田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫
・妹尼が奥へ入っている間に、
中将は尼女房の少将といった人を、
おぼえていて呼び寄せた
この少将の尼は、
亡き妻の生前、
婿の中将の世話をしてくれた、
親しい女房であった
「ところで・・・」
中将は声をひそめ、
「さっき廊の端へ入って来たとき、
風が吹き上げて、
簾のすき間から若い女人が見えた
なみなみならぬ美人とみえる
ご出家の方々ばかりのお住居に、
これはどうしたことかと」
(姫君の後ろ姿を、
ご覧になったのだ)
少将の尼は、
「尼君はいまだに、
亡き姫君のことを忘れかね、
お悲しみでいらっしゃるのですが、
このほど、
思いがけぬ方を、
お引き取りになりまして、
明け暮れ心の慰めにして、
いらっしゃいます
そのうちお耳に入ることも、
ございましょう」
少将の尼は詳しく話さず、
中将もあれこれ聞くのも、
ぶしつけな気がして、
「雨がやみました
日も暮れますから」
とせきたてるので帰った
老尼たちは、
「いよいよ、
清らかにご立派になられて」
「同じ事なら、
昔のように婿君として、
お迎えしたいものですねえ」
などというのであった
妹尼はうなずき、
「藤中納言の婿君として、
通っていられるそうだけど、
あまりご熱心でなく、
親御さんのお邸に、
いられることが多いとか
ああいう方こそ婿君に、
と娘を持つ人なら、
望まぬ者はおりますまい
それにしても」
妹尼は浮舟をしみじみと見る
妹尼、老い尼たちの視線を、
一身にあつめて浮舟は、
うつむいてしまう
「ねえ、あなた
まだ私に心を開いて下さらなくて、
よそよそしくなさるのが・・・
気を取り直して、
元気を出して下さい
私はこの五、六年、
悲しい恋しいと思っていた、
亡き娘のことも、
あなたにお会いしてから、
すっかり忘れた気になっています
あなたのことを案じていらっしゃる、
方々も今ではあなたを、
世にないものと、
あきらめていられましょう
どんなことも時が経てば、
薄れるもの
あなたも生まれ変わったおつもりで、
お心を明るく、
取り直して下さい」
浮舟は思わず涙が出てきた
母君も、
今はわたくしのことを、
世に亡いものとしてあきらめて、
いらっしゃるのかしら?
母のことを思うと、
胸がせきあげてくる
「隠し隔てする気は、
ございませんけれど、
あんな風に不思議なさまで、
生き返りましたので、
何もかも夢のようでございます
わたくしを知る人が、
この世にいるのか、いないのか、
何も思い出せません
ただ尼君さまをお頼りにして、
いるばかり・・・」
中将は横川に着いた
僧都も久しぶりのこととて、
喜んで中将と世間話をした
その夜は泊り、
弟の禅師とうちとけた話になった
中将は小野の山荘で垣間見た、
美女の話を話題にせずにいられない
禅師もまた聞きでよく知らないが、
「この春初瀬に詣でて、
不思議ないきさつから見つけた人、
と聞きました」
中将は翌日の帰りがけに、
また小野へ寄った
この度は妹尼に、
「あの方はどういう人なんです」
と聞いた
人に知られるのはわずらわしい、
と妹尼は思ったが、
隠し立てするのもかえって、
妙な具合だと思い、
「亡き娘の代りと思って、
ここ幾月かお世話している人です
何か悩み事のありそうな人で、
誰にも会いたがりません
どうしてご存じ?」
といった
「浮気心で聞くのではありません
亡き人によそえると、
おっしゃるからには、
私だってその関係で、
全く無縁とは申せません
どうして世をはかなんで、
いらっしゃるのか、
お慰めしたい」
中将は好奇心を示しながらいった
帰りがけ、
<あだし野の
風にたなびく
女郎花
われしめ結はむ
道遠くとも>
と書いて、
