2021年11月20日、水戸の友人U氏に誘われて、大徳寺へ行きました。昔から古都巡りが趣味で、それが高じて京都の芸大に通うまでになったU氏は、その後も年に4、5回ほど京都、奈良への旅を繰り返して楽しんでいました。芸大の同期生の私が奈良市に住んでいた頃は、私のバイクを借りて奈良巡りをメインにし、奈良県内の殆どの史跡や古社寺を回っていました。そのパターンが定着して、私の各地への異動に合わせてその地域の史跡文化財を回るというケースが続きましたから、私が前の会社を退職して京都市に凱旋移住した2019年以降は、もっぱら京都巡りに照準を定めているようでした。
ですが、U氏の京都巡りは、本人に言わせると「まだ11回しかやってない」そうで、奈良巡りの「通算117回」の十分の一以下であるそうです。そのせいか、私が京都市に落ち着いてからはやたらに張り切って京都巡りに精を出し始め、学生時代を懐かしむかのように、北白川や銀閣寺道、修学院などの思い出の地を回っていましたが、それも一段落した2021年からは、未訪の古社寺を訪ねることを主目的に据えたようで、わざわざ詳細な未訪地リストを作成して送ってきたのでした。
その未訪地リストの四番目が、今回の大徳寺でした。一番目は仁和寺、二番目は龍安寺、三番目は天龍寺となっていましたが、それらは私の訪問レポート「龍と仁と天と」シリーズの記事を参考にして行ってきたというので、四番目の大徳寺が今回の訪問地となったのは自然な成り行きでした。
ですが、大徳寺は私自身も殆ど未訪地であって、今回U氏が提案した秋の塔頭公開の各公開箇所の全てが未訪でありました。その事を言うと「そんなら君も来い、いつまでも未訪にしてるわけにはいかないだろ、この機会に一緒に学ぼうぜ」と誘ってきたのでした。
かくして前日に水戸からの夜行バスで京都入りし、拙宅に一泊したU氏と共に、大徳寺各塔頭公開時間の9時前に現地に着くように計画して、地下鉄で北大路駅まで行き、そこのバスターミナルから市バスに乗って上図のバス停「大徳寺前」で降りたのでした。
バス停は、大徳寺境内の南を通る北大路通の東側にあり、御覧のように歩いて北大路通を北へ渡れば、すぐに大徳寺境内地の外郭土塀のもとに着きます。
参拝順路は、本来ならば一山の総玄関口にあたる東側の総門からスタートするようでしたが、U氏の計画したコースでは南側の中門からであったので、なぜ南門と言わずに中門と言うのだろう、と不思議に思いつつも、張り切って歩くU氏に続いてそちらへ向かいました。
ですが、南側へ行こうとしたところでU氏が「隅っこに門があるぞ」と指さして立ち止まりました。境内地の南東隅に上図の門が建っていました。名前が「梶井門」であるので、ああ、かつての梶井門跡御所の門というのはこれか、と思い当りましたが、私と違ってU氏は大徳寺の概要すらまだ知らなかったらしく、「なんだろ、開かずの門みたいだが?古い門なのかな?」と色々呟いていました。
それで、この辺りが大徳寺創建以前に存在したという「円融院」の旧地であること、その「円融院」は平安中期に天台座主の円融房良真が住して梶井門主を名乗ったこと、梶井の名は「円融院」にあった名井の水を加地水となした由緒にちなむこと、「円融院」の所領が船岡山までを含む広い範囲にあったこと、大徳寺が「円融院」の所領地の北側に創建されたこと、などを簡単に説明しました。
円融院、というのは以前に龍安寺へ行った際に事前学習で読んだ資料にあった名前で、龍安寺の位置にかつてあった円融天皇ゆかりの寺院の「円融寺」と同一であるとされています。
しかし、一説では別々の寺であるとされていて、ちょっと興味を持って調べたことがあります。諸史料をあたったところ、大徳寺の寺史である「宝林外史」や「宝林編年略記」に「円融院」の名が頻出することを知りましたが、「宝林外史」では「円融院」と「円融寺」を同一視しているのに対し、「宝林編年略記」では円融天皇ゆかりの「円融寺」と梶井門跡ゆかりの「円融院」とを明確に区別しているのに驚かされた記憶があります。
