晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

夫馬信一 『幻の東京五輪・万博1940』

2016-07-31 16:22:14 | Weblog

 『幻の東京五輪・万博1940』(夫馬信一著 原書房 2016年刊)

 今日は東京都知事選の投票日、誰が選ばれるかはわからないが、各候補の考え方で際立った違いが見えないが重要なことがある。「2020東京五輪」である。この国にはかなり以前から五輪開催という印籠を目の前に突きつけられると、正面きって反対といえない空気がある。

 皇紀2600年、西暦1940年、昭和15年に開催する予定であった東京五輪、冬季札幌五輪、万博は、日中戦争へまっしぐらの情況により中止になった。僕は、本書において当時と現在の空気がとても似ていると感じた。2020年、平成32年東京五輪、2024年、平成36年冬季札幌五輪(誘致活動中)も、幻になってしまうような空気を感じるのだ。ちなみに、開催準備に向けた手続きのゴタゴタも良く似ている。

 東京五輪は、1940年「幻」、1964年開催、そして2020年開催。冬季札幌五輪は、1940年「幻」、1972年開催、こちらも2024年開催を目指している。その割には、平和をないがしろにしていないか。

 (本書から参考までに)1940札幌における開催計画は1972に比べコンパクト五輪であった。会場については二転三転したが、開閉会式、スケート・ホッケー、クロスカントリーの発着点は(1案)札幌神社そばの札幌市陸上競技場、(2案)札幌神社外苑に屋外競技場、(3案)中島公園内野球場、フィギアは屋内競技場で、(1案)円山公園市電終点、(2案)南1条西15丁目札幌師範学校跡(今のNTT病院)、(3案〉中島公園内と。ジャンプは大倉山、回転は三角山、滑降は手稲山。しかし、国際スキー連盟(FIS)とIOCの違憲の食い違いからスキー競技は開催できない片肺大会であったということだ。

 間もなくリオ五輪が始まるが、また「ニッポン! ニッポン!」の絶叫かと思うとうんざり。

 

 

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太田昌国 『新左翼はなぜ力を亡くしたのか?』

2016-07-18 15:32:17 | Weblog

 「戦後左翼史」はまとめる時間が不足してきているので、しばしお休み。この先は、中国の文化大革命など60年代も佳境に入っていくが、小休止。

 

 『新左翼はなぜ力を亡くしたのか?』(太田昌国氏 関西ルネ研講演記録 月刊『情況』2016年4,5月号)              

 同郷の思想家、太田昌国氏については、このブログで何回か取り上げてきた。ともに育った風土が同じためか、考え方の根っこのところで共感を持てる書き手だと思う。2014.6の『【極私的】60年代追憶 精神のリレーのために』、2013.5の『テレビに映らない世界を知る方法』、2011.5の『新たなグローバリゼーションの時代を生きて』、  2009.9の『拉致対論』(蓮池透、太田昌国対談)、2008.6の『拉致異論』などである。

 この講演記録の原題は、『日本の左翼はなぜ』ということだが、氏は絶滅危惧種である左翼に対して重要な問題提起をしている。太田氏の発した言葉は、僕にとっても大事なものであり、真摯に受け止め考え続けなければならないと思いここに書き留める。

 太田氏は、「1970年代前半に起こった3つの事件、内ゲバ、連合赤軍事件、三菱重工爆破によって、新左翼運動に対する一定の共感が根こそぎ奪われた」(P8)と情況認識を行い、「現代資本主義との関係の中で、あるいは現在の国民国家との関係の中で、われわれが今どのような事態に直面しているか、どこに打開の方向性があるのか」(P9)と提起する。

 はじめに「世界的な文脈」の中では、1922,23年頃に行われた「アナボル論争」を素材にして、「国家権力を獲得するという問題について、どのような観点から考えなければならないか」(P9)と問う。

 クロンシュタットの叛乱、マフノ運動において、「民衆の自己権力を確立することと、ボルシェビキによる独裁を認めるか、認める場合にはどの時点でその独裁は解消に向かうのか、ボルシェビキの独裁を認めないときに、革命をどのように現実化するか」(P11)、「腐敗した独裁体制を打倒した後でその後の社会のあり方をどのようなかたちで再編成していくのか、変革していくのか」が私たちに突き付けられていると言う。

