりました。

 

 それで、サスペンションの組み付けと接着は入念に行いました。接着剤は瞬間接着剤にしてガッチリと接着しておきました。

 

 転輪が全て組み上がりました。アームのA20、A24の両端の僅かな接着面だけで支えている状態ですので、転輪の並びを一定に揃えるだけでグラッときてアームが外れたりしました。マズイな、これでは塗装後に履帯を巻くのも難しいぞ、と考えました。

 

 それで、次のステップ3で取り付ける履帯を、指示通りにガッチリと組み付けてしまおう、と決めました。

 

 なぜならば、上図のように履帯を転輪に固定することで逆にサスペンション全体の強度が補強されるからです。転輪の並びを一定に揃える事も出来ますので、この仮組み結果を活かして、履帯も全部組み付けてゆこう、と判断しました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その38 閑蔵駅を過ぎて

2024年05月25日 | ゆるキャン△

 10時53分、閑蔵駅に停車しました。乗客が二人降りてゆきました。閑蔵駅も山奥の秘境の駅ですが、先の尾盛駅と異なるのは、駅前広場に市道閑蔵線が通じていて、千頭駅からの路線バス閑蔵線のバス停があり、付近に民家が約20軒あることです。

 その路線バス閑蔵線は、千頭駅で購入できる井川線のフリー周遊きっぷの範囲にも含まれており、一日に1往復しかありませんが、列車の本数が少ない井川線を補完する観光ルートとして利用する観光客や登山客が少なくないそうです。
 例えば、千頭駅から閑蔵線のバスに乗って「湖上入口」バス停で降りれば、そのまま歩いて3分ぐらいでレインボーブリッジ展望所へ行けますし、帰りは井川線の奥大井湖上駅から列車に乗る、という利用の仕方があります。

 

 閑蔵駅に停車中、何となく撮った客車スロニ202の車内です。乗客は私だけでしたので、独占貸し切り状態でこのような写真も撮れました。もと荷物室だった展望デッキ席から客席の方を見た図です。乗降扉が二ヶ所についているのが分かります。

 

 車内の車番。

 

 荷物室の乗降扉の内側にある非常用ブレーキのハンドル。

 

 客席内部。

 

 約1分の停車の後、発車しました。その際に撮った駅名標。

 

 閑蔵駅の井川側には上図のように線路に沿ってスペースがありました。今は予備のレールが置かれていますが、昔はここにも線路が敷かれていたか、駅の何らかの施設が建てられていたような雰囲気でした。

 

 次が終点の井川駅ですが、かなり距離があって約20分ほど走ります。これまでの駅へはだいたい6分から10分間隔で着きましたので、井川駅だけが離れているという印象でした。小さなカーブが連続しているため、スピードもやや落として走っていることも時間がかかる理由のひとつです。

 

 なので、この区間はゆっくりと窓の景色を眺め、紅葉と眼下の崖下の大井川を交互に見て楽しむことが出来ました。最も森林鉄道らしい区間だと思います。

 

 山奥のまた山奥、といった感じで、山並みが幾重にも連なって独特の景観をみせてきます。静岡県の奥地という意味で奥静エリアと呼ぶそうですが、故郷の奈良県でいうなら十津川村とか上北山村あたりに該当します。 

 

 眼下を流れる大井川の水面が、このあたりでは淡いグリーンに見えました。

 

 奥泉ダムが見えました。中部電力の関係者しか立ち入り出来ないダムで、道はあるけれどそれも関係者以外は立入禁止だそうです。それで、私たち一般の者がこのダムを見るには、このように井川線の車窓から見下ろすしかありません。秘境のダムといわれる所以です。

 

 奥泉ダムを過ぎてからすぐに見かけた簡易モノレール施設です。線路わきに広いスペースがある場所の端に設けられています。航空写真で見ると、下の奥泉ダムまで斜めに軌道が敷かれているようですので、これも奥泉ダム関係者のみが使用出来る、井川線からの臨時の連絡ルートであるようです。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その37 関の沢橋梁を渡る

2024年05月24日 | ゆるキャン△

 10時43分に尾盛駅を出て後、乗っている客車スロフ202の後ろの窓から、後ろに連結されているDD20形機関車の細部をしばらく眺めていました。接岨峡温泉駅で後ろの3輌を切り離したので、それからは後ろのDD20形機関車が最後尾となっていました。

 

 連結器や開放テコやジャンパ線、開放テコに後付けしたような予備ライトなどが見えました。アルナインのNゲージの金属キットでこのDD20形機関車を製作した際に、開放テコやジャンパ線や予備ライト等が無かったため、ジャンクパーツを用いてこれらの部品を自作して追加したことを思い出しました。

 

 上部のヘッドライトも、レンズのパーツが無かったので、ウェーブのアイズのクリアパーツを使って追加しましたが、こうして実物を見ていますと、レンズのガラス部分がかなり目立つので、やっぱりこれは追加工作して良かったな、と思いました。

