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ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

(^_^♪) 世界でいちばん熱い夏 / PRINCESS PRINCESS

2022-08-17 16:23:16 | 連絡
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80年前、太平洋を押さえようとした日本 ミッドウェー海戦と中国を重ねて見える教訓2022.06.07下平拓哉牧野愛博

2022-08-17 13:13:45 | 連絡
ミッドウェー海戦で米艦載機の攻撃を受け大破炎上する日本海軍の重巡洋艦「三隈」=米軍提供 
<下記 URL
参照
日米両軍が、太平洋戦争中に中部太平洋の制海権をかけて戦ったミッドウェー海戦から80年にあたる。
太平洋戦争で日本軍が初めて敗れ、敗戦への転換点となったこの戦い、日本の敗因はどこにあり、何を教訓とすべきなのか。
中国の太平洋進出を重ねながら、下平拓哉
<(しもだいら たくや) 米海軍大学客員教授、防衛省海上幕僚監部防衛部 1等海佐。 
防衛大学校(電気工学)卒、筑波大学大学院地域研究研究科(地域研究学修士)、アジア太平洋 安全保障センター(APCSS)(エグゼクティブ・コース)、国士舘大学大学院政治学研究科(政治学博士)。
護衛艦いしかり艦長、護衛艦隊司令部作戦幕僚、統合幕僚監部防衛交流班長、第1護衛隊群司令部首席幕僚兼作戦主任幕僚、幹部学校第2教官室長、同校防衛戦略教育研究部課程管理室長などを経て、現職。専門分野は非伝統的安全保障、米国戦略、終戦外交。
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・事業構想大学院大学教授(元海将補)に聞いた。
米海軍大(ロードアイランド州)客員教授も務めた下平氏は「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」という言葉を引いた。
(牧野愛博
<メールがないテレックスの時代、外航海運の会社で働いていました。記者になってからも、世界をのぞく仕事ができて幸せです。
朝日新聞外交専門記者。広島大学客員教授。1965年生まれ。57歳。
大阪商船三井船舶(現商船三井)を経て91年、朝日新聞入社。
瀬戸通信局長、政治部員、全米民主主義基金(NED)客員研究員、ソウル支局長、編集委員(朝鮮半島、米朝・日米関係担当)などを経て、21年4月から現職。
著書に『絶望の韓国』(文春新書)、『金正恩の核が北朝鮮を滅ぼす日』(講談社+α新書)、『ルポ金正恩とトランプ』(朝日新聞出版)、『ルポ「断絶」の日韓』(朝日新書)など。

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日本軍は1941年12月の真珠湾攻撃で勝利したが、米空母機動部隊は無傷だった。
そこで急きょ、立案されたのが中部太平洋のミッドウェー島攻略だった。
島を攻略すれば、米機動部隊が出動してくる。
そこで艦隊決戦を挑んで勝利するというのが、日本軍の作戦だった。
日米両軍は日本時間の1942年6月5日から7日にかけ、中部太平洋の制海権をかけて戦った。
日本軍は島の攻略と米機動部隊との決戦という二つの目標で揺れ動き、赤城や加賀など主力空母4隻とベテランのパイロット多数を失い、敗戦への転換点になった。