少将の尼に托した
(ほかの男になびかないで
京からは遠い道ですが、
あなたを私のものにしたい)
妹尼はこの返事を書くよう、
浮舟にすすめるが、
どうしても書かない
それでは失礼になるので、
妹尼は代筆した
「先ほど申し上げましたように、
一風変わった人でございますので、
世間並みのお返事も出来ませず、
お許しを」
中将はそれを見て、
納得して帰った
(次回へ)
・この山荘の尼君に仕えるのは、
たいそう年老いた尼、七、八人
若い女たちは、
こんな淋しい山里に辛抱できる、
はずもなかった
ただ、ここで籠る尼たちの、
縁者、娘や孫といった人たちが、
時々通ってきて、
浮世の風をもたらした
浮舟はその人々に、
姿を見られないように警戒していた
薫、匂宮・・・
あの人たちに、
自分がみじめな姿でいるのを、
知られたくない
浮舟に仕えているのは、
侍従という女房と、
こもきという女童、
この二人は妹尼が、
自分の手もとから割いて、
浮舟付きとした
顔立ちも心ざまも、
昔いた女房たちとは、
比べものにならず劣っている
世を忍ぶところでは、
浮舟は不足とは思わなかった
浮舟が、
人目から隠れようとしているのを、
妹尼は面倒な事情のある人、
と察し周りの人々には、
くわしいことは知らせていなかった
秋の一日、
山荘に珍しい男客があった
先払いをして、
身分ありげな若い公達が入ってくる
山荘には秋の草花が咲き乱れている
その花々に競うように、
色さまざまの狩衣姿の男たち
彼らを引き連れた公達も、
同じように狩衣姿
南面の客間に招き入れられた青年は、
年のころは二十七、八
落ち着いて大人びた風采、
たしなみありげな様子だった
それは妹尼の、
亡き娘の婿であった
今は中将の位にいる
弟の禅師が横川の僧都の弟子で、
山籠りしているのを、
見舞いに山へ登っていた
山荘は横川へ通う道にあるので、
中将はついでにやって来たのである
妹尼は几帳を据えて婿と会ったが、
涙ぐまれてしまう
「月日が経つにつれ、
昔のことは遠く思われますが、
それでもこの山里に、
あなたのおいでをお待ちする、
気持ちが心のどこかに残っています」
妹尼の言葉に中将は、
「いつも義母上のことを、
思い出しています
過ぎた昔を忘れる折とて、
ないのですが、
もっぱら俗塵を避けて、
ご精進のこととお察しして、
ご遠慮しておりました
山籠りしている弟もうらやましく、
始終訪ねていくのですが、
行くのなら一緒にという友人も多く、
今日はその連中をみな置いて、
こちらへ伺いました」
妹尼は微笑みつつ、
「でも、亡き娘を、
いつまでもお忘れ下さらず、
私を訪ねて下さるお気持ち、
ほんとに心から嬉しく、
ありがたく存じます」
中将の一行を、
山荘の人々は心こめてもてなす
中将の昔語りの相手になりつつ、
婿のこの青年の、
気立て、人柄、
まことに好もしかったものを、
これからは縁切れて、
他人になってしまうことが、
たいそう悲しかったことを、
おぼえていた
娘はどうして、
忘れ形見の子供を、
残してくれなかったのか、
その悲しさは、
忘れる折もなかったので、
こうして中将が久しぶりに、
訪ねてきてくれたのが、
嬉しく身にしみた
話が弾むままに、
浮舟のことまで、
いい出しそうであった
浮舟は物思いに捉われて、
外を眺めていた
白い単衣の、
何の風情もないのに、
出家した人の習いとして、
檜皮色のものを着せられている
(昔、着ていたものとは、
まるで違う)
光沢もなく、
ごつごつと肌触りもよくないもの
側にいる尼女房たちは、
「まるで故姫君が、
よみがえられたかのよう
まして中将さまを拝見しますと、
昔が思い出されて」
「同じことなら、
中将さまをこちらの姫君に、
お通わせ申したいですわね
