井戸 まさえ、何を格好つけた文章かと、、民主党議員のクズ

2020年04月04日 | 社畜奴隷の二ホン、、世界で稀な勤勉な馬ヵ


井戸 まさえ、何を格好つけた文章かと、、民主党議員のクズ

たしかに昭恵はイカれている。

野党もイカれているし自民党は勿論イカれている、、それは国民はイカれてるからだ。





また大炎上…安倍昭恵夫人はなぜ過去に「学ばない」のか

4/4(土) 6:01配信

現代ビジネス
また大炎上…安倍昭恵夫人はなぜ過去に「学ばない」のか

写真:現代ビジネス

 これほど「学習能力」がない人も珍しい。

 自らの「時」と「場」を読まない振る舞いで夫のみならず政権を苦境に立たせて、すったもんだの末、ようやく収束するかに見えたタイミングでまたまた「やらかす」。

【写真】安倍昭恵夫人の中身のない「万能感」がキモチワルイ

 もはや誰にも止められない天然キャラはなぜ過去に「学ばない」のか。
「ロールモデル」としての昭恵夫人

 そもそも、昭恵夫人からすれば、こうした振る舞いの出発点は全て「善意」。持てる力の全てを注いで、さまざまな企画を自ら立案し「総理夫人」の役目を果たそうとしているのだ。

 しかしあくまで私人。だからこそ、プライベートの範囲内でごく近しい友人や後援者、限定的な「国民」の望みを叶えてあげているのではないか。

 そのさまを満面の笑みで写った写真とともにSNSにアップすれば拡散され、それを見た国民が勇気付けられたり、頑張ろうと励まされたりしているのだと、大真面目に信じているのだろう。アベノミクスのトリクルダウンのごとく、に。

 もっと言えば、自分の生活、ライフスタイルそのものが国民の「ロールモデル」たる価値を持つと無邪気に信じているからこその行動とも言える。

 そこには今回の「花見写真」も新型コロナを前に不安や不便な日々を送る「国民」からみたらどういうふうに捉えられるか、他者への共感も、スキャンダルになり得るかもしれないという危機感もない。

 森友事件で自死した妻が訴えを起こすというタイミングであの気楽な笑顔は、安倍政権の面々が持つ「根拠なき万能感」の象徴でもあるだろう。
「天然キャラ」を支える「実家力」

 昭恵夫人は今後も含めての人生で、たとえなにがあっても今と変わらぬクオリティオブライフを保って生きていけると確信しているのだと思う。

 家族も含めて「明日から仕事を失ったり」「生活に困窮したり」「一文無し」どころか「借金苦に悩んだり」などということは絶対にない。もしも万が一のことがあって「プリズン」に入っても復活できるのは義祖父・岸信介も証明している。

 昭恵夫人のこの「根拠なき万能感」はどこから来るのだろうか。

 昭恵夫人は森永製菓につながる恵まれた環境のもと育ったことは既知の通りである。

 58年あまり、つまり60年近くも大なり小なりの「根拠なき権力」を振るい、「忖度してくれる」周りに支えられつつ「天然キャラ」を否定されずに生きて来られたのは「実家力」あってのことだ。

 恋愛結婚だという晋三氏との婚姻も含め、もし昭恵夫人が日本有数の菓子メーカー森永製菓の背景を持っていなかったならばそもそも成立しなかったことは多いであろうことは、さすがの昭恵氏も分かっているだろう。

 自分の努力では補えないものこそが「自分の価値」だと気がついた時、だからこそを何かに使わなければならないという妙な使命感に駆り立てているのである。

 ちなみに、森永製菓の創始者、森永太一郎氏は明治時代アメリカに渡り、その後帰国し成功したごく少数の日本人である。

 婦人運動家・社会思想家だった山田わかの生涯を描いた『あめゆきさんの歌―山田わかの数奇なる生涯』 (山崎朋子・文春文庫)には、アメリカ時代の太一郎の熱心なキリスト教徒ぶりも紹介されている。

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だァれもいないと思っていても
どこかでどこかで エンゼルは いつでもいつでも ながめてる
ちゃんと ちゃんと ちゃんと ちゃんとちゃちゃーんとながめてる
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 「桜を見る会」に関する論考として「論座」にも書いたが、太一郎氏が作った西洋菓子は普通の菓子ではない。この「森永エンゼルの歌」に象徴されるように「布教」の一貫としてメッセージを伝える役割を担っていたとも言えるだろう。

