1月26日(木)大雪 平成17年1月1日より 2,591日目
歩いた歩数 その距離
本日 11、815歩 8、271m
総計 36,111,026歩 25,277,718m
イタリヤ・オーストリヤ・ドイツベルリンを経てハノーバーに向かう。後 307,132m
今日、寒中見舞いが来た。「お健やかにお過ごしのことと存じます。新しい年のご挨拶を早々に頂戴致しまして有難う御座いました。夫、大塚一男は昨年9月3日、86歳で永眠致しました。生前のご交誼、ご厚情を深謝いたします。ご挨拶遠慮させて頂きました皆様のご健康とご多幸をお祈りもうしあげます。」と奥様からでした。
亡くなられたことも知らず、年賀状を差し上げたことの失礼を詫びるとともに、何故?どうしてとの思いからiphoneを見た。大塚一男と入力すると、<訃報>大塚一男さん86歳=松川事件の主任弁護人。拡大写真=1979年撮影 3日、肺がんのため死去。葬儀は7日午前11時、東京都三鷹市上連雀2の5の13の法専寺同朋会館。喪主は妻ます子さん。と出た。
はてなキーワードには(転載)
弁護士。
1925年、生まれ。2011年9月3日、死去。
長野県出身。
農林学校を卒業後、弁護士を志して早稲田大学(専門部法律科)に学ぶ。
1944年9月繰り上げ卒業。翌月現役兵として中国大陸(河北)の部隊に入隊。武昌で終戦を迎え1946年3月復員。その年復活した高等文官試験司法科に合格し、1947年5月司法修習生(1期)となる。
弁護士登録後間もない1949年8月17日、福島県松川町(現福島市)の東北線で列車が転覆し機関士ら3人が死亡した「松川事件」が発生。故岡林辰雄弁護士と共に、起訴された旧国鉄の労組幹部らの主任弁護人を務め、1963年に最高裁で全員無罪を勝ち取った。
私は長野県飯山尋常高等小学校で1年から4年まで忠組で学んだ同級生だ。昭和24年お盆の同級会で彼は「怖くて汽車にも乗れんなぁ!汽車が脱線転覆したんだってょ!」と言ったが、東京に戻った彼はその被告の弁護団員となり、後に団長として指揮して最高裁で全員無罪の壮挙を成し遂げた。彼は日頃、「弁護士は被告の弁護をするが、坊主がお経を呼んでも死人は生き返らない。弁護士が弁護するのは被告の気休めにしかならない。そんな事じゃダメなんだ」と言っていたが、遂に「やった!」と私は思った。
もう一つおまけに後輩の弔辞を転載しておこう。
TOP > トピックス> 藤本弁護士(自由法曹団東京支部長)の記事「大塚一男団員を悼む」が、東京支部ニュース(2011年9月、No.454)に掲載されました。
藤本弁護士(自由法曹団東京支部長)の記事「大塚一男団員を悼む」が、東京支部ニュース(2011年9月、No.454)に掲載されました。
大塚一男弁護士(1期)は、1951年1月に当事務所が創設された時の所属弁護士です。本年9月3日ご逝去されました(享年86歳)。謹んでお悔やみ申し上げます。
大塚一男団員を悼む 藤本 齊 大塚一男支部団員が、9月3日、亡くなりました。謹んで哀悼の意を表します。 大塚さんは、研修所1期、73年まで東京合同法律事務所で、その後は四谷法律事務所で長く活動され、松川事件の主任弁護人を一貫して務められたのを始め多くの事件で自由法曹団員としての仕事を成し遂げられてきた一方、日弁連人権擁護委員長をはじめ同委員会を中心に弁護士会の中でも大きな活躍をされてきました。 私自身にとっても忘れられない貴重な大先輩の一人でした。東京合同事務所にはいってすぐの事務所の飲み会は四谷事務所に移る大塚さんの歓送会で、その司会をさせられたのは一年生の私でした。実に複雑な思いでしたが、その後も結局は江津再審請求や芦別国賠請求事件等で延々と大塚さんの謦咳に接することで私の弁護士生活は始まったのです。 当時の弁護団合宿は一組しかない正規記録一式を山奥の一室にずらりと並べておいて、いくつかの事務所からやってきた各人、担当関係を黙々と読み、黙々と書き、また黙々と読み書き上げるというものですから、山の中に4,5泊するのが普通で、散歩と入浴以外は他にすることもなく、夜を迎えるわけです。夜の食卓の周りで一番しゃべってたのは大塚さんだったような気がする。色んな裁判官や検察官や弁護士を定点観測して来た大塚さんの個別個人批評を感心しながら聞いたものです。