同じ大徳寺の二つの史料で内容が異なるのは不思議ですが、仔細に検討してみると、「円融寺」と「円融院」は所在地が異なる上に成立時期も重ならないので、別々の寺であると述べる「宝林編年略記」の記載をおさえておくのが適当だろうと思います。
U氏がしきりに門の年代を知りたがっていたので、とりあえず「室町期以降」と答えておきました。梶井門跡の御所は応仁の乱にて焼失して円融院の寺籍は大原三千院に移されたため、御所の再建があったならばそれ以降になる、梶井門跡自体は江戸期まで存続したから、こちらの門も成立下限は江戸期になるかな、と考えたからでした。
しかし、個人的には門の時期よりも門の痛み具合が気になりました。老朽化のためか屋根の右側が下がって屋根全体が歪み、その直下の組物もギリギリ耐えているといった風情でした。文化財指定を受けていないので、修理をするならば寺の完全負担になります。昨今の情勢下においては厳しいだろうな、と思いました。
それから南側の土塀に沿って西へ進みました。
南側の出入口である中門へ向かいました。U氏が「おい、南にあるのに中門だってさ。なんで南門じゃねえんだろうなあ」と先ほど私自身が疑問に思ったことをそのまま呟いてきました。
それで気になって後日調べましたが、大徳寺の資料類にも中門の呼称の由来についての記載は見当たりませんでした。個人的には、梶井門から入った場合の境内中枢部への連絡路上に位置することによって「中門」としているのでは、と推測しています。
ただ、大徳寺関係の公刊資料類や専門書、文化財報告書類では「中門」とあるのに対し、一般向けの観光ガイドや歴史書類の最近の刊行物においては「南門」と記されるケースが散見されます。そのほうが分かり易いからでしょうか。
先に見た梶井門を内側から見ました。この広い区域が、かつての梶井門跡御所の北側の空間の一部であったようです。御所の中枢部は船岡山の東側にあったそうで、江戸期にはその園池が「御池」と呼ばれて残っていたそうです。現地の字名も「御所田」ですから大体の位置関係は把握出来ます。
中門をくぐって中に進みました。塔頭の甍と門と土塀が朝の静寂に包まれて並んでいます。U氏が「一般観光のスタート地点になってる総門から入るとさ、たぶん人影もあるだろうし、折角だから京都の古刹の朝を味わうなら静かなところから入るべきだな、なあ」と上機嫌でした。なるほど、それで中門からの参拝コースを計画したのか、と納得しました。
時計を見ると9時3分でした。この秋の大徳寺塔頭公開の時間帯は寺院によって9時からと10時からとがありましたが、こちらの龍源院は9時からでした。もともと常時拝観可能な塔頭のひとつですので、特別公開期間でなくても見学出来ます。
龍源院の玄関口にあたる表門です。檜皮葺の切妻造四脚門です。龍源院は、寺伝によれば開創を文亀二年(1502)とし、大徳寺の塔頭では最古の例となります。永正年間(1504~1520)に客殿が造営されていますので、この表門も同時期の建立、沽券状などの記載から永正十四年(1517)頃の建立とされています。室町後期の門建築の典型例として国重要文化財に指定されています。
門の脇の説明板です。U氏はこういう説明文の類は真剣に読み、理解を深めるために二度読みを必ずします。難しい箇所になると三度読みに及ぶことがあります。文献や史料を正しく理解し解釈するには最適の正しい姿勢です。共に京都の芸大で学んでいた頃からずっとそのスタンスなので、そういう癖というか習慣になっているのでしょう。見習うべき良い習慣です。
表門にかかっている龍源院の標札。U氏が「チョークでしろーく書いて・・・」と妙な節で詩吟っぽく呟いていましたが、この標札の寺号はチョークではなくて胡粉(ごふん)で書いてあるのでしょう。
U氏がしばらく観察し、「いかにも京都らしい優美で繊細な曲線造りの意匠だな」と表現していた欄間の連子です。正式には「欄間波形連子(らんまなみがたれんじ)」と呼ばれ、室町期以降の社寺建築や宮廷公家建築で多く見られます。もちろん、大徳寺山内にも同時期の建築遺構が幾つかありますから、この種の意匠は他の塔頭の建築でも見られます。 (続く)