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作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督、東京大学ゲノムAI生命倫理コア研究統括
1965年東京生まれ。
東京大学理学部物理学科卒業、同総合文化研究科博士課程修了。
2000年より東京大学大学院情報学環助教授、07年より同准教授、慶應義塾大学、東京藝術大学などでも後進の指導に当たる。
若くして音楽家として高い評価を受けるが、並行して演奏中の脳血流測定などを駆使する音楽の科学的基礎研究を創始、それらに基づくオリジナルな演奏・創作活動を国際的に推進している。
06年『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)で第4回開高健ノンフィクション賞受賞後は音楽以外の著書も発表。
アフリカの高校生への科学・音楽教育プロジェクトなどが、大きな反響を呼んでいる。
他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)、『知識・構造化ミッション』(日経BP)、『反骨のコツ』(団藤重光との共著、朝日新聞出版)、『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など。
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著書「患者よ、がんと闘うな」で知られる近藤誠医師の訃報(
)がありました。
報道によれば7月13日、出勤途上のタクシー車内で突然体調を崩し、そのまま搬送との経緯だったようです。
享年73歳、日本人男性としてはお若い範疇に入るでしょう。
まずはご冥福を心からお祈りしたいと思います。
本稿では近藤医師の活動を客観的に振り返ってみたいと思います。
ちなみに筆者は生前の近藤医師と一切面識はありません。
単に主要著書数冊の読者に過ぎず、その観点から、また医療統計、生命倫理に関わる一大学人の視点から、プラスマイナス双方から考えてみたいと思います。
〇「患者よ、ガンと闘うな」の衝撃
近藤誠医師の名が世に知られたのは1988年、「文藝春秋」に発表された「乳ガンは切らずに治る」という原稿からでしょう。
「切っても切らなくても生存率はほぼ同じ、なのに切るのは外科医の大問題」、いわば医学界内部から「告発」する内容で、センセーションを巻き起こしました。
当時、近藤医師は慶應義塾大学医学部放射線科の専任講師の職位にあり、また定年までその職位にとどめられ続けました。
何かと通風のよろしくない医学界内部から、医療の在り方そのものに疑問を呈する、近藤医師の行動は、勇気あるものと言えるでしょう。
1976年27歳で放射線科助手、83年34歳で専任講師・・・と、大過なく過ごしていればそのまま慶應医学部放射線科の領袖に収まっても不思議ではないキャリアに、自らストップをかけている。
放射線科医の観点から、当時は日本でほとんど行われていなかった乳がんの「温存療法」の重要性を説いた1988年の「文藝春秋」、39~40歳でのメディア発信が、近藤医師の人生を大きく転換しました。
過剰な治療を戒め、望まない患者には「放置療法」という、ある意味画期的な判断を下し、文春をはじめマス・メディアを通じて世論に訴える近藤医師独特の方法が確立したのは1990年代前半のことであったように思います。
個人的なことですが、筆者は小学1年6歳の時に父親を肺癌で失っています。
遺伝的に父と同様の特徴を持つことから、母親は過剰なほど私の「発癌可能性」を心配し、自分自身、子供の頃から癌や癌治療に一定の興味をもっていました。
そのため、「乳がんの温存療法」や過剰な治療でむしろ余命を縮めかねない「医は算術」的な趨勢に対して、近藤医師が孤軍奮闘する姿は、「大変だろうな」と思いつつ、当時は応援したい気持ちをもって見ていました。
訃報によれば近藤医師は1948年東京生まれ。
61年慶應義塾大学の付属中学である「中等部」に入学、慶應高校を経て慶應医学部に進学という「内部進学」です。
社会的にもエリートですし、また慶應義塾大学で教えてきた経験から思いますが「生え抜き」の「塾生塾員」は発言力が強い傾向がありますので、思い込んだら真っ直ぐという正義感に貫かれて、34歳のメディア展開、40歳の一大ジャンプを決意したのだろうと察します。
と同時に、大きな挫折を経験することなく順調にキャリアを進めてきた人が「王様は裸」と発言してしまう、エリートの直情径行を指摘できるかもしれません。
その結果、1988年34歳の「文藝春秋」から2014年の慶應義塾大学定年退職に至るまで、一貫して「専任講師」の職位に甘んじつつ、一面己の信念を貫く人生であったと言えるでしょう。
定年間際の2012年には「菊池寛賞」受賞。
ただこの頃から立て続けに出されるようになった書籍は「あなたの癌は、がんもどき」「医者に殺されない47の心得」「どうせ死ぬなら「がん」がいい」「抗がん剤だけはやめなさい」など七五調でゴロがよいタイトルながら、主張はエスカレート、「ホンマかいな?」と思うようなものが目立つようになりました。
2013年にはご自身の「セカンドオピニオン外来」を開設。書名も「何度でも言う、がんとは決して闘うな」など、かなり極端なものになりました。