まだ若かった私たちは、個人の個性の問題じゃなくて制度や支配的イデオロギーの問題なのだと、言ってみれば思考省略をしていたのですが、ギリギリ制度を追求して来て見れば、そこから人間も見えてくるものらしいということに不思議な感銘を覚えたものです。でも、未だに、私も又私達の世代もそういう風には到達しえていないようです。 更に夜が更けると、橋本紀徳さんが胴元になってのトランプのブラックアウト(余り知られてないかも知れないですが、実に単純なルールなのに実に飽きない。)に興じることになり、その累積結果が毎朝鴨居に貼り出されてぶる下がっている下で、再び黙々たる合宿が始まるという次第です。でも、大塚さんはこれには参加せず批評的な眼で我々を眺めてらした。何を考えてらしたのでしょうか。 岡林辰雄さんの笑顔について、私はかつて団通信紙上で、顔からはみ出る満面の笑みと評したことがありましたが、大塚さんのそれは、ちょうど顔一杯の過不足なき見事な満面の笑みというべきでしょう。本当に日頃から優しさそのものの様な人でした。それだけに、叱責されたときは怖い。何しろ過不足ないのですから。日弁連の人権委の企画の関係で一度叱責する顔を見たことがある。怖かった。 弁護士になって5年目の78年4月22日の九段会館での大塚さんの講演は忘れがたいものがあります。日弁連全国統一行動として日弁連・関弁連・東京三会共催の「弁護人ぬき裁判と刑法・少年法改悪阻止を訴える東京集会」で前々人権委員長だった大塚さんがされたメインの講演です。優に2時間に及んだんじゃないかと思う膨大な講演の最後を、大塚さんは次のように述べて終えました。印象的でした。 「国民とともに歩み、ともに悲しみ、ともに憤りつつ、真実と正義の実現に苦闘してきたところの在野法曹の100年の歴史というもの、そしてその100年の歴史を現代において唯一最高の形に結集したのが、日本弁護士連合会であります。どうかみなさん、日弁連とともにこの(弁抜き)法案を廃案に追い込み、代用監獄を廃止させ、少年法と刑法の改悪を防ぐためにいっしょになって立ち上がってください。私はその一人として、乏しい経験の中から感じたことをここにつづってみなさんへのご報告にさせていただきました。」(日本評論社「回想の松川弁護」p295~332) ここには、さまざまな意味で、いかにも大塚さんらしい考え方、センス、配慮、・・・思想がにじみ出ていると私には感じとれました。以降しばらく、このときの大塚さんの講演の発想を下敷きにさせていただきながらあちこちでの講演に活用させていただく日々が続いたことをまざまざと覚えています。 大塚さんの多くの著書の中で、何といっても衝撃的だったのは、「最高裁調査官報告書 松川事件にみる心証の軌跡」(筑摩書房1986)と同事件の被告人とされた本田昇さんとの共編著「松川事件調査官報告書(全文と批判)」(日本評論社1988)でした。死刑4名を含む17名に鈴木禎次郎裁判長が「確信をもって言い渡す」とわざわざ言って「確信判決」などと称された大誤判の上告審での調査官報告書です。元来が門外不出・厳重に秘密にされているはずの調査官報告書の現物(ご丁寧に手書きの注や線まである)が、市場で偶然発見されて入手されたということ自体がまずは信じられない驚愕の出来事だったわけだけれども、その調査を指揮し最終的な全体の修訂を行って統一した主任調査官であった青柳氏の内容がまた、被告団・弁護団に対する悪意に充ち満ちたとんでもないものであったことに大塚さんらさえが驚きをかくせないというしろものです。というより、退官して大学教授となった青柳氏の言動がそういう松川有罪論の報告書の存在を推測させていたところ、それが古本屋で発見されたというわけでもあります(もう一人の補助の龍岡調査官の内容やその後の対応等については大塚さんは青柳氏と比べ節度あるものとして区別して評価されているようです。)。この報告書にもかかわらず最高裁がよく差し戻したともいえます(7対5。実際、田中耕太郎長官らの少数意見はこの報告書を下敷きにしたものです。)。松川の裁判闘争が実際目に見えている以上に奥行きの深いものであったことを思わせるものと言えましょう。若い団員のみなさんにはご存じない方も多いかと思いますが是非一瞥を。前出の「回想の松川事件」等にも概略が触れられています。 私たちは、いずれやむを得ないこととは言い条、間違いなく偉大な先輩をまた一人失ったことになります。 でも、今は、心から感謝したいと思います。大塚先生、本当にありがとうございました。
|