昭和の爆笑王と呼ばれた 落語家・林家三平の弟子に、 一人の男がいた。通称クーペこと本間良介。 破天荒な行動で何度も破門となったが、 その度に両親や姉が頭を下げ、それに免じ て再入門を繰り返していた。 そんなクーペも27歳で結婚し娘が誕生した。 クーペは娘に幸江と名付け、周囲が驚くほど 溺愛した。しかし自由奔放な性格が変わるこ とはなく酒やギャンブルにひたる日々が続き、 結婚3年目に妻は離婚を決意し幸江を連れて 出て行くことになった。クーペは幸江が1歳で生き別 れることになった。 その後も度重なる素行不良で、9回目の破門で落 語会を永久追放された。 全てを失ったクーペはますます酒とギャンブルに溺れ 借金もふくれあがり、別れた妻と娘にも何もしてあげら れず、きっと娘は自分を恨んでいるに違いないと思って 過ごしてきた。 2003年、55歳になっていたクーペは友人に借りた金で 東京多摩市にライブバーを開いたものの経営は思わしくなく、 アパートを借りる金もないので店で寝泊まりする毎日だった。 そんなある日、彼のもとに1歳の時に別れた娘・幸江から 一通の手紙が届いた。
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手紙には、幸江が興信所に頼んで クーペの住所を調べたこと、会ってみ たいけれどやめたほうがいいと思うこと、 そして生きているうちに 一言「生んでくれてありがとう」と伝えた かった、という言葉が並んでいた。 友人のshifoさんにも手紙を見せると、 娘を一日たりとも忘れたことがないと聞 かされていた彼女は「良かったね」とクーペ に言葉をかけた。 クーペはその夜、一心不乱に返事を書き続けた。 しかし返事を出すことはできなかった。手紙には 幸江の住所は書かれておらず、 封筒の裏には郵便局あてに「郵送先に誤りがあり届 かない場合は破棄してください」と書かれていた。 そんな中、クーペが娘に書いた返事にshifoが曲 をつけた。彼女は歌にして歌ったらいつか娘に届 くのではないかと思ったのだ。
実はshifoはmihimaruGTの「気分上々↑↑」を作曲 するなどシンガーソングライターとして活躍していた のだ。 幸江から手紙が届き、クーペは変わった。周囲も驚 いたのだが酒をやめ、届くかわからない曲を歌い続け、 さらにshifoとコンビを組みライブ活動を始めた。 クーペは歌がうまいわけではなかったがなぜか 人の心に響き、気づけば日比谷野外音楽堂で 単独ライブを行うまでになった。 |
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そして次のライブは福岡でやること が決まったのだが、それは特別なこと だった。幸江の手紙の消印が福岡だっ たからだ。福岡に向かうと、たまたま入った 店の主人が新聞記者の知り合いで、 クーペのことが記事になった。それがきっかけで ラジオやニュースで取り上げられた。 これで娘に会えるとクーペは信じて疑わなかった。 ライブ当日、 クーペは手紙に貼ってあった写真をもとに 娘の姿を探した。
しかし娘の姿を見つけることはできなかった。 クーペは娘が自分に会わない選択をしたのだと思ったが、 幸江にも事情があった。 1歳でクーペと別れた幸江は、4歳の時に母親が再婚し、 いつも優しい父親と祖父母に囲まれ何不自由なく成長 した。 彼女が本当の父親の存在を知ったのは小学校 2年生の時。 保険証に「養女」と書かれていることを疑問に思い、 その時に母親が教えてくれたのだ。 母親は、本当の父親は幸江を捨てたわけではないので 恨まないようにと話した。 それ以来家族の中で実の父親の話題がのぼることはなく、 幸江にとってその存在は宙ぶらりんのまま月日がたった。
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そして23歳の時に車購入のために 戸籍謄本を取り寄せたところ、そこには 初めて見る父親の名前が記されていた。 名前を見て、実の父親の存在が急に 現実のものに思われ、幸江は生きている うちに自分の気持ちを伝えたいと考え、 興信所に頼んで住所を調べた。 ほどなく住所はわかったのだが、 彼女はすぐには手紙を出せずにいた。 小学校の頃に幸江がいじめられると、普段は無口で 静かな父が本気で怒り、彼女を守ってくれた優しい姿 を忘れられなかった。 だから自分が実の父と連絡をとるのは、愛情をたくさん 注いでくれた父親を裏切ることになるのではないか、 と思ったのだ。 幸江は一年も悩み、手紙には2人だけの秘密にして 欲しいと書いた。 また今の両親を傷つけないように、手紙が戻らないため の細心の注意も払った。 そんなことを知る由もないクーペが福岡のライブから 東京に戻って4日目、 彼は店で脳梗塞で倒れた。右半身が麻痺し、ろれつも回 らなかった。 娘から手紙をもらう前のクーペだったら、生きることを諦めて しまっていたかもしれない。 でも彼はもう昔のクーペではなかった。
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彼は娘に手紙をもらった時、 店のトイレの片隅に小さく「誇り」と書いた。 娘に恥じない生き方をしようと決めたのだ。 クーペは昼も夜もリハビリに取り組んだ。 少しでも早く娘に誇れる父になりたかった。 その頃、幸江は自分のために父が福岡でコンサート をしたことをネットで初めて知った。
そこには写真もあり、なぜか涙が次から次へと溢れてきた。 2005年12月24日、脳梗塞からわずか2ヶ月で退院した クーペに、幸江から電話がかかってきた。 最高のクリスマスプレゼントだった。 クーペは手紙をくれたことに感謝を述べ、 次の福岡でのライブを見に来て欲しいと幸江に伝えた。 2006年2月25日、福岡でのコンサートの前日、幸江のもとに クーペがコンサートまでに間に合わせようと 必死になって作った本が届いた。 そこには手紙をもらってから始めたクーペの絵 や書が掲載されていた。 さらに、幸江がクーペに送った手紙も載っていた。 感謝の気持ちのつもりでクーペは載せたのだが、 2人だけの秘密にして欲しいと 書いたはずの幸江は傷ついた。 そしてクーペのもとに幸江の友人から、 コンサートには行けないと電話が入った。 娘に会える、その嬉しさから調子に乗った クーペの大失敗だった。
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ライブ当日、急遽出版を差し止めたものの、 クーペはショックから立ち直ることができなかった。 一方で父親に会うのをやめようとしていた幸江 に母親は、「自分に嘘はつかない方がいいよ」 と言葉をかけた。 コンサートが始まり、クーペは何気なく客席の 最前列に目をやった。そこには幸江の姿があった。 28年ぶりの再会だった。 クーペは「25年ぶりの手紙」 (作詞:クーペ 作曲:shifo)を歌った。 ところどころ、涙で歌うことはできなくなっていた。 客席の幸江も涙を流した。 コンサート終了後、初めて2人は向かい合って話をした。 クーペは生きてて良かった、 やっと自分の人生が始まると思った、と思い出す。 今年6月16日、クーペは3回目の福岡での コンサートを行った。 実は今回、嬉しい知らせがあった。 オリジナルの化粧品の社長として活躍している幸江さんが、 メイクとしてコンサートを手伝ってくれることになったのだ。 幸江さんは現在の2人の関係を、 みんなに2人の父親がいて幸せだね、 と言ってもらえるようになって良かった、と話す。 そして、現在のような関係になることができたのは、 今の父親と母親のお陰だとあらためて思っているという。
クーペさんとSHIFOさんの感動の歌は下のURLから 無料でダウンロード出来ます。 一度、聞いて見て下さい。
http://www.voiceblog.jp/coupeandshifo/
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