晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『数に強くなる』

2008-07-28 20:01:45 | Weblog
 大事なのは、見てわかる「花時計」より、感じる「腹時計」ということです。「腹腹時計」になると、少々過激になります。



 『数に強くなる』(畑村洋太郎著 岩波新書 2007年刊)

 1年以上前に買ったまま、積読列島に埋もれていました。昨日は、久々の20kmランを敢行したので、体力的に疲れてしまって夕方からは軽っこい本を読みたくなり、新書一冊を一気に読破。自分でもまだまだエネルギーがあるなあと自画自賛します。

 こんな絶滅種のようなブログを書いていますので、自分でも文科系と勘違いすることがありますが、私は列記とした理科系出身です。社会や政治的なことが好きなので文科系のように思われることもありますが、読む人が読めば、人間の感情次元の興味が少なく、きっと理科系と思うでしょう。



 昨日は、年に何冊かしか読まない理科系的本を読みました。その感想は、こんな常識的なことを天下の岩波新書として出版するな!です。

 著者の言いたい、「物事を全体として捉え、ザックリと認識するため、桁数で考える」は、昔から目分量とか目算と言って、極めて当たり前のことです。強いていえば、量の変化が、ある点を超えれば質の転化に繋がるとの認識は、著者は意識していないでしょうが、弁証法の臭いがします。

 数は、強いとか弱いという次元でなく、慣れているかどうかです。私も、数字に弱いと思っていましたが、今の会社で金庫番のようなことを数年間経験しましたが、まさに慣れです。いつも数字とにらめっこしていれば、数字の意味や間違いに自然と気付くようになりました。

 小学生の頃、「零の発見」という題名の岩波新書のことを担任の先生が紹介してくれました。すごく哲学的なないようだったことを覚えています。



 


 
 
 
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『吉田拓郎読本』

2008-07-26 20:17:14 | Weblog
 書店で、『吉田拓郎読本』(CDジャーナルムック 音楽出版社 2008年刊)を発見した。

 加川良、山本コータロー、田家秀樹などが拓郎を語っている。出色は、館野公一による「吉田拓郎の音盤」と題した、アルバム紹介である。

 1970年に発売された最初のLPレコード「青春の詩」以降、2005年「一瞬の夏」までの36年間にリリースされた36アルバム、その中に収録された1曲1曲の印象をコンパクトに解説している。



 拓郎にずっと励まされながら来た私にとっては、それを読みながら、10代後半から50代前半までの出来事やその頃の心境が思い出される。

 リズムや曲調より、歌詞から入る私にとって、あらためて拓郎の曲を振り返って見ると、恋の歌や人生の唄が多く、政治性がほとんど無いことに気付く。それに対して自分の興味が一貫して政治的であり、その隔たりが自分でも不思議である。

 強いて言えば、拓郎には、「私たち」とか「僕ら」という言葉使いが少ない。「私」「僕」「俺」が、「君」「あなた」に語りかけるのである。その「ミーイズム」が、自分の中に巧く入ってくるのでないか。



 車内でCDを聞きながら、ランニング中は、頭の中で、いつも拓郎の唄がそばにいる。私は、いつまでも、いつまでも復活を待ちます。今は、ゆっくり休んでほしいと思います。

 

 
 
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情況論ノート第20回 

2008-07-23 20:34:29 | Weblog
 情況論ノート第20回 

 1990年代初頭のバブル崩壊から21世紀初頭まで及んだ「長期不況」の原因と特質、特に、製造業における生産システムと蓄積構造をめぐる変容を述べる。

(1)過剰資本の圧力とグローバル化
 バブル崩壊後の不況が「長期不況」として深刻化した原因は、70年代後半以後、「平成景気」に到るまでの資本の過剰蓄積、その帰結として「過剰資本」(過剰設備、過剰在庫、過剰雇用、不良債権、不良資産など)が膨大となり、処理が困難になったためである。