 中国に対しては、「その時々、文革を含む、の革命のあり方をどのように捉えていたのか、それが日本の社会全体の中でどういうポジションを持っていたのか」と、氏自身の思い入れと真実に対する衝撃を吐露する。(P14)

 1991年のソ連邦の崩壊では、「一党独裁の社会主義国家体制が崩れていったあの時の情況をどのように捉えるのか」という問題に対して、左翼は「ソ連は真の社会主義ではないということを拠り所にしてソ連批判を展開しながら、新しい社会のイメージを創り出そうと努力した」が、「客観的には、社会全体の中では、社会主義の理論と実践のみじめな自己破産とあの段階で認定」されていたのである。(P15)

 では、「1991年に崩壊したソ連共産主義とは一体何であったのか」(P16)

 「人々の理想や夢をかきたてた、確かにそれに火を灯した共産主義の行く末に関して調査を行わなくてはならない、その歴史過程を明らかにしなければならない」、「というのは、日本でも頭をもたげ始めた極右陣営に真実を語る特権を渡してはならない」からである。(P17)

 次に、「日本的な文脈」の中では、「日本はアジアで唯一植民地支配を実践した国だが、日本の植民地支配責任ならびに戦争責任問題と左翼はいかに向き合ったのか、言論が自由になったその時代情況の中で、どんな社会主義論を展開してきたのか、社会全体で自己批判も含めた捉え返しもしないまま、戦後過程を生きている」のではないかと問う。(P18)

 「北朝鮮の独裁体制が作り出している恐るべき現実は、金日成の時代から情報として伝わり始めていたが、左翼は黙っていた。反対に韓国軍事政権への批判は徹底的に行った」という「身勝手な選択、論じること、論じないことの取捨選択が、日本社会全体の世論の中で、左翼が浮いていく大きな原因」となった。そこに「憧れとしての、憧憬としての社会主義」という左翼独特の捉え方があった。(P19)

 一方、大衆は、敗戦時満州でのソビエト赤軍兵士の行状から、「ソ連社会主義という現実に対して夢も希望も持っていない、現実はこんなもんだという冷めた目で見ていた」のだ。(P20)

 氏は、「日本ナショナリズムは批判の対象であることは自明だが、左翼にも左翼民族主義があり、近隣諸国のナショナリズムをどのように捉えるかも問題である」「韓国の、北朝鮮の、中国の、どのような人びととだったら、心を通わせて、同じ方向を向いて歩むことができるのかということはきちんとみておきたい、対話の可能性を探りたい、常に目を凝らしておきたい」と言う。(P21)僕も、野党の活路は外交にしかない、ドメスティックでは展望はない、新たなチャンネルを見出せ!と思う。

 最後に、「左翼再生のために」は、ひとつは、「国家権力の掌握をめざすという旧来の革命論から脱却」すべき。「権力の問題を『反権力』あるいは『権力奪取』という問題としてではなく、『非権力』、『無権力』の社会を展望」すべきと言う。(P22)これも僕が言ってきた「無政府主義」ではなく「無権力主義」、人が人に対して、社会が個人に対して最小限の権力的な振る舞いしか許容しない社会と同様の発想と思う。

 二つ目は、「内戦論」「戦争論」の克服である。「民衆解放のための軍事力をどのように考えるのか」、歴史の経験からは「解放軍が容易に抑圧軍に転化してきた」からである。(P23)それに関して、「自衛隊をどのように解体するかという展望を持たなければならない」と言う。(P24)

 おわりに、安保法制、原発など「左翼とは無縁な場所で行われている流動化に対し、どういう新しい芽を見るのか」、「今の運動のあり方にどれだけ発見できるか、これにどこかで加担できるのか、促進することができるのか」が問われている。

 太田氏は、「『左翼』の問題意識を捨てることなく、この新しい情況に相渉りたい」と決意を表明する。(P24)僕も左翼の最後の矜持は、「平和、環境、安心・安全」なんかでは決してなく、「反戦、反差別、反貧困」だと考える。

 

 

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戦後左翼史 その28 1965年④ 日共自主独立路線の正体

2016-07-09 17:00:48 | Weblog

明日は参議選。マイナス要因は封印し、大衆の俗情におもねるアへは選挙巧者だ。僕も真の争点は憲法改悪だと思うが、9条については安保法制が通ってしまった時点で、必要が無くなった。おそらくアへが出してくるのは、緊急事態条項の追加による私権の制限ではないだろうか。周辺国の脅威に対して国民の生命を守るため一時的に権利を制限すると言われれば、日共も含めて(人を殺すための予算発言を処分した影響は大きいぞ!)挙国一致になるのではないか。僕は、常々野党は外交に活路を求めよと言ってきたが、鳩山さん以外全くドメスティックだ。

