晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『日本文化における時間と空間』 その1

2011-08-28 21:26:40 | Weblog

 8月の最終日曜日は例年真夏並みの暑さになる。毎年この日に北海道マラソンが開催される。ランナーの1年は、この日に始まり、この日に終っていた。今年の私は、午後から営業。

 スランプになる時がある。何事にも集中できない状態だ。本を読んでも字面を追うだけ、文章もまとまりを欠く。どこにも行く気がしなくなり、これといって何かをするわけでなく。

 

 昨日の暑さの中で20数km走を強行、多少熱中症気味になったが、身体を徹底的にいじめることで、何か壁を超えたような気持ちが芽生えた。

『日本文化における時間と空間』(加藤周一著 岩波書店 2007年刊)

  本書の帯の『「今=ここ」に生きる日本 その本質を衝く渾身の書き下ろし』とあり、「今=ここ」のフレーズに魅かれ購入。

  

 なぜ、「今=ここ」なのか。私は、浜田寿美男氏(発達心理学)の「人は<ここの今>を身体にそなわった手持ちの力を使って生きる、その結果として新しい力が伸びてくる、発達とは目標ではなく結果である」という発達論を支持してきたからである。

  

 私は、これまで加藤周一氏を知らない。書店には全集を含め多くの著作が並んでいることから多くの人から支持されているのだろうと思っている。

  

 加藤氏の「今=ここ」は、浜田氏のそれとは視点が全く違う。氏は氏の持つ膨大な知識を動員して論ずる。

  

 ユダヤ教、古代ギリシャ、古代中国、仏教などと『古事記』の時間概念を比較し、また日本語の特徴、物語、抒情詩、連歌、俳句、随筆、音楽、身体表現、絵画などを素材として時間論を展開し、「過去は水に流す」「明日は明日の風が吹く」に見られるように結局は日本の文化の特質は「今」にあるという。

  

 ヨーロッパ文明、中国文明、東アジアなどと前世神話の空間認識を比較し、さらに茶室、建築物、絵画などから空間論を展開する。「鬼は外、福は内」に象徴化される日本文化の特質を「ここ」と導出する。

  

 加藤氏の議論には、文化的な知識を持ち合わせていない私からでも、そこには結論ありきで、「今=ここ」論に都合の良い資料を繋ぎ合わせたようなこじ付けと危うさが漂っている。

  

 多くの日本人論や日本文化論に共通するのは、この国の特殊性や閉鎖性の強調である。ただ、加藤氏の議論は、他の言説にありがちな日本優越論に堕していないところが救いである。

  

 なお、私の追及する国民国家の黄昏の先には、国家が不用となった社会、人間の共同性に依拠した互助社会を創造しなければならないと考えるが、本書での加藤氏の文化論は、共同体や共同性を論じる場合に有効と考える。(つづく)

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『人間と国家』 その2

2011-08-14 13:22:03 | Weblog

 

その2

 

数日前、駅売り新聞「日刊ゲンダイ」の見出しに魅かれて購入。

 

資本主義の全般的危機はこれまで幾度も叫ばれてきているが、今回の世界同時株安はこれまでと質的に違っているのだろうか。

1971.8.15金=ドル交換停止、いわゆるニクソン・ショック以降、金の裏付けを失った米ドルの垂れ流し体制は変わらず。しかし、ドルの信用に入った亀裂が徐々に拡大してきている。

 

 

『人間と国家 ある政治学徒の回想(下)』(坂本義和著)

 

国際政治学者としての著者の真摯な研究業績や実践的な活動には敬意を表するがいくつか違和を感じた点もある。

 

東大闘争について、著者は今でも東大全共闘の山本義隆らの主張を理解できないという。「全共闘は、何のためにやったのか、私にはよくわかりません。」(下P62

そして、『「東大解体」と言った全共闘支持者のなかには、東大その他の教授になった人もいます。せめて東大にだけは就職しないというぐらい頑張ってくれればいいのに』と発言する。

 

「わが内なるベトナム」「自己否定」など、自らの存在の加害者性や特権性を問うといった論理に感受できず無反応なのである。著者こそ全共闘をナチス呼ばわりした丸山真男らと同様、進歩的文化人の典型的な存在である。これこそ私がこのブログでずっと主張している、自分(たち)だけが正しいと思っている左翼(著者は左翼とレッテルを貼られることを否定するであろうが。)の病理そのものである。

 