 

 まもなく車内にアナウンスが流れ、これより関の沢橋梁を徐行して渡る旨が案内されました。窓から前方を見ると、その関の沢橋梁に列車が進んでゆくのが見えました。単純上路プレートガーダー鉄橋の上面が白っぽく浮き上がっていました。

 

 すぐに左側の席へ移動して窓から外を、恐る恐る下方を覗きました。上図のように、紅葉に彩られた関の沢の斜面上に鉄橋と列車の影が見えました。

 

 真下には関の沢川が見えました。川底からの高さは70.8メートル、日本一高い鉄道橋です。井川線の観光スポットの一つで、行楽シーズンには観光客へのサービスとして、一部の旅客列車が橋上で停車することもあるそうです。

 

 関の沢渓谷の雄大な景観です。地図で見ると、この関の沢川が境界線にあたっていて、千頭側が榛原郡川根本町、井川側が静岡市葵区になります。

 

 こんな深い渓谷によく鉄橋を架けたもんだなあ、と感心しつつ、高所恐怖症もしばらく忘れて、窓から下の鉄橋の構造物を見下ろしていました。

 この関の沢橋梁は、井川線の前身である中部電力専用鉄道の大井川ダムから堂平までの区間の建設にともなって架けられ、昭和29年(1954)4月に供用を開始しています。橋長は114メートル、支間(橋脚から橋脚までのスパン)は84メートルを測ります。

 

 関の沢渓谷の北西方向の奥に導水管のような構造物がチラリと見えました。地図で調べても施設名が見つかりませんでしたが、中部電力の関連施設なのでしょう。

 

 関の沢橋梁を渡った後は、左右の紅葉の色が一段と鮮やかになりました。

 

 しばらく、紅葉を愛でていました。

 

 10時53分、閑蔵駅に近づいて分岐点を通過しました。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺4 高山寺石水院

2024年05月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺石水院の続きです。嫁さんといったん西側の庇の拝所と内陣を覗いたのち、拝観順路に戻って上図の堂背面の廻り廊を進みました。

 嫁さんが「後ろにも戸口があるんですね、藤原時代の住宅は後口から入るのが普通でしたから、鎌倉時代のこのお堂も造りは住宅風ということで、伝統的に後口がついてるわけですよね」と言いました。そうやな、と返しておきました。

 石水院は、中世期の住宅風建物に一般的な方四間の規模であり、西側の一間は「蜜経蔵」とよばれる経蔵と春日・住吉両神を祀る内陣になっています。あとの三間分が住宅風になりますが、その中央の一間を上図のように二枚の戸口としています。
 もとはこの三間分も経蔵であって「顕経蔵」と呼ばれましたが、江戸期の寛永十四年(1637)に現在の状態に改造されています。しかし、経蔵本来の、経典を皆で読んで学習する場としての機能は変わらなかったようです。

 

 角を曲がって東面に進みました。御覧のように東面の四間のうち南からの三間が蔀戸となって開閉出来ます。上半分は跳ね上げ戸、下半分は取り外して手前に置いてありました。このように戸を外したり開けたりして、採光状況を自在に設定出来るようになっているのが、中世期の日本の堂宇建築の一般的な様相でした。

 石水院の建物は、明恵上人の頃に金堂の東に建てられた東経蔵を後に現在地に移築したもので、高山寺中興以来残る唯一の遺構です。現在の内部空間は東経蔵が建てられた当時のままではありませんが、平面規模や柱間などの基本構造は変わっていないようなので、経典の蔵と経典の読経の場としての機能もそのまま受け継がれているものと思われます。

 

 南側は軒下より傾斜面となり、裏参道のある崖面にあたり、石垣が幾重にも積まれています。高台の南端に位置しますので、南側の約180度の眺望は良く、御室川をはさんで南の周山の山並みも望まれます。

 

 南側の正面中央に懸かる額は、建永元年(1206)11月、明恵上人が34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられた際に下賜された勅額です。「日出先照高山之寺」と書かれています。

 「日出先照高山」は「華厳経」の中の句で「日、出でて、まず高き山を照らす」と読み、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味です。これが高山寺の寺名の由来であり、この勅額を下された建永元年がいまの高山寺の創建年とされています。

 

 石水院の内部です。御覧のように床の間が作られて書院風に仕立ててあります。建物自体は経蔵であって「顕経蔵」と呼ばれましたが、単なる蔵ではなくて住僧が出入りして経典を学ぶ空間をともなった建物であったようで、それを江戸期の寛永十四年(1637)に現在の状態に改造しています。

 石水院は、もとは中興開山の明恵上人の住房であったところで、度々の災害にて壊滅し、再建を繰り返しています。現在の建物はかつての東経蔵で、これを石水院の跡地に移して石水院の名を継がせていたのを、明治二十二年(1889)に現在地に移築して現在に至ります。
 現在地に移される前は、金堂と明恵上人御廟の間に位置していましたから、いま金堂の東に朱色の鎮守社が建っているあたりに在ったようです。

