晴走雨読

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ジェームズ・C・スコット 『実践 日々のアナキズム』 ③ 「国家を考える」ノオト その13    

2021-02-28 09:43:17 | Weblog

死神スガの長男と総務官僚(旧郵政省出身)の贈収賄(疑い濃厚)が話題になっているが、僕の記憶では放送免許を郵政省の許認可権にして、自らの政治的影響力の基盤にしたのが若かりし頃の「田中角栄!」だったと思う。スガは総務大臣時代にそこに旨味を感じたのだろう。ただ、テレビ・新聞など大マスコミは正義の味方のように振る舞っているが、トップと政権の会食は恒例行事になっている。要するに○○タマを握られているのだ。

 

『実践 日々のアナキズム―世界に抗う土着の秩序の作り方』(ジェームズ・C・スコット著 岩波書店 2017年刊)③ 「国家を考える」ノオト その13    

(僕)僕の理解では、マルクス主義ではプチ・ブルジョアという言葉は蔑称として使われてきた。例えば、「おまえの中にある小市民的な意識を変えろ!」というように。もちろんブルジョアジーは支配階級であって打倒すべき対象である。だが資本家ではないが、農民、職人、商店主、商人など小さな財産を持つ者たち=プチ・ブルジョアジーは、なにものも持たぬ者たち(無産者)=プロレタリアートにとっては共に闘う仲間としては認められない存在だった。虐げられ、搾取されている者たちだけが、革命によって次の時代を切り開くことのできる唯一の存在だった。しかし、本書においてスコットは、プチ・ブルジョアが労働や私生活の場面で放つ自由さを評価する。

『第三章 人間の生産』(断章11~断章16)から学ぶ。

(断章11 遊びと開放性)では、(P77)「遊びの無秩序によって人間は、体の使い方と身体能力、感情の抑制、社会科の能力、順応性、帰属意識と仲間との交流の感覚、信頼、経験などを発達させていく。」と述べる。この国で僕らは7歳になる年に小学校に入学する。そこで教え込まれるのは、知識とともに規律や秩序だ。僕は今でもラジオ体操の音楽が流れると自然に身体が動いてしまう。これはまさにフーコーのいう生権力の体現だ。これに対して、著者は人間としての重要な資質は難しいきまりのない遊びから学ぶことができるという。

(断章12 なんて無知でばかげているんだ!不確実性と適応性)では、(P79)「人間の労働を伴ういかなる効率性の過程も、労働者の我慢に頼っている。」と、GM組立工場におけるライン労働を例にして、「効率的」という言葉に孕む非人間性を批判する。

(断章13 GHP:総人間生産量 Gross Human Product)では、(P81)「仕事の過程がいかに人間の能力と技能を高めたかを測る方法、労働者自身による仕事の満足度から測定する方法」と、聞きなれないGHPを、資本の効率性とは正反対にあって、新たに労働の満足度を表す指標として提起する。そして、製造ラインにおける労働を、(P82)「労働力の愚鈍化につながる。」、(P83)「『民主主義産出総量』を減じる」と、断じる。

(断章14 介護施設)では、(P91)「制度の規範に適応させる圧力がほぼ抵抗できないほど強い、包括的な権力を有した『全体的な』制度といえる。」と、著者は批判する。しかし、僕はこの点には異議がある。まず介護労働は典型的なエッセンシャルワークと考える。なるほど理想的な視点から見ると施設や人的配置の現状には不十分な点がある。しかし、著者が決めつけているような全てを強制力で運営しているような施設では無い。付け加えれば、特に日本では2000年から介護保険制度がスタートし、それまでの家庭内で女性中心だった介護労働を、社会化した。このことは大いに評価すべきであり、当時は厚生労働省もいい仕事をしていたと考える。

(断章15 制度のなかの人生という病理)では、(P91)「私たちは、人生のほとんどの時間を、家族から学校、軍隊、そして会社といった具合に、制度のなかで過ごす。これらの制度は、かなりの程度、私たちの期待、人格、日々の行動パターンを形作る。」と、ここでもフーコーのいう生権力(規律権力)が貫徹している。暴力的な強制手段を使われることなく僕らは学校などの中で権力の期待どおりに振舞ってしまう存在に躾けられる。

