この記事は、皇室が云々という事ではなく、
障害者に理解をしようと努力されていた方が逝去されたので記事にしました。
この方は、俺が住んでいる北海道にも、毎年来られて、障害者の方々と接しておりました。
また
1982年(俺が20歳の頃)、障害者問題に取り組みたいという、ご意志で、
説得されて、皇室離脱はしませんでしたが、皇籍離脱を宮内庁に申し出られた事もある方です。
ここで
このブログでも書いた事ですが。
障害者と聞くと、『普通』か『普通でないか』と区別されがちです。
でも
『普通』って何でしょうか?
『普通』とは、各人の価値判断で決まってしまうものなんじゃないかと思います。
それは、
〇価値観が多様化してるとか
〇個性を重視する教育など、他の人と違うなどが認められてますが、
同時に
●他の人と一緒であるとか
●他の人とは違わないとか
●普通である事など
を心の中では望み、他の人と違うことや普通でない事を否定する傾向がある気がします。
そこで
『普通』か『普通でない』かは。時代によって変わるものだと思っています。
となると、
何をもって『普通』となるのかが変わってくるんじゃないかと思います。
時代によって変わるから、
『普通』があれば『普通じゃないもの』があるという事になります。
この『普通』という言葉は、
『普通』でいたいというシグナルを送っているのかもしれません。
良く考えてみれば、
現実には、自分自身が、『普通』であろうが『普通でなかろう』が、違う特徴をもった人(障害者)がいて、
その方たちと、接するかどうか関わらず、社会においては、共存しているのが現実です。
もし、
あなたが、違う特徴をもった人(障害者)となったとき、
『普通』とか『普通じゃない』とか区別するでしょうか?
しかも、
違う特徴をもった人(障害者)は、現代社会においては、少数派に属するんではないでしょうか?
生活している中で、『普通』で思ってる事が実は、『普通じゃなかった』事もあるかもしれません。
そんな時、
自分自身を見つめ直すChanceです。
『普通』か『普通じゃない』とかの
NOかYESの価値観は、警察にお世話にならない行動をしない(犯罪行為をしない。)以上、
今の俺には、無意味に思えます。
師匠は、『普通』とか『普通じゃない』とか、たぶん、思ってないと思います(笑)