ごん太ジイジの旅日記

リタイヤしたのを機に何か記憶に残るものにしたいと思い、ここに忘備録として愛犬ゴン太目線で旅の記録を残すことにしました。

締めくくりの旅、阿蘇にて

2015年06月29日 | 旅行
【24日目】6月2日(火)

天候 曇りのち雨

フェリーが門司に着くと親父たちはそのまま高速道路で熊本へ向かった。
熊本インターを降りて、阿蘇方面へと車を走らせる。親父は、30代の頃熊本に勤務したことがあるので、阿蘇はよく知っている。久しぶりに来た阿蘇への道は、広くなっている箇所があるなど、随分昔と違っていた。
朝早く着いたので、昼食を早めにとろうかと言って熊本のラーメンを食べることにしたが、なかなか見つからない。しばらく行くと、やっと左手に見えてきたラーメン店に車を止めた。
このラーメン店は、芸能人もきたことがあるらしくサイン色紙が飾られていた。

ラーメンを食べ終えたが、ホテルのチェックインには早すぎるため、阿蘇にある道の駅で時間をつぶし、阿蘇神社にも行って時間をつぶした。
道の駅では、熊本県のゆるキャラ「くまもん」の人形(子供の背丈の大きさ)が出迎えてくれた。
阿蘇神社は、参道が横向きにある珍しい神社だと掲示板に書かれてあった。
そういえば、これまで参拝した神社は、参道は社殿に向かって真っすぐに作られていたようだ。


(阿蘇神社1)

(阿蘇神社2)

(阿蘇神社 参道1)

(阿蘇神社 参道2)
参道の向こうには、お店が並んでおり、各お店の前には湧き水が流れていた。阿蘇山の伏流水が湧き出ているらしい。

(立並ぶお店)

(伏流水1)

(伏流水2)

(伏流水3)

15時になったので、今日宿泊するホテルへ向かったところ、まだ準備ができていないとのこと。えぇっと思い調べると、16時チェックインで夕食が付いていないことが判明した。母ちゃんは、ここでのディナーを楽しみにしていたが、はかない夢と消えてしまった。親父が予約する際、よく確かめていなかったらしい。仕方がないので、再度、阿蘇の赤水方面へ夕食を求めてひた走る。
雨も次第に強くなり始め、同じ道を行ったり来たりしながらお店を探すが、16時頃なので、準備中のお店が多い。
やっと見つけた食事処て、阿蘇名物のだんご汁と高菜飯の組み合わせを食べることにした。
母ちゃんが期待していたディナーとは随分違ったが、お腹も膨らんだので、ホテルに戻った。

このホテルは、ログハウス式の部屋が数棟建っており、フロントから近い場所の2階のある部屋に案内された。部屋には内風呂と露天風呂が付いていて、2階を見ようとしたが、鍵がかかっていて見ることができなかった。
今夜のお客は親父たち1組のようだ。そういえば、長野県の白馬のホテルも1組だったのを思いだした。

(ホテルの部屋)

(ホテルのレストラン)

この旅を無事に終えることができたのが、親父の今日の誕生日プレゼントとなった。
また、全行程の天気を振り返ると雨の日は、福井県の丸岡城と長野県の松本城、群馬県の草津温泉の夕方と今日くらいで、24日の旅行期間中、天気には恵まれた日々となったことも嬉しい出来事だったようだ。親父は、お酒の入った顔で、母ちゃんとこの旅を嬉しそうに振り返っていた。

明日朝になると24泊25日,総走行距離5,540kmの旅が終わる。

仁徳天皇陵古墳と千利休ゆかりの地

2015年06月27日 | 旅行
【23日目】6月1日(月)

天候 晴れ

昨日、紀宝町に差し掛かったときに5,000kmだったが、これまでの走行距離は、5,260.9kmに達していた。
昨夜の親父と母ちゃんは、大阪堺市にある娘婿のご両親のお家に宿泊させてもらった。
ご両親には子供さんが三人いて、そのうちの一人が親父たちの娘の婿になるわけだが、お兄さんと妹は、それぞれ堺市に家庭を持って子供もいる。

お兄さんは仕事の都合で、後から来ることに。お兄さんのお嫁さんと子供達、妹夫婦と子供達が最初に来てくれて、にぎやかな夜となった。
今回の旅行の報告や世間話をしながら、ワイワイ言ってお酒を飲み交わし、お兄さんが来た頃には、親父はすっかり出来上がっていた。母ちゃんの話だと、目が座った親父を2階に寝せるため、お兄さんと妹の旦那さんと二人で階段を押上げてくれたようだ。親父は、お兄さんが来てくれたことと、お尻を押してもらったような記憶は少しあるが、全体的によく覚えていないと言っている。