(P92)「産業革命とこれに伴う急速な都市化により、財産を失い、巨大かつ階層的な組織に生計を頼る人びとが大きく増加した。これらの制度は、ほとんど例外なく、きわめて階層的であり、典型的には権威主義的ある。」と、近代になってプロレタリアートが出現したと述べる。(P95)「公共政策の緊急の課題は、市民の独立心、自律性、能力などを高める制度を育てることである。」と、そのプロレタリアートの欠如したものを指摘する。

(断章16 穏やかな、直感に反した事例―赤信号の除去)では、(P99)「オランダの小さな町は、『交通標識無し』であることを誇る標識を掲げ、『危険は安全』という新しい哲学を議論する会議を企画した。」と、逆説的で非常識的だが興味ある事例を紹介する。この例から自由について考えることができる。僕らが暮らす日常には多くの監視カメラが街中に配置されている。このことの利点として犯罪捜査に随分と威力を見せている。反面、僕らの日々の生活における一挙一動まで記録されていることに不気味さを覚える。ここでは、安全な不自由を選ぶか、危険な自由を選ぶかが問われているのだ。

 

『第四章 プチ・ブルジョアジーの万歳二唱』(断章17~断章21)

(断章17 中傷されてきた階級を紹介する)では、(P103)「自律性への、働く日をコントロールできることへの、そしてそのことが生み出す自由と自尊心の感覚への欲望は、ひどく過小評価されてはいるが、世界中の人びとにとっての社会的希求そのものだ。」と、中傷されてきた階級、すなわちプチ・ブルジョアジーを、彼らが持っている自律性、働き方、自由の面から評価する。

(断章18 軽蔑の病因論)では、(P105)「小規模の財産のほとんどは、国家の管理を巧みに避ける手段をもっている。」と、同じくマルクス主義からは批判されてきたプチ・ブルジョアジーを国家権力が及ばない存在として評価する。

(断章19 プチ・ブルジョアジーの春―財産という魅力)では、(P106)「ヒト(ホモ・サピエンス)は、地球上に20万年ほど存在してきた。国家は、およそ5,000年前に『発明』されたに過ぎず、1,000年ほど前までは、ほとんどの人類は国家などと呼びうるものとは無関係に生きてきた。国家のなかに住んでいた者たちの大半は、小さな財産を保有する者(農民、職人、商店主、商人)たちであった。」と、人類史においてはプロレタリアートが生み出される前のプチ・ブルジョアジーが主体だった時代が大半だったことを指摘する。

(P107)「一片の土地、自分の家、自分の店をもちたいという途方もなく強い欲望は、それらが可能にする自由な行動や自治や安全という実際面での余裕とともに、国家や隣人たちの目に映るところの小規模な財産と結びつく尊厳や地位や名誉への希求のゆえである。」と、プチ・ブルジョアジーの意識の持ち方も肯定する。

(P113)「小さな財産で得られる尊厳と自立を求めて行動する力を信じられたのは、それこそが人びとの創造世界に関するアナキストの洞察に富んだ理解だった。」と、アナキストの視点からプチ・ブルジョアジーを評価する。

(断章20)省略 (断章21 「無料の昼食」、プチ・ブルジョアジーの親切)では、(P118)「小さな場面において、プチ・ブルジョアジーは、日々の頼れる社会サービスの類を無料で提供しており、それを公務員や行政機関が真似しようともおそらくはできないだろう。」、また、(P120)「小規模自作農と商店主が幅をきかせている社会は、今まで考案された他のいかなる経済システムよりも、平等性と生産手段の大衆所有制にいちばん近づいている。」と、国家権力の及ばない空間を作り出しているプチ・ブルジョアジーの存在を肯定する。

 

 

 

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ジェームズ・C・スコット 『実践 日々のアナキズム』 ② 「国家を考える」ノオト その12    

2021-02-21 13:49:15 | Weblog

「そしたことから」「こしたことで」「いずれにせよ」・・覇気が感ぜられず死に神のようなスガ首相。取り柄を探してもほとんど見つからないのであるが、唯一いい点は、日本国憲法の改定が遥かに遠のいたことだ。スガには憲法をどうしようかという理念も信念も感じられず、また何が何でもやるぞという推進力もないと感じるのでとりあえず一安心している。

 