 また、国際的には、冷戦の終結により、グローバル化の加速とメガコンペティションの進行など環境の急変に晒された。これらにより、日本企業は、生産拠点の移転と国際分業体制の編成、国内的な制度・慣行の切り崩し・再編を要請されることになった。

(2)生産システムの変容
 製造業では、この経済環境の激変に対応するため、バブル期までの「多品種化」への反省によるモデル数や部品の削減、部品の共通化による「ムダの排除」とコストの削減、生産ラインにおける「人手」の見直しを行なった。

 自動車企業では、品種の削減、部品の共通化、プラットフォーム(車台)の統一、モデルチェンジサイクルの延長など「製品設計の簡素化」を進めた。また、国際的規模での自動車産業の再編が進んだ。

 電気産業では、低賃金労働力を求めてアジア諸国への生産拠点の移転、同時に、普及品・量産品はアジア諸国で、先端技術製品や高級品、新製品や試作品は国内に残った工場で生産するという「製品別分業」「工程間分業」が展開された。

(3)蓄積構造の変容
 バブル崩壊後の過剰資本の処理は、①アジアへの生産拠点の移転による対外直接投資、②国内外企業との「産業再編」のもとでの合理化・リストラ、③正規雇用の放出とそれに替わる非正規・不安定雇用の拡大により「日本的経営」の切り崩しが進行した。

 その結果、大企業の利潤は増大したが、他方では、安定した雇用の削減と労働者所得の低下をもたらした。

 完全失業率は、高度成長期の1%台、第1次オイルショック後(1976年以後)の2%台に対して、バブル崩壊後の1995年には3%台を超え、98年には4%を超え、2001年7月に5%、2001年11月には5.5%に到った。

 (参考)原理論的には、恐慌とそれに続く不況過程での個別企業間の厳しい競争を通じて「過剰資本」が処理され、固定資本の更新投資に伴う新たな生産方法の採用(技術革新)とともに超過利潤を獲得する諸企業が現れれば、更新投資に続いて新投資も拡大し、回復(好況初期)へ向かうことになる。



 以上のことから、近年のワーキングプア、格差社会などと呼ばれる現象は、バブル崩壊後の資本活動の帰結であることがわかる。そこにおけるキーワードは「過剰資本」である


『日本の「長期不況」と構造変化―生産システムおよび蓄積構造の変化―』(栗田康之著)を参考とした。 
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くしろ 山下書店

2008-07-22 12:12:18 | Weblog
 釧路駅近く、小田原書店の店主と話しました。「本のデパート山下書店」が閉店したとのことです。これまでに、北大通からは、日進堂書店、丸三鶴屋デパートの中にあったブックセンターが閉店、本屋さんが無くなりました。残ったのは、春採湖畔にあるコーチャンフォー(本店は釧路)だけです。

 また、釧路市内の映画館も1軒も無くなったそうです。20万都市ですが映画館がありません。隣町の釧路町にシネコンができたためだそうです。

 末広町にあったキャバレーも無くなったそうです。銀の目、香港、ニュー東宝などがあったと記憶しています。水産業が振るわず、漁師の人たちがお金を落とさなくなったことも影響していると思います。

 小田原書店の近くにあったパチンコ店も消えていました。北大通のパチンコ「チャンピオン」も閉店になって随分経ちます。

 唯一、増えているのがビジネスホテルです。これも、支店が閉鎖されて、業務を出張で済ませるようになったためだからと言われています。支店時代に住んでいた人は皆いなくなりました。交通手段が発達するとこういうことになります。

