気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

二条城9 二の丸御殿 下

2025年02月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 「蘇鉄の間」と「黒書院」の連接部の戸袋を見た後、その真上の軒の重なりを見上げながら嫁さんが言いました。

「建物が繋がってるところの軒って、片方がもう片方の軒を切ってるみたいな感じになるんですね。軒同士を組み合わせて繋いだりしないんですねえ」
「まあ、そうやな。宮廷建築は割と屋根や軒とかを綺麗に繋ぐけど、武家の御殿建築は建物を主要なものから順に建てて、後で繋ぐという建て方をするケースが多かったらしいから、あのように軒は一方が切られる形になるな」
「蘇鉄の間のほうが後から追加されてるんですね」
「そうやな。黒書院は大広間に次ぐ格式を持つんで、将軍家と徳川譜代の大名や高位の公家などの対面所として使われたからな、建てた順番は黒書院のほうが先になるな」

 

「じゃあ、蘇鉄の間って、慶長の築城の時は単なる渡り廊下やったかもしれませんね?」
「その可能性はあるかもしれんな。寛永の大改修そのものが後水尾天皇の行幸を迎える為に行われてるからな、それ以前の慶長の建物は徳川家の私城レベルで造ってただろうから、もっと質素な実用本位の御殿だったかもしれん。蘇鉄の間なんてのも最初は無くて、ただの廊下やったから、寛永の改修でいまのような立派な廊下殿に建て直してると考えたほうが良いかも」
「うん、私もそう思いますー」

 

 それから「黒書院」を見ました。内部は五つの部屋に分かれ、東側の廊下空間も「牡丹の間」と呼ばれて障壁画で埋められます。その障壁画の一部は、慶長の築城時のものが残されている可能性が指摘されています。

「慶長の築城時の障壁画が残ってるということは、建物そのものも慶長の御殿の一部が残されている、ということなんですかね?」
「寛永の大改修でどれだけ直したかによるな。柱も壁も全部取り替えていたら、障壁画も全部撤去しないといけなかっただろうし、建物の一部だけを直したんであれば、もっと古式の部分が色々残っててもおかしくないんやけど・・・、でも文化財調査の報告書だとほぼ新築同然と述べてるし、ごく一部がかろうじて残された、ということやろうな」
「なんだか、もったいないですねえ、家康が築城した最初の御殿の景色も見てみたいですねえ」

 

 それから嫁さんは屋根の破風を見上げて、あー、とガッカリしたような声を上げました。

 

「どしたん?」
「うん、あの破風飾りとか瓦の家紋もみんな皇室の菊ですよ、德川家の御殿なのに三つ葉の葵紋が全然見えませんよ・・・」
「それは仕方ないやろ、大政奉還に明治維新で、二条城も召し上げで皇室の離宮になったんやから、ああいう装飾なんかは変えられてしまうもんやし・・・」
「でも現在は元離宮でしょ?皇室の所有じゃなくなって、京都府の所有になってるんでしょ?・・・なのに菊紋は付けたまんまで外さないんですよねー」
「なんやね、所有元が変わったから菊紋は外して京都府の府章つけろってか?六葉形のあれ・・・」
「えええ・・・、それは有り得ない・・・です・・ね・・・、あははは」

 

 二の丸御殿の北端に位置する「白書院」です。間取りは「黒書院」と共通ですが、規模は少し小さくなっており、内部の障壁画も水墨画がメインとなって落ち着いた空間意匠にまとめられています。徳川将軍の居間と寝室に使用された建物とされており、他の豪奢な建物とは趣が異なっています。

「要するに、いまの住宅で言う居間と寝室の組み合わせの基本形なんですよね」
「せやな」
「黒書院や大広間のほうは、現代風に言ったら応接間なんですよね」
「うん」
「で、式台が玄関、遠侍が待合室になるのかな」
「そうなるね」

 

 「白書院」から引き返して、もときた道を戻りました。戻りながら、嫁さんは並ぶ建物の屋根の破風や瓦などをずっと観察していましたが、「大広間」のそれを見上げた時に「あれー、破風の飾り物が外されてますねえ」と指さしました。

 

「ああ、ほんまやな。破風の飾り金具がほとんど外されてるな、菊紋も無くなってるな、なんでやろな」
「大広間の建物だからですかね?」
「分からんね」
「でも、なんかこう、このほうが德川家の御殿って雰囲気がしません?・・・あれ、・・・あっ!!」
「なんや、なに?」
「あれ、屋根のてっぺんのあれ見て、えーと、鬼瓦っていうんだっけ・・・」
「鬼瓦?」

 

「おお、德川の葵紋が付いたままやんか・・・」
「うん、德川の三つ葉葵、わー、初めて見たー、すごーい」
「確かにあれはすごい、元の鬼瓦がそのまま残されてるな、これは僕も初めて見たなあ・・・」
「あれですよ、あの紋がついててこそ二条城の御殿なわけですよね、德川の城のしるしですよ」
「ああ、そうやな」

