気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

京都鉄道博物館6 昭和の時代と連絡船ジオラマと鉄道記念物

2025年02月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の一角には、昭和の駅を再現したセットや関連の展示コーナーがあります。上図はダイハツのミゼットです。1957年(昭和32年)から1972年(昭和47年)まで生産されたといいますから、昭和41年生まれの私も子供の頃には見ている筈なのですが、あまり記憶がありません。
 むしろ、中古車とか廃車の残骸とかのほうをよく見た覚えがあります。当時の自動車で、子供の頃の記憶に一番残っているのは、車好きだった浜松の叔父が乗り回していたスバル360やカローラの初代です。

 

 昭和の駅を再現したセットです。何とかそれらしく再現しているようですが、私自身はゆるキャン聖地巡礼にて大井川鐡道や天竜浜名湖鉄道の昭和の古い駅舎群を見慣れているせいか、こちらのセットはただのニセモノにしか見えませんでした。

 このような白壁が小奇麗な和様の駅舎というのは、各地に現存する昭和の駅舎建築においてはあんまり見たことが無く、どちらかと言えば明治期、大正期の駅舎に多いようです。昭和においては、洋風か和洋折衷の建築が当時の流行りであったように思います。

 

 内部はお決まりの昭和グッズ類の展示でしたが、私の子供の頃よりは少し前の、昭和30年代のそれがメインであるように感じました。例えば右端のテレビですが、私の家にあったカラーテレビよりも古めかしく見えます。円卓もあんまり見かけませんでした。家も親戚の家でも、方形の座卓が普通だったからです。

 昭和レトロの資料館は各地にありますが、多くは昭和初期から末期までの展示品を網羅しているケースが多いです。ここの展示の基調は全体的に昭和30年代ぐらいに限定されているのでは、と思います。

 

 こちらは鉄道連絡船のコーナーで、最も大きな1/80スケールの模型展示です。国鉄の青函連絡船の八甲田丸です。もとは大阪の交通科学館にあったもので、津軽丸型の第2号船として浦賀重工業浦賀工場にて1964年に竣工した当時のマリンブルーとホワイトの塗装にて再現されています。

 嫁さんも目を輝かせて「これすごーい、船ってやっぱりいいですねええ」とケースに貼りついて何枚もスマホで撮り、続いて視線を低くして見上げるようにして眺めつつ、「船の模型って、ロマンがありますねえ」と言いました。

 こういう模型の実物を見たかったなあ、と言うので、この八甲田丸は確か今も現存していて、青函連絡船の歴史を伝える海上博物館として公開してるよ、と説明すると、「えええー、それ見たい、見に行きたいです」と両手をバタバタさせて足踏みしていましたが、「青森まで行くんかね」と言うと「えええ・・・、青森ですかあ・・・、遠過ぎます・・・」と小声になってゆくのでした。

 ですが、八甲田丸は私も見たいので、「いつか機会を見て行こうか」と話しました。嫁さんが「本当?」と笑顔をはじかせて、何度も大きく頷いたのは言うまでもありませんでした。

 

 こちらは宇高連絡船(うこうれんらくせん)の高松桟橋のジオラマ展示です。宇高連絡船は、かつて岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた日本国有鉄道および四国旅客鉄道(JR四国)の航路(鉄道連絡船)で、1988年に瀬戸大橋が開通して瀬戸大橋線が開業したのにともない、廃止されました。

 昭和61年、大学二回生の夏休みに友人たちと4人で四国の文化財探訪旅行に行った際、この宇高航路のホバークラフトに乗った事があります。確か「とびうお」号だったと思います。当時は瀬戸大橋も明石海峡大橋もまだありませんでしたから、四国へ行くには船で渡るしかありませんでした。

 大阪で集まって新幹線と宇野線を乗り継いで終点の宇野駅まで行き、そこから歩いて桟橋に行き、乗ってから30分もかからずに高松桟橋に着いたのでしたが、独特の重低音の振動と時速80キロに達する高速にヒビらされ、並航する鉄道連絡船を何隻か追い越していき、そのたびに友人達が写真を撮っては騒いでいたのを覚えています。

 その際に、このジオラマ模型の高松桟橋の実際の景色も見ている筈なのですが、写真を撮っていないので、覚えているのはオレンジ色の船体が鮮やかな連絡船伊予丸の姿だけでした。

 その伊予丸もジオラマ模型の中で精密に再現されています。上図右上の、桟橋第一岸に接岸中のオレンジ色の船体の一番大きな船です。

 

 ジオラマには、当時の宇高連絡船の幾つかが再現されています。右奥に桟橋第一岸に接岸中の伊予丸、その手前の第二岸に接岸中の第三宇高丸、その手前の第三岸に接岸中の眉山丸が並びます。ジオラマケースのどこにも説明板が見当たらなかったので、手前の小型の2隻については名前が分かりませんでした。

 嫁さんは「すごい完成度の高いジオラマですねえ、これ昔の高松駅の桟橋なんですか、いまは全然残ってないんですか・・・」と感心し、驚き、そして残念そうにじっくりと観察していました。

「ああいうふうに線路が通って、船が接岸すると線路が繋がって、船内に列車が入っていくんですねえ・・・、なんかすごいなあ・・・」
「瀬戸大橋が無かった頃は、貨物列車をこうやって船で運んだわけやな。旅客列車は本州と四国とで別々に走ってるから、乗り換えれば済むけれど、貨物列車は例えば四国から東京まで荷物を運んで行くから、こうやって連絡船に列車ごと載せて運んだわけ」
「じゃあ、橋が架かってなかったり、トンネルが無かったりした時代の九州とか北海道とかへも鉄道連絡船で結んでいたわけですね」
「そう。国鉄のは関森、青函、宇高の3航路やけど、私鉄や民間のは沢山あった」
「関森って、どこですか?」
「本州と九州を結ぶ航路。山口県の下関駅と、福岡県の小森駅・・・いや違った、小森江駅やったな・・・、関門トンネルが開通したんで廃止された」
「ふーん・・・、いまは鉄道連絡船はどこも無くなってしまってるんですか?」
「いや、あるで。近畿やったら、南海電鉄がやってる南海フェリーてのがある」
「南海フェリー・・・、初めて聞きました・・・」
「僕も乗った事無いけど、昔、仕事で何度か和歌山へ行った時に一度だけ和歌山港駅まで乗って行ったの、そん時に徳島港行きのフェリーが接岸してたの見たな」
「それって、徳島に行くんですか、車で明石海峡大橋渡って徳島へ行くのとではどっちが近いんですか?」
「そりゃあ、車で明石海峡大橋のほうやろうな・・・、フェリーで行く場合は難波から和歌山港まで特急サザンで行ったら一時間ちょっとやろ、フェリーが二時間ぐらいやから、大阪から徳島まで三時間で行ける。JRで行くと瀬戸大橋を渡るんで岡山へ迂回するから、三時間じゃ着けないと思う。車で行ったら明石海峡大橋渡って二時間ちょっと、これは実際に車で行ったことあるんで覚えてる」
「でもフェリーで行くの、なんか楽しそうですね」
「僕もそれを思ったの。四国へ旅行する機会があったら、南海フェリーで行ってみる?」
「うんうん、行く、行きたい、鉄道連絡船っての絶対乗って体験したいです・・・」

 

 それから嫁さんは、ハッと気付いたような表情になって、ジオラマの線路のあたりを指差して言いました。

「これって、よく見たらNゲージじゃないですか?」
「そのようやね」
「じゃあ、この船の模型も全部1/150スケールなんですねえ」
「そうやな」
「これ、売ってませんかね?」
「トミックスもカトーもこんなん出してないやろう、ここの展示用に特別に制作されたものやろうな」
「もし売ってたら、絶対欲しい、連絡船あったら、買いますよ?」
「君の山陰線ジオラマには海は無いやろ?」
「うん、海は無いですから、川に浮かべます」
「大堰川にか・・・?・・・冗談やろ・・・?」

 

 鉄道連絡船ジオラマ展示の近くには、上図の古い電気機関車が展示されています。EF52形1号車です。
 嫁さんが「これもトップナンバーですねえ、貴重ですねえ」と言いました。現存するのはたった2輌で、一般公開されて常時見られるのはこちらの1号車だけですから、貴重なのは間違いありません。

 

 EF52形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が、1928年から製造した直流用電気機関車の一種です。1931年までに9輌が製造され、戦前は東海道線で活躍、戦後は阪和線や中央東線などで運用されました。
 最後の車輌が廃車となったのは1975年で、以降は1号機と7号機の2輌が現存しています。7号機は、製造元の川崎重工業の兵庫工場に保管されて一般には原則非公開となっているため、こちらの1号機が唯一の見学可能車輌となっています。

 この1号機はもと大阪の交通科学博物館に静態保存されていたもので、1978年に準鉄道記念物に指定され、2004年に鉄道記念物に昇格しています。2014年の交通科学博物館の閉館後、2016年からここ京都鉄道博物館で保存展示されています。

 

 そのEF52形のインテリア表示模型もありました。模型が大好きな嫁さんは、これにも目を輝かせて「この模型すごーい、て言うか欲しい・・・、家に飾ってあったらずっと見てても飽きないですよ」と言いました。

 

 ですが、こうしたインテリア表示模型が造られたのも、実車が鉄道記念物に指定されているからです。そのため、保存上の観点により内部を公開するのが難しいですから、こうして模型にて内部が分かるようにしてあるわけです。

 それで、嫁さんが「鉄道記念物、って文化財と一緒の扱いなの?文化財保護法とかの対象?」と訊いてきました。文化財保護法とは関係無い、国鉄が1958年に制定した、日本の鉄道に関する歴史的文化的に重要な事物等を指定して保存、継承するための制度や、と説明しておきました。
 国鉄がJRに変わって以降は、2004年からJR西日本がこの制度を引き継いでおり、2010年にはJR北海道もこの制度を踏襲して新たな物件の指定を行なっています。

 

 さらに嫁さんは「鉄道記念物と重要文化財ではどっちが先で、どっちが上になるんですか?」と訊きました。重要文化財のほうが先で上だ、と返しておきました。

 重要文化財とは、日本に所在する建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、歴史上・芸術上の価値の高いもの、または学術的に価値の高いものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指します。そして、重要文化財のうち、世界文化の見地から特に価値の高いものを国宝に指定します。

 現在の文化財保護法では1950年からの指定分を指しますが、それ以前は1897年からの古社寺保存法および1929年からの国宝保存法による指定分があり、それらの呼称は「国宝」および「特別保護建造物」でした。これらも1950年からの文化財保護法により一括して「重要文化財」として再指定する形をとっています。

 なので、重要文化財の歴史は1897年から始まります。鉄道記念物のほうは1958年に制定されています。前者は日本国政府が指定しますが、後者は国鉄の指定となります。重要文化財のほうが先で上、であるわけです。

 

 続けて上図のもっと古い蒸気機関車を見ました。嫁さんが「40号機関車?」と言いましたが、違いました。

 