しかし、私が近藤医師の主張にはっきりと疑問を持ったのは、聖路加病院小児科の細谷亮太さんと知り合い、小児がん治療の現実を知って以降のことになります。
〇21世紀、がん治療はパラダイムシフト
細谷亮太医師(https://www.kodomo-next.jp/messages/hosoya-ryota)は、今回確認して初めて認識したのですが1948年、近藤医師と同じ年に山形県でお生まれになりました。
東北大学医学部卒業後、聖路加国際病院小児科に勤続、現在は同病院特別顧問、小児総合医療センター長を務めておられる、小児がんの専門医です。
しかし私が細谷さんと知り合ったのは専門医としての細谷先生ではなく、俳人「細谷喨々」としてで、金子兜太さんのご縁でお目に掛かりました。
細谷さんから伺う21世紀に入ってからの「がん」特に「小児がん」の変化は、私が全く認識していないものでした。細谷さんはおっしゃいました。
「20世紀の間、小児がん病棟は、小さな命の限られた残りの時間を、どのように人間らしく、幸せに送らせてやるかが問題でした。
小児がんは治らない病気、死病でした」
「ところが21世紀に入ってがん治療は完全に変わった。
小児がんは『死病』ではなく『死なない病気』あるいは『死ねない病気』に変わっています」
「以前ならまず助かることのなかった子供の命が救われる。
と同時に、治療の結果、いろいろな意味で通常とは違う身体になっている自分自身と、一生向き合いながら生き続けていかねばならない。
その問いかけに応えるのは、医師として大変な難問の連続」
こう細谷先生はおっしゃいます。
細谷さんの口から近藤医師の名が出たわけではなかったと思いますが、「がん治療薬」の劇的な変化、特にそれによって「救われた命」である「こどもの心」と向き合いつつ、俳句を念じて答えのない問題への答えを逍遥する俳人、細谷喨々の精神に触れ、深く感銘を受けました。
20世紀以来一貫している近藤医師のメディア喧伝、必ずしも真ならずを印象づけられた記憶の一つです。
〇本庶研究はインチキか?
昨年私は新型コロナウイルス対策の書籍を1冊書いたのですが、それにあたって既刊の書籍に目を通す機会がありました。
率直に申して、商用出版で世の中に出ている「コロナ本」で感心するものは非常に少なかった。
その中でも「よく売れている」という近藤誠さんの書籍は、亡くなったばかりの方ですから詳細は控えますが、およそ感心できるものではありませんでした。
このケースでは本のメーキング・オブも分かりました。
ざっくりとした語りおろしなりメモなりをもとに、実際に原稿を作るのは「ライター」です。
名義上は医師が書いた本ですが、現実には医者でも何でもない、ゴーストライターがまとめたものなので、筆者としての近藤医師に云々とは申しません。
しかし、そうしたいわゆる「ゾッキ本」を医師の肩書で量産する困った商法が跋扈し「反ワクチン」などに傾いていくと、これはいろいろ問題だとも思いました。
ここではごく一部を引くに留めようと思います。
一つは2021年3月「ワクチン死」に関する記述(https://kondo-makoto.com/report/report013.html)。
ここで「くも膜下出血」は1年あたり「人口10万人あたり20人」が発症という医療統計の数字をある1日に「ワクチン接種」を受けた6634人に掛け算して0.0108人と計算していますがこれは意味がありません。
10万人当たり20人発症という医療統計(https://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0081/G0000002/0017)は、日本全国で年間約2万5000人程度の発症数があり、これは先進国の中では高い方・・・といったときに用いるのが普通です。
「10万人当たり20人の発症だから0.01%だ。ということは、我が家の一家5人に対しては0.0005人の確率だからまず大丈夫だよね、お爺ちゃんは喫煙者で高血圧だけど(笑)」というのとほぼ同様のことを言っています。
この問題に関して、私は医療統計と生命倫理の観点から「ワクチン接種」によるショックが生命のリスクとなりうる「最後のひと藁」問題を正面から取り上げる、日本では珍しい大学人の一人です。
ラクダの背中に藁をつんだからといって、ラクダが圧死したりはしない。
でも、すでに大変な量の藁を積んだ老ラクダの背に、最後の一藁を載せた瞬間、ラクダの体力が尽きて潰れてしまう・・・。
そういう状況が高齢者や既往症を持つ人などにありうるという防疫倫理の問題ですが、そうした議論では統計は正確に用いる必要があります。
もう一つ、先ほどの「小児がん」などに関連して疑義を指摘せざるを得ない近藤さんの議論として2017年11月のモノクローナル抗体療法への言及(https://kondo-makoto.com/report/report002.html)を挙げておきます。
ここでは「夢の新薬 オプジーボは無効だった」と、モノクローナル抗体「ニボルマブ」による療法を「一刀両断」しています。
新薬開発には莫大なお金が投じられており、効果がないものもあったように取り繕っている、インチキだというのがここでの主張なのですが・・・。
国際社会は現実の治療実績から物事を判断します。
果たして実際はどうだったのか?
