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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『登紀子1968を語る』

2010-03-29 19:49:08 | Weblog
 『登紀子1968を語る』(加藤登紀子著 情況新書 2009年刊)

 1968年から40年とかの企画が相次いでいるが、1954年生まれ私には、同時代としての1968に特別な思い入れはない。後に続いた世代としては、思想的に影響を受けている部分もあると感じているが、現実の会社の中における団塊世代のダメさ加減もずっと見続けてきたから。

 本書は、加藤登紀子の思い出話として、軽い感じで読める良書である。

 ここでは、お登紀さんのご主人である藤本敏夫氏との小さな接点とその頃の小さな私の実践を記す。1980年代半ば、農業とは全く縁の無かった私なのであるが、仲間と農地を借りて蕎麦作りなどを楽しんだり、有機農業に興味を持った時期がある。そのつながりで、藤本氏が主宰する「大地の会」が、鴨川の拠点のほかに北海道で自然生態農場を実践する場を求めているという話しがあった。

 藤本氏は、来札すると必ず薄野の料理屋「K」を訪れるのであるが、そこで話しをしたり、講演会を開いたりした。氏の印象は、男から見てもいい男、色が浅黒く精悍な顔、話し方はアジテーションが効いていて、人を惹きつける魅力が溢れ出る人であった。

 結局、農場の話しは、形にならなかったのであるが、当時「k」の主人は、薄野勝手連にも関わっており、お登紀さんを招いて開いたほろ酔いコンサートも楽しかった思い出である。


 30年近く前には、私にもそんなことがあったと記憶しているが、現実の日常は、随分遠い所に来てしまったと感じている。
 1968を振り返っている団塊世代、全共闘世代は、どのような気持ちで今頃になって回想記を書いているのだろうか。



 



 

 

 

 
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『反障害原論』 ノオトその7

2010-03-28 17:22:25 | Weblog
 『吉田拓郎展 TAKURONICLE』 2010.4.1~4.7 さっぽろ東急百貨店9階催物場

 全国を移動開催していますが、ついに、札幌にやって来ます。


『反障害原論』 ノオトその7

 *著者の論述は、前第一三章から「運動論」「法律論」に入るが、「原理論」「思想論」に基づく展開とはいえ、面白みに欠ける。法律というのは哲学的な深みが無い、単なるルール、制度論レベルと考えてしまうゆえか。

第一四章 障害を巡る反差別の法制度―差別禁止法・「障害者の権利条約」
一節 ADA「アメリカ障害者差別禁止法」法
 著者は、ADA法の論点を整理する。
 評価:①障害者の団結によって勝ちとられた、②何を差別とするのかが掘り下げられている。
 批判:①抜け道が多く妥協の産物、②重度の障害者が除外されるなど経済的効率性が優先、③法律成立の働きかけ運動の中に重度の障害者がいなかった、④能力主義に基づく機会均等法

二節 他の国の「障害者差別禁止法」
 現状は、医学・生物学モデル、機会均等という差別の論理、資本の論理に基づく法律。

三節 日本における「障害者差別禁止法」制定運動の動き

四節 「障害者の権利条約」
(1)「障害者権利条約」や「障害者差別禁止法」は反障害=反差別の道具=手段になりえるのか?
 「何でも利用できるものは利用しよう」ということは、両刃の剣的に作用する。
 著者は、今、教育において競争原理に組み込める障害児に限ったインテグレーションの遂行と、原則分離の維持・強化が進んでいる。「障害者自立支援法」の精神もインテグレートの対象になる障害者を軸に作られ、重度と規定される障害者を切り捨てている、と指摘する。

(2)‘合理的配慮’という誤訳?
(4) まとめ・・・「合理的配慮」という差別性
 著者は、「特別なニーズ」という言葉は、日本の原則分離教育の中で、「特別支援教育」にすりかえられ、分離教育の根拠として使われてきている、という。