 説明板によれば、1800形1801号機であるそうです。1800形は、国鉄の前身である工部省鉄道局が輸入したタンク式蒸気機関車の一種です。東海道線の京都・大津間の開業にともない、同区間に介在する急勾配に対応するため、1881年にイギリスのキットソン社から8輌が輸入されました。そのうちの唯一の現存車輌です。

 高知鉄道、東洋レーヨン滋賀工場を経て1964年に国鉄へ寄贈され、大阪の交通科学博物館に静態保存されていたもので、1965年に準鉄道記念物に指定され、2004年には鉄道記念物に格上げされています。
 ナンバーの「40」は復元であり、1800形の2号車として1893年当時の鉄道作業局(後の鉄道院)の改番手続きにて40と付け番された経緯にちなんだものです。  (続く)

 

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継続高校 KV-1 作ります!! その6

2025年02月27日 | ガルパン模型制作記

 ステップ14では雑具箱を組み立てます。ガイド指示では2個ですが、劇中車は右に2個、左に1個の計3個を装備しますので、3箱作ります。さらに劇中車は右にクリーニングロッドの収納筒を装備していますので、その3Dプリントパーツを追加します。

 

 ステップ14で組み立てる雑具箱のパーツです。右端は3Dプリントパーツのクリーニングロッド収納筒です。

 

 組み上がりました。

 

 改めて劇中車のシーンを見てみましょう。御覧のように、右フェンダー上には雑具箱が2個とクリーニングロッドの収納筒が見えます。

 

 そして左フェンダー上には雑具箱が1個のみです。これらをふまえて、次のステップへ進みます。

 

 ステップ15では雑具箱の取り付け、前照灯や前部機銃の取り付けを行ないます。B25の鋸は劇中車にありませんので不要です。前照灯のB11およびF2は、劇中車仕様の3Dプリントパーツの起倒式前照灯に差し替えます。

 

  ステップ15で組み付けるパーツ類です。これらのうち、3Dプリントパーツのクリーニングロッド収納筒だけは取り付けを次のステップに回します。

 

 雑具箱を左右のフェンダー上に配置しました。

 

 前部機銃と起倒式前照灯を取り付けました。3Dプリントパーツの起倒式前照灯は、劇中車にあわせて前に倒して収納状態とし、電線をブラストラクトの0.3ミリ棒で追加しました。

 

 ターレット部のA14の組み付け状況です。その周囲に劇中車仕様の跳弾板が3Dプリントパーツで仮組みしてあります。次のステップ16にて、その跳弾板の下の左右側面に増加装甲の3Dプリントパーツを仕込みます。  (続く)

 

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継続高校 KV-1 作ります!! その5

2025年02月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ12では左右のフェンダー等を取り付けます。今回はフェンダーは3Dプリントパーツに差し替えますので、ここで取り付けるパーツはB27のみとなります。

 

 左右のフェンダーの3Dプリントパーツです。これを取り付けるだけで劇中車と同じフィンランド軍仕様を再現出来ます。最初はプラ板での改造を予定していた部分でしたが、3Dプリントパーツのセットを教えて貰ったお蔭で、作業量が軽減出来ました。

 最近はこういった3Dプリントパーツが出回ってきていますから、それに応じてプラモデルの製作のありかたも変わってゆくようです。海外ではプラモデル自体が3Dプリントパーツのみで構成されるキットも珍しくなくなっているようですが、日本ではまだそのような潮流に達しているような兆候がないと聞きます。

 

 取り付けました。この3Dプリントパーツのセットは今回のタミヤ製品向けに販売されていますので、他のメーカーのキットには使えないらしいです。

 

 接着剤はプラモデル用のが使えませんから、瞬間接着剤での組み付けとなりますが、パーツの合いも良くてズレや歪みなどは一切みられませんでした。3Dプリントパーツというのはなかなかの精度だなあ、と驚きました。

 

 ステップ13でも左右フェンダーの組み付けを続けますが、すでに3Dプリントパーツで仕上がりましたので、A21、B33、B34は不要となります。また警笛のB29も劇中車にはありませんので不要です。B28も有るような無いような、よく分からない状態ですが、ここでは取り付けておきます。

 またQ13は、劇中車のよりも下端が短いので、同じ太さのプラ棒で延長します。これらの作業と併せて、ガイド指示にはない側面の増加装甲の3Dプリントパーツも組み付けます。

 

 ステップ13で取り付けるB28とQ13です。

 

 Q13は下端が短いので、御覧のように同じ太さのプラ棒で延長しました。

 

 側面の増加装甲の3Dプリントパーツを準備しました。左右のパーツ形状が非対称になっており、取り付け位置も対称ではありません。パーツの裏面に取り付け位置の数字「R1、R2、L1、L2」がモールドされていますので、それを確かめながら組み付けます。

 

 これらの増加装甲は、劇中車でも確認出来ます。赤枠内に見えます。

 

 貼り付けました。

 

 反対側も取り付けました。取り付け位置がそれぞれにあって、それに応じてダボとダボ穴を合わせますから、もし間違ったらきちんと嵌らないので、すぐに分かります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く45 その8  伊香保軌道の車輌と線路跡

2025年02月25日 | ゆるキャン△

 10月16日、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルート聖地巡礼の5日目の朝は、たまっていた疲れを癒すべくゆっくり寝て8時に起床しました。この日は本来の計画には無かったのですが、友人のMの勧めで伊香保温泉に泊まることとなり、昨晩はM夫妻と久しぶりの語らいを楽しめましたので、滞在を一日延ばして正解でした。

 上図は8時過ぎにとった朝食で、夕食と同じくバイキング方式でした。この日はMに勧められた一ヶ所を見て、あとは高崎経由で帰るだけでしたので、のんびりと、いつもより多めに食べました。

 

 8時40分に宿をチェックアウトして外に出ました。Mの奥さんもこの日はお休みでしたので、とりあえずMに電話してお礼を述べておきました。
 その際に「昨日話した鉄道遺跡、見て行ってくれよな」と言われました。宿の前から県道33号線を東へ歩いて200メートル余りの伊香保信号交差点の辻にある、と教えられました。

 

 県道33号線を下って、その場所へまっすぐに向かいました。伊香保信号交差点の南東側に渋川市の伊香保行政センターがあり、その敷地内と思われる広場が「峠の公園」として公開され、その一角に上図の保存車輛がありました。

 

 横の案内説明板です。かつて高崎および前橋とここ伊香保とを結んでいた、東武鉄道伊香保軌道線の概要と、展示車輌について述べられています。

 伊香保軌道線(いかほきどうせん)は、かつて群馬県前橋市の前橋駅前、および高崎市の高崎駅前から渋川市を経てここ北群馬郡伊香保町(現渋川市)の伊香保までを結んでいた路面電車です。その路線は前橋駅と渋川駅を結ぶ前橋線、高崎駅と渋川新町を結ぶ高崎線、渋川駅と伊香保を結ぶ伊香保線の三つがありました。

 創設は明治期で、馬車鉄道として開業、その後に東京電燈に転じ、1927年に東武鉄道の路線となりました。戦中戦後を通じて現地の交通機関として運営されましたが縮小に向かい、伊香保線だけが最後まで残されました。伊香保線は伊香保温泉へのアクセスルートとして機能し、路面電車としてはスイッチバック式の待避線を多くもつ屈指の登山電車として知られましたが、1956年にバスに代替されて廃止されました。

 

 この展示車輌はデハ27といいます。かつて東武鉄道伊香保軌道線で走っていたもので、1953年時点で在籍していた34輌の電動客車のうちの1輌を、廃線後に渋川市内の医師が引き取って保存していたもので、唯一の現存車体です。

 

 一見すると完存の車体に見えますが、渋川市内の医師が引き取って保存していた時点では台車および機器類が無く、車体だけが残っていたものです。これを渋川市が譲り受けて現地に移設するにあたり、別途入手した豊橋鉄道モハ300形モハ301(元は名古屋市電の140号)の台車「ブリル21E」および横浜市電の機器類を転用して復元しています。

 

 公園内には、上図のように線路の一部が復元されています。2014年に、伊香保温泉再生事業の一環として温泉の入り口付近の軌道跡を公園として整備し、線路跡に再びレールを敷いたものです。レールも当時のものを再利用しているのかどうかは聞き忘れましたが、路面電車規格の軽レールのようなので、本物かもしれません。

 

 線路わきの駅名標は、当時のものを復元したものではなく、それらしく作ったものだそうです。伊香保が当時の伊香保線の終点の駅でしたが、その位置は現地から少し坂を上った地点、いまの「榛名登山口」バス停の辺りにあったといいます。

 当時の伊香保駅の次の駅は見晴下でしたが、その位置は現在の「見晴下」バス停の辺りでした。つまりは県道33号線が、かつての軌道跡に重なっているわけです。

 

 上図では分かりにくいかもしれませんが、復元された線路はかなりの勾配です。下を通る県道33号線もずっと下まで続く坂道になっているので、かつての軌道跡が平均勾配41.8パーミル、最急勾配が57.1パーミルに達していたというのがよく分かります。
 大井川鐡道井川線アプト式区間の90パーミルには及びませんが、京阪電車の京津線の最大勾配が61パーミルですから、それに近い傾斜面を路面電車が明治期から行き来していたわけです。大したものだなあ、と感心してしまいます。

 

 伊香保軌道跡の見学後は、さらに県道33号線を下って、かつての見晴下駅があった場所のバス停「見晴下」に移動しました。時計を見ると9時8分でした。

 

 次のバスは、関越交通バスの9時10分発、あと2分でした。これに乗って渋川駅へ移動することにしました。

 

 同じバス停には上図の群馬バスと水沢シャトルバスも停まります。が、群馬バスは時刻がちょっと後になるうえ、高崎駅までの直通便もこの時間帯にはありませんでした。

 水沢シャトルバスは群馬バスの一路線で、これに乗れば水沢観音の門前町へ行って水沢うどんを食べたりも出来ますが、1日に2便しか無いため、今回の聖地巡礼旅行においてはついに利用する機会に恵まれませんでした。  (続く)

 

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京都鉄道博物館5 模型と貨車とエンジン

2025年02月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館の本館一階の続きです。上図の103系のカットモデルを見ました。車体の三分の一ほどが展示され、横のホーム状のステップ段から中に入れるようになっています。これも大阪環状線を走っていた車輛のようですが、さきにプロムナードで見た1号車とは別の個体であるようです。

 ですが、館内の展示車輌配置図には載っていません。このようなカットモデルは車輛ではなくて展示ディスプレイの一種として扱われているのでしょう。

 

 こちらは蒸気機関車の内部を見られるように作った模型です。各部名称の札があちこちに貼ってあるので、蒸気機関車の各パーツのそれぞれの名前が分かります。説明板を見忘れましたが、嫁さんに聞いたところではC58形だったようです。

 

 蒸気機関の罐の内部構造がよく分かります。以前に嵐山のトロッコ嵯峨駅の19世紀ホールでD51形のカットモデルを見た事があり、その記憶とあわせるとより理解が深まりました。