今日は、夜のフェリーで九州に戻るのだが、その前にご両親が堺の町を案内してくれるということで、菖蒲が咲いている近くの公園と仁徳天皇稜古墳と堺と言えば千利休が有名なので、ゆかりの地を訪れることになった。

近くの公園には、スイレンと菖蒲が咲き誇り、簡易レフ板を持って写真を撮りに来ている人たちが目についた。親父たちが見物している所に大きな鳥が舞い降りてきて近くに止まったので、見物客がビックリしていた。

(写真を撮ってる人たち)

(スイレン)

(菖蒲1)

(菖蒲2)

(大きな鳥1)

(大きな鳥2:手すりに止まる瞬間)

(大きな鳥3)

仁徳天皇陵古墳には、男女のボランティアの説明員が二人いて、おっとりとしゃべる女性が説明してくれた。
この古墳は、宮内庁管轄のようで、前方部を南に向けた墳丘は、全長約486mあり、三重の壕に囲まれた日本最大級の前方後円墳だそうだ。

(表示板)

(仁徳天皇陵古墳:拝所)

仁徳天皇陵古墳を後にして、「さかい利晶の杜」に行った。ここは、千利休と与謝野晶子の資料館であった。
千利休は、堺の人ということはよく知っていたが、与謝野晶子が堺の人とは知らなかった。
与謝野晶子の生家は、「駿河屋」と言って羊羹で有名な和菓子商だったようだが、その店舗を再現した展示もあった。また、この旅で訪れた伊香保温泉の365段の長い階段に記されていたのを思い出した。

千利休の屋敷跡は、「さかい利晶の杜」のすぐ隣にあって、ボランティアの説明員が既に別の観光客に説明していた。説明が始まったばかりだったので、横で聞くことにした。千利休の屋敷はかなり広かったらしく、その一部とみられる井戸と灯篭があった。この場所は、昔は丈の長い雑草で覆われていて、人が寄り付くようなところではなかったようだ。この井戸が発見されたことで利休の屋敷跡ということが分かった。と説明してくれた。

(利休宅跡1)

(利休宅跡2:奥にある灯篭)

帰る時間が来たため、一度ご両親宅へ戻り、荷物を積んでお兄さんの到着を待つ。お兄さんがフェリー乗り場まで先導してくれたお蔭で、渋滞に合わずに済んだ。着いてから時間が来るまで、母ちゃんとお母さんは、沖縄へ一緒に行くことを約束したり、世間話をしながら過ごした後、お兄さんと一緒に見送ってくれた。

フェリーに乗った後、くつろいでいたら明石大橋の下を通るとの船内放送があったので甲板に出た。写真を撮ろうと、絞りとシャッター速度を調整したが、エンジンの振動で船が小刻みに揺れるので、あまり良い写真が撮れなかった。

(フェリーから明石大橋を望む)

大阪のご両親そして、そのご家族の皆さん大変お世話になりました。

明日は親父の誕生日だ。誕生祝いと旅行の慰労を兼ねて、旅の途中で予約した阿蘇の温泉宿に行くことにした。

大門坂を登り熊野那智大社へ

2015年06月26日 | 旅行
【22日目】5月31日(日)

天候 曇り

東日本の旅も今日が最後だねぇと親父が母ちゃんに話しかける。車の走行距離を見てみると4,985.4kmを示している。今日も安全運転で走ろうと親父は自分に気合を入れた。

旅館を出て紀宝町に差し掛かったときに5,000kmに達した。親父の当初計画では、4,000km位になる予定だったが、大幅に更新してしまった。これまで何のトラブルもなくよく走ってきたものだ。

熊野古道を通って那智大社に行く方法を旅館の人に聞いたところ、大門坂からが良いだろうと言ったので、そこから行くことに決めた。大門坂は、観光案内などのパンフレットに写真が載っている有名な場所らしい。旅館の人からは、「大門坂を途中まで登って記念写真を撮って、那智大社までは車で登ればいいでしょう」と言われていた。

大門坂の右手前に駐車場(無料)があったので、そこに駐車して歩いて登ることにした。

(大門坂入口)