 

 内陣だった部屋から西を見ました。かつては春日・住吉両神の御影を内陣に祀り、上図の「落板敷」と呼ばれる半開放式の庇部分を拝所としていた様子がうかがえます。

 

 西村虚空さんが彫って奉納した善財童子像の後ろ姿が可愛らしいので、嫁さんがスマホで何枚も撮っていました。

 

 その善財童子像の正面観。西村虚空さんは尺八の名手として知られましたが、彫刻家としても非凡な才能の持ち主であったことが分かります。

 

 「落板敷」の部分は、東経蔵が創建された時には無かったようです。東経蔵に春日・住吉両神の御影を祀るようになったのは、建長五年(1253)撰の「高山寺縁起」によれば、文暦二年(1235)からでした。高山寺に入って明恵に師事し華厳教学を学んだ喜海上人の日記によると、春日・住吉両神の奉安は、猪隈関白こと藤原家実の発願によるもの、となっています。その際に拝所の「落板敷」の部分を追加したのでしょう。

 高山寺は華厳宗の寺院で、藤原一門の氏寺である興福寺とは密接な関係があり、同時に春日神とも繫がりがあって、春日大社の鎮座する大和国三笠山の奥之院として位置づけられていました。高山寺の春日神は生身の御影像として篤く崇められていたため、興福寺別当に補せられた者は、必ず高山寺石水院に参拝して神前に報告しなければならない決まりであったといいます。

 

 なので、上図の「落板敷」が拝所として整えられたのも、藤原家実の発願によるものであったことになります。その後は時々春日・住吉両神の開帳が行われ、興福寺の一乗院および大乗院がこれを取り仕切った経緯が諸史料にうかがえます。
 開帳の前後には建物のメンテナンスも行われ、度々の修理が施されていますが、それらの積み重ねが、この貴重な建築遺構を現在に伝えせしめたわけです。

 

 西面の拝所の外側へ回りました。嫁さんが「蟇股のデザインがなんか良いな、これ唐草紋ですかね」と小声で聞いてきましたが、

 

 厳密には唐草紋ではなく、和様にアレンジされた草花紋でしたが、あまり類例のないデザインでした。透かし彫りである点も、鎌倉期の建築意匠にしては珍しいほうだと思います。

 ですが、似たようなデザインの装飾文様をどこかで見かけた気がして、どこの何という建物のそれであったかを何とか思い出そうとしているうちに、「そろそろ行きましょ」と嫁さんに背中をつつかれ、先へ進みました。
 が、嫁さんが「ちょっと待って」と腕を引いたので、前に出しかけた足を停めて振り返りました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その1  掛川そして清水へ

2024年05月22日 | ゆるキャン△

 2024年2月10日、2024年度の最初のゆるキャン聖地巡礼に出かけました。聖地巡礼と言っても作中および劇中に登場した場所を巡るのは一部で、1月から開催されていた静岡県のコラボ企画「富士山世界文化遺産登録10周年「ゆるキャン△」スタンプラリー」のコース内のキャラクターパネル設置ポイント5か所を回る計画でした。

 スタンプラリーそのものは、富士山の周囲に長大なルートと範囲にて多くのポイントが設定されていましたが、既に富士山周辺の観光に何度か行っているため、それらは外して、ゆるキャンの5人のキャラクターが置かれている場所のみを公共交通機関利用にて回ることにしました。

 最初の予定では1月中に行く積りでしたが、悪天候が続いたために2月に後送りにし、2月に予定していた大井川鐡道と天竜浜名湖鉄道めぐりと合わせて三泊四日の行程を組みました。一日目の2月10日は、浜松および掛川にて拙ブログの読者さんと会う事になったので、午後から出発し、15時8分の新幹線ひかり512号で京都駅を出ました。

 上図は浜松へ移動中のひかり512号の席にて撮った、マイリュックのゆるキャン各務原なでしこリュックです。新発売当時に購入して以来ずっと仕舞ったままでしたが、使わずに押入れの奥に詰めたままでは勿体ないので、2024年度のゆるキャン聖地巡礼はこれでいくことにしました。
 これまで使っていたザックよりも容量が大きくて色々入るわりには軽く、小物入れも付いていて使いやすいので、かなり実用的だな、と感心しています。

 

 浜松には16時13分に着いて、改札口まで迎えにきてくれた拙ブログの読者さんと7年ぶりに会い、駅ビル内の「やよい軒」に移動して食事しながら一時間ほど話しました。

 相手はガルパンブーム初期からの大洗巡礼ファンで、2013年12月に初めて会ったのも大洗においてでした。それが最近はゆるキャンにもはまり出したとかで、浜松市在住の利を生かして聖地巡礼を始めたということでした。
 それで、話題はゆるキャン聖地巡礼についての情報交換が主となりました。私が翌日から向かうコースについても色々教えていただきました。

