『自分の居場所があり、ケアされる(する)ことによって、生きる真の意味』を書くと前回書きました。
また
共通のパターンがあるとも書きました。
ケアの共通パターン(ケアの原則的なもの)を主に書きたいと思います。
ケアは、人間対人間の関係であるところを押さえ、相手の人間に不健全に依存すること等、寄生的な関係にみられるものとは、違っている。
不健全な依存関係は、人間関係的ケアにおいて、感じとれないし、誠実に相手に応えることができないであろうと考えています。
相手の考えや信念を検討できなく、相手の考えの意味を発見することも、嘘か本当かを見極めることが出来なくなってしまう。
以上のことから
ケアは寄生的関係で相手を支配したり、所有しようと試みるのではなく、相手の存在を肯定し「自分らしく」なることである。
それは
相手の成長が自分のことのように感じられるものである。
ケアしているとき、相手が成長のために自分を必要としていると感じ、相手に対して支配する力や優越をもたらすものではなく、
お互いの信頼関係の中で、相手から必要とされる関係である。
援助をするときに、自分の方針を押しつけたりはしない。
心をひとつにする事ができるのは、ケアにとって本質であると考えている。
このことは、障害や困難を乗り越えていく過程の中で発展していくものであろうと考えている。
文脈から外れるとは思いますが
自分は、大学進学を諦めさせられ18歳で、生きるために職に就かざるを得ませんでした。
母子家庭で育った自分は、就いた職の地域が、遠い離れ友人や親戚もいないところでした。
物理的に天涯孤独の地域でした。
生きるため、泥を啜りながら泥まみれになり、生きました。
母親は、何も言わず、放置状態でした。
そんな生き方をしているうちに、妻と出会い、結婚し2人の子供にも恵まれました。
小さく、ちっぽけな家庭を持った自分は、物理的な天顔孤独から、ある程度、脱却することができました。
脱出まで、孤独感がつきまとい、自分自身との闘いでした。
そして
今の自分があるのだと思っています。
知らず知らずのうちに、1人での孤独、家庭での障害や困難を今まで、乗り越えていく過程がケアの本質だと知ったのは、
つい最近のことでした。
INTERNETだけではなく、誰かと社会の中で関わって欲しいし、関わることによって少しでも心が救われると考えています。
パニック障害ですか。
記事を読みました。
もしかした、
これも神様の試練なのかもしれませんね。
これを乗り越えることが
その人の人生での修業だと。
あ、別に僕は宗教家ではないです^^
ただ、そういう意味をあるのかなと。
なにごともポジティブですな!
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初めまして
コメントありがとうございます。
この様な記事を書けるようになるまで8年かかりました。
ネガティブなところも多々、まだあります。
ポジティブになれるよう、家族を含めて多くの方達に助けれている爺ですが、若輩ものです。
自分自身の体験を踏まえて書いてますけど、拙い記事を読んで下さりありがとうございます。
そちらのランキングもボチッしました。
ありがとうございました。