『実践 日々のアナキズム―世界に抗う土着の秩序の作り方』(ジェームズ・C・スコット著 岩波書店 2017年刊)② 「国家を考える」ノオト その12    

(僕)僕の理解では、コミュニズムは、抑圧されているプロレタリアートが支配階級であるブルジョアジーから権力を奪取して、労働者の国家を樹立し運営する。その社会は、秩序や規則、効率性ということばと親和性を持つ。しかし、20世紀の歴史における帰結は法治主義に基づく社会からは遠く、人間関係(コネ社会)を優先した専制者による人治主義に陥ってしまい大失敗に終わった。一方、アナキズムは、権力そのものの存在に否定的であり、反秩序や反権威、混沌とした社会のイメージである。ホロウェイは『権力を取らずに世界を変える』といったが、さてどのように変えたらよいのだろうか。行き先不明のバスに誰が乗ってくれるだろうか。

『第一章 無秩序と「カリスマ」の利用』(断章1~断章4)から学ぶ。

(断章1 アナキスト柔軟体操というスコットの法則)では、(P6引用)「理に通わぬいくつかの些細な法律を破る。自分の頭を使って、その法が正しく理に通っているか判断する。そうすれば、健康な心身の状態を保つことができ、重要な日が訪れた時に、しっかりと準備ができている。」と、日常の小さなルールにこだわりそれを捉え直すことが重要だという。

(断章2 不服従の重要性について)では、(P16)「革命的前衛や群衆の暴動よりも、数百万の人びとによる沈黙の粘り強い抵抗、職場放棄や脱走、反抗の方がこれまで多くの体制を少しずつ屈服させてきた。」と、(P10)「日常型の抵抗」の有効性を示す。

(断章3 さらに不服従について)では、(P20)「通常、議会政治の特徴は、重要な変革を促進するよりも、現状を固定化することにある。」、(P22)「一般に、西洋における自由民主主義は、もっぱら富と収入の観点から上位20%を占める人びとの利益のために運営されている。」と、僕らが肯定的イメージを持っている議会政治や自由民主主義というシステムが一部の階層の利益のためであり、(P26)「私の目的は、自動的な服従という根深く染み込んだ習慣が、ほとんどすべての人にばかげたことだと分かる状況をいかにもたらしうるかを例証すること。」と、人びとの覚醒を促す。

(断章4 広告「リーダーがあなた方の導きに喜んで従うつもりで、支持者を求めています」)では、ケネス・ボールディングを引用して(P35)「組織(国家)が、より大きく権威主義的であればあるほど、その最上位の意思決定者は純粋に想像上の世界のみで活動する可能性が高い。」と、実際にはリーダーが現実を認識できていないという弱点を明らかにし、逆に(P31)「カリスマの鍵となる条件は、ていねいに注意深く耳を傾け、それに応答するということ、気配りのきいた傾聴の態度を促す構造的な条件が重要」と、リーダーが大衆の現実を正確に把握することの重要性を指摘する。

『第二章 土着の秩序と公式の秩序』(断章5~断章10)

(断章5)省略 (断章6 公的な知と管理の風景)では、(P43)「フォード主義的な生産とマクドナルドの規格は、エルンスト・フリードリヒ・シューマッハーが『人間を含めた生きた自然界の予測のしにくさ、時間的不正確さ、移り気や強情といったものに対する反逆である。』と述べた。」と、近代産業の効率性を追及した厳密なシステムが持つ非人間性を指摘する。

(断章7)省略 (断章8 無秩序な都市の魅力)では、(P50)「多様な環境にこそ最も繁栄しそうなのは、植物だけでない。人間の性質も同様に、狭隘な画一性を避けて多種多様性を好むようだ。」、(P54)「秩序の公的な形態に特徴的に見られる模型化と小型化の論理は、近代主義の病理を示している。現実の世界は、乱雑で危険でさえある。」、(P55)「(首都の)中心部の秩序は、その秩序に従わず否認された周縁部の実践によって支えられている。」と、画一性、モデル化、小型化、中心といった秩序を表す表象を退け、多種多様性、乱雑、危険、周縁などカオス的な情況に対して共感する。

(断章9 整然さの裏の無秩序・混沌)では、(P55)「社会的ないし経済的な秩序は、より高度に計画され規制され公式化されるほど、より非公式な過程に依拠することになる。」と、逆説的な表現をする。

