今回は家族4人がケアしながら生活していることについて書きたい。
家族の中で、子供達ををケアするとは、「人が成長すること、自己実現を助ける」ことであると思っています。
たとえば
子供達をケアする親としては、子供達を、自分が必要であると感じているし、成長したいという要求に答えることによって、成長するのを助ける。
ケアする事は、親の欲求を満たすために、子供をを単に利用するのとは正反対のことであると考えているし、
逆に
子供達の人格について幸福を祈ったり、好意を持ったり、慰めたり、支持したり、単に興味を持ったりすることと混同ではない。
さらに
子供達がが成長し、自己実現をすることを助けることとしてのケアは、一つの過程であり、展開を撃ちに、孕みつつ関与するあり方であり、
それは丁度、相互信頼と深まり質的に変わっていく関係を通して、時と共に友情が成熟していくのと同様に成長するものなのである。
親が子供達を、臨床心理士が俺を、妻が夫をケアすること、
これらの間に、いかに大きな相違があろうと、それらは全て、共通のパターンがあると考えている。
見方を変えて社会を見ていると、新しい発想や、ある理想や、ある協同社会をケアすることがあると思う。
相手が成長するのを援助するという共通のパターンがあると考えている。
しかし、
現代の社会に生きる人間の生涯の中で考えた場合、ケアすることを中心として、他の諸価値と諸活動を位置づける働きをしケアがあらゆるものと関連するが故に
その位置づけが総合的な意味を持つとき、人間の生涯には基本的な安定性が生まれる。
すなわち、
社会での居場所を得ないでいたり、誰からもケアだれない場合、
自分の場所を絶え間なく求めて、ただ流離っている。
社会の中にあって、自分の落ち着き場所にいないのである。
そういう自分の落ち着き場所にいない人は、
他の人々をケアすることもせず、他の人々に役立つ事もせず、その人は自身の生の真の意味を通して生きていないのである。
現代社会の中で心を安らかにしていられるという意味において、人は心を安らかに生きていけると考えています。
それは、支配されていたり、説明されたり、評価されているからではなく、ケアし、かつケアされているからなのであると考えています。
次回は、
自分の居場所があり、ケアされる(する)ことによって、生きる真の意味を、少しづつ書いていきます。