・東京から来たジャズマンは、
<演奏より水汲みボランティアを>と志して、
避難所へ来たのだった。
しかし被災者のリクエストで、
小学校の体育館でミニコンサートを開くことになった。
「星に願いを」
「ムーンリバー」
「マイウェイ」・・・
人々は毛布や段ボールを敷き詰めた冷たい床に坐って、
じっと聞き入った。
すべてを失ったけれど、音楽は奪われずにある。
人々は熱い拍手をする。
ジャズマンも泣いた。
(大阪読売 1995・2・12)
私の知人のマンドリン奏者は数人の同僚と一緒に、
ボランティアで避難所の小学校を巡回した。
教室で、
「故郷の廃家」「浜辺の歌」などを弾いたら、
聞いていた被災者は涙を浮かべ、
奏者たちも涙ぐんでしまった。
演奏が終わると、
沈黙ののち、拍手の嵐がきたそうである。
<ありがとう、ありがとう・・・>と心からいわれ、
奏者たちの方が、<こちらこそありがとう>
といわずにはいられなかった。
温かいものが通い合い、
結局、再起するバネは人に囲まれる温かさであろう。
<えらい目に遭うたけど、
しゃーないやん、またやり直さな>
と神戸の友人たちはいう。
<空襲のときでも、立ち上ったんやもん。
長田の焼け跡見て、もう空襲とおんなじや、思たわ>
と空襲経験者の彼女はいい、
<それでも今は、よその町へ行けば物資はあるし、
ボランティアの人も来てくれてやし、
空襲よりずっと分がええわ。
今やったら、また一からやったる、いう気はある>
そういう肝太き女たちでさえびっくりさせられたのは、
神戸市の暴力団山口組が、
近隣の人々に救援物資を無料提供したことだ。
庭先の井戸水を汲んでくれる。
カップラーメン、ウーロン茶、パン、毛布。
<おおげさなことはできひんけど、
できることはしょう思てな>
と親分はいったよし。
(1995・2・5 『サンデー毎日』)
あんた貰たん?とその女性に聞くと、
<貰たら、出ていけ、いわれへんやんか>
その町の人々は暴力団の邸が町内にあるのを、
かねて迷惑がっていたのだ。
しかし突然の大地震は浮世の区分をとびこえ、
人間同士の連帯を親分に痛感させたのだと思いたい。
見てきた人の話では、
むらがる人々に三下が整理券をくばっていたとのこと。
大震災を経験してなお、
人々は神戸を離れたくないという。
一ヵ月ほどたってのアンケートである。
(1995・2・16 産経)
産経新聞社は大阪市大・生活科学部の、
宮野道雄助教授の研究グループの協力を得、
アンケート調査をした。
特に被害の大きかった長田区、中央区、東灘区の、
三百十世帯に対するもの、
大半が家屋に被害を受け、
しかも四世帯に一人の割合で死傷者が出ているのに、
九割近くが<神戸を離れたくない>というのだ。
その理由は、<神戸への愛着>が圧倒的に多い。
明るくて遊び好き、おいしいもん好き、
新しいもん好き、(それが神戸ファッションの原動力)、
そんな町だった、そしてこれからもそういう町にしたい、
と思っているに違いない。
私は神戸の下町に十年住んだ。
神戸はモダンでハイカラ、と思われているけれど、
根っから人情は熱く、古風な人肌のぬくみを持っている。
それを知って私はびっくりしたものだ。
(次回へ)