「田舎のプロレス」、「茶番」と発言して撤回、謝罪した議員がいるが、僕は真実だと思う。昨日の年金法審議での採決の際、野党が掲げた「強行採決反対」のボード。なぜ、予め手元に用意していたのか。台本通りに怒って見せただけではないか。
戦後左翼史 その31 1947年
(★印は日共関係)
◎1947(昭和22)年 2.1ゼネスト中止、各産別労働組合の結成と騒然とした世の中であった。
*(*は僕の考え)『闇の男 野坂参三の百年』(小林峻一、加藤昭著 文芸春秋 1993年刊)を20数年ぶりに再読した。ソ連崩壊の翌年、1992年は日共にとっても、野坂にとっても激動の年であった。3.30名誉議長野坂、百歳の誕生祝い、7.30党創立70周年、その間に旧ソ連共産党文書保管所にて、野坂が同志を密告した手紙を発見、12.27除名
本書(P149)に野坂にまつわる疑惑が列挙されている。
(1)1928年3.15事件で逮捕され、1930年に眼の病気で保釈されたが、その真の理由は「転向」したからではないか。
(2)保釈中の1931年に特高警察の監視の目を盗んで夫婦そろって国外に脱出できたのも、当局との妥協によるものではないか。
(3)コミンテルン時代、山本懸蔵ら日本人共産主義者の粛清に対してどのような対応をしたのか。なぜ話さないのか。
(4)コミンテルン時代、2度のアメリカ滞在中に、日本向け工作以外にどんな活動をしたのか。
(5)戦時中、中国延安では、ソ連、中国、アメリカとどんな関係を持っていたのか。
(6)終戦時1945年、帰国に際して、米軍と間で妥協や合意があったのではないか。
(7)日共の分裂時代、1952年から53年にかけて、北京で伊藤律を査問・幽閉した真の理由は何か。
*党創設の中心人物がスパイだとしたら、腐った土台の上に建てた情報が筒抜けの建物とはどのようなものなのか。野坂に関する事実が判明すると、日共は除名処分により終止符を打った、つもりだろう。が、いつしか公安との関係でこの党史の根幹に関わる問題は再燃するであろう。
*急進的な言葉を並べたスローガンで人々を引きつける。指導部による下部組織に対する煽り唆し。しかし、いざ実践となると腰が引ける。言うことはいつも同じ。「敵は強大、無駄な犠牲は生じさせない、組織の温存が第一だ。」左翼、日共のこの習性は、今も変わらない。
★1月 神山茂夫「平和革命をめぐる諸問題」『改造』(~2)、中野重治「五勺の酒」『展望』
1.18 全官公庁労組共闘委、「2.1スト」を宣言(2.1午前零時をもって無期限スト突入)
1.28 吉田内閣打倒・危機突破国民大会、皇居前広場で40万人参加
1.31 マッカーサー、2.1スト中止を命令、全官公庁共闘委議長伊井弥四郎、スト中止を放送
*主観的な願望と客観的な情勢認識の転倒:この事態になって初めて日共は、進駐軍=解放軍規定が誤りだったことに気づいたのだろうか。どう考えたとしても世間の常識は、進駐軍=占領軍だ。獄中何年などを誇って出獄した党員が中心にいたが、情況を認識する感覚が完全に鈍っていたのではないか。あるいは、鳴り物入りで帰国したスパイ野坂の影響力が強かったのか。占領下で革命を実行する、できるというのは、きわめて主観的な楽観論である。客観情勢を的確に認識できないのは今も変わらない日共の習性である。
2月 梅本克己「人間的自由の限界」『展望』
2.1 全闘・全官公庁共闘解散
3.10 全国労働組合連絡協議会(全労連)結成 (産別会議・総同盟、中立系主要労組計420万人が参加)
3.17 世界労連サイヤン視察団訪日
4.26 民主婦人協会結成(神近市子ら)
5.14 産別会議執行委員会自己批判
★6月 志賀義雄「軍事的封建的帝国主義について」『アカハタ』、蔵原惟人「文化革命と知識人の任務」『世界』
6.1 社会党・民主党・国民協同党連立による片山哲内閣成立
6.5 国鉄労働組合(国労)結成、6.8日本教職員組合(日教組)結成(50万人)
6.30 全日本土建一般労組(全日土建)結成
8.20 全逓、各地で職場離脱闘争開始
10.5 欧州共産党情報局(コミンフォルム)結成(ポーランドにて)
10.19 国労臨時大会、民主化同盟派進出、11.7国鉄反共連盟結成
11月 『唯物史観』(~48.12)創刊
11.2 全逓第4回大会、地域人民闘争方針決定
11.10 日本自治団体労組総連合(自治労連)結成
12月 宇野弘蔵『価値論』河出書房