 その後、17時21分に浜松駅を発車して17時47分に掛川駅に着きました。そこでも別の読者さんと会い、駅の近くの商店街の飲み屋に入って、ゆるキャン聖地巡礼についての情報交換をしました。

 相手は2018年1月頃に拙ブログに7000字に及ぶ長文の質問を送ってきて以来の読者で、ゆるキャンのファンです。拙ブログに触発されて聖地巡礼を始めたそうで、初めて会ったのは2018年2月の「ゆるキャン」コラボカフェの「マチ★アソビCAFE大阪」においてでした。大阪の方ですが、転勤で2021年から磐田市に移り、それを機に静岡や山梨方面に積極的に出かけているそうです。
 最近は大井川鐡道エリアに行き始めたとかで、話題も大井川鐡道エリアの聖地への行き方などになりました。

 宿の東横イン「掛川駅新幹線南口」には20時前にチェックインしました。早めに寝て翌日からの聖地巡礼に備えました。上図は翌11日の朝のチェックアウト後に記念に撮った東横イン「掛川駅新幹線南口」の外観です。ゆるキャン聖地巡礼で何度もお世話になっている、馴染みの宿泊施設です。

 

 宿から徒歩3分のJR掛川駅です。

 

 今回は新幹線を利用してそのホームに上がりました。

 

 ホームの北側の窓からは掛川城天守閣が見えました。

 

 7時45分発のこだま700号に乗りました。

 

 7時58分、静岡駅で降りて東海道線に乗り換えました。

 

 東海道線の8時7分発の熱海行き普通列車に乗りました。

 

 すっかり見慣れた313系です。身延線でもこの系列の車輛にお世話になっています。ゆるキャン聖地巡礼に欠かせない鉄道車輛と言えましょう。

 

 たまたま先頭車輌に乗りましたので、前方が見える上図の位置に立って、ずっと前方の景色を眺めていました。

 

 12分後、目的地の清水駅に着きました。今回巡る5か所の1番目は、清水市にある世界遺産の三保松原でした。三保松原は今回が初めての訪問でした。

 

 三保松原へは、JR清水駅から路線バスが通じています。駅内の観光案内所で詳細を教えてもらい、駅東口の上図のバスターミナルの3番乗り場に行きました。三保山の手線、というのが三保松原行きの路線です。

 

 付近に立てられていた三保松原への観光案内板です。

 

 観光案内所で教わったところによりますと、三保松原行きのバスは平日と土日祝で路線が異なるので、バス停の場所も別になるそうです。上図のように土日祝のみ運行の「257世界遺産三保松原」行き、平日運行の「世界遺産三保松原」行きとがあり、前者のほうがバス停が三保松原に近いのです。

 この日は日曜日でしたので、乗るバスは「257世界遺産三保松原」行きとなりました。降りるバス停は三保松原へ徒歩1分の至近に位置しているそうです。

 

 バスの電光時刻表には、8時55分発とありました。時計を見ると8時32分でしたので、バスターミナルの南側にあるローソンへ行って、お茶や必要品などを買っておきました。

 

 まもなくやってきたバスの行き先表示です。御覧のように「世界遺産三保松原」バス停は終点でした。運賃は390円でした。

 

 乗ったバスは、上図の静岡鉄道の「しずてつジャストライン」の路線バスでした。終点の「世界遺産三保松原」バス停にて下車後に撮りました。  (続く)

 

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戦車道連盟 M29ウィーゼル 作ります !!  その1

2024年05月21日 | ガルパン模型制作記

 ガルパン最終章第4話の上映がスタートした後、ファンのモデラーさん達が作り始めた車輛で最も多かったのが、第3話で内部が初めて登場していたヨウコの搭乗車、Ⅲ号突撃砲G型であったと聞きました。
 適応キットとしてタミヤの有名なキットが知られていたこともあり、それが組み立て易い製品であることも影響してか、私の周囲でもサークル仲間やモケジョさん達の相当数が早々と作って楽しんでいました。

 私のほうは、Ⅲ号突撃砲G型をあまり知られていないグンゼの旧ドラゴン品で作る計画でしたが、多少の改造や修正を伴う作業になることが見込まれていたため、あまり製作意欲が湧かず、それよりも楽にストレート組みで作れる車輛のほうにチャレンジしてみたいと思いました。それで、最終章第4話の車輛の最初に、黒森峰女学園のⅡ号戦車F型を選び、アカデミーの製品にて組み立てました。

 それに続いて、作ってみたい気があったのが、上図のM29ウィーゼルでした。対継続高校戦の試合の序盤にて搭乗車のⅣ号戦車を撃破されたあんこうチームが、試合会場からの離脱移動中に乗っていた、戦車道連盟の移動用車輛です。

 劇中では上図のアングルでの移動シーンのみでしたが、初めて見る車輛だったので、あの雪上車みたいなのは何だろう、と気になってしまい、興味をかきたてられて色々調べました。そして米軍が第二次大戦中に開発した車輛であることを知り、だから劇中で操縦しているのがサンダース大付属高校チームの子なのか、と納得したりもしました。