 

戦後左翼史 その28 1965年④ 日共自主独立路線の正体

以下、■はインドネシア関係、★印は中ソ対立関係、▼はベトナム戦争関係である。

★1965.11.3道新 モスクワの反響 AAへの浸透積極化 中国:浮きあがった存在

★1965.11.6道新夕刊 北京のソ連革命記念集会 中ソ対立浮き彫り

▼1965.11.8道新 ポリャンスキーソ連第1副首相が演説 革命記念日の前夜祭 7か年計画 農業政策を大幅改善 工業では超過遂行 ベトナム 米の敗北は必至 中ソ和解は中国側にかかる 

1965.11.8道新 赤の広場でソ連革命記念式典 地球ロケットも参加

★1965.11.8道新 人民日報 社説で協調 両国民の団結は永遠 中国共産党 政府首脳が祝電

★1965.11.9道新 中国首脳“暖かい祝電” 中ソ関係が好転か

★1965.11.11道新 人民日報 ソ連の反中国論特集 “修正主義の姿暴露” ソ連非難 再び公開論争展開 本格的な対ソ対立へ

▼1965.11.11道新 ソ連 米のベトナム戦非難 米ソ関係改善問題外 

★1965.11.11道新夕刊 中共論文 モスクワの観測 世界党会議へ反撃

▼1965.11.11道新夕刊 人民日報と紅旗が共同論文 対ソ論争に第2弾 ベトナム問題で米と“取り引き”を非難 共同行動を拒否 

1965.11.11道新夕刊 新華社報道 米機が中国の商船攻撃

1965.11.15道新夕刊 ソ連 生産刺激を計画 報奨金制を考慮

▼1965.11.15道新夕刊 英紙 中ソの“ベトナム覚え書き”発表 「北」に対米和平交渉要請 ソ連の動きは事実

★1965.11.17道新 プラウダ 中国論文に反論 根拠のない中傷と挑発

★1965.11.19道新 ソ連 中国と絶縁決意か 新政権以来の方針転換 もはや論争避けぬ

■1965.11.22道新夕刊 インドネシアクーデター ウントン中佐自供 反共将軍の集団殺害 

★1965.11.22道新夕刊 ソ連 共同行動に訴える “公開論争”に応えず

1965.11.23道新 ハンガリー経済管理制度を改革 私企業に活動の機会

★1965.11.29道新 ソ連 中国との公開論争再開 プラウダ 共同行動批判に反論 “努力無視し中傷”

▼1965.11.29道新 世界各地でベトナム反戦デモ ワシントン約4万人が行進 北爆中止、停戦など要求 英国デモ隊11人逮捕 イタリア4千人が参加 交通一時マヒ スウェーデン米大使館に決議文手渡す

★1965.11.30道新 プラウダ論文 さらに悪化した中ソ関係 “ベトナム共闘”を断念 分裂の非難に先手

1965.12.1道新 ポーランド工場経営に新方式 利潤で価値を判断

1965.12.3道新 世界党会議 ソ連権威筋言明 近く開催説否定

1965.12.7道新 ソ連共産党中央委総会開く 経済面でフ路線手直し 「人民統制委」に取組

1965.12.8道新 ソ連最高会議開く バイバコフ議長 明年度経済計画報告 工業生産6.7%増に 国防費は5%増額

1965.12.9道新社説 ソ連の新年度国家計画の意義

1965.12.10道新 ソ連最高会議幹部会議長ミコヤン氏辞任 後任ボドゴールヌイ氏 新設の人民統制委員会 代表にコウノフ氏 シュレーピン氏の解任発表(党国家統制委員会議長)党務に専念のため→党内2位の地位へ