ミッドウェー島
<下記 URL
参照
下平氏によれば、ミッドウェー海戦当時、日本軍が兵力で米軍を圧倒していた。
日本軍は各地で勝利を続け、「不敗神話」が広がっていた。
米海軍大などでの戦史研究でも、ミッドウェー海戦当時の日本の兵力や作戦計画は高く評価されているという。
「当時、空母エンタープライズに乗艦していたスプールアンス提督が、艦載機を通常よりも早く発艦させたことが、米軍の勝利に大きくつながりました。これは偶然の産物だったという評価を受けています」
米メリーランド州アナポリスにある米海軍士官学校の中庭には、ミッドウェー海戦の記念碑群がある。
これらには、ミッドウェー海戦は事前予想で、米軍敗戦の可能性が濃厚だったことが刻まれている。
敗戦が決定的だったミッドウェー海戦で勝利した事実を伝え、米海軍の慢心を戒める。
記念碑群には、そんな意味が込められている。
業構想大学院大学教授で元海将補の下平拓哉氏=本人提供 
<下記 URL
参照
一方、下平氏は日本の敗戦を語る「以前からの評価」として、「ミッドウェー島とアリューシャン列島の攻略を同時に行って兵力を分散させてしまいました。
ミッドウェーでも島の攻略と空母機動部隊の撃滅という2つの目的を持ち、混乱を招きました」と説明する。
下平氏によれば、ミッドウェー海戦当時、日本軍のパイロットは米軍の雷撃機を次々に撃墜し、日本空母への魚雷攻撃をほとんど許さなかった。
米軍が成功した急降下爆撃は通常、船体に穴を開ける程度の破壊力しかないが、空母の甲板で航空機に搭載する爆弾と魚雷の交換作業などが行われていたため、被害を大きくしたとされる。
1942年6月4日(米国時間)、日本軍の攻撃を受けて黒煙を上げる米空母ヨークタウン=米海軍歴史・遺産コマンド(旧・米海軍歴史センター)のホームページから 
<下記 URL
参照
しかし、敗戦の理由はそれだけではない、というのが下平氏の考えだ。
米軍は真珠湾攻撃や珊瑚海海戦の教訓から、情報収集や空母の防衛の重要性などを認識し、戦い方を修正していました」とも指摘する
1 942年6月4日(米国時間)、米空母エンタープライズからの出撃を待つ艦載機=米海軍歴史・遺産コマンド(旧・米海軍歴史センター)のホームページから 
<下記 URL
参照
米国は20世紀初めから、日本を仮想敵とした「オレンジプラン」の検討を始めた。
1911年には、米海軍で初めての対日作戦案が完成。
太平洋艦隊のニミッツ司令長官は開戦時から、4千ページにわたって日本に対する戦い方を分析・評価した「グレーブック」を作成していた。
下平氏によれば、グレーブックによって、「オレンジプラン」に二つの項目が抜け落ちていたことが明らかになった。
一つは、真珠湾攻撃のように、日本が米軍の大規模な海軍基地をそっくり攻撃する場合の対応。
そしてもう一つが、ミッドウェー海戦の直前の42年5月にあった、珊瑚海海戦で行われた空母決戦での対応だった。
下平氏は「米軍はこの二つの失敗から、情報収集の重要性を改めて認識しました。
日本がミッドウェー島を攻略するという情報も事前につかんでいました」と語る。
実際、日本軍はミッドウェー島攻略を始めた時、米機動部隊は真珠湾にいると考えていた。
「予想と異なり、米機動部隊がすぐそばに迫っていたことも、日本軍の混乱を招くひとつの原因になりました」
米軍は珊瑚海海戦で、日本空母の防空能力が弱い事実を認識し、ミッドウェー海戦では空母を集中的に攻撃した。
日本側が4隻の空母を分散配置させなかったことも被害を大きくしたという。
下平氏は「そもそも、日本は米国に対する認識を誤りました。
開戦すべきではなかったと思います」と語る。
1942年6月、米軍の攻撃を受けて炎上する空母「飛龍」=米海軍歴史・遺産コマンド(旧・米海軍歴史センター)のホームページから
<下記 URL
参照
真珠湾攻撃もミッドウェー海戦も、山本五十六連合艦隊司令長官が強く主張して実現した作戦だった。
山本氏は当時、日米の圧倒的な国力の差を痛感していた。
1940年には、当時の近衛文麿首相から対米戦争に対する意見を聞かれた際、「ぜひやれと言われれば半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが、2年、3年となれば、まったく確信は持てない」と語っている。
下平氏は、その山本氏ですら、米国人の気質を十分理解していなかったと指摘する。
「山本氏の戦略は、緒戦で米国をたたいて戦意をくじくという、日露戦争と同じ発想でした。
でも、米国人は真珠湾攻撃に激怒し、
徹底的に戦う姿勢を示しました」
米海軍歴史・遺産コマンド(旧・米海軍歴史センター)のミッドウェー海戦インフォグラフ。失った空母は米国1、日本4などと記されている。左下の右側の人物はニミッツ太平洋艦隊司令長官=同コマンドのホームページから 
<下記 URL
参照
下平氏も在籍した米海軍大では第2次大戦以降も、ベトナム戦争やイラク戦争などの際、必ず図上演習を行う場として活用されてきた。
米軍は現在、ミッドウェー海戦のような空母決戦はないと考えている。
海戦は、「航行の自由作戦」のような任務遂行中の複数の艦艇が敵と遭遇した場合に行われるとみているという。
「現代は、ミサイルや宇宙、サイバーなどを使った戦闘が主流になっています。
小型艦艇を多数建造し、殺傷力の強い兵器を搭載する考えが主流です」 
80年前の日本軍に代わり、現代では中国が中部太平洋の制海権に意欲を示している。
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「逆さ地図」で見る、中国にとって邪魔な日本 強引に海を渡ろうとする中国の真意2015/05/26松本 利秋
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/00d909d8df56161f055bbacd182e3122


