京都御所の一般公開へ行って来た。
印象としては、江戸期大藩の城や屋敷に比べても、予想外に小規模で、簡素ということに尽きる。
しかも攻めるに安く、守るに難い防備しか備えようがないつくりである。
幕末、孝明天皇が大隈重信に毒殺されたという証拠は永遠に出てきそうにないが、誰が考えても否定しようのない見方であろう。
孝明天皇は、根から親幕で、病的なほどの夷敵嫌い、長州嫌いであった。
大和行幸をきっかけとして、そのまま倒幕に担ぎ出そうという、長州の策略を否として、長州を追い払ったのが八・一の政変であった。
大政奉還後は、薩長にとっては、倒幕の詔勅が絶対に出ない孝明天皇は、全く邪魔な存在になっていた。
ちょうどそのタイミングで孝明天皇が不審な経過で死去するのだが、薩長の手が延びたと考えるのが妥当であろう。
明治天皇が即位した時、幼帝という理由で、摂政を行ったのは、外祖父の中山忠能であるが、興味深いのは、この人物が、なんと天誅組主将中山忠光の父親であるということだ。
倒幕の詔勅は、この人物が出した。
歴史が一回転して、息子の仇を討ったということになる。
そしてこのあたりの出来事は、イデオロギーではない。徹底した権力闘争であった。
印象としては、江戸期大藩の城や屋敷に比べても、予想外に小規模で、簡素ということに尽きる。
しかも攻めるに安く、守るに難い防備しか備えようがないつくりである。
幕末、孝明天皇が大隈重信に毒殺されたという証拠は永遠に出てきそうにないが、誰が考えても否定しようのない見方であろう。
孝明天皇は、根から親幕で、病的なほどの夷敵嫌い、長州嫌いであった。
大和行幸をきっかけとして、そのまま倒幕に担ぎ出そうという、長州の策略を否として、長州を追い払ったのが八・一の政変であった。
大政奉還後は、薩長にとっては、倒幕の詔勅が絶対に出ない孝明天皇は、全く邪魔な存在になっていた。
ちょうどそのタイミングで孝明天皇が不審な経過で死去するのだが、薩長の手が延びたと考えるのが妥当であろう。
明治天皇が即位した時、幼帝という理由で、摂政を行ったのは、外祖父の中山忠能であるが、興味深いのは、この人物が、なんと天誅組主将中山忠光の父親であるということだ。
倒幕の詔勅は、この人物が出した。
歴史が一回転して、息子の仇を討ったということになる。
そしてこのあたりの出来事は、イデオロギーではない。徹底した権力闘争であった。