補節一 「障害者運動」サイドから出てきた「差別禁止法要綱案」との対話
(1)「要項案」における障害規定
(イ)「障害をもつ人」という表現
 「もつ」は、医学・生物学モデルそのもの。

(ロ)「要綱案」における障害規定
 第一章総則「2 障害の定義」では、「障害とは、傷害や病気などを原因とする個人の特性にかかわらず、その個人に対して、ある程度以上の能力や機能を要求する社会的環境との関係で生じる障壁をいう」となっているが、著者は、生まれた時から障害者と規定された人の観点が無いなど、と批判する。

(ハ)「要綱案」における「障害者差別」規定
 「前文」では、「現在までの社会的諸関係において、身体的・精神的な特徴と理由により、通常の日常生活を営む能力が不当に低く評価され、・・」となっているが、著者は、不当とはどういうことか、と批判する。

(3)「機会均等法としての差別禁止法」の動きに対する批判
(4)差別禁止法制定運動のもつ意味?
(5) まとめ
 著者は、運動は、重度の働けないとされる障害者を基準におくべきという。

補節二 『傷害のある人の人権と差別禁止法』(日本弁護士連合会人権擁護委員会)の読書メモ

補節三 「特別なニーズ」・・・サラマンカ宣言

第一五章 障害学のとらえ返しと障害学批判
一節 「イギリス障害学」の入門書の翻訳
 コリン・バーンズ/ジェフ・マーサー/トム・シェイクスピア『ディスアビリティ・スタディーズーーイギリス障害学概論』の読書メモ
二節 マイケル・オリバー『障害の政治』の読書メモ
三節 杉野昭博『障害学 理論形成と射程』の読書メモ
四節 障害学批判
 
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『田中角栄 封じられた資源戦略』

2010-03-22 18:13:43 | Weblog
 『田中角栄 封じられた資源戦略 石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い』(山岡淳一郎著 草思社 2009年刊)

 残念!田中角栄の政治活動を丹念に追っていて面白い読み物になっているが、私の一番知りたいことが書かれていない。角栄の失脚は、米国のトラの尾を踏んだからと言われて久しいが、本書でその決定的な証拠が示されると期待して読んだのだが、推論レベルに終っている。

 資源と政治、田中の原点は、理化学研究所にある。「石油の一滴は、血の一滴」という信念を貫き、石油メジャーに依存しない日本独自のウランや石油の資源戦略を求めたがゆえに、米国の逆鱗に触れたとされる。

 本書には、多くの興味深い人物が登場する。山下太郎(アラビア石油の設立など民族派石油利権を探る)、児玉誉士夫(自民党結党資金を提供)、正力松太郎(原子力開発と反共通信網としての日本テレビを発足)、左翼を分裂させるための民社党結成資金はCIAからの秘密資金提供、岸信介―スカルノ(インドネシア戦後賠償は、スマトラ沖石油開発、天然ガス開発につながり、それは、タイヤの原料に、ブリジストンの石橋正二郎、その娘は、現鳩山首相の母とつながる)・・・

 財界の中にも、対米従属派と資源自立派がおり、田中を支えていた後者には、中山素平(日本興業銀行頭取)、今里広記(日本精工社長)、松根宗一(経団連エネルギー対策委員長)、田中清玄(フィクサー)、両角清彦(通産省事務次官)などがいた。

 田中角栄の失脚は自ら招いた金権政治が断罪されたのか、アメリカの資源戦略に逆らったため疑獄を仕掛けられたのか、著者は断定していない。

 今頃なぜ田中角栄なのかという問いには、今も田中角栄だから、と答えたい。現在、小沢政治が批判されているのも、田中角栄的な政治が今だ影響力を持っているがゆえにだからである。米国との関係を論じるには、必ず田中角栄が登場する。普天間基地問題、東アジア共同体構想、小沢金脈批判・・米国の意志を感じなければならない。