 奉仕と施しの実践は、聖心で学んだ昭恵夫人の中にも染み付いていることであろうが、当然ながらアメリカの公園で寝泊まりするほどの強烈な貧困や差別体験を持ち「施される」体験をした太一郎氏とは覚悟も実践内容も違う。

 昭恵夫人のロールモデルは常にあくまで「施す側」である。「施す側」の仲間を増やし「かわいそうな人々」を救う。「win-win」の関係を作るのが自分の役割だとも思っているだろう。決して「施される側」になることはないからこそ、その人たちがどう思うなど想像が及ばない。

 自分たちの存在価値を確認するためには「施される側」、つまりは「かわいそうな人々」がいないと成立しないという皮肉なパラドクス。表面的な感動が量産される一方で根本的解決は先送るされていく。

 セレブを集めるだけではもちろん変わらないのであるが、いずれにせよ、昭恵氏の本のタイトル『「私」を生きる』(海竜社・2015年)の通り、私流、私本位で進められていくのである。

 時にそれが取り返しのつかない悲劇を生んだとしても、他人事。普段、昭恵氏の日常にはいない「かわいそうな人々」への共感に比して、身の回りで起こっている深刻な事象に対する徹底的な不感は、興味関心が「私」にしか向かっていないことを示してもいる。

「下駄を履いて生まれた」者同士の共感

 昭恵夫人が最初から「私」を生きる決意をしていたかというとそうでもなさそうだ。

 「個人としては仕事も能力もないし、家事もできるわけでもないのに、こういう立場(総理夫人)になってしまっている。なぜ、こんなに注目を集めてしまっているのか、すごく戸惑っている」

 「専業主婦になって家庭を支えるのが、妻や女性の役割であり、幸せだと言われて育ってきたんですけど、そんな中で、再び総理夫人になってから、すごく活動の幅が広がりまして、いろんなところに行きますし、いろんな方たちから、いろんなことを頼まれたりもしまして、すごくわたしは、忙しくなってしまったんですね」(いずれも2017年3月7日開かれた対談イベントでの昭恵氏発言)

 特別仕事を持たず、能力もなく、家事ができない……それでも、総理夫人と言う立場にはなっているのは、「ありのままの自分」ではなく、同じように裕福な家庭に育ち実家力を持つ自分が、政治的エリート一家に育った夫と婚姻した結果。側からは奇妙な同盟関係にも見える晋三氏との関係は、生まれた時から「下駄を履いていた」者同士にしか理解し得ない苦悩の共有や共通利益があるのだろう。

 第1次安倍政権の終了後、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科に進学し、昭恵夫人は自分のキャリアアップを行うようになる。居酒屋UZUの開店は第2次安倍政権誕生の直前だった。

 「2012年に結婚25周年で50歳になって、これからは少し私自身の人生をと思っていた」矢先に昭恵氏は再びファーストレディに返り咲く。それ以降、昭恵氏の行動はさらに加速する。

 「昭恵夫人ロールモデル」を模索することは、「妻」役割やそれが生む「戸惑い」、昭恵夫人の中で起こった「『私』を生きていない私」との「乖離」を埋める自己実現の実践の場となったとも言える。
また大炎上…安倍昭恵夫人はなぜ過去に「学ばない」のか

〔PHOTO〕gettyimages
河井案里氏との共通点

 「『私』を生きる」という意味では昭恵夫人と河井案里参議院議員に共通点を見ることができる。

 彼女たちは衆議院議員を夫に持つ妻、いわゆる「代議士の妻たち」だ。そのありようは特にここ10年で大きく変わったとも言える。「代議士の妻」が選挙に挑戦することが珍しいことでなくなったのだ。

 詳しくは拙著『候補者たちの闘争』(岩波書店)に譲るが、夫の収監中のいわゆる「身代わり」や、突然の死亡で後継者の年齢が立候補要件に達していない時等の「中継ぎ」で「代議士の妻たち」が国政他に立候補することは珍しいことではない。