 北海道新幹線が札幌まで延伸すると、思わぬ結果になることが予想できます。

 私が育った頃は、水産業、炭鉱、製紙業などが盛んで、「産業都市」として街に勢いがありました。

 地域経済がこのようになったのは、国の政策や国際情勢など、様々な要素が複合した結果だとは思いますが、この国は少しづつ大切なものを失っているように思います。




 
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経済クラッシュ

2008-07-19 11:25:05 | Weblog
 高度経済成長が順調だった時代は、庶民は物価上昇を嘆き、しかしそれを追いかけて賃金も上がっていた。

 異常だったのは、この10年間程のデフレ経済なのであろう。モノの値段が下がり、賃金も下がる。マイナスの経済成長が続いた。

 こう思うと、近頃の物価上昇は、普通のことなのだろうか。

 国際投機マネーによる原油価格高騰は、ガソリンや灯油価格の天井知らずの上昇をもたらしている。バイオ燃料への転換で、穀物価格が高騰、小麦など食糧品価格が上昇している。燃料や原材料などの価格が上がると、全ての商品・サービスの価格に転嫁されていく。

 話はずれるが、サミットに関連して、高橋はるみったくなし道知事は、道民のCO2排出量は、全国平均の1.25倍も多いから、率先して削減に取り組むべきと言っていたが、さすが本州から来た知事、北海道は、冬に暖房焚いているべや、そんなことしたら凍死するぞ、アホか。

 ようやく、第3次オイルショックとか、景気後退(株価の連続下落)と物価上昇が同時に起きるスタグフレーションなどと言われ始めているが、経済の深部で何かが起きているのであろう。

 『ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ』(ヘーゲル)、英知や哲学の象徴の梟が夕暮れに姿を見せるように、歴史や世界の現象は最終にようやく意味が解るものだ。

 私たちは、薄々今何かの異常を感じ始めている。後で気付く、そういえばあの頃からだなと。

 そんなことを、考えながら、故郷釧路へ小旅行。
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『労農派マルクス主義』 その3

2008-07-17 21:25:58 | Weblog
 『労農派マルクス主義』 その3

 長編歴史小説を読んでいるようだ。20世紀初め、「第Ⅰ部労農派の形成」、「第Ⅱ部「労農」発刊から蹉跌まで」、「第Ⅲ部論争から弾圧」、の終戦までを読み終えた。

 石河氏による「戦前の労農派の中間決算」から(部分、要約)引用する。

 ①運動主体の直視
 「戦前、この国の社会主義勢力全体が、圧倒的な支配階級の力の前に分断され敗退した。労農派のめざした単一無産政党は不成功に終わり、ファシズムへの闘いもなしえぬまま敗戦を迎えた。日共も有効な抵抗をなし得ず、大量の転向を生み出した。社会民主主義も軍部ファシズムに妥協しつつ生き残ろうとしたが、最後は身内から発生した社会ファシズムによって放逐された。」

 「戦前のこの国の労働者階級には政治的・民主主義的訓練の場が与えられなかった。支配階級の権力機構は、労働者運動の形成にはるかに先んじて確立し、労働者運動は圧倒的な力に封じ込められて苦闘した。」

 ②マルクス主義の深化
 「労農派のアイデンティティは、レーニンに代表される帝国主義段階のマルクス主義の日本への適用の探求から形成された。」

 堺利彦と山川均によるマルクス主義の啓蒙、山川、猪俣津南雄による福本イズム(日共)との論争、猪俣、櫛田民蔵、向坂逸郎による日本資本主義論争の発展など理論的深化がなされた。

 一方、「日共系の理論活動には、「福本イズム」「31年テーゼ草案」にせよ、すべてを政治決着で清算し、提起された問題を継続して検討する姿勢に欠けていた。特に30年代なかば以降、弾圧で運動が壊滅されるにつれ、分派に神経質となり理論の健全さは保たれなくなり、思索に蓄積と発展が希薄となった。」

 ③反省点
 組織論の問題としては、「共同戦線党が不成功に終るのであるならば、最初から労農派を中心に小さくとも無産政党を興し、社民主義政党などと統一戦線をくむこともひとつの道であった。」

 「労農派は、コミンテルンの認識と同様、社会民主主義はファシズムに転化する危険性があると認識していたが、実際はこの認識は当たらなかった。社民主義は、典型的な「社会ファシスト」としてファシズムに協力する部分と、ファシズムに対して議会主義的に一定の抵抗力を持つ部分に分かれた。」