(案内板)
木々に囲まれた空間と石畳のような階段が身体を前へと進ませる。夫婦杉に差し掛かったとき、左手前の家から女性2人が昔の旅装束で出てきた。夫婦杉をバックに記念撮影をしている。撮影が終わるまで少し休息することにした。この旅衣装は旅行客にレンタルしているようだ。

(夫婦杉:女性の旅装束)
途中で引き返して車で登るつもりだったが、この先1.2kmの山道を意を決して登ることにした。

(大門坂1)

(大門坂2)

(大門坂に咲いていた花)

やっとの思いで山道を登り切り、最初に出迎えてくれたのが、世界遺産と書かれた石碑だった。

(石碑)
次に迎えてくれたのが最後の階段と鳥居だった。

(鳥居)
そこを登りつめると熊野那智大社があった。

(熊野那智大社)

(那智山青岸渡寺)

情報誌などで良く見かける三重塔と那智大滝を写真に収めて山を下ることにしたが、来た道の石段を下るのは厳しいと考え、車が利用する道を下ることにした。

(三重塔と那智大滝)
下って行くと那智大滝の入口に着いた。親父と母ちゃんは大喜び。道を変えたことでここにたどり着いたねぇと言って大滝の方へ向かった。

(石碑)

(那智大滝)
那智大滝から駐車場に向けて下り始めると、途中から大門坂に接する場所があったので、そこからまた、大門坂を下ることにした。

(車道と大門坂が接する場所にある案内板)

登る際に写真が撮れなかった夫婦杉で撮って駐車場へと下った。
駐車場のトイレから車に戻ろうとした時、モニュメントと足元に足型と手形に気付いた。何だろうとよく見ると、なでしこジャパンの記念碑だった。
今回、選手の一部ではあるが足型と手形(ゴールキーパー)を写真で紹介する。

(なでしこジャパン記念モニュメント)

(佐々木監督)

(澤選手)

(宮間選手)

(鮫島選手、矢野選手、川澄選手)

(福元選手、山郷選手、海堀選手)

この後、丸山千枚田に行く予定であったが、今日は大阪の娘婿の実家に寄る予定にしているため、時間切れで大阪へ向かうことにした。

明日は、大阪堺市の仁徳天皇陵と千利休の関係施設、明後日は、九州阿蘇の温泉で東日本の旅の疲れを癒すことにした。

伊勢神宮へ参拝してきました

2015年06月25日 | 旅行
【21日目】5月30日(土)

天候 晴れ

宿泊した旅館は、伊勢志摩にある少し高台の旅館で、海には筏が見える場所だった。昨日までの走行距離を見ると、4,822,3kmを示しており、もう少しで5千キロになる。

(旅館からの景色)

今日は、伊勢神宮参拝だ。伊勢神宮は、内宮、外宮の両大神宮を中心として、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、「神宮」はこれら125の宮社の総称だそうだ。

天気にも恵まれていい出発となった。旅館の人に伊勢神宮までの近道を教えてもらい。まずは、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)と呼ばれる外宮に行くことにした。ここは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る豊受大神宮をお祭りしており、衣食住をはじめあらゆる産業の守り神だそうだ。
9時過ぎに外宮の駐車場(無料)に着く。時間が早かったせいか、参拝者は比較的少ない。

伊勢神宮参拝の作法として、鳥居の前では、お辞儀をして手水のある場所の方(右にあれば右、左にあれば左)を歩かなければならない。真ん中は神様が通る道とされており、通ってはいけないようだ。また、正宮での参拝は二拝二拍手一拝で通常の神社の作法と同じだが、二礼二拍手一礼ではなく、ここは拝む所作が必要のようだ。

外宮は、左側通行で正宮まで行くことになる。正宮の前にある鳥居から内側は撮影禁止なので外から撮影した。

(外宮:正宮)

(外宮:別宮1)

(外宮:別宮2 中央の小さな祠のある場所は20年後を待つ)

(外宮:別宮3 左側の小さな祠のある場所は20年後を待つ)

外宮を後にして、内宮へは5分程度で到着した。駐車場は数百台も駐車できるスペースがあり、A、B、Cといった括りのコインパーキングであった。
内宮に近い場所は既に満車となっており、少し離れたところに駐車しなければならなかった。駐車料金(¥600)は後払いとなっている。(1時間は無料でそれ以降、2時間まで¥500、30分毎に¥100プラスとなっていた)

(駐車場からの地下道)

駐車場から、「おはらい町通り」を通って内宮へと向かう。

(おはらい町通り1)