上記の批判は、東大に職を得ている以外の者が主張するのはかまわないが、東大教授である著者が他人に対して吐くべき言葉ではない。

 

しかし、最後に著者が述べている展望は、私の情況認識とかなり共通している。

 

『近代においては、忠誠、自己と集団との同一化、集団的連帯感情の最も核心的な軸をなすのは「民族国家」ないしは「国民国家」であるのが一般的でしたが、現在私たちは、グローバルな「ポスト・ナショナルの時代」にさしかかっているのです。』(下P227)(私の国民国家の黄昏に近い。)

 

『二一世紀には、限られた地球資源を、格差を伴わずに公正に分配することによってこそ人間の「自由」が可能になるという、近代を超えて新たに「自由」を定義しなおす思想が必要にならざるをえないのです。』(下P228)(私の「自由とは」は、著者の資源の配分方法とは異なり、権力と自由との関係であるが、自由の再定義は一致する。)

 

『主権国家は「グローバル化」のインパクトによって相対化されてきています。もちろん、それは国家が消滅するとか、不必要になる、という意味では全くありません。国家は、必要性と重要性を持ち続けるでしょう。』(下P228)(私の「国家とは」、「国家の廃絶」願望は、著者の国家の相対化と異なるが、国家が問う点では共通)

 

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『最終講義』

2011-08-10 09:53:28 | Weblog

 『最終講義―生き延びるための六講』(内田樹著 技術評論社 2011年刊)

 

 著者が60歳になり定年退職ということで、教鞭をとっていた神戸女学院大学における最終講義のほか5つの講演記録。(内容は、いつもの内田節で結構楽しめる。)

 

 

対談、鼎談、座談会、講義、講演会など、そこで話された言葉を起こした出版物が目立つ。話し言葉なので読みやすい。著者にとっても書き起こしに比べて出版までに費やすエネルギーは少ない。読者、著者、ともに楽に流れている分、難解な文体を読みこなす喜びや論旨を厳密に追う楽しさなどは欠落する。それが、良いとか悪いとかいうものではない。分かりにくいから高度な内容とか、難しい書物を読んでいるから優れた読者というものではない。本など読まずに生きていくことができればそれにこしたことはない。ただ自己満足の世界であるから。

 

骨太のテーマの講義を聞きたい。1講義100分位で15回くらいの連続講義が理想である。次の講義までに前回のおさらいや参考文献に目を通して、質問などできれば最高である。今なら聞きたいテーマは、自由とは何か、国民国家の黄昏、資本主義の終焉などである。読書会でもいい。ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』を読めるようになりたい。何回挑戦しても途中で挫折している。

 

会社を退職した後、叶える事のできるような機会を探し始めているのだが中々見つからないのだ。市民講座や単発の講演会などは聞く機会があり、触発されることもあるが、限られた時間で何か物足りなさが残る。

 

大学の聴講生も選択肢にある。その後、学士入学など出来ればとも考えるが、その前に自分のテーマに合う先生を定めなければならない。その点、首都圏などに比べて北海道はハンディがある。

 

Web上の動画で講義や講演会の内容が見られるようになっている。ただ、部屋で2時間もPCの画面をひとりで見ているというのも骨が折れるし、気分が高揚しない。講師の表情や息遣い、身体から醸し出す雰囲気は、画面からも伝わってくるが、生の講義の良いところは、聴講する側の様子がわかることである。講義の内容に皆が引き込まれているのか、講師の心意気がビシビシ伝わっているのか、はたまた居眠りだらけなのか。講義は、話し手と聞き手双方によって成立しているから。私語は論外だが、講義に集中できず居眠りをしてしまうのは、一方的に講師の側に責任があると思う。話す場を与えられながら、聞き手を惹き付ける事ができる力量が無いからである。それは、ひとえに講師の方に問題があると考える。

 

音声情報に限られているだが、ラジオでの対談や講演や語りから聞き手に伝わるものがある。ラジオを侮ってはいけない。

 

 

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『人間と国家』 その1

2011-08-08 20:15:19 | Weblog

パスタエクスプレス・ベイジル Basil(清田区平岡公園東1-11-12)でカルボナーラ。何回か行ってますが、全体に脂っこくなく美味しいと感じています。

 

 

週末の営業が続いて、中々まとまった時間を作れませんでした。走も読も少しづつ継続しています。

 

 

 

『人間と国家 ある政治学徒の回想(上)(下)』(坂本義和著 岩波新書 2011年刊)