 

 それからの嫁さんは大満足で上機嫌でした。「今日はもう時間が無いですから次に行きますよ、二条城はまた機会を見て行きましょう」と言いました。

「また行くの?」
「今日は内部を回りましたでしょ、外回りをまだ見てないですもんね・・・」
「え、外回り・・・、って、城の外濠の回りを一周するってこと?」
「ええ」
「なるほど、それは僕もやったことなかったねえ」
「あ、外回りは見て無かったんですか?」
「うん、北大手門と西門は昔に外から見たことあるけど、一周はしてなかったから、隅櫓とかは見てないんやな」
「じゃ、今度は外回り一周、決定ですよー」
「はいはい」

 

 ということで、二条城を後にして、次の目的地へと移動しました。その次の目的地こそが、嫁さんの本来の計画コースで、今回の二条城は思い付きで追加したのでした。だから、予定よりも早く、朝から出かけたわけでした。

 二条城には久し振りに行き、本丸御殿も初めて見ることが出来ましたが、数度目の訪問であったにもかかわらず、見ていなかった箇所、初めて見たような気がする場所などがあって、学びや気付きの多かった、楽しい半日となりました。
 嫁さんはお城の勉強も兼ねて色々楽しんでいましたが、私もそれ以上に面白味のある考察の積み重ねが出来て、思った以上に有意義な時間を過ごせたな、と思います。  (了)

 

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(車輌目次表紙)知波単学園 九七式中戦車チハ(久保田りん車)

2025年02月06日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ドラゴン (商品コードDR6875)

  制作期間   2022年5月17日~5月20日、7月11日~7月19日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 完成です!!

  総評・備考
 知波単学園チームの主力戦車である九七式中戦車チハは旧砲塔型と新砲塔型の2種類が知られるが、久保田りんの搭乗車は旧砲塔型である。公式キットおよび適応キットがファインモールドより出ており、いずれを使用してもストレート組みで劇中車を再現出来る。こだわっても追加工作は簡単で2、3ヶ所ほどで済むので、ガルパン戦車制作の入門キットの一つとして初心者クラスにもおすすめ出来る。ただし、塗装のほうは3色迷彩なので難度が高い。
 ファインモールドの他にはタミヤやドラゴンから適応キットが出ている。タミヤ製品は価格も安くて買いやすいが、車台の形式が異なるため、同じタミヤの新砲塔型のキット(商品番号35137)から車台を転用する必要がある。砲塔と車台の組み合わせは、細見静子車の製作記事で紹介したように簡単な作業で済むので、劇中車の再現工作もさほどに手間を要しない。ドラゴン製品はそのまま作って劇中車に仕上げられるが、どこでも買えるほど点数が市場に出回っていないためか、入手が難しいようである。
 今回の久保田りん搭乗車はそのドラゴンの製品で仕上げた。最近に発売された新製品であるため、パーツの精度がよくて組み立て易く、履帯も扱い易い部分連結式であり、その治具もセットされる。価格はそれなりだが、初心者でも気軽に楽しめるような配慮がなされており、おすすめの適応キットの一例である。

  公式および適応キット一覧(2025年1月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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ゆるキャン△の聖地を行く45 その1  伊香保温泉へ

2025年02月05日 | ゆるキャン△

 2024年10月15日の朝は快晴でした。ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルート聖地巡礼の四日目のコースは伊香保温泉でした。この日の宿も伊香保温泉なので、聖地スポットの再訪の他は温泉入浴と温泉街の散策と食べ歩きをゆっくりと楽しむ予定でした。

 それで、この日は8時過ぎまでゆっくりと寝て、前日の野反湖ハイキングの疲れも癒しておきました。朝食をとりに一階ラウンジへ降りた時には、既に朝食バイキング会場の混雑は解消していてテーブルについているのは数名だけでした。食後も部屋でゆっくりと休み、チェックアウトしたのは9時半過ぎでした。

 上図は出発時に撮った、宿の玄関口の標識です。

 

 数分でJR高崎駅に移動し、西口の南側にある上図の上野三碑(こうずけさんぴ)のレプリカ展示を見ました。

 上野三碑とは、古代の飛鳥時代から天平時代までに建てられた、漢文が刻まれた3基の石碑のことです。三碑とも高崎市内に伝存し、山ノ上碑(山上碑)、多胡碑、金井沢碑と呼ばれます。
 いずれも国の特別史跡に指定されており、私も平成八年(1996)の夏、大学時代の群馬県の友人Mに誘われて、碓氷郡松井田町の彼の実家へ遊びに行った折に上野三碑も案内してもらって実見しています。

 古代の石碑は国内でも18例しかなく、大変に貴重な文化財ですが、上野三碑はそのなかでも最古の石碑群として知られます。それらの実物大レプリカが高崎駅西口の駅そば店舗の横にあるよ、とMに教えられたので、立ち寄ったわけです。

