晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

「社共は勝てなかったのに民主党は勝利した」

2009-09-26 17:17:28 | Weblog
 シルバーウィーク最終日は小樽のお墓参りにお付き合い。昔から、小樽で寿司を食べる時は、『幸寿司』です。おじいちゃん職人とその息子さんが2人で握ってくれます。寿司屋通りの観光客相手の店とは違います。市内には、たくさん寿司屋がありどこにしたら良いかと迷うでしょうが、『幸寿司』は自信を持って推薦します。



 「社共は勝てなかったのに民主党は勝利した 何故か読み解く」(荒岱介 元ブント代表)(JOUKYO 2009.10)で、日共をコミンテルン型=「外部対抗・内部規範」型政党、仮想的を作り内部粛清さえも内包しながら、共同体をまとめ上げていく政治スタイルの党と性格付け、その限界を指摘している。その極端な例が北朝鮮であるとする。

 私は、荒氏の論文全体を支持する者では無いが、日共の「民主集中制」という組織原理が、現在の原理(綱領)と政策(戦略・戦術)と矛盾を来たしていると考える。

 日共は、未だに「敵の出方論」を有しているのだろうが、現在の議会(選挙闘争)を主戦場とした闘いを続けていくのなら、党内の論争を公開し、社会と民主主義のレベルを合わせない限り大衆の支持を得ることはできないと考える。

 今回の総選挙を廻っても、ある地方議会議員のHPに、本当に真摯で建設的な意見が表明されたと思ったら、即日その記事が削除されていた。これとて、議員の自主的な判断なのか、どこからかの圧力なのかはわからないが、開かれた党のイメージからは遠い。

 それは、『どうしたら壁を打ち破られるか』という題で、「 夏の陣は、予想以上の自民・公明の大敗と民主党の大勝で終わりました。そして共産党は現状維持。共産党の比例得票結果は●●市で●票(●%)、北海道で241345票(7.3%)、全国で4,943,886票(7.0%)でした。過去のいろいろな選挙結果を顧み・・・」というもので、現状維持の原因として、①マスコミの論調、②国民にある共産党への恐怖感、③党員の高齢化を指摘、最後に、地区委員会のあり方などを問うような内容であった。

 下部党員から見れば、選挙の度に頑張っても、根本的なところが誤っていれば、支持を広げることができない。さらに、党中枢部は責任を取ろうとしない。志位は辞任ものではないか。そして、批判、否、議論すらも許されない。

 

 
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資本論ノオト第6回

2009-09-25 20:34:12 | Weblog
 釧路からの帰りの僅かな時間、久しぶりにレストラン『泉屋』に寄る。いつもは、ミートソースなのだが、今は「カツスパ」の方が評判とのことで「カツスパ」にする。

 焼けた鉄板から油がバチバチ飛び散るのだが、店員さんはお構い無しにテーブルに置いて行く。この店には、いい服は着て行かれない。ミートの上に、カツが載るというのは、予想以上に濃い。

 超満腹になってJRに飛び乗るというのはあまり勧められたものではない。



 「資本論ノオト第6回」

第3節 価値形態または交換価値
 
 *人類の歴史を辿ると、最初は自給自足、次に他人との間で物々交換、次に交換手段として貨幣が生まれ最後に貨幣の素材は金に行き着くが、その貨幣の誕生の謎を説く。そんな歴史の過程をイメージしながら読むと理解しやすいと思う。そして、貨幣が生まれるところの論理の転倒シーンに感動する。

 商品形態は、その種々雑多な自然形態と、他方で、どの商品にも共通して含まれる価値の保有者としての価値形態、という二重の形態を持つ。

A 簡単な、単独な、または偶然的な価値形態
 ボールペン1本(X量商品A)=消しゴム4個(Y量商品B)

