むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「5」 ①

2024年09月16日 08時44分19秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・賀茂川が氾濫した

大雨が続き、
賀茂の河原一面、
濁流が流れて大海のようである

大岩、根のついた大木まで、
流れてきて、家々も水に浸かり、
何日も引かず、
やっと引いたあとは、
都じゅう悪臭がたちこめた

今上の父君・円融院が、
去年お亡くなりになった

そのため、
今年の正月も諒闇であったが、
天候もそれに呼応するように、
陰鬱だった

洪水が引いてからも、
則光は家に帰っていない

もう十日あまりになる

則光は新しい妻のもとへ、
出かけている

その女は同族の女で、
則光が求めて通った、
というより昔からの、
一族のあいだで約束があって、

「そういうことになっていた」

と則光は説明した

彼の異腹の弟の娘である

私は昔、
もう一人いた則光の、
亡妻の時のようには、
感情をゆすぶられなく、
なっている

緊張関係が失われている、
といってよい

それよりも、
その娘の母親が、
内裏に宮仕えしている、
というのが耳に残った

「どなたにお仕えしているの?」

「主上だよ
おそば近くにいるようだ」

「まあ、
そんな方が親類にいたの?」

「おれもまだ会っていない
ああいう連中と口をきく、
気もしない
派手派手しい宮仕え女房を、
母親に持つわりに、
あいつは地味な女で、
家から出たがらない
家にいるのがいちばんいい、
というんだ
物を読むのも書くのも、
好きではない
染め物、縫い物が好きで、
ひっそり暮らしている
友だちもいない
おとなしい女だ」

「何が楽しみで、
生きているんでしょ、
そのひと」

則光はまじめにいう

「そりゃ、
おれを楽しみにしてるのさ
それから、
まだ生まれていない子供のこと」

「へえっ!
子供が生まれるの?」

「来年だよ
女の子ならいいのに」

則光はそんな話をして、
私の反応をためしているのでは、
なかった

私のことを、
自分の半身のように思い、
それゆえに、
ありのままさらけだして、
はばからないのである

則光自身と私とが、
全く同質の感情を、
共有していると、
思いこんでいる

新しい妻はまだ若く、
その邸には庇護者の男も、
いないので則光は、

「女所帯だから物騒」

とそちらに泊ることが、
多くなった

則光がその女の家の、
築土の崩れをつくろわせたり、
門を立て直させたり、
いかにも男あるじのある家らしく、
ととのえてゆく

そういうことに、
情熱をそそぐのも、
私にはよくわかった

新しい家と、
新しく庇護する者ができて、
則光は生き生きし元気になった

時には吉祥を、
その女の家に連れて行く

「どんな人だった?」

と私が聞くと、
吉祥は上手にその女の絵を、
描いた

「きれいな人だったけれど、
ものはいわなかった
お菓子をくれて、
笑うだけ」

絵の女は、
なぜか目の大きさが、
左右ちがう

「どうして、
ちがうように描くの?」

「でも、
ほんとうに違っていたのです」

吉祥がしばらく、
咳きこんだ

乳母が吉祥の背をなで、
落ち着くと煎じ薬をのませた

夜になって則光が、
帰ってくると、

「これ、だれだ?」

と絵を見せた

「吉祥が描いたのか、
よく似ている」

「ねえその人、
目がどうかしているの?」

則光は酒をのみながら、
無造作に、

「うん、
左の目が半分しか開かない
まぶたがひきつれている
小さい時、
抱いていた乳母がおっことして、
怪我をしたそうだ
目玉は何ともないんだ」

私は衝撃を受けて、
黙っていた

なるほど、
家の中に引っ込んで、
人交わりもしないのも、
わかる気がする

一族で談合がついたのも、
わかる気がする

「気ごころの知れた」
身内の男の妻になるのが、
そんな女のいちばんの、
幸せなのかもしれない

しかし則光は、
女の恥をかばって、
私に打ち明けなかったのではなく、
自分が女の肉体的欠陥に、
あまり強い関心を、
持っていないらしい

そうした傾向も、
私が最近見えてきたものの、
一つである

則光は変っている

則光の目は、
世間の男たちと、
違うところに、
ついているらしい

もし、世間並みの男なら、
私に今をときめく、
中宮定子さまから、
宮仕えをうながしてこられた、
ということで、
目の色変えて、

「恐れ多いことだ、
お承けしろ!」

といっているかもしれない

かつ、新しい妻の母親が、
主上のおそば近く仕える、
女房になっているという縁故も、
何かの足しにしようと、
考えるかもしれない

しかし、則光はあいかわらず、
私に宮仕えを禁じている

そのくせ、
私が彼の若い妻に、
嫉妬などするはずない、
と思いこんでいるようである

彼はある種の野生児では、
あるまいか

女の心をはかり、
考え、思いやる、
という訓練もできず
いつまでたっても、
そっちの方の才能は、
みがかれないようである






          


(次回へ)

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