(おはらい町通り2)
「おかげ横丁」を横目に見ながら、駐車場から10分くらい歩いただろうか、やっと内宮の入口に着く。
内宮は、皇大神宮(こうたいじんぐう)と呼ばれ、皇室のご祖神の天照大神をおまつりする。我が国で最も尊いお宮だそうだ。

(皇大神宮を説明した立札で第62回(平成25年10月2日)式年遷宮も記載されている)

宇治橋手前の鳥居でお辞儀をして宇治橋を渡る。ここは、右側通行だ。外宮は、左側通行だったので、手水は左側にあったが、神苑とよばれる大きな木々の間を歩くと右手にある。ここでは、真ん中を歩いている作法を知らない参拝者もいた。

(宇治橋から見た五十鈴川)

(神苑:銀色の服の女性は正宮の社殿の内側に入って参拝していたが、頭を下げるだけの礼ではなく、腰を屈めて手を広げながら拝む仕草を、風で揺れる白い布の向こうに垣間見た・・・親父はあれが本当の二拝二拍手一拝かも知れないと思った)

しばらく歩くと右手に五十鈴川で手を清めている人たちに出会う。親父たちも同じように手を清め、神楽殿を左手に見ながら真っ直ぐあるいて行くと左手の正宮に着く。

(五十鈴川1)

(五十鈴川2)
20年に一度の式年遷宮を終えた正殿は、正面に向かって左側に位置していた。右側は、古殿地(こでんち)として20年後を待つ。

(内宮:正宮)

(内宮:別宮1 手前の小さな祠のある場所は20年後を待つ)

(内宮:別宮2)

内宮を参拝し終えて、「おかげ横丁」をぶらりと散策しながら、名物に目がない母ちゃんは、伊勢うどんが食べたいと言ったので、お店に入って食べることにした。福岡のうどんの2倍以上あるようなコシの無いうどんにネギと甘辛い醤油がタレとして入っているだけのうどんであった。親父はまた食べようとは思わないようだ。

(伊勢うどん)

お土産に名物の赤福を買いたかったが、これからの道中を考えて買うのを諦めた。

伊勢神宮を後にして、今日の宿泊地である熊野方面に向かって車を走らせると、世界遺産「鬼ケ城」の看板が目に入った。こんなところに世界遺産?と思いつつ車を駐車場(無料)に止めてその場所に向かうことに。

(鬼ケ城の説明石碑)

(鬼ケ城の説明板)

(鬼ケ城1)

(鬼ケ城2)

(鬼ケ城3)

(鬼ケ城4:右隅の階段の奥に人が・・)

予定になかった「鬼ケ城」を見学して熊野にあるホテルへと向かう。

明日は、那智熊野大社と那智の滝に向かう。

伊賀上野城から関宿へ

2015年06月24日 | 旅行
【20日目】5月29日(金)

天候 晴れ

太平洋フェーリに乗って約22時間、10時30分名古屋港に到着。今日は最初に伊賀上野城に行き、松坂御城番屋敷、夫婦岩を予定している
高速道路を南下していく途中に、工事中の区間があって渋滞16kmの表示があった。渋滞の車の列が見えてきた時、手前にICがあったので、高速道路を降りることにした。その後は、一般道路をひたすら伊賀上野へ向けて車を走らせた。

伊賀上野城の駐車場(¥500)に駐車し、そこからお城に向かって歩くことにしたが、駐車場の手前に西小学校があった。この小学校は、木造2階建てで最近見かけない造りとなっていた。学校の門が閉ざされているため、よい角度での写真は撮れなかったが、珍しい校舎にシャッターを押した。

(西小学校)

(上野公園案内板)

(上野城)

上野城の周りを散策していると俳聖殿なる変わった建物があった。ここ上野は、松尾芭蕉の出生地のようで、その場所もあった。親父たちは、この旅行で山形の山寺から芭蕉に縁があるようだ。
伊賀と言えば、甲賀と並び忍者を思いだすが、この場所には伊賀流忍者博物館があった。親父たちは興味がないので、そこはスルーすることにした。

(俳聖殿)

(松尾芭蕉誕生の地)

上野城を後にして、松坂御城番屋敷に行こうとしたが、母ちゃんが関宿が近いのでそこに行きたい。というので、松坂御城番屋敷を止めて関宿へ行くことにした。

関宿に着き、集会場の横に駐車スペースがあったので、そこに車を止めて付近を散策した。
関宿は、奈良井宿、大内宿に続く3つ目の宿場町になるが、ここは、観光客がいなかったので、親父は母ちゃんに勿体ないねぇと言って、長い家並みが続くようなので、車に乗って散策することにした。
車を進めて行くと、途中から店があったり、観光客もいたりして観光地らしい雰囲気となった。付近に車を止める場所がなかったので、写真を撮ることもできなかった。親父たちが入った場所は、関宿の出口にあたる場所のようで、観光地として改善の余地がありそうだった。

(関宿案内)

(常夜灯?)