1 価値表現の両極―相対的価値形態と等価形態
第一の商品(この場合はボールペン)を相対的価値形態と呼び、第二の商品(この場合は消しゴム)を等価形態と呼ぶ。

2 相対的価値形態
 a 相対的価値形態の内容
 一商品の価値は、他の商品の使用価値で表現される。

 このように、マルクスは、「価値関係に媒介されて、商品Bの自然的形態が商品Aの価値形態になる」と述べる。(長谷部訳)

 この部分はコレクションでは、「価値関係に媒介されて、商品Bの実物形態は商品Aの価値形態になる」となる。

b 相対的価値形態の量的規定性
 生産力の変化によって、労働時間が変われば、価値も変わるし、交換される量も、それぞれ異なってくる。

3 等価形態
 等価形態の第一の規定、ある商品の使用価値(消しゴム)が、その反対の現象形態、つまり他の商品(ボールペン)の価値の現象形態となる。
 等価形態としての消しゴムだけを見た場合には、その中に社会的関係が含まれているとは、思えない。

 第二の規定、具体的有用労働(消しゴムを生産する)が、その反対の抽象的人間労働(ボールペンの価値を生み出す)の現象形態である。

 第三の規定、私的労働(消しゴムを作る)が、その反対の形態である直接的に社会的な形態における労働(ボールペンの社会的な価値を計る)となる。

4 簡単な価値形態の総体
 あらゆる労働生産物は、使用価値は持っているが、すべての労働生産物が価値を持つのではなくて、交換される場合にだけ、価値を持つ。

 自給自足の社会では、労働生産物は、使用価値はあるにしても価値を持たない。

 労働生産物が、互いに交換される社会、商品生産が芽生えた社会になって、労働生産物は、価値あるものとみなされるようになる。

B 全体的な、または開展された価値形態
 ボールペン1本=消しゴム4個
        =画用紙8枚
        =ガスライター3個
        ・・・

1 開展された相対的価値形態
 ボールペン1本の価値は、あらゆる商品の自然形態あるいは使用価値で表現される。
2 特殊的な等価形態
 ボールペンの価値を表現するそれぞれの商品の自然形態は、他の商品と同様に、一つの特別な価値形態となる。

3 全体的な、または開展された価値形態の欠陥
 拡大された価値形態での欠点は、ボールペン1本の価値を、無数の商品の一定量で無限に答えなければいけなくなるところにある。


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足利事件+α

2009-09-23 17:41:38 | Weblog
 釧路川の河岸で出漁を待つさんま漁船。秋は秋刀魚、焼いて、大根おろしと醤油をかけてが定番でしょうが、私は、「酢」をかけてビシッと酸っぱくして食べるのも美味しいと思います。



 本日の北海道新聞に引っ掛かりを覚えた記事があった。以下、引用する。

 (見出し)1979年の女児殺害、DNA鑑定へ 栃木県警、異例の時効後

 足利事件の11年前の1979年8月、栃木県足利市で福島万弥ちゃん=当時(5)=が殺害された事件で、栃木県警が遺体遺棄現場の遺留物についてDNA鑑定を実施する方針を固めたことが22日、捜査関係者への取材で分かった。10月初めにも鑑定に入る予定で、既に時効を迎えた事件でDNA鑑定を行うのは極めて異例。

 父親の譲さん(55)が今年7月、遺留物についてDNA鑑定の実施を求める嘆願書を県警本部長に提出していた。県警は鑑定実施の判断理由を「足利事件に関する事件でもあり、遺族の感情などを総合的に判断した」と説明している。

 遺留物は布製のリュックサックやビニール袋などで、宇都宮地検が保管している。譲さんは、足利事件をめぐるDNA再鑑定結果で判明した犯人とみられるDNA型との照合も求めている。

 万弥ちゃんは79年8月、足利市の自宅近くで行方不明になり、6日後に同市内の渡良瀬川河川敷で遺体が見つかった。県警は足利事件で逮捕した菅家利和さん(62)を万弥ちゃん事件でも再逮捕したが、宇都宮地検は93年2月「犯行を立証する決め手がない」として不起訴処分とした。

