晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『ミッション:インポッシブル』

2011-12-31 09:39:24 | Weblog

『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード監督 パラマウント 2011年作品)

 

 トム・クルーズ演ずるイーサン・ハントが世界を核戦争から救うというスケールの大きな話し。

 

前作を観たのが5年前。トワイライト・エクスプレスで京都に行く予定が、前日の大雨によって羽越線で土砂崩れが発生、不通になってしまい、会社は休暇でどうしようかと、とりあえず映画でもと観たのが『M:i』、スケールの大きなアクションにスカッとしたことを記憶している。次回作が公開になったら必ず見ようと決めていた。

 

舞台は、モスクワのクレムリン、ドバイの超高層ビル、インドのムンバイと世界を駆け巡り、思いっきり金をかけてぶっ壊す、社会に対する問題意識などとは対極にある映画だが、これも映画なのだ。

 

昨日は、あえて新千歳空港内にあるジャガポックルシアター、観客数8人と採算が心配な映画館ではあるが、シートが広く高級感がある。ただ、シアターの中ほどの一番見やすいエリアの指定シートはもっと大きくゆったりしていて、モノを置く台があり、ここは別途料金。

 

 

そんなこんなしているうちに今日は大晦日、地デジに抵抗していたが2日前に対応、BSはそんなに観ないと思っていたのだが、観られるようになると結構観るものだ。鉄道旅行や街中探訪番組がいい、バラエティが無く落ち着いたテンションがいい、疲れた時にのんびり系の番組を探してしまう。

 

映画も数本観ることができた。シネマコンプレックス全盛にあって、シアターキノが頑張っていると思う。宣伝力も弱いので多くの人は来ないが、いい映画を選んで上映していると思う。それを支えている常連と思わしきオールド映画ファン。できる限り応援したいと思う。

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『完本 情況への発言』 その1

2011-12-29 17:30:04 | Weblog

『完本 情況への発言』(吉本隆明著 洋泉社 2011年刊)

 

本書は、吉本による雑誌『試行』の巻頭文「情況への発言」の196210月(第6号)から199712月(第74号)終刊号まで全56回分を一冊にまとめたものである。2段組で700ページにわたるボリュームに圧倒されるとともに、37年間にわたり吉本がその時代のテーマをどのように考え抜いてきたのかがわかる。

 

「情況への発言」は、196210月第6号における『「終焉」以後』から始まる。その冒頭で、吉本は、安保闘争の敗退(終焉)後、「反体制」運動は「存在」しないと提起する。それらは、「事実」として存在するが、実存することができていないという。それらが叫ぶ「未来は我々のものである」などというスローガンを空文句と批判する。

 

吉本は、感性の人である。言葉の切っ先に力がある。私などは、「全世界を獲得するために!」などというスローガンを聞くと気分の高揚を覚える。吉本なら、「何を根拠に?」と切り捨てるであろう。

 

吉本は孤高の人である。群れ遊ぶことを好まない。終生大学などに職を得ることをしなかった。私などは、「ご飯を食べるため」などと慰めを言いながら会社に労働力を売るだけの非自立的生活を送っている。ただ、氏が「思想は、大衆諸個人の生活によってのみ結果的に表現される。」という時、私の生活は大衆そのものである。

 

1970年代半ば、吉本の講演を聞く機会があった以降、私にとって気になる思想家である。氏の著作で全く歯が立たない分野もある。違和を感じる言説も多々ある。しかし、氏が今何を思うのかは常に気になる所である。

 

知人から、『週刊読書人』(2011129日号)に掲載されている吉本のインタビュー記事のコピーをいただいた。その中で今の情況について氏は、「これから10年ぐらいますます今の状態が厳しくなっていきます。じりじりと追い詰められて、決していいことは起こらない。その追い詰められていくことに対して、どう耐えるか。」と語っている。大衆の実感としてそのとおりと感じる。

 

 

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『サルトルとボーヴォワール』

2011-12-25 17:35:53 | Weblog

『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』(原題「フロールの恋人」 イラン・デュラン=コーエン監督 2006年 フランス)

 

 トム・クルーズ主演のミッション・インポッシブルを観に行ったはずなのに、散髪などをしていたら、適当な上映時間が、無くなり急遽予定を変更。『サルトルとボーヴォワール』は、シアターキノ24日封切作品、105分の映画でどこまで表現できるのだろうかと思っていたが、非常にテンポの良い作りで2人の半生を描ききっていた。

 