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『反障害原論』 ノオトその6

2010-03-21 15:04:40 | Weblog
Ⅳ 障害に関する思想―理論
第一一章 優生思想―「健全者幻想」
(1) 概観
 著者は、優生思想はダーウィンの自然淘汰説、マルクス、エンゲルスの社会の唯物史観(社会の発展法則)、社会進化論、ナチスの障害者抹殺、米国・スウェーデンにおける断種手術に通底している、という。
(2)青い芝の指摘する「健全者幻想」と優生思想のつながり
 青い芝(障害者グループか?)が指摘した「健全者幻想」とは、「健全なるものにあこがれてしまう、とらわれてしまう」というものである。
(3) ゆるやかな優生思想
 著者は、ゆるやかな優生思想としての「障害はないにこしたことがない」という主張をいかに批判するかである、という。

 *私は、この障害者差別の問題の中に、スターリニズム型社会主義の失敗、20世紀型社会主義体制崩壊の根本的な原因が内在していると考える。社会的効率、競争、淘汰の問題である。

第一二章 発達保障論とその批判
一節 そもそも発達とは何か
 3つの発達モデル
(a)子どもの大人への成長
 フィリップス・アリエスは、『<子供>の誕生』(みすず書房1980年刊)で、子どもは近代以前は「小さな大人」としてとらえられていた。近代の成立―資本主義の成立以降、大人になることを発達としてとらえる考え方が起きてきた、とする。 
(b)進化論における下等動物から高等動物への発達
(c)原始共産制―奴隷制―封建制―資本主義―社会主義―共産主義という生産様式の発達
 著者は、エンゲルスによるダーウィン進化論への賛美!を社会と自然の取り違えと批判する。付言すれば、一方のマルクスは、アジア的生産様式の発見など生産様式の変遷が単線的でないことに気付いていた。(*異議なし!)

二節 発達保障論批判
 著者は、発達保障論は、ひとの多くが変遷する筋道を、発達の法則たる「発達の弁証法」として絶対化し、それにあわない者を「障害者」と規定する。「法則にできる限り沿うことが、障害者の幸せであり、障害者の役割だ、その発達を保障するのが関係者の役割だ」として「障害者」に同化と融和を強制する「障害者」への抑圧の論理である、と批判する。
 
三節 発達の弁証法
四節 発達保障論の実践的破綻
 60年代後半以前の障害者運動は、いわゆる関係者の運動として始まり、「障害者がいかに健常者に近づくか、近づくことが障害者の務めであり、それが幸せなのだ」として、いかに教育やリハビリテーションにおいて、発達や回復をかちとるのか、そのことをどう保障するのかというところで問題がたてられていた。その推進者は、いわゆる進歩的な人たちであった。
 彼らは、1979年の養護学校義務化を支持、発達保障の合理性から分離―別学(隔離!)を主張、そして統合教育、養護学校コミュニティ形成論に進んでいる。著者は、差別をきちんとおさえないと、インテグレーションや共生が、融和や同化になると主張する。

第一三章 WHOの障害規定
一節 WHO(世界保健機構)の障害規定批判
 WHOの障害規定ICIDH(国際障害分類)では、①機能障害、②能力障害、③社会的不利

二節 ICIDH-2との対話
(1)概略図と本文の相違
(2)「標準」という言葉について
(3)「パラダイム」について
(4)「環境因子」と「個人因子」の二分法と「因子」概念について
(5)WHOが分析主体となったことの問題性
(6)その他の不備
(7)まとめ










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『反障害原論』 ノオトその5

2010-03-20 15:45:50 | Weblog
 ウルトラセブン、何人いると思いますか。おそらく777人に違いありません。

第九章 障害各論
(はじめに)
 従来の医学・生物学的モデルでは、障害各論は、「全身性障害」「視覚障害」「聴覚障害」「精神障害」「言語障害」「知的障害」「認知障害」というような羅列がされてきた。
 著者は、ここで「社会モデル」に沿った障害各論を試みる。

一節 その存在を無視されることによって生じる障害
 器機の普及によって障害が増幅される問題、例としては、電話の普及が「聴覚障害者」を排除、FAXは「視覚障害者」の排除をもたらす。それを解消するための器機の開発が必要である。