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中国の対米戦略は「A2・AD戦略」(接近阻止・領域拒否=Anti Access・Area Denial)。
米軍の接近を、九州南端から沖縄・台湾などを経てフィリピンに至る「第1列島線」と、伊豆諸島からインドネシアに至る「第2列島線」の間で阻止し、第1列島線の内側に入ることを拒否しようとしている。
ミッドウェー島は、「第2列島線」と、中国が勢力の拡大を狙っているとされる、ハワイや米領サモアなどにかけて延びる「第3列島線」の中間海域にある。
中国は5月30日、同じ海域に点在する南太平洋の10カ国と外相会議を行った。中国は安全保障関係の強化を含む新たな地域間合意をめざしたが、合意には至らなかったとされる。
 下平氏は「『歴史は繰り返さないが、韻を踏む』という言葉があります。
孫子やクラウゼビッツの言葉が今でも重視されるのは、このためです。
中国の歴史や国民性、論理を知ることが、ミッドウェー海戦の敗北を繰り返さないことにつながるのではないでしょうか」と語った。

 
 
 

ミッドウェー海戦を敗北させた指揮官たちの判断2022年8月15日畑野 勇

2022-08-17 11:37:47 | 連絡
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畑野 勇
 1971年生まれ。51歳。
95年、武蔵工業大学工学部電気電子工学科卒業。
2002年、成蹊大学大学院法学政治学研究科博士後期課程修了、博士号(政治学)取得。
著書に『近代日本の軍産学複合体』(創文社)。
 