 

 上野三碑のレプリカ展示を見た後、高崎駅西口のベデストリアンデッキにあがり、上図の写真を撮り、バス乗り場へ向かいました。

 

 バス乗り場は、毎度おなじみの西口2番乗り場です。ゆるキャンの群馬キャンプ編の聖地となった榛東村、榛名湖、そして伊香保温泉の全てに行くことが出来ます。

 

 9時54分、バス乗り場に着きました。まだバスは来ていませんでした。

 

 時刻表を確かめました。今回は10時5分発の水沢・伊香保温泉経由箕郷営業所行きに乗ります。その前の便は8時55分発で、それが伊香保温泉に立ち寄る最初の便であるようです。

 

 9時58分、バスが来ました。10時5分に出発、高崎市街から水沢観音門前街を経て伊香保温泉への約1時間半のバス旅を楽しみました。途中で有名な箕輪城跡の近くを通りましたが、お城まつりがあるようで、街中のあちこちに幟がはためいていました。それから水沢観音の門前街のうどん屋の並びを見ましたが、平日なのにどのお店も行列が居て、水沢うどんの人気の高さがうかがえました。バスの旅は、とにかく楽しいです。

 もともと私はバスの旅が好きで、太川陽介さん蛭子能収さんの「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」シリーズのファンでもあったので、各地への旅行でもなるべく鉄道やバスを利用していかに目的地にたどり着くか、のプランを楽しみながら懸命に考えたりします。
 京都へ凱旋移住して車を手放してからは、ゆるキャン聖地巡礼を含めた全ての旅行が公共交通機関利用メインになりましたから、とにかく鉄道やバスを利用し、それらが無い地域では太川陽介さんばりに徒歩での移動を頑張ります。健康にもいいし、普段の生活でも歩き回っていますから、足腰が丈夫になって、悩んでいた腰痛も解消し、30分ぐらいの徒歩移動なら普通にこなせるようになりました。

 

 11時31分、目的地の「伊香保案内所」バス停で下車しました。前夜にMに電話して「伊香保温泉街を散策する場合はどこのバス停で降りたらいいか」と聞いたところ、「源泉の露天風呂を勧めるんで、最寄りは「伊香保案内所」だな」と教えられたからでした。

 

 Mが言うには、バス停から南へずっと坂を上っていくと源泉の露天風呂があるが、その途中に伊香保温泉発祥の地とされる、渋川市指定史跡の「千明元屋敷跡」があるので是非見て行ってくれ、との事でした。どんな遺跡か、と訊ねたら「行けば分かる」とだけ返されました。

 それで、元の計画ではバス停「伊香保案内所」から北に下りて温泉街に入る形であったのを、逆の南に進んで長い登り坂の車道をたどることになりました。思ったよりも急で距離があり、地図で見直すと約600メートルはあるようでした。登り切った時には汗だくになっていました。

 

 車道の脇に上図の石積みと看板がありました。たぶんこれだな、と思って近づきました。

 

 間違いなく、Mが教えてくれた渋川市指定史跡の「千明元屋敷跡(ちぎらもとやしき)」でした。中世戦国期に現地の湯元を支配していた土豪の千明(ちぎら)氏の屋敷跡です。源泉のすぐ下に位置し、屋敷の周囲の川沿いにもとの温泉街があったそうです。これを天正三年(1575)に武田勝頼が真田昌幸に命じて北麓に移転させて新たな温泉街を整備したのが、現在の石段街の始まりとされています。

 この移転により、千明氏も石段街に移転しましたが、伊香保温泉の有力者としての立場は維持して、引湯権を所有して温泉旅館を営んできました。いまの「千明仁泉亭」がその後身で、伊香保温泉屈指の高級旅館として知られます。  (続く)

 

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二条城8 二の丸御殿 上

2025年02月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南門から再度唐門をくぐり、左の園路に進んで、二の丸御殿の外観を見てゆきました。嫁さんが「二の丸御殿を構成している六つの建物って、外見とかに違いはあるんですか?」と訊いてきたからでした。私自身もあまり考えたことが無かったので、じゃあ、見て行こうか、となりました。

 二の丸御殿は、周知のように徳川家康が慶長六年(1601)に造営しましたが、その当時の建築は殆ど伝わっていないとされています。現在の建築は、後水尾天皇の二条城行幸に備えて寛永元年(1624)から同三年(1626)までに行われた大改修を経たもので、改修といってもほとんど新築に近いものでありました。

 なので、現在の御殿は寛永の大改修時の状態を伝えており、内部の設えや障壁画についても寛永期の作であることが近年の研究で明らかになっています。

 

 二の丸御殿の南からの三つの建物を見ました。右より「遠侍」、「式台」、「大広間」です。江戸期の古絵図にはそれぞれ「御遠侍」、「御式台」、「御広間」と記されています。