(関宿1)

(関宿2)

関宿を後にして、夫婦岩まで行きたかったが、伊勢志摩にある旅館到着時刻を考慮してそのまま旅館に向かった。

明日は、待望の伊勢神宮参拝だ。

太平洋フェリーは楽しかったよ

2015年06月23日 | 旅行
【19日目】5月28日(木)

天候 曇り

今日は、仙台から名古屋までフェリーを利用して太平洋側を南下するが、出発まで時間があるため、青葉城跡に足を運ぶことにした。
(森の都仙台を彷彿させる並木道)
仙台で忘れてはならない人物といえば、伊達政宗だが、青葉城に行ってみると伊達政宗の銅像や「荒城の月」を作詞した詩人土井晩翠の銅像が建っていた。「荒城の月」といえば、親父は滝廉太郎を思い浮かべるが、作詞家までは知らず、立札を読んで初めて分かったようだ。
仙台の観光地であるこの場所に、修学旅行生と思われる学生や社会科見学らしい小学生などが見学に来ていた。

(伊達政宗像1)

(伊達政宗像2)

(土井晩翠像)

(土井晩翠の紹介立札)
また、天守閣の跡は、綺麗に整地して、部屋の間取りを書いた銘板を置き、天守閣の部屋の間取りが分かるように工夫されていた。

(天守閣跡)

(銘板)

青葉城跡を後に、いよいよ東北地方最後の地、仙台港へと向かう。太平洋フェリーの桟橋へ着き、乗船手続きを行った。東北地方ともお別れだ。親父は、考え深げに車と一緒に乗船した。
門司~大阪間の名門大洋フェリーは、助手席の人も同乗して乗船できるが、この太平洋フェリーは別々に乗船するようになっていた。このため、母ちゃんは、先に乗船して、親父を待つことになった。

(仙台港フェリー乗場)

(いしかり1)

(いしかり2)

(いしかり3)
いよいよ出港だ。しばらく乗っていると親父たちは小腹が空いたねぇと言って、青葉城で買ってきた仙台名物の「ずんだ餅」を食べることに。このずんだ餅は、グリンピースを餡子にして、餅にまぶしているシンプルなものだった。

(ずんだ餅)

船の中を散策していると、無料で入れるシアターラウンジを発見。今日の映画は、邦画と洋画の2本を上映するらしい。また、ラウンジショーは、洋琴奏者による演奏であった。
邦画は既に始まっていた。タイトルは、「るろうに剣心京都大火編」だった。このタイトルはどこかでみたぞ、親父は直ぐに思い出した。
大谷石の地下採石場で撮影したと言われた映画ではないか。映画を見ながら、違った観点で鑑賞することができた。2本目の映画は洋画だったが、親父の記憶には残っていないようだ。

その後、洋琴奏者による演奏会となったが、洋琴なる楽器は初めて見る楽器だった。この楽器は、横1m、縦50cm位だろうか、横向きに110本の絃が張られており、その絃を2本の竹製の細い棒(琴竹)で打奏する奏法であった。ピアノの絃は88本なので絃の数がかなり多い。
この楽器は、伴奏に用いられることが多く、アーティストの「女子十二楽坊」でも使用されている。と奏者は話してくれた。因みに、「女子十二楽坊」は12人だけでなく数名の控えの奏者がいるらしい。
今日のように、単独で演奏するのは珍しく、数曲演奏してくれたが、アップテンポの曲によっては身体を揺らしながら演奏していた。110本もある絃を間違わないで、よく演奏することができるものだと感心させられた。
演奏が終わり奏者が楽器を見せてくれた。激しい演奏のせいか、絃が1本切れていた。奏者によると頻繁に起こることらしく、同じ音が出る絃が数本あるため、1本切れても演奏には支障がないらしい。
その後、船室に戻って夢の中の人となった。・・・ZZZ

明日は、名古屋港に10時30分に着くため、伊賀上野を経由して伊勢志摩にある旅館へと向かう。

宮古、気仙沼、石巻を通って仙台へ(岩手県)

2015年06月22日 | 旅行
【18日目】5月27日(水)