 90年代前半ごろまでの鑑定技術では血液や体液からしかDNA型が検出できないとされ、万弥ちゃん事件ではDNA鑑定が行われなかった。(引用終了)

 菅谷氏は、1990年の足利事件で無期懲役確定後DNA鑑定結果釈放され、予定される再審で無罪確実の身であるが、1979年と1984年に発生した女児殺害事件(未解決)でも自白、不起訴となっている。

 菅谷氏の件では、栃木県警、宇都宮地検、地裁は、冤罪を起こしたとして大失態を演じたことになる。

 私が今日の万弥ちゃん事件から感じたのは、地検、地裁、国家を挙げての大反撃ではないかという危惧である。

 問題は、被害者遺族の感情への配慮という理由で、時効が成立している事件のDNA鑑定を今さら実施することの狙いである。答えは、3通り。足利事件と一致、足利事件とは別人、別人は、菅谷氏では無い不詳者。最後に万一菅谷氏の場合、どのようなことになるのか。

 邪推に終ればいいのだが・・・。

 

 
 

 
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一守屋

2009-09-22 21:31:37 | Weblog
 この夏は何回か釧路に帰る機会があります。今回の帰釧で発見がありました。昼食に調理パンを買ったところ、製造ラベルに「一守屋」の文字を見つけたのです。

 表の包装はフランス語なのかカッコいい名前だったのですが、懐かしの「一守屋」が生き残っていたのでした。子どもの頃、パン屋さんと言えば「一守屋」でした。どこの町でも地元のパン屋さんがあったと思うのですが、今は本州大手のロバパンとか、山崎製パン、道内でも日糧パンなどに駆逐されてしまいました。

 学校給食は、私の世代では低学年の頃は、毎日コッペパンでしたが、一守屋だったと思います。近所の店で買ったクリームパンやアンパンも一守屋でした。

 
 地元の老舗と言えば、「福司」もビッグになったと思います。住吉町の市営球場の崖の下で、湧き水を原水に細々とお酒を作っていたような記憶があります。酒造の周りには酒瓶と瓶を入れる木枠のケースが山のように積まれていました。

 地酒ブームなのでしょう。綺麗な化粧瓶入りや品目のバリエーションも増えて頑張っているようでした。


 子どもの頃の記憶では、釧路では丹頂牛乳とか、旭牛乳という名前の牛乳があったと思いますが、今はどうなっているのでしょうか。

 
 もうひとつの発見ですが、幣舞橋の近く、北大通で老舗の「二幸」というお餅屋さんがあったのですが、最近火事になって移転したとか。そこの素甘は絶品でした。

 シルバーウィーク、あっと言う間の最終日の明日は、O市へGOです!
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カムイ外伝

2009-09-19 20:07:51 | Weblog
 田んぼが黄金色に色づきました。夏の天候不順の影響でどうなるのでしょうか。出来秋が気になりますが、今は生産過剰なので、昔に比べて深刻さが少なくなりました。

 カムイの時代には、お米を食べてはいけない階級がありました。



 シルバーウィーク初日は、本日封切りの『カムイ外伝』(原作:白土三平/
脚本:宮藤官九郎/監督・脚本:崔洋一、2009年、松竹作品)をE市のシネコンで観賞。

 初日なのに240名収容できる会場には、10数名しか観客がいない。今は、公開前の情報が様々に伝わるので、観客が事前にセレクトしてしまっているのだろうか。

 出演者は、松山ケンイチ、小雪なので、そのファンの若者は足を運ぶのであろうが、私など中高年は、原作の白土三平の名前に引かれて来ているのであろう。

 マンガが苦手な私ですら、白土の「忍者武芸帳」「カムイ伝」「外伝」などは、これを読むと唯物史観が理解できるとの評判を聞いて、たしか喫茶ナポレオンに備え付けのを読んだのだと思う。