▼1965.12.10道新 ソ連最高会議 「ベトナム」で特別声明 米へ侵略中止働きかけ 各国議会に要請 グロムイコ外相演説 ベトナム情勢 国連に重大な陰影

▼1965.12.11道新 ソ連新体制と対米外交 “静”から“動”へ転換 平和共存に警告 ベトナムなど国際的指導権確保へ 長期安定政権に自信

★1965.12.13道新 プラウダ重ねて中共非難 ベトナム協力拒否 

▼1965.12.13道新 北ベトナム労働党機関紙 正規軍南下認める? “南北軍民が徹底抗戦” ハノイ放送 ラスク書簡(米国防相)を公表 北爆停止はペテン

■1965.12.14、15道新 インドネシアの現状 決断迫られるスカルノ ①軍部の圧力に押される 共産党“解散”で対立 インドネシア共産党300万人(シンパを含めた動員力2,000万人) ②経済力回復も緊急課題 軍の発言どう反映

1965.12.15道新 ソ連 後進国への影響力強化へ 明年初めハバナ会議 3大陸の進歩勢力を結集

1965.12.18道新 ソ連誌 海外の批判に反論 米帝国主義と

1965.12.21道新夕刊 人民日報 海外の批判に反論 利潤方式は資本主義への逆行か エル・レオンチェフ(ソ連アカデミー通信員)「経済的“夢物語”への反論」

★1965.12.24道新 新華社 人民日報 ソ連誌に反論 対ベトナム援助物資は無料で輸送

1965.12.24道新 ソ連 ハバナ会議に力入れる 反帝勢力結集へ

1965.12.25道新 チェコ 中国非難文書を発表

▼1965.12.25道新 廖承志氏(中日友好協会会長)明年の見通し語る ベトナム人民の抵抗高まろう 米和平工作は失敗 アイジット(インドネシア共産長)については、何も聞いていない   

▼1965.12.27道新 プラウダ ベトナムについて米を強く非難 中国参加呼びかけ

★1965.12.27道新夕刊 人民日報 国連総会を批判 米ソ取引きの場

*(*は僕の考え)1950年代後半からの日共の歴史を振り返ると、排除(除名)の連続であることがわかる。トロツキスト、構造改革派、ソ連派、そして今回はインドネシア共産党の壊滅にビビって中共派の除名。1960年代後半から自主独立路線を唱えることになるが、その内実は、出自からしてコミンテルン(共産主義インターナショナル)日本支部、以来外国依存体質できたが、ここに来て頼るべき相手がいなくなったというだけのことである。党内に存在していた多様な考え方を人材とともに流出させた末に残った「空っぽ=カス=自主独立路線」だ。

 

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戦後左翼史 その27 1965年③ 赤字国債の発行 インドネシア共産党壊滅

2016-07-04 20:20:20 | Weblog

選挙戦の最中、藤野保史日共政策委員長「人を殺すための予算」発言は、藤野氏の経歴から出るべくして出た発言だと思う。党内的にはエリートかも知れないが、氏は大学卒業後、穀田恵二、吉井英勝、両衆議院議員の秘書しかしておらず、実社会を経験していない、従って大衆の感性を理解していないことが根本的な原因だと考える。

 

戦後左翼史 その27 1965年③ 赤字国債の発行 インドネシア共産党壊滅

以下、■はインドネシア関係である。

1965.8.1道新社説 「公債政策」に成算はあるのか 佐藤首相、福田蔵相 赤字国債発行へ

1965.8.12道新夕刊 ニュースの目 まかり通る赤字国債 潜在的なインフレ “均衡”の旗じるしおろす 財源不足補てん公債3,500億円 財政法第4条で建設国債は認められているが、戦時国債の悪夢

*(*は僕の考え)1965年は先の戦争に対する国家財政面からの反省を捨てた記憶すべき年である。国は財政法で、①赤字国債(戦時国債)は発行しない、②日銀が直接国債を引き受けない、の2点を定めていたが、この年に①が破られた。50年後の現在2つの禁則は破られ、国家財政は借金の返済のために借金を重ね、借金残高が1000兆円を超えるというまさにサラ金状態にある。この間常に財政は危機にあり、今に破たんするぞと叫び続けた左翼だったが、そのような状態に陥ることは無く、まさに「オオカミ少年」に終わったのである。しかし、僕はここにきて、ついに臨界点に達したのではないかという現象が、このブログ2016.6.15「東京三菱UFJ銀行の叛旗」ではないかと考えている。