 

 そのうちの「式台」の手前まで近づくことが出来ます。園路は「式台」の手前の柵までとなっており、上図の右前に柵が見えます。

 「式台」は、二つの部屋から成ります。南側の「式台の間」と北側の「老中の間」があり、ここで老中と大名が挨拶をかわし、将軍への取次ぎが行われました。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。

 ちなみに徳川将軍家以外の諸家諸藩の城の御殿は、復元図や古絵図資料などを見ますと、「式台」と「遠侍」が逆であったり、「遠侍」に該当する建物が別になっていたりします。
 諸藩の御殿の基本形式は徳川家のそれに倣ったとされていますが、その場合、いまの二条城二の丸御殿のレイアウトが基本タイプと見なされますので、それを参考にしてゆくと、諸藩の城の御殿の様子や特色がある程度わかってまいります。

 

 「式台」の横から「遠侍」を見ました。「遠侍」の右奥に玄関である「車寄」の檜皮屋根が見えました。

 「遠侍」は二の丸御殿の六棟の建物のなかで最も規模が大きく、内部も九つの空間に分けられます。二の丸御殿を訪れた人がまず通されて、対面を待つ場所です。 来客の身分や職制に応じた部屋割りがなされ、一の間から三の間、柳の間、若松の間、芙蓉の間、そして勅使の間があります。
 それぞれの部屋の襖や壁には金地の障壁画「竹林豹虎図」が描かれており、虎之間とも呼ばれました。

 

 こちらは「大広間」です。二の丸御殿の諸建築のなかで最も格式が高い建物です。徳川将軍家の表向きの対面に用いられた公式的かつ儀礼的空間であり、将軍が諸大名と対面する際に使用されました。内部は五つの部屋に分かれ、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間から成ります。

 

 「大広間」の外装は障子戸で統一されています。縁側が回りますが、基本的に縁側へ出るとか、縁側に上るとかのケースはあまり無かったそうで、障子戸を開け放って庭園を鑑賞する際にも廊下から眺めたといいます。
 その場合は縁側の下に護衛の侍が控えており、縁側があることによって彼らの姿が廊下から見えないようになっていたといいます。

 

 嫁さんが「式台」と「遠侍」の連接部の西側に付く上図の黒っぽい施設を指して「あれ何ですか?将軍家の隠密の部屋?」とのたまいました。ただの戸袋や、と答えると「トブクロ、ってなに?」と再び訊いてきました。

 君は戸袋を知らんのか、障子や雨戸を収納するための箱状の施設やけど、と教えると「ふーん、宮廷建築にはあんまり見かけない施設なので分からなかった・・・」と言いつつ、メモに書き込んでいました。

 そういえば、嫁さんの専門である平安期からの宮廷建築、皇族の宮殿や公家の邸宅建築には、こういう戸袋はあんまり無いな、障子や雨戸自体が武家建築の書院造のパーツだったなあ、と思い出しました。

 ですが、中世以降の宮廷建築や公家邸宅建築には逆に武家建築からの影響があったりしたようで、江戸期の建築になると書院造の基本パーツも武家と公家であまり違いがなくなってきます。

 

 二の丸御殿の西側に広がる庭園の苑池です。これも寛永の大改修によって造り替えられたもので、「八陣の庭」とも呼ばれます。典型的な池泉回遊式庭園の形式で、小堀遠州の代表作として挙げられています。

 

 「大広間」の北に繋がる「蘇鉄の間」の建物を見ました。「蘇鉄の間」は「大広間」と「黒書院」を繋ぐ廊下殿で、外の西側に広がる庭園に蘇鉄が植えられているのが見えるようになっています。

 ちなみに、蘇鉄とは、熱帯や亜熱帯地域に自生するソテツ科の植物を指します。「生きた化石」と呼ばれ、原始的なシダ植物の形態を残した起源の極めて古い植物です。

 日本では蘇鉄は、九州南部より以南の地域に一種だけが自生するとされ、関東より南の地域では、路地植えの庭園樹木として古くから親しまれてきた歴史があります。京都でも古社寺の歴史的な庭園や京町家の庭木として数多くみられ、有名な所ではここ二条城の蘇鉄のほか、京都御所や仙洞御所、桂離宮、西本願寺の大書院庭園などの蘇鉄が有名です。
 城郭では、各地の主要城郭の御殿の区画に植えられたものが現存している例が多く、大阪城や岡山城、掛川城、川越城などに見られます。

 

 なので、ここの「蘇鉄の間」も、庭園の蘇鉄を鑑賞するための空間であったと言えるでしょう。この建物だけが障子と板戸とを交互に並べているのも、歩きながら庭園鑑賞が出来るように障子を等間隔で開けるからです。

 

 「蘇鉄の間」の北には、上図の「黒書院」があります。その連接部にも戸袋が設けてありますが、嫁さんはわざわざ指差して「とぶくろ」と声に出し、「よし覚えましたよー」とのたまうのでした。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(名倉車) 完成です!!