いかにもお似合いのご夫婦ですもの」
とうなずき交わす
浮舟はうつむいているものの、
(とんでもないこと、
この世ではもう二度と、
結婚などする気はないわ・・・
あの昔の、
辛かったこと、
悲しかったこと、
苦しかったこと、
あんな思いをもうくり返したくない)
(次回へ)
・僧都の妹尼は、
若い女を世話することになって、
嬉しくてたまらなかった
老女ばかりの中で、
天女の舞い下りたような、
まぶしい美しさ、
妹尼は非現実的存在に思え、
「ねえ、
どうしてお話して下さらないの
こんなに心配していますのに
お名前とおところ、
どんなご事情があったのか、
お話して下さるお気持ちに、
なれませんか」
と問う
浮舟にも妹尼の好意は、
身にしみたが、
薫のこと、匂宮のこと、
愛情の修羅場で苦しんだことは、
恥ずかしくて打ち明けられない
「おぼえていません・・・
みな忘れてしまいました
ただ一つ思い出せるのは、
どうしても生きていたくないと、
思いながら、
いつも夕暮れになると、
端近に出てぼんやりしていましたら、
庭先の大きな木の下から、
人が出てきて私を連れてゆく気が、
しました・・・
そのほかのことは、
思い出せません」
浮舟はそう言い繕って、
「わたくし、
まだ生きていると、
人に知られたくありません」
と泣いた
妹尼は問い詰めるのも、
可哀そうになって、
押して尋ねなかった
この山荘のあるじ、
僧都や妹尼の母尼も、
もともと身分ある人だった
妹尼も、
ある上達部の北の方だった
夫亡きあと、
一人娘を大切に世話し、
良家の公達を婿に迎えていたが、
娘が亡くなったので、
世をはかなく思って尼になった
いつまでもあきらめられぬ恋しい娘、
そんな妹尼に、
思いもかけず美しい若い娘を、
手に入れたので、
嬉しくてたまらなかった
この妹尼は、
年こそ取っているものの、
清らかに風情ある人で、
上品であった
浮舟から見る、
この小野の山里は、
宇治よりもやさしい眺めで、
川の瀬音も和やかだった
秋になってゆくままに、
門田の稲を刈るとて、
鳴子を鳴らす音もなつかしい
浮舟には、
昔の東国の田舎が思い出される
かの源氏の長男、夕霧が、
ひたすら求愛した、
亡き親友、柏木の北の方の落葉の宮の、
その母君の御息所が住んでいられた、
小野の山荘を、
読者はご記憶であろうか?
妹尼の山荘は、
そこよりもう少し奥へ入ったところ
山深いあたり、
山に片かけて建てられた家なので、
風音も心細い
人々はひたすら勤行の日々を、
過ごしていた
月の明るい夜は、
妹尼は琴を弾いた
「こんな遊びをなさいますか」
と妹尼が問うのに、
浮舟はうつむいていた
東国の田舎で生い育ち、
(実父は故八の宮ながら、
実母が再婚した養父の勤務地、
常陸で育った)
風流な教養を身につける、
余裕はなかった
この尼君たちは、
年老いているけれど、
折にふれてみやびやかな、
時間を持っている
さすがにゆかしい都びと
(わたくしとは大違いだ
やっぱり死んでしまった方がよかった)
浮舟はそう思いつつ、
手習いに書き散らした
<身を投げし涙の川の
はやき瀬を
しがらみかけて
たれかとどめし>
(涙川の早瀬に身を投げた私
なぜまた救われてしまったのか
助けられたことを、
感謝すべきであろうけれど)
浮舟は情けなかった
これからどうなるのだろう
死ぬ前にもう一度会いたい、
と思う人は多かったが、
今はさほどでもなく、
やはり思い出されるのは、
母君と乳母であった
(お母さまはどんなに、
悲しまれたことだろう
ばあやもまた、
人並みに幸せにしようと、
あれこれ苦労してくれたのに、
どんなに力を落としたことだろう
いまどこに?
どうしているのかしら
わたくしがまだ生きていようとは、
なんで知ろう
おお、そういえば、右近は?