 さて、物語は、「第Ⅳ部戦後激動期1945~1951年」は続く。そして、運動高揚期を経て、なぜ、総評・社会党の解体につながり、現在の情況となったのか、その理論的解明が明快にされるのであろうか。



 ♪いつか夜の雨が 走りはじめたネ
  過ぎ去るものたちよ そんなに急ぐな

  きみの住む街を おもいださせるネ
  あの頃の愛の唄よ 喜びをうたうな (岡本おさみ&拓郎)

 久しぶりに雨が小屋根をたたく音が聞こえます。
 静かな夜の雨音は、気持ちを落ち着かせてくれます。
 明日も雨が降り続いてほしいと思います。
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竹島 or 独島

2008-07-15 20:16:25 | Weblog
 「日韓両国が領有権を主張している竹島(韓国名・独島)について文部科学省は14日、中学の新学習指導要領の社会科解説書に日本の領土として取り上げることを決めた。韓国は駐日大使の一時帰国を決めるなど強く反発している。」



 この報道を聞いた場合の、私の問題の建て方は、まずあるべき究極の(理想)目標を、「国家の廃絶」に置きそこからスタートしたい。国家が無ければ、国境を巡る紛争も生じない。しかし、現実に国家ある限り、国境があり、そこには未解決の問題が存在しても不思議ではない。

 問題解決の方法としては、「対話と協調」である。武力でも、一方的な宣言であってもいけない。そして、教育の素材にする前に、外交により両国の共通の認識づくりが先であるべきである。むやみに、教育において、子ども達にナショナリズムを煽るべきではない。

 先に強行された教育基本法の改悪が、このような形で具体的に教育内容を侵食し始めた。

 国家を前提とする限り、かの国の歴史教育がこうだから、わが国の教育でもこう教えるべきということであろうが、この種の議論は、どれだけやっても平行線に終ってしまうだろう。国家を超える論理が必要なのである。

 さて、一体、この国は、これからアジアの中でどうやって生きていこうとしているのか。北方領土でロシアと、尖閣諸島で台湾、中国との間で問題を抱え、今度は、竹島で韓国にケンかを売り、北朝鮮とは国交すら無い。



 ♪「アジアの片隅」で、このままずっと生きてゆくのかと思うのだが・・・(拓郎)
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転んでもタダで起きるな 日本共産党

2008-07-12 19:32:41 | Weblog
 スーパーで買って食べた後のしっぽを植えた「山わさび」の花が咲きました。それで、辛口の話しをしたくなりました。



 1月22日のこのブログで、「もっとしたたかに、日本共産党」と題して、次期総選挙において従来のように全選挙区で候補者を立てないことを決定した日共に対して、この戦略では、基礎票が草刈場になってしまうとの危惧を示し、せめて他党との政策協定を結び、一定の政治情勢に楔を打ち込む努力をすべきではないかと提言した。

 昨日の日共中央委員会で、次期総選挙の戦略としては、自公政権を批判すると共に、民主党批判も行なって、支持を拡大するという方針を掲げた。

 これに対して、いくつかの疑問が浮かぶ。(政策論議ではなく、足し算、引き算だけを使うゲームのような話しです。)

 まず、従来からの日共支持者は、候補者のいない選挙区で、誰に投票したら良いのか。

 民主党批判が、結果的に自公に有利に働いてしまうことをどう考えるか。ひとつは、候補者を立てない選挙区では日共の基礎票は民主党に流れる可能性が多いといわれているが、そこでの民主党批判は、自公を利するのではないか。

 自公は、日共を助けるため、すなわち自公のため、公職選挙法を改正し、法定得票率のハードルを下げ、供託金が没収される可能性を少なくするような動きをしている。そうなれば、財政難の日共が候補者を増やすことができ、民主党への票の流出を食い止めることができる。

