1月15日(日)後 平成17年1月1日より 2,580日目
歩いた歩数 その距離
本日 14、962歩 10、473m
総計 35,950,279歩 25,165,195m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツミュンヘンを経てベルリンに向かう。後 80,675m
道陸神を作る鉄砲町の人たち
「これから作って今夜燃やすんだ」という。「町中なので作って置いては火災の危険があるから」と消防署から指導されているのだという。御気の毒なこと!
吉岡氏が刻した篆刻印
先日、盟友Yさんが年始にやってきて、【安岡正篤記念館】(財)郷学研修所発行の【郷学78号誌】とカレンダーを呉れた。畏まった難しい冊子で取っ付き難かったが、正受老人と白隠禅師の故事が記されて居たので目を通した。
【臨済宗中興の祖と崇められている白隠禅師が慧鵅と呼ばれていた頃、信濃飯山の正受老人こと道鏡慧端に参じ、所見を呈すると、正受老人が「這箇(しゃこ)は是れ汝が学得底(がくとくてい)」これはおまえが頭で学んで得たものだ。「那箇か是れ見得底(けんとくてい)どれがおまえが本当に心の目で見て来たものかと厳しく迫った。そして数々の公案、禅問答の末、白隠が悟ったと自負していた自慢の鼻柱をへし折った。それ以来白隠は正受老人の許で真剣に参じ、辛辣な難業の末大悟した。】と。
正受庵の登り口は【蹴落とし坂】と云われている。白隠禅師は高田で修行して来て、ここで正受老人と問答、蹴落とされたという。
この文章を寄稿された吉岡純一氏は大阪府の方で、日本農士学校9期生で、終戦の詔書に「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と加筆されたと云われる陽明学の大家安岡正篤先生並びに菅谷検校先生から伺った話であると記されている。上段の篆刻はその想いから、定年後永年の夢であった篆刻を自ら刻印されたものだという。
私も中国から色々な石を仕入れて来て篆刻を試みたが、気に入った印が出来上がった験しがない。吉岡氏のこの篆刻は真に見事、品格を具えた逸品である。感じ入った。
もう一つの思い出は郷里の歴史研究家水野さんに「白隠禅師が正受庵を辞して清水に戻るときに、正受老人が別れを惜しんで見送ったという善光寺街道の別れ途まで連れて行って貰った事を思い出した。郷土史を学んだ頃の懐かしい話だ。