二節 交通における障壁による障害
 街や建物を作る場合、移動の困難な人を生み出す問題、歩道橋や階段など。

三節 生きるのに必要な手段が遮断されることによる障害
 介助を受けられない、競争原理社会における共同性の喪失の問題。

四節 コミュニケーション障害
 競争原理社会では、表層的なコミュニケーションしか成立しない。

五節 情報障害
 情報が入ってこないことによる問題。

六節 「美意識」を巡る障害
 「美」が商品化されることで、美を巡る価値観での「障害」概念が生じる。

七節 関係性の障害
 「障害」ということ自体が、「障害」として浮かび上がること自体が、関係性の中でおきてくる。

八節 標準化による障害
 ひととはこうあるものだという社会的通念から外れるものを「障害者」として規定していくことによるもの。

第一〇章 障害差別の根拠は何か
一節 何が障害として浮かび上がるのか?
 「できない」ということを巡って「障害」として「異化」する。これに関し、「身辺自立」、労働能力が問題になる。

二節 能力とは?
 「能力を個人のものと考えない」というフレーズに、近代知の個人―個性(実体―属性)というパラダイムを転換するものがある。

三節 社会通念を脱構築すること
 著者は、自分の反差別論の軸は、マルクスー廣松思想の実体主義批判にあるという。

補節一 柴谷篤弘著作との対話
 『反差別論―無根拠性の逆説』(明石書店 1989年刊)、『科学批判から差別批判へ』(明石書店 1991年刊)について
 柴谷氏の差別論は、「差別の構造が、人間に生得的に与えられている」、差別は決してなくならない、人間の本性であるというように捉えているが、著者は、差別は関係性の問題であるとして批判する。

補節二 立岩真也『私的所有論』との対話
(1) 私について
(イ)近代的個我の論理としての「私」
(ロ)『私的所有論』の端緒としての「私」-『資本論』との類比
(ハ)私的所有と私有財産制
 ここで、著者は興味深い論を展開している。「私有財産制を維持するためには、家族幻想を煽らねばならず、男が自分の子どもを特定するためには、女を独占しなければならないところにおいて、性差別は必要とされる。」

 マルクスは、「分配が問題なのではない、問題は生産手段の私的所有の問題だ」と論じる。著者は、「再分配としての福祉はあくまで私有財産制の補正としてあり、競争原理がこの社会の原理で、再分配は補正であって原理ではない。再分配―補正を進めていけば原理が解体できるわけではない。」と。(*これは、私が民主党を分配レベルの政策と評したことに通じる。)

(2) 反差別の根拠としての「他者との出会いの喜び」について
(二)自我―他者の論理
(ホ)「他者との出会いの喜び」という物象化
(ヘ)倫理は差別を押さえ込めるか?
(ト)歴史的・社会的相対性
 
(3)「自己決定」について
(チ)「自己決定」はあるのか?
 著者は、何らかの強制が働く社会で「自己決定」というのはありえるか、と問う。
(リ)それでも「自己決定」は必要
 そして、自己決定は必要である。「障害者」が、被差別者が自己決定を奪われるということは、支配されるーモノ化されるということを意味する。

(4)「「正しい」優生学」について
(ヌ)「優生学」とは何か
「優生学」は、資本主義の成立の中で生まれた。
(ル)「障害はないにこしたことはない」考
(フ)「障害の否定性」の否定

(5)倫理をたてることについて
(ワ)倫理主義批判
 著者は、「倫理をたてるときはその限界性を押さえた上での、倫理でしかない。」という。
 岸田秀氏は、「倫理主義とはファシズムへの通路である」といい、著者は、倫理主義―基本的人権に基づく福祉という共同幻想が競争原理の中で、解体されたとき、別の共同性をもってするしかない。それが、民族なり、国家の論理であり、ファシズムとして現れる、ナチス・ドイツの登場は、極めて倫理主義的な登場だった、と解釈する。