 自公と日共の間に、政策とは別に、利害共同体ができている。日共は、これをどう捉え、どう乗越えるような戦略を立てるか。



 志位、小沢、福田、実社会で生きてきた臭いが感じられるのは、福田。志位も小沢も政治の世界しか知らないのでは。



 
 
 
 
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『4-2-3-1』

2008-07-11 21:09:28 | Weblog
 『4-2-3-1 サッカーを戦術から理解する』(杉山茂樹著 光文社新書 2008年刊)

 この本、随分と売れています。3月発売で、既に7刷です。
著者は言います。この本はサッカーの戦術の話しであり、布陣の話しである。サッカーは監督で決まります。サッカーの主役は監督です。

 これまでは、私は、どちらかと言うとサッカーを「もっと走れ、1対1で負けるな」と根性論で見ていたが、読み終わって、サッカーの見方が変わったような気がします。面白くなりました。次の、コンサの試合が楽しみです。



 そして、いくつかの鉄則がわかりました。

 「中盤を制するものが試合を制す」から「サイドを制するもが試合を制す」に変わった。サイドの攻防に注目です。中盤は360°の攻防ですが、サイドは片方がラインのため、180°を意識すればいいのです。果たして、コンサのDF,MFのサイドには攻守に長けた選手が配置されているでしょうか。

 サッカーは、野球と違って守備と攻撃の区分がありません。自陣ゴール前に引いて守ることが守備ではない。できるだけ高い位置から積極的にボールを追いかける=守備をすることで、攻撃性が保たれる。コンサの守備的FW(完全に形容矛盾)中山元気が使われる理由はこうしたことからなのでしょうか。

 トルシエが中村俊輔を使わなかった理由は、俊輔がカルト宗教の信者であったからではなく、俊輔のディフェンス能力が低いためである。それは守備において1人、人数不足を招くことになるからです。

 バックラインを高く、ゴールキーパーがスウィーパーの役を半分兼ねる必要があります。

 戦術的交替、それは、ベンチに下げる選手と異なるポジションの選手を投入する選手交替術です。これを実践するためには、複数のポジションをこなせるユーティリティプレイヤーが必要になります。

 3バックで両サイドのポジションが低くなると、実質5バックになり、そのため、後ろに人が多いので、高い位置でのプレスがかかりにくくなり、ボールを奪う位置も低くなる。相手ゴールまでの距離は遠いし、攻撃を仕掛ける人数も少ない。パスコースも少ないので、ロングボールを用いたカウンターになりがち。

 決定力不足解消の近道は、バイタルエリアを目指すのではなく、ゴールラインとペナルティエリアラインが垂直に交わる地点より内側(ペナルティエリアの最深部)に徹底的にこだわることです。

 岡田武史監督の言う「接近、展開、連続」は狭小で感覚的なフレーズであり、戦略、布陣をどう考えているのだろうか。



 単純に、3バック、4バックのどちらが良いというものではなく、もっと有機的に選手がどうエリアを意識して、自分の役割をどう意識して、どう動くか、それが問題なのだと思います。布陣と戦略が読めるようになりたいと思います。
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『労農派マルクス主義』 その2

2008-07-09 20:04:43 | Weblog
 著者の問題意識を掴むため、「はじめに」から部分引用する。

 「昨今の日本社会は、マルクスが示唆したとおりの深刻な矛盾におおわれているものの、社会主義を標榜する勢力はふるわない。」

 「一方、ヨーロッパでは労働組合はよく闘い、世界のいたるところで新自由主義に抗する運動がひろがっている。それらは資本主義のシステム自体を問題にせざるをえないから、マルクス主義の発展の豊かな土壌をなすだろう。」

 「資本主義の矛盾が激化しても、運動主体が歴史的に鍛錬されていなければ、社会は腐敗し閉塞する。日本ではこの主体が思いのほかもろく、社会変革の展望が見いせないでいる。」 
 