1965.8.20道新夕刊 40年(1965年)経済白書の内容 景気の回復は困難 国際収支:輸出拡大で改善 低下した企業利潤率 物価上昇、住宅難目立つ

1965.8.21道新 ソ連 来月中央委総会を招集 第23回党大会は明春か 開催承認を求める 

1965.8.27道新夕刊 全道労協大会終わる 星野健三議長ら三選 決議に⑥白鳥事件の再審と村上国治君の早期釈放運動支援 ⑦尺別炭鉱事件支援 ⑧太田講師の無罪要求

*総評・社会党系の全道労協が、日共が起こした白鳥事件を支援していたのは意外な感じがする。

1965.8.29道新 社会党江田派が全国討論集会 構造改革路線を再確認 佐々木派と積極論争へ

1965.8.31道新 ソ連 ベトナム平和解決でナセル(アラブ連合大統領訪ソ)構想歓迎

1965.9.3道新 人民日報 社説で日本に警告 軍国主義が復活 抗日戦争20周年

1965.9.5道新 総評(太田―岩井)の社会党員議員協議会総会 日共との安保共闘認めない 2年後党員を10万人増⇒社党執行部(成田書記長)に衝撃 日韓国会控えて調整苦慮

1965.8.8道新社説 カシミール紛争の重大化を憂う

1965.9.9道新 ソ連中央委(3.24~26)議事録公表 フ前首相をきびしく非難

1965.9.11道新 プラウダとイズべスチア(抑圧的)が芸術の自由で対立

1965.9.11道新 北鮮政府樹立記念レセプションでインド大使が退席 周首相がインドのパキスタン攻撃を非難に対して

■1965.9.11道新 インドネシア国民協議会(カレー議長) 経済指導理設置要請スカルノ大統領に、ナサコム(民族主義、宗教、共産主義の3勢力を結合する)体制を早急に構築することを要請

(*れんだいこHPに学ぶ)9.30事件の背景として、スカルノ政治は、ナサコム体制を採用していた。共産党の利用は陸軍とのバランス上なされていた。アイジット共産党議長は内閣の実力者としてふるまい、「一挙に軍部を制し、実際上の共産主義政権をつくる」野心を膨らませていた。中国共産党と提携し、スパンドリオ外相を派遣し武器を手に入れ新政権樹立に余念が無かった。

1965.9.12道新 カシミールの概観と紛争の背景(インド、パキスタン武力衝突) 藩主反乱が拡大 インドの強引な併合も原因

1965.9.12道新 社党 共産党との共闘に和田派が反対表明(日韓条約批准反対闘争) 宮本日共書記長、社党共闘(社党の中執決定)を歓迎

1965.9.14道新 体質改善せまられるソ連農業 不振なかば慢性化 国民経済の“アキレスけん” 小麦の不足、買い入れ

1965.9.20道新 東北大紛争 石津学長が辞表 学生の退陣要求をのむ 農学部の移転問

1965.9.20道新社説 学園騒動と大学の自治 市立高崎経済大の私学化 法政大、職員の使い込み

1965.9.21道新 北大水産学部新寮 寮規則でもめて、空き家のまま 学生側:自治後退に抗戦 本質的解決にはほど遠い 旧寮で越冬の覚悟

1965.9.21、22、23道新 赤い星の下で 中国大衆の生活と発想 ④賃金・昇給:賃金の不満少ない 大衆討議で昇給決める ⑤家計・物価:生活必需品は安い 格差の少ない暮らし ⑥学校教育:急テンポで普及 “政治”“労働”は必須科目

