むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

24、姥寝酒  ④

2021年11月09日 08時47分03秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・雨脚の烈しくなった歩道にいるのは、この私しかいない。

そのおっさんは、背広の上からジャンパーをひっかけ、
目つきのいやな男で、傘の骨が一本折れているのをさしているが、
ズボンの裾はしとどに濡れている。

あるいは「おばはん」と言ったのかもしれないが、
もうこうなっては、どっちだって同じだ。

「何ですか」

「××小学校はどこや」

人にモノをたずねるのに敬語さえ使えない。

「まっすぐ、信号で左へ折れてさらにまっすぐ」

「遠いか」

「すぐですよ」

礼も言わずに男は私が教えた道へ小走りに走る。

ふっふっふ・・・
あんなところに××小学校があるものか。

教えた方角は旧い町内で、家がぎっしり建て込み、
迷路のような道でいったん入りこんだら出て来られない。

私はニッコリしスーパーへ入って行く。
意地悪というのは、老人のボケ防止によろしいようで、
お婆ンを生き生きさせる。


~~~


・長男が電話してきた。

「何でっか、豊中がこのあいだ電話してきたけど、
オカーチャン、しぐれにひょこひょこ起きて、水飲んで、
誰も来おへんて、赤うなってむくれとったんやて?」

よくもそこまでスカタンを聞くものである。
この息子らは、私のことにつき、
よく連絡しあっているようである。

「もしかしてボケて、そんなことになったら恥や。
ワシも肩書、いうもんがおまっさかいな」

私もボケたりしたら、息子らに迷惑かけるとは思うものの、
肩書にかかわるなんて出方をされると、
(それがどうした)と言いたくなる。

私は、自分の体面と肩書ばかり考えている息子たちを脅すべく、
吉田夫人の話をする。

「私もその奥さんみたいに、
ぽっくりはかなくなるかもしれへん」

「オカーチャンは、そんなタマと違いまんがな。
トシ取るには、円熟するとか、侘び、寂び、とか、
相応の厚み、いうもんがおまっしゃろが」

私は何もしないで、じっと思いにふけっているという楽しみを、
八十になって発見したが、それは枯淡というようなものではない。

雨の冷たさ、山頭火、ローズ色の服、
桜の春を待つ心弾み、今月のタカラヅカ、
(おお、そういえば、あの宝塚大好き少女だった、
九十一の叔母も去年の春、こっとりと大往生をとげた)

楽しいものはなんぼでもある。
長男と言い合っているうち、廊下が騒がしくなる。

長男は電話の向こうで何か言っているが、
「ちょっと、急ぐよって切りまっせ」

私はそっとドアを開けてみた。
上杉夫人がドアから半身を現し、

「さっき、病院から連絡があって、
吉田さん、とうとう、だったんですってね」

「ま、それじゃ、811号室でお通夜を・・・」

「いえ、病院から、焼場へ直行なさるそうよ」

それでは、今の811号室の大盤振る舞いは祝宴なのか。
酒店、寿司屋が次々と811号室へ。

狼婆の不幸者の子供らを、咎め立てする気も起こらない。
そこへ、いかにもせっかちに忍びやかにドアを叩く音がする。

上杉夫人だった。

「山本さん、大ニュース!吉田さんが・・・」

「えっ」

「生き返ったの、先生はご臨終です、と言われたのに、
そのあと、大きな欠伸をして生き返ったんですって!」

あの業つくばりの狼婆が、
とても素直にくたばるはずはない、と思っていた。

(むははは、ぐわっはっはは)
モヤモヤさんの大笑いが聞こえる気がする。

吉田夫人は蘇生して以前より健康そうに見える。

811号室に集まった連中は汐をひくように散じ、
一人の訪問客もない、灯もつかない、倹約(しまつ)な一人暮らし。


~~~


・ボーイフレンドの滝本さんにそんな話を電話でする。

「女の人にとって、意地悪がボケ防止やとしますと、
男には、やっぱりオナゴはんだす」

「ははあ」

「ただし、酒飲み友達として、ですよ」

氏はちょっとはにかんで、

「歌子さん、どうです、今夜、駅裏の赤提灯で」

「結構ですわね」

「じゃ、六時にしましょか」

私は楽しく電話を切った。
いま、三時。

六時までの間に私も叔母のように、こっとり逝くかもしれぬ。
この三時間のいそいそする心弾みこそ、
生きる花やぎだと思うのであった。






          


(了)

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