 
 太平洋戦争の戦況を変えたと言えるミッドウェー海戦から80年が経過した。敗因は数多く挙げられているが、終戦の日にあたり「切所における最高指揮官の判断」を考えてみたい。 
いまから80年前の1942年6月5日(日本時間)、日本海軍の第一機動部隊、いわゆる南雲艦隊が発進させた索敵機の1機が敵空母艦隊を発見し、電報で報告した。
そのとき、日本側の空母4隻の搭載機は、対艦攻撃用の魚雷や徹甲爆弾から、米ミッドウェー基地攻撃用の陸上用爆弾へと、装備を積み換えているさなかであった。
この報を受けて、山口多聞第二航空戦隊司令官は、南雲忠一長官に対して「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と具申したが、南雲は山口の意見を容れなかった。
 このとき即座に発進が可能だった攻撃隊は、山口が率いる空母「飛龍」・「蒼龍」艦上で陸上用爆弾を搭載していた爆撃機36機であった。
この時点で南雲艦隊は敵航空機から絶え間ない攻撃にさらされており、飛行可能な戦闘機はその迎撃に使用されていた。
山口は、味方の戦闘機による護衛が得られず、大きな損害を受ける可能性が高いものの、この戦力でも敵空母には相当な打撃を与えうるものと観測し、この機会を逃さないことを重視したのである。
それに対し南雲は山口の提案を退け、その代わりに護衛戦闘機を随伴させ、対艦攻撃用に再度の兵装転換を終えた4空母の搭載機によって敵艦隊を攻撃することを決定した。
また、その準備中に、この日の早朝からミッドウェーの空襲に向かわせていた約百機の攻撃隊を、それぞれの母艦に収容することとした。
 この攻撃隊の準備には最低2時間は要するが、その間に敵の空襲が続くとしても、艦隊護衛の戦闘機によって撃退できるという判断が、その根底にあったといえる。 
〇明暗を分けたのは「運命の五分間」ではない
史実として、攻撃隊の発進前に「赤城」・「加賀」・「蒼龍」の3隻の空母が被爆して大火災を生じ、日本側が海戦の主導権を失ったのであるから、この決定は失敗であったことになる。 
お、3空母の被爆炎上が日本側の攻撃隊発進完了のわずか5分前であったという、いわゆる「運命の五分間」説が戦後長く広まっていたが、1971年に刊行された防衛研修所編纂の公刊戦史『戦史叢書・ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社)では、「3空母は被爆時に攻撃隊の準備を終えておらず、兵装転換の作業中であった」旨の記載がある。
「運命の五分間」説へのこのような否定的見解を採るならば、南雲の決定は、決定時の予想よりも攻撃隊準備に相当長い時間を要し、戦闘の見通しを誤ったものとして、いっそう批判を受けることになる。
南雲艦隊司令部のこの判断には、敵機の長時間にわたる波状攻撃への対処に追われ、またその敵機(爆撃機や雷撃機)が戦闘機の護衛を持たず、日本側の艦隊直衛機(ゼロ戦)に次々と撃墜される様子を目の当たりにしたことが、心理的に影響したといわれる。
では、結果としては失敗であった南雲艦隊のこの決定をくつがえす機会はなかったのだろうか。
〇楽観的過ぎた見立て
もともと連合艦隊司令部は、米軍がミッドウェー海域に空母を出撃させて日本側を待ち構えている可能性をほとんど考慮しておらず、「米空母は日本側がミッドウェーを攻略した後に出撃してくる」という、後世から見れば一方的・楽観的に過ぎた観測のもとに作戦を立てていた。
また、東京にある軍令部(大本営海軍部)は、この作戦の主目的を「ミッドウェー島を攻略し、同方面よりする敵国艦隊の機動を封止し、兼ねて我が作戦基地を推進する」と、同島の占領であることを定め、わずかに作戦要領において「攻略作戦を支援掩護すると共に、反撃の為出撃し来ることあるべき敵艦隊を捕捉撃滅す」と示すだけであった。
そして南雲艦隊司令部は、その軍令部の命令に沿って、ミッドウェー基地の空襲破壊を重視して行動しており、敵艦隊の捜索体制はきわめて不十分であった。
そのうえ日本側は、前月の珊瑚海海戦で受けた損害からミッドウェー作戦への参加可能空母数が6隻から4隻へと減少し、かつ、米側に暗号を解読されて3隻の空母による待ち伏せを受けていながらそれに気づかないという不利な状況に陥りつつあった。
 その状況下にもかかわらず、自軍の艦艇がほとんど損害を受けていない間に敵艦隊を発見することができたのである。
このとき連合艦隊司令長官山本五十六が座乗し、南雲艦隊から後に数百キロ離れた海域にいた戦艦「大和」も、その報告に接していた。
 山本は、「すぐ攻撃隊を発進させるよう南雲艦隊に命令すべきではないか」と述べたが、連合艦隊参謀の黒島亀人は、「南雲艦隊はこのような事態への対処は万全なはず」として同意せず、何の措置も講じられなかった。
〇通信環境により伝わり切らなかった切迫感
遠く離れた「大和」から何ら命令が発せられなかったとしても、冒頭に記したような、航空戦指揮の経験が深い山口多聞による意見具申が採用されれば、米空母艦隊のそれよりもはるかに高度な技量を持っていた日本側の航空兵力によって、日本海軍の一方的な敗北は避けられたはず、という意見もあるかも知れない。
しかし、米艦隊ですでに実用化され、戦闘に常用されていた艦対艦・艦対空・空対空の超短波電話(VHF)は、日本側では艦対艦の通話が使えるかどうかという状況であり、山口が南雲に意見しようとしても、発光信号か電報に頼るほかなかった。 
考えてみれば、山口が南雲に直接電話で、戦機を逃さずに攻撃隊を即時発進させることの重要性を伝えるのではなく、「直ちに攻撃隊発進の要あり」という発光信号(あるいは手旗信号)を受け取り、その内容を記した紙を信号兵が司令部に届けるだけで終わるのでは、南雲艦隊司令部における判断の材料として、その重要性・緊急性がきわめて低くなるのは避けられない。
そのときに、作戦部隊全般を指揮する立場の連合艦隊司令部が、結果として無為に終止したという批判は免れないであろう。
作戦の前提が崩れたことが判明したときや想定外のことが起きたときには、その責任を明らかにして、どう体勢を立て直すかを迅速に判断して麾下に明示するのが最高指揮官のなすべきことであると考えるならば、この海戦の敗北における最高指揮官としての山本の責任は、きわめて大きいと言わねばならない
 〇敗因はミッドウェー海戦前からあったのか?
ミッドウェー海戦の直後に機動部隊(第三艦隊)の情報参謀となり、翌年から連合艦隊司令部で情報参謀として勤務した中島親孝(終戦時に中佐)は、戦後出版した回想『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』(光人社)において、
「連合艦隊の戦いのあとをふりかえってみると、一般的には批判されることのすくない、戦争前半の作戦指揮に、かえって問題があると思われてならない」と総括している
ハワイ作戦の計画実施からガダルカナルの撤退、山本の戦死までの間、山本本人や司令部スタッフの観測や判断、軍令部との関係や麾下の艦隊への指揮統率ぶりなどをたどり、いまからちょうど77年前の敗戦をもたらした因子がどこにあったかを考えることはきわめて重要な作業といえるだろう。
(本稿の執筆にあたっては、阿部安雄氏のご教示に負うところがきわめて大きかった。記して謝意を申し上げます)