 
 映画の感想?劇画の寒々として乾ききった下層社会が描ききれているか。カムイの周りに漂う虚無感が伝わってきたであろうか。

 CG処理に頼った殺陣表現はリアリティが全く感じない。やたらと血が流れ人が死んだが、なぜか悲しみの無い映画。笑う場面も全く無く、逃げ続けるカムイ。

 評価は、★★☆☆☆です。



 シルバーウィーク2,3日目は、K市へGOです。



 

 

 



 
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酒井法子保釈会見

2009-09-17 19:53:17 | Weblog
 二十間坂の途中に明治12年創業の老舗レストラン「五島軒」があります。歴史のある建物で、かつては天皇も食事をしたことがある店です。現在は、庶民的になっていて、私はカレーライスを食しました。



 18時30分からの「酒井法子」保釈会見を見た。芸能事務所やレコード会社が契約を解除したとは言え、まだまだ「商品価値」は充分あると思った。

 警察署から出てきた時の笑顔、保釈会見での涙、こんな表情を見せる女性は、日常はもとより、芸能タレントの中でも他にいない。

 性格がどうであろうと、出自を暴露されようが、旦那が遊び人であろうが、薬をやってようが、禁断症状が出てようが、今日の酒井法子は無条件にかわいかった。TVが何回もVTRを繰り返すのを飽きずに見続けた。40歳になろうとしているのに、あのかわいらしさは何なのであろう。

 本日の会見を観たおじさんたちはどう感じたであろうか。正論&道徳を説くエセ真面目派は案外少なく、私のようにデレーっと観ていた者の方が多かったのではないか。

 


 『拉致対論』(蓮池透、太田昌国著 太田出版 2009年刊)その4(最終回)

第4章「二人の対話から国境を超えた対話へ」より

 「北朝鮮の目論見としては、2012年の金日正生誕100年に向けて、アメリカとの国交を樹立して平和条約を結ぶということがある」(蓮池)

 「金賢姫元死刑囚の、北朝鮮のプライドを尊重してほしいという、あの言葉をよく考えるべきだと思うんです。」(蓮池)

 つくづく北朝鮮はコミュニケーション能力の無い国と思う。好きなのに好きと言えずに意地悪したり、自分に気を引くために悪戯しかできない子どものような精神構造の国である。

 自分は周りに気を利かすことができないのに、回りが自分に気遣いすることを求めるなんて我儘な国なのであろうか。

 そのような国との交渉は、同じ土俵に上がってしまっては負けなので、大人と子ども位の気持ちを持つべきでしょう。





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『拉致対論』 その3

2009-09-15 19:10:15 | Weblog
 Light Rail Transit(LRT)と言うと新しいもののようだが、市電というとレトロな感じが漂う。函館では、市電が市内を移動する有力な交通手段である。

 

 『拉致対論』(蓮池透、太田昌国著 太田出版 2009年刊)その3 

 第3章「経済制裁は悪しき袋小路。交渉へ」より

 「家族会の増元照明事務局長は、2009年になっても、「朝鮮人の大半は強制連行ではなく、徴用など経済的な理由で流れてきたのではと考える」(北海道新聞2009.3.31札幌圏版朝刊)と語っている。」(太田)

 「『強制連行』も『徴用』も、1910年に始まる日本による植民地支配の全体的な枠組みの中でなされたことです。」(太田)

 「家事会は、最初はそういう会ではなかったはずなんです。」「歴史観を注入していったのは、救う会だったわけです。」(蓮池)

 「ブッシュ大統領と横田早紀江さんが会っても、ブッシュ氏は『横田早紀江』という名前すら覚えていなかった。『マザー』と呼んでいた。ブッシュ氏との会見はパフォーマンスにすぎなかった。」(蓮池)

 「私は確信をもって言えますが、弟ははっきりと言わないけれども、日本に対して相当な恨みや絶望を持っていると思います。信頼も期待もしていません。」(蓮池)