 そのひとつの要因は、キャストだと思う。サルトルに、ロラン・ドイチェ、ボーヴォワールにアナ・ムグラリス。この女優がいい。低い声で発する重い台詞、男の嘘を見抜く眼、理知的な表情。

 

 この国で、ボーヴォワールのような哲学を持って女性の自立を演ずることのできる女優はいるだろうか。私は、それを昨日からずっと考えていた。いた!真木よう子だ。NHK大河ドラマで竜馬の妻お竜(りょう)役を演じた彼女がいた。彼女なら、気の強さと同居する優しさを表現できると思う。

 

 この映画のテーマは題材から当たり前のことだが、とても60年代的である。女性には、独身か、結婚かしか選択肢が無いと思われていた世間に、お互い自由な恋愛を許容しながらの契約結婚という新しい形態を提起するボーヴォワール。しかし、現実には、サルトルの女性関係と掴みきれない自らの性に苦悩する姿を描く。

 

 21世紀に入って、こんな映画を作るフランス人は面白い。

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金正日は病死?

2011-12-23 15:11:23 | Weblog

2011.12.17830分に金正日が過労で亡くなったと伝えられたのは、19日の正午過ぎ。」①

 

2011.12.17深夜には、イラクに駐留していた米軍の撤退が完了している。」②

 

①と②の事実から私の妄想が膨らむ。これまでの歴史を振り返ると、米国の軍産複合体は、軍組織の維持と軍需産業にとっての需要創出のためには、常に世界のどこかで戦争をし続けなければならない。また、政治的にも大統領選挙が近づくと支持率を上げるため、戦争を開始する要因が増す。

 

このように考えると、金正日の死因に疑義が生じていることの理由もわかる。①と②は、どこかで接点を持っている、否、一つのストーリーの下で行なわれているのではないかという推理が成り立つ。

 

日米韓VS北朝鮮・中国・ロシアによる北朝鮮国内にある地下資源を巡る第二次朝鮮戦争の開始か。21世紀に入って2001.9.11以降、全く創造外のことが起きている世界だから、何が起きても不思議でないと考える。特に、この国は、2011.3.11もあったことだから。

 

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『石川啄木―その釧路時代』

2011-12-17 20:10:04 | Weblog

『増補・石川啄木―その釧路時代』(鳥居省三著 北畠立朴補注 釧路市教育委員会生涯学習課 釧路新書30 2011年刊)

 

本書は、石川啄木、1886年(明治19年)生まれ、わずか27歳で亡くなった天才歌人の釧路滞在記である。当時21歳の啄木は、明治4055日に来道し函館に滞在。911日から札幌、927日から小樽、そして釧路には翌明治41121日から45日までの76日間滞在している。

 

釧路では、「釧路新聞」の記者として精力的に動きまわった他、21首の歌を詠み、幾人かの女性と交際し、しかし様々な確執に耐えられず短期間でこの地を後にしている。本書は、短期間の釧路時代を一日一日ずつ克明に研究しているが、それは作品と私生活は何らかの関係があるという仮説に拠っているのであろう。

 

歌人としての啄木を高く評価している本書でも触れられているが、その私生活は常識的にはひどいものであった。啄木は、小樽に妻と子を残して単身釧路で働いていたのだが、経済的に支援した様子は無く、妻子は赤貧の情況にあり周囲の助けで辛うじて命だけを繋いでいたような状態であった。一方の啄木は、どの仕事も長続きせず、人間関係に悩み、毎日飲み歩くようないわば放蕩生活であった。

 

これは、文学をやっていれば許されるという昔から文学につきまとう免罪符的な気分、今はマスコミ人などと持てはやされている新聞記者とは異なる当時の記者の社会的評価、売文という自虐的な気分などに甘えていたからではないか。

 

しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな

 

 

無性に釧路モノが読みたくなる時がある。私の場合、親が転勤商売では無かったので釧路で生まれ18歳まで暮らしたので、いわゆる故郷なるものがはっきりしている。

 

18歳の頃だったと思うけれど、あんなに嫌悪していた釧路である。息の詰まるような閉塞感から早く脱出したいと思っていた釧路である。ここにきて、なぜなのだろうか、同郷の人に会ったり、何かゆかりのある人に会うと親近感を持ったりする。だからといって誰かに会いたいとか何をしているのだろうかなどと思うわけでもなく、同窓会に出たいも思わないが。僕は少し変わったのさ ♪

 

 

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コンサJ1昇格

2011-12-04 21:52:35 | Weblog
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