患者よ、がんと闘おう! 近藤誠医師の訃報に寄せて2022.8.16(火)伊東 乾

2022-08-17 10:20:57 | 連絡
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作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督、東京大学ゲノムAI生命倫理コア研究統括
1965年東京生まれ。
東京大学理学部物理学科卒業、同総合文化研究科博士課程修了。
2000年より東京大学大学院情報学環助教授、07年より同准教授、慶應義塾大学、東京藝術大学などでも後進の指導に当たる。
若くして音楽家として高い評価を受けるが、並行して演奏中の脳血流測定などを駆使する音楽の科学的基礎研究を創始、それらに基づくオリジナルな演奏・創作活動を国際的に推進している。
06年『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)で第4回開高健ノンフィクション賞受賞後は音楽以外の著書も発表。
アフリカの高校生への科学・音楽教育プロジェクトなどが、大きな反響を呼んでいる。
他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)、『知識・構造化ミッション』(日経BP)、『反骨のコツ』(団藤重光との共著、朝日新聞出版)、『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など。
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著書「患者よ、がんと闘うな」で知られる近藤誠医師の訃報(

)がありました。
 報道によれば7月13日、出勤途上のタクシー車内で突然体調を崩し、そのまま搬送との経緯だったようです。
享年73歳、日本人男性としてはお若い範疇に入るでしょう。
 まずはご冥福を心からお祈りしたいと思います。
本稿では近藤医師の活動を客観的に振り返ってみたいと思います。
ちなみに筆者は生前の近藤医師と一切面識はありません。
単に主要著書数冊の読者に過ぎず、その観点から、また医療統計、生命倫理に関わる一大学人の視点から、プラスマイナス双方から考えてみたいと思います。
〇「患者よ、ガンと闘うな」の衝撃
近藤誠医師の名が世に知られたのは1988年、「文藝春秋」に発表された「乳ガンは切らずに治る」という原稿からでしょう。
「切っても切らなくても生存率はほぼ同じ、なのに切るのは外科医の大問題」、いわば医学界内部から「告発」する内容で、センセーションを巻き起こしました。
 当時、近藤医師は慶應義塾大学医学部放射線科の専任講師の職位にあり、また定年までその職位にとどめられ続けました。
何かと通風のよろしくない医学界内部から、医療の在り方そのものに疑問を呈する、近藤医師の行動は、勇気あるものと言えるでしょう。
 1976年27歳で放射線科助手、83年34歳で専任講師・・・と、大過なく過ごしていればそのまま慶應医学部放射線科の領袖に収まっても不思議ではないキャリアに、自らストップをかけている。
 放射線科医の観点から、当時は日本でほとんど行われていなかった乳がんの「温存療法」の重要性を説いた1988年の「文藝春秋」、39~40歳でのメディア発信が、近藤医師の人生を大きく転換しました。
過剰な治療を戒め、望まない患者には「放置療法」という、ある意味画期的な判断を下し、文春をはじめマス・メディアを通じて世論に訴える近藤医師独特の方法が確立したのは1990年代前半のことであったように思います。
 個人的なことですが、筆者は小学1年6歳の時に父親を肺癌で失っています。
 遺伝的に父と同様の特徴を持つことから、母親は過剰なほど私の「発癌可能性」を心配し、自分自身、子供の頃から癌や癌治療に一定の興味をもっていました。
 そのため、「乳がんの温存療法」や過剰な治療でむしろ余命を縮めかねない「医は算術」的な趨勢に対して、近藤医師が孤軍奮闘する姿は、「大変だろうな」と思いつつ、当時は応援したい気持ちをもって見ていました。
訃報によれば近藤医師は1948年東京生まれ。
61年慶應義塾大学の付属中学である「中等部」に入学、慶應高校を経て慶應医学部に進学という「内部進学」です。
 社会的にもエリートですし、また慶應義塾大学で教えてきた経験から思いますが「生え抜き」の「塾生塾員」は発言力が強い傾向がありますので、思い込んだら真っ直ぐという正義感に貫かれて、34歳のメディア展開、40歳の一大ジャンプを決意したのだろうと察します。
と同時に、大きな挫折を経験することなく順調にキャリアを進めてきた人が「王様は裸」と発言してしまう、エリートの直情径行を指摘できるかもしれません。
 その結果、1988年34歳の「文藝春秋」から2014年の慶應義塾大学定年退職に至るまで、一貫して「専任講師」の職位に甘んじつつ、一面己の信念を貫く人生であったと言えるでしょう。
 定年間際の2012年には「菊池寛賞」受賞。
 
 
ただこの頃から立て続けに出されるようになった書籍は「あなたの癌は、がんもどき」「医者に殺されない47の心得」「どうせ死ぬなら「がん」がいい」「抗がん剤だけはやめなさい」など七五調でゴロがよいタイトルながら、主張はエスカレート、「ホンマかいな?」と思うようなものが目立つようになりました。
2013年にはご自身の「セカンドオピニオン外来」を開設。書名も「何度でも言う、がんとは決して闘うな」など、かなり極端なものになりました。
 しかし、私が近藤医師の主張にはっきりと疑問を持ったのは、聖路加病院小児科の細谷亮太さんと知り合い、小児がん治療の現実を知って以降のことになります。
 
