今回、奈良に行ったのは、実は明日香村へ立ち寄るのが一番の目的ではなかった。今井町を見てみたいと思ったのである。
江戸期の町屋建築が最も大規模、かついい状態で残っているのはどこかといえば、京都でも金沢でもなく、この今井町であると云われているからだ。600m×300mの区画には、ほとんど欠けることなく江戸期の町屋の町並みが残っている。痛みやすい木造建築の、しかも一般庶民の住宅である町屋の集合がそのまま残るというのは並大抵のことではない。一部、廃墟になったり、ギャラリーや土産物店になっているお宅もあるが、それはごくわずかで、実際に住民が住みながら姿を保っている。
今井町は、「大和の金は、今井に七分」とも「海の堺、陸の今井」とも云われたように、江戸期を通じて、大和で一番の商業的発展を遂げた町であったが、その成立には独特な事情があった。元々は興福寺の荘園であったものが、16世紀の中頃には、一向宗(浄土真宗)の寺内町として発展し始めるのである。
時は戦国時代である。寺内町というのは、周濠を廻らし、武装した自治都市であって、まず一向宗門徒が集まり住んだ。さらに商業的な保護を与えたことから、商人が多く移り住み、商業的な発展を遂げるようになる。
こういう自治都市としての寺内町は、蓮如の時代にできたと云われているが、当時、近畿、北陸一帯に多数存在していた。最大のものが山科本願寺と大坂石山本願寺であった。戦国大名にとっては、無視できない、あるいは経済的野心の対象とならないわけがなく、織田信長はこれらの寺内町を執拗に攻めたて、自らの支配下に置く。後の大坂城二の丸にあったという石山本願寺と信長の戦いは特に激烈を極めたといわれており、信長側の陸の封鎖に対し、本願寺派は、村上水軍による物資輸送と海上戦で挑み、信長軍を苦しめた。信長軍は、最後は、鉄船を発明して戦ったという。
今井の寺内町も天正3年(1575)、信長軍に降伏した。以後太閤見地を経て、徳川側期にも、天領として、商業的な庇護、特権が与えられていた。このため引き続き商業的繁栄に浴し、明治を迎えたのである。
今井の町には、現在でも、江戸の町もこうであったかと思われるような、瓦屋根の重なりの美しい町屋の町並みが続いている。
江戸期の町屋建築が最も大規模、かついい状態で残っているのはどこかといえば、京都でも金沢でもなく、この今井町であると云われているからだ。600m×300mの区画には、ほとんど欠けることなく江戸期の町屋の町並みが残っている。痛みやすい木造建築の、しかも一般庶民の住宅である町屋の集合がそのまま残るというのは並大抵のことではない。一部、廃墟になったり、ギャラリーや土産物店になっているお宅もあるが、それはごくわずかで、実際に住民が住みながら姿を保っている。
今井町は、「大和の金は、今井に七分」とも「海の堺、陸の今井」とも云われたように、江戸期を通じて、大和で一番の商業的発展を遂げた町であったが、その成立には独特な事情があった。元々は興福寺の荘園であったものが、16世紀の中頃には、一向宗(浄土真宗)の寺内町として発展し始めるのである。
時は戦国時代である。寺内町というのは、周濠を廻らし、武装した自治都市であって、まず一向宗門徒が集まり住んだ。さらに商業的な保護を与えたことから、商人が多く移り住み、商業的な発展を遂げるようになる。
こういう自治都市としての寺内町は、蓮如の時代にできたと云われているが、当時、近畿、北陸一帯に多数存在していた。最大のものが山科本願寺と大坂石山本願寺であった。戦国大名にとっては、無視できない、あるいは経済的野心の対象とならないわけがなく、織田信長はこれらの寺内町を執拗に攻めたて、自らの支配下に置く。後の大坂城二の丸にあったという石山本願寺と信長の戦いは特に激烈を極めたといわれており、信長側の陸の封鎖に対し、本願寺派は、村上水軍による物資輸送と海上戦で挑み、信長軍を苦しめた。信長軍は、最後は、鉄船を発明して戦ったという。
今井の寺内町も天正3年(1575)、信長軍に降伏した。以後太閤見地を経て、徳川側期にも、天領として、商業的な庇護、特権が与えられていた。このため引き続き商業的繁栄に浴し、明治を迎えたのである。
今井の町には、現在でも、江戸の町もこうであったかと思われるような、瓦屋根の重なりの美しい町屋の町並みが続いている。