 「今日、ソ連社会主義の総括という重い検討課題はあるものの、見解が戦略次元で対立するほどの情勢の複雑さも、国際的環境もあるとは思えない。また左翼全体が世界にも例がないほど後退させられるなかで、社会主義の再生のための共同作業が共通の責務となっている。」



 今、私が読んでいるのは、明治社会主義の黎明期から、第一次日本共産党結成あたりまでで、「労農」発刊前位までの時代であるが、先回りして気になるのは、その後、労農の歴史がずっと進み、現代になると、労農派の一部の流れは社会主義協会に繋がっているという事実である。

 私たちは、日本社会党にも影響力を持っていた向坂逸郎代表がいつまでもソ連社会主義を擁護していた事実を覚えている。そのあたりの叙述もこの本のポイントである。
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『労農派マルクス主義』

2008-07-07 20:29:04 | Weblog
 『労農派マルクス主義 理論・ひと・歴史』(上・下巻)(石河康国著 社会評論社 2008年刊)                 

 凄い本が出版された。帯に、堺利彦、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄、向坂逸郎らオールド・マルキストの名が連なる。

 「はじめに」は、全文引用したい位の名文である。自分の情況認識とピッタリくるものがある。以下は、「はじめに」からの部分引用だが、労農派マルクス主義とはいかなるものであるかが感じられる文章だと思う。

 「労農派マルクス主義者たちは、日本の諸条件にあわせた労働者運動の主体をどう形成していくかを、どのマルクス主義潮流よりも真剣に探求した。日本共産党にくわわらず、戦前は共同戦線党を追及し、戦後は社会党・総評ブロックの前進に全力を傾注したのは、この姿勢の帰結であった。しかし、総評・社会党ブロックも崩壊した。いったいなぜか、労農派マルクス主義の歴史の反省は、社会主義運動の主体を日本で再生する途を考える一助となるだろう。」

 「人間の行なう運動であるから、個性が事態を左右する場面も多々ある。労農派の面々はだいたいにおいて、「普通の」市民たろうとつとめた。清水の舞台から飛び降りるような行動はあまりとらない。共産党系の活動家が、共産党から離れるとかなり異質な世界にむかいがちなのに反して、労農派は離れてもそうことなった世界にはいかない。良くも悪くも己の分をわきまえるところがある。」



 表層的で右翼的な人は、社会に批判的な人に対してレッテルを貼る場合、「あれは、共産党だから」で終わりにしてしまう。デリカシーの感じられない切り捨て方である。

 例えば、「九条の会」をどう見るか。日共系が主流を占めている組織もあれば、大江健三郎らいわゆる進歩的文化人(死語!)に連なる組織もある。大江に、「あなたは共産党ですか?」と問えば、絶句するであろう。

 マルクス主義も同様のことが言え、戦前から日本共産党とは理論的にも政治的にも別の系譜が連綿と続いている。そこに、本書は、焦点を当てたのである。今の時期に良くここまで調べ、また、こんな本を良く出版したものだ。上下巻2段組み400ページの大著であるが、久々にじっくり読みたい気分の本である。
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『日本の鉄道 車窓絶景100選』

2008-07-05 19:34:10 | Weblog
 『日本の鉄道 車窓絶景100選』(今尾恵介 杉崎行恭 原武史 矢野直美共著 新潮新書 2008年刊)



 特に哲学のある本ではありません。今流行の鉄ちゃん、鉄子さんが、この国の鉄道からの眺めのベスト100を選ぶため6時間にわたって語り合った座談会の記録です。馬鹿馬鹿しくもあり、罪が無く楽しい議論にもなっています。

 座談会と言えば、戦前の「近代の超克」ですが、いまだに言論界では話題になっています。さて、「車窓絶景」座談会は、論争を巻き起こし歴史に残る座談会になりえるでしょうか。

 100選は、全国を8ブロックに分け、それぞれの地域で選ばれていますが、北海道からは選者の中に矢野氏がいることもあり、14ヶ所選ばれています。いずれも、普段割りと乗っている路線です。