天候 朝方雨のち曇り

昨夜から雨模様だった天気も、出発するころには上がっていた。今日は、ここから東へ進み宮古、気仙沼、石巻、仙台までの海岸線(378km)を一気に下ることにした。

訪問するには遅すぎる感もあるが、東日本大震災の爪痕を自分達の目で確かめ、犠牲に会われた方たちに哀悼の誠を捧げるため、親父と母ちゃんは、高速道路で行ける仙台までの道を選ばず、あえてこの道を選んだと言っている。親父は、被災時の悲惨な動画を数多くYouTubeで見ており、そのこともあって、色々な景色に出合っても写真には残さず、記憶だけに留めることにしたようだ。(親父は、ジャーナリストには向かない)

防災庁舎の残骸や奇跡の一本松、まだ残っている瓦礫の山などを遠くに見ながら、車を走らせた。
道路には、当時の津波到達点の標識がところどころにあり、今通っている道は、水没していたところなんだと気付かされた。
また、土地を嵩上げするために土を運ぶダンプカーが数多く走っていたが、今走っているこの道は、当時は瓦礫で通ることが出来なかったんだろうねぇ・・親父はしみじみそう言った。
復興には、あと何年かかるか分からないが、一日も早い復興を祈念して津波で被災した場所に別れを告げた。

仙台駅すぐ横のビジネスホテルに着いて車のメータを見ると4,567.5kmに達していた。

ホテルの部屋のカーテンを開けると、目の前に新幹線が走ってる・・・・・
紫色の新幹線と緑色の新幹線の車両がくっ付いて走っているではないか。駅の横なので、出発と到着のどちらでもゆっくりと走っている。
母ちゃんは大はしゃぎ、親父もつられてはしゃぎ出した。親父たちは、ここでしか見れない新幹線だったので、はしゃいでいたようだ。

新幹線を孫たちに見せようと考えて、タブレットで撮影することにした。
シャッターチャンスを確実にするため、ホテル予約用に持ってきたWin7のノートPCで時刻表を検索し、出発と到着時刻を調べる。
親父のタブレットは、内側にしかカメラが搭載されていないので、ポジショニングが難しい。何回かチャレンジしてやっと写し、LINEで動画を孫たちに送ることができた。

仙台と言えば牛タンが有名だが、ホテルの人に紹介してもらったお店に行くと、牛タン専門店だった。母ちゃん牛タンが苦手だが、ここで食べない訳にはいかない。母ちゃん牛タンの燻製を食べたところ「美味しい」の一言。また食べたいねぇ・・・だって。

東日本の旅も大詰めに近づいてきた。
この先、この旅行の発端となった伊勢神宮に行くことになるが、伊勢神宮まで行くんだったら青森まで行こうとなって、計画した旅である。
仙台から、伊勢神宮まで高速道路を使っても途中立ち寄るところがないので、これまでの旅の疲れを癒す意味も含めて、太平洋フェリーに乗って仙台港から名古屋港まで行くことにした。
明日は、12時50分発となっているので、仙台城跡(青葉城)に立ち寄る。







男鹿の「なまはげ」・・こわ~い?!(秋田県)

2015年06月21日 | 旅行
【17日目】5月26日(火)

天候 晴れ

今日は、秋田駅前のビジネスホテルから少し北へ上って男鹿半島へ向かい、その後、角館を観光して雫石にある旅館へ向かうことにした。
男鹿は、なまはげが観光の目玉のようだ。JR男鹿駅前にもなまはげの像があり、別の場所にもなまはげ館なるものがあった。

(JR男鹿駅のなまはげ)
JR男鹿駅左横の観光案内所に立ち寄り、なまはげ館を紹介してもらった。男鹿のリーフレットを基に、駅からメイン道路に出る道順も教えてくれた。

しばらく走ると、鵜ノ崎海岸があり、そこで記念撮影。鵜ノ崎海岸は、「日本渚100選」に選ばれている海岸らしく、宮崎の「鬼の洗濯板」とまでもいかないが、沖に向かって筋状の岩が連なっているところで、綺麗な海岸だった。

(道路標識)

(鵜ノ崎海岸の岩:次の岩との間隔が広い)

そこからしばらく行くと、大きななまはげの像が建っていたので、そこで記念撮影を行い、なまはげ館へ向かった。

(大きななまはげ像)

ゴジラ岩なるものがあると紹介されていたので、気にしながら海沿いを走っていると小さな看板があった。釣り客らしい車が浜辺に数台止めてあったので、そこに車を止めて、岩場をウロウロ探したが、見つけることができなかった。