 

 こちらはDF50形ディーゼル機関車の模型です。これも内部構造が分かるように示されたカットモデルです。トップナンバー車で、実物は愛媛県の四国鉄道文化館に保存展示されています。

 

 模型では、DF50形の特徴あるエンジンの様子がよく分かります。この1号車は試作機にあたり、エンジンは当時の新三菱重工がスイスのズルツァー社と技術提携して製造した、直列8気筒直噴式の三菱神戸ズルツァー8LDA25Aと呼ばれるものでした。

 

  この模型は、嫁さんも特に念入りに見学していました。あちこちをスマホで撮りつつ、ケースに貼りついたまま、上から下から、左右からも見ていました。このDF50形も、山陰本線で活躍した機関車であるからです。当然ながらNゲージでもトミックスの製品を買っていました。

 DF50形は、日本国有鉄道のディーゼル機関車の一種で、非電化亜幹線の無煙化を目的として開発、1957年に先行試作車が製造され、以後1963年まで増備されて計138輌が製造されました。
 主に亀山機関区、米子機関区、高松運転所、高知機関区、宮崎機関区に集中配置され、山陰本線、紀勢本線、予讃線、土讃線、日豊本線などで使用されました。山陰本線および福知山線全線においては、1978年にDD51形へ置き換えられるまで運用されました。最後の車輌が廃車となったのが1985年のことでした。

 なので、山陰線の昭和期の写真集などを開くと、福知山駅や亀山駅などにおいてDF50形の貨物列車や駅構内移動などの様子が色々と見られます。馬堀駅や並河駅を通過してゆくDF50形の貨物列車の姿もあったりで、嫁さんにとっては「昭和の山陰線のディーゼル機関車」のイメージがピッタリくるそうです。

 

 こちらは国鉄489系です。ベースとなった151系や485系とともに、昭和の特急電車の代表格として親しまれた車輛です。私自身も、子供の頃の記憶にある在来線特急のイメージが、この151系や485系の「こだま形」でありました。

 489系は485系をベースにして、信越本線の横川・軽井沢間の急勾配区間の通過対策が施された車輌で、1971年に製造されました。特急「白山」として運用、碓氷峠越え区間ではEF63との協調運転を行なっていました。

 その当時の映像を、ゆるキャン聖地巡礼で訪れた碓氷峠鉄道文化むらにて見ましたが、この「こだま形」が電気機関車に牽引されて走っている姿は珍しくてインパクトがありました。

 

 こちらは国鉄ワム3500形貨車です。戦前の1917年から1926年にかけて、鉄道院および鉄道省が日本車輌製造、汽車製造などに発注してで11873両を製造した15トン積み二軸車有蓋車のワム32000形を、1928年の車両称号規程改正によって改称したものです。
 そのうちの約2500両は、1937年から1940年にかけての日中戦争において、陸軍の要請によって標準軌に改造のうえ中国大陸に送られています。戦後は貨物列車の主力貨車の一種として1970年まで活躍、最後の車輌が書類上は1983年まで在籍したといいます。
 そしてここの展示車は、現存する唯一の車輌であり、その貴重さゆえに京都鉄道博物館に収容されたわけです。

 

 国鉄ワム3500形貨車の隣には、上図の国鉄ヨ5000形貨車があります。日本国有鉄道が1959年から1968年頃までに製造、または改造して運用した事業用貨車(車掌車)の一種です。長らく国鉄の主力車掌車として、北海道を除く全国で使用されましたが、1986年に貨物列車の車掌乗務が原則廃止されたため、JRに継承された一部の車両を除く全車が廃車されました。

 展示車の8号車は、日本初のコンテナ専用特急貨物列車「たから」号の専用となっていた時期の姿に復元されています。車体カラーも、当時連結されたコンテナ車チキ5000形とコンテナに合わせて、車体が淡緑3号、台枠部が赤3号とされた状態になっています。

 

 こちらは国鉄のディーゼル車輛に搭載されていた、DMH17形ディーゼルエンジンの模型です。各所がカットされて内部が見えるカットモデルとなっていて、定期的にデモ作動を行ない、実際のエンジンの動きを示しています。

 嫁さんが「これ、マイバッハ?」と訊くので「いや違う、これは国産や。幾つかのメーカーが造ってる。新潟鐵工とか池貝製作所とか新三菱重工とかダイハツ工業・・・」と説明しました。

「なんでひとつの形式のエンジンを、幾つかのメーカーに造らせたんですかね?ひとつのメーカーで独占したら駄目やったんですか?」
「駄目とかじゃなくてな、昔は国鉄やったから国策として鉄道車輌を造らせたんで、産業育成、産業促進の観点から複数のメーカーに発注して競わせて造らせるシステムやったの。鉄道だけじゃなくて、戦前の戦闘機、戦車、軍艦も同じで、ひとつの型を複数のメーカーが造ってる。例えば零戦、三菱と中島で造ってるし、駆逐艦やったら国営の海軍工廠のほかに民間の造船所、例えば藤永田とか日本鋼管鶴見、三菱重工とかね・・・」
「ふーん」

 

 DMH17形エンジンは、日本国有鉄道の気動車およびディーゼル機関車に搭載されていた直列8気筒、副室式ディーゼルエンジンの一種です。DMはディーゼルエンジン、Hは8気筒、17は排気量が17リッター、を意味します。改良が重ねられて、最終的には12種のバリエーションが造られています。

 

 説明板です。1953年から、とありますが、正しくは1951年からの製造になります。5年間にわたって、とありますが、実際には1960年まで量産が続けられましたから、9年間にわたって、というのが正しいと思います。そして1960年代末まで、これを搭載した国鉄の気動車が大量に製造され、日本全国で使用されました。

 また、国鉄だけでなく私鉄が導入した気動車にも広く採用されており、その最後の事例は1977年製造の小湊鉄道キハ200形気動車の最終増備車2輌であったそうです。

 

「緑に赤に黄色・・・、実際にこんなふうにあちこち色分けしてるのですかね?」
「いや、これは展示用の見本なんで、各部分を分かり易いように塗り分けてあるだけじゃないかな」
「あー、なるほどー」

 

 色々な展示があって、嫁さんはあちこち指差しては次々に興味を示して見学していきましたが、私自身は「よくこんなに色々集めたなあ」という驚きのほうが大きかったです。

 

 特に、上図の新幹線100系が展示されているのにはびっくりしました。0系はあちこちで見かけるのですが、100系の保存展示車は初めて見たからです。なにしろ、いま現存している100系車輌はたった3輌だけで、ここ以外は名古屋のリニア鉄道館と片町線徳庵駅の近畿車輌敷地に保存されています。

 100系は、日本国有鉄道が開発した東海道・山陽新幹線の第2世代新幹線電車です。デビューは1985年で、1992年までに16両編成66本の計1056両が製造されました。
 私も大学生の頃に初めて乗りましたが、0系よりもフロントマスクが長いのに最初は違和感を感じたことを覚えています。サメみたいな感じなので、ダグラスとかミグとかの戦闘機みたいだな、と思いましたが、実際に「シャークノーズ」と呼ばれるデザインであったことを後で知りました。

 上図の展示車輌は100系の122形で、普通席を備える制御電動車です。JR西日本所属のV編成16号車として125形とペアを組んで使用されたものです。廃車後は博多総合車両所で保管され、2016年からここに収容されています。  (続く)

 

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京都鉄道博物館4 EF66形とDD51形

2025年02月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館本館一階の展示の続きです。台車の次に嫁さんが「あれ!あれ見ましょう、て言うか近くでみたいです!」と指さした先に、上図の青い車体の機関車が見えました。

 

 これまた懐かしい・・・、昭和の貨物列車牽引の花形であったEF66形電気機関車ですな・・・。子供の頃に鉄道の図鑑とか読むと、貨物列車の先頭の機関車がたいていこのEF66形でしたね・・・。デザイン的にもカッコ良いですし、ブルートレインの牽引機としても活躍していましたから、中学や高校の頃に東海道線とかの電車に乗ったりすると、窓から普通によく見かけました。

 

 EF66形電気機関車は、日本国有鉄道が1968年から1974年まで、そして日本貨物鉄道(JR貨物)が1989年から1991年まで製造した直流電気機関車の一種です。名神・東名高速道路の整備によるトラック輸送の拡大化に対抗すべく、魚介類などの生鮮品輸送を中心とした貨物列車の高速化が計画され、東海道・山陽本線における最高速度100キロ以上での高速貨物列車専用機として開発、89輌が製造されました。

 このEF66形の実際の最高速度は110キロをマークしましたので、それが規定値となって、現在も日本の電気機関車の最高速度として定められています。
 現時点の直流電気機関車の最新型にあたるEH200形が、現在使用されている電気機関車の中で最大級のパワーを誇りながらも最高運転速度は95キロにとどまっているのを考えると、昭和43年の時点で110キロ運転を実現したEF66形の凄さと先進性がよく理解出来ます。

 

 ここの展示車は、1973年から1974年までに川崎重工業で製造された2次車の35輌のうちの唯一の現存車にあたる35号機です。いま車体が完存している保存展示車は、35号機のほかには埼玉県の鉄道博物館の1次車の11号機しかありませんから、貴重な車輌であることは間違いありません。

 嫁さんが首をかしげつつ「そういえば、この前、嵐山からのトロッコ列車に乗りましたでしょ、あのときトロッコ嵯峨駅の模型ジオラマ見たじゃないですか、あれの館内に機関車のカットモデルが2つ並んでましたでしょ、あれもEF66形じゃなかったですか?」と言いました。
 流石に記憶力抜群なモケジョさんです。確かにトロッコ嵯峨駅の模型ジオラマ館内にはEF66形の45号機と49号機のそれぞれの先頭運転台部分のカットモデルがあります。

 同じ49号機のカットモデルが、確か木津のパン屋さんにもあると聞いたことあるな、と話したら「えええ?パン屋さんに?なんでパン屋さんにEF66形のカットモデルがあるんです?」と訊かれました。私も現地のパン屋さんは前を通った事があるだけで中は知らない、と返したら「じゃあ機会を見て木津へ行きましょ」と言われました。
 いまは嫁さんも鉄道模型Nゲージに熱中してて鉄道にも関心を持っていますから、いずれ行くことになるだろうな、と思いました。
 そのパン屋さん、JR木津駅近くの国道24号線沿いの「パン オ セーグル」の公式サイトはこちら

 

 ここの35号機は下に見学用通路を設けてあり、整備工場の点検整備作業時と同じ視点にて機関車の底部を見られるようになっています。上図は台車のDT133の駆動部です。

 嫁さんが「すごーい、中に色々メカがぎっしり詰まってそう、110キロの高速をこれでたたき出してたんですよねー」と興奮気味に見上げ、スマホであちこち撮っていました。もう完全にテツですな・・・。

 

 EF66形35号機の隣には、上図の赤いディーゼル機関車があります。これも嫁さんが指差して「あれ!あれも見たい、トミックスのあれ、近くでみたいです!とテンション上がりまくりでした。