右近はどうしているのだろう)
(次回へ)
・若い女のことは、
人々に口止めしてあった
法師の身辺に若い女がいることは、
人聞きもよくないからである
妹尼も、
このことが噂になって、
若い女を捜しにくる者でもいたら、
落ち着かなかった
「川に落として下さい」
というひと言以外、
女はものもいわず、
起き上がることも出来ず、
次第に命もはかなくなるように、
思われる
このままでは、
やはり死ぬのではないか、
妹尼はそう思うと、
可哀そうでたまらなくなり、
周りの人々にも、
自分の夢のことなど語って、
この若い女が、
死んだ娘の身代わりとしか、
思えないことを訴える
看病するうちに、
四月、五月とはかなく過ぎる
ついに妹尼は、
兄の僧都に手紙で訴えた
「お兄さま
山をお下りになって、
この人をお助け下さいまし
魔性のものがとりついて、
離れないようでございます
お兄さまの法力で、
物の怪を去らせてやって下さいまし
京へ下りられるのならともかく、
この小野までなら、
お山のふもとのようなもの
どうぞお願いいたします」
僧都は心動かされた
前世の因縁で助けた以上、
最後まで力を尽くしてみよう
それで駄目なら仕方あるまい
と思って僧都は下山した
妹尼は僧都を迎えて、
「よくおいで下さいました
この人は長く患っているのに、
不思議にむさくるしくなく、
やつれもせずいます
どうしても助けてあげたくて・・・」
と泣く泣く訴えた
僧都も臥している女を見て、
「見つけた時から、
不思議な人だったが、
見れば見るほど美しい人だ
どういう運命の手違いで、
こんなひどい目に会われるのか
思い当たる噂でも聞かないか
こんな美しい人が失踪したら、
騒ぎになっているはずだが」
「いいえ、
何も聞きません
この人は初瀬の観音さまが、
私に下さった娘の身代わりなんです」
妹尼はいう
僧都は修法をはじめた
弟子たちは反対だった
朝廷からのお召しにも応ぜず、
山籠もりして修行しているのに、
こんな身元の知れぬ女のために、
修法していると噂されては、
具合が悪いというのである
弟子たちは面白くない風であったが、
僧都は心をこめて夜一夜、
加持した
よりましに物の怪をうつし、
正体のない女にとりついているのは、
どういう魔物か
よりましの口を借りていわせたかった
弟子の阿闍梨も加持した
ついによりましは口を開いた
「いやあ、苦しい、
祈祷を緩めてくれ
わしはこの世に恨みを残して死んだ、
法師じゃ、成仏できず、
あちこちさまよい歩いているうち、
あまたの美女の住むところへ、
流れついた
そのうちの一人は取り殺した
この女はみずから世を厭うて、
死んでしまいたいというので、
とりつき、暗い夜さろうていった
ところが観音のお守りがあった上に、
この僧都の法力に負けてしもうた
退散せねばなるまい
苦しい、苦しい・・・」
「そういう汝は何者か?」
僧都は問うたが、
もはやよりましは答えなかった
「そんなわけで、
やっとあなたは人心地が、
おつきになったのです
熱も下がられて、
さっぱりなすったように見えます」
妹尼は薬湯をすすめながらいう
浮舟に少しずつ記憶が戻ってくる
食事をわずかでも、
とれるようになったが、
かえって面痩せしていくのを、
「ああ、
快くなられるしるしです
あんなに重い病でしたから、
薄紙をはぐように、
少しずつ、少しずつ、
快くなられます」
妹尼は嬉しがる
浮舟はなお、
死ぬことを考えていた
死ぬことの出来ぬ身であれば、
いっそ、
「尼にして下さいませ」
と妹尼に訴えた
「とんでもない
あなたみたいに美しいかたを、
どうしてそんな・・・」
妹尼は大反対したが、
それでも病人の気がすむようにと、
形ばかり尼そぎをした
頭頂の髪を少しそぎ、
五戒を受けさせた
浮舟はほんとに出家したかったので、
こんな形だけの出家は、
不満であったが、
思うことを言い通すことも出来ず、
黙っていた
「これでよかった
あとはよく看病しておけ」
僧都は言って山へ帰った
(次回へ)
・妹尼は手ずから薬湯を、
匙ですくって口に入れてやった
しかし病者は弱りゆくばかり
「ああ、このひとが死ぬ
かえって悲しい思いをしなければ、
ならなくなってしまった」
妹尼は嘆き悲しみ、
「どうぞ加持して下さい
この人のためにご祈祷お願いします」
と阿闍梨に頼む
人々は、
「厄介なことをしょいこんだもの、
死んだとしても、
そのままうち捨てるわけにいかない」
「とむらいをなさらなければ、
いかんだろうし、
いや、困ったこと」
「物好きなことをなさるから」
などとぶつくさいう
「静かに
人に聞かれてはなりません
どんな事情のある方か、
わからないから、
下人たちには知られないように
妙な噂を立てられたら、
この人のためにも、
私たちのためにもよくありません」
妹尼は口止めして、
高齢の母尼より、
若い女の看護に夢中だった
女は時に目をあげて、
尼たちを見るが、
その目に涙があふれる
「何がそんなに悲しいの?