2025年02月03日 | ガルパン模型制作記

 組み立て完了から一か月ほど保管し、前に製作した久保田車と共に、まとめての塗装を行ないました。そのほうが塗料の節約にもなりますし、知波単学園チーム車輌でしか使わない塗料ばかりなので、出来れば使い切ってしまいたい、とも考えたたからでした。

 私の製作において、知波単学園チーム車輌は塗装カラーを統一しますので、茶色カラーはミスターカラースプレーの43番ウッドブラウンで吹き付け、迷彩のうちの緑色は525番、土地色は522番にて筆塗りしました。
 今回の名倉車は、迷彩パターンが独特といいますか、厳密に言えば分断色の黄帯が車体後部で分離する唯一の車輌です。それで劇中車のキャプチャー画を幾つか作っておき、ガルパンアハトゥンクの公式設定資料図と並べて参考にしました。

 

 まず転輪を三色に塗り分けました。周知のように、知波単学園チームの車輌は1台1台がそれぞれの迷彩パターンをもつので、転輪についても順番が異なります。ガルパンアハトゥンクの公式設定資料図などを何度も見て、間違えないように確認を重ねました。

 

 迷彩も、出来る限り劇中車に合わせました。迷彩のうちの緑色と土地色は筆塗りでしたので、一筆ごとにきちんと公式設定資料図などを参照して、あまり図柄が違わないように心掛けました。分断色の黄帯が通る位置をイメージしつつ、それとの絡みも想定しながら塗り分けました。

 

 分断色の黄帯を4番の黄色で塗りました。いつものように塗料の粘度を上げてから塗りました。

 

 黄帯を塗った後に、転輪を順番に間違えないように取り付けました。

 

 砲塔をいったんセットして、迷彩や黄帯のズレがないか確かめました。迷彩のほうで少しズレている箇所がありましたのでタッチアップで修正しました。

 

 名倉車の車外装備品は全て右側面にセットされています。ジャッキは55番のカーキで塗り、パールと鶴嘴とシャベルの木製部分は44番のタン、金属部分は28番の黒鉄色で塗りました。それから順番に指定位置に組み付けました。

 

 前照灯のレンズ部を8番の銀で塗りました。その後に、前照灯の前の五芒星を9番の金で塗りました。

 

 履帯を組み付けました。久保田車と同じく名倉車もドラゴンのキットなので、履帯の組み付けが楽でした。モールドの繋ぎ目の彫りが深くてダボ穴も大きいため、繋ぎやすく、接着しやすかったです。連結式履帯が苦手な私でも楽に出来ましたので、ドラゴン製品はなかなかのものだな、と感心しました。

 

 左右の履帯を取り付け終わりました。日本戦車特有の履帯の質感表現というのも、このドラゴンの品が最もよく具現しているように思います。

 

 背面のワイヤー、ワイヤー固定具のパーツを取り付けました。排気管およびワイヤーは28番の黒鉄色で塗り、停止灯および三色信号灯の右灯は47番のクリアーレッドで塗りました。三色信号灯の中央灯は525番の緑、左灯は49番のクリアーオレンジです。
 ワイヤー固定具は、劇中車においても、左右とも車体の迷彩色に合わせておらず、43番ウッドブラウンのままでした。

 

 校章マークは砲塔左右側面の後部に付きます。モデルカステンの「MGデカール ガールズ&パンツァー デカールVol.8」より適当なサイズのものを選んで貼りました。

 

 最後につや消しクリアを薄く吹き付けて仕上げました。今回のキットは、砲塔のみがファインモールドのパーツによっているため、リベットやモールドなどの感じがドラゴン製の車体のそれと異なるのがよく分かります。

 例えば、ファインモールドの砲塔のリベットやモールドが全体的に控えめであるので、ドラゴンの車体のリベットのほうがメリハリがあってクッキリと見える感じになっています。隅部のエッジに関しても、ファインモールド製の砲塔のそれはやわらかく優しい線ですが、ドラゴンの車体の線は明確に綺麗な線のラインをみせています。

 以前に久保田車の製作記事にて、ドラゴンのキットが「九七式中戦車の適応キットとしては、現時点で最上の製品ではないかと思います」と述べましたが、その一番の理由がこのモールドやエッジの明快さであります。
 特に日本軍戦車のような、手工業生産っぽい武骨かつ質素なスタイルのゆえにリベットも目立つ、エッジも輪郭線もハッキリした傾向のある車輛に関しては、モールドも線もエッジもシャープなドラゴン製品の質がマッチしている気がします。

 

 後ろから見ました。名倉車特有の、後部で分離して分かれる黄帯が印象的です。他にも似たデザインの車輌が無いか、とひととおり劇場版と最終章2、3話のDVDを見返しましたが、上図のように後ろで分離する黄帯を示すのは名倉車だけでした。

