10月10日
10月10日
平成17年1月1日より283日目
歩いた歩数 其の距離
本日 12,373歩 8,661m
総計 3,819,149 歩 2,673,404 m
仮想通過地点 沖縄(9.23)
初心者応援の月刊誌で「切り取り線」を半角文字を使って簡単に点線を引く方法が掲載されていたので、ブログに取り入れようと挑戦したが、何度もやってみてもどうしても出来ず、がっくり!。
月刊誌の記述に間違いはないだろうから私のやり方が悪いのだろう。でもどうしても判らない。まいった!。
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思い出の「道中日記} 36日目 六日町~塩沢町~湯沢町
起床5:00 出発6:00 天候久しぶりに晴れ 就寝
今日の行程
十日町道の駅キナーレーは情報提供のシステムだけでなく、越後妻有交流のすべての施設(物産・技術・歴史・試作・・・)が備わっていると思えた。そして立派なすばらしい温泉がついていたことだ。その上、アメニティーホールが併設されていた。朝起きると、既に十数台の大型バスが到着していたし、後から後からバスが入ってきた。これが道の駅かと思ったが、違うことに気づいた。十日町は庭野日敬という初代佼成会(字が違うかも)の会長の出身地で今日は誕生日か何か因縁のある日でそれを偲ぶ会が開かれるのではないかと思った。長くなるので切り上げるがバスは八固峠を六日町に向かっても続いた。宗教の持つ恐ろしさを実感した。ジャスコについてから17号線を石打に向かう事になったが、どうしても六日町と塩沢町の中を歩きたかったので妻と別れて旧道をウオーキングした。
そのとき我が家の総勢が(4名だけだが)が石打に到着したと知らせてきた。私たち夫婦は塩沢駅に入っていたのでそこで合流することになった。駅前の貝瀬さんとの交流のあと、駅の広場で全員で朝食(これは孫が独立してからは初めてのこと)を済ましたあとパパと貴ちゃんのサポートで石打まで歩いた。石打駅で再び昼食を共にして、真ちゃんは高速に乗って横浜に帰った。私たちは湯沢温泉に宿をとって久しぶりに同じ部屋で眠りに着いた。私だけはこうして居眠りしながら能率の上らない手で日記を書いている。
栄枯盛衰
六日町を歩いて記憶の不確かさを思い知らされたが、50年の歳月が経済の発展と共に変革したのだという思いがした。町自体はすばらしい発展をしたが、私の思い出の人はもう居ない。そんな実感を持った。ガソリンを入れた大津屋、真面目堅実な男山源さんを除いて世話になった石橋屋も私が定宿としていた小泉屋もなかった。塩沢に入って今日は体育の日でマラソンが行われると公民館に若者が集まっていたが知る人は見当たらない。取引をした商店も見つからない。駅に近づいて貝瀬商店のあるのを発見した。店の奥にばあさんが座っていた。わたしが名乗って挨拶をしたがばあさんは容易に私を理解することが出来なかったし、わたしも描いていた貝瀬の母ちゃんのなれの果てとは思えなかった。話が進むうち、二人の気持ちが40年前の昔に戻った。わたしが39歳、母ちゃんが43歳、そのときの時代の塩沢の町が再現されてきた。話はいつまでもいつまでも行ったり来たりして何回も同じ場面が出てきたが私が持ってきたりんごはメチャクチャに売れたし儲かったという話が続いた。新鮮で景気のいい話だった、しかし今の塩沢にはその活気はない。あの当時私からりんごを買ってくれた塩沢一の堺屋さん、六日町一番の南雲屋さんも今は無いし、目先の聞いたKさん・大旦那然としたTさんも倒産した、Wさん何処へ行ったかわからない、わたしはりんごなら請われるままに引き受けても処分したが、今は梨一箱買っても売れずに痛みを出す始末、わたしは年金を貰ってるから電気料だけでればいいと思ってるが、100円のパンも賞味期限切れで50円で売る始末。昔がなつかしい!と。商売の話から夫の死亡、子どものたちの行く末にまで及び、話は尽きない。家族たちとの食事を済ませ、妻やパパを連れて再び話し合い。最後は二人で記念の写真を撮ってもらい別れる。高校生が「おばあちゃん、俺が高校を卒業するまで店をやめないで!」といわれるのが嬉しいと。この言葉が何時までも私の心を捉えて離れなかった。
石打駅で
家族全員で昼食、ビールで乾杯!みんなで私の「歩いて世界一周」の成功を期待して乾杯してくれた。ありがとう!ここで真ちゃんは石打の高速に乗って横浜に戻っていった。私たちは湯沢温泉で宿を取り、湯に入り久しぶりに山海の珍味に舌鼓をうち、酒を酌み交わした。同じ部屋で寝るのも久しぶりだ。