 

 日本のディーゼル機関車の代名詞格として有名なDD51形です。近畿地方では山陰本線や播但線、草津線などで活躍、山陰本線では寝台特急「出雲」なども牽引した機関車です。

 つまりはDD54形とならぶ山陰線のディーゼル機関車の主力機であったわけで、嫁さんがNゲージにハマり出して「山陰線ジオラマ計画」なるジオラマ製作にとりかかった時に、マイクロエースのDD54形に続けてトミックスのDD51形を購入していましたが、そのナンバーはズバリの756号機、つまりはこの実物のNゲージ化製品です。
 それで見学時にも何度か「トミックスのー」と嬉しそうに連呼していました。

 

 DD51形は、日本国有鉄道が1962年から1978年にかけて製造した液体式ディーゼル機関車の一種です。649輌が製造され、全国各地の主要路線や近郊線区に投入されて活躍、現在もJR西日本に数輌が健在で、大半は兵庫県の網干総合車両所の所属となっています。

 ここの756号機は、主に九州地区や甲信越地区の路線で活躍、最終所属は門司機関区、2014年に廃車となって吹田機関区で保管され、2015年に梅小路蒸気機関車館に展示、2016年から京都鉄道博物館に収容されています。嫁さんが展示説明板の履歴を食い入るように読んでいましたが、山陰線のさの字も無かったので、ちょっとガッカリしていました。

 嫁さんは丹波園部の出身で、小学生の頃からは亀岡市に住み、最寄りの駅が山陰線の並河駅でした。その並河駅の旧駅舎跡地に鉄道歴史公園があり、そこにDD51形の1040号機が静態保存されています。その1040号機が、嫁さんが子供の頃から知っている機関車なので、山陰線といえばDD51形、という基本認識があるわけです。

 その1040号機は、山陰線で活躍し、1994年に廃車となった時も米子運転所所属のままでしたから、京都までの山陰線を往復し続けていたことになります。並河駅にて保存されることになったのも、その縁からであったのでしょう。

 

 この機関車も、さきのEF66形と同じように下に見学用通路を設けてあり、整備工場の点検整備作業時と同じ視点にて機関車の底部を見られるようになっています。

 

 DD51形の台車を下から見上げました。台車は3組あって、両側が動力台車のDT113B、中間が無動力台車 のTR106であるそうです。 

 

 嫁さんが「こういう台車の仕組みってよく分かりませんけど、でも、見てるだけで凄いメカだなー、って感じさせられますよね」と言いました。

 確かに世界中の鉄道車輌のなかで、技術史的にも抜きん出ているのが日本製だと聞きます。現在でも各国の鉄道車輌の台車のみは、大半が日本に発注されていると聞きます。他国には造れないレベルの、凄いメカであるのは間違いないでしょう。

 

 近くには上図のインテリア表示模型もありました。模型が趣味のモケジョである嫁さんにはたまらない展示品です。案の定、ケースにスーッと吸い寄せられていき、コバンザメみたいにピタッと貼りついたまま、5分ぐらい動きませんでした。

 

「ねえ、このエンジンもドイツのマイバッハの系列ですかね?」
「違うやろ、これは日本製やろう、マイバッハ系列は、あれはDD54形のみの特殊な仕様のエンジンやね」

 横の説明板によれば、エンジンはDML61Z形とあります。日本のディーゼル機関車に搭載されたエンジンは、型番がディーゼルのDから付けられてDMの大分類コードから始まります。次のLはアルファベットの12番目なので12気筒を意味し、61の数字は排気量を現します。61リッターということです。最後のZは、インタークーラーおよび加給機付きであることを示します。
 つまり、12気筒61リッターのインタークーラーおよび加給機付きディーゼルエンジンである、ということです。  (続く)

 

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継続高校 KV-1 作ります!! その4

2025年02月22日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8では右側のサスペンションアームなどを取り付けます。ガイドの指示通りに進めます。

 

 組みつけ前のパーツ類です。

 

 組み上がりました。サスペンションアームは並びが一列に綺麗に並んでいるかを、定規を当ててチェックしました。

 

 ステップ9では、左側のサスペンションアームなどを取り付けます。ガイドの指示通りに進めます。

 

 右側と同じ要領で進めます。組み立てていて気付いたのですが、左右のサスペンションアームは対称ではなく、交互にズレていました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ10では、ホイールなどを組み付けます。跳弾板のQ11は、3Dプリントパーツに差し替えます。

 

 組み付ける前のパーツ類です。劇中車と同じ全周形の跳弾板は3Dプリントパーツです。

 

 組み上がりました。3Dプリントパーツの跳弾板のみ、仮組みのままとしました。

 

 

 ステップ11では左右の履帯を組み立てます。履帯パーツのつなぎ方は左右で異なります。前述したように左右のサスペンションアームが交互に付くため、転輪の並び位置も左右で異なるからです。ガイドの指示通りに進めます。

 

 今回のキットの履帯は連結式ですが、御覧のように上下の直線部分がそれぞれワンパーツになっていますので、組み立て易くなっています。

 

 いつものように、塗装してから組み付けますので、上図のように4つに分割した形で組みました。

 

 左右とも仕上がりました。タミヤの連結式履帯パーツは、最近の製品ほど繋ぎやすくなっていると聞きますが、今回のキットではどうだろうか、と思い、仮組みもしてみました。ドラゴンやミニアートやホビーボスのよりは取り扱い易くなっているように感じました。  (続く)

 

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継続高校 KV-1 作ります!! その3

2025年02月21日 | ガルパン模型制作記

 ステップ5では、左側のパンプストッパーなどを取り付けます。B12は、足回りのパーツの交換にともなってKV-2のキットのG19と差し替えます。

 実は、今回のキットと足回りを交換すべく購入した同じタミヤのKV-2のキットをチェックしたところ、転輪や誘導輪だけでなく、起動輪および誘導輪の軸部のパーツも一緒に差し替える必要があることが分かりました。差し込みの穴とダボとが、KV-1とKV-2とでは逆に付いているのでした。両者は車体と足回りが同じに見えるため、パーツも共通の形になっているかのように思われますが、実際には異なっているのでした。

 足回りの交換、ということでまず仮組みした後、試しに誘導輪をはめてみようとしたがはまらなかったため、上述の相違点に気付いた次第です。接着後でなくて良かった、と胸をなでおろした事でした。

 さらに、A3を劇中車仕様の3Dプリントパーツに交換します。

 

 ステップ5で組み付けるパーツと3Dプリントパーツです。

 

 仮組みした状態です。3Dプリントパーツはピッタリとはまりましたが、プラモデル用接着剤ではつきませんので、瞬間接着剤で取り付けました。

 

 組みつけた3Dプリントパーツの通気グリルです。御覧のように前端のみが低くなっていますが、これは砲塔の旋回時に砲塔後端がぶつからないようにするための処置です。
 ですが、劇中車のそれは前端が低くなっていませんので、形状的には矛盾があります。

 

 劇中車のシーンを御覧下さい。通気グリルの上端が砲塔下端より高いうえ、砲塔を旋回させると通気グリルの前端にぶつかるような位置関係にあるように見えます。
 3Dグラフィック描画にたまに見られる矛盾の一種ですが、実際に砲塔を旋回させてみたところ、砲塔と通気グリル前端との間にはまだ隙間があって干渉はしないことが分かりました。ですが、3Dプリントパーツの通気グリルの形状はあえて修正せずにそのままでゆくことにしました。

 

 ステップ6では、右側のパンプストッパーなどを取り付けます。Q22およびQ23は3Dプリントパーツの全周形の跳弾板に差し替えますが、これは後のステップで取り付ける増加装甲パーツとの擦り合わせが必要なため、取り付けは後のステップに回します。B13は、足回りのパーツの交換にともなってKV-2のキットのG20と差し替えます。

 

 ステップ5で組み付けるパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ7では車輪類を組み立てます。先述した通り、起動輪以外の全てをKV-2のパーツと交換します。ロードホイールはQ4およぴQ10、A23と、アイドラーホイールはQ8およびQ9と、リターンローラーはQ12およびO7と交換します。

 

 切り出して準備した車輪類のパーツです。起動輪以外は全てKV-2のパーツです。KV-1の車輪との相違点は、転輪の外縁部に仕切りが付かないことです。そして誘導輪は肉抜き穴の形状が異なります。起動輪だけはKV-1もKV-2も同じなので、そのままでもいいし、まとめて差し替えても良いです。

 

 劇中車のシーンでも、外縁部に仕切りが付かない転輪が使われているのが確認出来ます。全てがKV-2のタイプであるといっても過言ではありません。

 

 組み上がりました。交換したKV-1のパーツのほうは、タミヤのKV-2のキットに入れてそのまま保管し、いずれ何かの車輌の組み立てにて使用する予定です。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く45 その7  伊香保温泉の宿へ

2025年02月20日 | ゆるキャン△

 14時47分、伊香保温泉石段街の一番下まで降りました。バス停が並ぶ温泉街の玄関口にあたり、上図の大きな「IKAHO」のロゴオブジェが記念撮影の人気スポットになっています。このロゴオブジェは、なぜかゆるキャンの作中には描かれていませんので、最近に設置されたものかもしれません。

 

 一昨日とこの日とで、石段街を上から下まで三度上り下りしました。左右の幾つかの路地へも進んでいましたから、石段街のエリアはだいたい回ったことになります。
 上図の石段の中央には、湯桶と呼ばれる導湯路が通っていて、温泉街の各旅館に引湯された残りの分が少し流れていました。

 

 ゆるキャンの作中では、だいたいこんなアングルで描かれています。

 

 このシーンですね。各務原なでしこ達がここのバス停から榛名山へ向かったのでしょうか。

 

 作中のアングルに合わせると、「IKAHO」のロゴオブジェの一部がバス停などで隠れてしまいます。もしかすると、そのために描写を省いたのかもしれません。

 

 石段街口から歩いて2分ほどで、この日の宿である伊東園ホテルズの「遊山の里とどろき」に着きました。友人Mの奥さんのお勤め先であるとかで、Mが勧めて予約もしてくれました。さきの電話で、前橋からこちらへ移動中だと話していましたが、着いているのか、いないのかは、まだ分かりませんでした。

 

 時計をみて15時になっているのを確認し、中に入りました。ちょうど観光バスが横付けして団体客がゾロゾロと入っている時でしたので、エントランスロビーからフロントまでの広い空間はごった返していました。すでにツアー団体が2組入っているほか、個人や家族の客も大勢いて、フロント前には5列の待ち行列が出来ていました。

 それで、すぐチェックインするのは無理だな、と思い、行列がなくなるのを待とう、とエントランスロビーのソファの空いている席を探してひとまず腰を下ろしました。
 しかし、下ろした途端に、ホテルの係員らしき女性の一人がスーッと近づいてきて「星野様」と一礼してきました。