 

 斜め前から見ますと、全体的には玉田車や浜田車と迷彩パターンがよく似ています。玉田をリーダーとする新砲塔タイプ車輌の3輌で一小隊を構成していることによるのでしょうか。

 最終章では、名倉車はさらに斥候、偵察任務をこなして相手チームの動向を的確に西隊長に報告しています。偵察任務も任されているのであれば、その搭乗車であることが分かるように黄帯を分離させているのかもしれません。

 

 以上で、知波単学園チームの名倉節子の搭乗車、九七式中戦車チハ(新砲塔)が最終章仕様にて完成しました。製作期間は、2022年5月27日から6月2日まででした。組み立ては6月2日に完了し、一か月ほど保管したのち、7月11日から7月19日まで久保田車とともに塗装しました。

 迷彩塗装は、一色ずつ塗って乾燥させ、更に1日寝かせた後に次の色を重ねる、という方法でゆっくり進めましたので、塗装だけで9日を要しました。塗装後の組み立てには1日を要しました。
 数あるガルパン車輌のなかで、知波単学園チームの戦車は最も迷彩が複雑で塗り分けも車輪や装備品にも及ぶので、組み立てよりも塗装が大変です。逆に言えば、知波単学園チームの車輌の迷彩がこなせれば、他の車輌の塗装が楽に思えてくるでしょう。

 使用キットはドラゴンですが、ホビコレの限定品ですので入手は難しいかもしれません。ただ、最近の新製品でありますので、作り易さや扱いやすさに重点が置かれてパーツも適切な数におさえられ、組み立て易いキットになっています。履帯も部分連結式で、たるみを付けるための治具も付いていて、組み合わせ部の凹凸がしっかりしていて繋ぎやすい造りになっています。モールドもエッジもラインもしっかりしていて輪郭線が明確です。そのためか、日本軍戦車特有の質感や雰囲気もよく再現されています。

 総じて、九七式中戦車の適応キットとしては、現時点でドラゴンの品が最上ではないかと個人的には思います。が、ドラゴンの適応キットはいずれも生産数および流通量が少ないためか、模型店ではなかなか見かけず入手も困難なほうに属するようです。見つけたら買っておく、というのも手でしょう。

 

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二条城7 桃山門、南門

2025年02月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南中仕切門から東に進んで、本丸外堀の南東隅まで来ました。嫁さんが左手の上図の景色を指して「これも絵になりますねえ、時代劇のロケで使ってるわけですね、水戸黄門の水戸城とか・・・」と言いました。

 

 本丸の東虎口の櫓門と東橋です。櫓門の内側に塀が続きます。寛永改修時は、後水尾天皇の行幸に際して橋を二階建ての廊下橋とし、そのまま櫓門の二階を通って通廊を経て本丸御殿に入れるようになっていましたから、現在の東櫓門の二階建ての姿は、その名残であることが理解出来ます。

 ちなみに廊下橋に続く溜蔵と橋の手前までの二階廊下は、昭和の初めまで残っていて、昭和五年(1930)に解体されましたが、その部材は現在も土蔵に保管されているそうです。今後の復元が計画されているのかどうかは知りませんが、元通りに建てると、現在の本丸東虎口への見学順路を遮断する形になります。それで色々と支障が生じるために、復元の話が持ち上がらないのかもしれません。

 

 外堀沿いに左折して北にある上図の立派な長屋門に行きました。本丸東虎口への動線を北の鳴子門とともに遮断する防御線としての城門で、桃山門といい、寛永改修時の建築遺構の一部をとどめるものとして国の重要文化財に指定されています。

 