(カ)倫理主義的差別
(ヨ)差別形態論の欠落
 著者は、相対的排除の性格の強い差別を受ける人たちが、自己責任論から逃れるために、自らの「障害」を素因論に求めていくことで現しえる、という。その例として、吃音者が自ら吃音の原因を脳の中の障害であるという指摘をしている。

(タ)「障害者運動」の現在と未来
 
(6)まとめー倫理主義批判の中での倫理
 


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『無理』 奥田 英朗 著

2010-03-13 20:02:26 | Weblog
 年度末で夜も営業が続く。明日、日曜日も営業。「晴走雨読」できない日々。明けない夜は無い。大変さの中の「幸せな時間」。



 『無理』(奥田英朗著 文芸春秋 2009年刊) 

 本書は、先月のNHK週刊ブックレビューで紹介され、絶賛されていました。

 合併でできた地方都市で暮らす5人、県から市役所に派遣されている福祉ケースワーカー、東京の大学に行きたい高校2年生の女生徒、詐欺まがいの商品を売る元暴走族のセールスマン、スーパーの保安員をしながら新興宗教にすがる中年女性、県議会をめざす市会議員。出口のないこの社会で、彼らに未来は開けるのか。

 グイグイとストーリーに引き込まれて読んでしまう小説です。奥田英朗作品は初めてですが、面白く楽しめます。細かい心理描写や細部にわたる書き込みがないので500ページを超える大作ですがテンポ良く読めます。

 小説を構成した過程が見えます。東北のある田舎町を舞台に、全く何の関係の無い5人の主人公がそれぞれの生活を営んでいる様子を描きます。途中、5人が少しずつ絡みだし、最後はひとつに繋がります。このストーリーを、逆から追って書くこともできたはずです。
ガラスの容器を床に落として割れてしまった場面を、スローモーションで反転させると、ひとつひとつの破片が、寄せ集まってひとつの形になるように。

 全編に何とも言えない閉塞感が貫かれています。ひとりひとりは、小さな希望を持ちながら生きていますが、現実は重く、叶えることができません、否、全く逆の方向に流れてしまいます。すなわち「無理」なのです。

 舞台が東北だからではありません。北国の冬空のように、どんよりとした雲が立ち込め、日も差さず薄ら寒いのです。時代の空気を良く描いています。私たちは、今どのような時代に生きているのだろうか、という問いに、この小説は「ああ、私たちは、今、こんな時代に生きているのだなあ」と答えてくれます。

 ただ、ラストの落しどころは、つまらないものになってしまいましたが・・・
 
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『反障害原論』 ノオトその4

2010-03-07 17:44:22 | Weblog

Ⅲ 障害差別とは何か
第六章 障害差別はどのようにして生まれるのか?
一節 差別の起源をどうとらえるか?
二節 三つの動詞を巡って
 著者は以下で「差別」を生み出すひとの三つの行為を説明している。

(イ)「囲う」こと
 「私」という言葉の起源として、「ノギヘン」が「囲う」という意味を持つ。この、一人称代名詞から、私有財産制と差別が始まっている。(福岡安則「マルクスを<読む>」(三一書房)からの引用)
 差別は、「異質性嫌悪」から来る。(アルベール・メンミ「人種差別」法政大学出版会)からの引用)

(ロ)「分ける」こと
 ある集団が他の集団を拒絶するー区別する、ある集団から特定の人たちを分ける、ある集団の中で色々分けて、固定化していくことから差別が現れてくる。
 決定と執行の分離が、「精神労働」と「肉体労働」の分離、その固定化が差別に現れる。

(ハ)「比べる」こと
 「比べる」という行為自体の「社会性」、そこに差別が存在する。

第七章 障害差別の三つの性格
一節 方法論(―脱構築する仮措定)としての三つの性格
(a)他の差別事項からとらえた差別分析の問題点
 差別、民族・人種差別、差別意識などの例から、一面的なとらえ方では不足である。著者は、三つの性格(経済的性格、政治的性格、文化的性格)から分析すべき、という。