「あ、あなた、増田の・・・」
「はい、お久し振りでございます。ようこそ伊香保へお出で下さいました。手続きをどうぞ」
「え、もう出来るの?いっぱい行列が並んでますけど・・・」
「あ、大丈夫でございますよ、予約の方は窓口が別ですので・・・」

 ということで、フロントカウンターの端の窓口に案内され、手続きをしました。Mの奥さんが応対し、そのまま部屋へも案内されました。

 

「はい、こちらのお部屋になります」
「おお、いい部屋ですねえ、貧乏人の私には贅沢過ぎるかな、高いんじゃないの?」
「うふふふ、そんな高くはないですよ、ここは主人持ちですからどうぞ御心配なく」
「いや、でも・・・、なんかその、申し訳ないですねえ・・・」
「いいえ、23年ぶりの再会ですから主人が大喜びでして、今日は午前中だけで切り上げて退庁してこちらに参りますので」
「それは電話で聞きましたが、前橋からここへは距離があるでしょ、まだ着いてない?」
「ええ、まだ・・・、普通なら一時間もかかりませんけど、きょうは渋滞がかなりあるみたいですから・・・」

 M夫妻とは、平成13年に奈良へ旅行に来たのを案内して以来でした。Mと同じく、奥さんも京都造形芸術大学の出で、学年が3つも下だったので在学中はまったく面識がありませんでした。Mも同様で、知り合ったのは卒業して数年後、地元の職場関連においてであったそうです。私は、平成11年のMの挙式に呼ばれた際に初めて会いましたが、それからもう25年が経ったわけでした。
 少し雑談を交わした後、「では主人が着き次第、直接こちらに参りますので」とフロントへ戻っていきました。

 

 部屋に落ち着くと、とたんに軽い疲労感におそわれました。温泉に入ってあたたまろう、と思いついて浴衣に着替えていると、携帯電話が鳴りました。Mからでした。

「わりい、渋滞で遅れる・・・、もう入ったんだろ」
「うん、奥さんが手続きも部屋案内もしてくれたよ、相変わらず綺麗な人やねえ」
「お世辞はいい、とにかく急ぐわ」
「いや、急がんでええよ、ゆっくり安全運転で来てくれ。こっちはこれから温泉に入る」
「そうか、ゆっくりしていってくれ。夕食は一緒に食べようぜ」
「え、こっちで食べるのか?」
「ああ、ホテルの食堂は宿泊客以外でも利用出来るんでな」

 

 ということで、温泉浴場へ行きました。館内に浴場は2ヶ所あり、1階に水車付きの大浴場、8階に露天風呂が設けられています。

 私の部屋が3階でしたので、はじめは近い方にしよう、と考えて1階の大浴場へ行きました。まだ16時にもなっていませんでしたが、団体客の老人ばかりで満員、芋洗い状態でした。
 それで大浴場はひとまず諦めて、8階の露天風呂へ向かいましたが、そちらは意外にも空いていて、しかも周囲の景色を眺められる展望風呂でしたので、ゆっくりと湯につかってあたたまり、温泉街散策の疲れをいやすことが出来ました。

 この宿のお湯は、伊香保温泉の新しい方の源泉からの「白銀の湯」でしたので、さきに源泉露天風呂と「石段の湯」の二ヶ所で入った「黄金の湯」とあわせ、伊香保温泉の二種類の温泉を両方とも堪能出来たことになります。

 

 ポカポカして心地よくなった状態で部屋に戻りました。数分後にMがやってきて、23年振りの再会を喜び合いました。夕食の時間までまだ間があるので、そのまま部屋にて久闊の語らいで盛り上がりました。

 18時から3階のバイキング会場へ移動し、二人でバイキングの夕食を楽しみました。上図はその際の、最初に選んできた料理の数々でした。御飯は後にしよう、と選ばなかったのですが、Mが「カレーでいってみようよ」と二人分を持ってきてくれたので、有り難く頂戴しました。
 それからの1時間余りは、食べながら色々喋り、馬鹿な話題に笑い転げたりしていましたので、二回目に選んだ料理の写真を撮り忘れました。

 話の成り行きで、今回の群馬旅行がゆるキャンの聖地巡礼であることを話すと「そんなに人気なのかそのアニメは」と訊かれ、既に4期のアニメ化も決定してるから群馬県の聖地スポットがアニメに出て、全国から巡礼ファンが訪れるのは間違いないよ、と教えました。
 するとMは真剣な表情になって「ちょっとそれ、詳しく教えてくれんか、知り合いに県の観光魅力創出課とか観光物産課とかの奴が何人か居るんで、色々話しとこうかな」と言いました。

 

 それで部屋に戻り、それからはゆるキャンの群馬キャンプ編の聖地スポットの話になりました。原作コミックは16巻まで刊行されていて、高崎市と安中市エリアのアプトの道、碓氷峠鉄道文化むらが登場していること、次の17巻はまだ未刊行だが榛東村から榛名山、伊香保温泉、そして野反湖などのエリアが収録されること、などを説明しました。

「それで星野は野反湖まで行ったわけか」
「うん、素晴らしくええ景色ばっかりの最高クラスの観光地じゃないか。あんな太古以来みたいな自然度の高い所ってあんまりないで・・・。野反湖がアニメ4期に出たら、ファンはみんな行きたがると思う」
「で、旧太子駅跡も出てくるわけか。まだそこへは行ってないのか」
「とにかくバスの便が少なさすぎてな・・・、立ち寄るのも時間的に無理なんや。今回行けなかったんで、次の聖地巡礼旅行で旧太子駅跡へは行く積りや」
「旧太子駅跡は中之条町だな・・・。向こうにも知り合いが何人か居るんでな、アニメの件は一度話しておこう」
「あ、それでな、出来たら長野原草津口駅からのバスの便を臨時にでもええから増やせないか、という・・・」
「分かってる、俺もちょっとそれを考えたんだよ、地元の人でもあんまり野反湖は行かないんだが、その原因の一つが交通アクセスの少なさなんだな」
「そう、それそれ・・・」

 話しているうちに、奥さんも19時で退勤してそのまま部屋に差し入れをもってきて下さいました。それからは3人で京都造形芸術大学の思い出やら、京都や奈良の思い出やらで盛り上がりました。
 さらに奥さんには「星野さんの奥様、どんな方ですか、写真とか見たいです・・・」と訊かれ、タブレットに記録している写真を見せたりしましたが、横からのぞきこんだMの方が驚いていて「うわっ、こんな若いんだ、可愛らしい感じの方だねえ・・・なに?26歳も下なの?、えーっ、なんだよそれ・・・するといま32歳?」と騒いでいました。

 それからは、訊かれるままに、嫁さんと初めて知り合ったのが2016年の模型サークルでの交流食事会での席であったこと、当時既に嫁さんが私のブログの読者で私を知っていたことを話しました。それぞれにMはいちいち驚いていました。
 親しくなったきっかけは?と尋ねられて、アニメのガルパン、およびガルパンのプラモデルであった事を話すと、夫妻の両方とも御存知なかったようで、「何それ?」とポカンとしていました。アニメにも模型にも縁の無かった夫妻ですから、無理もありませんでした。

 ともあれ、色々と楽しく盛り上がって、21時過ぎに夫妻が退出するまで「ミニ同窓会」が続いたのでした。帰り際に奥さんが「来年には主人と久し振りに京都か奈良に旅行に行きますんで、奥様にも宜しくお伝え下さい」と挨拶してきましたので、「承知いたしました」とうやうやしく一礼を返しておきました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く45 その6  伊香保温泉街と食べ歩き

2025年02月19日 | ゆるキャン△

 伊香保温泉石段街のゆるキャンスポットのひとつアヒル神社を撮影した後、上段の上図の外湯施設「石段の湯」に入りました。作中にて各務原なでしこ達が伊香保温泉街にて立ち寄った唯一の場所で、ここで入浴し休憩しています。

 伊香保温泉には外湯が二ヶ所あり、そのうちの一ヶ所はさきに入ってきた源泉近くの露天風呂です。なのでこちらの「石段の湯」に入れば、二ヶ所とも回ったことになります。湯は同じ源泉からの「黄金の湯」ですが、湯桶で長い距離を流してくる湯なので、源泉近くの露天風呂の湯よりも滑らかな感じになっています。

 かくして、各務原なでしこ達と同じように、まったりと湯煙のなかに沈んであたたまりました。

 

 「石段の湯」には12時57分に入り、14時ジャストに出ましたので、1時間ほど滞在していたことになります。上図は「石段の湯」の休憩室からの景色です。真下に見える屋根は、一昨日に見学した「伊香保口留番所」のそれです。

 作中で各務原なでしこがゆったりと座っていたのと同じリクライニングチェアに身をあずけてしばらくボーッとし、ウトウトしかけましたが、ポケットの携帯電話が鳴りました。Mからでした。

「いまどこ?」
「石段の湯」
「そうか、ならチェックインは15時かね」
「うん、それに間に合うように行くよ」
「妻にはもう連絡してあるんだ、俺も後から行くよ」
「お前、仕事は?」
「ああ、半日であがらせてもらったんで、いま移動中」
「前橋の県庁からか?」
「ああ、15時過ぎには着くと思う」
「急がなくてええで、安全運転で来てくれ、こっちもしばらく散歩で食べ歩きするから・・・」
「そうか、なら上州肉巻きってのを食べてみてくれ」
「上州肉巻き?どんな食べ物なん?」
「見れば分かるよ」

 

 ということで、「石段の湯」を出て再び街中の路地歩きを再開しました。とりあえずは、Mがすすめてくれた上州肉巻きなるものを探そう、と考えました。どんな形、外見なのかを知らないので、Mにも聞いたのですが、彼はいつも「見れば分かる」「行けば分かる」とだけで全然説明してくれません。そういうところは、昔から変わっていません。

 それで、石段街のメインルート上を進み、左右の上図のような細い路地にも入って探しましたが、上州肉巻きの案内板は全然見当たりませんでした。

 

 路地の奥には古民家が割と多く並んでいて、一部はリノベーションされて店舗や食事処になっています。外観は古民家の良さを活かしているので、古い街並みの景観は保たれていて雰囲気も良いです。

 

 上州肉巻き、どこで食べられるんだろう・・・。水沢うどんは石段街の各所に看板を見かけますが・・・。そんなにポピュラーな食べ物ではなさそうだな・・・。ちょっと上へ戻って探してみるか・・・。

 

 引き返して再び登っていき、左手の「いさご屋物産店」に立ち寄りました。

 

 この看板につられたからでした。上州肉巻きではありませんでしたが、この「まる天」も美味しそうでしたので、「たこ棒」を1本買いました。その場で食べつつ、上州肉巻きのことを訊ねてみました。

「ああ、肉巻きお握りのことね、ここから下へいって、石段の湯の角を右に行って奥に「和テラス」ってお店があるんですよ、そこで出してますね」
「そこのお店だけなのですか?」
「うーん、そうだわねえ・・・、他でやってるって聞いたことありませんねえ」
「どうもありがとうございました」

 