 桃山門の案内説明板です。嫁さんが読み始めてすぐに私を振り返り、「寛永行幸時の絵図には、て書いてありますけど、そういう絵図があるんですか」と訊きました。

「あるよ。江戸幕府の京都大工頭を勤めた中井家に伝来してる古文書の古絵図のなかに二条城関連のものが幾つかあるんやけど、寛永行幸時の絵図、ってのは「二条御城中絵図」のことで、当時の城内の建物の配置や名称が詳しく記されてる。雑誌やお城の本に載ってる二条城の復元イラストは、だいたいこれを参考にしてるはず」
「その絵図、見ることが出来るんですか?」
「出来る。ちょっとスマホ貸してみ、君も見られるようにしておこうか・・・・・・・・はい、これ」
「あー、職場のデジタルアーカイブなんですねえ、ほんまに「二条御城中絵図」ってある、あっ、建物が三色に色分けされてる、あー、本丸の建物みんな描いてありますね、多聞櫓も天守閣もみえる・・、これ凄ーい、いまじゃ無くなってる建物が色々ある、面白いわあ・・・」
「で、ここ桃山門のあたりを見てみ?」
「ええーと、こっちか、これですかね・・・えっ、ええーっ、なに、建物がずらっと並んでるじゃないですか、ここにも御殿が建ち並んでいたんですか・・・」
「その左側の建物の名前、分かる?」
「あれ、逆さまになってますね、でも読めます、権大納言、です」
「そう。寛永行幸時の権大納言の居間なんやけど、当時の権大納言は誰だったか、君は分かるんやろ?」
「後水尾天皇の時でしょ、二条城に同行してるから武家伝奏(ぶけてんそう)も務めてる筈ね・・・、広橋兼勝(ひろはしかねかつ)は違うな・・・元和に亡くなってるから。すると次の三条西実条(さんじょうにしさねえだ )かなあ・・・」
「そういうふうにパッと人名を思い出せるのな、流石やな・・・。で、その権大納言の建物の南にある大きな建物の名前、見てみ?」
「ええと、えーと、これ?・・・えっ、行幸御殿?・・じゃあ、後水尾天皇の御殿がここに建てられてたの」
「そう。その絵図は寛永行幸時に建設された行幸御殿以下の建築群が全部描かれてる。これがずっと、こう、本丸まで長い建物で繋がって廊下橋で東門を通ってる。分かる?」
「うん、これ、この御長局って建物ですね。その左に中宮御殿があるのね、東福門院徳川和子の御殿ですね」
「その中宮御殿の上の部分が御長局と繋がるあたりに通路をはさむ二つの部屋がある建物があるやろ」
「うん、名前とか書いてないですけど、これが今の桃山門の位置になりますねえ」
「その部分だけ建物を残して、長屋門の形式に造り替えたのがこの桃山門なんだろうというわけや」
「なるほどー、だから北の鳴子門と全然違って立派な城門になってるわけですねえ、もとは行幸御殿や中宮御殿からの通廊下殿の建物だったのが、形を変えていまに伝わってるわけですか」

 

 桃山門は、「二条御城中絵図」では御殿に連接する通廊下殿の建物にあたるようで、その間取りをほぼ活かして通路空間であった部分をそのまま城門の戸口に改造したような構えになっています。
 そのため、上図のように門口は太い堅固な木を使って鉄板張りとしていますが、門口の上の軒は城門らしからぬ雅な宮廷建築の造りのままで、横の建物も御殿風の細い柱と広い白壁に包まれています。

 

 脇戸も追加され、その横の壁にも格子窓を追加して監視機能を持たせてあります。もとの御殿通廊下殿の建物をどのように改造したかがよく分かります。

 

 脇戸の内側です。城門の脇戸にしてはがっしりした造りになっていません。むしろ普通の扉板の造りです。

 

 そして門の内部の左右にはこのような広い空間があります。上図は東側の部屋で、城門には珍しく、天井板がはめ込んであります。御殿の建築群の内部空間のひとつがそのまま残されているような雰囲気です。

 

 こちらは西側の部屋です。屋根裏の木組みも全部見えますが、城郭建築の組み方ではありません。宮廷建築の組み方がそのまま残されているようです。

 

 桃山門から上図の東櫓門までは、現在は土塁に沿った道になっていますが、寛永行幸時は御長局と呼ばれた長い通廊殿が東櫓門の前の廊下橋まで続いていたわけです。この御長局の北の突き当りに溜櫓と呼ばれる建物があり、これが本丸への廊下橋の連接部にあたっていたわけです。

 その溜櫓は、前述したように昭和五年(1930)に二階廊下とともに解体され、その部材は現在も土蔵に保管されているそうですから、復元しようと思えば出来る筈です。当時の古写真でその姿を見ることが出来ますが、なかなか立派な建物です。出来れば元通りに復元してほしいなあ、と思います。

 

 桃山門から引き返して、二の丸の南側へ進みました。まもなく右手、南側に上図の門が見えてきました。嫁さんが「これ、高麗門っていうんですよね」と言いました。そうだ、と頷いておきました。

 

 南門の案内説明板です。御覧の通り、大正天皇の即位式の饗宴に際して新たに設けられた門である旨が記されています。つまりは徳川期二条城にはもともと無かった門であるわけです。

「この門は、饗宴が終わってもそのままにして、撤去しなかったんですねえ」
「ここは当時は皇室の離宮やったからね、南向きなので、離宮の正式な門にあたるしね」
「そういうことですよね」

 この南門とともに建てられた大饗宴場は、即位大典の儀式の後に解体撤去され、廃材が岡崎公園に建てられた京都公会堂の建物に転用されていますが、その京都公会堂も廃されて、現在は京都会館に建て替わっています。ロームシアター京都と呼ばれる建物のことです。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(久保田車) 完成です!!