 「弟たちは北から来た情報源としか捉えられていなかったと思います。5人が一時帰国で帰ってきた時に、北朝鮮に帰らないように必死で止めたのは家族会ではありません。5人それぞれの家族だけでした。『返すなよ』と言ってくれたのは石高さんと兵本さんだけでした。」(蓮池)

 「彼(安部)はいちばん家族会を利用した政治家で、家族会を前面に出して自分が後から付いていくというやり方で総理にまでなった人です。総理になった後は、家族会に対するご機嫌とりしかありませんでした。」(蓮池)

 
 蓮池透氏がかなり思い切ったことを発言しているとこがわかる。家族会事務局長時代とは「天と地」の違いである。弟とその家族が帰ってきたゆえに変わったのか、冷静に考えることができる何かきっかけがあったのか。

 同じ境遇で運動を進めてきた他の家族会のメンバーから見れば、変節、裏切りなのであろうが、所詮家族会はその位の結びつきなのでしょう。

 




 


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資本論ノオト第5回

2009-09-13 15:32:25 | Weblog
 函館駅に戻って来ました。青函連絡船が発着していた頃の面影はありませんが、人々の話している言葉から、思った以上に東北との間で人の行き来があることがわかりました。 

 道州制を論議する時、北海道だけは、エリアが今の北海道と変わらず面白みに欠けます。東北と一体の道州制をイメージするのも面白いのではないでしょうか。


 資本論ノオト第5回

 *私が、『資本論』から引用している箇所、2つの訳を比較する箇所は超有名なフレーズであり、脳髄に叩き込んでおくべき所である。
 日共推薦、多喜二の『蟹工船』も良いけれどそんな安直なものでは無く、やはり『資本論』などの骨太の大作(池田教では無い!)を読んだという経験は、フルマラソンを走破した経験があるというのと同じくらい自分の心の中の支えになる。

第2節 商品に表示される労働の二重性格(メモ追加)
 商品の使用価値の中には、有用労働だけが含まれるのではなく、自然的な素材(自然から取り出した原材料)も含まれていることを、マルクスは、ウィリアム・ぺティの言葉から以下のように引用する。

 長谷部文雄訳では、「労働は、質量的富の父であって、土地は、その母である。」

 コレクションでは、「労働は、ウィリアム・ぺティが言うように富の父であり、大地が富の母である。」と、ちょっと格調が低い。

 最後に、第2節の締めくくりを、長谷部訳では、「およそ労働は、一方では、生理学的意味での人間的労働力の支出であって、同等な人間的労働または、抽象的、人間的労働というこの属性においては、それは商品価値を形成する。
 他方では、特殊的な、目的を規定された形態での人間的労働力の支出であって、具体的、有用的労働という属性においては、それは使用価値を生産する。」となる。

 ここはコレクションでは、「一方では、すべての労働は生理学的意味で人間の労働力の支出であり、同等の人間労働または抽象的に人間的な労働という属性の下では、それは商品価値を形成する。
 他方では、すべての労働は、特殊な、目的の定まった形態での人間労働の支出であり、この具体的で有用な労働という属性の下では、それは使用価値を形成する。」となる。

 次回は、第3節。
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資本論ノオト第4回

2009-09-12 15:52:30 | Weblog
 資本論ノオト第4回

 『資本論』冒頭の有名なフレーズは、訳により味わいが随分と変わる。
 私が学生の頃読んだのは、赤いブックカバーの国民文庫(大月書店)、岡崎次郎訳でした。

 咲木氏の長谷部文雄訳では、
 「資本主義的生産様式が支配的に行なわれる諸社会の富は一つの膨大な『商品収聚』(しゅうしゅう)として現象し、個々の商品はかかる富の原其形態として現象する。だからわれわれの研究は商品の分析をもって始まる。」となる。

 それが、今村氏他訳による「コレクション」では、
「資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は『巨大な商品の集合体』の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる。」となる。

第2節 商品に表示される労働の二重性格(メモ追加)