 再び引き返して石段を降り、辻で右を何気なく見て、上図の「和雑貨レトロ館」の店舗が目に入りました。どんなものかなと思って近寄ってみたら、休業日でした。

 

 それで「石段の湯」の下の辻を右に入り、奥まで進んで上図の「和テラス」に着きました。

 

 店先のメニュー看板です。

 

 あった、上州肉巻き。正式商品名は「上州肉巻きおにぎり」なんですね。だから「いさご屋物産店」のおばさんも「肉巻きお握り」と話していたわけですか・・・。

 

 1本買いました。600円なり。フランクフルトみたいだな、と思って食べてみると、肉は外側だけで、中身は米でした。確かに肉巻きおにぎりだ、と納得しました。大井川鐡道千頭駅前の豚串とは全然違いましたね・・・。

 「和テラス」の前庭は広場になっていて、温泉街の北側を一望できる展望所もありました。上州肉巻きおにぎりを食べつつ、しばらく景色を眺めました。  (続く)

 

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京都鉄道博物館3 特別展示車輌と台車いろいろ

2025年02月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館のトワイライトプラザから本館の一階の南口に入りました。外からの引込線が内部に続いていて、車両工場のコーナーになっていますが、この時は特別展示コーナーになっていて、上図の近江鉄道100形が展示されていました。

 

 まず、驚いたのはJR西日本の管轄になる京都鉄道博物館が、私鉄の車輌も引き入れて展示している、という事でした。京都鉄道博物館ではJRの車輌しか展示しないものだと思い込んでいたので、いまも現役で走っている近江鉄道100形がなんでここに入ってるのだ、と思いました。

 ですが、嫁さんは別の意味で驚いていて、「近江鉄道って、あの近江八幡から豊郷まで乗った電車・・・?こんな青い電車って走ってたっけ?黄色やアイボリーの電車は乗りましたけどね・・・、でもどうやってここまで持ってきたんですかねえ・・・」と話していました。

 

 コーナーの主旨案内板によれば、ここでは、JR西日本の営業路線と繋がった引込線を活用して現役車両を展示していますが、今回は開業128 年を迎えて今年度より公有民営方式による上下分離に移行した近江鉄道の100形電車を特別展示します、との事でした。同時に、これが京都鉄道博物館開業後の、甲種輸送による車両の特別展示の最初であるそうでした。

 嫁さんは、案内文を一通り読むと私を振り返って、「甲種輸送って何?」と訊いてきました。

 

 甲種輸送(こうしゅゆそう)とは、甲種鉄道車両輸送(こうしゅてつどうしゃりょうゆそう)の略称で、日本貨物鉄道(JR貨物)など貨物鉄道事業者の機関車の牽引によって車両をレール上で輸送することをいい、書類上は貨物列車扱いとなるそうです。線路が繋がっていれば可能ですし、繋がっていなくてもクレーン等で移して線路に置けば可能となります。

「甲種輸送、ってのがあるんなら、甲乙丙丁とかのあれで、乙種輸送とか丙種輸送ってのもあるんですかね?」
「うん、あるよ。乙種はトレーラーとか船とか艀に載せて、レールの上以外、道路とか航路とかで輸送する。丙種は車輌をレール上の長物貨車に載せて、機関車が長物貨車を牽いて輸送する。一般的には丙種はあんまり使わないらしいから、甲種か乙種のどちらかになるな」
「ふーん・・・、じゃあ、丁種は無いんですね」
「丁種輸送なんて、聞いたこと無いで・・・」

 

 近江鉄道は、周知のように明治期に創立された、滋賀県最古の私鉄です。線路の幅はJRと同じ1067ミリなので、この100形もここまで持ってこられたわけですが、そうなると、今後は他の私鉄の車両もここで特別展示する機会が有り得る、ということになります。

 ですが、近畿地方の私鉄の多くは線路の幅が1435ミリの標準軌ですので、ここ京都鉄道博物館での特別展示は難しいかもしれません。阪急、京阪、近鉄はもちろん、京都の嵐電や叡電も1435ミリですから、JR西日本や京都鉄道博物館の線路には入れないわけです。
 なので、おそらくは同じ1067ミリの狭軌の鉄道車両に限られるのだろうな、と思いました。

 

 特別展示コーナーは、館内図では「車両工場」と記されており、実際に工場と同じ整備用の各種設備があり、作業用の車輌を上からも見学出来るように吊り下げ式の通路が設けられています。

 実際にここで整備や検査を行なっているのかは分かりませんが、係員の話によれば、ここへの出し入れに際して最低限のメンテナンス作業は行っている、とのことでした。

 

 それにしても、いまも運行されている現役の私鉄車輌がこうして博物館施設にて展示されているというのは、初めて見た気がします。京都鉄道博物館ならばでの展示、京都鉄道博物館でしかやれない特別展示、ということで、今後もこのような各種の現役車輛を間近に見られる機会を提供してゆく、というコンセプトなのでしょうか。

 

 この近江鉄道100形電車は、2009年に西武鉄道より新101系および301系を譲り受け、改造して導入した通勤形電車の一種です。2輌ずつの5編成、計10輌が2013年から2018年にかけて順次導入され、2013年より運行を開始して現在に至っています。
 私も嫁さんも豊郷行きで何度か利用していますが、こうして特別展示の体裁にて眺めると、印象が全然違って見えますから不思議なものです。

 

 向かいには上図のカットモデルの模型が展示されています。車体の内部構造と、線路および台車との関係がよく分かります。
 案の定、こういった模型が大好きな嫁さんが、ガッとくらいついてケースにはりついて「これ面白い・・・」と食い入るように眺めていました。

 

 その隣には、台車や車輪の実物が幾つか展示されています。鉄道車両の台車部分は、普通に鉄道を利用していれば大抵はホームの下に隠れて見えませんので、間近に見ると新鮮な迫力があります。
 上図は151系電車のDT23形台車です。

 

 こちらは4種類の車輪です。右端より順に、松葉スポーク車輪、D51用の動輪、151系用の車輪、新幹線300系用の車輪です。
 これらのなかで新幹線300系用の車輪が最も薄くて華奢に見えますが、実は最も強靭な車輪であるそうです。270キロ運転時の安定性を高めるために車輪の軽量化が図られて車輪径が910ミリから860ミリに縮小され、車軸も中グリ軸と呼ばれる中空式となり、素材の鋼は優れた高品質かつ強靭な日本でしか作れない材料が使われています。

 確か、新幹線を含めた高速鉄道用の専用車輪やレールは高度な製造技術が必要なため、これを造れるメーカーは日本の日本製鉄およびJFEスチールの2社だけ、と聞いた事があります。

 

 こちらは4種の台車を二段に並べて展示しています。上図の上は国鉄TR23形台車、下は京阪1700系用のKS50台車で1955に製造された日本最初の空気バネ台車であるそうです。パッと見ても上段の台車が古めかしく見えるので、要するに戦前の台車と戦後の台車を分かりやすく展示してあるのだな、と分かります。

 

 こちらの上は国鉄TR10形台車の客車用2軸ボギータイプであるTR11台車、下は阪急2000系用のFS345台車です。このコーナーには、国鉄だけでなく私鉄の台車も寄贈されて展示されているわけですが、それも京都鉄道博物館の特色のひとつであるのでしょう。

 

 こうした各種の台車は、嫁さんも私も、Nゲージや鉄道コレクションの車輌の台車パーツを組み込んだり交換したりしているので、実物を見るのが楽しいです。色々と勉強になります。基本的な構造が模型でもそのまま踏襲されているうえ、車輪を外したりする際の段取りも同じであることが見て取れます。

 

 なので、上図のように下から台車を見たりして、その外枠のフレームとか、車輪の軸部の据え付け状況とか、サスペンションの機構やブレーキシステムの形状などが学べたのは良かったです。本や図鑑を100回見ても、実物を1回見て分かる情報量には遠く及ばないものだな、と改めて思いました。  (続く)

 

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継続高校 KV-1 作ります!! その2

2025年02月17日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2では車体上部を組み立てます。ガイド図の穴あけ指示のうち、3Dプリントパーツに差し替える箇所については、3Dプリントパーツを仮組みしながら確認し、該当の箇所だけの穴をあけます。

 

 ステップ2で組み立てる車体上部のパーツ類です。

 

 内側からピンバイスで穴を開けたのは、上図の赤円の4ヶ所と、ガイドに指示があった前端の1ヶ所でした。赤円の4ヶ所は、劇中車仕様の跳弾板の3Dプリントパーツを取り付ける位置です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ3では、車体上部を取り付けます。ガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ3で組み立てる車体のパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ4ではフロントパネルを組みます。3Dプリントパーツへの対応改修がひとつ加わります。

 

 車体に組み付ける前のフロントパネルのパーツです。

 

 そのうちのC2の、上図赤枠内の両端のモールドを削り取ります。キットの組み立て指示にてここに左右フェンダーの前端が組み合わさりますが、今回の劇中車仕様の3Dプリントパーツの左右フェンダーは組み合わさらないので、この両端のモールドも不要になります。

 

 モールドを削り取りました。穴は後でパテで埋める予定です。

 

 続いて車体前端のE4の組み付け後に、次のステップ5で付けるB18を仮組みしてチェックしたところ、御覧のようにE4とB18の間に隙間が生じることが分かりました。この状態に違和感を覚えました。

 

 なぜならば、劇中車の該当箇所には隙間が無いからです。

 

 それで、プラ板をカットして差し込んで、隙間を埋めました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く45 その5  伊香保温泉の石段の湯とアヒル神社

2025年02月16日 | ゆるキャン△

 伊香保温泉石段街の聖地スポットの続きです。斉藤恵那がスマホで景色を撮っている場所の作中イラストには、上図の「そば処 此処」の看板も描かれています。デザインは同じですが、作中では「そば処 何処」になっています。

 

 その「そば処 此処」は、この日は定休日のようでした。北海道産の蕎麦を打つお店のようですが、一度食べてみたかったな、と残念に思いつつ、石段を降りました。

 

 「そば処 此処」の手前の辻の奥には、上図の「伊香保点心219」の店舗がありました。看板の上に「手作り豚・牛まん、ちまき、ドイツソーセージ専門店」とありました。

 

 よし、ここでも食べていこう、と思いついて店先に近寄り、上図左端の「赤城牛すき焼きまん」を買いました。豚まんは関西でもお馴染みですが、牛まんは初めて見ましたので興味をそそられたからです。
 食べてみて、おっ確かにすき焼きの味わいだ、と感じました。美味しくて、写真を撮り忘れました。

 

 さらに下へ降りていきました。一昨日のここは海外からの観光客が大半を占めた大混雑で普通にまっすぐ歩くこともかないませんでしたが、この日は御覧のように観光客の数も疎らで落ち着いていました。人気の観光地として名高いですが、あんまり人混みになるのも考え物です。

 

 「そば処 此処」の次の辻から東の路地を見ました。上図の「つるや」はうどん屋さんのようですが、休業中でした。伊香保温泉のメインストリートの石段街界隈にさえ、このような休業中の店舗がちらほら見えるのが、伊香保温泉街のひそかな衰退ぶりを感じさせます。