2025年02月01日 | ガルパン模型制作記

 組み立て完了から一か月ほど保管し、次に製作した名倉車の組み立て完了を待って、2輌をまとめて塗装しました。私の製作において知波単学園チーム車輌は塗装カラーを統一しますので、茶色カラーはミスターカラースプレーの43番ウッドブラウンで吹き付け、迷彩のうちの緑色は525番、522番は土地色にて筆塗りしました。迷彩パターンは劇中車およびガルパンアハトゥンクの公式設定資料図を参考にしました。

 

 続いて主砲の砲身部分と基部を55番のカーキで塗りました。

 

 この3色迷彩の状態で一日置いて乾燥させました。

 

 分断色の黄帯を4番の黄色で塗りました。塗料の粘度を上げてから塗りましたので、一回で上図のように仕上がりました。久保田車の黄帯は僚車のよりもやや太いので、それに合わせました。

 

 車輪類を取り付けました。順番を間違えないように気をつけました。車体の迷彩と転輪の色分けは必ずしも繋がっていませんが、とにかく劇中車に合わせておきました。

 

 車外装備品のうち、左側面にセットされる鶴嘴とシャベルを取り付けました。木製部分は44番のタン、金属部分は28番の黒鉄色で塗りました。

 

 右側面にはジャッキとパールを取り付けました。ジャッキは55番のカーキで塗りました。パールは28番の黒鉄色で塗りました。

 

 28番の黒鉄色で塗装した履帯を装着しました。今回のドラゴンキットの履帯パーツは部分連結式で、曲げを付ける治具も付いていて組み易かったのですが、連結部のモールドとダボ穴がしっかりしているために塗装後の取り付けも驚くほどスムーズでした。

 

 背面のワイヤー、ワイヤー固定具のパーツを取り付けました。ワイヤーは28番の黒鉄色で塗り、三色信号灯の右灯は47番のクリアーレッドで塗りました。三色信号灯の中央灯は525番の緑、左灯は49番のクリアーオレンジです。停止灯はワイヤーに隠れてしまっていますが、47番のクリアーレッドで塗りました。

 

 車体に砲塔をセットして、迷彩模様の繋がりをチェックし、ずれたりしている箇所はタッチアップして修正しました。

 

 今回の久保田車は迷彩パターンが西絹代車に似ていますが、分断色の黄帯は曲がりくねっていなくてストレートに近いため、塗り易かったです。

 

 校章マークは砲塔の左右側面にあります。モデルカステンの「MGデカール ガールズ&パンツァー デカールVol.8」に知波単学園チームの校章マークが豊富にありますので、サイズを測って適当なのを選んで貼りました。

 

 最後につや消しクリアを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 なかなか良い雰囲気です。車体各所の有頭鋲がそれらしい感じで日本戦車らしさを醸し出しています。履帯のたるみ具合もリアルです。

 

 九七式中戦車の適応キットはタミヤ、ファインモールド、ドラゴンの3種類が知られるので、作り比べてみようと旧砲塔タイプと新砲塔タイプとを3輌ずつ、3社の製品で順に製作しましたが、今回のドラゴンの製品が全体的に日本軍戦車らしさをよく表現しているように思いました。

 個人的な感想を述べますと、タミヤはさすがに昔の製品なので細部に甘い所があり、ファインモールドは細部に拘るあまりに全体的にモールドが繊細に傾いて全体に華奢な感じがあります。今回のドラゴンの製品が細部表現、モールド、雰囲気において最も実車に近い雰囲気をまとっているように感じます。3社の製品の中では一番新しいキットであり、最新の考証なども盛り込まれているからでしょう。

 

 以上で、知波単学園チームの久保田りんの搭乗車、九七式中戦車チハ(旧砲塔)が最終章仕様にて完成しました。製作期間は、2022年5月17日から20日まででした。組み立ては5月20日に完了し、次に製作した名倉車の組み立て完了まで保管して、7月11日から7月19日まで名倉車とともに塗装しました。

 迷彩塗装は、一色ずつ塗って乾燥させ、更に1日寝かせた後に次の色を重ねる、という方法でゆっくり進めましたので、塗装だけで9日を要しました。塗装後の組み立てには1日を要しました。
 数あるガルパン車輌のなかで、知波単学園チームの戦車は最も迷彩が複雑で塗り分けも車輪や装備品にも及ぶので、組み立てよりも塗装が大変です。逆に言えば、知波単学園チームの車輌の迷彩がこなせれば、他の車輌の塗装が楽に思えてくるでしょう。

 使用キットはドラゴンですが、最近の新製品であり、作り易さや扱いやすさに重点が置かれてパーツも適切な数におさえられ、組み立て易いキットになっています。履帯も部分連結式で、たるみを付けるための治具も付いていて、組み合わせ部の凹凸がしっかりしていて繋ぎやすい造りになっています。

 総じて、九七式中戦車の適応キットとしては、現時点で最上の製品ではないかと思います。が、生産数および流通量が少ないためか、模型店ではなかなか見かけず入手も困難なほうに属するようで、それのみが残念な点です。

 

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