〇21世紀、がん治療はパラダイムシフト
細谷亮太医師(https://www.kodomo-next.jp/messages/hosoya-ryota)は、今回確認して初めて認識したのですが1948年、近藤医師と同じ年に山形県でお生まれになりました。
 東北大学医学部卒業後、聖路加国際病院小児科に勤続、現在は同病院特別顧問、小児総合医療センター長を務めておられる、小児がんの専門医です。
 しかし私が細谷さんと知り合ったのは専門医としての細谷先生ではなく、俳人「細谷喨々」としてで、金子兜太さんのご縁でお目に掛かりました。
 細谷さんから伺う21世紀に入ってからの「がん」特に「小児がん」の変化は、私が全く認識していないものでした。細谷さんはおっしゃいました。
「20世紀の間、小児がん病棟は、小さな命の限られた残りの時間を、どのように人間らしく、幸せに送らせてやるかが問題でした。
小児がんは治らない病気、死病でした」
「ところが21世紀に入ってがん治療は完全に変わった。
小児がんは『死病』ではなく『死なない病気』あるいは『死ねない病気』に変わっています」
「以前ならまず助かることのなかった子供の命が救われる。
と同時に、治療の結果、いろいろな意味で通常とは違う身体になっている自分自身と、一生向き合いながら生き続けていかねばならない。
その問いかけに応えるのは、医師として大変な難問の連続」 
こう細谷先生はおっしゃいます。
 細谷さんの口から近藤医師の名が出たわけではなかったと思いますが、「がん治療薬」の劇的な変化、特にそれによって「救われた命」である「こどもの心」と向き合いつつ、俳句を念じて答えのない問題への答えを逍遥する俳人、細谷喨々の精神に触れ、深く感銘を受けました。
 20世紀以来一貫している近藤医師のメディア喧伝、必ずしも真ならずを印象づけられた記憶の一つです。
〇本庶研究はインチキか?
昨年私は新型コロナウイルス対策の書籍を1冊書いたのですが、それにあたって既刊の書籍に目を通す機会がありました。 
 率直に申して、商用出版で世の中に出ている「コロナ本」で感心するものは非常に少なかった。
 その中でも「よく売れている」という近藤誠さんの書籍は、亡くなったばかりの方ですから詳細は控えますが、およそ感心できるものではありませんでした。
 このケースでは本のメーキング・オブも分かりました。
ざっくりとした語りおろしなりメモなりをもとに、実際に原稿を作るのは「ライター」です。
名義上は医師が書いた本ですが、現実には医者でも何でもない、ゴーストライターがまとめたものなので、筆者としての近藤医師に云々とは申しません。
 しかし、そうしたいわゆる「ゾッキ本」を医師の肩書で量産する困った商法が跋扈し「反ワクチン」などに傾いていくと、これはいろいろ問題だとも思いました。
ここではごく一部を引くに留めようと思います。
一つは2021年3月「ワクチン死」に関する記述(https://kondo-makoto.com/report/report013.html)。
 ここで「くも膜下出血」は1年あたり「人口10万人あたり20人」が発症という医療統計の数字をある1日に「ワクチン接種」を受けた6634人に掛け算して0.0108人と計算していますがこれは意味がありません。
10万人当たり20人発症という医療統計(https://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0081/G0000002/0017)は、日本全国で年間約2万5000人程度の発症数があり、これは先進国の中では高い方・・・といったときに用いるのが普通です。 
「10万人当たり20人の発症だから0.01%だ。ということは、我が家の一家5人に対しては0.0005人の確率だからまず大丈夫だよね、お爺ちゃんは喫煙者で高血圧だけど(笑)」というのとほぼ同様のことを言っています。
 この問題に関して、私は医療統計と生命倫理の観点から「ワクチン接種」によるショックが生命のリスクとなりうる「最後のひと藁」問題を正面から取り上げる、日本では珍しい大学人の一人です。
ラクダの背中に藁をつんだからといって、ラクダが圧死したりはしない。
 でも、すでに大変な量の藁を積んだ老ラクダの背に、最後の一藁を載せた瞬間、ラクダの体力が尽きて潰れてしまう・・・。
 そういう状況が高齢者や既往症を持つ人などにありうるという防疫倫理の問題ですが、そうした議論では統計は正確に用いる必要があります。