 いや、伊香保温泉に限らず、全国各地の有名観光地はどこも似たような傾向にあるようです。国内観光トップの京都にさえ、衰微の影がしのびよっているのですから、いくらインバウンドに注力して海外からの観光客を呼び込んだとしても、賑わいは一時的、限定的にしか得られず、観光産業全体の斜陽化には歯止めがかからないのが現状と言えるでしょう。

 

 その傾向を象徴するかのように、石段街から左右の路地へ進むと、閉鎖した店舗が目立ってきました。一気に寂びれた、うらぶれた雰囲気になっていくのが、京都の四条や祇園界隈の裏通りのそれを思い起こさせました。

 

 それでなんとなく侘しい気分になってしまい、しばらく石段街をトボトボと降りていきました。

 

 下へ降りていくにつれて、観光客の姿も少なくなっていきました。一番下にバス停が並んでいますから、下へ行くほど観光客の数が増えてくるかと思いましたが、実際には下のエリアほど店舗が少ないですから、人の行き来も限られてゆくのかもしれません。

 

 そうして、ゆるキャンの聖地スポットのひとつ、石段の湯の前に着きました。一昨日はこの施設の前でも座り込んで食べている外国人観光客が多かったりで話になりませんでしたが、この日は落ち着いた雰囲気のなかに戻っていました。入浴もする予定でした。上図のアングルで作中に出ています。

 

 右のコマですね。作中では施設やたたずまいはそのまま描かれますが、「石段の湯」が「石畳の湯」に変えてあります。変えなくてもいいんじゃないか、と思うのですが、要は許可をとっていないのでしょう。

 そういえば、原作者のあfろ氏は、基本的に現地での取材時に対象施設に許可を取らないスタンスであるようだ、とあちこちで聞くことが多いです。アプトの道の湖畔のカフェでも同様の話を伺いましたが、こちらの「石段の湯」でも「取材とか、そういう方は知りませんし、漫画に出てるなんてそんな話は聞いてませんけどねえ」との事でした。許可を取らないから、施設の名前をそのまま出さずに変えたりするのでしょうか。

 

 入浴休憩の前に、「石段の湯」の石垣下にある上図のアヒル神社も撮っておこうと、いったん外に出て下の段へ降りました。

 

 何度見てもシュールな景色です。アヒルの口のような破風の形の屋根の貫のうえに黄色いソフビのアヒルがずらりと並んでいます。いつからこのような状態になっているのかは分かりませんが、「石段の湯」の係員の話では「もう何年も前からああですよ」との事でした。
 とりあえず、人通りが途絶えていたのを見て撮影しました。

 

 作中ではこの2シーンにて描かれます。右のシーンは石段の下からのアングルです。

 

 同じようなアングルで撮ってみました。一昨日は観光客が多すぎてこのアングルでさえ撮れませんでしたから、やっと撮れたな、というのが正直な気持ちでした。  (続く)

 

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京都鉄道博物館2 機関車4種と寝台特別急行客車2種

2025年02月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都鉄道博物館のプロムナードには、上図のディーゼル機関車のDD54形33号機も展示されています。嫁さんが「これこれ、マイクロエースの3次形の本物、これを見たかったんですよー」と大喜び、テンション上げまくりでした。

 DD54形は、日本国有鉄道が1966年から設計、製造した液体式ディーゼル機関車の一種で、エンジンはドイツのマイバッハ系列のライセンス供与による提携生産品を使用しました。山陰本線および播但線、福知山線などの列車牽引運用に用いられていたC57形およびC58形等の蒸気機関車と置換えに配置され、1972年末には一部の列車を除き山陰地区東部の全面的なディーゼル化を達成し、山陰線の路線群における無煙化を促進したことで知られます。

 1971年までに40輌が製造され、32輌が福知山機関区、8輌が米子機関区に配備され、山陰本線の全線で活躍、1968年には福井国体開催に合わせて運行されたお召列車の牽引を担う栄誉に浴しています。

 つまりは山陰線専用のディーゼル機関車であったわけで、丹波の山陰線沿いの育ちだった嫁さんが私に続いてNゲージにハマり出して「山陰線ジオラマ計画」なるジオラマ製作にとりかかった時に、最初に購入候補にあげた機関車でした。

 そのNゲージ製品は、トミックス、カトー、マイクロエースから出ており、それぞれに幾つかの仕様を再現していますが、嫁さんがこだわったのが、ここの展示車輌でDD54形の唯一の現存機でもある33号車の特徴である、スカート両脇の白色のステップ側面で、1から6次車までに区分されるなかの3次車の独自の要素でした。これはマイクロエースの製品にしか再現されていませんので、嫁さんも散々探し回り、ヤフオクでやっと見つけて落札していました。

 この33号機は、山陰線にて最後まで使用された4両中の1両で、米子機関区に配置されて一時は特急「出雲」の牽引機に指定されていたそうです。1984年に廃車となって大阪交通科学博物館にて保存展示されていましたが、大阪交通科学博物館の閉館後は京都鉄道博物館に移され、現在に至っています。

 

 プロムナードの南には、上図のトワイライトプラザのコーナーがあります。その大きな鉄骨トラス構造の上屋は、大正時代以来の2代目京都駅の遺構の再利用になるもので、その中には戦後を代表する電気機関車や寝台車、2015年春に引退した寝台特急「トワイライトエクスプレス」の車輌を展示しています。

 

 トワイライトプラザの正面向かって右には、上図のEF81形103号機があります。日本国有鉄道が1968年に開発した交流直流両用電気機関車の一種です。この103号機は、敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室に配置されて、寝台特急「トワイライトエクスプレス」の牽引機として大阪・青森間の日本海縦貫線区間で活躍したほか、同区間における臨時列車や臨時工事列車の牽引などにも使用された車輌で、現在は「トワイライトエクスプレス」牽引機時代のデザインカラーのままで保存されています。

 嫁さんがDD54形を一生懸命見学している時に、私はこのEF81形をしばらく見上げていました。気が付くと、嫁さんも横にやってきていて一緒に見上げ、スマホを向けているのでした。

「この機関車をさっきからずーっと見てますね、何か思い出でもあります?」
「いやね、この前行ってきた碓氷峠鉄道文化むらの展示車輌にはこれは無かったなあ、と思ってね」
「ふーん、じゃあ、貴重な保存車なんですかね」
「現存してるのは3輌ぐらいしか無いらしいからね、貴重であるのは間違いない」

 

「じゃあ、左の機関車も貴重なんですかね?」
「EF58形はまだ数があるんじゃないかな、碓氷峠鉄道文化むらにも展示されてるし、埼玉の鉄道博物館にもあるらしいし」
「わりと有名な機関車だったのかな」
「戦後の日本を代表する旅客用電気機関車といったら、だいたいはこれのイメージやしな」
「ふーん」

 

 EF58形は、 日本国有鉄道の前身である運輸省鉄道総局が1946年から製造した旅客用直流電気機関車の一種です。終戦後に激増した旅客輸送需要に対応する機関車として量産され、1958年までに各種仕様を合わせて172両が製造されました。

 そして1950年代から1970年代にかけて東海道本線、山陽本線や高崎・上越線、そして東北本線といった主要幹線に配されて旅客列車牽引の主力機関車として活躍、戦後の復興期の公共交通の要として働き続けました。最後の1輌が廃車となったのが去年、2023年のことでしたから、昭和、平成、令和の3時代を駆け抜けたことになります。

 

 そのEF58形が牽引したブルートレインの客車が1輌、EF58形の後ろに繋がっていました。「あかつき」「彗星」などで活躍したプルマン式のA寝台車だったオロネ24形4号車です。

 

 そのオロネ24形4号車の説明板です。オは32.5から37.5トンクラス、ロネはA寝台車を意味します。プルマン式とは、アメリカ寝台保有会社プルマン社が製造した寝台車の形式名で、通路を挟んで二段の寝台が進行方向に設けられ、寝台幅を広く取って広い空間を確保しています。日本でも長らく上級寝台車のタイプとして使われた形式です。

 

 オロネ24形4号車の後ろには、上図のEF65形1号機がありました。これも貴重なトップナンバーです。嫁さんがスマホを向けつつ言いました。

「1号機って、なかなか残せるもんじゃないんでしょうねえ・・・」
「だろうな、試作機やったのも多かったし、何よりも最初の生産車だから、劣化も老朽化も一番になるし、廃車も当然ながら1番になるやろうから、保存するとなったら相当のコストがかかったやろうな・・・」

 

 EF65形は、日本国有鉄道が1965年に開発し運用した平坦路線向け直流用電気機関車の一種です。平坦線区向け国鉄直流電気機関車の標準形式とされ、1979年までに国鉄電気機関車としては史上最多の308輌が製造されました。
 基本的に貨物列車用として計画されましたが、高速走行性能と牽引力の強さを活かして旅客列車用としても活躍、ブルートレインを牽引する500番台や耐雪耐寒装備を強化するなどの改良を加えた1000番台、1000番台の一部を改造した2000番台などがありました。現在も約20輌が定期運用を終えたものの、現役として在籍していると聞きます。

 このEF65形は、ゆるキャンの原作第92話の作中にて「横川鉄道博物館」の展示車輌の1輌として描かれていますので、そのモデルとなっている500番台のF形タイプを、Nゲージのカトー製品にて購入しました。「横川鉄道博物館」こと碓氷峠鉄道文化むらの保存展示車が520号機で、高速貨物列車牽引用の500番台F形に該当するからです。

 対してこちらの1号機は、一般型の0番台の1次車にあたり、中央本線の電化および増発、山陽本線貨物列車の電化および増発、東海道本線などの増発用として開発されたタイプです。運転席の面に通行用の扉がつかない非貫通型にあたりますが、Nゲージでは扉が付く貫通型の1000番台や2000番台のほうが多く製品化されていて、非貫通型の0番台や500番台はあまり見かけなくなっています。実物も貴重ですが、Nゲージのほうでもレア物になりつつあるようです。

 

 トワイライトプラザには、上図の寝台特急「トワイライトエクスプレス」の客車2輌も展示されています。上図はスロネフ25形501号車、列車の1号車にあたるA個室車輌です。


 「トワイライトエクスプレス」は、かつて大阪駅・札幌駅間で運行されていた臨時寝台特別急行列車です。1989年に運転を開始、2015年に臨時列車としての運行を終了して、それ以降はツアー専用列車として2016年まで運転されていました。
 その後は廃止となりましたが、「トワイライトエクスプレス」の列車名は2017年から京阪神地区と山陰・山陽地区間での運行を開始した「TWILIGHT EXPRESS 瑞風(みずかぜ)」に受け継がれています。

 こちらで保存展示される客車2輌は、かつての国鉄24系25形客車を全面的に改造したもので、基本デザインはヨーロッパの豪華夜行列車オリエント急行をモデルとしたそうです。
 従来の寝台列車が「ブルートレイン」で青色のイメージカラーであったのに対して、日本海をイメージした深緑に明け方の薄明(はくめい)の英語トワイライトを表す黄色の帯をつける独自のカラーとしています。

