「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「わたしの震災記」 ㉒

2023年02月02日 09時11分57秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・震災のすぐあとから、
身内や友人知己たちが被災したしるべをたずねて、
引きもきらず神戸へやってきた。

新聞のたずね人欄はいつもびっしり満杯。

人々は背も曲がるほどの荷を背負うて、
港から、不通の駅から、船で、あるいは徒歩で、
神戸へやってきた。

私の友人もまた、その中にいたのだが、
天保山からの船の中で、
(神戸へ入るには海路という方法が楽だった)
若い女性に誰を尋ねて行くのか、と聞いたそうだ。

<え~、オジなんですけど、
オバと二人なので、どうしてるかと思って>

彼女が背負うのははちきれそうなリュック。

<何を持って来られましたか>

<お米と野菜、缶ビール・・・
水やガス出ますか?ダメって聞いたけど、
わからへんよって、おにぎりも持ってきています>

みんな情の濃い見舞客であった。

しかもそれは日曜日だけではなかった。
人々は不通の線路を歩いて、次の日も次の日も続いた。

産経新聞の辛口コラム「斜断機」には、

「小生は地震と火事の凄まじさより、
正直いって、被災者同士が炊き出しの協力をし合ったり、
近縁の人が大きな荷物を担いで、
救援物資を被災者に届けたり、
近所の人たちが家と食と水を分け合って同居したりの、
温かさ以上の人間の本来の優しさみたいなものを感じ、
驚いた。
核家族化の極限まで進んだ東京圏では、
こんなシーンにお目にかかることができるか心配である。
助けてくれるのが、飼い犬と飼い猫だけしかいなかった、
ということにならないよう、
個人の自立ばかりでなく他者とのふだんの絆を持とうと、
考えなおしたしだい」

全国からボランティアが神戸めざしてやってきた。
個人で、また団体で。
企業ごとに、友人同士で。
次々と被災地に入ってきた。

労力提供のボランティアだけではなく、
医師も看護師も薬剤師も、
そのほか、通訳、マッサージさん、大工さん、
いろんな職能ボランティアが訪れた。

日本史の中で空前絶後だった。
早くから被災者の周辺へ入り、被災者の支えとなった。

日本にはいままでそんな歴史はなかったので、
人々は面食らったけれども、
すぐそれを受け入れた。

ボランティア元年といわれるが、
それも開明的な市民の多い、
阪神間と神戸だったからではないか。

人々は新聞で、
首相がテレビによって地震の第一報を知った、
ということにびっくりする。

それならわれわれ一般庶民と変わらないじゃないか。
政府直結の情報網はないのか。

一瞬にして民家が崩壊し、
高速道路が壊れ、
火の手があがり、
死者は増え続けた。

そのニュースを国民よりおそいスピードで、
政府や閣僚が知ったということに衝撃を受ける。

我々が信頼していた政府がそんなにトロい、
鈍くさいものであったのか、
これではあまり信用ならぬと、
認識の革命が起きた。

行政はアテにならへん、
何でも自分でやらなあかん。

そこへ何か、
私たちにできることがあったら、
手助けしたい、という人たちが次々あらわれる。

手をさしのべてくれ、
支えもしてくれる、無償の奉仕。

なれないうちは当惑するが、

<あっ、こういう人間のありかたもあるのか。
人間ってこういうこともできるのか>

と開眼する人もある。

それに触発されて、被災者同士、
相互扶助でたすけあうようになる。

今まで挨拶もしなかった隣近所と、
給水に並んで口を利き合うようになる。

高校生たち、茶髪の兄ちゃんたちが、
救援物資を運ぶのに懸命になっていた。






          


(次回へ)

写真は越冬中の夏の花、
ハイビスカス、ペンタス、ブライダル・ベル

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