 

著者は1927年生まれの国際政治学を専門とする東京大学名誉教授、雑誌『世界』などを舞台に軍縮、平和など1960年代から発言を続けているオピニオンリーダー。いわゆる進歩的文化人、戦後民主主義者の側に属すると思う。その生い立ちから現在までを回想している。

 

著者は、まえがきで『私は、幼い時から、こうした「国家」になじめず、国家への不信感を消すことができずに今に至っています。』と述べている。

 

本書中、いくつか著者の言説に対して感じた部分を記す。

 

著者は、まえがきの『「国家」になじめず、国家への不信感を消すことができずに・・』と述べているが、この言説と国立大学教員として国からの給料で学問をして生活を成り立たせていた事実との関係をどう説明するのか。

この著者は、下巻で全共闘の論理を最後まで理解できなかったとことと全く同じ理屈になるが、自らの立ち位置について問うことができない、否、無自覚なのである。

 

著者は、『世界』19598月号掲載の「中立日本の防衛構想」で、「非武装中立」を掲げる革新勢力に対し「防衛構想」を提案し論壇にデビューした。それは東西冷戦下において、赤化か(ソ連に降伏するか)、死滅か(対ソ核戦争で死滅するか)という2つの選択肢の間に、中立化と非核化(非武装ではない)、日本の領土、領海、領空の内にとどまる「純防衛」の部隊の創設を考えるべきという提案である。(上P163

 

著者にとっては、東西冷戦下で最も警戒すべきは米国よりもソ連からの侵略であった。基本的に上記の考え方に基づく防衛部隊構想こそ自衛隊の存在論理と同じではないか。著者の考えは、自覚なく米国の意図を体現してしまっているのではないか。

 

また、著者は、1960年安保反対運動の意味において、『安保反対と「中立」の主張には、あきらかに「平和」という言葉に託されたナショナリズムがあった。ナショナリズムのない「中立主義」は、ありえないわけですが、この時には「平和」という普遍的観念に内包されていた』という。(上P173

 

‘60年安保闘争の高揚を以って、戦後民主主義の定着を証明したといういわゆる革新陣営の評価があるが、私は、著者と同じく、‘60年安保闘争の本質は、国民的な反体制運動などではなく、生活保守主義に基づいたナショナリズムを基軸とする運動だったと思う。だからこそあれだけ広範な大衆運動になったと思う。ナショナリズムを標語化すると、「反米愛国」となる。

 

当時の政権党である自民党が「親米売国」路線、社会党などの野党が「反米愛国」というねじれは、今にまで続いている。

 

現在の政治状況を大雑把に捉えると、もともと自民党にいた福田派が現自民党で「親米」路線を継続、自民党田中(角栄)派は「反米」路線で、自民党を割った小沢一郎がそれを継承し、元々「反米」の社会党を吸収し現民主党という構図が見える。

 

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『恐竜がいた夏』

2011-08-02 21:50:14 | Weblog

『恐竜がいた夏』北海道児童文学シリーズ⑯(市川洋介著 日本児童文学者協会北海道支部 2011年刊)

 

本書には4本の短編が収められている。後書きにあるように小説の舞台は著者のふるさとの炭鉱町である三笠市。前作『アンモナイトの森で』と同じくアンモナイトや恐竜の化石からひと夏の出来事が展開される。

 

子どもはぜーんぶ知っている存在と思っているから、きれい事を建前だけで語ってもしょうがないと考える。

 

私は、4本の中で「いかだ」が一番好きだ。最後の「渾身の一撃」に感動した。道徳如きを殺陣にとって暴力はいけないなどああだこうだ言う方でも、最後の手段として行使せざるを得ないこともあるということをこの物語から理解してほしい。

 

なぜ、芳雄君は反撃したのか。

義男君が反撃した理由を君たちは理解できるか。

まさに、こういうことを考えるのが「道徳」だと思う。

 

児童を対象とした小説を他にはほとんど読んでいないのでわからないが、昔は大体ハッピイエンドに終っていたように記憶する。

著者の場合、他の作品にも共通することだがきれい事だけで終ない結末がいい。最後のところで主人公やその周辺の人々のその後が凝縮して語られ、それが意表を付き、甘ったるい成功物語ではなく、リアルな人生が描かれている。

 

夢を持ち続けるのも人生、夢に破れるのも人生、こどもには可能性があるから。

コメント (2)
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