 上図のように各客車には、天使が向かい合うデザインのエンブレムもマーキングされて高級感を醸し出しています。

 

 10年前に廃車となったわりにはピカピカで、まだ現役のような感じですから、嫁さんも「こんなん、まだ使えますでしょ、もったいないですねえ」と話していました。

 ですが、元になっている国鉄24系25形客車が1973年からの製造なので、既に車齢が51年に達している古い車輌であるわけで、老朽化や部品類の経年劣化がひどくなっているそうです。

 

 もう1輌は上図のスシ24形1号車です。嫁さんが「これもトップナンバーですね、スシやから食堂車ですねえ、よし覚えたっと」と車番を指差して確認していました。

 

 「トワイライトエクスプレス」の客車はあともう1輌、オハ25形551号車が上図の引込線ゾーンに居るということですが、この日はどこかへ移動していたのか、向こうに見える客車はオハ46形13号車だけでした。  (続く)

 

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京都鉄道博物館1 京都鉄道博物館へ

2025年02月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年11月4日の午後、二条城から地下鉄とJR嵯峨野線を乗り継いで、上図の京都鉄道博物館に行きました。この日の嫁さんの本来の目的地がここだったのでした。二条城へ行ったのは、近いからついでに行けるよね、という思い付きで午前中から出かけたわけでした。

 

 京都鉄道博物館は、周知のように国内では最大級の鉄道博物館です。日本では埼玉県にも鉄道博物館がありますが、敷地の規模や展示車輌の数では京都のほうが上であるそうで、「トップナンバー」と呼ばれる第1号の車輌が多く展示されているのも特徴であるそうです。

 私自身は昔、まだ梅小路機関車館だった頃に三度ほど行ったことがあるだけで、2016年にオープンしたこの京都鉄道博物館のことは全く知りませんでした。2023年の6月に鉄道模型Nゲージを初めて鉄道にも関心を持ち始めるまでは、あんまりその種の施設には興味が無かったからです。

 

 ですが、嫁さんはオープン直後に一度行ったことがあるそうで、同じようにNゲージに熱中し始めてからは、もう一度行っておかないといけませんねー、と何度か話していました。梅小路機関車館だった頃しか知らない私を「昭和ですか?遅れてますねえ、時代は令和ですよ?時勢に遅れてはアカンですよね」とこきおろしつつ、「Nゲージやってるんなら、いっぺん行かないと駄目ですよ?」とけしかけてくるのでした。

 それで、実質的には引っ張って行かれたわけですが、いざ入ってみると、かつての梅小路機関車館の頃とは全く違った立派な施設と数多くの展示車輌の姿に驚かされました。エントランスから入ると、上図の長い駅構内をイメージしたプロムナードに並ぶ新旧の車輌の姿がドンと表れて、ジリジリと迫力をもって眼前にせまってくるのでした。

 

 おお、栄光のC62形だ・・・。おや、26号機?・・・これ見た事あるような・・・、確かこれは大阪弁天町にあった交通科学博物館の展示機だったかな・・・。そうか、交通科学博物館が閉鎖したからこっちに引き取られたわけか。

 すると、京都鉄道博物館には梅小路機関車庫の1号機と2号機も居る筈なので、C62形が3輌もあるわけか・・・。

 

 私の記憶に間違いがなければ、このC62形26号機は、現存する唯一の川崎車輌製造の車輌だった筈です。亡父の資料類か何かで読んだのですが、C62形は計49輌が発注され、日立製作所、川崎車輛、汽車製造の三つのメーカーが分担して製造しましたが、現存するのは5輌のみで、その4輌までが日立製作所の製造になります。

 嫁さんが「銀河鉄道999」の機関車やー、と楽しそうにスマホで撮っていました。そういえば、この前ゆるキャン聖地巡礼で行ってきた、群馬県の碓氷峠鉄道文化むらの屋外展示の蒸気機関車に「銀河鉄道999」のヘッドマーク付けてたなあ、あれはC62形じゃなくてD51形のナメクジだったなあ、と思い出しました。

 

 C62形26号機の隣には、何やら古めかしそうな車輌がいました。車体カラーこそ115系でお馴染みの湘南色ですが、そのカラーの最も古い車輌かなあ、と思いました。

 

 その説明板です。なるほど、戦後初の長距離電車として東海道本線や山陽本線で活躍した車輌だったか、と知りました。後ろに同系のモハ80形が繋がっていて、2輌編成のような形で展示されています。

 嫁さんが「これはクハだから制御の機械がついてて、運転席付きで、向こうがモハだからエンジンがついてる・・・」と自身の鉄道知識を確認するように呟いていました。その横顔へ、エンジンじゃなくてモーターやで、モはモーターの事や、と小声で言い添えておきました。

 

 プロムナードの一番右側には、新幹線の0系車輌の4輌編成がありました。子供の頃の昭和40年代、初めて新幹線に乗ったときはこの0系でしたし、今でも新幹線の基本的なイメージはこの懐かしい姿のままです。

 いまの新幹線の最新の車輌は数えて6世代目にあたるN700Sで、これは前回の群馬ゆるキャン聖地巡礼の時にも乗りましたが、初めて乗った0系の印象にくらべると隔世の感があり、乗り心地も静粛性も格段に向上しています。それでも個人的には「夢の超特急」といえば0系だなあ、と思います。

 0系の保存車輌はいまも各地にありますが、ここ京都鉄道博物館の展示車輌はトップナンバー車で、1964年3月に落成した1次車の先行製造車にあたります。1978年に廃車後、交通科学館に保存展示されていたのを引き取ったものです。日本の鉄道史の金字塔的な存在であることにより、2007年に機械遺産に、2008年に鉄道記念物に、2009年に重要科学技術史資料に指定され、文化財に準じた扱いを受けています。

 

 プロムナードの奥には幾つかの旧型の客車が並んでいます。そのうちの上図のナシ20形食堂車は、寝台特急「ブルートレイン」の食堂車であったもので、現在も館内の食堂車、お弁当販売ブースとして公開されています。

 嫁さんが「ちょっと中見てきていい?」と言うので外で待っていたら、すぐに出てきて「家族連れで満席でしたー」と戻ってきました。子供達にも人気があるようで、館内での食事をここで楽しむ人も多いそうです。

 

 プロムナード内には旧型の食堂車であった上図のスシ28形301号車も展示されています。嫁さんが「スシって、寿司のこと?」と訊くので「いや違うで、車輌記号のひとつで、スは37.5から42.5トンのクラス、シは食堂車の意味や」と説明しました。

 

 続けて「そしたら28形ってのも何かの意味があるんですか?」と訊かれましたが、「これは確か10の位の数字と1の位の数字でそれぞれに意味があって・・・、ええと、20はちょっと分からん・・・、8は車台の形式が3軸のボギー車であるんやったかな・・・」と述べるにとどまりました。

 

 嫁さんはすぐに台車を見にいき、「ほんまですねー、3軸ですよ。こういうのがボギー台車なんですねえ」と感心しつつスマホで撮り、メモしていました。

 それで、ボギーというのは、車体の方向とは独立に曲線部などを走れるようにした台車のことで、それを装備した車輌のことをボギー車と呼んだんだ、と説明しておきました。

 20のほうは、全然分かりませんでしたので、帰宅後に亡父の資料類にある「車両記号表 昭和16年(1941年)制定  昭和28年(1593年)改訂分」をひも解いて調べ、昭和32年以降に製造された軽量客車の慣習記号だと知りました。横で読んでいた嫁さんが「慣習記号なんてあるんですねえ、正式な記号じゃないんですねえ・・・」と感心していました。

 この「車両記号表 昭和16年(1941年)制定 昭和28年(1593年)改訂分」は、日本車輌の公式サイトでも公開されていて見られます。こちら
 これを含めた記事群「鉄道知識の壺」は、Nゲージを初めて以降、鉄道知識を学ぶための基本資料として重宝しています。嫁さんもよくプリントアウトして使っています。

 

 さらに嫁さんは妻面の下方に打たれた上図の複数の銘板を熱心に見ていました。

「これ、一番下の右の日本車輌の昭和八年ってのが最初の銘板ですよね」
「そうやな、製造されたときのな」
「その上の日本国有鉄道ってのが、納車先なわけですね」
「そう」
「あとの三つはそれぞれの工場で改造した年の銘板ですね」
「うん、あちこち改造してるんやな」
「旭川って、北海道ですよね?・・・高砂は兵庫県の高砂市ですよね、あと、他で鷹取ってのもよく見ますけど、鷹取はどこかなあ・・・」
「神戸や。須磨区にあった」
「あった、って過去形?今は無くなってるんですか?」
「うん、阪神淡路大震災でやられてな、跡地も市街地復興事業で提供して、工場の機能そのものは兵庫県の網干(あぼし)ってところに移して、いまの網干総合車両所になってる筈」
「ふーん」

 

 スシ28形301号車の隣には上図のマロネフ59形1号車があります。戦前に製造された皇室・貴賓客用の寝台客車で、御料車の一種です。いわゆる「お召列車」を編成したうちの1輌です。戦前からの製造順に1号、2号と付けられたなかの14号御料車にあたり、1938年に国鉄鷹取工場にて昭和天皇の弟宮や貴賓客専用として製造されました。

 マロネフのマは42.5から47.5トンクラス、ロネは戦前の上級寝台車、フは車掌室および制御器を有する客車の意味で緩急車とも呼ばれます。59形の5は鋼製客車、9は3軸ボギー車を意味します。

 戦前、戦後を通じて製造された御料車は、幾つかが埼玉の鉄道博物館や愛知の博物館明治村にて保存されており、外見は公開されていますが、皇室の専用車という特殊性の故に、車内への立ち入りは不可となっています。
 ですが、ここのマロネフ59形1号車だけはイベント等で内部が公開されたことがあります。つまり、車内に入れる可能性がある唯一の皇族・貴賓用客車であるわけです。
 それで、嫁さんが「次の公開イベントに絶対中に入りたい」と言いましたが、私も車内に入りたいです。

 

 プロムナードの一番奥には、上図のクハ103形1号車があります。国鉄の通勤電車の代表格として長く親しまれた形式です。嫁さんも「大阪環状線で最近まで走ってましたよね?何度か乗りましたー」と話しました。

 

 運転席上の表示窓にもしっかり「大阪環状線」とあります。

 103系は、日本国有鉄道(国鉄)が設計し製造した直流通勤形電車の一種で、1963年から1984年までの21年間に3447両が製造され、東京、名古屋、大阪などの大都市および近郊区間にて活躍しました。大阪環状線では1969年からの約48年間を走り、2017年に最終運行便が引退しています。
 上図はそのトップナンバー車で、末期は阪和線で2011年まで活躍し、引退後は吹田工場に保管されていたのを、京都鉄道博物館の開館に際して収容されました。  (続く)

 

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