10月10日
平成17年1月1日より283日目
歩いた歩数 其の距離
本日 12,373歩 8,661m
総計 3,819,149 歩 2,673,404 m
仮想通過地点 沖縄(9.23)
初心者応援の月刊誌で「切り取り線」を半角文字を使って簡単に点線を引く方法が掲載されていたので、ブログに取り入れようと挑戦したが、何度もやってみてもどうしても出来ず、がっくり!。
月刊誌の記述に間違いはないだろうから私のやり方が悪いのだろう。でもどうしても判らない。まいった!。
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思い出の「道中日記} 36日目 六日町~塩沢町~湯沢町
起床5:00 出発6:00 天候久しぶりに晴れ 就寝
今日の行程
十日町道の駅キナーレーは情報提供のシステムだけでなく、越後妻有交流のすべての施設(物産・技術・歴史・試作・・・)が備わっていると思えた。そして立派なすばらしい温泉がついていたことだ。その上、アメニティーホールが併設されていた。朝起きると、既に十数台の大型バスが到着していたし、後から後からバスが入ってきた。これが道の駅かと思ったが、違うことに気づいた。十日町は庭野日敬という初代佼成会(字が違うかも)の会長の出身地で今日は誕生日か何か因縁のある日でそれを偲ぶ会が開かれるのではないかと思った。長くなるので切り上げるがバスは八固峠を六日町に向かっても続いた。宗教の持つ恐ろしさを実感した。ジャスコについてから17号線を石打に向かう事になったが、どうしても六日町と塩沢町の中を歩きたかったので妻と別れて旧道をウオーキングした。
そのとき我が家の総勢が(4名だけだが)が石打に到着したと知らせてきた。私たち夫婦は塩沢駅に入っていたのでそこで合流することになった。駅前の貝瀬さんとの交流のあと、駅の広場で全員で朝食(これは孫が独立してからは初めてのこと)を済ましたあとパパと貴ちゃんのサポートで石打まで歩いた。石打駅で再び昼食を共にして、真ちゃんは高速に乗って横浜に帰った。私たちは湯沢温泉に宿をとって久しぶりに同じ部屋で眠りに着いた。私だけはこうして居眠りしながら能率の上らない手で日記を書いている。
栄枯盛衰
六日町を歩いて記憶の不確かさを思い知らされたが、50年の歳月が経済の発展と共に変革したのだという思いがした。町自体はすばらしい発展をしたが、私の思い出の人はもう居ない。そんな実感を持った。ガソリンを入れた大津屋、真面目堅実な男山源さんを除いて世話になった石橋屋も私が定宿としていた小泉屋もなかった。塩沢に入って今日は体育の日でマラソンが行われると公民館に若者が集まっていたが知る人は見当たらない。取引をした商店も見つからない。駅に近づいて貝瀬商店のあるのを発見した。店の奥にばあさんが座っていた。わたしが名乗って挨拶をしたがばあさんは容易に私を理解することが出来なかったし、わたしも描いていた貝瀬の母ちゃんのなれの果てとは思えなかった。話が進むうち、二人の気持ちが40年前の昔に戻った。わたしが39歳、母ちゃんが43歳、そのときの時代の塩沢の町が再現されてきた。話はいつまでもいつまでも行ったり来たりして何回も同じ場面が出てきたが私が持ってきたりんごはメチャクチャに売れたし儲かったという話が続いた。新鮮で景気のいい話だった、しかし今の塩沢にはその活気はない。あの当時私からりんごを買ってくれた塩沢一の堺屋さん、六日町一番の南雲屋さんも今は無いし、目先の聞いたKさん・大旦那然としたTさんも倒産した、Wさん何処へ行ったかわからない、わたしはりんごなら請われるままに引き受けても処分したが、今は梨一箱買っても売れずに痛みを出す始末、わたしは年金を貰ってるから電気料だけでればいいと思ってるが、100円のパンも賞味期限切れで50円で売る始末。昔がなつかしい!と。商売の話から夫の死亡、子どものたちの行く末にまで及び、話は尽きない。家族たちとの食事を済ませ、妻やパパを連れて再び話し合い。最後は二人で記念の写真を撮ってもらい別れる。高校生が「おばあちゃん、俺が高校を卒業するまで店をやめないで!」といわれるのが嬉しいと。この言葉が何時までも私の心を捉えて離れなかった。
石打駅で
家族全員で昼食、ビールで乾杯!みんなで私の「歩いて世界一周」の成功を期待して乾杯してくれた。ありがとう!ここで真ちゃんは石打の高速に乗って横浜に戻っていった。私たちは湯沢温泉で宿を取り、湯に入り久しぶりに山海の珍味に舌鼓をうち、酒を酌み交わした。同じ部屋で寝るのも久しぶりだ。