 

 そして適応キットのほうも、上図のタコムの製品が最近に出たばかりであることを知りました。最終章第4話の公開に合わせての発売ではないのでしょうが、一般的に市場流通量が少ないと噂されるタコムのキットが、割合に模型店や量販店の店先でも見られたので、買って作るタイミングとしては良かったのでは、と思います。

 M29ウィーゼルの1/35スケール適応キットは、昔はモノグラムの製品があったようですが、既に販売終了して久しく、中古品も見かけませんので、現時点ではこのタコムのキットが唯一の選択肢となります。最終章第4話の車輌の公式設定計画にM29が加わった時点で、タコムのキットが知られていたかどうかは分かりませんが、キットを見た限りでは、両者の間には何らの関係性も無いようです。

 なぜならば、タコムのキットと劇中車は仕様があちこち異なるからです。なので、改造箇所は10ヶ所余りに及び、小さい故に足回りの製作も難しく、パーツが小さくて細かくて大変でした。それだけに、なかなか作り甲斐があった、と思います。以下、製作の流れを述べてゆきます。

 

 中身です。細かいパーツばかりですが、特に上図右上のランナーは足回り関連で最も細かく分割されています。

 

 取り扱い説明書は、タコムスタンダードの小冊子タイプで、平均して1ステップの工程を1ページに載せるスタイルですから、割合に見やすいです。B6ぐらいのサイズなので、机上にて場所を取らないのも良いです。

 

 組み立てガイド図はこんな感じで、同じ中国のメーカーであるドラゴン系列の詰め込み気味のゴチャゴチャ感とは対照的なシンプルさ、見やすさです。

 

 ステップ1では下部車体の足回りの基軸部分を組み立てます。A20およびA24は斜めに付けるようですが、取り付け角度がいまいち分からなかったので、ここでは保留にして次のステップ2で転輪とセットで組み付けることにしました。

 

 それで、ステップ1ではまず上図のパーツ群を組み合わせました。

 

 組み立てた状態です。

 

 続いて上図のパーツ群を組みつけますが、A20およびA24の斜めの取り付け角度がいまいち分からなかったので、ここでは保留にしました。

 

 それで、A14とA17だけを組み付けました。

 

 A20およびA24は次のステップ2まで保留しました。タコムのキットの特徴の一つが、時々パーツの付き方や取り付け位置が分からなくなる、という点です。ガイド図のシンプルさがこういうときは裏目に出てしまい、参考にならない場合が少なくありません。

 それで、仕方がないのでパーツの形状や合わせ状態からなんとなく察知する、というレベルになりますが、とりあえず仮組みを次のステップの分までやってみて、どのようにパーツが組み合わさるのかを事前にチェックしておくことにしています。そうすることで初めてパーツの付け方や位置が判別出来るケースが多いです。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その36 接岨峡温泉駅から尾盛駅へ

2024年05月20日 | ゆるキャン△

 奥大井湖上駅を出て5分ぐらいした時、列車がゆるやかに減速をはじめ、次の停車駅の案内アナウンスが車内に響き渡りました。

 

 それまでほぼ直線のコースを走っていたのが、大きく右にカープして次の駅、接岨峡温泉駅の構内に進んでいきました。

 

 接岨峡温泉駅のホームに入っていきました。御覧のようにホームの両側に線路が敷かれていて、上下の列車の行き違いが出来るようになっています。

 

 10時35分、接岨峡温泉駅に停車しました。駅名標が見えたので撮りました。

 

 ここで後ろの客車から最後尾のDD20形機関車までの3輌を分離しました。向こうの列車の車掌さんがテキパキと分離作業を行い、前後の確認を行い、こちらの井川行きの列車の車掌さんに手を挙げて合図していました。

 

 この接岨峡温泉駅で、殆どの乗客が降りたようで、私の乗っていた客車スロニ202には、ついに私だけになりました。つまりは終点の井川駅まで客車1輌を独占貸し切りとなったわけでした。

 

 接岨峡温泉駅を出た後は、しばらく深い森の中をくねくねと曲がりながら進みました。大井川は蛇行しているのでこの区間では遠くに離れていて、林間に見え隠れしていた川の水面が全然見えませんでした。

 接岨峡温泉駅からは一気に山奥の秘境に入っていく感があり、車やバイクで井川方面へ向かった場合でも、接岨峡温泉駅前を過ぎてからが細くてカーブが多くて落石もある険しい道になります。ゆるキャンアニメ3期でも「地獄のデスロード」と銘打っていた道です。

 

 途中で右手に立派な金属製の吊橋が見えました。まだ真新しい感じで、おそらくは平成の頃に架けられたものか、と推測しました。井川線の線路に沿って山道があるようです。林業の作業道なのか、中部電力の保守点検路なのかは分かりませんが、こんな山奥に道があるのか、と驚きました。なんだか気になってしまいました。