 もう一つ、先ほどの「小児がん」などに関連して疑義を指摘せざるを得ない近藤さんの議論として2017年11月のモノクローナル抗体療法への言及(https://kondo-makoto.com/report/report002.html)を挙げておきます。
ここでは「夢の新薬 オプジーボは無効だった」と、モノクローナル抗体「ニボルマブ」による療法を「一刀両断」しています。
 新薬開発には莫大なお金が投じられており、効果がないものもあったように取り繕っている、インチキだというのがここでの主張なのですが・・・。
国際社会は現実の治療実績から物事を判断します。
果たして実際はどうだったのか?
 このブログから11か月後、オプジーボ(商標)ことニボルマブを含む免疫チェックポイント阻害因子療法の発見、確立業績に対して、本庶祐教授とジェームズ・アリソン博士に2018年度ノーベル医学生理学賞(https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/2018/press-release/)が与えられました。
 新薬やそこへの巨額投資といった「世話物」の話ではなく免疫チェックポイント阻害因子という本質的なメカニズムの発見と、その治療への応用、臨床実績、すべてが隠れなく評価され、ノーベル賞の授与に至った。
現実はこちらでした。
さて、一般に大学などでは、ミスの発表があればウエブの編集整理を行います。
 しかし、孤軍奮闘の中でのブログ発信なのでしょう。
そうした整理はなされていないようで、上にリンクもできました。
これはアカデミアでは許されないことです。
〇ロールプレイの自己模倣:孤軍奮闘の悲劇
端的に言って後年になってからの近藤医師の議論は、最新の基礎研究成果などを十分追えておらず、話が古いのに加え、「世話物」的な背景譚が目立ち、科学的ではないものが目立ちました。
 拠って立つ医学背景は大半が1980年代以前、まあ20世紀のバックグラウンドで、臨床の経験は続いたと思いますが、基礎がリニューアルされることは少なかったように思われます。
 前半生の1980年代、30代で見出した「敵」と闘い続けた、後半生の三十数年であったように思われます。
翻って、21世紀に入ってからのサイエンスの進展は爆発的で、とてもではないですが一人でフォローなどできません。 
慶應医学部の中では「文藝春秋」以降、解雇もできないけれど教授昇進などもあり得ず、必然的に浮いた存在とならざるを得なかったことでしょう。
「孤軍奮闘」はご自身が若い時期はまだしも、下につく世代の人が出てきて以降、進歩の早い医科学の世界ではプラスに働くことはなかった可能性が高い。
 メディアは一度作られ確立されたイメージをなぞり続けることをタレントに要求します。
21世紀に入ってから散見された、息切れが目立つ後半の記載や論述からはそのような姿が垣間見られました。
本来はタレントではないはずの医師が「患者よ、がんと闘うな」というイメージを自分自身でなぞり直す、いわば自己模倣による社会経済の回転を求められた可能性を、率直に申して、強く感じました。
 近藤医師は最期まで何かと闘い続けていたような気がします。
しかし、もうその必要はありません。闘うことなく、ゆっくり休んでもらいたいと思います。
と同時に「反ワクチン」を筆頭に、医科学的に誤った根拠から、困った防疫や療法に走るケースは、現在のコロナでも普通に見かけます。 
特に「がん」に関しては、患者は鋭意「がんと戦って勝つ」べきだと思います。
これは親父をこの病気で失った「がん体質」の一個人としても強く思うところです。
 医療は「患者さん、がんと闘って、そして勝ちましょう」とクリーンファイトで応援するのが本道です。
 もう一つ重要なのは「難しいことは分からないから、先生、一番良いようにしてください、お願いします」という「がんの医者任せ」的思考停止、患者自身の医療リテラシーに最大の問題が宿っています。
 それを克服しなければ。これは私たち日本社会全体の問題にほかなりません。
自らの病気をよく知り、何が有効か、インフォームドコンセントの内容をしっかり咀嚼する知の力があれば、患者はがんと賢明に戦い、克服できるのが21世紀医療の標準となりつつあります。
 改めて近藤医師のご冥福をお祈りするとともに、医療リテラシーの向上を心から願ってやみません。



