良い言葉に出会ったのでメモする。「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく」、「我々は未来に後戻りして進んでいく」(ポール・ヴァレリーだそうだ。)理系の僕が歴史や哲学を学ぶことの意味を教えてくれる。
森の響フレンドコンサート 札響名曲シリーズ2018-2019〜愛を奏でるラフマニノフ〜 2019.2.23
友人からチケットをいただいたので、出来てから20年位経っていると思われる札幌コンサートホールKitaraに初めて足を踏み入れた。中島公園が近づくとなぜか気持ちが逸ってくるのは、僕にとってあの場所は音楽の聖地というよりも、かつては北海道マラソンの栄光のゴール地点だったからだ。事前に聞いていたとおり、前後の座席スペースが狭い。これは札幌ドームも同じ。立派なパイプオルガンはいつ使うの?
クラシック音楽の予備知識は全くなし。オーケストラをライブで聞いた経験なし。吉田拓郎、甲斐バンド、浜田省吾・・メロディではなく歌詞に共感する聞き方をしてきた。詩のない曲をどのように聞いたらいいのだろうか。
指揮者は尾高忠明、聞いたことがあるから凄い方なのだろう。
1曲目、芥川也寸志「弦楽のためのトリプティーク」
この曲に対する印象は「トムとジェリー」。手渡されたパンフレットによると、芥川也寸志は1954年に当時国交の無かったソ連に密入国し、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアンらから学んだという。1956年のスターリン批判前の社会主義リアリズム万能のソ連に憧れをもったという彼の人生に興味を持った。まだ理屈を考えながら演奏を聞いている。
2曲目、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番ハ短調op.18」
松本清張「砂の器」のイメージ。ピアノの岡田奏さんの演奏は迫力があった。50人の楽団を圧倒していた。吹き出す汗をぬぐいながら全身を使ってピアノを叩く。鍛えられた腕の筋肉が凄い。ピアノって端から端までを使うと今まで聞いたことの無いような色々な音が出るものだ。
3曲目、ムソルグスキー「組曲 展覧会の絵」
これって超有名な曲、出だしのファンファーレが耳に残る。最初は漠然と舞台を見ていたが、徐々にこの音色はあの楽器が出しているのだなとわかる。指揮者は曲の進行よりワンテンポ先を振るのだな。指揮者の考えによって曲が変化するというのも少し理解できた。
アンコール、曲名聞き取れず。3曲目が終って客席から声がかかり拍手が続き、指揮者が退場と入場を繰り返し客席に挨拶をし、アンコールを終えて終演までの流れは、決まり事のようでとっても不自然。否、慣習も大事だ。
僕は50歳を過ぎてから各地の美術館に行くようになり、それまで全く興味を持てなかった絵画に少しだけだが感じることができるようになったと思っている。音楽も同様、たくさん聴くことによって耳が肥えてきて、感じることや比較もできるようになってくるのだろう。札響のレベルやその日の出来がわかるというのはずっと先のことだと思うが。今回の経験を経て、少し耳が変わったと思う。音楽が聞こえてくると、この音はどんな楽器からの音なのかなと自然に聞き分けようとしている自分に気づく。一時的に少し成長。
最近はまってしまっている音楽番組は、クラシックとは対極にあるが、BS12日曜日21時からの「ザ・カセットテープ・ミュージック」。