 後日、地元の根本地誌資料である「川根本町誌」を調べたところ、平成14年に完成した長島ダムの計画に伴う集落移転などの地域衰退を防ぐ目的で行政がまとめた付近の地図があり、ちょうど吊橋のあった辺りに印があって「接岨峡遊歩道」なる記載がありました。これは名前からして接岨峡温泉から、旧接岨峡温泉に至るエリアをめぐる観光用の散策路であったもののようです。

 平成14年といえば、約20年前になります。上図の吊橋もだいたいその頃に架けられたような感じで違和感はありませんでした。吊橋とともに、井川線に沿って「接岨峡遊歩道」が付けられたようですが、そうすると次の尾盛駅にもこの「接岨峡遊歩道」が連絡していたのかな、と思いました。
 もしそうならば、尾盛駅はいま道も通じていない秘境の駅と言われていますが、かつては「接岨峡遊歩道」で普通に行けたわけですから、昔は道が通じていたことになります。

 

 吊橋を見てから先は地形がだんだんと険しくなっていきました。線路の下は殆ど崖で、目もくらむような高さでした。はるか下に大井川の水面がチラチラと見えました。吊橋から続く山道が見えるかな、と思いましたが、ずっと崖が続いているので、こんなところに道があるわけはない、と考えたりしました。

 

 列車はまもなく大きく右にカーブして、木立の切れ目の明るい平坦地へと進んでいき、減速を始めました。

 

 ああ、あの廃屋みたいな木造の小屋は尾盛駅の作業小屋だったかな・・・。

 

 10時43分、尾盛駅に着きました。上図のように線路とホームとが離れています。ホームはかつての貨物用ホームで、駅のホームは列車の反対側にありました。貨物用のホームには、昔は貨物線の線路が敷かれていたそうで、井川線にて貨物の取り扱いがなくなった際に撤去したのだそうです。それで現状はホームと線路の間があいた状態になっています。

 

 約30秒ほど停車しましたが、乗降客はありませんでした。いまでは道が通じておらず、付近に民家も無いという秘境の駅です。が、鉄道ファンや秘境ファンの間では人気があるようで、年間約500人ほどの乗降客がいるそうです。

 聞くところによれば、尾盛駅の周辺には、かつては井川ダム建設関係者の多数の宿舎や民家や小学校もあったそうで、それらの廃屋や施設跡や敷地跡の石垣など現在も残っているそうです。廃墟マニアなどがそれらを見物しようと、井川線に乗って訪れるそうです。

 

 尾盛駅を発車しました。貨物用ホームの上には、いわくありげな信楽焼のタヌキが2体、駅名標、熊出没時の避難小屋を兼ねた保線員詰所がありました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その35 奥大井湖上駅

2024年05月19日 | ゆるキャン△

 長島ダム駅を10時19分に発車しました。次のひらんだ駅は乗降客がありませんでした。その次が奥大井湖上駅ですが、ゆるキャン3期にて各務原なでしこが長島ダム駅から奥大井湖上駅まで乗っています。
 なので、右手の長島ダム湖からの接岨峡などの景色は、各務原なでしこも楽しんでいたことでしょう。

 

 10時28分、奥大井湖上駅に着く旨の案内アナウンスがあり、周辺の景色を見せるかのように列車が減速して徐行し、奥大井湖上駅までの長い赤い鉄橋を渡り始めました。上図の鉄橋の奥の丘先端に奥大井湖上駅があります。

 

 この日は湖面に風が無くて水面は鏡のように静まっていて、左手の湖岸沿いには旧線の線路や鉄橋などが見えました。長島ダムの建設に伴って現在の線路が付けられる前は、あの旧線を列車が走っていたのです。雨季や増水期には完全に水没してしまうそうです。

 

 旧線の真上奥には、この奥大井湖上駅の景色を見られるスポットである展望所のガードレールも見えました。各務原なでしこがあの場所まで登って、レインボーブリッジの雄大な景色を眺めていたわけです。
 
 展望所へは、私も二度行きました。一度目は各務原なでしこと同じく井川線に乗って奥大井湖上駅で降りて、レインボーブリッジを渡って山道を登りました。二度目は千頭駅前のカーケア中原さんでゆるキャンビーノのレンタルを利用して、志摩リンと同じルートでビーノで走って接岨峡温泉駅まで行った途中で、展望所へのバス停横から旧道に入って30メートルで展望所に行きました。

 なので、志摩リンと土岐綾乃も、レインボーブリッジの景色を見ようと思えば見られた筈なのですが、作中でも劇中でもそれらしい場面はありませんでした。

 

 10時29分、奥大井湖上駅に着きました。乗客の大半がここで下車しました。聞くところによると、奥大井湖上駅の北東の丘を隔てた低地にある駐車場まで車で来て、井川線に乗って楽しむ人が多いそうです。

 

