・西宮の被災者F・Kさん(女性 68歳)は、
余震にそなえて懐中電灯を求めるため、
倒壊した家や塀の瓦礫などにつまずきつつ、
阪急沿線の夙川に沿って歩いていた。
阪急線は線路が飴のようにねじれ曲がり、
悪夢のようだった。
道のかたわらで、
普段なら二百円くらいの焼きそばを、
千円で売る人がいた。
通りがかりの主婦が怒って、
<ようそんな高うに売れるねえ、このバチ当り。
はよ帰りぃ、帰りぃ>
と一喝する。
F・Kさんも怒ったがむなしく、口惜しい思いだった。
このエピソードの夙川というのに注意。
夙川は西宮の中でも風光の美しいところで、
阪神間人間の愛する名所、
そしてこの辺を徘徊出没するのは、
良識ある中産階級、というのが定説。
いくら困窮しても、
<盗泉の水は飲まぬ>プライドがあるのを、
この焼きそば屋は知らぬとみえる。
土地勘のないやつであろう。
くだんの主婦もF・Kさんも、地震があったばっかりに、
こんな心情柄劣な連中に、美しい夙川を汚されて、
と悲憤したことであろう。
この話は実はあとのほうに比重がある。
F・Kさんは夙川公園までやってきた。
すると大きなリュック姿の若い女性四・五人がかけよってきて、
<こんなにひどいとは思いませんでした。
おむすびを作ってきました。パンも、水も・・・>
若い彼女らが泣いている。
あたたかいおむすびだったという。
聞けば名古屋を暗いうちに発ってきたとのこと。
F・Kさんはこらえていた涙があふれ、
お礼の言葉が出なかった。
これはF・Kさんが大阪朝日新聞(1995・8・21)に、
半年たって投稿した文章である。
「半年前の真心今なお支えに」というタイトル。
F・Kさんはいう、
「今も彼女たちの優しさが心の支えになっている。
まともな暮らしと心安らぐ日はまだ遠いけれど、
うれしかったことだけは胸にとめ、
つらかったことは早く忘れ去りたい」
私の知人、四十五の男、
尼崎に住んでいて地震の被害はなかった。
新聞やテレビを見て、
何か、被災者の役にたちたくてたまらなかった。
ただし老親に加え、義理の仲の老人を養う身で、
そんなに経済的に余裕があるわけではなく、
震災後はじめての日曜日は二十二日だった。
朝早くから自転車に乗って、
<なんや、そら、タダで働くやつ、
ボランティアちゅうもんやって、
ちょっとでもエライ目に会うたん、
手助けしよか、思て>
家に余裕のあるのは、
<〇〇の湧水>という清水ペットボトル二本と、
奥さんが<持って行けば>と出してくれた、
買い置きの青いビニール袋十枚だった。
それを自転車に積んで出発した。
どこへ行っていいか分からぬので、
いちばん近い避難所へ飛び込み、
水とビニール袋を世話人に渡し、
あと指図されるまま、救援物資の衣類の仕分けに、
一日働いて帰ってきたという。
いちばん原初的なすてきなボランティアではないか、
と私は思った。
(次回へ)