(断章10 アナキスト不倶戴天の敵)では、(P63)「近代国民国家は土着の実践(国家なき集団、部族、自由都市、緩やかな街の連合、孤立したコミュニティ、帝国)を絶滅させた。」、(P65)「言語、地域の口承文学、記述文学、音楽、英雄譚と叙事詩、意味世界全体の消失をもたらした。」と、僕らが現在身を置いている国民国家という枠組みに疑問を呈する。

 

 

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ジェームズ・C・スコット 『実践 日々のアナキズムー世界に抗う土着の秩序の作り方』 ① 「国家を考える」ノオト その11    

2021-02-15 09:37:50 | Weblog

他人から自分がどのように見えるかについて、全然気にしない自分と、結構気にしている自分がいる。過日、昔の会社に行く機会があった。後輩が「なんかヨレヨレで疲れているように見えるよ」と。「そりゃー辞めてから何年も経てば爺さんになるでしょ」と答えた。顔も体も歳を取ったのだろうが、おそらくしゃべり方ではないかと思う。後輩のイメージにあるおしゃべりな自分と、コロナ禍で人と話す機会の減った今を比べると確かに別人のようだ。

 

『実践 日々のアナキズムー世界に抗う土着の秩序の作り方』(ジェームズ・C・スコット著 岩波書店 2017年刊)① 「国家を考える」ノオト その11    

本書の「はじめに」から学ぶ。

(*僕の理解)マルクスは「国家の廃絶」を究極の目標とした。そこに至る方途の違いでコミュニズムとアナキズムが分かれた。コミュニストは、共産主義社会と社会主義社会を樹立した後に国家の廃絶への移行を構想する。一方、アナキストは、直接的に国家無き社会を展望する。そして、前者は20世紀の歴史において大失敗を経験した。それを踏まえて、実はマルクスが言っていた社会の形態は共産主義社会のようなものではなくて、アソシエ―ション(自発的な結社)だったという理論が昨今の流行している。

(*僕)以下のように、スコットは20世紀の大失敗を表現している。スターリニズムはその典型だった。僕らは、そこから死者の数を数えるべきだ。そして、アナキストのミハイル・バクーニンを引用する。そこでは、あれかこれかではなくて、あれでもないこれでもない社会を構想できるかが問われているのだと。

(著者)(PⅥから引用)「成功した主な革命は、打ち倒した国家よりもさらに強権的な国家を創出して終わる。」と述べる。さらに(PⅧ)バクーニンの言葉「社会主義なき自由は特権と不正義であり、自由なき社会主義は奴隷制と残忍さである。」を引用する。

(著者)そして、(Ⅺ)「国家が成立する以前の社会の特徴について、汚らしく、野卑で、短命とするホッブズとは意見を完全に異にするとしても、自然状態が共同財産制、協力関係、平和に満ちた完全無欠な世界だったと主張するわけではない。」「私たちは、この200年間にわたる強い国家と自由主義経済によって飼いならされて、多くの相互性の慣習を失ってしまい、ホッブズが自然状態に生息すると考えた危険な指導者になりつつある。」と述べる。

(*僕)国家成立以前、人類学的には狩猟採集社会だが、そこに理想を求めてもダメ。だからといって、どっぷりと国民国家に浸かっている現在もホッブズ的な自然状態「万人の万人に対する闘争」になっていて相互性を失っていると批判する。では、どう考えればよいのか。

(訳者)清水展氏は「訳者あとがき・解題」で、本書のねらいを(P181)「一人ひとりのさりげない日常生活の行動のなかに、アナキストが希求する、権力による監視と抑圧を弱くし個々人の自主の自立性を発揮してより望ましい社会を作ってゆく可能性がある。」また、(P184)「中央集権化された権力によるトップダウンの開発や近代化プロジェクト」ではなくて、「より良い未来のために期待するのは、階層秩序や国家支配に対立するボトムアップによるゆるやかな協力関係(に支えられた柔らかな共同性)の形成とその維持存続である。そこでは個人の自由と自主、自律、そこに協力と連帯、相互扶助などの原理と道徳がきわめて重要な働きをしている。」とまとめる。

(著者)実践方法を提起する。その考え方は、(ⅹⅷ)「だらだら仕事、こそ泥、空っとぼけ、サボリ、逃避(反乱にあらず)、常習欠勤、不法占拠(土地侵犯ではない)、逃散といった行為」(ⅹⅳ)「こうした小さい行為の積み重ねは、戦争、地権、徴税、財産関係に甚大な影響を与える。」重要なのは「実践に対するアナキストの懐疑の眼、もしくはアナキストのように現実を眺めること」である。