(b)差別の問題がなぜとらえられなかったのか?
 マルクス主義では、差別の問題を階級支配の道具、政治的な次元の問題としか捉えていない。

(c)方法論としての三つの性格というとらえ返し

二節 三つの生活
(イ)経済的生活
 著者は、「できる」-「できない」は、「労働力としての価値」の序列づけ、経済的性格を土台としており、そこから障害差別が生まれる、という。

(ロ)政治的性格
 障害者差別は、政治的に二つの方向に流れていく。「社会の片隅で迷惑をかけないように生きよ」(排除)と「努力して障害を克服しよう」(統合)の二つである。
 排除は、優生思想という文化的―イデオロギー的性格につながる。例として、ナチスの「精神障害者」虐殺、障害児(胎児)の人工中絶、「障害者」不妊手術、脳死―臓器移植もひとの命の序列化につながる。
 統合は、国家という共同幻想、国民統治のために、国家の慈愛の対象としての「障害者」を融和的に組み込んできた。例としては、皇室は、「障害者」施設や病院を訪問することで、福祉の具現者としてあらわれる。

(ハ)文化的性格 
 文化的性格のひとつには、差別の根拠としての美意識があり、「形態」の問題がある。

第八章 差別形態論
一節 絶対的排除と相対的排除
 著者は、差別とは、社会的に普遍性をもった「上」とされる者から「下」とされる者へなされる何らかの排除である、とする。共同体からの排除は、共同の空間からの排除でこれを絶対的排除と規定する。共同性からの排除は、共同体からの排除を含む文化的排除、これを相対的排除と規定する。
 例として、障害児を普通学校から排除する(絶対的排除)。養護学校、福祉施設に入れる(相対的排除)。相対的排除は差別として捉えにくい。

 差別を類型化すると、(絶対的排除)→「抹殺」「隔離」「排除」「抑圧」「融和」「同化」←(相対的排除)、となる。

二節 排除型の差別と抑圧型の差別
 排除型の差別(絶対的排除)と抑圧型の差別(相対的排除)と言い換える。

三節 差別の型―差別形態論各論
(1)抹殺
 例としては、ナチスの「精神障害者」虐殺、この国の戦時中における精神病院での餓死、近代まで続いていた「間引き」、出生前診断、人工受精における受精卵の選択、遺伝子操作技術など。

(2)隔離
  例としては、施設への隔離、分離教育など。
 「特殊教育の必要性」は、「障害者」を排除―隔離したところで「健常児」のための教育の「効率性―合理性」としてある。
 隔離には、コミュニティを形成するという積極的な面も内包している。

(3)排除
 例としては、法における欠格条項、就職、結婚からの排除、シカト、街づくりでのバリア、テレビなどにおいて手話・字幕が無い情況など。

(4)抑圧
 「障害者」が「非障害者」に近づくように努力しなければならない。

(5)融和
 融和とは、「差異」は「差異」として認め、対立の関係を無くしていこうとすること。

(6)同化
 同化とは、「差異」自体を無くすこと、無くそうとすること。
 例としては、人工内耳、遺伝子工学、リハビリテーションなど。

補節 マージナリティ(境界性)と差別意識


 *私は、その1で、「資本主義社会に対するオルタナティブの可能性、反資本主義の視座を持っているかどうか」と書いたが、「差別」の問題(本書においては、障害者差別の問題)は、資本主義社会においては、労働力商品の価値が問われるがゆえに、その矛盾が最も噴出していると捉えるべきか。
 それとも、「差別」は、歴史貫通的(唯物史観では、原始共産制→封建制→資本主義→社会主義)に存在することなのか。オルタナティブとしてどんな社会構造になっても「差別」は残るのか。
 それは、「公平」とは、「平等」とは、どのようなことか。それは、可能なことなのか、ということに繋がる。
 マルクスは、「能力」と「必要」から「分配」の問題を提示したが・・。
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