「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

1、蜻蛉日記  ②

2021年06月18日 08時35分21秒 | 「蜻蛉日記」田辺聖子訳










・女というのは、
夫と会うとあれこれ口やかましく言いたくなりますね。

たまに会うからやさしくいいところだけ見せようというのは、
恋人関係ですね。

たとえば、子供の進学の話、ローンの話、雨もりがしてきた、
親戚のもめごと、夫婦だからこそ面白くないことも言わねばならない。

この時代、一ヶ月のうち数日しか夫が来ませんから、
この時とばかり平生の不平不満を言う。

もしかして非常に行き届いた訳知りの女だったら、
たまに会う夫にいい顔を見せ足しげく夫を通わせる、
ま、ある点ではやり手の女です。

この日記の作者の夫、兼家は、
終生自分の邸に北の方を持ちませんでした。

方々に妻を置いて通いました。
兼家の子(道隆、道兼、道長)の時代になりますと、
自分の邸に妻、子供たちを引き取り共住みしています。

そこからまた別の妻の家へ通う。
「大鏡」という歴史書にも兼家は男所帯だったと書かれています。

女手がなくては困りますので、
邸に仕える女房の一人が妻のように取りしきっていて、
これが大変勢いがありました。
それでも彼女は妻ではなく情人に過ぎなかったのです。

重婚が許されたこの時代でも、
妻と情人の地位は全く違っていました。

作者の蜻蛉の妻としてのプライドを考えて、
この日記を読まないといけません。


~~~


・夫の兼家は少し変わった人でした。

剛毅な人でして、宮中へ参内する時、
直衣の紐を外し、今でいうとネクタイを取って、
くつろいだ様子で参内したとあります。

夏の暑い日、天皇や皇太子の前で、
「暑い、暑い」と下着一枚になってしまったと、
「大鏡」に書かれています。

天皇や皇太子といっても、
自分の娘が生んだお子さまでしたが。

並々ならぬ自我の強い男と、
これまた自我の強い女が双方から突っかかって、
いったのですから・・・

兼家は野心に満ちた陰謀家でもあります。

「蜻蛉日記」における限りは、
私(田辺さん)などから見ると大そう魅力があります。

蜻蛉はその魅力に気づくのが遅かった。
それは彼女があまり世の中を知らなすぎたようです。

もちろん、この時代、
深窓のお姫さんが世の中を知るというのは無理ですけれど。

蜻蛉はず~っと家の中にいた女ですから、
自分の内のせまい女の発想でしか物が考えられない。

自分の思うことが正しい、
とのみ主張しがちな女だったのでしょう。


~~~


・この日記を読んでいますと、女の考えの狭さ、
(男の人もずいぶん狭くて、
女の気持ちなんかわかろうとしない人が多いですが)
女の考えの円周がいかに小さいかに気付きます。

「蜻蛉日記」を読む面白さは、
自分の悪いところが書かれていてそれを反省する点にもあります。

蜻蛉がいやらしくなればなるほど、
自分だけは特別だという気がありますから、
「そうよね、これが女の悪いくせね」など言いつつ、
自分も同じことをしている。

我々、女性にとって「蜻蛉日記」は、
千古の古典のような気がします。

いくら勉強してもいまだに埋められないのは、
男と女の溝みたいな気がします。

「蜻蛉日記」は初めから終わりまでそのことばかり書いています。

千年前の「蜻蛉日記」には女のロマンがあって、
女はこういう考え方をするんだという、
男にはわからない本質があるように思います。

それに関連して、
女の世界、女の書く小説というのは、
男の人に敬遠される傾向があるような気がします。

なぜかというと「ゆとり」のないのが多いせいでしょうか。
「蜻蛉日記」を読んでいますとユーモアの片りんすらない。

非常に真面目。
真面目であるというのは余裕がなくなりますから。

ところが、あまり真面目になりすぎると、
かえってユーモアを感じてしまう。
そんなところが女の人にはあります。

「蜻蛉日記」というのは非常に真面目で、
(私のどこが悪いの?)と言ってますから、
読んでいるうちにユーモアになってしまいます。


~~~


・学生のころ、私は(田辺さん)は「蜻蛉日記」を読んで、
ヒロインに反発だけを感じました。

物を書くようになって、
あんな風にただ恨み、つらみだけで物を書くのだったら、
女の人は千年変化がないわ、と考えました。

そのうち、しばらくすると、
不平不満のヒロインにユーモアを感じるようになって、
自分もユーモアのある物を書きたいと思うようになりました。

女の人は、律儀真面目、小心で深刻癖があって、
この蜻蛉みたいに夫がしばらく来ないと、
すぐさま門を閉めて追い返してしまうという風になりがちです。
(これで懲りたかしら?)

千年の間、女の書く物も女も全然進歩しないような気がして、
私は人生でユーモアを見つけようとねじ曲がって行きました。

けれど、蜻蛉はあくまで自分の苦悩から目をそらさず、
のたうちまわって苦しんでついに深い人生観を手に入れました。






          



(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1、蜻蛉日記  ① | トップ | 1、蜻蛉日記  ③ »
最新の画像もっと見る

「蜻蛉日記」田辺聖子訳」カテゴリの最新記事