著者のスコットは、アナキストのように現実を眺めることについての「29の断章」を記している。

 

 

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ジェームズ・C・スコット 『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』 ⑧ 「国家を考える」ノオト その10    

2021-02-09 16:10:10 | Weblog

他者を評価する場合に、職業、地位、資産、学歴、性別、政治傾向、宗教、国籍、人種、障害、出自、容姿・・などを無意識のうちに自分の指標にしてしまっている。理性の次元では、それではいけない、その人物そのものが重要なのだとわかってはいるが、わが内なる先入観、差別は克服できていないと感じる。今回の森会長の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」発言を批判することに賛成したいが、自分の内部にも同様の意識が存在してないかを検証することの方が、僕がこれから社会で生きていくうえで重要だと思う。

 

『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』(ジェームズ・C・スコット著 みすず書房 2019刊)⑧ 「国家を考える」ノオト その10    

最終章である『第7章 野蛮人の黄金時代』(P199~P232) から学ぶ。

ここでは野蛮人を、国家を持たない人びとと呼び、野蛮人にとっていい時代すなわち黄金時代とは、最初の国家群が登場してから野蛮人に対する覇権を確立するまでの期間をいう。

(通説)野蛮人は初期国家に敵対的であり、軍事的脅威をもたらしたが一定の条件下では国家に取り込むこともできた。野蛮人は初期国家に入ることはできたが、「文明人」が国家から出ることはなかった。歴史的、進化論的な最高の発達段階は、野蛮人を辞めて国家で納税者として暮らすことであった。

(著者)野蛮人は、穀物を主食にしなかった。彼らの移動性、分散性、多様性に富んだ暮らしにとって、収奪と国家建設の原材料としての穀物は不要だった。人類は数千年にわたって定住的な生業様式と非定住的な生業様式を往来していた。国家に集まった人びともいたが、国家から逃げ出す人びとも多かった。野蛮人の大多数は、国家による貧困、課税、束縛、戦争を逃れて周縁部へ逃げた。そのため初期国家の時代には、野蛮人が地球の居住可能な地域の大半を占有していた。

(著者)相対的に弱い初期国家と馬を操る多数派の野蛮人による長い共生の時期は、野蛮人にとっての黄金時代だった。野蛮人にとって近隣の初期国家は、交易パートナーだった。彼らは、初期国家との交易で利益をあげ、貢納品と略奪で利益を増やしながら、税と農作業の煩わしさは回避しつつ、栄養価が高くて多様性のある食事と大きな物理的移動性を謳歌した。

(著者)穀物と人口と家畜が1ヶ所に集中することは、国家にとって権力の源であると同時に、野蛮人(略奪民)に対しては致命的に脆弱だった。初期国家は、野蛮人の襲撃を防ぐために防備に大きな投資が必要だった。また、野蛮人に貢納金(みかじめ料)を払って略奪を免れるなど大きな財政負担を負っていた。

(著者)野蛮人が国家の騎馬隊ないし傭兵となって、他の野蛮人を見張るというような関係があったが、この関係には不吉な側面があった。初期国家と取引された最大の商品は奴隷で、野蛮人が別の野蛮人を連れてきていた。また、初期国家は野蛮人を傭兵に雇って国防に当たらせた。初期国家に仲間の野蛮人を売ることと軍事的に奉仕することによって、野蛮人は自分たちの黄金時代を自ら終焉させた。

(*僕)(まとめ)本書には多くの驚きがあった。定住は狩猟採集生活に適した資源の豊富な場所から始まった。定住→農業ではなかった。農業は、つらい生業だった。家畜との集住は伝染病のリスクがあった。穀物=国家だった。穀物は国家が徴税するのに最適な作物だった。文字も臣民管理のために誕生した。歴史は、狩猟採集→定住→国家に向かう一方通行ではなく、狩猟採集⇆定住⇆国家という行きつ戻りつだった。

未来社会を展望する上で、権力が発生する前の平等な人間関係、モノを経済的価値尺度で交換しない贈与という行為など、狩猟採集生活の形態から学ぶことができた。

 

 

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