恋しい娘の身代わりに、
観音さまが授けて下さったあなた、
もし、はかなくなられたら、
私は辛い思いをせねばなりませぬ
ねえ、どうかひと言、
おっしゃって」
女は口元をわずかに動かした
妹尼が耳を近づけると、
息も絶え絶えに、
「このまま人目につかず、
宇治川へ落として下さい」
というのである
「おお、
何と恐ろしいことをおっしゃる
なぜまた、そんな・・・
どういうご事情があってのことです?」
妹尼が問う間に、
再び女は意識を失ってしまい、
ものもいわない
死にかかっている若い女、
ひょっとして怪我などしてはと、
妹尼は体をあらためてやったが、
疵一つない美しい体で、
もしや、
人の心を惑わすために出てきた、
変化ではあるまいかとさえ、
妹尼は思った
二日ばかり籠っている間、
母尼と若い女、
二人のために加持する声は絶えず、
妹尼はただならぬ心地で過ごした
この宇治のあたりの下人たちで、
僧都に仕えていた者が、
僧都がおいでになっていると聞いて、
ご挨拶にやってくる
世間話をするのを聞けば、
「昨日お伺いしようと、
思っておりましたが昨日は、
お葬式がございまして、
亡くなられたのは八の宮の姫君です
右大将(薫)がお通いだった方で、
これという病気もなく、
急死なさったということで、
大さわぎでございました
お弔いのご用を、
つとめておりましたものですから、
昨日はようお伺いませんで」
僧都は耳と留め、
それでは正体のないあの女は、
そんな死人の魂を拉してきて、
作りあげたのではないか、
あの女は水に溶けるように、
姿を消すのではないか、
とふと恐ろしく思った
僧都のそばの人々は下人に聞いた
「昨夜、
ここから見えた火は、
火葬の火だったのか
そんなに大きくも見えなかったが」
「わざと簡単になさって、
ひっそりしたものでした」
「ほう、それにしても」
一人がいう
「亡くなられた姫というのは、
どなたのことだろう?
大将殿がお通いになったと聞く、
故八の宮の姫君はとうに、
亡くなられたはず
それに今は帝のおんむすめを、
正室にお迎えになっている
まさかほかの女に、
お心を移されるはずもあるまいに」
と世離れた人々も、
上流階級の噂に、
関心を持つらしい
母尼はどうやら持ち直された
方ふたがりもあいたので、
こんな気味の悪い所に、
長居することはないと、
帰ることになった
若い女がまだ弱っているので、
道中、耐えられるかどうか、
心配だったが、
車二輌仕立て、
一輌には母尼と仕える尼二人、
あとのに若い女と妹尼、
もう一人女房が乗って、
道すがら薬湯など飲ませつつ、
小野さしてゆるゆる進んだ
そんなわけで、
小野へは夜更けて着いた
僧都は母尼の介抱に、
妹尼は若い女の世話をして、
抱き下ろしてやっと部屋のうちに、
休ませた
母尼は老いて病がちのところへ、
長旅の難儀で弱っていられたが、
何とかなおられたので、
僧都も安心して比叡山へ帰った
(次回へ)