 宗谷本線では、抜海~南稚内、音威子府~佐久、釧網本線では、北浜~知床斜里、茅沼~釧路湿原、根室本線は4ヶ所、別当賀~昆布盛、厚岸~糸魚沢、落合~新得、布部~金山、富良野線では、美瑛~上富良野、石勝線では、新夕張~トマム、日高本線では、日高門別~東静内、函館本線は3ヶ所、朝里~銭函、ニセコ~銀山、仁山~駒ケ岳。

 あらためて、いい所に暮らしているんだなあと思います。



 この新書は、タイアップ企画で、『日本鉄道旅行地図帳全12巻』の発刊開始と連動しています。これも、見ていて飽きない地図帳です。

 元来、出不精な性格ですが、少しづつ鉄ちゃんになろうと思っています。

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地球温暖化異論 その2

2008-07-03 20:24:30 | Weblog
 6月28日の当ブログで、画期的連載が北海道新聞で始まったと書いた。

 2008.6.28付け「環境問題 もう一つの真実」(荻野貴生記者)(3回連載予定)



 第1回 江守正(国立環境研究所温暖化リスク評価研究室長)「温暖化の原因はCO2の可能性が高いが、科学はわからないことが多い。」
 丸山茂徳(東京工大教授:地球惑星科学)「気温の変動は雲(水蒸気)の量の影響が大きい」「中国やインドの消費を抑え込むねらい」「太陽活動のピークは過ぎ、寒冷化が心配」 
 著書「『地球温暖化』論に騙されるな!」
 槌田敦(物理学者)「気温が上がった半年から1年後にCO2が増える」
 国立環境研究所地球環境研究センター「温室効果には水蒸気が寄与」



 第2回(2008.6.29付け) 武田邦彦(中部大教授:資源材料学)「燃えるごみは、プラスチック類の分別で熱量が不足。燃やすために石油を使う必要」 
 著書「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」(洋泉社)



 第3回(2008.6.30付け) 池田清彦(早稲田大:理論生物学)「温暖化で感染症が流行ると言うのは間違い」「温暖化すれば、既存種にとって生息環境の悪化になるが、既存種をそのまま保護すれば良いというものでもない」 
 著書「環境問題のウソ」
 S・フレッド・シンガー(気象学者)「マラリアの最悪の拡大は1920年代のロシアで起こったもので、気温とは無関係」
国立環境研究所地球環境研究センター「温暖化により、生物の一部は滅ぶが、増える種もあり、進化も起こる」



 2008.6.30付け夕刊で橘井潤記者の『「温暖化」に異論』を掲載している。

 渡辺正(東大生産技術研究所教授)「世界の気象観測点には精度のあやしい所が多い」「将来を予測する気候モデルは、基礎研究段階」「異常気象の多発、国土の水没は根拠がない」「地球の気温は、太陽活動と関連」「’70,’80年代の省エネ努力の結果、日本は最もCO2を出さない国、減らす余地がない。2050年までに70%削減を本気で実行したら産業は壊滅、失業者があふれる」「温暖化対策に毎年使われる1兆円の税金や、今後『排出量取引』に使われるお金は、医療、福祉、教育に回すべき」 
 著書「地球温暖化論のウソとワナ 史上最悪の科学スキャンダル」(伊藤公紀横浜国立大大学院教授と共著、KKベストセラーズ)、「ダイオキシンー神話の終焉」(日本評論社)

 地球温暖化論のほとんどの議論が、異論がありながら強引に結論を導いたとされるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)報告の「温暖化の進行とその主因が温室効果ガスにある」との主張を前提としている。



 私は、この前提を疑いたい。なぜなら、この問題は、純自然科学的にも、今だ「混沌」としている。また、サッミットのテーマになることからも、政治的な思惑も渦巻いているからである。
 
 上記の主張の中で、「温暖化対策に毎年使われるお金は、医療、福祉、教育に回すべき」との主張が一番正しいと考える。温暖化対策とは、産業界への資金の還流ですから。 
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