「これが最後です。さようなら、さようなら」
1945年8月20日、間宮海峡に面した樺太南西部の街・真岡(ホルムスク)にソ連軍が攻め入った。
真岡郵便局の電話交換手は別の郵便局の同僚たちへこう伝えると、青酸カリで集団自決を図り、9人が亡くなった。
集団自決の2日前まで電話交換手をしていた栗山知ゑ子さは、夏になると同僚たちを思い出す。
「残っていたら、私も一緒に青酸カリを飲んでいただろう」
* 8人きょうだいの次女。家計を助けるため、17歳で電話交換手になった。
紺色の事務服を着て電話交換機の前に座り、耳に送受器を当てながら電話をつないだ。
女性ばかりの職場で、休み時間には和裁の話で盛り上がった。
給料は安かったが、「米が買える」と母に喜ばれた。
終戦直前、ソ連は日ソ中立条約を破棄して樺太や千島列島などに侵攻してきた。
真岡の住民には内地への引き揚げ命令が出ていた。
職場に残るか、避難するか。空襲警報や火事などの非常時、電話は鳴りやまない。
だが「お前がいなかったら困る」と母に強く言われ、仕事を辞めた。
「明日から来られないので辞めます」と言い残し、同僚と別れた。
2日後の悲劇はしばらく後に知った。
持ち運ぶ荷物の手続きをするために役所が開くのを待っていると、「ソ連が攻めてきた」と人々が押し寄せてきた。
家に帰ろうにも、人だかりでどうにもならない。
何も持たず、押し流されるように逃げた。
そこから4日間、川の水を飲みながら1人で逃げ続けた。
ついさっき通り過ぎたばかりの街に飛行機から爆弾が落とされ、火の海になった光景が忘れられない。
内陸部の豊原(ユジノサハリンスク)までたどり着くと、かっぽう着の女性が駆け寄ってきた。
母だった。抱きつくと母のぬくもりを感じ、涙があふれた。
しばらく滞在した後、真岡へ列車で戻った。
車窓から、日本兵がソ連兵に監視されながら列車を修復する姿が見えた。
「日本は負けたんだなあ」と実感した。
その後、北海道へ渡った。
和寒町のげた製造工場に奉公へ出て、すぐに農家の男性と結婚した。
寒い樺太ではイネが育たず、米は木に実るものだと思っていたので、田んぼを見て驚いた。
以来ずっと農業を続け、故郷には一度も戻っていない。
「もうあの頃の景色とは違うから、帰りたいとは思わない」
10年ほど前から、亡くなった9人を追悼する稚内市の平和祈念祭に参加している。
今年も行くつもりだ。「9人の写真に会いに行くの」。
だが祈念祭に並ぶ遺影に話しかけても、返事はない。
「生きてこそ。私は話もできるし、今を楽しめている」