むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「1」 ②

2024年08月21日 08時51分10秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・常識的にいえば、
いちばん落胆し嘆いているのは、
邸のあるじであるはずなのに、
父ときたら、
少女の私にこっそりいうのである

「これでまた、
来年までの楽しみができたわけだよ」

「どうして?」

「また一年、
あれこれ運動したり、
金策に走り回ったり、
男の仕事ができたわけだ
目標があると張り合いができる」

「でも目標ばっかりで、
いつまでも実現しなかったら、
困るわ
そういう楽しみは、
ほどほどのところでいいのでは」

「あはは
お前のいう通りだ
いつまでも来年の楽しみばかりでは、
わしも年をとってしまう
お前のためにいつまでも、
元気でいるつもりだけれど」

それは本当で、
父は老人だけれど、
体は頑健で精神も活発だった

私の生まれたときから、
老人だったから、
私には父は老いたようには、
見えなかった

父は私に向かって、

「なあに、来年こそは
がっかりし慣れると、
人間しぶとくなるもんだ」

と笑っていた

それは娘を元気づけようと、
するためにわざとしているのではなく、
父は生得そんな性質であった

どんなときにも父は、
しんからしょげたり、
失望したり、
気鬱になったりしたことは、
なかった

悲しい歌を作っても、

「悲しい気持ちを見つめている、
もう一人の自分がいないと、
悲しい歌なんか詠めないもの」

といっていた

「歌というものは、
追憶と客観の中から生まれる
歌を詠んでる最中でも、
必ずもう一人の自分が、
自分を眺めているところがある」

ともいった

私はまだ、
父の言葉がわかったとは、
いえなかった

それに父は、
私に歌の手ほどきはしてくれた

けれども、
どうやら私に歌の才がないのに、
気付いたようだった

「無理することはない」

と父は慰めた

「歌なんか詠めなくともよい
お前は頭のいい子だ
お前の中には、
面白いかわいらしいものがある
魅力がある
いまにお父さまだけではない、
ほかの人も『かわいい姫や』と
心からいってくれるだろう」

「お婿さん?」

「そうだな
夫にかわいがられるか、
それとも・・・
宮仕えに出るようになれば、
もっと沢山の人に好かれる」

父はわりにひらけた考えの、
持ち主であった

昔風に、

「女は家庭を守り、
いい夫と子供に恵まれ、
生涯世の波風を知らないのが幸福」

とは私に教えなかった

宮仕えする女たちも、
たくさん見なれ、
かつ、私の亡き母は、
小野宮家の女房だったという

才気があって社交家で、
人気者だったということだ

「そういう女は、
世の中の花みたいなものだ
女ながらに世の中へ出て、
人を楽しませたり、
自分も楽しんだりする、
そういう人生も悪くない
しかし、
一人の男に愛される人生も、
悪くない
私としては、
お前に無難な幸福を、
用意してやりたい」

父は私に、
いろんな人生を思い描いて、
いるようだった

もう一人前になった、
私の異母兄姉たちは、
それぞれの道を歩んでいたが、
官吏として前途有望、
というような人はいなかった

一人は雅楽頭で、
音楽関係の人になったし、
またもう一人の兄は、
僧侶であった

私のすぐ上の、
母が同じの兄、致信(むねのぶ)は、
「京わらんべ」と呼ばれる、
不良のあばれ者であった

父は兄の致信にも、
心をいためていた

「ま、仕方がない
その子それぞれの、
持って生まれたものだ
あれも追い追いに、
格好がつくだろう」

といっていた

しかし私は兄とは仲よしだった

ついに父が六十六歳のとき、
待望の上国の国守になれた

周防守に任ぜられたのだ

日が当る家には、
人がどっと集まってくる

九つの私は、
人々の狂おしい昂奮ぶりに、
ただ目を見はっていた

私は、
それがどれほどの幸運なのか、
よくわからなかった

周防はよい国で、
ゆたかな国である

その国の地方長官に任ぜられ、
四年在任すればかなりの、
経済的基盤ができる、
ということなど、
知識として知っていても、
実感できるはずはない

私は父に伴われ、
周防へ下った

瀬戸内の多島海を、
縫っていく船旅であった

周防の国へ着けば、
父、元輔より偉い人はいない

周防での四年間は楽しかった






          


(次回へ)

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