なまはげ館は、男鹿半島の中ほどだろうか、少し奥まった場所にあった。入場料(¥540)を払って入館すると、すぐになまはげ人形の出迎えに会う。奥に進むとなまはげ伝説の紹介や百十体、百十色の各集落のなまはげ人形を展示していた。

(なまはげ館入口)

(なまはげ館1)

(なまはげ館2)

(なまはげ館3)

(なまはげ館4)

(なまはげ館5)

なまはげ館を後にして、角館に向かう。
角館の武家屋敷に着き、桜並木駐車場(¥500)に駐車して、付近を散策した。ここの武家屋敷は、道幅が広く木々が大きく成長しており、他の地域で見た武家屋敷とは違った趣があった。ここでも母ちゃんは、できるだけ桜の木の下は通らないように気を付けていた。

お米の美味しい東北の清酒を求めるのは、ここが最後の土地となるため、角館限定販売の清酒を3種類購入した。
大阪に住んで居る娘婿の両親のために購入したと親父は言っている。どうやら、旅行の締めくくりに立ち寄る予定らしい。

(武家屋敷1)

(武家屋敷2)

天気が続く中、お土産の清酒をこの先、車の中に放置出来ないため、買ったクーラに入れて、高熱対策を取った。これで、一安心した親父たちは、雫石にある鶯宿温泉の旅館に向かって車を走らせた。

明日は、岩手県の海岸沿いを走ってフェリーの発着所がある仙台を目指す。

龍飛岬から太宰治の生家へ向かう(青森県)

2015年06月20日 | 旅行
【16日目】5月25日(月)

天候 晴れ

八甲田山の麓の旅館を出発する前に車の走行距離を見ると3,576kmを指している。

今日は、迷った末に決めた津軽半島北端の龍飛岬へと向かう。青森市内を通っていたら、ワ・ラッセという看板が目に飛び込んだ。ワ・ラッセってなに?調べると佞武多(ねぶた)を展示している施設のようだ。母ちゃんは、佞武多が見たいが青森では通過する道路の関係で見れないと思っていたらしく、弘前に寄ったときに見ようと思っていたようだ。

親父は、カーナビをセットしてナビに従う。ナビは、道路に点在するワ・ラッセの案内板を無視して進んで行き、広い空地が到着地点だった。親父は、このナビ当てにならないなぁ、しようがないから、案内板を見つけたところまで戻るか・・と言いながら車を走らせた。

案内板に従って、ようやくワ・ラッセにたどり着いたが、今度は駐車場の入口がわからない。ワ・ラッセの反対側にある駐車場のおじさんに聞いて何とか駐車することができた.

ワ・ラッセは、青森市文化交流施設 ねぶたの家で「ねぶたミュージアム」の事だった。
2階のチケット売り場で入場料(¥600/人)を払って2階から中へ入った。(1階に大きなねぶたを展示しているため、2階の説明コーナーから1階へと誘導しているようだ)
最初は、ねぶたの起源を紹介した「ねぶたグラフティー」、次が、ねぶた師を紹介した「名人コーナー」ねぶたの展示と映像で紹介する「ねぶたホール」「15のねぶた面」などを展示していた。
母ちゃんは、展示物を見たり、踊りの時に女性が被る編み笠を被って写真に収まったり、とても嬉しそうだった。

(ねぶたグラフティー)

(ねぶたホール1)

(ねぶたホール2)

(右側が15のねぶた面)

ワ・ラッセを後にして、津軽半島の北端龍飛岬へと向かう。
龍飛岬では、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌が流れる仕組みがしてあり、ボタンを押すと歌が流れる。
風が少し強かったので寒く感じたが、海の方に下りていく道を少し下ってみると上と違い風を全く感じないのには驚いた。

(龍飛岬の標)

(少し降りたところから津軽海峡を望む)
龍飛岬には、もう一つ観光名所として青函トンネルの記念館がすぐ近くにあったが、岬で時間をかけ過ぎたため、校内見学用のケーブルカーの発車時間に間に合わず断念することになった。(時刻表で見ると30分間隔の運行となっていたが、閑散期は1時間間隔とのことで、次の行程に影響が出ることから断念)

(青函トンネル記念館)