 マルクスは、「商品のなかに含まれる労働の二面的性格」、ここが自分によってはじめて批判的に証明されたことであり、経済学を理解するキーポイントであるという。

 英語のworkとlabour、使用価値を創造し、質的に規定される労働はwork、価値を創造し量的にのみ規定される労働は、labourと呼ばれる。





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『拉致対論』 その2

2009-09-11 20:21:02 | Weblog
 慌ただしい日々に追われ、東北小旅行から1ヶ月も経っていたのか。

 八戸と函館を結ぶ「スーパー白鳥」、新幹線が青森まで延びる来年12月からは、青森ー函館間になるのだろうか。



 『拉致対論』(蓮池透、太田昌国著)その2 

 第2章「拉致問題の起源と停滞する現状」より

 1977年から78年という時期に拉致事件が起きた理由のひとつに、1975.4.30にベトナムが社会主義勢力によって全面解放されたことがある。これを見て、金日正が「自分たちも朝鮮全土を解放できる」と考えるようになった。(太田)

 蓮池氏が重要なことを発言しているので以下引用する。

 「北朝鮮に制裁を加えれば拉致被害者が帰ってくるというのは、誰が証明したことなんでしょうか。」(蓮池)

 「安倍首相時代には、官房機密費の中から家族会と救う会へ多額のお金が渡されたという噂があります。」(蓮池)

 小泉訪朝で北朝鮮が、「拉致を認めて謝るというとことまでは、水面下で約束していたと想像します。」「拉致を認めることが国交正常化のために必要だということで妥協していたと思う。」

 「9.17の朝に知らされて、8人死亡で慌てたということになっていますが、そのわりには当日の対応が周到だった。」「北朝鮮との間で、「何人か死亡と出すぞ」「分かった。我々が家族を黙らせる」という話しをしていた可能性がある。」(蓮池)

 2004.5.22小泉の再度訪朝直後で、蓮池、地村の子ども5人が帰国、その直後家族会は小泉を非難、それ以後小泉は日朝交渉を進める気力を失った。(太田)







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『拉致対論』 その1

2009-09-07 21:06:49 | Weblog
 『拉致対論』(蓮池透、太田昌国著 太田出版 2009年刊)

 これまでに、私は、2007.11.15の当ブログ『変わるか、北朝鮮政策』で安倍の政権投げ出しの原因がアメリカからの圧力による可能性と福田政権に変わって対北朝鮮政策の変更の可能性に言及した。

 2008.6.18『再び、拉致異論』で、「世界」2008.7月号のインタビューにおける家族会元事務局長蓮池透氏の変化を指摘した。

 2008.6.20『再び、拉致異論 その2』で、安倍に代表される北朝鮮に対する制裁では物事が前進しないこと、家族会の活動が被害者の範疇を超えており、政府に見放される運命にあることなどを述べた。

 2008.8.24『拉致異論 その4』で、福田政権で入閣した中山恭子拉致担当相の役割が家族会のガス抜き役だったこと、山崎拓氏の安倍政権の北朝鮮政策を批判し続けた背景に資本の意図があることについて述べた。



 『拉致対論』は、2002.9.17小泉訪朝でにわかに注目を集めた拉致問題に、2003.7『「拉致」異論』で、日朝両国政府批判、日本左翼批判という独自の視点から切り込んだ太田昌国氏と、当時全く対極の位置にいたであろう家族会事務局長蓮池透氏が4夜にわたって語った記録である。

 マスコミは酷いもので、この頃は拉致問題が1mmも解決していないのに報道されることが極端に減っている。まさに、ニュースとしてまるで賞味期限が切れてしまったようであるが、私にとっては、何回かにわたって推測を交えて論じたテーマが事実であったかどうか、本書で検証できた点が何点かあった。

第1章「対話を通した意見の深化と認識の深化」より

 蓮池氏は9.17の直後は、拉致問題が急に日の目を見て、「調子に乗っていました。」「ある種の錯覚に陥っていました。」と述懐する。(素直に反省)