医師で菊池寛賞の近藤誠氏虚血性心不全のため死去73歳+平均余命13年=86歳 「医者に殺されない47の心得」8/15(月)

2022-08-17 10:09:55 | 連絡

〇73歳+平均余命13年=86歳
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近藤 誠氏(こんどう・まこと=医師)13日午前、虚血性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去、73歳。
東京都出身。葬儀は近親者で行う。
 
 慶応大病院でがんの放射線治療を専門とし、80年代から乳房温存療法を提唱した。
多数の著書を執筆し、96年の「患者よ、がんと闘うな」、12年の「医者に殺されない47の心得」はベストセラーとなった。
がん治療の先駆的意見を発表したとして、同年に菊池寛賞。
13年には「近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来」を設立した。  
関係者によると、13日の出勤中に突然体調を崩し、搬送先の病院で死亡が確認されたという。
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〇年齢ごとの平均余命で自分の余命を見てみよう

平均余命の読み方は?平均寿命との違いとは?【男女別 年齢ごとの平均余命表あり】 2020年12月22日荒木 千秋


・シンガー・ソングライターのイルカさんご夫妻平均余命算出例
シンガー・ソングライターのイルカさん71歳+平均余命19年=90歳
神部(かんべ)和夫さん39歳+闘病生活20年=59歳死去
神部(かんべ)和夫さん39歳+平均余命42年=81歳
参考「 たった一度、亡き夫の言葉に支えられ イルカさん、歌い続けて50年」
 https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/40ead9833c18eeeb8d8d508bad1fed6e