竜飛岬はこれまで旅行してきた東日本の折り返し地点となる。
親父は、ここから、また新たな出発が始まると心に決めて、気を引き締めて旅することを誓った。

龍飛岬を後にして、太宰修記念館「斜陽館」へと向かう。
ここは、太宰治の生家だったところで、米蔵にいたるまでヒバを使用した豪邸であった。昭和25年から旅館「斜陽館」として多くのファンが訪れていたようだが、平成8年に旧金本町が買い取り、46年の歴史に幕を閉じた場所であった。
斜陽館3の写真は、2階和室にある襖だが、この1枚に斜陽という文字が書かれている。幼いころから見てきたこの文字から、太宰治の小説「斜陽」が生まれたのではないかと説明された。


(斜陽館1)

(斜陽館2)

(斜陽館3)

斜陽館の見学が終わったところで、そこを出ようとしたとき津軽三味線の生演奏をしていると聞いた。生演奏が聞ける機会はこれからもう無いかもしれないので、親父たちは行くことに決めた。
今日、最後の演奏が既に始まっているという。急いでその場所に向かおうと斜陽館を後にしたが、親父たちが思っていた場所ではなかった。時間もかなり経っていたので終わってしまうのではないかと焦った。
斜陽館に引き返して場所を聞き、急いで演奏会場に向かった。そこは、斜陽館の真向いで100m位離れた駐車場の右奥にあった。
途中から入場(¥900/人)したため、生演奏は最後の1曲しか聞くことができなかったが、ビデオで津軽三味線の歴史に触れることができた。

(津軽三味線の生演奏)

秋田のビジネスホテルに向かう途中、弘前に寄った。弘前ねぶたを展示している場所は、弘前城の近くにあったが、すでに時間外で閉館していた。お城にも寄りたかったが、ホテル到着の時間が遅くなるため、仕方なくホテルへと向かった。

明日は、男鹿半島から角館へと向かう。

新緑の奥入瀬は気持ちいいね~(青森県)

2015年06月19日 | 旅行
【15日目】5月24日(日)

天候 晴れ

今日は、八甲田山の麓の旅館に宿泊するため、十和田湖に向かうことにしたが、母ちゃんが新緑の奥入瀬(おいらせ)に行きたいということで奥入瀬に向かうことにした。

奥入瀬は、十和田湖から流れる奥入瀬川の湖畔の子(ね)の口から焼山までの14kmを奥入瀬渓流といい標高差が200mあるらしい。

川の横に遊歩道があるので、それに沿って歩きながら、流れのゆっくりした場所や早い場所、小さな滝など、目の前で見れる景色として楽しむことができる。
森林浴と清流からのマイナスイオンで身も心も洗われる気がすると親父は言っている。
これまでの観光地には、外国人(特に中国人)が多く見受けられたが、奥入瀬にも観光客として来ていた。

(奥入瀬1)

(奥入瀬2)

(奥入瀬3)

(奥入瀬4)

(奥入瀬5)

(奥入瀬6 銚子大滝)

奥入瀬を後にして十和田湖に行くが、シーズンオフなのだろうか、奥入瀬は沢山人がいたのに、ここは、全体的に閑散としていた。
十和田湖湖畔で写真を撮り、八甲田山麓の旅館へと向かう。途中で気づいたが、カーナビがどういう訳か来た道を戻ればいいのにも関わらず、十和田湖一周の道を選んでいた。
しばらく行くと展望台の横を通ったため、そこからの十和田湖を写真に収めた。後の写真は、旅館までの間に見た景色で親父が気に入った場所だ。

(十和田湖1)

(十和田湖2)

(十和田湖3)

十和田湖を一周して、元の奥入瀬入口へと戻り、今日宿泊する旅館へと車を走らせた。
旅館は、民宿かペンションかよく分からない宿で、部屋に通されたが、蛍光灯のカバーない部屋には驚いた。色々な温泉宿や民宿、ペンションに宿泊してきたが、このような場所は初めてだ。明かりは点いていれば用をたすが・・・地震で電球が割れたらどうするのだろうかねぇ。親父たちは蛍光灯の下で寝るのは怖いなぁ・・・・・といいながら就寝した。


風呂は、改築したばかりのようで、酸性泉、中性泉、炭酸泉(ラムネ湯)など複数の温泉に入れた。夜は暗くて気付かなかったが、朝風呂したとき八甲田山を眺めながら入れる露天風呂は格別なものだった。

明日は、当初計画の際に日程の関係で行くかどうか迷い、最終的に2日延ばしていくことにした青森の龍飛岬へと向かう。(復路で利用する仙台から名古屋まで乗る太平洋フェリーが偶数日毎しか出航しないため、スケジュール調整が必要であった)