 が、それ以外の理由も「妻」たちが政党の候補者リクルートの対象となり、また彼女たち自身も積極的に議会を目指すようになったのはごく最近のことだ。

 1962年生まれの安倍昭恵氏と1973年の河井案里氏には11年の開きがあるが、この年月はまさに政界において女性が候補者としてアクセスできる可能性が広がった時期とも重なるのだ。たとえ政治的な課題を感じても昭恵氏には「議員になる」という選択肢はそもそもなかっただろう。

 一方で河井案里氏はまず広島県議会になることでそのチャンスを得た。もちろん基本は夫の地盤固めの一環、政治的理由の方が大きいものだっただろう。

 しかし、アンペイドワークの極みである無報酬の秘書「政治家の妻」から、議員報酬を得る立場となるのは違うし、それなりの経験も詰めたことは確かだろう。が、「夫の補完」としての役目からの逸脱できぬまま、参議院議員に立候補。

 たとえ、国民の負託を得た1議席であってもそれはあくまで妻の名前を冠した「夫の議席」なのである。結果、今回の事件に巻き込まれているとも言える。

 安倍昭恵氏に話を戻すと、昭恵氏にとっては唯一の、過去からの学びは、第2次安倍政権では「総理夫人」の立場を十分に活かしながら「『私』を生きる」ことを隠さなくなったということだろう。

 これまでで「個性」の範囲、多少の凸凹があっても時間的に次の総理夫人バトンタッチで問われなかったことが、長期政権の中でその歪みも極限に来ているということなのだろう。


肝だめし、運だめしとしての「炎上」

 昭恵氏は「国家権力に近い」最も私人である。感染症が広がる中では恐れなければならないのは中枢に感染を広げる機会を自らが持っているということである。総理の感染を防げなとど言っているのではない。

 万が一の場合があると、少なからずの手がかかることになり、本来受けるべき国民の医療や福祉、また経済対策も含めた様々なことが滞ったり、停止したりする恐れがないとも言えないということである。

 昭恵夫人の立場を考えれば、新型コロナウィルスで日本のみならず世界が不安に陥っている最中の宴会を中止にしたり、最大限譲歩したとしても自分は顔出しだけする等の判断はあっても然るべきし、参加者の方からそうした声が上がらなかったのも、昭恵夫人と同様の現状認識と行動パターンを取っている人々だということもわかる。

 またその際に撮影した写真が外に出たということにも注目したい。流出元の意図は(が政権批判なのか、それとも)単に自慢しいだっただけかもしれない。問題はそれが政権非難に使われることも推し量れないということだ。もしくはそもそもスクープを取る目的で内部に入り込んでいた人がいたのかもしれないが、何れにせよ昭恵夫人の人脈の質をあらわにするものともなった。

 政治のみならず権力闘争とは野生の王国、弱肉強食のサバンナに生きるがごとしの側面はあろう。

 いざという時には、腐った肉や泥水を飲んで多少でも痛い目を見た経験値に裏打ちされた「野生の勘」が働く。特に選挙は繰り返される裏切りも含め具体的な「邪悪」をダイレクトに見る機会でもある。

 生き伸びていくには周囲の人、案件、金を正確にスクリーニングする能力が必要なのだ。

 しかし、昭恵夫人にはどうやら別の意味での「野生の勘」……むしろ危険地帯、紛争地帯を見つけ、そこに突っ込んでいく、類まれな才能を持っているかもしれない。わざわざ、無茶を承知で入っていき、生き延びることで自分の存在を確認するような。

 別のたとえをすると、万引き犯の多くが別に欲しいものではない、もしくは自分のお小遣いで十分に買えるはずのボールペンや菓子パンを盗むという。その心理はスリルとともに自分で自分の能力を問う「肝試し」「運だめし」なのだ。

 つまり、我々が「それは批判されて当然」と思う過去の「炎上」案件は、昭恵氏にとっては乗り越えられた「実績」であり、それこそが今の自分を維持する糧にさえなっているのかもしれない。それは「学ぶべきもの」ではなく、「生きている実感」そのものなのだ。

 国民はこの壮大なる「自分探し」に付き合わされているのでもある。

 どうやら、そこから抜け出す唯一の道は、私たちが過去から学び、行動するしかなさそうである。

井戸 まさえ




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