1965.9.23道新 印パ停戦受諾の背景 最大の理由 経済苦 

1965.9.23道新 どうするポンド危機 ドルが足を引っ張る 米、IMF総会前に苦悩

1965.9.25道新 プラウダ編集長後退の背景(アルクセイ・ルミャンツェフ もっと表現の自由を) クレムリン内に勢力争いか 政策の危機を示唆  

1965.9.25道新夕刊 ブ第1書記演説 ソ連の粒穀生産は立ち遅れ

1965.9.28道新夕刊 コスイギンソ連首相 工業問題で基調報告 企業に利潤方式導入 経済的刺激を増大 国民経済会議の廃止

1965.9.29道新 “利潤導入”に踏み切ったソ連 独立採算制の強化 今後の経済戦略の指標 1962リーベルマンの提案

1965.9.30道新夕刊 ブレジネフ第1書記 ベトナム侵略続けば米ソ関係は悪化 

1965.10.1道新夕刊 ソ連 今日から最高会議 経済の改革決定 企業法案の立法化 閣僚級の人事異動も 明年3月末に党大会

1965.10.1道新夕刊 周首相演説 大国の世界支配非難 国連通じ内政干渉

1965.10.1道新夕刊 イズべスチア 中ソ友好回復を

1965.10.2道新 ソ連最高会議開く 工業改善など2議題採決 

1965.10.2道新社説 ソ連経済の“利潤率”導入

1965.10.7道新 ゲバラ工業相(中国寄り)出国などキューバに“内部変化” 背後にソ連圧力? 米、今後の動きに注目

■1965.10.7道新 マレーシア インドネシア情勢憂慮 スカルノ大統領ワンマン政治崩壊 共産主義の進出恐れる

■1965.10.7道新 インドネシアの「9.30事件」の経過 中国の支援を受けたウントン大佐のクーデター(革命派)からスカルノ大統領を救出 オマル(ジャカルタ軍管区司令官)、スハルト将軍(第1参謀次長)が反対しクーデターを鎮圧

(*れんだいこHPに学ぶ)9.30夜半からインドネシア共産党の一部勢力が、スカルノ大統領の親衛隊大隊長ワトソン中佐と組み、陸軍の首脳を急襲、直ちに革命評議会を樹立し、共産党員を含む閣僚名簿を発表した。しかし、殺害を免れたナスチオンやスハルト陸軍戦略司令官が、陸軍部隊、降下部隊を指揮し、10.1日夜半には革命軍を制圧した。これを契機に、全土にわたって共産党弾圧が始まり、20万人以上の党員が虐殺された。インドネシア共産党中央委員会議長・アイジットも射殺された。北京―ジャカルタラインが破壊され、日共党中央は衝撃を受けた。  

1965.10.7道新夕刊 プラウダ社説 北ベトナム援助強化 中ソ団結を強調

1965.10.7道新夕刊 相次ぐ大学騒動 自治からみ問題こじれる 板ばさみの大学側 東北大 東京教育大 お茶の水大 高崎経済大 都留文科大

■1965.10.9道新社説 スカルノ路線の今後

1965.10.15道新 変容するソ連外交路線 対米関係は冷却化:米のベトナム、ドミニカ介入が転機 仏、AAとの接近を図る

■1965.10.20道新 中国とインドネシア(北京―ジャカルタ枢軸) 友好関係にヒビ? 中国の出方が問題 “断交”すれば中国の孤立は必至 ジャカルタ地区に共産党(PKI)活動禁止令

1965.10.20道新 中国 ソ連との和解で表明 “平和共存”廃棄せよ

■1965.10.20道新 スカルノ大統領 解任の花道与える? ダニ外相外遊へ

■1965.10.20道新 インドネシア三軍機関紙 アイジット共産党議長(東部ジャワに)逮捕を暗に否定

■1965.10.20道新夕刊 新華社 インドネシア情勢報道 9.30運動を認む?

■1965.10.21道新 苦悩するスカルノ大統領 軍部の比重が増大 AA会議で中国と対立のきざし 軍部のインドネシア共産党(PKI)に対する弾圧 弾圧に沈黙の共産党

■1965.10.22道新 スカルノ大統領と陸軍 複雑な指導権争い 不和続けば長期内戦へ 陸軍の共産党狩り

1965.10.23道新夕刊 来月初め 国際共産党会議開催か ソ連の働きかけに反応

■1965.10.24道新 インドネシア国会 共産党追放 議員の活動も凍結 スカルノ大統領 特別会議で新指令 常時“ネコリム”(新旧植民地主義帝国主義)警戒を

■1965.10.26道新夕刊 インドネシア 大統領と軍部の対立決定的 ナスチオン国防相が要請 共産党全面禁止 プラウダ 軍部独裁を非難 共産党への弾圧は正当でない

1965.10.27道新 第2回AA会議(11.5予定) 準備委で声明 中国派再び黒星 延期提案敗れる 中国は参加せず 

1965.10.28道新 AA会議、中国不参加の背景 覚悟の上の“後退” 妥協許さぬ反米、反帝路線 国際世論の不利恐れる 

■1965.10.29道新 攻勢に転じたソ連AA外交 大胆にスカルノ支持 “戦う共存”の自身に守られ

*ここまでの新聞紙上からは、虐殺の規模などインドネシアの情況は中々伝わって来ない。

1965.10.29道新 釧路市長に当選した山口哲夫(37歳)

 

 

 

 

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