このブログから11か月後、オプジーボ(商標)ことニボルマブを含む免疫チェックポイント阻害因子療法の発見、確立業績に対して、本庶祐教授とジェームズ・アリソン博士に2018年度ノーベル医学生理学賞(https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/2018/press-release/)が与えられました。
新薬やそこへの巨額投資といった「世話物」の話ではなく、免疫チェックポイント阻害因子という本質的なメカニズムの発見と、その治療への応用、臨床実績、すべてが隠れなく評価され、ノーベル賞の授与に至った。
現実はこちらでした。
さて、一般に大学などでは、ミスの発表があればウエブの編集整理を行います。
しかし、孤軍奮闘の中でのブログ発信なのでしょう。
そうした整理はなされていないようで、上にリンクもできました。
これはアカデミアでは許されないことです。
〇ロールプレイの自己模倣:孤軍奮闘の悲劇
端的に言って後年になってからの近藤医師の議論は、最新の基礎研究成果などを十分追えておらず、話が古いのに加え、「世話物」的な背景譚が目立ち、科学的ではないものが目立ちました。
拠って立つ医学背景は大半が1980年代以前、まあ20世紀のバックグラウンドで、臨床の経験は続いたと思いますが、基礎がリニューアルされることは少なかったように思われます。
前半生の1980年代、30代で見出した「敵」と闘い続けた、後半生の三十数年であったように思われます。
翻って、21世紀に入ってからのサイエンスの進展は爆発的で、とてもではないですが一人でフォローなどできません。
慶應医学部の中では「文藝春秋」以降、解雇もできないけれど教授昇進などもあり得ず、必然的に浮いた存在とならざるを得なかったことでしょう。
「孤軍奮闘」はご自身が若い時期はまだしも、下につく世代の人が出てきて以降、進歩の早い医科学の世界ではプラスに働くことはなかった可能性が高い。
メディアは一度作られ確立されたイメージをなぞり続けることをタレントに要求します。
21世紀に入ってから散見された、息切れが目立つ後半の記載や論述からはそのような姿が垣間見られました。
本来はタレントではないはずの医師が「患者よ、がんと闘うな」というイメージを自分自身でなぞり直す、いわば自己模倣による社会経済の回転を求められた可能性を、率直に申して、強く感じました。
近藤医師は最期まで何かと闘い続けていたような気がします。
しかし、もうその必要はありません。闘うことなく、ゆっくり休んでもらいたいと思います。
と同時に「反ワクチン」を筆頭に、医科学的に誤った根拠から、困った防疫や療法に走るケースは、現在のコロナでも普通に見かけます。
特に「がん」に関しては、患者は鋭意「がんと戦って勝つ」べきだと思います。
これは親父をこの病気で失った「がん体質」の一個人としても強く思うところです。
医療は「患者さん、がんと闘って、そして勝ちましょう」とクリーンファイトで応援するのが本道です。
もう一つ重要なのは「難しいことは分からないから、先生、一番良いようにしてください、お願いします」という「がんの医者任せ」的思考停止、患者自身の医療リテラシーに最大の問題が宿っています。
それを克服しなければ。これは私たち日本社会全体の問題にほかなりません。
自らの病気をよく知り、何が有効か、インフォームドコンセントの内容をしっかり咀嚼する知の力があれば、患者はがんと賢明に戦い、克服できるのが21世紀医療の標準となりつつあります。
改めて近藤医師のご冥福をお祈りするとともに、医療リテラシーの向上を心から願ってやみません。