 乗客の八割ぐらいが下車していましたので、狭いホームはあっという間に混雑していました。レインボーブリッジ展望所や駅駐車場に向かう鉄橋歩道への道にも行列が出来ていました。

 

 奥大井湖上駅の南上には「晴耕雨読」さんの湖上駅カフェの建物があります。下車した乗客の一部はそちらへ登って行きました。

 「晴耕雨読」さんは寸又峡温泉にも施設があり、 各務原なでしこ達三人が立ち寄った足湯カフェもその一つです。

 

 ゆっくりとホーム上の行列が奥へと移動していきました。列車がガタッと小刻みに揺れてゆっくりと発車しました。

 

 ホームを出て、歩道の付いた鉄橋を徐行で渡っていきました。

 

 そしてトンネルへ。鉄橋歩道はトンネルの横の階段に繋がっています。あの階段の踊り場は、絶好の撮影ポイントであり、アニメ3期でも各務原なでしこがスマホで撮影する場面があります。

 

 ほぼ満席だった列車内が、一気に空きました。乗客は千頭駅発車時の二割にも満たなかったようでした。

 

 次の駅までは、谷間の盆地の裾をゆるやかにくりつつ走りましたので、右手には接岨峡渓谷が時折チラチラ見えて、奥の山々とともに、これまで木立に遮られがちだった青空も広がって見えました。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺3 高山寺石水院へ

2024年05月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺の金堂と茶園を見た後は、国宝の石水院に向かいました。もと来た参道の一番南側に位置しますので、境内地の南端にあたります。行きで登った急な階段、重なる石垣の列は、石水院の敷地の南側の崖面にあたります。

 

 石水院は、寺では五所堂とも呼ばれています。高山寺の中興開山である明恵上人の住房跡と伝えており、現存の建物は鎌倉期の遺構で、もとは東経蔵として金堂の東にあったものです。安貞二年(1228)の洪水で石水院が流されて無くなったため、その後に東経蔵が新たな石水院として整備され、春日明神・住吉明神を祀る場所としても機能していました。それを、明治二十二年(1889)に現在地に移築し、現在に至っています。

 上図は石水院の山門です。これをくぐって中に入りました。

 

 山門を入ると、正面に上図の中門があります。左脇に丁石(ちょうせき)が建てられており、かつての参詣道の終点にあたっていたことを伺わせます。

 丁石とは、寺社への参詣道に沿ってほぼ1丁(109メートル)ごとに立てられた道標のことで、石水院がかつて春日明神・住吉明神を祀る場所として知られ、中世から近世にかけて多くの信者や参拝客がやってきた歴史をしのばせます。

 現在は中門は閉鎖されています。かつては石水院の西面の内陣の春日明神・住吉明神の拝所への入口として機能していましたが、明治期の神仏分離によって春日明神・住吉明神が他へ移られていますので、西面の内陣は改造されて一つの部屋になっています。それに伴って中門も閉じられたわけです。

 

 石水院の案内説明板です。

 

 五所堂に隣接する客殿・庫裏部分の建物です。拝観受付があり、そこから中に入って五所堂に回ります。高山寺においては五所堂とこの客殿・庫裏を合わせて石水院と称しているようです。

 

 庫裏から廊下で五所堂へと向かいました。御覧のように五所堂は南に正面を向けていて、庫裏はその北側に隣接していますので、庫裏からは五所堂の背面の姿が見えます。

 もとは東経蔵として建てられたので、本来は経蔵としての姿であるはずですが、高山寺のそれは住宅風の外観を示します。背面も上図のような雅な杮(こけら)葺きの入母屋造で、寺院の小型の仏堂のような雰囲気があります。内部は住宅風に造られており、鎌倉期初期の寝殿造の特徴を残している点でも貴重な建築遺構として、国宝に指定されています。

 

 客殿からの通廊は五所堂の廻縁の北西隅に連絡していますので、右側には上図のように西側の庇と前庭、中門からかつての拝所へ通じる石畳道が見えます。

 

 通廊の突き当り、五所堂の北西隅の柱に掛けられた「国宝 石水院」の木札。大きめのサイズの分厚い板で作られ、なにか誇らしげに掛けられています。国宝の国の字が旧字体なので、戦前からの木札でしょうか。

 

 拝観順路とは逆方向でしたが、嫁さんが「ちょっと覗いてみます」と言って西側の「落板敷」と呼ばれる板間を見ましたので、つられて私も覗き込みましたが、以前と変わらぬかつての拝所の空間が保たれているだけでした。

 

 西面の様子です。中央の間口内がかつての内陣で、そこに明治期の神仏分離以前まで春日明神・住吉明神の神影が祀られていたのでした。それを拝むための拝所がこの広い「落板敷」です。

 神仏分離にて春日明神・住吉明神が他へ移された後は、その代わりのように、上図の小さな善財童子像が安置されていますが、内陣ではなく、拝所の「落板敷」のほうに置かれています。