 家族会の運動を支援してくれた「救う会」佐藤勝巳氏(現代コリア研究所)がどういうところなのかも知らなかった。(佐藤氏は、かつて日共で帰国運動を先導していたが、反北朝鮮に転じた人物。)(佐藤氏を批判)

 浜本達吉氏(日共国会議員秘書、後に除名)、石高健次氏(朝日放送プロヂューサー)、阿部雅美(産経新聞)の3氏の尽力で家族会ができた。(3氏を信頼)
 
 安倍の「全員生存を前提に平壌宣言に則り」という発言は、大矛盾。宣言は、8人死亡を受け入れた証し。(安倍氏を批判)
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ぎょうざの宝永

2009-09-05 21:11:51 | Weblog
 音更町名物「ぎょうざの宝永」のデリバリーカーとJR札幌駅前で会いました。なかなか美味しく評判の餃子です。

 最近は、書店めぐりをしなくなった。手元にある書籍のブックカバーを見ると、ほとんどが紀伊国屋書店である。以前は、アテネ書房やリーブルなにわ、パルコブックセンター(旧富貴堂)、丸善・・それぞれ品揃えに特徴があり、1日かけて回ることもあったが、書店の大型化によって1ヶ所で用が足りたように感じてしまう。

 今日も何冊か買い込んだのであるが、未だ読みかけの本もあり、早く読みたい誘惑もあり、これは本当に幸せな迷いである。1冊づつ読み終えて、次を読むという方法もあるが、私の場合は、常に何冊か平行しながらの読書になっている。丁度、テレビの連続ドラマを曜日ごとに見るように、本も気分であの続きを読んだり、新しい本に手をつけたり、中断したままになったりである。

 
 何やらゴタゴタした夏なのだが、気が付けばもう9月。当面の目標が無いとやはり練習をしないことが改めてわかった。それで、10月中旬の北海道ロードレースにエントリーすることにした。ハーフマラソンなのだが、今手持ちの力では、ハーフも無理。少しストイックな気分を持って、コツコツ練習をしようと思う。

 


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楽天イーグル酢

2009-09-01 20:34:03 | Weblog
 東北地区限定発売!『楽天イーグル酢』という名のりんご酢飲料。
 
 スポーツ新聞もJリーグ関連記事は、ベガルタ仙台の話題が中心でGP林が絶好調と伝えられていた。林君はコンサからのレンタルなのだが。



 『マルクス・コレクションⅣ「資本論第1巻」㊤』より(資本論ノオト第3回)

第3版に寄せて
*エンゲルスは親友?
 1883.3.14にマルクスが亡くなったため、第3版はフリードリヒ・エンゲルスの手で出版された。(1883.11.7)エンゲルスは、マルクスの遺志を継いで『資本論』の第2巻(1885年)、第3巻と刊行していくのだが、マルクスの残した手稿が未完成であったため、エンゲルスの手でかなり改竄せれている。

英語版序文
*『資本論』がイギリスで刊行される意義!
 (1886.11.5)エンゲルスが序文の結びで言う。「この男(マルクス)の全理論は、イギリスの経済史および経済状況についての生涯にわたる研究の成果としてもたらされたものだった。」として、英語版が出版される意義を述べる。

 続いて、「イギリスこそが、不可避な社会革命を完全に平和的、法的手段によって遂行しうるただ一つの国である。」しかし、「イギリスの支配階級が「奴隷制擁護のための反乱」を企てることなく、この平和的、法的革命に屈するだろうとは自分にはとても思えない。」として、平和革命の可能性と不可能性について言及する。

第4版に寄せて
*マイナー・チェンジを繰り返す『資本論』
 (1890.6.25)第1版の出版から23年、その間各国語に翻訳されるたびに、また版を重ねるうちに、修正が加わった。第4版では、特にマルクスが引用した文献を原典に当たって修正している。




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