 これは、明恵上人が華厳宗の僧であり、根本経典である華厳経にて求法の旅が語られる善財童子を敬愛したという伝承に基づいています。

 石水院の前身である、明恵上人の庵室には、壁に善財五十五善知識の絵が掛けられ、善財童子の木像が置かれていたと伝わります。それを再現すべく、普化宗の虚無僧で木彫をよくした西村虚空(にしむら こくう)さんが石水院に滞在した時期に製作したのが、いまの小さな善財童子像です。

 西村虚空さんは尺八の演奏家として有名な方で、私も平成の始めに京都の演奏会で直に拝聴したことがあります。中国の神境の老貴人を思わせる仙人のような独特の風貌にも驚かされましたが、その尺八の凛として清浄たる音色に感動させられた思い出があります。平成十四年まで健在であったと聞きましたので、京都の方で西村虚空さんを覚えておられる方は大勢いらっしゃることでしょう。

 

 その西村虚空さんがここに滞在していた時期、毎日の尺八修業の合間に眺めていたであろう境内地の景色は、いまも変わっていないのでしょう。

 2018年の台風被害による大量の倒木は、金堂付近のエリアと表参道に沿った区域にて顕著であったそうですが、ここ石水院の範囲では倒木がほとんど無かったと聞いているからです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その16  ラストは「おい、まじか」の地

2024年05月17日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原には、二時間あまり滞在しました。松本駅を16時前に出る特急の切符を購入してあったため、乗り遅れないように早めに下山することにして、第2駐車場に停めてあったレンタカーに戻りました。

 乗り込んで時計を見ると13時25分でした。帰りの特急しなの号の発車時刻が15時53分でしたから、あと2時間28分の持ち時間がありました。あと一ヶ所、聖地スポットが残っているので、登ってきた崖の湯ルートを戻っていきました。

 

 山麓に降りて上図の地点で道路わきのスペースに車を停めました。たぶんここだろう、と行きの際に見当をつけておいた場所です。

 

 目印は、この立て看板の支持柱と電信柱でした。看板が外されて支持柱だけになっていましたが、こういう施設はルート上の他の場所には無かったので、間違いなくここだ、と確信しました。

 

 劇中で志摩リンが温泉を求めて立ち寄った、高ボッチ鉱泉の看板の場所です。隣の電信柱は今もそのままの姿です。

 

 看板の横から奥に伸びる、今は閉鎖された長い進入路が、志摩リンが走っていった道だな、と分かりました。車は入れませんから、歩いて中へ進みました。

 

 このシーンですね。昔はもっと開けていた感じですが、このときは両側の枯れ枝やススキがもっと高く伸びて、なにか自然に還りつつあるような雰囲気でした。

 

 道の奥に広場があり、左へ曲がると上図の建物がありました。かつての高ボッチ温泉「ホテル鳴神」の建物で、廃業となって久しく、現在はガラクタや廃棄品などの置き場になっていました。

 この建物へ志摩リンが行って、閉じられた入口の張り紙を見て「おい、まじか」とボヤいたわけです。

 

 劇中のシーンです。実際には左奥にも付属の建物が並びますが、このシーンでは描かれていません。このシーンで既に建物や敷地に荒涼感が漂って見えますので、原作コミック連載の事前取材時には既に廃業後かなりの月日が経過していたもののようです。

 これで最後の聖地も見ましたので、あとは元来た道を逆にたどって松本市街へ向かいました。

 

 松本駅前のタイムズさんに帰り着いたのが14時37分でした。レンタカーを返却し、それから松本駅ビル内の蕎麦屋に入って遅い昼食を信州蕎麦のランチ定食で楽しみました。

 そのあとは土産物販売コーナーを幾つか回って、嫁さんに頼まれた三つの品、芽吹堂の「野沢菜しぐれ」、田中屋の「雷鳥の里」、手鞠屋の「てまりん」を確保し、さらにド定番の信州味噌、信州蕎麦も忘れずに購入しました。さらに個人的に良さそうだなと思った水城漬物の「野沢菜漬」と開運堂の「白鳥の湖」も買いましたので、支払い総額は2万円ぐらいになりました。

 

 土産物の買い物に一時間ぐらいかかったので、松本駅の改札口をくぐったのは15時49分でした。連絡通路から眺めた駅構内の沢山の線路の景色に、模型的にこういう感じのジオラマも面白そうだなと感じたりしました。

 

 4分後の15時53分に、上図の特急しなの18号名古屋行きに乗り、帰途につきました。名古屋で新幹線に乗り換えて、京都に帰り着いたのは18時51分でした。

 以上で、「ゆるキャン△の聖地をゆく38」の記述を完了し、2023年度の最後の聖地巡礼、諏訪、霧ヶ峰、高ボッチ高原の長野県方面巡礼編として括ります。
 次の巡礼レポートは、2024年度の最初の聖地巡礼となった。富士山ゆるキャンスタンプラリーのパネル設置ポイントを舞台として綴ります。  (了)

 

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